複雑・ファジー小説

Re: 裂才 ( No.3 )
日時: 2018/06/27 16:25
名前: 三森電池 (ID: 9AGFDH0G)

 今日は少し雪が降っている。凍えた指先に吐息を吹きかけても、氷のように動かない。
 昔はこれ以上寒くても、平気だったのに。ふいに蘇ったのは高校のときの思い出。指が触れるか触れないかくらいの距離感で隣を歩く、大好きだった彼女が、あの頃は体温も、頭の中の温度も上げてくれていた。好きなバンドの話をしながら、歩いて、通学路の途中で、いじらしく指を絡めてきた彼女は、きっと世界一可愛かったし、今でもその頃の僕は世界一幸せだったと思っている。
 地面が凍っている。危うく滑りそうになって、かっこ悪くて舌打ちをした。この夜のせいか、落ちた視力のせいか、足元もろくに見えないんだな。金曜の夜の街は眩しくてうるさくて、泥酔した女性が道に膝をついて何か叫んでいるのを、周りの人もまったく気にしない。邪魔だな、と思った。地面に散らばった、花束だったものが悲しさを漂わせていた。
 キャバクラとピンクのホテル、危ない建物。この街は彼女が好きだった。「お金が貰えるからだよ」と肩をすくめて笑った。高校生のくせに、彼女の財布には、驚くほどお金が入っていた。
 懐かしいな。今日はタバコでも買って帰ろうか。昔と違って、もう彼女も夢もないんだ。たまには昔の栄華に浸りたい。そうでもしないと、明日が来るのが怖くてうまく眠れない。
 酔っぱらいが上手く歩けなくなっているのを支えている、若いスーツ姿のお兄さんは、たぶん僕と同じくらいの年だ。困ったような顔で上司を引きずっている彼は、それでも少しだけ嬉しそうだった。彼も酔っているのだ。後ろで女性社員がふたり、人目も気にせず彼氏の話をしている。立ち止まって、それをしばらく眺めていると、やけに顔が整っている、ショートヘアーの女性が泣き出した。もうひとりの、特にコメントのつけようがない女性が肩を抱いて一緒に泣く。どこにでもある風景だった。
 定職がある人間は、こうして安心して遊び歩けていいな。数秒の間、劣等感で頭が痛くなった。彼らは僕を笑っている。
 今日は少し雪が降っている。ライターの炎であったまろうと思って、路地裏へ足を運ぶ。うるさい場所は嫌いだ。
 この街の路地裏は、明らかに危険そうな薬の空き袋が捨ててあったり、割れたビンから緑色の液体が垂れていたりする。一週間くらい前にパチンコで十五万負けたとき、駅のトイレまで間に合わなくてとうとう吐瀉物をぶちまけたのもここだった。明るい街では拒まれる行為が、ここではすべて許される。さすがの彼女も、この路地裏には立ち寄らなかっただろう。ていうか、あんなに綺麗な彼女が、ここに来ること自体、考えたくもない。
 「禁煙」と汚い字で書かれた、薄汚れた茶色い壁に寄りかかって、僕はパーカーのポケットからライターとタバコの箱を出した。金なんて無い。もう小銭も、逆立ちしたって出てこない。でもプライドが邪魔して安いタバコは買えない。ここまでくると明るい光もほとんどないから、ライターの火だけを頼りにタバコを一本、取り出した。
 白くて細い棒。チョークみたいだな、と思った。高校生の頃、確か一年の頃。先生に当てられた問題を、簡単そうに解いてみせた彼女。細い指でなぞる黒板に並んでいく模範解答、先生に褒められると嬉しそうにはにかんで、遠慮がちに自分の席に戻る。そして隣の席の僕に、こっそり誰にも見せない、少し得意げな顔を向ける。僕が素直に褒めればとっても嬉しそうにするんだ。
 チョークのようにタバコを持ってみる自分がおかしくて、乾いた笑いが出そうになった。鉛筆を最後に握ったのはいつだったかな。大学を辞めてからというものの、紙に何かを書くという事が無くなってしまった。その時、僕がぎりぎり過ごせていた、まともだった毎日は終わった。
 今日は少し雪が降っている。ちらちら降る雪に目を奪われて、やってきた彼女に気がつかなかった。ついに幻覚を見たかと、我が目を疑った。
 久しぶりだね、と笑っている。腰を抜かしそうになったけど、汚い地面に座り込むのは嫌で、なんとか壁に手をつく。驚かせちゃったかなぁ。ごめんねと、昔とまったく変わらない声だった。
 変わらず黒髪だった。背中まで伸ばしたきれいな髪は、くるんと巻かれている。フリルのついたブラウスに、柔らかそうなスカートで、僕の身長を越してしまいそうな高さのヒールを鳴らす彼女は、昔とちっとも変わらない笑顔を見せた。少女のようにも見える。高校時代の面影を残したままの彼女は、触れば壊れてしまうほど綺麗だった。なんでここにいるんだ。大学を卒業したあと帰ってきたのは知っていたけれど、僕に職がないのを馬鹿にされるのが嫌で、彼女も友達も連絡先を全部消したので、それから会うことなんかないと思ってたのに。

