PR
複雑・ファジー小説
- Re: スペサンを殺せ ( No.1 )
- 日時: 2018/03/15 02:51
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 9UBkiEuR)
—1—
「どうやら、エースを殺すときが来たらしい」
グラスに伸ばしかけた指を、ぴくりと震わせた。頬のこけた貧相な顔がグラスに入った水を覗きこむ。
水面に浮かぶ氷をじっと見つめるだけの男をよそに、開けているのか閉じているのかわからない糸目の男が手に持ったグラスを拭きながら続ける。
「エースは、オレたち国民にウソをついていたのさ。とんでもないウソをな」
「……どんな?」
「女だったんだとよ。いつの時代も、エースは必ず男と決まってる。いままでにもあったが、いつの時代も、女のエースは殺されてきた」
「……」
「ようやく、あんたの出番ってわけだ。【3】さんよ」
貧相な顔の男は、うんともすんとも言わずただじっとグラスを傾けている。
糸目の男は拭き終わったグラスを置くと、カウンターから身を乗り出した。
「……おめえさんのことだから、どうせ不安なんだろ。人殺しなんてできるタチでもねえもんな」
「……」
「情報は、たしかだ。まちがいねえ。……王宮内でメイドを務めてる【10】のうちの一人からの情報だ。うっかり着替えを覗いちまったらしい。おめえさんは、心置きなく仕事が果たせるってもんよ」
「……」
「……。英雄が罪を犯したら、専属処分者が暗殺する。それがルールだ」
糸目の男は、うすらと目を開けた。
「……——まったく、酷なルールだよな」
そう言いながら、一枚の小さな紙を、カウンターの上で滑らせた。
ガラリ、と椅子を引く音がする。生気のない目がグラスの水からようやく視線を外したかと思えば、貧相な顔はユラリと席を立った。テーブルの上の小さな紙を指でつまんで、糸のほつれたポケットに入れた。
バーの床を踏むには似合わない、乾いたサンダルの音。半ば足を引きずりながら、男は退店した。
*
暗殺なんてできない。
丸めた背中に暗夜を背負いながら、幸薄そうな顔をした男はなんども胸の中でそう唱えた。
しかしこの国には『ルール』がある。まるでゲームで遊ぶみたいに、守らねばならないルールが。
彼に課せられた唯一のルール。それが、
【A】の断罪だ。
この国を治める【K】は、国内のことに手を焼いていて外交を担わない。そんな【K】の代わりを務めているのが、第二王子の【A】だ。通称、英雄。
【A】は頭のキレる天才だ。年齢に不相応な仕事をこなす彼を偉いとさえ思えてくる。
いや、いまは『彼』ではなく、『彼女』か。
『彼女』だということが【3】である幸薄そうな男にバレてしまった以上、殺すしかない。
夜の道を往きながら、彼はふたたび暗殺のことで思考を支配された。
ふいに彼は、立ち止まってポケットの中をまさぐった。取り出したのは、店で【8】に渡された小さな紙だ。
彼は折りたたまれたその紙を開いた。
『エースを殺さないでくれ』
幸薄そうな男は黙りこんだ。うそっぱち、とはよく言ったものだ。
しかしルールは守らねばならない。
男は、【A】を殺さねばならない。
——決行は明日だ。
胸の中でそう唱えてから、【3】はふたたび夜の道を歩き出した。
- Re: スペサンを殺せ ( No.2 )
- 日時: 2018/03/18 20:37
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 9UBkiEuR)
—2—
「英雄のご帰還です!」
一人の門番が高らかに叫ぶと、待っていましたと言わんばかりの人だかりが、馬に跨る【A】を出迎えた。
トランペットを吹き鳴らす音楽隊の列。その背後から、一様に【A】に羨望のまなざしを向けているのは一般の民だ。
【A】はにこりとも笑うことをせず、凛とした表情で宮殿をめざした。
「ご無事でしたか、英雄様」
宮殿内の廊下を歩いていると、不気味な仮面をつけた長身の男が、【A】の目の前で一礼した。
仮面の男はすらりとした体格に燕尾服を身に纏っている。もとより長身であるのに、細身なおかげでうんと身長が高く見える。
仮面の男はすこし屈むようにして、【A】の顔色を窺った。
「此度の遠征、実にご苦労様でした。お疲れでしょうから、どうぞお部屋でお休みになってください」
「いいや。僕はこれから、父上のところにいく。報告をしなければならない」
「……生憎ですが、陛下はいま会議に出席しておられます。英雄様も知っておいででしょう? 数か月前の嵐で麦畑がダメになって、米価が上昇している問題についてです。なかなか妙案が思いつかないのでしょう」
「それならなおさらいく」
「え?」
「仕事のついでに、『ハートの国』の商人と取引をさせてもらった。あそこは天候も土地も良好で、近年にはめずらしい大豊作だったと聞いてね。百俵持ち帰ってきた」
「すばらしい!」
仮面の男は愉快そうな顔でパチパチと手を叩いた。
「さすがです、英雄様。たいへん聡明でいらっしゃる」
