複雑・ファジー小説
- 2−1 ( No.16 )
- 日時: 2018/07/14 12:41
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: yvG0.ccx)
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第2話 ミクロブラック
2−1
冷たい風が吹く。電車が風を起こして、飛鳥の右半身を撫でる。沈黙を縫うのは、時折通過する電車の走行音のみで、あとは雨音が恒常的に響くだけだった。
青太は、飛鳥の後を遅れるようにして歩いていた。青太が手を伸ばしても飛鳥に触れられないくらい、けれど飛鳥が手を伸ばせば互いの腕を簡単に掴めてしまうような、それくらいの距離を空けて、2人は線路沿いを歩いていた。
警察署の場所が分からないから着いてきてほしい、と言い出したのは青太だった。5限目が終わってすぐ、放課後のざわつく教室内で、彼の声はいやにはっきりと聞こえた。
最初は断ろうとした。これから塾に行って自習室で勉強する予定だったし、何より、青太と2人きりになるのが嫌だった。ここから警察署までは遠くはないけれど、近くもない。そういう理由でも、青太からの頼みを断ることはできた。
しかし、それを拒否する適当な言葉を探していたときに、飛鳥の脳裏にふと『あの夜』のことが蘇ってきた。数日前、軽率に飛び込んでしまった先で青太に助けられた夜のことが。
青太に借りをつくっているのだと、飛鳥は気が付いてしまった。そして、借りを返さなければいけないと思った。それは感謝からくるものではなかった。むしろ、青太に対する寒色の感情によるものだったような気がする。
助けた方と、助けられた方。今の自分達を形容する関係性を、借りを返すことでまるで何も無かったみたいに塗り替えてしまいたかったのだ。
2人が校舎から出たとき、外は小雨が降っていた。雨粒が傘の布に当たる音は、強くなったり弱くなったりしながら、止まることなく傘の内側に落ちてくる。やがて駅に着く頃には、ぱらついていた雨が、線になって目に見えて分かる程に雨脚は強くなっていた。
ほんの1週間前に大穴を空けられたガラスは、既に傷ひとつない新品のものに取り換えられていた。つい最近事件が発生したというのに、駅舎内が人で混雑しているのが、そのガラス越しからでも見て取れる。降雨の為に一層多くの人が駅に逃れているようだった。
飛鳥はふと、人波の狭間に目をやった。そこにはあの隙間があった。建物と建物が作り出す真っ黒な隙間は、雨に滲む視界の中でもはっきり見える。勿論、その中に誰かが入っていくことはない。
「瀬川」
青太に声をかけられて、飛鳥はゆっくりと彼に目を向ける。飛鳥の顔を覗き込むまではしないものの、青太は少し首を傾けて飛鳥の様子を窺っていた。そして、その横顔越しに『あの隙間』を認めて、彼は柔い黒色の目を細めた。
「何か気になるのか」
「別に。何もないよ」
歩行者用信号機が青色に変わる。飛鳥は歩き出した。この横断歩道を渡れば駅前広場に着く。しかし青太は、信号機の隣に立ったまま動かなかった。
「何してるんだよ」
「歩いて、行こうぜ」
「は?」
「警察署まで。電車じゃなくてさ」
飛鳥は青太の言葉に唖然として、しばらく声も出なかった。2人の間に、雨音と足音とカッコウの誘導音が流れ込んでくる。やがて信号機が点滅し始めたので、彼は仕方なく早足で青太の元へ戻った。
「電車で2駅なんだろ。そしたら、歩いて40分くらいだし、歩けない距離じゃない。大混雑の電車に乗るよりは、オレはそっちの方がいい」
「人酔いする性質なのか」
「そういう訳じゃないけど」
「しかもなんで、駅の前で言ってくるのさ」
「それは、ごめん」
