複雑・ファジー小説
- Re: 悲しい空席 ( No.1 )
- 日時: 2018/03/10 20:03
- 名前: 桐森 有子 (ID: voMTFyIk)
第一部
「日曜日とバス」
自殺とはどういうものなのだろうか。どんな極限状態に追いつめられたとしても、躊躇なく自らの手首を、首を、掻っ切れるものなのだろうか。ましてや死にたいと思いどうしようもなくなり、用意したロープに首をかけられなかった自分にも、できることなのだろうか? 何があろうと、何を思おうと、惰性でこうして生きていく自分にも、できることなのだろうか? 喩え駅のホームから落下した、ひかれてしまいそうな人間が目の前にいたとしても、何もする勇気のないであろう自分でも? 彼ないし彼女は他人だった、他人なんかに命を捧げる人間なんかいない、と言い訳するであろう自分にも?
勢力の衰えを惜しむ太陽の激しさが、未だに引き摺る暑さに耐え忍びながら、バス停を目指して歩く。そんなことを考えながら。
今は九月だ。いつもはこんなに暑くないはずなのに。毎年そう思うけれど、毎年そう思うからこそ、それは正しくないのだろう。この暑さには、二十二回経験しても慣れない。強風に砂埃が舞い、私の目に砂が入る。何度目を擦っても取れない塵にもまた、辟易している。これだけの長い間生きてきて、私はいったい、何を学んできたのだろうか。私が生きるために色々なものを犠牲にしてきたくせに、その生を無駄に浪費しているなんて。そんな事実が情けなくて悲しくて、ため息をつく。油断したところに再び、舞い上がった砂埃が眸に入り込み、今度は涙が流れた。化粧をしていなくてよかった。私はあまり見た目に気を使う方ではないので、化粧は日焼け止めと下地しかしていない。私が見た目に気を遣ったところで、どうなるのだろうという考えがはたらいてしまうからだ。友人の勧めで髪をダークブラウンに染めてはみたが、どうにも馬鹿々々しく思えて、元に戻そうと思っている。そのための染料もまた、無駄になる。
涼しい車内の席はほとんど埋まっていて、空席はひとつだけだった。左側の席の後ろから二番目にあたる通路側、窓側には少女がいる。私は純粋な日本人なので、人の隣に座ることは、何らかの邪魔をするようで気が引ける。そのため、いつもはできる限り避けていた。残暑のこの季節に、人とくっつきあって座りたいとも思わない。そうやって人々は分散しているのだから、世の中には私のような人間ばかりなのだろう。そんなことをしているから、変に気を遣うから、人と人との距離は縮まらないのに。気軽に声を掛け合えるところなんて、居酒屋くらいだろう。……何を考えているのだろう。私は窓の向こうを向いて、気も漫になっている少女に声をかける。
「隣、いいですか」
少女が振りむき、少女の持つ黒い鞄の角度が変わり、鞄の底があらわになる。ペンで書かれた、黒い「りょうこ」という文字が薄っすらと見えた。
- Re: 悲しい空席 ( No.2 )
- 日時: 2018/03/26 19:09
- 名前: 桐森 有子 (ID: voMTFyIk)
「飛沫」
りょうこか。良子、亮子、陵子。今どき寧ろ、珍しい名前だ。歳こそ離れているが、私も似たようなものだけれど。所謂キラキラネームというものは、案外普通に存在している、らしい。
あの子だってそうだった。未だ乗り物のタイヤを見るたびに想起する、あの子だって。
私は夕暮れ時の繁華街にいた。短い袖から剥き出しの腕が意外に冷たかった記憶があるから、丁度今くらいの季節だったのだろう。当時は毎夜思い出しては眠れなくなっていたが、今ではあれから4年が経っている。
滅多に出ない都会にまで出向き、買い物を済ませた私は、大量の紙袋を抱えて交差点にいた。私の向かう方向の信号が赤になり、私が紙袋を抱えて立ち尽くしていると、私の隣の少女が目についた。見た目は9、10歳位と取れるのに親らしき人も見当たらず、一人佇む少女を私は感心しないなどと見ていたから、少女の行動は完全に私の意表を突くものだった。少女は信号の赤色を泣きそうになりながら見つめていたので、少女の表情を見た私は、単に親とはぐれただけなのかと思ってしまった。だから油断した私に、少女を止めることなど不可能に違いなかった。
少女は、道路に飛び出したのだ。
対向車線から車が来たと思うと、少女は雄叫びを上げて車の前に躍り出た。その幼い容姿からは想像もできないような、獣のような咆哮だった。その叫びは、今でも耳に残っている。少女を死に至らしめた車のタイヤに染み着いた、血飛沫もなかなかに印象的だったが、コンクリートに広がるどす黒い血が何より忘れられなかった。少女の身体の中に内蔵されていたとは思えないほど、恐ろしい色の血が作り出す、この世の何より不吉な血溜まりは見ていられなかった。