 「偶然見かけたんだけど、なんか似てるなって思って。やっぱりキミだったんだね。懐かしいなぁ」

 キミ、同窓会にも成人式にも来なかったじゃない。私頑張って探したんだよ。そう微笑んで、僕のとなりにきて、壁にもたれた。そんな事したら、その皺一つ無いブラウスが汚れてしまう。慌てて止めても、彼女は笑ったままだった。キミと一緒がいいのなんて言われると、嫌でも昔を思い出してしまう。僕に恋愛感情はないくせに、彼女はこんなことを平気で言う。

 「ここ、昔よく来てたな。何してたんだっけ。懐かしい」
 「……」

 彼女は凍えた指にはーっと息を吹きかけて、高そうな鞄からピンクのライターと、見たことがないデザインの長タバコを取り出した。僕が持っていたライターは、さっき驚いた衝撃で落としてしまったようだ。拾おうとしたけど、何が落ちているかわからないこの地面に腕は伸ばしたくない。暗さもあいまって、得体の知れない何かが怖くて気持ち悪くなる。
 ライターの炎が恋しくて、彼女を見る。本当は、恋しかったのはライターだけではないのだ。彼女はその笑顔を崩さず、僕に言う。

 「ああ、これ? モアっていうの。輸入品」

 ポッキーみたいな長さのそれは、僕の持つチョークとはかけ離れていた。美味しいのだろうか。一概に女物と呼ばれるのは、興味本位で吸ってみたことがあるが、どうも無理だった。「美味しいの、それ」と聞くと、私はこれが一番好きなのと笑って言われた。
 ライターを貸してほしいという趣旨が伝わったのか、彼女はしまいかけたライターを再び持ち直して、ゆらゆらと、オレンジの火を灯してみせた。女性、しかも好きだった人にタバコの火をつけてもらうということは、後にも先にもこれが最後かもしれない。明日には死んでいる可能性だってある僕だ、噛み締めなきゃいけない。

 「……ありがと」
 「……キミのくせにハイライトかぁ」

 僕がハイライトを吸って何が悪いんだよ。そんな事を言って、二人で昔みたいに笑い合う。でも、昔はタバコの話はしなかった。テスト、文化祭、教師の悪口、クラスの噂、どれもありがちだけど、希望に満ちていた、前向きな話だった。少し嫌なことがあっても、美味しいものを食べればすぐ元に戻って、笑顔で夜の、満天の星の下を歩く。
 しばらくお互い無言だった。少なくともこの社会においては、常日頃から不適合者として肩身の狭い思いをしている僕だ、今更居心地に対して良いとか悪いとか言えない。冬の夜風に吹かれて煙が飛んでくる。彼女は、随分甘ったるいのを吸ってるんだな。昔は僕のほうが甘党だったんだけどな。
 彼女はふーっと煙を吹いて、僕に言う。今は何してるの? と。この質問は、1年前から大嫌いだった。嫌な質問は、誤魔化すに限る。察しのいい彼女はそんな僕を見て、ふふ、と笑った。
 「やっぱりなぁ。そう思ってた。私、でも、そんなのも悪くないと思うよ」
 私はねえ、と、自分が最近司法試験に合格したことを、笑顔で語りだす。僕とは真逆の世界にいる彼女には、やっぱり、どう頑張ったって届かなかった。きっと僕の何倍も稼いでて、僕の何倍も幸せになるんだろうな。
 落ちてくる雪が、こんな汚い路地裏なのにどこか幻想的なような、気がした。

