複雑・ファジー小説
- 1−8 ( No.12 )
- 日時: 2018/07/23 08:22
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: MGNiK3vE)
1−8
「瀬川、逃げろ」
青太が苦々しく呟く。正義、という言葉に頭を強く打たれ、激しく揺さぶられるように混濁していた飛鳥の脳は、その言葉ではっと平静を取り戻した。奥の方に1つドアがあるから、そこから出ろ、と青太は前を見たまま、飛鳥に小さな声で伝えた。
でも海黒は、倉庫から外へは出られないと言った。それは嘘だった、ということだろうか。青太がここにいるのを知っていたから、飛鳥を倉庫へ近寄らせたくなかったのだろうか。しかし、それならやはり、海黒がここに留まり続ける必要はなかったし、飛鳥が倉庫へ行こうとしたときにもっと強く止めただろう。
むしろ、飛鳥と青太を会わせたかったのかもしれない。そんな考えが飛鳥の脳裏を掠めていった。
水の《COLOR》を使う人、と言われたときに真っ先に思い浮かんだのは『水島青太』だった。とても自然に、それ以外に考えられない程に、飛鳥はそれを当然のように受け入れた。たった2日で、飛鳥の思考はすべて『水島青太』に支配されていた。
自分は青太に引き寄せられてここにいるのだろうか、それとも自分が青太を引き寄せてしまったのだろうか。どちらにしろ、ここで2人が出会うことは必然だったのだろう。それが海黒の算段の上にあるのだとしたら、もうとっくに彼女の術中にかかっていたのだ。飛鳥は、今更ながら自分の軽率さを呪った。
「……水島はどうするんだ」
「オレも同じ所から逃げる」
でも、と青太は続ける。
「もしもの時は、オレを置いて逃げろ」
もしもって何だよ、と聞き返すことはできなかった。こんなに強い《COLOR》を持つ青太が追い詰められる程の状況を想像するのが、怖かった。
飛鳥は足を1歩後ろに下げた。靴底で絵具のチューブを踏み潰す感触がする。アクリルの匂いが、突然に飛鳥の鼻をつく。もう1歩下がろうとしたが、海黒の声がそれを止めた。
「飛鳥先輩」
海黒の声は極めて優しいものだった。敵意も悪意も感じられない、空気に心地よく馴染んでいくような声。解れのない完璧な笑顔のまま、飛鳥から一瞬たりとも目を離さない。
「私のところに、戻ってきてください」
それとも、私のことが信じられませんか。海黒から尋ねられ、飛鳥は答えられなかった。
信じられないわけじゃない。現に、彼女が飛鳥に害を為そうという気は感じ取れなかった。助けてください、と自分を頼ってくれた彼女を、その言葉を、本当だと思い込みたいだけかもしれない。自分は必要とされているのだ、と。身体が傷つかないのなら、騙されたという精神的苦痛を受けるより、彼女の甘言に嵌ってしまった方がずっと楽だろう。だが、飛鳥が海黒の方に前進するには、青太の存在は強すぎる。飛鳥には、遮るように伸ばされた青太の腕が、茨の柵のように見えていた。
その柵越しの海黒は、飛鳥の大きな上着を纏っていることもあってか、ひどく小さく見えた。
「……駄目ですか。駄目みたいですね」
ふと、彼女は差し出していた手を下ろした。そして端末を拾うと、画面も見ずにそれを操作する。たったワンコールだけ、重い無音を引き裂いてすぐに消える。
「じゃあ、新しい提案をします」
直後、飛鳥の背後でドアが開いた。3人、誰かが入って来る。青太が目を見開いて、そちらに視線を逸らす。狙って、海黒の人差し指から粒子が発生し、凝縮し、形を成した黒の物体が放たれる。それが空を切り裂く音を聞いて、青太はすぐに視線を戻し水流を撃った。黒の物体——おそらく鉄塊だろう——は、真っ二つに割れたが、その欠片の1つが、発射するそのままの勢いで青太の腕を抉った。
「飛鳥先輩を守りたいなら、水島青太さん、あなたが、私達のところに来てください」
海黒が笑う。いや、本当は顔なんて見えていなかった。蝙蝠のような目だけが煌々と、闇の中に浮かんでいるようだ。
