複雑・ファジー小説

2−1 ( No.16 )
日時: 2018/07/14 12:41
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: yvG0.ccx)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=960.jpg

第2話 ミクロブラック

2−1

 冷たい風が吹く。電車が風を起こして、飛鳥の右半身を撫でる。沈黙を縫うのは、時折通過する電車の走行音のみで、あとは雨音が恒常的に響くだけだった。
 青太は、飛鳥の後を遅れるようにして歩いていた。青太が手を伸ばしても飛鳥に触れられないくらい、けれど飛鳥が手を伸ばせば互いの腕を簡単に掴めてしまうような、それくらいの距離を空けて、2人は線路沿いを歩いていた。
 
 警察署の場所が分からないから着いてきてほしい、と言い出したのは青太だった。5限目が終わってすぐ、放課後のざわつく教室内で、彼の声はいやにはっきりと聞こえた。
 最初は断ろうとした。これから塾に行って自習室で勉強する予定だったし、何より、青太と2人きりになるのが嫌だった。ここから警察署までは遠くはないけれど、近くもない。そういう理由でも、青太からの頼みを断ることはできた。
 しかし、それを拒否する適当な言葉を探していたときに、飛鳥の脳裏にふと『あの夜』のことが蘇ってきた。数日前、軽率に飛び込んでしまった先で青太に助けられた夜のことが。
 青太に借りをつくっているのだと、飛鳥は気が付いてしまった。そして、借りを返さなければいけないと思った。それは感謝からくるものではなかった。むしろ、青太に対する寒色の感情によるものだったような気がする。
 助けた方と、助けられた方。今の自分達を形容する関係性を、借りを返すことでまるで何も無かったみたいに塗り替えてしまいたかったのだ。
 2人が校舎から出たとき、外は小雨が降っていた。雨粒が傘の布に当たる音は、強くなったり弱くなったりしながら、止まることなく傘の内側に落ちてくる。やがて駅に着く頃には、ぱらついていた雨が、線になって目に見えて分かる程に雨脚は強くなっていた。
 ほんの1週間前に大穴を空けられたガラスは、既に傷ひとつない新品のものに取り換えられていた。つい最近事件が発生したというのに、駅舎内が人で混雑しているのが、そのガラス越しからでも見て取れる。降雨の為に一層多くの人が駅に逃れているようだった。
 飛鳥はふと、人波の狭間に目をやった。そこにはあの隙間があった。建物と建物が作り出す真っ黒な隙間は、雨に滲む視界の中でもはっきり見える。勿論、その中に誰かが入っていくことはない。
 
「瀬川」
 
 青太に声をかけられて、飛鳥はゆっくりと彼に目を向ける。飛鳥の顔を覗き込むまではしないものの、青太は少し首を傾けて飛鳥の様子を窺っていた。そして、その横顔越しに『あの隙間』を認めて、彼は柔い黒色の目を細めた。

「何か気になるのか」
「別に。何もないよ」

 歩行者用信号機が青色に変わる。飛鳥は歩き出した。この横断歩道を渡れば駅前広場に着く。しかし青太は、信号機の隣に立ったまま動かなかった。

「何してるんだよ」
「歩いて、行こうぜ」
「は?」
「警察署まで。電車じゃなくてさ」

 飛鳥は青太の言葉に唖然として、しばらく声も出なかった。2人の間に、雨音と足音とカッコウの誘導音が流れ込んでくる。やがて信号機が点滅し始めたので、彼は仕方なく早足で青太の元へ戻った。

「電車で2駅なんだろ。そしたら、歩いて40分くらいだし、歩けない距離じゃない。大混雑の電車に乗るよりは、オレはそっちの方がいい」
「人酔いする性質なのか」
「そういう訳じゃないけど」
「しかもなんで、駅の前で言ってくるのさ」
「それは、ごめん」
 
 飛鳥はため息を吐いた。塾の講義自体は夜からなので、徒歩で警察署まで行っても時間に余裕はある。だから歩いて行っても構わなかったのだが、青太が唐突にそんなことを言ってきたのが気がかりだった。
 青太を見れば、「ごめん」と言いつつも反省しているような気配はなく、重く垂れ下がった前髪の下で、薄い笑みを浮かべたままだった。

「……それだけじゃないんだろ」
「え?」
「もっと別の理由があるんじゃないのか。だから、ここまで来て今更そんなこと言うんだろ」

 青太は、うーんと唸って視線を横に逸らす。その様は、考えているというよりは、むしろ何かを言いあぐねているようだ。やがて彼は、不意に飛鳥の目を見た。
 
「……2人で話がしたくて」
「なら、最初からそう言えば——」

 そこで、自分でも驚くほど突然に言葉に詰まった。 
 2人で話をしよう。そう言われて、はたして自分は応じられただろうか。いや、きっと彼を退けていただろう。
 この時間帯、沿線の交通量は多くはない。雨の日なら尚更だ。

