複雑・ファジー小説
- Re: 悲しい空席 ( No.4 )
- 日時: 2018/03/19 15:42
- 名前: 桐森 有子 (ID: voMTFyIk)
「萎れ華」
すっと離された私の手を、彼女はどこか名残惜しそうに見つめている。「私、手が冷たいでしょう。末端冷え症なの」とごまかすように口にした。まだ九月のくせに。初対面である人間の手を握りたいと思う人などいるわけがないので、見間違いだろうけど、少なくとも私の目には、そう見えた。つられて私も、青白い自分の手のひらを見つめる。
華やかできれいなネイルなど施されていない、ただ短く切られただけの私の爪。爪が悪くなると亡くなった母親は嫌っていたし、姉もおそらく同様の理由だろう、ネイルなどしていない。どうせ私の爪、ただ指先を守る役割を担っているだけのものなど、誰も何の興味も持っていないのだし。……いや、姉はしていただろうか? 「今は会社の女の子たちもみんなしてるのよ」と言って、海をイメージしているらしい爪の装飾を見せられたことがある。そう言って案外気に入っていた様子だったと思うのに、「邪魔だし、取れると全くかわいくないのよね」と剥がしていた。あんなに目を輝かせて、新しい自分になったとでも言わんばかりだったのに。あの時私がああそうと見向きもしなかったように、直ぐに彼女は興味なさそうな視線に変わり、さっと視線をそらした。私は今彼女がどこを見ているのか、知らない。こんなに近くにいるというのに。
車窓の景色は、パチンコ店のけばけばしい看板を通り過ぎると、のどかな田園風景へと、不自然なほど急に移り変わっていく。まるで騒がしさの埋め合わせをするみたいに。殆どが萎れかけた、大輪の花が植わっているひまわり畑が、なんとなく憎い。この感情が、どうして萎れているんだ、という叱責なのか、早く枯れてしまえ、というものなのかはわからない。見れば、彼女も同じ方を、私と同じ目で、醒めているかもしくは、見ていないような目で、見ていた。多分。
ひまわり畑が後方に流され、再び賑やかな景色が現れる。私たちは二人とも、同時に目をそらした。
七つ目の停留所を告げるアナウンスが流れる。大半の乗客が降りる。ここを降りれば、すぐ近くのデパートに行くことができるはずだった。デパートにならファストフード店や本屋、生活用品店、ゲームセンターなど、案外なんでも揃っている。だからか席を空けたのは若者や親子連れで、しぶとく降りなかったのは中年の男性や老夫婦、そして私達だった。
そのなかに私たちが紛れているのは、とても不思議な気がした。いくらか席が空いたが、デパートから乗ってくる人も随分いるので、まだ席は移動しない。気を遣って深く座席に座っているのに彼女は、なかなかバスから出ない。発車を告げるアナウンスも、彼女は上の空で聞いている。降りなくていいのかと私がためらいがちに口を開くと、同時に彼女から声をかけられる。言葉を飲み込む。
「……降りないの?」
「私は図書館までだから。降りたいのならどうぞ。もうじきドアも閉まるけど」
「私はまだ降りない。私も図書館に行くから」
「へえ。どんな本が好きなの?」
「別に……。教養として」
会話はだんだんと短くなり、私もどんな言葉を返していいのかわからず、途絶えた。半数以上が入れ替わった乗客たちは全く喋らなかったので、話すのも気が引けたのだ。しかしそのような沈黙もなぜだか心地好い。まるで心を分け合った姉妹のように、自然と空気を共有することができている。そんな仲良さげな空気を作っているのに、さっき彼女の手を気持ち悪いと感じたことを、後ろめたく思った。言い訳をするなら、私は、硬く安心感のあるものが好きなのだ。これもやはり、母親を早くに亡くした影響だろうか。しかし私はいつも不祥事を起こすと、なんでもそのせいにしたがる。いつまでもそんな不幸に甘えてはいられないのだ。
揺れるバスは市立図書館に到着し、私は人混みに呑まれ彼女と離れる。その中から一際低い背丈の子供を捜し出し、最後にと声をかける。
「君、来週もここに来てよ。ほら、約束」