青太は即座に、嫌だと吐き捨てた。その声は幾分か苦しそうだった。彼が片手で水泡を作りだすと、青い光で傷口が明らかになる。ペンで描いたような真っ直ぐな切り傷が、青太のしなやかな腕に刻まれている。傷は浅くはないのだろう、血が滲んで、滴り落ちた。それだけじゃない。今まで気が付かなかったが、青太の着ている制服も数か所が裂かれていた。その様は、昨日、海黒と対峙していたあの男を想起させた。
そうか、あれは彼女がやったのか。
「いいんですか? あなたが私達の味方についてくれたら、飛鳥先輩はこのまま、無事に返しましょう。何も知らないままで、ね——でも、ここであなたが拒むなら、力づくでも飛鳥先輩を頂戴します」
「オレはお前らの味方になんかつかないし、瀬川も渡さない」
「強情ですね。そんなこと、言っていられるような場合じゃないと思うんですけど」
背後から3人が詰め寄ってくる気配がして、飛鳥はそちらを向いた。背を見せてはいけない。青太と背を向き合わせて、3つの人影を注視したまま青太と海黒の声と息遣いに耳を澄ませる。青太の息は、飛鳥より荒かった。怪我人に守られている自分は駄目だ。けれど飛鳥には対抗策がない——あと5分だけ凌ぐ方法を、自分は持っていない。
飛鳥は息を吸った。酸素を取り込んで、少しは冷静になれただろうか。心臓が全身に血を送り出す感覚はしていた。熱を帯びた指先で、後ろに立つ青太のシャツをわずかに引っ張る。
「水島。あと5分、持ちこたえられるか」
「……ギリギリかもな」
大丈夫、お前に怪我はさせないから。青太は努めて力強く、飛鳥に言い聞かせる。その言葉の重さが、飛鳥の身体を縛り、海底の深くへ沈めていく碇になるだなんて青太は知らないのだろう。
飛鳥は水中で空気を求めるように、口を開いた。発声のための器官、それ以外を一切動かさずに囁く。
「——警察を呼んだ」
「……いつ」
「ここに来る直前に」
——《COLOR》を使用した喧嘩が起こっています」と、言った。もしかしたら、いたずら電話だと判断され、無視されているかもしれない。しかし、対《COLOR》犯罪専門の戦闘員が署に常駐しなければならない程、ここ1か月での治安の悪化は凄まじかった。《COLOR》を使用した喧嘩だと言われれば、警察も完全無視はできない筈だ。現場に直行しなかったとしても、必ずここを確認しに来る。現状を切り抜けるには、それまで耐えればいい。
「……やっぱり、さすがだな」
青太が、飛鳥の服の裾を指先で引いた。でもそれが上手くいくかどうかは、青太に全てかかっている。だから飛鳥は素直に喜べなかった。結局自分1人では何もできない。暗闇の中、無残に転がった絵の具が、踏み潰されて中身が出てしまった絵の具のチューブが、悲しく飛鳥の目に映っていた。
「オレ、無色(colorless)になりたかったんだ」
『色』を失った絵の具なんて、意味がないのに。
「《COLOR》が暴走することがあるんだ。力ばかりが強くて、オレの手には負えなくて……いつか誰かを傷つけるんじゃないかって、怖かった。《COLOR》を使うのが怖かった。そんなモノが自分の中にあるのが怖かった。人を傷つけるような力なんて欲しくなかった」
飛鳥は何も返さない。青太はまるで、懺悔室で神に祈るように話し続ける。なんて臆病なのだろう。そして、そんな恐怖を抱えながら、あの時も、そして今も、自分を助けようとしてくれる青太は——『ヒーロー』だ。
「だから……戦ってみるけど、お前のこと、傷つけるかもしれない」
自分とは対極にいる水島青太という人間、彼が『ヒーロー』なのだとしたら、瀬川飛鳥は『ヒーロー』とは最も遠い位置にいるということになる。それが現実だった。青太が海黒を襲うはずがないと、思ってしまったのは、青太が『ヒーロー』だと認めているからだ。
青色は、冷静さを表す色だ。客観的事実から、現在がどうであるかを分析し、導き出す色。そんな色をした『ヒーロー』が、今になって、夢と理想に夢中になるあまり気づかなかった現実を再教育してくれているだけ。それだけのことなのだ。
「……いいよ、派手にやれ」
威勢だけはいい自分に嫌気がさす。自分を律することで精いっぱいだ。
青太の手の中で、水泡が波打った。
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