複雑・ファジー小説

Re: 悲しい空席 ( No.3 )
日時: 2018/03/12 15:36
名前: 桐森 有子 (ID: voMTFyIk)


「向寒」

 ガラスの窓から窺える外の景色は、これから秋になり冬に向かうとは考えられない晴天だった。混じりっ気のない空の青色が、押しつけがましいくらいに鬱陶しくて、外を見る気も起きない。バスの喧騒の中、私たちだけが静かなのは割に合わない気がして、気になった質問をぶつける。「君、どうして、一人でバスに乗ってるの? それとも誰かと一緒に来てるの?」

 彼女は顔に一切の表情も浮かべないまま、否定する。「一人」

「そう。……君らの時代だと、当たり前のことなのかな。私はバスに乗って移動なんて、子供の頃したことなかったよ。私は親に連れていってもらうことだってなかったし。……もしいたら、連れてってくれてたのかな」

 ほぼ独り言でつぶやいていた。自分が意識しないまま言っていたものだから、時間を少し置いて尋ねられた「親は?」という質問には意表を突かれた思いだった。少女の冷たかった切れ長の眸が、興味を惹かれたように私を見つめていることにも、驚く。「え」と驚きの言葉を発して、少女の前であたふたするという醜態を曝す。「何のこと」

「だって今言ってた。親がもし居たら、連れてってくれたのかなって」

 三度瞬きをし、「私、そんなことを言ってたの」と零す。頭に手を遣る。

「そうね、母親、私の母親は、私が小さい頃に亡くなったから。だから初めてバスに乗ったのは、姉が連れていってくれたとき。大人になってからかしらね」

 それなりに不幸な自分の身の上話は気が進まず、素早く話を終わらせるよう努める。話し終えた途端にバスの喧騒が耳に入ってきた。車内は騒がしくとも、ここだけは私たち二人だけの空間だった。私は、何故、会ったばかりの見知らぬ子供相手に、こんな話をしてるのだろう? 今まで誰にもしなかったような話を。

「そうなの」
「うん。父は優しかったし、歳の離れてた兄も働いてくれていたし、姉も私を引っ張っていってくれたからなんとか暮らせていけた」
「……へえ。そんな父もいるのね」

 小石でも踏みつけたのか、バスが大きく揺れて、ガタンというけたたましい音に彼女の声が隠れた。彼女の手が動いて、私の手の上に覆い被さる。彼女の手は私の手よりもずっと小さくて、その分信じられないくらいに繊細だった。壊れてしまいそうという表現が言い得て妙なほどに。仄かな温かさがあるのに、一瞬作り物なのか、人の手なのかもわからなくなる。その柔らかさと体温を、何故だか気持ちが悪いと思った。私は思わず手を離した。