複雑・ファジー小説
- Re: 裂才 ( No.5 )
- 日時: 2018/07/28 21:26
- 名前: 三森電池 (ID: MHTXF2/b)
手紙は何日も前から書き始めていた。
空色の自転車のペダルを踏む。飛ばす、飛ばす。目的地はずっと先だ。この夜が明けるまでに、辿り着かないかもしれない。それでも必死で漕ぐ、君に会いに行くために。
僕のリュックの中には、財布と、地図と、地元のブティックで買った小さな飾りのついたネックレスと、君へ宛てて書いた手紙が入っている。スマホは家に置き忘れてしまったのか、先ほど時刻を確認しようとしてポケットをまさぐっても見当たらなかった。不便ではあるが、絶対に必要なものではない。それに、この想いを伝えるのに、電子機器などを通す必要は無い。
僕はただの大学生だ。中高ではお遊びのような運動部に属していたものの、今は体力は落ちてしまった。何時間も自転車を漕いでいると、脚の感覚が薄れてくる。それに君の住む所は、かなり入り組んだ集落にあるらしい。後輩からも「頼りがいがない」「ぽやんとしてる」と言われるような僕が、無事に到着できるかは、わからない。それでも行くしかない、君に会うためならば、どんな苦労をしたってかまわない。
街灯もほとんど無い坂を登りきると、今度は長い下り坂が待っていた。一息をついて、ペダルを漕ぐ足を止める。すうっと勝手に進んでいく自転車と、体全体に浴びる風が気持ちいい。深夜三時、この街にももうすぐ春が来ようとしている。それでも夜はやっぱり冷えるから、家を出た直後はもっと厚着してくるんだったと後悔したが、今となっては少し涼しいくらいだった。
君は、きっと眠っているだろう。僕と一緒に住んでいた頃から、日付を超えたあたりで既に眠そうにしていたから。僕としてはもっと君と話していたかったし、君が持ち込んできたゲームで遊んだりもしたかったけれども、僕が朝起きると、早起きした君が、きまって朝食を作ってくれていてた。おはよう、と笑う君と、焼きたてのパンの匂い。もともと一人暮らしの小さな家で、僕と君はそれだけで、すごく満たされていた。二人で朝食を食べて、一限はもういいや、二限から行こう、と朝のニュースを見ながら笑いあった。君は酷く気まぐれで、毎朝放映される占いの運勢が最下位だと、拗ねて「今日は大学行かない」と言い出すことがあり、連れ出すのが大変だった。けれども昼頃になれば、美味しい、と学食のカレーを頬張り、最後まで授業を受けて、一緒に帰った。
僕は三年生になったけど、君はどうしているのだろう。
都会育ちの僕には、田舎のことはわからない。澄んだ空と美味しい空気、めいっぱいに広がる海、そんな曖昧な光景を想像すると、羨ましいな、と思う。だけど、君の生まれた田舎はそんな綺麗なところじゃなくて、未だ悪い風習に縛られ、他の町や村からも断絶された、酷い場所だと聞いた。君は周囲の反対を押し切って東京に来て、大学へ通い始め、僕と出会った。僕はさいしょっから君には本気で、まだ早いかもしれないけれど、結婚すら考えていた。それを酔っ払った時、間違って君に話してしまったことがある。思えば君は、嬉しそうにしながらも、困ったような顔をしていた。今考えると、そういう事だったのかと思う。君には、村から定められた、婚約者がいたのだ。
「コーヒーひとつ、ください」
自転車を停めてコンビニに入った。こんな辺境にあるコンビニに、深夜に来る客などほとんどいないらしい。後ろの部屋から面倒そうに出てきた茶髪の男が、無愛想にコップを差し出した。コンビニのコーヒーは、基本的にセルフで、自分で煎れる仕組みになってはいるのだが、もう少しサービスが良くてもいいのではないか、と僕は苦笑いをして、小銭を差し出した。ありがとうございます、と思ってもいないことを言われ、僕も一礼する。あとは機械が勝手にコーヒーを注いでくれるので、僕は自動ドア越しに、外を見ていた。なんにもない。これから先、進み続けてもきっとなんにもない。でも、君の所へは徐々に近づいてきている。もう少し、もう少しだ。コーヒーを注ぎ終えたことを示す電子音がきこえる。僕は砂糖を一つ入れて、蓋をして外に出た。休憩したら、また出発だ。
「お兄さん、こんな夜中に何してるんですか」
店の横でコーヒーを飲んでいると、掃除をしていたのか、箒とちりとりを持った、コンビニの制服を着ている若い女性がやってきて、驚いた顔をしてこっちを見ていた。
この人も夜勤のスタッフなんだろう。「研修中」の文字が名札に書かれている。こんなところにあるコンビニで、二人体制で夜勤をする必要はあまり感じないのだが、まあ、そういうものなのだろう。
「お疲れ様です、ちょっと、用事があって」
「へえ、どんな用事ですか?」
踏み込んでくるなあ、と思った。この人は単に仕事をサボりたいだけなのか、それとも僕に興味があるのか。僕は急がなくてはいけない身だが、ずっと自転車を漕ぎ続けて疲れてしまい、休憩がしたかったので、彼女の話に付き合うことにした。
「前に付き合っていた、彼女に会いに行くんです」
「え、それ、夜中に自転車で、ですか? 明日の朝、電車じゃダメなんですか?」