そんな彼女の名はなんだっただろう。初見では読めない名前だったこと位しか覚えていないが、そのニュースは、僅か十歳の子供が決行した自殺ということで、相当な話題となっていた。自殺動機は確か、家庭不和だった。後日放送されていたニュース番組を見ながら、手にべたべたとくっつく醤油煎餅を食べていた気がする。ニュース番組の内容だけは正確に覚えている。
—何が彼女を、ほんの10歳で自殺せざるを得ないまでに追い込んだのでしょうか。
—彼女は幼いながらに、家庭不和に悩まされていたようです。父親はギャンブル三昧、母親は水商売で朝まで帰らず。そんな夫に愛想を尽かした母親に連れられ、笑顔や親の愛に飢えた生活が3年続き……
—本来は親の愛に溢れ、満ち足りた生活を送るべき時期に……
—父親は児童養護施設で育ち、就職できる職場もなく、酒とギャンブルに溺れ……
—この悲しい事件の裏にあるものは、何なのでしょうか。
あのニュースは彼女も見ていたのだろうか。私はあのあと、彼女くらいの少女を見かけるたびにあの自殺を思い出す。鉄の匂いがしただけで血溜まりが目に浮かぶし、大きな声が聞こえただけでブレーキの空耳が聞こえてくる。目前で人が死んだのだから、かなり重度のトラウマになったのだと思っている割に、「自殺」という言葉を聞いても何も感じない辺り、案外他人の死になど何とも感じることがないのだろうと思う。
隣の少女を見遣る。この少女が死んだとき、私が死んだとき、私は、彼女はどう思うのだろう。
- Re: 悲しい空席 ( No.3 )
- 日時: 2018/03/12 15:36
- 名前: 桐森 有子 (ID: voMTFyIk)
「向寒」
ガラスの窓から窺える外の景色は、これから秋になり冬に向かうとは考えられない晴天だった。混じりっ気のない空の青色が、押しつけがましいくらいに鬱陶しくて、外を見る気も起きない。バスの喧騒の中、私たちだけが静かなのは割に合わない気がして、気になった質問をぶつける。「君、どうして、一人でバスに乗ってるの? それとも誰かと一緒に来てるの?」
彼女は顔に一切の表情も浮かべないまま、否定する。「一人」
「そう。……君らの時代だと、当たり前のことなのかな。私はバスに乗って移動なんて、子供の頃したことなかったよ。私は親に連れていってもらうことだってなかったし。……もしいたら、連れてってくれてたのかな」
ほぼ独り言でつぶやいていた。自分が意識しないまま言っていたものだから、時間を少し置いて尋ねられた「親は?」という質問には意表を突かれた思いだった。少女の冷たかった切れ長の眸が、興味を惹かれたように私を見つめていることにも、驚く。「え」と驚きの言葉を発して、少女の前であたふたするという醜態を曝す。「何のこと」
「だって今言ってた。親がもし居たら、連れてってくれたのかなって」
三度瞬きをし、「私、そんなことを言ってたの」と零す。頭に手を遣る。
「そうね、母親、私の母親は、私が小さい頃に亡くなったから。だから初めてバスに乗ったのは、姉が連れていってくれたとき。大人になってからかしらね」
それなりに不幸な自分の身の上話は気が進まず、素早く話を終わらせるよう努める。話し終えた途端にバスの喧騒が耳に入ってきた。車内は騒がしくとも、ここだけは私たち二人だけの空間だった。私は、何故、会ったばかりの見知らぬ子供相手に、こんな話をしてるのだろう? 今まで誰にもしなかったような話を。
「そうなの」
「うん。父は優しかったし、歳の離れてた兄も働いてくれていたし、姉も私を引っ張っていってくれたからなんとか暮らせていけた」
「……へえ。そんな父もいるのね」
小石でも踏みつけたのか、バスが大きく揺れて、ガタンというけたたましい音に彼女の声が隠れた。彼女の手が動いて、私の手の上に覆い被さる。彼女の手は私の手よりもずっと小さくて、その分信じられないくらいに繊細だった。壊れてしまいそうという表現が言い得て妙なほどに。仄かな温かさがあるのに、一瞬作り物なのか、人の手なのかもわからなくなる。その柔らかさと体温を、何故だか気持ちが悪いと思った。私は思わず手を離した。
- Re: 悲しい空席 ( No.4 )
- 日時: 2018/03/19 15:42
- 名前: 桐森 有子 (ID: voMTFyIk)
「萎れ華」
