複雑・ファジー小説

Re: アリス・イン・デスゲーム ( No.8 )
日時: 2018/05/13 19:56
名前: *atari* (ID: UjH259gp)

【二話】



「…………」

 寝惚け眼で周りを見渡し、見知らぬ壁に、見知らぬ布団、そしていつも毎朝隣にあるはずの体温が見当たらないこと。それらのことから、昨日あったことを思い出して、アタシ──森アサヒは一人でベッドから静かに起き上がり、朝の支度を始めた。ここに来てから二日目の朝だ。そして久し振りの"一人"の朝でもあった。いつも兄が必ず側にいた。しかし今、兄はこの部屋におらず隣の部屋にいる。兄の所在が分かっているのに、目の前に兄がいないというのは何だか妙な気持ちだった。

 昨日は色々あった。それはもう、色々と。

 誘拐まがいの大規模な実験。白兎頭の奇妙なスタッフ。そしてこの場所で一ヶ月滞在しないといけないという宣告………まぁ細かい事は後々理解してくつもりだけれど、とにかく一ヶ月アタシ達はこの施設で暮らさなければいけないらしい。
 それが分かった瞬間、アタシは思いがけず降ってきたこの出来事に対して飛び上がりたい程に歓喜していた。学校に行かずに、この場所で一ヶ月を過ごすこと。それはアタシにとって願ってもないくらいに嬉しいことだ。どうせ学校に行ってもクラスメイトは苛めてくるし、周りの大人は変な気を効かしてアタシの家庭を探ろうとしてくる。大人が来られるのは嫌だ。きっと大人はアタシと兄さんのことを知ったら、アタシ達を離れ離れにさせるだろう。大人は敵だ。アタシと兄さんの敵。だからアタシは学校にいる間は、自分が空気になったような気持ちで息を潜めて過ごしている。大人に気付かれない為のアタシなりの処世術だ。兄さんが学校には勉強の為に行った方がいい、というから行ってるだけで本当はあんな場所行きたくはない。
 昨日は、あんな風にちょっと喋っただけでも、取り乱す兄さんだけれども、学校に行っている間は、兄さんはアタシが他人と関わることにストレスを感じることはない。兄さんは15才で働きに出た。だからアタシにはしっかりと勉強して欲しいし、色んな人と関わって欲しい。自分のことなんかいっそ捨ててしまって、周りの人間と深く関わってほしい。そう思ってるのに、目の前でアタシが誰かと話しているのを見ると、どうしても心がムカムカしてきて何も考えられなくなってしまうらしい。いつだったか、いつものように自分を見失ってアタシを殴った後、兄さんが泣きながらアタシにそう教えてくれた。兄さんは相反する感情と、いつだって闘っている。だけど優しい方の兄さんは、とても弱いから、いつも負けてしまうのだった。

(兄さんは、アタシを学校に避難させてるような気持ちなのかもしれない……)

 少なくとも自分の目に触れない所に置いておけば、傷付けることは絶対にないから。
 もしかしたら、兄さんはいつしかアタシを何処かに預けてしまう気なのかもしれない。だけどアタシはそんなのは絶対に嫌だった。どれだけ傷付いたって、酷いことをされたって、兄さんと離れ離れになるのに比べたら全然いい。アタシは兄さんが大好きだし、兄さんはアタシが大好きだ。兄さん以上に大好きな人はアタシには出来ないだろうし、それは兄さんも同じだろう。それなのに何故一緒にいちゃいけないのだろうか。それにアタシは今の状態が死ぬほど嫌な訳ではないのだ。そりゃあ痛いのも、苦しいのも、あの冷たい目で見られるのは辛い。だけどあれは兄さんのアタシに対する愛なのだ。愛故の暴力なのだ。アタシを"兄さんのアタシ"にする為の大切な行為なのだ。それならば仕方ない、耐えるしかない。痛いのも、苦しいのと、冷たい目で見られるのも、甘んじて受けよう。そう思えてしまうくらいにアタシも兄さんを愛している。

 
(あの暴力がアタシ達の"愛"だ)

 
 そう考え始めている自分が、どこか壊れてきているのは自覚していた。だけどもどうしようもなかった。アタシと兄さんは、もうどうしようもない所まで深くに堕ちているのだから。

 
 ∮
 

 あんな目に合っても、アタシは兄さんと一時たりとも離れたくない。けれどもそれを兄さんが拒否した。アタシ達二人に一つずつの部屋が用意されていることを知った時、兄さんは苦しそうに笑って、アタシに言った。

「……アサヒ、寝るときは部屋は別々にしよう。せっかく用意してくれたんだから、しっかり、使わなきゃ」

 アタシに暴力をふるうようになってから、兄さんの楽しそうな笑顔を見たことは一度もない。兄さんは、いつも申し訳なさそうに笑う。泣きそうになりながら、笑う。そんなに苦しいのなら笑わなければいいのに、アタシに心配をかけさせない為に、無理矢理笑うのだ。アタシは随分と兄さんの意見に抵抗したけれど、兄さんはここぞとばかりに折れなくて、やむなくアタシ達は別々の部屋で寝ることになった。一人で寝るベッドは足も伸ばせて、快適だったけれど、何か物足りなかった。それにとても寒かった。狭くても、動きにくくても、ぎゅうぎゅうになって眠るベッドがアタシは好きだった。

 一人ぼっちのベッドで、アタシは涙を流して眠りについた。寂しくて、寂しくて仕方なかった。

 
 ∮

(兄さんはもう起きたんだろうか……)