「……」
「陛下も鼻が高いでしょう。その、雪のように美しい銀の髪も、整った目鼻立ちも。どこまでも罪深き御方」
「……」
「気をつけてくださいね」
仮面の男が顔色ひとつ変えずにそう言ったのに、【A】がぴくりと眉をひそめたことを彼は見逃さなかった。
「聡明であるからこそ、それを悪いことに使ってはならないのです」
「僕はそんなことはしない」
「そうでしょう。あなたは正義の心をお持ちです。ですが万が一、悪知恵を働くようなことがあれば……」
「……」
「そのときは……【3】に、殺されてしまうでしょう」
仮面の男はあいかわらず、奇妙な笑みで【A】を見下ろしている。
【A】はマントを翻した。装飾を施された白銀のブーツがよくお似合いだと、仮面の男は【A】の姿が見えなくなるまでその小柄な背中を見送った。
報告を終えて自室に戻ると、【A】は取り外したマントをベッドの上に放り投げた。
自身もベッドに腰を沈める。どっと襲いかかる旅の疲れを、上質な肌触りで癒そうとしてくる。
『そのときは……【3】に、殺されてしまうでしょう』
仮面の男の言葉が、ひとりでに頭の中で反芻した。
【3】は、この国で自分を殺すことができる3人の人間のうちの1人だ。
そのうち2人が王族とくれば、名誉も手も汚さずに済む【3】に、【A】の暗殺を担わせるのは自明の理。その上【3】は、【A】以外のだれも手にかけることができない。つまり、この国でもっとも力を持たない人間なのだ。
そんな人間に断罪されてしまうのか。望んで女に生まれたわけでもないのに。
【A】は自身の下腹部をなでた。肌に張りつくような作りの絹を介して、そこに男にはないものがあることを実感する。
「……」
すっくと立ちあがり、【A】は白銀のジャケットを脱いだ。ブラウスにズボンという簡易な服装になると、ふと、自室の扉に違和感を感じた。
ゆっくり近づいて見てみると、なにかが扉の間に挟まっている。
【3】の、カードだ。
「!」
刹那。
ヒュンと空気を裂く音がした。鋭いそれは刃となって、耳と髪の間を通り抜ける。
それは扉の表面に突き刺さり、【A】は、その矢を扉から引き抜いた。
「……なるほど。殺しに来たのだな、【3】が」
床に放られた矢がカランと音を立てた。【A】は、壁に立てかけた鞘から乱暴に剣を抜いた。
駆けだす。
窓ガラスに空けられた小さな穴を力任せに斬り破り、【A】は外界の風に全身を投じた。
- Re: スペサンを殺せ ( No.3 )
- 日時: 2018/11/24 11:27
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: ZMpE7sfz)
—3—
屋根の上を駆ける。建物と建物の間を跳躍し、着地と同時にまた飛び跳ねた。
阿呆なやつだ。
【A】は、自分の前を走っている黒装束の人物を追っている。
まちがいなく、黒装束の人物——【3】から襲撃を受けたのだ。
自分から逃げている様子を見ると、どこかに誘いこもうとしている。罠を用意している。
適度に距離を保ちながら、
「……!」
銃口が、突然こちらに牙をむいた。
「……なるほど」
煉瓦の屋根を踏むとガラリとそこが崩れ落ちた。風と鳥の鳴き声に、人の声が交じっていない。「カフェ」とかろうじて読める看板が倒れている。どうやらここは街の外れらしい。眼下に据える屋根の支柱も長くはもたないだろう。
「人気がなければ、建物でも外でも変わらないということか」
「……」
「最弱の民よ。僕を断罪するつもりか」
その言葉を受けた男は、空いたほうの手でフードを脱いだ。
よどんだ目元が、長い前髪によって見え隠れしている。まるで生気のない顔をした【3】だった。
【A】は、剣身に指をすべらせた。切っ先がギラリと、銃口を睨んだ。
「四つほど、会話をしないか……」
「は?」
「一度しか言わないから」
【3】がやっと口を開いたと思えば、突然、そんなことを言いだした。
「一つ。私が何者か、わかるかい」
「【3】だ。【スペードの3】」
「そうだとも。二つ。午前、母に陽を浴びせられた者は、私欲から目を覚まさねばならない……、君のように」
「袋のネズミ、とでも言いたいようだな」
「君は頭もいい。三つ。『theaory』……この中で不要なものはなんだと思う」
「…………」
「最後に、もうひとつ質問をしたい」
貧相な顔の男は、一歩、歩み寄った。
「王の操り人形にはなっていないか」
全身の血が沸騰する。
【A】は手に握った柄を震わせ、男に切っ先を向けた。
「口を慎めッ!」
「きみを殺さねばならなくなった」
「……」
「初めが肝心だ……だった。殺しもゲームもなにもかも」
「初めが肝心? 初手で僕を殺し損ねた貴方が、笑わせるな。初めに放った矢が僕の命を奪えなかった時点で、貴方の敗北だ」
「……そうかもしれない」
ジャキ。【3】は銃を構えなおした。
深い黒の中に吸い込まれそうな気がした。
これ以上時間の余地がない気がした。これ以上切っ先を泳がせておく必要もない気がした。
殺される。殺される。殺される、まえに、殺せ。
殺せ!
