複雑・ファジー小説
- Re: 灰被れのペナルティ ( No.1 )
- 日時: 2018/04/07 00:16
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: mj0ze2CG)
—1—
『それ』は、突然日の目を浴びた。
はっきりとした発生日時は確認されていない。ただ春のことだった。テレビ画面に、広大な海面から天を衝くような巨大な建造物が映りこんだのは。なにを模しているのかも、なにを象徴としているかも、確実な判断は下されていない。ただ、『それ』は、たしかに大海原の中に夥しく聳え立っていた。
私が初めて『それ』を見たとき、私はいまみたいに朝食のパンをかじっていた。
バターだけを塗った薄切りのパンをかじったところから、危うく落としそうになったのを覚えている。いくらかチャンネルを回してみたけれど、ほとんどの番組がこの話題で持ち切りだった。そんな中で唯一、ちがう話題だったといえば、
『次のニュースです。昨夜、また新たに被害者が出ました。昨夜18時頃、東京都にお住まいの××さんが自宅から塾へ向かったまま、まだ自宅のほうに戻られていないとの報告が入りました。塾の関係者並びに、××さんと親しい友人にも、原因はまったくわからないとのことです』
『塾へ行ったっきり、まだ……帰ってこなくて。どうしよう。なんで、あの子に限って………』
『べつにいじめられてるとかもなかったし、あの子すごいいい子だし……。無事でいてほしいです』
『やはり、あの謎の建造物が原因なんでしょうか』
『あの建造物と、こうして相次ぐ失踪被害を関連づけるというのはとても難しいことだと思いますけどね……でも実際には、あの建造物が出てきてからですからね。この事件が相次ぐようになったのは』
『そうですね。警察は、引き続き調査を進めていく模様です』
物騒な事件の報道だ。また今朝も似たようなニュースをやっているなあと思いながら、私はひとくちパンをかじった。
「あんた、今日始業式じゃなかった? そんなのんびりしてていいの?」
「始業式明日になった。うちの学校からも被害者が出たとかで」
「ああ、そうなの。じゃあなんで制服着てるの」
「さっき連絡が来たの。メールで」
「そう」
「ねえお母さん。あの建造物の仕業なのかな。失踪事件って」
「なにそれ」
「あの建造物に人が吸い込まれてるんじゃないかなって。ニュースの人も言ってるよ、関係してるんじゃないかって」
「ばかなこと言わないでよ。建物が人を吸い込むって? 掃除機じゃあるまいし」
「んー」
パンの耳の角のところをひとかけら残して、私はイスから立ち上がった。
「ごちそうさま」
「そういやあんた、もう行く大学決めたの? この間、あんたの部屋に志望調査みたいな紙があったけど」
「んー。まだだよ」
「まったくあんたは。そういうのははやく決めなさいよ? まわりの子はもうみんな決めてるでしょう」
「まだの子もいるよ。友だちにはけっこう」
「そんなこと言って、焦りだしてからじゃ遅いのよ。あんたいつも動き出すの遅いんだから」
我が家は、世間を騒がせている事件なんて関係ないみたいに、いつも通りだ。
私はシンクの中の食器の山に、自分の分を適当に置いた。ガラスの擦れるいやな音がして、そのまま置き去りにする。
「いまからどこか行くの? 学校もないのに」
「本屋とか、ぶらっと」
「またマンガ? そのへんに積み上げないで、ちゃんと片付けてね」
「ん」
「遅くならないでね」
ジャー、という水の勢いと食器が擦れ合ういやな音にまぎれて、そんな声が飛んできた。
汚れた食器を洗う母の姿は見えなかったけれど、私はおそらく母がいるであろう方向に声を返した。
「うん」
私は家を出た。
将来の夢がはっきりしている友だちの中には、女優やアナウンサーになりたいなんていう子もいた。
私は、その生き生きとした感じがいやだった。反感を持っているわけじゃない。むしろ心の中ではそれをすごいと思っていて、私にはとても抱けない夢だなと自覚があるからだ。
趣味は音楽鑑賞。マンガを読むのは好き。すこしだけだけど、一応小説も読む。
部活は友だちに誘われて、高校から文芸部に入った。活動時間の間、ずっと本を読んだり詩を書いたり、ネットサーフィンしたりするだけのゆるい部活だった。
でも二年生に上がったとき、強制的に委員会に入らなければいけなかったので、しかたなく球技大会の実行委員を選んだ。一年の間で活動する期間も短いだろうと思った。でもまさか、球技大会の当日に審判係をするから競技に参加ができないなんて知らなかった。運動は得意なほうではなかったけれど、クラスの子といっしょに競技をやりたかった、なんて心のどこかで思ってたと思う。
明日から正式に高校三年生になる私には、もう部活や委員会なんていうものが日常にない。
その代わりこれから進路を決めなくちゃいけないんだけれども。
(私、なにがやりたいのかな)
身内とのたわいない会話に、将来の夢についての話題が出るといつも口を閉じていた。明確なビジョンのない私にはまるで、発言の権利がないみたいだった。
はやくやりたいことを決めたいな——ぼんやりとそんなことを思ったときには、駅の近くまで来ていた。
お目当ての本屋はもうすぐだ。
(やっぱり、マンガを買おう。おすすめされた長編のやつ。でも大人買いしたらまた片付けがどうのってうるさいしなあ……いや、でももし内容がおもしろかったら、ぜったい続き読みたくなっちゃうし。また外出るのもめんどうだし……)
でももしおもしろくなかったら。返品できるかな。きっと買ったとき払う金額よりもすくない金額で売ることになるだろう。
おもしろい内容でありますように。天に祈りを捧げながら、ガラスの自動ドアを開けた。
「え?」
そこは。
神話、みたいに煌々と光が降り注ぐ、どこまでも幻想的な場所だった。