女性は、驚いたように言う。制服を着ているのでわからなかったが、この人は多分僕と同じくらいの年で、僕の大学に沢山いるような、明るくて、人懐っこくて、少々配慮に欠けている、女の子なのだろう。改めて目を合わせると、その人はけっこう整った顔立ちをしていて、夜勤だというのに化粧もしっかりとされていた。
「電車が通ってないんですよ、彼女の住んでるところは」
「え、今どき、そんなとこあるんですか? 私、生まれ青森ですけど、普通に電車は通ってましたよ」
まあ、三十分に一本とかなんですけどね、と言って、女性は笑った。
僕だって信じられなかった。僕が今追いかけている君は、東京に出るまで電車を利用したことがないと言っていた。そもそも集落からの脱出は許されていなかった。週に一、二度、郵便物などを届けに来る業者が来るだけで、完全に閉ざされた場所なんだよ、と教えてくれた。
「でも、お兄さん、その彼女さんと付き合ってたのって、前なんでしょ? 別れた女にわざわざ会いに行くって、重くないですか?」
「うーん……もしかしたらそうかもしれませんけど、僕と彼女は、強制的に別れさせられたようなものなので、今でも思ってくれてると、信じたいですけどね」
「なにそれ、悲恋みたい。もうちょっと聞きたいです、何があったんですか?」
僕は少し迷ったけれど、この女性と会うのもきっとこれっきりだろうし、話すことにした。
「彼女が住んでたところは、かなり閉鎖的な村というか、集落なんです。彼女は逃げるように東京に出て大学に入ったんですけど、もともと村に婚約者がいたみたいで、二十歳になった時、村に連れ戻されたんです。それで、明日が、結婚式だって」
沈黙が流れる。通り過ぎていくバイクの音が、いやに耳に残る。
女性は、そうなんですね、と言ったっきり、黙ってしまった。そして、少し考えこんだ後、
「私なら、絶対そんな人生嫌ですよ、ありえないです、本当に好きな人と結婚出来ないなんて、嫌だ」
「だから、僕が取り返しに行くんですよ」
ああ、柄にもなく、なんかカッコつけたことを言ってしまった。恥ずかしくなって目を逸らし、頭を掻く。しかし女性は真剣で、僕をしっかり見ている。そして、こう言い放った。
「絶対取り返してきてくださいよ、私応援してますから」
こんなので良ければもらってください、と女性はポケットから、ツナマヨ味のおにぎりを差し出した。よく見るとそれは、消費期限が過ぎていた。いわゆる廃棄物だろう。僕はそれを何事もないように受け取り、ありがとうございます、と笑った。女性も笑っていた。
「お兄さん、頑張ってくださいね。彼女さんの人生は、あなたにかかってるんだから」
「ありがとうございます、お姉さんも、夜勤頑張ってくださいね」
そろそろ、出発の時間だ。空になったコーヒーを、ゴミ箱に捨てた。
女性は僕に手を振っている。僕も手を振り、自転車をまた漕ぎだした。コンビニの光がどんどん遠くなっていく。少しずつ、君のところへ近付く。もうすぐ会える。君が最後に放った言葉は、ありがとうでも、さよならでもなく、こんなの嫌だよ、だった。最後まで君は泣いていた。僕も泣きそうで、かける言葉をその時は見つけられなかった。でも、手紙にして、ちゃんと僕の思いはまとめてきたつもりだから。文章なんて全然上手くない。ましてやそれが恋文だと話したら、今どきそんな、とさっきのコンビニの女性に笑われるだろう。それでもいい。お願いだから、届いてくれ。再びスピードを上げていく。濃い緑色の空の向こうに、儚げに浮かぶ月が見える。もうすぐ夜は明け始める、それまでには、と願う。君の笑顔も、声も、随分遠くなってしまったけれど、絶対に繋ぎ止める。ときどき地図を確認しながら、着実に、僕は君のところへ向かっていく。
朝日が昇り始める。君の好きだった朝だ。キラキラと光る太陽が、コンクリートを照らしている、あと少しで君のところへ辿り着く。広い歩道で止まって、さっきの女性からもらったおにぎりを食べた。消費期限が過ぎているとはいえ、ちゃんと美味しかった。
右へ曲がって、左へ曲がって、を繰り返す。辛うじて道路があるくらいで、周りは大きな木ばかりで、まるで森のようだった。さらに進むと道路さえなくなり、昔、興味本位で画像を見た樹海のようだ、と思った。地図をしっかり確認しながら進んでいく。足元は極端に悪く、必死に漕いでいるのに、全然進まない。
鬱蒼とした森を抜けて、急に視界が開けた。知らぬ間に坂を登っていたらしい、高いところから、景色が一望できた。森に囲まれた中に、何軒か建物があるのが見える。慌てて地図を確認し、場所が合っていることを確認する。あれが、君の住むところだ。ようやく、辿り着いた。
空色の自転車を飛ばしていく。自転車で迎えに来たなんて、かっこ悪いだろうか、と今更思う。遠まわしに言うのも何なので、手紙には、結婚してくださいと書いた。恥ずかしくて、ペンを持つ手が震えた。何度も書き直して、何日もかけて、ようやく君に見せられる、ようやく君に会える。
さあ、君はもうすぐそこだ。自転車を停めて、大事な手紙の入ったリュックを背負って歩き出した。心臓がばくばくする。君は、どんな顔をするだろう。僕は、どんな顔をしているだろう。
明け方の空の向こうから、一筋の光が差し込んでいるのが見えた。