たった二十あまりの人生が、振り上げた剣身に重たくのしかかった。女だというだけで殺されてしまうのか。終わってしまうのか。人は性別も、身分も選べやしない。配られたカードを変えられやしない。ならばひた隠しにし生きるしかないのだ。殺すしかないのだ。この先何度【3】が襲いかかってきても、何度命を脅かされることがあっても、殺すしかないのだ。殺されるまえに、まえに、なのに、
「あああッ!」
なぜ剣を、振り下ろすことができないのだ。
「私は……私は……」
「……」
「きみを殺せないんだ。……エース」
「え?」
「エース! 伏せなさい!」
激しい怒声がした。
そして銃声。
声に反応するかのように、細い身体が傾いて、重力におし負けて、世界がひっくり返る。
足場が崩れ落ちた。壊れた瓦礫や折れた木の柱とともに落下する。
弾は自分のいたところを通りすぎた。
身体は、運よく大事に至らなかった。崩れたところから降ってきた木屑が目に入り、目尻をおさえながら視界を取りこんだ。
生気のない顔をしていた男が目の前で倒れていた。
「……」
男も屋根の上から落ちたのだ。落ちて、瓦礫の山の下敷きになっていた。
赤い液体が男を呑みこもうとしていた。男は動かなかった。男の身体を中心に広がっていく赤い円を呆然と眺めていた【A】は、ザッと靴を揃える音に振り返った。
「無事だったか、エース」
「……父上……」
「……どうやらお前の秘密が知られてしまったらしいな。だが、案ずることはない」
「……」
「この先幾らヤツがお前の命を脅かしにこようが、屈するな。生きろ。──【3】を殺し続けるのだ、エース」
「……はい。父上」
【A】は立ち上がった。真紅の絹のマントを翻す【K】の大きな背中についていく。
ふと。
エースは振り返った。
「……?」
地面に倒れている【3】は起き上がろうとしなかった。
その姿が目に焼きつくほど、男だけを見ていた。
しかしすぐに男から視線を外して、彼女は前を向いた。
(なんだ、この違和感は)
心になにかが引っかかったまま、エースは国王の手に引かれ意志のない脚で立派な馬に跨った。
ひとつの疑念が芽吹きはじめていた。
- Re: スペサンを殺せ ( No.4 )
- 日時: 2018/03/28 12:12
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 9UBkiEuR)
—4—
【A】は自室のベッドに腰をかけていた。
いつもはしゃんと伸びている背中をめずらしく丸めていた。英雄たらしめる精悍な顔つきで、赤いカーペットを眺めている。
【A】は考えていた。
【3】が死んでから数日が経った。英雄たる者、他人の命に手をかけることもある。それこそ断罪を担うことがある。それなのに、【3】と対面してからなにかが脳裏をつかんで離さないのだ。
「坊ちゃま。朝食をお持ちしました」
真白のコーティングに金細工がなされた扉から、メイドの姿をした女性が入ってきた。
カーペットによって音を相殺された銀のワゴンは、つつましやかに【A】の前で歩みを止めた。
「すまない。今朝は気分が悪いんだ……。下げてくれるか?」
「あら。それは大変ですわ。主治医様をお呼びして参ります」
「いやいい。大丈夫だ。下がっていいぞ」
「そうですか……」
「……?」
すこし寂しげな物言いに、【A】はすぐさま返した。
「なにか話すことでもあったのか?」
「えっ。あ、その……」
「君はおしゃべり好きだからね。いいよ、話してごらん」
「坊ちゃま……!」
沈んだ表情から一転。メイドは瞳をキラキラと輝かせて、【A】の端正な顔立ちを見上げた。
「実は、坊ちゃまの従妹様であられる【9】お嬢様が、お子様を身籠ったとのお話を聞いたのです!」
「……。ああ、【9】嬢が? それはめでたいな。近々伺おう」
「ええ。ぜひそうなさってください。……次にお産まれになるということは、番号は……」
「……」
「坊ちゃま?」
「ああ、すまない。なんでもないよ」
この国の人口は、100人にも満たない。
国王陛下ならびに王族の人数は10人前後であり、それ以外はメイドや執事のような宮殿で働く人間と、城下町で暮らす人間とに分かれている。
召使い同士の恋愛は禁止されているため、それを除いた上でかつ老若男女の混在する人口の中で、『子どもを産む可能性を持っている』という枠に当てはまる女性は極めて少ないのだ。
そうなると、城下町に出て町を巡回することもある【A】はだれがどこで子を身籠っただの、出産しただのという話をよく耳にするのだ。
もちろん国民の誕生は喜ばしいことである。国民が増えれば、国が栄えるのだから。
加えて。
『王族』に関しては、各人ひとつずつしか席が用意されていない。
【2】も、【A】も、【K】も、【Q】も、【J】も、それから【Joker】も。
王族になるためには、それ以前の王族が死んでいなければならない。
そしてそれと同様に、
【3】もまた、この国でただ一人にしか許されていない称号なのだ。
「……」
「坊ちゃま、お顔が優れませんわ……。やはり私、主治医様を……」
「……心配するな。すこし、部屋を空ける」
【3】が死んだ。
この国でただ一人の器が壊された今、その席を空けんと運命が働くにちがいなかった。
(次に、生まれてくるのか……【3】が)
