複雑・ファジー小説

1−7 ( No.11 )
日時: 2018/05/19 01:14
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: NVMYUQqC)

1−7

 暗くなったスマホの画面には、何も映らない。自分の姿すらも映らない。それもその筈で、飛鳥の周囲に光源など一切なかった。彼は、手に持った端末から顔を上げた。
 飛鳥がたどり着いたのは、飛鳥の住む市を2つに分断する大河、その上流にある地域だった。そこは下流に広がるビル街に比べると、随分と寂れていた。廃業した中小企業の工場や作業場や、使われなくなった倉庫が点在しているだけのエリア。そして、女子高校生が夜中に1人で訪れていいような所ではなかった。
 しかし、海黒から聞き出した場所は確かにここだ。川沿いに遡ると見えてくる、もう使われていない生産工場。薄汚れた外壁と、塵と埃で曇った窓ガラスが、飛鳥にそこがずっと無人であることを教えてくれる。飛鳥はわずかに開いた窓ガラスを自分が通れるくらいまで開けて、そこから中に入った。
 内部は見た目よりも広く感じられた。やはり照明は点いていないが、暗闇を走ってきてだいぶ慣れた目には、そこに並ぶ様々な機械の輪郭が見えていた。大きなローラーがついた機械、筒状の部分を経由して空間を埋めるように伸びたベルトコンベアー、どれも見慣れないものばかりだ。
 本当に、ここに海黒がいるのだろうか。そう思ってしまうほど静かだった。だがそれは、同時に、海黒以外の誰かがここにいる可能性も低いということでもある。

「海黒さん——」

 飛鳥は意を決して声を発した。声は、天井に、壁に、真っ黒な闇の中に吸い込まれていく。静寂。埃すら舞わない。飛鳥は歩を進めながら、もう一度海黒の名を呼んだ。
 すると奥の方が、僅かに、本当に僅かに明るくなった。機械の陰から光が漏れだして、工場のリノリウムの床に当たっている。その彩度を欠いた光は、スマホの画面から溢れ出しているもののように思えて、飛鳥はそちらに向かって、また名前を呼んだ。
 
「——飛鳥先輩」

 人影が、動く。人影がローラーの機械の陰から座ったまま半身を出して、こちらを見ているようだった。顔は見て取れなかったが、その声は間違いなく海黒だ。飛鳥は迷わず、彼女に駆け寄った。

「海黒さんッ」
「飛鳥先輩、来てくれたんですね」

 海黒はそこでぺたんと座りこんだまま、飛鳥を見上げた。床に置かれた彼女のスマホは、その光によって、海黒の左半身を不明瞭に描き出している。飛鳥は膝をついて、できるだけ優しい声で海黒に話しかけた。

「困ってたら助けるって、約束したから」
「ごめんなさい。ありがとうございます」
「……大丈夫?」
「無事といえば、無事です」

 ごめんね、と断って、飛鳥は自分のスマホを取り出すと海黒を照らし出した。深夜だというのに、彼女は制服を着ていた。学校帰りに何かに巻き込まれたのだろうか。彼女は汚れた姿をしていて、土や埃だけではなく、ところどころ肌や服に色がついていた。それはどうやら絵の具の色らしかった。
 それから、彼女の丸い膝に大きな擦り傷があるのを見つけた。傷は浅いようで、血は滲むだけで流れてはいない。だとしても、立ったり歩いたりするには痛むだろう。少なくとも、さっき飛鳥が入ってきたところから出るのは難しそうだ。
 飛鳥は端末のライトを照射し、他に出入り口がないかと周囲を見渡した。自分たち以外には誰もいない、という判断の上だった。壁を添わせるように光の円を動かしていくと、左手の方向で円が消えた。扉が開いている。ドアノブのついた、どこにでもある扉だ。その奥は真っ暗だった。

「海黒さん、あそこから出られないかな」
 
 飛鳥がそこをライトで指し示すと、海黒は目を向けて、ああ、と言った。

「あそこの奥は倉庫ですから。多分、出られないと思います。外に出る方ならあっちに」

 海黒が指さした方向を見ると、確かにもう1つ同じ形をした扉がある。それにしても、外に出る扉の位置を知っているなら、自分が来る前にここから出ていた方が安全なのに、と思った。けれど海黒の膝の傷を思い返し、その考えを払拭した。助けを求めてくるくらい怖くて動けなかった、ということもある。
 飛鳥は再び海黒にライトを当てる。腕、肩口、首、そして最後に顔を浮かび上がらせる。そうして、飛鳥はぎょっとした。海黒の頬が濡れていた。泣いていたのだろうか。ただよく見ると、濡れているのは頬だけではないようだった。水を含んで濡羽色に照る髪の毛は、顔のラインに沿って白い肌に張り付いていたし、黄昏を縁取る睫毛は、濡れて瞬きをする度に震えていた。そして、陰になって見えなかった右半身の肩や腕も濡れていた。制服の袖が、腕の細さを明らかにしている。
 飛鳥は、自分の上着を海黒にふわりとかけた。そして、真っ直ぐに目を合わせた。

