複雑・ファジー小説
- Re: 狼男とユウとウツ ( No.1 )
- 日時: 2018/03/26 17:46
- 名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: aVnYacR3)
〆1
コイントス。指で弾いた銅の硬貨が、くるくると宙に跳び上がり、手の甲へと落ちる。左手の甲に当たった十円玉を落とさないように、そして外から見えないように右手で押さえつけて。黒髪の少年は目の前の二人に対してそれが表か裏、どちらであるかを尋ねた。
間髪を入れずに、彼から見て右に立つ少女が答えた。
「じゃあ、私は表。でっかい建物の絵の方」
「なら俺は裏だな。数字書いてる方だ」
間髪を入れずにもう一人、左側に立つ少年も答えた。
その二人の声はどちらもはきはきしていたが、昼休みの教室、その喧騒には簡単に飲み込まれた。周囲の者は、三人の会話など気にも留めていない。それと同様に、彼ら自身も周囲の声なんて何一つ聞いちゃいなかった。真面目に聞き入れば、昨日のテレビ番組、今日発売のCDなど、意義のある話をしているのだろう。しかし、耳に入ってくる音は、がやがやと表現するのが一番早いような意味の無い音の集合体。
こんなに五月蠅いのによくこいつらの声は聞き分けられるもんだと、コインの冷たい質感を肌に感じたまま少年は、昔テレビで見た知識を思い出した。カクテルパーティー効果、五月蠅い人ごみの中で、自分にとって必要な音声だけを切り取る人間の脳の情報選別能力。
一人一人名前があって、個性があって。代わりなんていないクラスメイト達が、途端に溶け合い混ざり合ってただの背景となる。成績優秀な彼も、品行方正な彼女も、綺麗になった黒板も埃の溜まった窓の冊子も、何一つ差別されることなく、騒がしい教室の風景、その部品に成り下がる。全部が無くなれば機能しないが、一つ二つ無くなってもそれは教室として機能しそうなほど、個々の存在意義など失われている。
そんなどうでもいい雑踏に紛れることなく、一人の少年と一人の少女はその個性を失うことなく少年の前に立っていた。その目は揃って黒髪の少年、卯月 広助(うつき こうすけ)の重ねた両手に注がれていた。焦らす意味も無く、時間を無駄にするのも申し訳ないなと、卯月は右手を持ち上げて、左手に乗った十円玉を露わにさせた。見えていたのは裏面、製造された年とその硬貨の額が刻まれている面である。
向かって左側に立つ、背の高い少年が大きくガッツポーズで喜んだ。握りしめた拳をかざし、もう一人の少女に見せつけるように勝利宣言する。全体的にその頭髪は茶に染められていたが、下から伸びてきた根元の方の髪はと言うと、生まれついての黒だった。顔をくしゃっとさせて笑うのが特徴的で、笑うたびに、細めた目の奥に藍色の瞳が隠れた。細身ではあるが大柄で、明るく染めた髪とも相まって、初見では怖い印象を与えがちだが、その実臆病で、心許したものへは甘えたがる少年。彼の名前は、大神 錬也(おおがみ れんや)と言った。
長袖のカッターシャツの下にはお気に入りのバンドのロゴが入ったTシャツを着ており、その白い袖を折って七分丈のようにしている。そのバンドには親近感が湧くのだろうか。『MAN WITH A MISSION』、そう読める。
「うっそー、また負けかー」
がっくりと肩を落とす所作に合わせて、少女の髪が静かに揺れた。肩甲骨の辺りまで伸ばした綺麗な黒髪を、赤いシュシュを使って後頭の高い位置で一つに結っている。前髪もそれなりに伸ばしており、視界の邪魔にならないよう、真っ白な花の飾りがついた髪留めで止められていた。シュシュは大神、髪留めは卯月から昨年の誕生日に贈られたものだ。真っ黒な瞳が落ち込むように木のタイルが並んだ床に向けられる。
結城 鈴奈(ゆうき すずな)。「あれ」とのハーフなだけあって、今日も相変わらずだなと卯月は感嘆した。その明眸は絵画のようで、気が付けば人々の目を引いてしまう程に麗しく。仲のいい友人と話している真っ最中の人々こそその目に惹かれることはないが、手持ち無沙汰に昼食をとる幾人かは、ちらちらと様子を窺うように鈴奈の方を見ていた。それはまるで、夜の明かりが虫を誘き寄せるようで。
誘き寄せた視線を絡めとりでもしたいのか睫毛は長く、そして眉は細かった。二重の瞼は、去ろうとする足をつまずかせる段差のようで、やはり気づいた途端にその目を見つめなおさなければならない気持ちになる。
膝までのスカートの下には、黒いタイツを履いた足がすらりと伸びている。その細い脚も顔貌同様にとても美しく、セーラー服の袖から伸びる腕は、真っ白な肌と合わせて白馬のように感じられた。背はそれほど高い訳でなく、平均的な男子程度しかない卯月の鼻先にようやく頭のてっぺんが届くか届かないかといったところだ。
しかし、彼にとっては彼女の整った容姿はむしろ好ましくなかった。すれ違う人々の視線を集めるその姿に、彼女の血の底に眠る本質を見た気がしてうんざりしてならない。彼女は大切な友人だと言うに、どうにも苦い記憶が蘇る。首に打たれた古傷が痛む。それを誤魔化すように、早く行こうと財布を手に取った。