 自分の支度もある程度終わった。特にやることも何もない。そうなると兄さんのことがとても気になってきた。電子手帳の時間は朝の六時半を指していた。まだ兄さんは寝ているかもしれないけれど、アタシは兄さんの部屋に行くことにした。
 兄さんの部屋のドアをとんとんと軽く叩く。

「兄さん……アタシだよ。アサヒ。調子とか……大丈夫?」
「………………アサヒ?随分と早いんだね」

 まだ眠そうな兄さんの返事が聞こえる。兄さんの声を聞いただけで、アタシの心は馬鹿みたいにときめいた。

「え、えっと……兄さん、入ってもいい?」
「…………あー、ごめんね。アサヒ、今部屋汚れてるからさ、ちょっと、ね……」

 兄さんの声がほんの少し上擦る。それは兄さんが焦っているときの癖だった。理由は分からないけれど、兄さんはアタシを部屋にいれたくないらしい。少なくとも"部屋が汚れてるから"なんて、理由じゃないのだろういうことだけは分かった。兄さんにそう言われてしまっては、アタシはそれに従うしかなかった。
 アタシが落ち込んだのを察したのか、アタシの気分を替えようと、話を変える。

「…あ、そうだ…………アサヒ、大浴場は行った?部屋にはシャワー室しかないでしょ……?行ってみたら、どうかな……」
「い、いいよ。だって兄さん、一緒に来ないんでしょ……別にシャワーで十分だし……」
「そうだけど……だ、だって、アサヒ、……皆と同じ時間じゃ入れないじゃないか……オレのせいで……」

 兄さんの声が少しずつ落ちていく。部屋の中からすすり泣くような声が聞こえてきた。どうやら兄さんは昨日のことを思い出して泣いていたらしい。アタシが皆と同じ時間にお風呂に入らないのは、別の理由からだ。確かに身体にアザは残っているけれど、そんなものどうとだって誤魔化せる。だけど兄さんは自分のせいでアタシが大浴場に行きにくいと、そう考えてるようだった。このまま入らなかったら、きっと兄さんはもっと悲しくなってしまうだろう。

 
 兄さんがこれ以上悲しい思いをするのは嫌だった。

 
「……わかったよ、兄さん。アタシ、行ってくるから……だから、泣かないで……」

 それだけ伝えて、アタシは兄さんの部屋を後にし、大浴場へと向かった。

 ∮

 兄さんの言った通り、朝の大浴場には誰もいなかった。よくある銭湯みたいに湯の前にロッカールームがあり、かなりのかずのロッカーが置いてある。鏡やドライヤー、そんなのも取り付けられていて、まさに銭湯みたいだった。アタシはそそくさと服を脱いだ。久し振りに鏡の前で自分の身体をまじまじと見てみるけれど、やっぱり痩せ干そって、がりがりで、変なアザだらけで───とても歪だ。鏡に写った自分の顔が歪んでいくのが分かった。アタシは自分の身体が好きではない。その思いは成長するごとに色濃くなっていっている。
 
 色々と自覚してしまって、憂鬱な気分でアタシは湯のスペースの扉を開けた───────














 
 「落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちない落ちないなんで落ちないの落ちろよ落ちろよ落ちろよ何で擦っても擦っても落ちないんだ赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤いぐちゃぐちゃだなんだよこれぐちゃぐちゃだよ何でなんだよ赤いよぐちゃぐちゃだよ何で俺生きてるんだよ半分ぐちゃぐちゃなのに何で何で何でぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ頭ない右腕ない俺の右側俺の右側は何処へ行ったんだよおいおいおいおいおい血が落ちない落ちないんだ落ちてくれ落ちてくれよああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」






 



 ごしごしごし



  ごしごしごしごし



  ごしごしごしごし
 

 

 ごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごし








 
 風呂場の真ん中で、あの長い廊下で会った目付きの悪い男が狂ったように身体を洗っている。








 
 不自然に"右側"ばかりを。







 
 
 




 まるで、そこに"落ちない何か"があるように。










 半狂乱に、ひたすらに、右側を洗い続ける。







 アタシは思わず、色んなことを忘れて、この男に言っていた。

 







「……なぁ、何が"落ちない"んだ?」










 声は聞こえていたらしく、男は洗っていた手を止めて、アタシに答えた。絶望という言葉がぴったりな、男はそんな表情をしていた。












 
「……彼らの"血"と、俺の"血"、俺から流れ続ける血が、何回拭っても取れないんだ、何で、何で俺は生きてるんだ?あの時、俺は"殺された"はずなのに、どうして、こんな状態のまま、"殺されたあの時のまま"、俺は生きているんだよ、どうして、どうして誰も気付かないんだよ、なあ、なんで、なんでなんだよ、教えてく─────?」




「……アサヒさん?」





 

 意味が何一つとして分からない言葉を、男は吐いていた。けれども突然に男はその狂った言葉を吐くのを止めた。忙しなく動いていた男の目は、ある一点に止まった。最初アタシは、男の言葉が急に止まったことに理解出来なかったけれど、男の"視線の位置"を見て、すぐに分かった。





 アタシの"身体"を見て、この男は"正気"に戻ったのか。






 この"歪な身体"を。








 「ね、ねぇ………?」







 
「……あ、アサヒさん、どうして、"男湯"にいるの……?っていうか……その、"股にあるもの"は…………?」






 ─────この男は、アタシの"男の身体"を見て、正気に戻ったのだ。