複雑・ファジー小説
- Re: 【短編集】蓼食う虫は好き好きで ( No.8 )
- 日時: 2018/09/25 14:58
- 名前: 彼岸花 (ID: EnyMsQhk)
title:幻灯聖火
「火というものは、かくも幻想的にございましょう」
外套を羽織り、雪の街を往く私達を捕まえて、少女は恭しくもそう口にした。籠を肘に引っかけているのだが、雪で濡れてしまわないようにと、ハンカチを乗せているために何が入っているのかは分からない。立ち止まった私達の肩に、秒を追うごとに新雪が積もる。寒さのせいか、私達もその少女も、鼻の頭が赤らんでいた。
ただ、その少女は一際鮮やかな赤をその身に纏っていた。黄金のように光瞬く、彼女の耳元まで伸びたはちみつ色の髪の上には、虹の天辺よりも鮮やかな紅のベレー帽が乗っかっていた。防寒用なのだろうか、腰辺りまでの丈のブレザーも、情熱的な赤に染まっている。表面を白く塗り潰された街並みでは、まるで暖炉に灯った明かりのように目に焼き付いてしまいそうな程だ。
寒くはないのだろうか。長い靴下を履いているとはいえ、緋色と黒のチェック模様のスカートが時折吹く風に煽られる度に、そんな事を心配してしまう。
ずっと、長い事立ちっぱなしだったのだろう。一体、いつから。それは分からない。一歩も動いていなかったのか、彼女の真っ黒な靴は、溶ける間もなく次々と降り注ぐ雪化粧に包まれていた。
手袋はしていなかった。必要無いと強がっているようでもある。ただ、霜焼けしてしまいそうだと嘆いているのか、その指先は鼻の頭と同じように、朱が目立っていた。
「火というものは、間違いなくそこに存在しています。近寄れば暖かく、近づきすぎると身を焦がしてしまう。それなのに」
それなのに。終始笑顔を絶やしていなかった彼女は、不意にその顔を翳らせた。単なる悲しみを浮かべているのではない。これは何の悲哀だったろうか。私は考え、以前鑑賞した舞台のことを思い出した。あの時壇上で演じていたジュリエットも、こんな顔をしてはいなかったか。
そう、言うなれば叶わぬ恋だ。手を伸ばしても触れられないものをもどかしく思い、何とか手にできぬものかと足掻こうと企て、その困難に躊躇ってしまう。そして躊躇う己が、何よりも許せない。
「それなのに、其処に居てはくれないのです。私達がどれほど強く抱き留めようとも、焔の影もその奥の虚像も、嘲笑うかのように私達を攻め立てるばかり。私達の肌を焼き、肉を焦がして苦悶を与えてくれるのみ。揺らめく姿はあんまりに美しいというのに、どうしてこうも残酷なのでしょう」
世界には、虫に食べられるのでなく、むしろ誘き寄せた虫を捕えて食べてしまう植物がいるのだという。彼らは往々にして鮮やかで、芳しく、そして美しい。炎とて同じだ。陽炎のごとくゆらゆらと左右する姿は、手招きしているかのように思える。私達の意識が誘き出されると言う寸法だ。
悲嘆に暮れる彼女は、まるで本当に恋をしているようだった。身分違いと言ってもいいだろう。何せ彼女にとって炎とは想い人であると同時に、決して手の届かない殿上人にあたるのだから。
「火というものは私達の目に映るようで、決してその本質を見せてはくれません。知ろうと企めばいつしか、その舌で舐めとるかのごとく、私達を赤の内に溶かしてしまう。灰燼と成り果て、ようやくその本質に触れようとも、伸ばす手はとうに白き灰。こうして天より舞っている白雪と変わりません。吹けば飛び、気が付けば消えてしまう」
彼女は虚空に手を差し伸べた。ふわりと降り立った真っ白な雪が、その掌に触れると同時に溶けて消えた。赤を基調とした装束だからだろうか。私には彼女という人間が、炎に魅入られ、もはや取り込まれてしまった精霊のようにしか見えなくなってしまった。むしろ、彼女自身が焔の化身と名乗っても疑うまい。この寒気の中、薄く儚い笑みを絶やすことなく立ち尽くすその姿に、私達も魅入られてしまいそうだからだ。ただ、そうしないのは何処か彼女に、手を伸ばせば針の山が我が手の平を穿つような危なっかしさが透けて見えたからに他ならない。
