複雑・ファジー小説
- プロローグ ( No.1 )
- 日時: 2018/04/30 16:44
- 名前: トーシ (ID: NVMYUQqC)
プロローグ カラーボーイ
10年前のことなんて、ある一点を除いて、ほとんど覚えていない。あの頃の彼は普通の小学生で、取りたてて珍しいこともなかった。少しは他の友達より目立つ存在だったかもしれない。けれど、本当に少し、なのだ。
そんな彼が、10年前の夏の日、周りの子供たちより一足早く大人になった。
大人になった、というよりは、確固たる夢を見つけた。
その日、彼は遅くまで友達と遊んでいた。5時のチャイムはもう随分と昔に鳴ったような、そんな気がしてくるほど遅い時間まで、彼は公園の中を駆け回っていた。友達の家はその公園の近くにあって、彼の家はそこから遠い場所にあった。だから彼は独りきりで帰途についていた。
長く伸びる影を引きずりながら独りぼっちで歩く。その日の空は、今までに見たこともないような色をしていた。ざわざわと、雑音がヒグラシの声と混じっていた。真夏なのに少年の肌は粟立ってた。
歩いていた彼は、角を曲がったところで走り出した。
ぱたぱたと、靴底の音が、静かな道に寂しく消えていく。早く速く。焦る気持ちに足は上手くついていかず、彼は前に倒れるように転んだ。掌と膝小僧を擦った。薄い表皮の下から血が滲み出てきて、じんじんと痛み始める。
鼻の奥がつん、とした。自分の掌が歪んで見えて、それでも泣き出さないように、彼は唇をきつく結んだ。ふと、小さな身体に影がかかった。
「どうしたの、転んだのかい?」
少年が見上げると、そこには男がいた。男は膝に手をついて、少年を見て笑う。ゆっくり頷くと、男は少年に手を差し出しこう言った。
「痛そうだね。ちょうど絆創膏を持っているんだ。車の中にあるから来なさい」
男の後ろ、少し離れた道の途中に古いワゴン車が停まっていた。
少年は男の手を取った。分厚い肉とかさついた肌の手は、思っていたよりずっと冷たかった。そこでやっと、彼はこの男について行っちゃダメだと気が付いた。
「あ、あの……僕、いいです。絆創膏なくても、帰れます」
鳥肌は一層ひどくなった。嫌な汗が流れて、Tシャツが背中にひっつく。少年はもう男の手を握ってはいなかったが、男は少年の手をしっかりと掴んだまま放そうとしない。足を踏ん張ろうとしても、恐怖と怪我のせいで、それはよたよたと男と同じ方向に動いていく。
こういうときは、大声をあげて助けを呼ぶか、防犯ブザーを鳴らさないといけない。それから、それから。学校で教わったことが頭の中を流れていくけれど、喉も、手も、腕も、足も動かない。ワゴン車がどんどん近くなっていって、ドアが開けられて。
「いや……だ……僕、もう帰……っ」
彼は容易く、生温い空気が充満する車内に押し込まれた。ざらざらしたシートの上に乱暴に乗せられる。薄暗くて狭い空間。スモークガラスで外の様子はほとんど見えない。息が止まりそうになった。そして、男の方に振り向こうとした少年に、手とは違うものが触れた。それは紐だった。男の手首の辺りから生えた紐は、少年の細い腕に巻き付いて、そのまま首を捕らえて、ぎゅっと締め上げた。視界が暗闇に侵食されていく。
しかし、次の瞬間、闇を光が裂いた。
締め上げる力が突然になくなって、かと思えば、少年を惨たらしく締め付けていた紐まで、あっという間に粒子になって消えた。驚いてドアの方を見ると、そこに男は立っていなかった。代わりに、車体の横から車輪が回る音が近づいてきて、ドアの前でそれは止まった。あか色。車椅子に乗った男子学生は、片手にあかい炎を燃え上がらせながら、ちらりと少年に視線を投げた。
「もう大丈夫」
不敵に笑って、そう、言った気がする。
炎はもっと大きくなって、時折大きく揺れてはバチバチと弾ける。少年が開きっぱなしのドアから顔を出すと、路上で片手を押さえて蹲る男と少年の間を遮るような位置に、男子学生は止まっていた。
「今すぐこっから去るか、それとも『コレ』を顔面に食らうか。選ばせてやるよ」
男子学生の背中しか見えず、彼がどんな表情をしているのかは分からなかった。男の顔が悔しげに歪み、歯軋りをしていたことを考えると、彼は尚もニヒルで好戦的な笑みを浮かべていたのかもしれない。
男は呻き声をあげて、両眼を見開いて、体を震わせている。すると、突然手を前に突き出して、男子学生——いや、その後ろの少年へ向かって空気を抉るように紐を伸ばした。
ボウッと巨大な炎が翻る。火の粉の中で、塵が、灰が、粒子が落ちていく。あかい炎は、紐を一瞬で焼き払った。
「そうか——俺に、焼かれたいんだなァ!」
男子学生が吠えるのと同時、炎が、膨張して、不死鳥の翼のように空を凪いだ。大気が焦げる。けれど、少年に火の粉が降りかかることはない。
炎がすぐに収束したのは、きっと男が逃げたからだろう。男がさっきまでいたところには、既にその姿はなかった。
降りて来いよ、と男子学生が手を差し出してくる。といっても、彼は少年がそのまま手を伸ばしても届かない場所にいた。だから少年は1人でワゴン車から降りて、痛む足で走って、車椅子の青年の手を握った。熱い手だった。
「怪我してる……アイツにやられたのか?」
「違う。これは、自分で転んじゃって」
「ん、そうか。でも、お前すごいなあ。よく泣かなかったな」
エライな、と空いている方の手で少年をわしゃわしゃ撫でる。その割には優しい手つきで、少年の目からついに涙が溢れ出した。男子学生は笑いながら親指で涙を拭ってくれた。
「怖かったな」
そうやって、手を引いて家まで送ってくれた。2人並んでゆっくり歩きながら、少年は隣の青年に尋ねた。
「お兄さんは、誰なんですか」
「普通の男子高校生だよ」
「……名前は?」
「うーん。それは内緒」
少年が不思議そうに目を瞬かせると、青年はにっと口角を上げた。
「『ヒーロー』は、名乗らないのがかっこいいんだ」
ヒーロー。
その言葉が、少年の見る景色とともに強く脳に焼きつけられた。あかい髪、あかい瞳の、車椅子に乗ったヒーロー。
だからお礼はいらないぜ、と青年は手を放した。そこは少年の家の前だった。彼は手をひらひらと振ってすぐどこかに行ってしまったので、少年はお礼を言えなかった。
ああ、でもやっぱり、助けてくれてありがとう、と伝えたかった。10年前のことを後悔したって仕方ないが、自分の人生はあの日、彼と出会ったことで大きく変わったのだから。
そういえば、あの日の空は赤かった、とふと思い出す。
瀬川飛鳥の眼には、今でも、あの『あか』が映っている。
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