飛鳥はため息を吐いた。塾の講義自体は夜からなので、徒歩で警察署まで行っても時間に余裕はある。だから歩いて行っても構わなかったのだが、青太が唐突にそんなことを言ってきたのが気がかりだった。
青太を見れば、「ごめん」と言いつつも反省しているような気配はなく、重く垂れ下がった前髪の下で、薄い笑みを浮かべたままだった。
「……それだけじゃないんだろ」
「え?」
「もっと別の理由があるんじゃないのか。だから、ここまで来て今更そんなこと言うんだろ」
青太は、うーんと唸って視線を横に逸らす。その様は、考えているというよりは、むしろ何かを言いあぐねているようだ。やがて彼は、不意に飛鳥の目を見た。
「……2人で話がしたくて」
「なら、最初からそう言えば——」
そこで、自分でも驚くほど突然に言葉に詰まった。
2人で話をしよう。そう言われて、はたして自分は応じられただろうか。いや、きっと彼を退けていただろう。
この時間帯、沿線の交通量は多くはない。雨の日なら尚更だ。
「だから、オレは歩いて行きたい」
琥珀色の目が音もなく瞬いた。ここで「行かない」と告げて、そのまま別れてしまうこともできる。しかし、飛鳥にはそれはできなかった。一度承諾してしまったことを投げ出して逃げるなんてこと、彼にはできない。ましてや、この男の前では。
頑なな意地が、自身の足を、青太の眼前にて地面に縛り付ける。
多分青太は、ここまで来てしまえば、飛鳥は「行かない」なんて言い出せないということを分かっていたのだろう。「騙したみたいで、ごめんな」と、青太は眉尻を僅かに下げた。
「……いいよ。歩いて行こう」
結局、飛鳥は青太の思惑に従った。ありがとう、と青太が言ったような気がするが、彼は聞こえないフリをした。
駅前広場への横断歩道は渡らず、その左手側に伸びる道路を進んでいく。広くはない幅の歩道を2人は離れて歩く。時折、地面にできた水溜まりがつま先を濡らしたが、彼らが歩みを止めることはなかった。
「……水島」
前を向いたまま、飛鳥は青太の名を呼んだ。青太は最初、それが自分に向けて発せられた言葉だと気が付かなかった。飛鳥の傘は、青太から自身の身体を隠すようにして傾けられていた。けれど、飛鳥が一瞬だけ立ち止まって、傘を少しだけ上げてこちらに視線を寄越していたので、青太は呼ばれたんだなと思った。
「警察署に行くのって、『この前』のことがあったから?」
「うん」
飛鳥は再び歩き出していた。青太も彼の背を追った。会話をするには少しだけ遠いくらいの距離を保ちながら、雨の中を進んでいく。
「また事情聴取でも受けるのかい」
「いや……ちょっと、色々あってさ」
「色々?」
「《COLOR》のこと、なんだけど」
——《COLOR》。思わず反芻した言葉が、口の中で冷たく響く。雨粒が、傘の露先から一滴、落ちた。
「申請したら、警察が《COLOR》抑制の器具を支給してくれるらしいんだ。だから申請してみたらどうかって、あの夜、警察の人に言われて」
「……そうなんだ」
「それで、今日は説明だけでも聞きに行こうと思ってさ」
飛鳥は小さく返事をした。その時ちょうど、2人の隣を電車が通り抜けていったので、彼の声はがたんごとんという重い音に掻き消されてしまったが。
飛鳥は傘の柄を握り直して、それを自分の身体に寄せた。
「それで?」
「え」
「話したいことがあるんじゃないのか」
「ああ……」
ステンレスの車体が、雨に濡れながら、後ろへ遠ざかっていく。そんな音が聞こえる。
『岬海黒』、と青太は言った。
「彼女にはもう近付くな」
その声があまりにも真剣だったので、飛鳥は顧みずとも、彼の深海の瞳が真っ直ぐに自分を見つめているのが分かった。
「彼女は危険だ」
「……海黒さんは、何者なんだ」
「それは、言えない」
「そっちは何も教えてくれないのに、僕には命令するだけなのか」