紙面を眺めながら、ぼうっとそんなことを考えていた。
自室を空け、その足で宮殿内の図書館にやってきた【A】は宮殿の中でしか見られないような大きな長机の一角で本を読んでいた。
しかし本の内容は一切頭の中に入ってきていない。
『きみを殺せないんだ。……エース』
ふいに、広げた紙面に影が差した。
「よう、エース。さっきからページをめくる手が止まってるぜ?」
「……兄さん」
「おいおいやめてくれよ、血も繋がってねぇのに。家族ごっこする年齢でもねぇだろ?」
「……」
【A】の背後に立っていた男は、そう皮肉げに笑みをこぼした。
すこし長めで、遊ぶような髪質の銀髪の男——【2】は、【A】が広げていた本を勝手に取り上げる。
「ふぅ〜ん。なにこれ、言語学ぅ? ハッ。お勉強なんかなにが楽しいんだっつぅの」
「僕には必要なんだ」
「……へぇ〜」
半ば【A】の話を聞いていない素振りで、【2】はジャラジャラと指という指にほどこした金装飾を揺らしながら本のページを適当にめくっていた。
「英雄様ってなぁ大変だよなぁ? 国内のことで忙しい王様のために、国外とのことも戦争で軍率いて戦うのも、てめぇの役割だもんな。こりゃいつくたばってもおかしくねぇや!」
「……」
「オレぁまっぴら御免だね。『兄さん』のほうがよっぽどラクだぜ」
ジャラ、と金のこすれる音がする。すると目の前に分厚い本が落ちてきた。テーブルの表面にぶつかった勢いで本は端のほうのページを開かされ、ゆっくりと、重力に負けて閉じていく。
「そういや、【3】がくたばったんだってな?」
本に伸ばしかけた指を、ぴくりと震わせた。
「おまえもせーせーしただろ! それに国王が手にかけたんだってな。よかったじゃねぇか、これであと十年、いや二十年は寿命が延びたぜ」
「……兄さん」
「あ?」
「何の話だ? 僕はなにも罪を犯していない」
「……」
「貴方が、僕のなにを知っている?」
愉快に曲げられていた口の端が、縮んでいく。
王と自分以外の人間は知らない——本当は自分が女であることを。
殺された【3】を除いて。
【A】は、白銀の瞳で【2】を鋭く睨んだ。
「……。もしもの話だよ。そうカッカすんなって」
「……」
「……チッ。食えねぇ弟だぜ」
家族ごっこはやめてくれと言っていたくせに。おそらく皮肉だろうが、【A】は遠ざかる兄の背中を追いはしなかった。
ふたたび本を手に取ると、【A】はその表紙を眺めたまま、突然静止した。
「……」
言語学のすすめ。
そういえば、あの男の言葉には少々不自然なものがあった。
『四つほど、会話をしないか……』
会話を、四つと表現していたのだ。四回、もしくはしばらく、などとは言わずに。
四つ。
【A】は今一度思い返してみた。
『一度しか言わないから』
それはまるで、「一度しか言わないから、」——覚えてくれ。そうとも聞こえる。
「……」
【A】はジャケットの内ポケットに片手を突っこんだ。小さな手帳とペンを取り出す。
手帳のなにも書かれていない白いページを破って、漆色のペンを手に取った。
(一つめは……)
数日前の景色が、脳裏によみがえる。
『一つ。私が何者か、わかるかい』
「……」
【3】だ。あの日の自分はそう答えた。
白い紙に『【3】』と記述した。
『二つ。午前、母に陽を浴びせられた者は、私欲から目を覚まさねばならない……、君のように』
「袋のネズミ……」
『三つ。『theaory』……この中で不要なものはなんだと思う』
「……『a』」
『最後に、もうひとつ質問をしたい』
『王の操り人形にはなっていないか』
「……」
『【3】』、『袋のネズミ』、『a』……——いったいなにを示すのか、まったくわからなかった。
そもそも四つの項目にまったく関連性がないのだ。すべてが質問だったわけでもない。
(思い過ごしか……)
彼の言葉になにかメッセージでも込められているのかと思っていた。どうやらそれは思い過ごしだったらしい。
【A】は文字の書かれた白い紙をくしゃくしゃに丸めた。
『初めが肝心だ』
ふいに脳裏をよぎった。
『初めが肝心だ……だった、殺しもゲームもなにもかも……』
『初めが肝心?』
「初めが……肝心」
【A】はしわくちゃに丸めた紙を広げた。
【3】、袋のネズミ、a、——ちがう。おそらく、これではない。
彼女は、もう一度彼の声を思い出した。
『一つ。私が何者か、わかるかい』
「『私』……」
『二つ。午前、母に陽を浴びせられた者は、私欲から目を覚まさねばならない……、君のように』
「『午前』……」
『三つ。『theaory』……この中で不要なものはなんだと思う』
「……これは、『the』、か?」
『最後に、もうひとつ質問をしたい』
『王の操り人形にはなっていないか』
「……『王』……」
『四つほど会話をしないか』——四つ、というのは回数ではなく、
数。
言葉を『数』と捉えろ。
四つの言葉を抜き出し、並べろという、——彼からのメッセージだ。
「『I am the King.』……」
【A】は、折り目とインクだらけの薄汚い紙を、今度は強く握りしめた。
- Re: スペサンを殺せ ( No.5 )
- 日時: 2019/03/16 14:06
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: gOBbXtG8)
—5—