 「こうして会うと思うんだけど」
 「うん」
 「私たち、付き合わなくて良かったよね。別れてたら、気まずくなっちゃってさ。こんなふうに会うことも、無かったんじゃないかな」
 「そうかな。高校生の頃は、付き合いたくて仕方なかったけどな」

 え、そうなの? と、彼女は笑う。昔の面影そのままだと思っていたのは、ただ僕が昔にすがりついているだけだった。昔よりずっと、美人になっていた。その間にいろいろ経験したんだろう、僕が知らない5年の間に。高校生の頃から、彼女にだけはかなわないと思っていたけれど、それは今も健在だったようで、苦しかった。対する僕は彼女に話せるほどの人生を歩んでいない。普通に頭の悪い大学へ進み、ギャンブルに溺れて中退して、今もそんな生活を続けているだけだ。食べ物や住居には困らないけれど、このまま一生こうして過ごすのなら、三十、いや二十五前には見切りをつけて、首でも吊らなきゃいけない。
 消えたはずの恋心も再燃してしまうほどの笑顔は、近いようで遠くて触れられそうにもない。

 「……付き合いたかった?」
 「うん、当時は。ていうか、今もだよ。今だから言えるけど、あのころは毎日毎日、君の事で悩んだり笑ったり泣いたりしてさ。僕の青春は、君のものだったんだなって」

 できるだけ淡々とした口調で言ったつもりだったけど、最後のほうは感情的になってたかもしれない。踵で踏み潰したタバコの火。ついに一寸の光もなくなった。彼女の表情も、僕の表情も見えないから、こんなアホみたいなことが言えるんだろう。
 また、無言が続く。恥ずかしい事を言ってしまった。後悔が押し寄せる。無職のくせに何言ってるんだろう。無職のくせに。今のなし、では誤魔化しきれない。逃げたくなって引いた足が、ぐしゃ、と音を立てる。ここは一体何が落ちているんだろう。
 すすり泣きが聞こえてきた。となりの彼女が、肩を震わせて泣いていた。僕は、間抜けな声をだすことしか、できなかった。
 難しい試験に合格して、人生すべてうまくいっているはずの彼女が、こんな僕の隣で泣いている。ここに光なんてなかったけれど、雪に紛れるように、透明な雫が落ちるのを見る。宝石みたいで、この地面に落としてはいけないと思ってしまうくらい、綺麗で儚い。

 「……なんで、もっと早く言ってくれなかったの」

 震えている声が、耳に届く。冷えた指に風が吹く。
 その時やっと気付いた。それは、この夜の中でも一際、きらりと輝いていた。

 「私、結婚しちゃうんだよ」

 涙を拭う左手の薬指には、指輪が光っていた。

 「ああ、ごめんね。付き合わなくてよかったとか言っといて、こんなのってずるだよね。でも、できることなら私、キミと一緒にいたかったんだ。今の人も、前に交際した人も、みんな私のお金が欲しいだけな気がしちゃって。そんなのと違ってキミは、私が何もしてあげられなくても、ほんとうに幸せそうにしてくれて。私、いつもいつも、全部終わってから気付くんだ。本当は、キミが好きだったって。そんなのもう、今更過ぎるのに……」

 かたかたと、腕が震え始めるのは、寒さのせいではない。
 泣きながらそんな事を言う彼女を、冷えた両手で抱きしめたかったけれど、彼女は僕のものではないのだ。僕だって同じことを思ってる。こんなこと言ってくれるのは、彼女しかいない。お金も将来もない無職にこんなことを本気で言うような優しさが、今も昔も好きだった。でも、言葉通り、それは今更過ぎるのだ。
 ひらひらと降る雪が、僕らの体温を下げていく。
 それからは、ほとんど無言で別れた。連絡先も聞けなかった。聞いてはいけないと思った。
 今日は少し雪が降っていて、冷えた指がひりひりと痛む。
 やけにうるさい金曜の街の真ん中を、一人歩く。下だけ向いて、僕は正真正銘の負け組です、と思いながら。幸せそうに酔った奴らが通り過ぎていく。