複雑・ファジー小説

Re: 夜明けのファルズフ ( No.3 )
日時: 2018/05/03 03:01
名前: ヨモツカミ (ID: NAPnyItZ)

3

 元いた場所に戻る道中、私の脳内で何度も再生される彼女の歌を、自分でも口ずさんでみる。あの旋律を、意味も知らない歌詞を、思い出しながら恐る恐る音にしてみた。外れた音程と綺麗とは言い難い歌声が耳を掠めて、思わず笑ってしまう。彼女のように上手くはいかない。当然と言えば当然だが、少し悔しく思う。同時に、彼女への羨望と憧憬が募る。
 また聴きたいなあ。そう、独りごちて空の下に戻ってきた。

 起きたときよりも少しだけ高い位置に登ってきた太陽が、いつの間にか出てきた雲の輪郭を、金色に染め上げていた。黄金の空と透明感の強い水色の境目に、見惚れてしまう。

「綺麗だよね」

 唐突に耳に入り込んできたその声に、私は大袈裟に肩を跳ねさせた。
 弾かれたように振り返って、その姿を目にする。
 灰白色の髪に、膝下まである漆黒のローブの若い男が、柔らかく微笑んでいた。結構な長髪らしく、後ろで一つに結んだその毛が風に煽られて緩やかに揺れている。眠たそうだけど優しげな目元を見て、どうして私は懐かしいと思ったのか。
 彼は靴音を鳴らしながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。一瞬警戒したものの、彼をあまり脅威だとは感じられず、黙ってその様子を見守った。
 すぐ側までくると、目線がほとんど変わらないので、あまり背の高くない男なのだとわかった。彼は絶えず笑みを浮かべており、何処となく嬉しそうに見える。

「君は、誰だ」
「僕の名前?」

 聞かれると思っていなかったのか、男はきょとんとして、一瞬固まった。

「えと、僕はノワゼット。ノワゼットっていうんだ。……君の名前も、教えてよ」

 私も聞かれると思っていなかったから、きょとんとして、一瞬固まる。
 名前。そういえば、私の名前とは、なんであろうか。

「私は誰だ?」
「それは僕が聞いてるんだけどな」

 男は苦笑する。私は顎に手を当てて思考する。が。

「……私も知らない」

 そういえばあの蛇頭のバケモノも歌を歌う花も、名乗りはしなかったし、名前を訊ねてこなかった。一応“ファンタズマ”という呼び方を聞きはしたが、それくらいである。
 ノワゼットと名乗った男が困ったように笑っていたが、しばらくすると、ぽん、と手を合わせて発言する。

「名前を付けてあげようか?」
「私の名前を……君がか?」

 困惑する私を他所に、ノワゼットは一人で嬉しそうに笑って言う。

「では、考えてくるとしよう。次合うときまでにね」
「次……。そういえば君は──」

 何も考えずに話していたが、彼には違和感があった。今までに出会った二人がおかしかったから、逆に彼が異端に見えるのだ。人間の頭部と人間の胴体と人間の手足を持つ彼は、この場に置いては奇妙な存在だった。
 だって、彼はただの人間にしか見えないのだ。

「人間……?」

 いぶかしむような視線を向ける私に対して、ノワゼットは首を傾げてみせる。

「そうだけど」

 即答。しかも軽い返事。

「ノワゼット……君は私を見て驚かなかったな。それどころか、自然に話しかけてきた。なんだ、この遺跡の外には私のようなのが何処にでもいるのか?」

 疑問をぶつけると、ノワゼットはけらけらと愉快そうに笑って答えた。

「そんな事はないよ。最初君を見たときはちょっと驚いた。でも、君の視線の先にあったのは、金色に輝く雲と青空だったから。同じだなって思って」

 ノワゼットは天を仰いで、眩しそうに目を細める。私も彼を真似て、空を見上げた。

「空。綺麗だよね」
「ああ。そうだな」

 眩しいけれど、陽の光は暖かく心地良い。なんてことのない早朝の空だ、と言われれば確かにそれだけのことだが、それにどうも目を奪われてしまう。ノワゼットもそうらしい。
 何故だろうな。そう声をかけると、さあね、と短い返事が返ってくるだけだった。