——いや、そんなはずはない。
言い聞かせる自分と、たしかに動揺している自分がいて、しばらくの間その場で静止していた。
【A】は、ぐしゃりと丸めた紙を握ったまま、冷静に思い返した。
(もしもあの【3】の男が本当に【K】だったとして……それでは、いまの国王陛下が偽物の【K】という話になる。しかし、単なるなりすましなど王族のだれか一人には必ず気づかれてしまう。それはリスクが高すぎる。阿呆でもそんなことはしないだろう)
あの男は気が触れていたのだ。そうでなければ、『自分が王だ』などと宣えるはずがない。精神に病でも抱えていたのだろう。
【A】は手の中でしわくちゃになっている紙を、手帳とペンといっしょにジャケットの内ポケットにしまいこんだ。
(あの男の言葉を鵜呑みにするには……情報が少なすぎる)
【A】は椅子から立ち上がり、言語関連の書籍が収められている本棚に本を返した。
そのとき。【A】の耳に声がかかった。
「英雄様! こちらにおいででしたか」
「!」
「王妃様が、お庭でお待ちになっておられます」
メイドらしき女性が、そう言って【A】を図書館の出入口に促した。
色とりどりの花が咲き乱れる庭園に、絢爛たる純白のドレスを身にまとった女性が立っていた。
【A】は女性の姿をみとめるなり丁寧に会釈をすると、女性は表情を綻ばせて【A】に近づいた。
「ごきげんよう、英雄様。勉学に励んでいるところを呼びつけてしまって申し訳ないわ。今日は日差しが心地いいから、外でお話でもと思ったの」
「そうでしたか、母上。僕は母上の命とあらば、喜んでお傍へ駆けつけますよ」
「あら。それは嬉しいのだけれど……」
「なにか?」
「ふふっ。あなたと年の変わらない私が、母上だなんて、なんだかおかしくて。いつものことながら慣れないわ」
おしろいによって整えられた肌にはまだ少女のあどけなさが残っている。いっぱいに広げた手のひらで口元をかくす無邪気な仕草で、王妃——【Q】はくすくすと笑った。
「この国では年齢や血縁よりさきに、重きをおくべきなのが役職なのです」
「そうね。でもあなたは、まるで私たちが本当の家族であるかのように振る舞われる。私を呼ぶときも、陛下をお呼びになるときも……どうして?」
「……」
「家族を大事にしたいのね」
『家族ごっこ』——言われてしまえばたしかに、そうなのかもしれないと思った。
城下町へ出たとき、そこには家族がある。【8】より上の番号には富裕層や王宮で住まう人間が多いが、逆に【8】から下の番号を持つ人間たちにほとんど重役はなく、男女が結ばれ、子どもができればほとんどが血の繋がった家族として成立する。
「家族に……血の繋がりに憧れているのかもしれません。ときおり思うのです。僕を産んでくださった本当の母上は……どんな方でいらしたのかと」
「……そう」
凛とした銀色の眼差しが揺らぐのを、【Q】は見ていた。【Q】の声色がすこし落ちたことに気がついた【A】は、ふっと彼女に視線を戻した。
みずみずしい肌に差す、憂いの表情を、【A】はその目にした。
「……」
【A】はこのとき、思考をめぐらせていた。もっとも【K】の傍で仕えてきたのは、この【Q】という存在であることを再認識する。
【A】は一呼吸を置いたのち、【Q】にこう語りかけた。
「ときに母上。ひとつ、どうしてもお伺いしたいことがございます」
「なんでしょう。なんでもお聞きなさって」
「父上のことです」
【Q】の瞳が一瞬、瞠った。そのわずかな動きを【A】は見逃さなかった。
「僕は、知っているのです、母上」
「なにをですか」
「父上のことをです」
「ですから、なにをですか」
「父上の真実をです」
「……」
【A】は畳みかけるように言った。
「かの誇り高き父上が、あのようなことをなさったとは、僕は信じられないのです」
これは賭けだ。曖昧な言葉を巧みに繰りだして、さもなにかを知っているかのように見せかける。ある程度の確信がなければ使えない手段ではあるが、【A】にとっては一刻を争う事態だったのだ。
心優しい【Q】に対してこのような卑劣な手を講じ、【A】は、胸になにか針のようなものが刺さるのを感じた。
「知っていたのね」
こぼれた声が、ざあっと、ひときわ強い風によって花とともにさらわれた。
【A】はまっすぐ【Q】の瞳を見つめ返した。
「ねえ、エース」
「はい。母上」
「知りたい? あなたの本当の母上様のこと」
え、と【A】は思わぬ質問をされて、声がうわずった。
「あなたの母上様がどんな方でいらしたのか……。あのような悲劇が起こらなければ、いまでもあなたのお傍にいらした。そうね。母のことを知りたいと思うのは、当然だわ」
【Q】はその場から歩きだした。花壇のそばで腰をおろすと、ひとつ、花を摘んだ。
もうひとつ、もうひとつと。摘んだ花を束ねていく。
「あなたの母上様は、この庭園を大変気に入られていたそうよ。ご自分でお世話をなさって、宮殿内のいたるところに花瓶を置いて、活けられていた。メイドたちが『自分たちでやります』と言っても、譲らなかった意地っ張りな御方」
「……」
「いまのあなたに大変そっくりな、クイーン様だったと」
【Q】はくるりと振り返って、目を見開いたまま動かなくなった【A】に、摘んだばかりの小さな花束を差し出した。
「あなたを産んだ本当の母上様は、私が産まれる前、【Q】だった御方」