「早くしないとパン売り切れちゃうからな。ほら、ユウも用意して」
「はーい。って、ちょっと待ってよー、ウツ」
彼女の制止を背に受け、振り返らずに足を止める。じゃあ携帯でも見て待つかとロックを外してみた。今日も青いアイコンのアプリの中では、よく話す友人から名前しか知らぬ同学年の生徒まで、様々な者の発言が囀られている。それは眠たいとか、疲れたとか、何だかこちらの士気まで下げるようなものから、来月の文化祭は絶対に成功させてやるぞと意気込む明るいものまで。後者に関しては、意図的に仲間意識を高めるような言葉を言わねばならぬという強迫観念のようなものが伺え知れたが、それについては卯月もよく知るところである。何せ自分とて自クラスの代表、委員長である。結束を促すようなチープな言葉も、時には必要だろう。
その、仲間意識を見せつけるための言葉を発しているようなアカウントの主は、隣のクラスのムードメーカーだった。昨年、つまり一年次は同じクラスに所属していたが、学年が上がる際に分かれてしまった。根は心底いいやつだったな、ちょっと芝居がかっているだけで。今や交流もほとんど失った彼の事を、卯月はそう評価した。
そう言えば、もうすぐ文化祭か。
「よし、じゃあいこっか、ウツ」
鞄からピンクの財布を取り出した鈴奈が後ろから卯月の肩を叩いた。大神はというと悠々自適に椅子に座り、よろしくなと手を振っている。笑いを絶やした彼の目は、まるで番犬のように鋭い。本人にそのつもりはないのだが、初対面で緊張し、表情を失ってしまった時には、その相手を威圧しているように映るらしい。せめてその茶髪はやめた方が打ち解けやすいのではないかと、大神に対し卯月はかつて提案したが、彼は断固として断った。
全く、罪作りな女だよなと、彼は隣に歩く彼女を見た。大神が、シュシュを贈った相手。自分一人贈り物を渡すのは気恥ずかしいから、卯月にも何か渡すようにと頼んできた日の事を思い返す。忘れもしない、半年とちょっと前のバレンタイン。普段仲良くしてくれているお礼だと、鈴奈がお菓子を渡すと同時に、髪留めをプレゼントした。ありがとうって、はにかむ姿は、いつもと一緒で綺麗だったけれど、その時だけは彼女の整ったその外見を、可愛らしいと思うことができた。
けれども、その一瞬を除き、その後も一切彼女のことを美しいとは思っても、異性として魅力的だと感じることはできなかった。大神とは、違って。だからこそこうやって二人が仲良くしていても、卯月の本心を知っているがために大神は目くじらを立てることは無い。鈴奈も、卯月以外には大神以上に仲のいい男子などいなかった。
そんな彼女は、あるアイドルグループのリーダーの男が好みだと言った。そのグループはつい先日十周年を迎えたグループで、世間的には五本の指には入れども、決して人気で一位には立てないようなものだった。それでも自分が好きなのだから構わないと、彼女は言う。そしてその男こそが髪を明るく染めており、真似するように大神も染髪した。背格好が似ていることもあって、鈴奈が似ていると喜んだ以上、大神がそれをやめないのも至極当然と言えた。
「あ、そうだユウ! いつものやつでよろしく!」
両耳にイヤフォンをさし込んで、音楽を再生すると同時に大神は大きめの声で呼びかけた。ちょっと距離は開いていたが、無事に鈴奈の耳にまで声は届く。分かってるよと、その声に負けじと鈴のような綺麗な音(ね)で言葉を返した。
鈴奈の苗字がゆうきだから、あだ名はユウ。うつきだから、彼はウツ。簡単なあだ名だった。大神も何かあだ名が欲しいと思った二人は、同じように苗字から一部を取り、その高い背格好からオーガとでも呼ぼうかと思ったが、気の弱い大神はそう呼ばれることを拒んだ。そのため二人は下の名前から二文字とって、彼の事をレンと呼ぶ。
「いつものって、焼きそばパンとメロンパンだっけ」
「ついでに自販機の紅茶花伝。しめて三百六十六円」
「さっすがウツ。頼れる委員長さんだ」
軽口をまずたたいた鈴奈だったが、急に真面目な面持ちで卯月に問いかける。そう言えばと前置いて、鈴奈が負けても大神が負けても、卯月は毎日一緒に購買部へと付き合ってくれることを確認した。
「ま、そういう役回りなんだよ」
「貧乏くじひいてもいいことなんてないよ」
「情けは人のためならずだよ」
「かといってウツのためになってるとも思えないけど」
それは痛いところを突かれたと、卯月は銃で撃ち抜かれたかのように胸元を押さえた。大げさだなあと、ユウはからからと笑って見せた。その声に導かれるように、また四つ六つと言う目が彼女の所に集まって。
溜め息を吐くこともできず、ただ目線を彼女とは反対側に逸らすことしか彼にはできなかった。いくつもの足音が重なり合い、白い天井と深緑の床、そしてベージュの壁紙と教室の壁とに覆われた廊下の中を反響する。教室よりもずっと多くの話し声が折り重なり、塗りつぶし合うような喧騒。今日も購買の人は忙しそうだなんて呟いて、二人は声のする方へと向かっていった。