「……知っていますか、火影の向こうに救いを求めた女の子の物語を」
生憎と私は聞いたことが無かった。首を左右に振ると、そうですかと短く応え、また翳りある顔を俯かせた。悪いことをしてしまったかと少しだけ悔いたものの、少女は私の言葉に直接傷ついた訳では無かった。
炎の神秘を知らぬままの人間がいる。その事実を、悲しむのでなく憐れんでいたのだろう。
「火というものは、罰であると同時に救いの光です。神の救済が虚像を持ってこの世界に現れたものが炎なのです。実体無き偽りの像、それゆえ炎の向こう側にはどんな景色でも広がっています。捨ててしまった夢、永遠の別れを迎えた朋友の姿。……愛した人の面影さえも、覗き見ることができるでしょう」
罪人を、あるいは咎人の背負ったその罪を燃やして浄化する。死んでしまった人間の身体を骨として、肉の内に留まる魂を死後の世界に送ってやる救済。炎というものは天へ向かおうとする習性がある。それは、燃やし尽くした罪も命も、天へ還ろうとする習性があるからだと少女は述べる。
どうしてだろうか、私達はもう、彼女の声を無視できない。燃え盛るような赤に身を包む彼女から目が逸らせない。やはり、まさしく、彼女こそが、苛烈で危ういというのに、眼球が焼かれようとも注視し続けてしまう、火の化身と呼ぶに相応しい。
「そして私は、そんな夢を、現世の幻想を売っています」
籠の中、ハンカチの下に手を滑り込ませる。再び現れた手の中には、小さな箱が握られていた。側面に茶色いやすりを装備した、小さな直方体。中には細い木の棒が詰まっているのか、振ればからからと軽やかな笑い声が響いた。
「会いたい人を思い浮かべて下さい。見たい景色を想像してください。なりたかった自分を、思い出してください。きっと、きっと炎は貴方の望む景色を見せてくれます」
「君は見れたのかね」
「ええ、昨年の聖夜に」
その目は偽りなど口にしていない瞳だった。その瞳は商売相手である私達と目を合わせているようで、もっと別の誰かを見ていた。きっと、少女の目には、幻想的に揺れ続ける、炎熱の先に座す陽炎しか見えていないのだろう。
「いくらだね」
「一箱五ポンドです」
「少し高く思えるが」
「私が売っているのは、あくまで焔の先にゆらめく泡沫の夢ですので」
ただの火を点ける道具ではない。成程確かに、望むだけでどんな喜劇でも見せてくれるというならば、五ポンドくらい安いものだ。
長話のせいで、私達の肩にはもうそろそろ一センチは雪が積もってしまっている。早いところ帰ってしまおうと財布を取り出そうとするも、手はかじかんで上手く小銭を掴めない。私は手袋さえもしているというのに、素手のまま立っていた彼女はどうして、あんなにもすんなりとマッチ箱を取り出せたのか。
「ありがとうございます、おじ様」
「いや、興味深い話だったよ。これがただのマッチだとしても、充分に五ポンド以上の価値ある話だったとも」
「ふふ、羽振りの良い殿方依りの賛辞、私も光栄です」
慇懃に腰を折ったままの彼女の頭頂、その上にちょこんと乗っかったベレー帽に向かい、私は手を振り別れを告げた。律義な事に、私が去っていくまでそのままお辞儀を続けている。
本当に、けなげな少女だ。文字通り、焦がれるような恋をしている。彼女が慕うその相手に、添い遂げられる日が来るのは、きっと彼女が死した後の事だというに。
そう言えば。ふと、思い返す。彼女はまるで、体現者のごとく、焔の如き赤を身につけていた。眩い金糸とて、燃え尽きる直前に一際強い光を放つ、蝋燭の灯火を表すかのようだった。
だが、彼女の瞳がどうにも思い出せない。彼女の瞳は何色だったろうか。想像してみようとするも、どうにも貴婦人のルージュと同じ色ばかり想起される。あるいは、夕焼けと同じ色だろうか。
寝静まる子供も現れるような夜更け、街中に灯り続けるその双眸は、墜ちることの無い太陽と月のように思えた。
「そこ往くおじ様。マッチを一つ、如何ですか?」
背後にて、私を呼び止めたのと、寸分違わぬ同じ声。それを耳にする頃には、もう彼女の眼の色など、案じるまでもないことのように断じてしまっていた。