「……では……僕の、本当の父上様は」
「国王陛下よ」
【A】の心臓が高く跳ね上がった。
「それは大変喜ばしいことだったけれど、やむをえず黙っていたの……。でも知られてしまったのね。どれほどお辛いことでしょう。あのような悲劇が起こらなければ、前【Q】様は……」
「……」
「私も恐ろしくてたまらないの。いつか国王陛下に殺されるんじゃないかって……」
「え?」
「だってそうでしょう。前【Q】様は、いまの陛下に殺されたのだから」
花びらがひとつ、地面に落ちた。
「私も、理由まではよくわからないの。人が変わってしまったみたいに、突然、あなたを産んで間もない前【Q】様を……。毒殺だったらしいわね。前【Q】様の召使だった者も、ひとり残らずなんて……」
「……」
「【Joker】と【2】、そしてあなただけが生き残って……。いまの陛下のお姿からは想像もできないわ。でも偶然、私も陛下からお聞きしてしまったのよ。そのときに、『だれにも言うな』と、そう仰っていたのに」
「……」
——もしあの男が、本当に【K】だったとして……いまの国王陛下が【K】になりすましているというのならば、王族のだれか一人には必ず気づかれてしまう……それはリスクが高すぎる。阿呆でもそんなことはしないだろう。
「…………」
頭蓋を叩き割られたのではないかと錯覚を覚えた。
その途端。
視界のすべてをねじ曲げるような、激しい眩暈がした。
「! エース! エース、しっかりして!」
声と、青ざめた顔が、だんだん遠のいていく。
黒い海に溺れた。深い黒の海。ずっと視界の先でかすかに見える岸。ずっと頭の片隅からわずかになにかが聞こえてくる。
殺された本当の母上。
毒殺だったのだ。
頭の中にはそんな意識ばかりが渦巻いた。
毒殺だったのだ。自分の手で斬り捨てるでもなく。
(母上……どれほど無念な思いをされたでしょう)
黒い海に、溺れていく。沈んでいく。もがくこともせず、ただ従順に。
(——……父上……)
「エース」
はっ、と意識が引っ張られた。
白いばかりの天井が目の前に広がっていた。
「エース様」
ようやく自分を呼ぶ声を認識した【A】は、奇妙な仮面に顔を覗きこまれていると理解した。
「【Joker】……」
「さようでございます、英雄様。お庭を通りかかった際、偶然王妃様とお会いしまして、英雄様がお倒れになっているとお伺いしましたので、失礼ながら私がこちらまでお運びいたしました。しかし、目を覚まされたようで安心しました。あまりに長い間眠っていらしたのですよ、私もうたた寝してしまうほど」
「……」
「……ご安心を。こちらには、私と英雄様しかおりません」
あたりを見回す【A】に、【Joker】は奇妙な笑みを貼りつけてそう発言した。
「ところで、英雄様……。ひとつ、お伺いしたいことがあるのです」
「奇遇だな。僕もだ」
【A】は、白い壁に寄りかかっていた自分の剣を、鞘から引き抜いた。
奇妙な仮面の首筋に、銀の刃が添えられる。
「おやおや、これはいったい……」
「——答えろ、【Joker】」
「……」
「お前は知っていたんだな?」
切っ先は、恐れを知らない銀の色で、鋭く牙をむいた。
「僕の本当の父上が、【3】であるあの男だったと」
- Re: スペサンを殺せ ( No.6 )
- 日時: 2018/03/28 12:52
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 9UBkiEuR)
—6—(最終)
切っ先を向ける——しかし、ルールに正直な身体が、カタカタとその剣身を震わせていた。
「私を殺めることなどできませんよ、英雄様」
「質問に答えろ」
その手では掻っ切ることができないと知っていながら、【A】は、【Joker】の首筋から刃をおろすことをしなかった。
奇妙な仮面の男は、ふぅと息を吐いた。
「さようでございます。……いまの国王陛下は、【K】ではありません。どこからたどり着いてしまわれたのかはわかりかねますが、さすが聡明な英雄様。まさか見破られてしまうとは思いませんでした、ええ。さすがです。しかし」
「……」
「それを知ったところで、あなたにはどうすることもできませんよ」
「……そうだろうな」
黙っていた【A】は、口を開いた。
「国王陛下の本当の番号こそ、【3】だろうからな」
「……よくおわかりで」
「これで宮殿には、僕を殺せる人材が3人もいるわけだ。【Joker】に、【2】に、【3】……。悪知恵を働くなと言ったな。働けば、【3】に殺されると」
「ええ」
「……それで、秘密に気づいた僕を、どうするつもりだ?」
「——いままで通り、"英雄"として、この国で生きてもらいます」
【Joker】は刃を突きつけられていてもなお奇妙な笑みで、そう返した。
「そのほうが平和な国でいられるとは思いませんか?」
「……」
「あなたほどの人材を失いたくないのです。ご理解ください」
【A】はそっと、剣を下ろしテーブルの上に置いた。【Joker】は息まじりに脚を組む。
「それに、あなたも死んでしまっては困るでしょう」
「……」
「あなたのお腹の中にいるお子様のためにも」
【A】は無意識に下腹部を手で覆った。目を伏せるだけで、それ以上はお互いに口を挟むようなことをしなかった。