すっと離された私の手を、彼女はどこか名残惜しそうに見つめている。「私、手が冷たいでしょう。末端冷え症なの」とごまかすように口にした。まだ九月のくせに。初対面である人間の手を握りたいと思う人などいるわけがないので、見間違いだろうけど、少なくとも私の目には、そう見えた。つられて私も、青白い自分の手のひらを見つめる。
華やかできれいなネイルなど施されていない、ただ短く切られただけの私の爪。爪が悪くなると亡くなった母親は嫌っていたし、姉もおそらく同様の理由だろう、ネイルなどしていない。どうせ私の爪、ただ指先を守る役割を担っているだけのものなど、誰も何の興味も持っていないのだし。……いや、姉はしていただろうか? 「今は会社の女の子たちもみんなしてるのよ」と言って、海をイメージしているらしい爪の装飾を見せられたことがある。そう言って案外気に入っていた様子だったと思うのに、「邪魔だし、取れると全くかわいくないのよね」と剥がしていた。あんなに目を輝かせて、新しい自分になったとでも言わんばかりだったのに。あの時私がああそうと見向きもしなかったように、直ぐに彼女は興味なさそうな視線に変わり、さっと視線をそらした。私は今彼女がどこを見ているのか、知らない。こんなに近くにいるというのに。
車窓の景色は、パチンコ店のけばけばしい看板を通り過ぎると、のどかな田園風景へと、不自然なほど急に移り変わっていく。まるで騒がしさの埋め合わせをするみたいに。殆どが萎れかけた、大輪の花が植わっているひまわり畑が、なんとなく憎い。この感情が、どうして萎れているんだ、という叱責なのか、早く枯れてしまえ、というものなのかはわからない。見れば、彼女も同じ方を、私と同じ目で、醒めているかもしくは、見ていないような目で、見ていた。多分。
ひまわり畑が後方に流され、再び賑やかな景色が現れる。私たちは二人とも、同時に目をそらした。
七つ目の停留所を告げるアナウンスが流れる。大半の乗客が降りる。ここを降りれば、すぐ近くのデパートに行くことができるはずだった。デパートにならファストフード店や本屋、生活用品店、ゲームセンターなど、案外なんでも揃っている。だからか席を空けたのは若者や親子連れで、しぶとく降りなかったのは中年の男性や老夫婦、そして私達だった。
そのなかに私たちが紛れているのは、とても不思議な気がした。いくらか席が空いたが、デパートから乗ってくる人も随分いるので、まだ席は移動しない。気を遣って深く座席に座っているのに彼女は、なかなかバスから出ない。発車を告げるアナウンスも、彼女は上の空で聞いている。降りなくていいのかと私がためらいがちに口を開くと、同時に彼女から声をかけられる。言葉を飲み込む。
「……降りないの?」
「私は図書館までだから。降りたいのならどうぞ。もうじきドアも閉まるけど」
「私はまだ降りない。私も図書館に行くから」
「へえ。どんな本が好きなの?」
「別に……。教養として」
会話はだんだんと短くなり、私もどんな言葉を返していいのかわからず、途絶えた。半数以上が入れ替わった乗客たちは全く喋らなかったので、話すのも気が引けたのだ。しかしそのような沈黙もなぜだか心地好い。まるで心を分け合った姉妹のように、自然と空気を共有することができている。そんな仲良さげな空気を作っているのに、さっき彼女の手を気持ち悪いと感じたことを、後ろめたく思った。言い訳をするなら、私は、硬く安心感のあるものが好きなのだ。これもやはり、母親を早くに亡くした影響だろうか。しかし私はいつも不祥事を起こすと、なんでもそのせいにしたがる。いつまでもそんな不幸に甘えてはいられないのだ。
揺れるバスは市立図書館に到着し、私は人混みに呑まれ彼女と離れる。その中から一際低い背丈の子供を捜し出し、最後にと声をかける。
「君、来週もここに来てよ。ほら、約束」
- Re: 悲しい空席 ( No.5 )
- 日時: 2018/03/29 17:40
- 名前: 錐森 有子 (ID: voMTFyIk)
「白桃」
この世界には色が多すぎると時々、思うことがある。
くっきりとした赤、ぼやけた甘く優しい桃色、温かみのある橙色、発溂とした山吹色、混じりっ気のない白色、黒、紫、緑……私にはどれもいらない。
自己主張の激しい赤や黄色も鬱陶しいし、橙色や桃色の呆けた温かさや甘さなんていらない。ただ純粋な黒でいたい。すべての色を混ぜると黒になるなんて言うけれど、そんなものは黒じゃないのだから。全ての色をない混ぜにした黒など、ただの虚無だ。はっきりとした色を温かさや甘さで打ち消し、優しさを激しさで相殺し……そんな黒にどれだけの価値もない。