「ファンタズマって、初めて見た。話に聞くファンタズマは醜悪な容姿をしていたり、何処か神秘的な見た目をしていたり……でも、君はそういう感じじゃなかった」

 そう言って笑うノワゼットの視線は妙に温かい。ほぼ初対面の私に対しては不自然な気もする。
 一瞬、唇を噛み締めて、泣きだしてしまいそうな目をしていた気がしたが、顔を逸らされてしまった。

「どうかしたのか」
「いーや。なんでもないよ」

 それなら、どうしてその声は震えている。




 そのあと、ノワゼットは私の知らないことを沢山教えてくれた。
 この遺跡は神の門という意味の言葉“バベル”と呼ばれている場所らしい。万物の魂が帰るところであり、淀みと闇が溜まる場所。そうして、生物の特徴を持ちながら、生物とは似ても似つかない異形のバケモノが、“ファンタズマ”が生まれる。そういう場所だと言う。
 話を聞いても私にははっきりとは理解できなかったが、それでもノワゼットは続けた。
 ファンタズマは皆、何か理由を持って生まれるのだという。それが何であるかは誰にもわからないが、それを果たしたとき、ファンタズマは消失する。昨日、蛇頭の奴が消えたのもそういうことだったのだろう。しかし、彼の生まれた理由は何だったのだろう。

「でさ、君の生まれた理由は何?」
「誰も知らないのだと、君が言ったんだろう? そんなの、私が知りたいよ」

 ノワゼットは、まあそうだよねーと気の抜けた声で言う。
 それから彼は笑顔を崩して、何か考え込むように視線を落とした。その横顔をなんとなく見つめて、彼の瞳が今朝方目にした淡いオレンジの空と同じ色をしていたことに気付く。ぼんやりと見つめ続けていると、顔を上げたノワゼットと視線がばっちり合ってしまって、思わず目を逸らした。

「もしも。もしも、君が良ければ……」

 ノワゼットが言いづらそうに口を開く。私はその続きを聞こうと耳を傾けるが、彼は口を閉ざしたまま。曖昧な笑顔を浮かべて、黙り込んでしまった。

「いいや。また今度話すよ……」
「お前、また来るのか? こんなところに」
「勿論さ。僕は君に用があったんだから」
「…………」

 なのに、その用件は話してくれないらしい。

「今回は、とりあえず君に会えたから。それだけでよかったよ」

 ノワゼットは微笑んでそう言う。実によく笑う男だ。何がそんなに楽しいのだろうか。
 それじゃあね、と言って、ノワゼットは遺跡──確か、バベルと呼ばれていたのだったか。バベルの外側を囲む森の方へと歩き出した。

「ノワゼット」

 呼び止めると、彼が緩慢な動きで振り返る。灰白色の毛が揺れる。
 本当は、もう少しここに居てくれ、と言いたかった。けれど、こんなところに引き止めたって迷惑だろう。きっとそうだ。

「絶対に、来い。待っているからな」

 ノワゼットは勿論さ、と笑った。
 それからふと思い出して、私は付け加える。

「夜明けだ。今の時間より、少し早めに来い」

 月の光を放つ、消え入りそうな白の花弁と、深海色の茎と透明のヒレ。孤独を嘆くように切なく、美しく歌う彼女の姿を、こいつにも見せてやりたいと思った。

「善処する」

 そう、彼は答えた。断言はしない、少しだけずるい言い方だと思う。遅れてきて困るのは私ではなく彼なのだ。別に構わない。言い聞かせてみたが、遅れてくる彼を待っていたら、特等席で彼女の歌を聴けないではないか、と気付いて、遠のく背中に「約束しろ!」と叫んだ。
 ノワゼットは振り返って、驚いた顔でこっちを見ていたが、すぐに笑って、右手の親指を突き立ててみせた。

 彼が去ってしまえば、バベルを元の静寂が包む。風の音と、森に住む小鳥たちのさえずり。あとはなんにもない。随分と寂しい場所である。
 そういえば、私は、私の瞳の色を知らない。瞳の色を知るには、それを教えてくれる誰かが必要なのだ。
 ノワゼットの去っていった方向を見る。木々の覆い茂る深い森があるだけで、彼の姿はもう見えない。ノワゼットは帰ってしまった。

「今度。名前と一緒に教えて貰おうか」

 私の瞳は、どんな色をしているだろう。どうせならあの夜明けの空のような、澄んだ水色とオレンジが混ざったような、綺麗な色をしていたらいい。