複雑・ファジー小説

Re: 【死本静樹ノ素敵ナ死ニ方】 ( No.8 )
日時: 2018/12/20 20:33
名前: Viridis ◆vcRbhehpKE (ID: cl9811yw)




けふはぼくのたましひは疾み
烏からすさへ正視ができない
 あいつはちやうどいまごろから
 つめたい青銅ブロンヅの病室で
 透明薔薇ばらの火に燃される
ほんたうに けれども妹よ
けふはぼくもあんまりひどいから
やなぎの花もとらない

──宮沢賢治『恋と病熱』より



#壱ノ肆



 あの日から私はなんとなく死本さんの部屋へ行っていない。

 代わりに生田目君と過ごす時間が増えていた。話す事は主に小説の話だ。昔から虚弱だった彼は、文章が友達の代わりだった。その為か、彼の紡ぐ文章には宮沢賢治のような匂いが感じられる。
 それを本人に告げた所、彼は本当に珍しく頬をほんのりと染めてはにかんでいた。彼も宮沢賢治が好きで憧れているからだ。詩の『雨ニモ負ケズ』が特に好きらしい。

「賢治の詩は、素朴でしなやかな強さを感じるんだ」



 そう言いながら彼の視線は机に落とされていた。斜陽が原稿用紙を仄かなオレンジに照らしており、ペンの影は数刻前より伸びているようだ。

「あー……分かる。でも『春と修羅』なんかは激しいような気がするよ」
「うん。そう、そうなんだ。『雨ニモ負ケズ』だけ読めば、とても素朴で鋭い感性と、ひとつ世俗よりも先にある、良い意味での自尊心……みたいなのを感じる。けれど『春と修羅』みたいに他の作品も併せて読んだ時、賢治の芯には確かな強さが秘められているって分かるんだ」

 普段の彼とは乖離した、矢継ぎ早な彼の口調に苦笑する。

「まるでイーハトーブの大自然みたいに?」

 それからわざと私がそう返すと、生田目君はきょとんと呆気に取られた。それからにやりと笑って目を細めながら、楽し気に声を弾ませる。

「そう、そうなんだよ」

 こうやって好きな作家や作品の話をしたり、頭を突き合わせて小説を書いたり。私がよく生田目君と行動を共にするようになったせいか、彼に対するイジメもある程度なりを潜めてきたようだった。
 何より生田目君が笑顔を見せてくれるようになった。これが大きいと思う。

「ディキンソンって分かるかな」
「エミリー・ディッキンソンの事?」
「よく知ってるね、さすが歌方さん。賢治とディキンソンって少し似てる気がして……」

 楽し気に創作論を語る彼はとても生き生きしている。イジメを見過ごしているよりも、私の精神衛生的にも、こっちの方がずっと良い。だから今日も私たちは、日が暮れるまで教室で語り明かした。
 学校を出てから真っ直ぐ行って、公園前のT字路まで私たちは同じ道だ。並んで自転車を手で転がしながら歩いていき「じゃあ、また明日ね」と言おうとしたところで生田目君の足は止まる。

「どうかしたの?」

 彼は外灯の下で俯いたままだ。表情は影になっていて読み取れない。その姿は思い詰めているようにも、何かを躊躇っているようにも見えた。
 まるでこれから底の見えない、暗い穴に飛び込もうとしている人のようだ。

「……生田目君?」
「あの、歌方さん!」

 やがて意を決したように私を向くと、彼は口をきゅっと真一文字に結ぶ。必死で切実な表情だった。何か真面目な話だろうと察して、私も無言のまま彼に向き合う。嫌な予感はしていた。
 生田目君は私に悟られないよう呼吸を整えているらしい。少し長めの沈黙を挟んでから本題を切り出す。

「……——好きな人とかいるの?」
「うん。いるよ?」

 いよいよ恐れていた瞬間が訪れた。
 私はそんな事を考えながら、私もまた悟られないように、わざとあっけらかんとした様子を装い答える。まるでそれが何でもない事のように。
 すると生田目君の表情からも温度が消えた。緩やかに微笑んでいる。けれど世間話するときの自然な笑顔を、自分で故意に貼り付けようとしている、そんな無機質さがあった。

「そうなんだ。同じ学校の人?」
「うん。だけど今は入院しているから滅多に学校へ来ないけどね」

 ダメ押しだった。私が恋愛として好きなのは生田目君じゃないよ、と言外に、決定的に伝えたつもりだ。生田目君は頭が良いから、きっと今ので伝わっただろう。好きな人はいる。そしてそれは君じゃない、と。
 彼は緩やかな笑みを崩さない。けれど視線だけを私から背けていた。
 私は生田目君の自尊心を傷つけない為に、まるで生田目君の気持ちに気付いていない風を装う。彼も自分を守りたいから、何でもない風を装っていた。
 だから「どうしてそんな事を訊くの?」とは──私からは聞かなかった。

「そっか……病気なの?」
「うん。もう長い事病院にいる」
「ごめん、なんか悪い事聞いちゃったかな」
「え? あ、ううん。全然大したのじゃないから、気にしないでいいよ!」

 なんて他愛ない言葉を交わしながら、私たちはゆっくりと、その場から逃げ出したいとでも言った風に踵を返し始める。

「彼氏さん早く治ると良いね」
「……うん」

 生田目君の探りを入れる一言に、私はあえて否定せず、それだけ返した。お互い「じゃあ、また明日」と短く素っ気ない挨拶と、小さく手を振って別れる。自転車を漕ぐ彼の後姿は、いつもより余裕がないように見えた。
 こうなる事を予想していなかった訳じゃない。イジメられていて、でも1人の異性だけは優しくて、趣味も合って。そんな状況に置かれたら、きっと相手が私じゃなくたって好きになる。
 ただ「彼氏が居ない」という嘘なんて意味がないし、打ち明けるなら早めの方がよかった。なのでこれはこれで良い。ただ趣味を共有できる友達がいれば、生田目君の支えになると思った。生田目君が自分の凄さに気付いてくれれば、後は自分で前を向けるんじゃないかと考えた。
 この時まで、そんな自分の考え方が間違っていたとは思わないけれど──後になって私は私の軽率さを呪う事になる。

 もちろん1週間後に私のクラスから死者が出るとは、この時誰も想像していなかった。