幸運の象徴である虹をきれいだなどと思ったことがない私は、矢張り、どこか稔くれているのだろうか。沢山の人たちが笑顔で見上げた空の虹から目をそらし、己の内面の暗黒に逃げ込む人生。そんな人生を子どもの頃の私は、生きたいと思っただろうか? きっとそんなことは思わないに違いない。
その代わり、虹だ虹だとはしゃいでいられたあの頃に戻りたいとも思わない。今の私と子どもの頃の私は、どこか根本的なところが変わってしまったのだから。出逢ったところですれ違うだろう。だから私は子供が嫌いなのかもしれない。
「坂元さん時間、店仕舞いだよ。お疲れ様」
「あ……はい」
私は考え事ばかりで仕事も何もしていなかったが、店長はそんなことにちっとも気付かない様子で笑いかけてくる。店長はいいひとだ、少し思慮足らずなところもあるけれど。私に髪を染めるようアドバイスしてくれたのも店長だし、親も気付かないくらい軽く染めた髪を褒めてくれたのも彼女だった。近所のスーパーのレジ打ちのアルバイト。そんなに弱小というわけではなくて、私の県ではそれなりに数の多いチェーン店だった。店員の人数は丁度10人、時間帯ごとに分ければもっといるだろう。鮮魚コーナーでアルバイトをする人も4〜5人はいる。見れば皆息を吐いて、各々エプロンを外したり背伸びをしたりしていた。シフトはほぼ毎日の6時から9時までで、大体8時には暇な閑職となる。立ちっ放しで足が痺れ出すのもそれと同時だ。
セルフレジというのも流行り始めたことだし、それが導入されればこの仕事の需要はほぼ無くなる。会計を機械で行うものもあれば、商品のバーコードの読み取りから会計まですべて客が行うものもある。
アルバイトといえばスーパーのレジ打ちのイメージがあったが、これからはそれも薄れていくことだろう。
誰でもお使いを任されて、店員に顔を赤らめながら応対されたことがあっただろうに。これからはあの、無慈悲な冷たい機械に釣り銭を渡されることになるのだろうか。領収書を渡されるのは、店員の温かい手からだったはずなのに。店長はあくせく働く最中で、陳列に商品を置いているところだった。ここのスーパーのロゴが入った緑色のエプロンをするりと外す。一段落したところで、エプロンを正方形に畳みながら尋ねた。
「店長。近々ここもセルフレジとか使わないんですか? 話題になってますけど」
彼女は手を止めて、赤ら顔をにっこりと崩した。こちらに向き直っている。何気ないお喋りのつもりだったのに、店員全員が店長を見ていた。
「セルフレジって……ああ、あの全自動でできるやつだね。うん。そのつもりはないかな」
「でも……他の店だと結構入れてる所多いですよ」
たまりかねた他の同僚が言った。
「いずれにしても、君達を手放すつもりはないよ」店長は一言告げて、再び作業を再開した。
「さっちゃん」後ろから声をかけられる。尚美だった。私と同じ年齢、通っている大学は違うけれど、同じ大学生だ。優しく明るくいい子だけれど、私はその呼称だけは気に入らなかった。「その呼び方やめてよ」という言葉をどう解釈したらそうなるのか、何度言っても笑いながらそう言ってくる。尚美のその気分の盛り上がりにはついていけなかった。
「さっちゃん、よくああいうこと店長に聞けるよね。その何て言うか……肝が据わってるっていうのかな。でも皮肉じゃなくって、凄いと思ってるんだけど」
「さぁ? 無神経なだけだよ。よく言われるんだ。私は別にいいけど、セルフレジ入れたからってまさか辞めさせられはしないでしょ」
人に褒められるのが苦手な私は、適当にぶっきらぼうな返事をする。淡白だと思われるかもしれないけれど、私はこういう人間だった。尚美もよく分かっていると思うのだけれど。
「でもさ、店長私たちを手放すつもりはないって言ってた。聞けてよかったよね、私ずっとびくびくしてたもん。ここって結構時給いいじゃない? ここと同じくらいの時給だと他に重労働しか無くてさ。店長もいい人だし、ヘンな客も来ないし、あたしこのバイトできてよかったと思ってるんだよ。それになにより、さっちゃんと一緒に仕事できるんだもん」
「……私は別にここのバイトじゃなくてもいいんだけどね。尚美がいたからよかったけど、尚美がいないんだったらスーパーも重労働も同じ」
「……そっかな」
捨てられた子犬のような目をする尚美を置いて、時計を見て焦るふりして立ち去った。本当は彼女のことなんかちっとも好きじゃない私のつくウソなんか、尚美はとっくに見抜いてるはずだ。いや、そんなことはない。私にこんな間柄の友だちなんかいなかった。私は彼女のことが好きなのに、誤解されてしまったらどうしよう……。
胸をどくどくと駆け昇る血流が、いつもよりずっと近くに聞こえる。この感情は落ち着かない。