「さて。エース様。起きてからなにも口にされていないでしょう。天然の水をお持ちしました。どうぞお飲みになってください」
「……」
グラスには透明な水が注がれていた。からり、と音を立てて氷が崩れる。
【A】はしばらくグラスを見つめていたが、やがて、
「必要ない。毒でも入っていそうだ」
「……。そんなことはありませんよ、エース様」
「……」
「仕方がない御方ですね」
【Joker】は笑みを浮かべたまま、やれやれといったようにグラスの中の水をすこし、口に含んだ。
「ほら、なにも入っていませんよ」
「……」
「安心してお飲みくだ」
そのときだった。
「…………が……ぁ、ッ」
「……」
「え、ーす……さま……こ、これ……は……」
「僕をなんだと思っている」
【Joker】は突然、白い手袋をした手で首をおさえた。相も変わらず笑みを浮かべているのに、その仮面の裏では汗でも湧いているのではないかと思うほど、全身が震えていた。
「英雄でも、操り人形でも、ましてや【A】でもない」
「……あ、あ……っ、……」
「私は娘だ」
ベッドから起き上がる。テーブルに置かれた剣と、壁に寄りかかっている鞘とを掴みとり、窓の戸に手をかけた。
「ほかのだれでもない。父上と母上の、娘だ」
強く戸を引いた。彼女は窓から飛び出していく。遠くのほうで、ぐしゃりと、草木を踏みつける音がした。
そのとき。部屋のドアを開く音が、閑静な空間にギィと響いた。
「おーい【Joker】、いるかぁ……——、って、お、おいっ! ど、どうしたんだよ【Joker】!?」
「え、エースを……【A】を、お、追い……な、さ……」
「は? え、エース?」
「あの……あの、女は……国王、陛下を……」
「……」
「陛下を……殺しに、」
首が、ころんと倒れた。笑みを湛えたまま彼は息絶えた。
【Joker】の亡骸を抱える【2】の表情が、だんだんと驚愕に変わっていく。
「は……? なんだよ、それ……おい【Joker】! どうしたってんだよ! おい!」
「……」
「全部バレちまったっていうのか……!? オレたちの計画が! あの女を利用し続ける計画が! なんだっつうんだよ! どうしろっつうんだよ! おい、おいッ!!」
力任せにドアを蹴破って、【2】は駆けだした。静まり返る、ただ広いだけの廊下に、怒号と足音が響き渡る。
「おい! だれか聞こえるかッ! 返事をしろ! 謀反だ……【A】が謀反を起こすぞ!! 国王陛下をお守りしろ!! オレがあいつを殺してやる!! だから陛下を守れ!! ——だれか、返事をしろッ!!」
バルコニーの柵にしわがれた手をついて、彼は地上で溢れかえる国民に手を振っていた。
敬愛に満ちたまなざしを浴びる彼の目には、矢尻など、見えるはずもなかった。
屋根の上から、彼女は矢を引き絞った。
「父上」
凛とした銀の瞳だった。
敬愛に焦がれた眼差しで、彼女は矢羽から手を離した。
END
- Re: スペサンを殺せ 【完結】 *エピローグ ( No.7 )
- 日時: 2019/03/16 14:04
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: gOBbXtG8)
- 参照: *エピローグ
「──革命だ。この国に革命を起こす」
* * *
鬱蒼と木々が生い茂る山奥に、女とその子どもが2人で暮らしていた。下手をしたら獣が襲ってくるようなこんな場所には、まったくと言っていいほど人が寄りつかない。しかし2人にとってそれは都合がよかった。
子どもは、文字通りここで生まれ育った。辺鄙な土地であるがゆえの不便さが付きまとってはいたが、女は狩りの道具を扱うのが大層上手く、獣なんかはすぐに捕らえられた。無論、子どもにもその技を教えた。女が物知りというのもあって、食べ物には困らなかった。
周りには、同年代の友だちはおろか人間もいない。言葉を教えてくれたのは母である女だった。女が自分のことを母と呼ばせなかったために、子どもは母という言葉を知らずに育った。
ただ、その日がくるまでずっと面倒を見てくれて、愛されていたことだけは、しっかりと記憶にあった。
ある日のことだった。山奥に2人以外の人間がやってきた。それも複数だった。人間たちによっては女は手足を乱暴に掴まれ、髪を引っ張られ、「裏切者!」と幾度も罵声を浴びせられ、引きずるようにどこかへ連れていかれたのだった。
子どもは薄汚いテントの中で、息を潜めていた。小さな両手で口を塞いで、決して声を出さないようにした。それが女から言いつけられたことだった。あっという間に女の姿がなくなり、子どもは恐怖した。
おいていかないで。
ぼくもつれていって。
子どもはよたよたと歩きだして、女と人間たちの後を追った。
目の前を覆い尽くしている人の波が、ざわざわと、落ち着きのない様子でこの喧騒を作り出していた。
町の人々は一心不乱になにかを見つめている。足の爪先を立てたり、前に立つ人間の肩に手を置いて首を伸ばしてみたりと、様々だった。
人々の視線の先にはいったいなにがあるのだろうか。果てしない人だかりの最後列にいる少年は、そのなにかを見ようとその場でぴょんぴょんはねていた。
「見ろよ、こんなところにガキがいるぞ」
「おい坊主。ここはおめえさんが来ていいとこじゃねえよ。さっさとうちに帰って、かーちゃんに寝かしつけてもらいな」
「かーちゃん?」
