複雑・ファジー小説
- Re: 悲しい空席 ( No.6 )
- 日時: 2018/04/05 19:41
- 名前: 錐森 有子 (ID: voMTFyIk)
少女は布団を頭まで被って寝ていた。男の持つ冷たい缶麦酒の水滴が、少女の髪に落ちる。男はそんなことなど気付きもせず、ぼんやりと月明かりを見つめていた。今夜は一際月が美しく見えるそうだが、男には、暖色のほの暗い街灯との違いもわからなかった。彼もまだ若かった十数年前のあの夜、自分が騙した美しかった彼女は今ではとっくに家を出ていて居なかった。月灯りは二人きりで過ごした、あのホテルの一室で彼女を照らしていたカクテルライトをも連想させる。そういえばカクテルライトの光を嫌がった彼女も、このようにベッドの掛け布団に顔を隠していたか。恥ずかしがるそんな仕種も暗闇の中でも窺える長い睫毛も、閉じた瞼と皮膚との滑らかな境界線も、すっと通った鼻筋も、当然というべきか彼女と少女はよく似ていた。記憶違いを起こしたように、思い出が甦ってくる。不安そうに自分を見つめる彼女の眸には、少し茶色が雑ざっていたこと、初めて人前で曝した素肌が美しく清冽だったこと、いつも結っていた髪が思っていたよりずっと長かったこと、近い距離で聞いた彼女の甘い息遣い、彼女が我を忘れたように喘いでいてもしっかりと絡み合っていた指同士、全てが終わって身を委ねてきた彼女の身体の柔らかさ、疲れて眠ってしまった彼女の無防備で愛おしい寝顔、純情で世間知らずな娘を騙していたつもりが、次第に本気の愛情が芽生えてきたこと……。二、三回弄んで終わりにするつもりだったのに、気付けば結婚を申し込んでいた。名家の一人娘だった彼女は、よりによってそんな男とと猛反対する親を押し切り家まで捨てて、入籍してくれた。それなのに彼女は、自分に愛想をつかして出ていった……。舌打ちをし、夜中であることを忘れ、「くそ」と叫び、缶麦酒をあおる。零れた酒が幾筋も頬をつたい、袖の中やシャツの中にまで入り込む。彼女に対する感情が、どんなものなのかわからない。愛おしい? 懐かしい? 後悔してる? 申し訳ない? 憤慨してる? あと一度でいいから会いたい? 二度と会いたくない? もし彼女と元に戻れたなら、もう離さない? 自分の感情なのに、わからない……それともこの感情は、実体のないものなのだろうか。男は苛立つ。彼女が残した娘____涼子は子供らしい愛嬌などかけらもない顔で眠っている。そんな顔が気に入らなくて、その上よく見ればそれは出ていった時の彼女____麗子と酷似していて、思わず首に手をかけそうになった。遊びに連れてって、このお人形買って、子供らしい要求ひとつしない涼子にも腹が立ってきて、飲み干した缶を、涼子、眠るふりをしている涼子に投げつけると暗がりのなか部屋を出ていった。水滴が飛び散った布団の中で、それを確認し密かに起き上がった涼子の目からは、ほんの僅か涙が伝っていた。この狸寝入りに、彼は気づいていただろうか。
男は月など見ずにパチンコ店に閉店まで入り浸り、散々すった後に終電の駅のホームで立っていた。軽く酔って、同じホームにいた女性をぼんやりと見つめる。髪やすらりとした体型が美しい。女性は男に一瞥をくれ、視線を振り払うようにして階段を上がっていく。ハイヒールの階段を打つ小気味よい音に、男の酔いも醒める。