「なんで、濡れてるんだい」

 塵に覆われたリノリウムの上に端末を置いて、尋ねた。

「今日は、雨は降ってないよね」
「……同じ学校の……水の《COLOR》を使う人に、襲われて」

 水島青太。
 曖昧な微笑が、自分を見抜く瞳孔が、風に揺れる黒髪が、そして黒に紛れる青が。海のように輝く青が、彼の姿形が、一瞬のうちに鮮明に思い出された。
 なぜだか、怒りは湧いてこなかった。路地裏で海黒に詰め寄っていたあの男には明確に怒りを感じたのに、1人のか弱い少女に危害を加えたかもしれない青太に対しては、むしろ違和感を感じた。まだ青太がやったと決まったわけではないからだろうか。いや、きっと違う。多分、青太がやったとしても、自分はそれを簡単に信じないような気がした。
 脳が冷水に浸されたみたいに、思考が急速に冷えていく。海黒の橙の相貌が、深い闇に潜む蝙蝠コウモリの眼のように見えた。そのまま見ていると喉笛に噛みつかれそうな気がして、飛鳥は思わず視線を落とした。
 ふと、床に色がついているのに気付いた。これも絵の具だろうか。カラフルな点が30センチくらいの間隔で並んで、線のようになっている。その線の一方は海黒の足元に繋がっている。もう一方は、とライトでそれを追っていくと、扉の開いた倉庫に繋がっていた。先程は気が付かなかったが、闇の奥から溢れ出すようにして、銀色の物体が幾つも転がっていた。アルミチューブの絵の具のようだ。

「倉庫から、出てきたの?」

 海黒は答えない。しかし彼女はその奥が倉庫であることを知っていた。彼女は一度そこに入ったのだ。そこで何かがあって、だから身体が絵の具で汚れているのだ。
 
「倉庫の方、見てきてもいいかな」
「……どうしてですか」
「なんだか、あの奥が気になって」
「やめましょう、危ないですよ」
「なんで危ないって分かるんだ」

 彼女は口を噤んだ。
 もしかすると倉庫に追い詰められて、なんとか逃げ出してきたのかもしれない。それで自分に電話をかけてきたのかもしれない。まだ、倉庫の奥に危険な何者かが潜んでいるのかもしれない。だとしたら、どうしてずっとここに留まっているのだろうか。どうして、ここから早く離れたい、と言わないのだろうか。自分に害を為す者がすぐそこにいるかもしれないのに、どうして、こんなにも海黒は冷静なのだろう。

「……少し確認するだけだから。確認したら、すぐにここを出よう」

 飛鳥は努めて穏やかに言った。彼女は縋るように、飛鳥の服の裾を掴んだ。俯いたまましばらくそうしていた。やがて、くい、と少しだけ裾を引っ張って、自分よりずっと背の高い少年を見上げた。

「私を助けてくれるのは、飛鳥先輩しか、いないから」

 夜に溶ける、静かな声だった。

「絶対に、すぐに、戻ってきてくださいね。私のところに、戻ってきてください」

 うん、と飛鳥は頷いた。そして立ち上がって、倉庫の方へ目を向ける。絵の具を辿るようにして、口を開いた闇に近づいていく。背中に視線を感じる。海黒が自分を見ているのだろう。じりじりと灼くような視線を、自分に向けている。まるで、自分より向こうにあるものを睨みつけるように。
 飛鳥の足が、扉の前に接地した。そこで音を聞いた。
 ぴちゃん、と。
 雫が滴る、涼しい音だった。

「瀬川!」

 闇の中から現れた青太が、身を投げ出すようにして身体で扉を開き、飛鳥の片腕を掴む。
 自分を扉の内側に引きずり込んだ手、その傍らで飛鳥の後ろの方に向かって開かれた手。
 数秒ほどの光景が、飛鳥の視神経に焼き付く。青い光子が蛍のように現れて、集まり、1つの水の球になる様。掌ほどの大きさに膨張して、揺らぐ様。青が視界の中で輝いている。
 刹那、射撃。
 青の尾をひいて空を貫く弾丸。それは飛鳥の背後、海黒が座り込んでいる方に飛んでいき、途中で大きな金属音とともに破裂した。からんからん、と金属が床に散らばる音がした。
 こちらに向けていた手を下ろして、海黒は溜め息をつく。

「ひどい人ですね。怪我人を攻撃してくるなんて」
「最初に鉄塊を撃ってきたのは、そっちだろ」
「私は、あなたが飛鳥先輩の腕を引いたから、飛鳥先輩を守ろうとしただけです」

 海黒は首を横に振ると、機械に手を添えて、ふらつきながらもしっかりと立ち上がった。スカートに付着した埃を払って、そして、飛鳥の方を見た。真っ黒な瞳孔の真ん中に、飛鳥をしっかりと捉えて、「こっちに来てください」と手を差し出した。
 それを遮るように、飛鳥の前で腕を伸ばしたのは青太だった。「絶対に行くな」と、海黒から目を離さずにそう言った。

「瀬川を巻き込むな」
「巻き込んでなんかいませんよ。『私たち』の中に入るかどうか、それを決めるのは飛鳥先輩ですから——でも、飛鳥先輩はきっと、『私たち』の考えに賛同してくれるはずです」
「考え、だって? あんなの、考えにもならない、滅茶苦茶な主張だろ」
「今は、そうかもしれません。でも、それはいつか正義になる」

 正義、正義のヒーロー。
 ねえ飛鳥先輩、と海黒は笑った。

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