「だから、オレは歩いて行きたい」

 琥珀色の目が音もなく瞬いた。ここで「行かない」と告げて、そのまま別れてしまうこともできる。しかし、飛鳥にはそれはできなかった。一度承諾してしまったことを投げ出して逃げるなんてこと、彼にはできない。ましてや、この男の前では。
 頑なな意地が、自身の足を、青太の眼前にて地面に縛り付ける。
 多分青太は、ここまで来てしまえば、飛鳥は「行かない」なんて言い出せないということを分かっていたのだろう。「騙したみたいで、ごめんな」と、青太は眉尻を僅かに下げた。
 
「……いいよ。歩いて行こう」

 結局、飛鳥は青太の思惑に従った。ありがとう、と青太が言ったような気がするが、彼は聞こえないフリをした。
 駅前広場への横断歩道は渡らず、その左手側に伸びる道路を進んでいく。広くはない幅の歩道を2人は離れて歩く。時折、地面にできた水溜まりがつま先を濡らしたが、彼らが歩みを止めることはなかった。

「……水島」

 前を向いたまま、飛鳥は青太の名を呼んだ。青太は最初、それが自分に向けて発せられた言葉だと気が付かなかった。飛鳥の傘は、青太から自身の身体を隠すようにして傾けられていた。けれど、飛鳥が一瞬だけ立ち止まって、傘を少しだけ上げてこちらに視線を寄越していたので、青太は呼ばれたんだなと思った。

「警察署に行くのって、『この前』のことがあったから?」
「うん」
 
 飛鳥は再び歩き出していた。青太も彼の背を追った。会話をするには少しだけ遠いくらいの距離を保ちながら、雨の中を進んでいく。

「また事情聴取でも受けるのかい」
「いや……ちょっと、色々あってさ」
「色々?」
「《COLOR》のこと、なんだけど」

 ——《COLOR》。思わず反芻した言葉が、口の中で冷たく響く。雨粒が、傘の露先から一滴、落ちた。

「申請したら、警察が《COLOR》抑制の器具を支給してくれるらしいんだ。だから申請してみたらどうかって、あの夜、警察の人に言われて」
「……そうなんだ」
「それで、今日は説明だけでも聞きに行こうと思ってさ」

 飛鳥は小さく返事をした。その時ちょうど、2人の隣を電車が通り抜けていったので、彼の声はがたんごとんという重い音に掻き消されてしまったが。
 飛鳥は傘の柄を握り直して、それを自分の身体に寄せた。

「それで?」
「え」
「話したいことがあるんじゃないのか」
「ああ……」

 ステンレスの車体が、雨に濡れながら、後ろへ遠ざかっていく。そんな音が聞こえる。
 『岬海黒』、と青太は言った。

「彼女にはもう近付くな」

 その声があまりにも真剣だったので、飛鳥は顧みずとも、彼の深海の瞳が真っ直ぐに自分を見つめているのが分かった。

「彼女は危険だ」
「……海黒さんは、何者なんだ」
「それは、言えない」
「そっちは何も教えてくれないのに、僕には命令するだけなのか」
「瀬川は知らなくていいことなんだよ」
「……何を、今更」

 何も知らないまま、何もなかったように振舞うなんて、もう無理だと思った。『お前ら』も『あの人』も『私たち』も、飛鳥はよく覚えている。そして、『岬海黒』のことも。

「僕から海黒さんに関わらなかったとしても、相手から関わってこないって確証はない。彼女に関わらないってだけで、僕の安全が保障されるわけでもない。ここまで来て、何も知らないままでいられる訳ないんだよ」

 鞄の中で、薄い携帯端末が重くなったような気がした。海黒の電話番号は登録されたままだ。それを青太に言えば、きっと「すぐに消せ」と強く言われるのだろうけど。

「どうするか決めるのは僕自身だ、君にとやかく言われる筋合いはないよ」
「……何かあってからじゃ遅いんだぞ」
「僕に何かあったとして——君に何の関係がある」

 ばしゃり、と。青太は水溜まりを蹴って、飛鳥の肩を掴もうとした。しかし飛鳥はすぐに振り返って、青太を睨みつけた。暗色の傘の下で、飛鳥の顔には濃い影がかかっているはずなのに、琥珀の瞳はナイフのように鋭く光っている。
 力まかせに飛鳥を振り向かせようとしていた手は行き場を失い、青太は力なくその手を下ろした。下ろした先で、ズボンの裾が湿っているのが見えた。さっきの水飛沫で濡れたらしかった。
 もう片方の、ビニール傘の柄を握る手が、少し震えた。飛鳥は、青太の手が悔しげに強く握り締められるのを見ていた。
 静寂は数秒もなかっただろう。飛鳥は青太から目を背けるように前を向いて、また歩き始める。色彩の欠落した雨雲の下に、警察署の輪郭が見え始めていた。

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