少年は首を傾げて問い返した。その瞳があまりにも無垢なもので、男たちはどっと笑った。
「かーちゃんだよ。ママっていやあわかるか? ん?」
「わかんない。ままってなあに」
「こりゃ驚いた。もしかしてとーちゃんに育ててもらったんか?」
「……」
「まあ、んなことはいいだろ。坊主、悪いこたあ言わねえからいますぐ帰んな。いまからな、あの台の上ですごくこわぁいことが始まるんだよ」
「こわぁい、こと?」
「そうだよ。子どもは見ちゃいけねえもんだ」
「人が死ぬんだよ」
少年がびくっと身震いをしたのは、人が死ぬ、というその文字並びを耳にしたからではなく、男たちの声色が一段と低くなったからだった。
「悪いことをしたやつがいたんだ。その女をこらしめるのさ」
これでわかったか? と男が付け加えた。少年はなおもわからないといったように口を噤んだ。
──そのとき。わあっ、という甲高い歓声が、波を伝って少年に降りかかった。
「きたぞ!」
隣にいた男たちは目の色を変えた。もはや少年のことなど眼中になく、待ってましたと言わんばかりの嬉々とした表情だった。
少年も波の流れに身を任せて、人だかりの先にあるものを見た。
「殺せー!」
「裏切者が!」
「国の恥じめ! 死んじまえッ!」
町の人々は好き放題に罵声を投げていた。実際に鍋や棒切れなんかを投げる者もいた。少年はなぜだか心が落ち着かなくて、隣にいる男の服の袖を引っ張った。
「ねえ、なに。なにをやってるの?」
「だから、こらしめてるんだよ。悪いやつを」
「わるいやつ?」
「エースって名前の女さ」
鳴り止まない奇声、嘆き、罵声、そんな喧騒の中でその名前は飛び交っていた。
「国王様を返せー! エース!」
「この人殺しが! なにが英雄だよ!」
「男なんて嘘つきやがって!」
「殺せ!」
──「殺せ」「殺せ」と。だんだんと、町の人々の声が重なっていった。
「エースはわるいひとじゃないよ」
──「殺せ」「殺せ」「殺せ」。声が大きくなっていく。殺意が膨らんでいく。
「エースは、ぼくをそだててくれた、ひとだ」
少年は喧騒の中へ飛びこんだ。狂ったように声を、腕を、高く掲げる人々の足元を上手にすり抜けて、ぐんぐん前へ進む。
母の意味は知らなかった。だから、少年には母というものがわからない。だけれど、
エースのことはよく知っていた。
少年はもみくちゃにされながらもなんとか前列のほうまで食いこんだ。台の上が見えた。項垂れる銀の頭から、血が不規則に滴り落ちていた。そのずっと真上で、大鎌の刃がギラギラと光っている。いまにもその白くて細い首を掻っ切らんと牙を剥いている。だのに、銀の女はぴくりとも動かずにただじっとしていた。それもそのはず、女を挟むようにして突っ立っている2本の木からは鎖が伸び、手足の自由を奪っていた。がくりと折った膝元に血溜まりができているのをまるで嘲笑うかのように、町の人々の顔はこれ以上にない狂気に満ちていた。
少年はあの髪色をよく知っている。物心ついたときからそこにいた。
──私のことはエースと呼べ。いいね。エースだ。ほら、言ってごらん。
とても心地のいい声だった。その声を聴くと、ふしぎと安心できた。
──おまえは私に似て、弓が上手だな。……いや、祖父に似て、か。
ずっといっしょにいられると思っていた。
──もし、
大鎌の刃は無慈悲にも落下した。
『もし私がいなくなってもぜったいに泣くな。そしてだれも殺すな。いいね、』
「ケイ」
そう言って撫でてくれた自分の髪も、この人とおなじ銀の色だとは知らなかった。
「エース」──はち切れそうなくらい喉を開いてそう叫んだのに、
歓声に潰されてしまった。きっと届かなかっただろう。声が出なかった。周囲の声があまりにもうるさくて、自分の声さえ聞こえなかっただけかもしれないけれど。
届かなかった。
野次馬がぱらぱらと散っていく中、ケイだけは断頭台の前でぽつりと立ち尽くしていた。
最後列から歩いてきたらしいさっきの男たちが、ふたたび彼に絡んだ。
「おい坊主、いつまでもガキが見るもんじゃねえって」
「ぼうずじゃない」
男はぎょっとした。その声が子どもにしては低くて、ひどく落ち着いていたからだ。
「I am the King.(私は王だ)」
──母に教えてもらったそれはまるで、おまじないだ。
母の姿をその銀の瞳にしかと焼きつけた彼は、静かに泣いていた。
革命だ。この国に革命を起こす。少年、ケイはこのとき、そう強く心に誓った。そして十数年という時ののち、「キング」という役職を明かした彼によって国政は大きく動いた。役職制度の廃止を謳った彼に対し、反骨心を抱いた者たちが団体となって反対運動を開始したが、彼自身が弓をとり圧倒的な支配力で弾圧した。そして、国民一人一人に番号ではなく「名前」をつけ与えるという制度が導入されたのだ。人間は等しくあるべきだ。生まれながらにして運命が定まっているなどおかしいという彼の提言が、多くの国民たちの心を動かした。ルールとも呼ばれる「呪い」の解読については殺傷犯罪が減るとして現在は見送られつつあるが、聡明な王たる彼がいつか、謎解きのように真実を明かすことだろうと国民たちは信じてやまなかった。
そうしていまでは、世界中で役職制度が廃止されつつある──。
END
小説投稿掲示板
イラスト投稿掲示板
総合掲示板
その他掲示板
過去ログ倉庫