複雑・ファジー小説

Re: 悲しい空席 ( No.2 )
日時: 2018/03/26 19:09
名前: 桐森 有子 (ID: voMTFyIk)


「飛沫」

 りょうこか。良子、亮子、陵子。今どき寧ろ、珍しい名前だ。歳こそ離れているが、私も似たようなものだけれど。所謂キラキラネームというものは、案外普通に存在している、らしい。

 あの子だってそうだった。未だ乗り物のタイヤを見るたびに想起する、あの子だって。

 私は夕暮れ時の繁華街にいた。短い袖から剥き出しの腕が意外に冷たかった記憶があるから、丁度今くらいの季節だったのだろう。当時は毎夜思い出しては眠れなくなっていたが、今ではあれから4年が経っている。
 滅多に出ない都会にまで出向き、買い物を済ませた私は、大量の紙袋を抱えて交差点にいた。私の向かう方向の信号が赤になり、私が紙袋を抱えて立ち尽くしていると、私の隣の少女が目についた。見た目は9、10歳位と取れるのに親らしき人も見当たらず、一人佇む少女を私は感心しないなどと見ていたから、少女の行動は完全に私の意表を突くものだった。少女は信号の赤色を泣きそうになりながら見つめていたので、少女の表情を見た私は、単に親とはぐれただけなのかと思ってしまった。だから油断した私に、少女を止めることなど不可能に違いなかった。
 少女は、道路に飛び出したのだ。
 対向車線から車が来たと思うと、少女は雄叫びを上げて車の前に躍り出た。その幼い容姿からは想像もできないような、獣のような咆哮だった。その叫びは、今でも耳に残っている。少女を死に至らしめた車のタイヤに染み着いた、血飛沫もなかなかに印象的だったが、コンクリートに広がるどす黒い血が何より忘れられなかった。少女の身体の中に内蔵されていたとは思えないほど、恐ろしい色の血が作り出す、この世の何より不吉な血溜まりは見ていられなかった。
 そんな彼女の名はなんだっただろう。初見では読めない名前だったこと位しか覚えていないが、そのニュースは、僅か十歳の子供が決行した自殺ということで、相当な話題となっていた。自殺動機は確か、家庭不和だった。後日放送されていたニュース番組を見ながら、手にべたべたとくっつく醤油煎餅を食べていた気がする。ニュース番組の内容だけは正確に覚えている。

 —何が彼女を、ほんの10歳で自殺せざるを得ないまでに追い込んだのでしょうか。

 —彼女は幼いながらに、家庭不和に悩まされていたようです。父親はギャンブル三昧、母親は水商売で朝まで帰らず。そんな夫に愛想を尽かした母親に連れられ、笑顔や親の愛に飢えた生活が3年続き……

 —本来は親の愛に溢れ、満ち足りた生活を送るべき時期に……

 —父親は児童養護施設で育ち、就職できる職場もなく、酒とギャンブルに溺れ……

 —この悲しい事件の裏にあるものは、何なのでしょうか。

 あのニュースは彼女も見ていたのだろうか。私はあのあと、彼女くらいの少女を見かけるたびにあの自殺を思い出す。鉄の匂いがしただけで血溜まりが目に浮かぶし、大きな声が聞こえただけでブレーキの空耳が聞こえてくる。目前で人が死んだのだから、かなり重度のトラウマになったのだと思っている割に、「自殺」という言葉を聞いても何も感じない辺り、案外他人の死になど何とも感じることがないのだろうと思う。

 隣の少女を見遣る。この少女が死んだとき、私が死んだとき、私は、彼女はどう思うのだろう。