「瀬川は知らなくていいことなんだよ」
「……何を、今更」
何も知らないまま、何もなかったように振舞うなんて、もう無理だと思った。『お前ら』も『あの人』も『私たち』も、飛鳥はよく覚えている。そして、『岬海黒』のことも。
「僕から海黒さんに関わらなかったとしても、相手から関わってこないって確証はない。彼女に関わらないってだけで、僕の安全が保障されるわけでもない。ここまで来て、何も知らないままでいられる訳ないんだよ」
鞄の中で、薄い携帯端末が重くなったような気がした。海黒の電話番号は登録されたままだ。それを青太に言えば、きっと「すぐに消せ」と強く言われるのだろうけど。
「どうするか決めるのは僕自身だ、君にとやかく言われる筋合いはないよ」
「……何かあってからじゃ遅いんだぞ」
「僕に何かあったとして——君に何の関係がある」
ばしゃり、と。青太は水溜まりを蹴って、飛鳥の肩を掴もうとした。しかし飛鳥はすぐに振り返って、青太を睨みつけた。暗色の傘の下で、飛鳥の顔には濃い影がかかっているはずなのに、琥珀の瞳はナイフのように鋭く光っている。
力まかせに飛鳥を振り向かせようとしていた手は行き場を失い、青太は力なくその手を下ろした。下ろした先で、ズボンの裾が湿っているのが見えた。さっきの水飛沫で濡れたらしかった。
もう片方の、ビニール傘の柄を握る手が、少し震えた。飛鳥は、青太の手が悔しげに強く握り締められるのを見ていた。
静寂は数秒もなかっただろう。飛鳥は青太から目を背けるように前を向いて、また歩き始める。色彩の欠落した雨雲の下に、警察署の輪郭が見え始めていた。
NEXT>>17
- 2−2 ( No.17 )
- 日時: 2018/07/23 08:01
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: MGNiK3vE)
2−2
警察署を訪れたことは、その実あまりなかった。小学生のとき、意外とおっちょこちょいな母が財布を落として、それを受け取るのに一緒に訪れたのと、中学生のときに総合学習の一環で見学に訪れたのと、この2回しかない。
自動ドアを入ってすぐ真正面に1列に並ぶ様々な窓口や、その前で横列をなすベンチを見ると、市役所のような印象すら受ける。青太は——初めて足を踏み入れたのだろうか——きょろきょろと、警察署内をもの珍しそうに眺めていた。やがて『総合窓口』の看板を見つけると、そちらへ行ってしまった。
残された飛鳥は、ベンチには座らずに壁の方に寄った。街中でよく見る交通安全啓発ポスターや、警察官採用試験の案内が貼られている。その1枚1枚に書かれた文字を目で追っていると、壁の一画に設置された掲示板が目に入った。そして、そこに不審者情報が掲示されているのを見つけた。
10年前見知らぬ男に誘拐されかけたとき、飛鳥は警察の世話にはならなかった。誘拐未遂のことを通報しなかったからだ。それだけじゃなくて、その時のことを誰かに話さなかった。家族にも友達にも、最も仲のいい姉にさえも、今までに一度たりとも話したことがない。
飛鳥はふとそんなことに気が付いて、自分のことながら不思議に思った。ただ今更言ったところでどうにもならないだろうし、飛鳥は言わないままでいいとも思った。
当時の自分もきっと同じように感じたのだろう。だから、理由も自覚できないまますべて秘密にしておいたのだ。それは、宝石のような特別な宝物を、入れ物の一番底にしまうのにも似た感覚だった。
「あれ、飛鳥?」
聞き慣れた声。はっと振り向くと、警察官のライトブルーの制服を着た白鳥が立っていた。飛鳥はいきなりのことに少し驚いたが、ここは警察署なのだから白鳥がいても何らおかしくはないし、むしろ飛鳥がここにいることの方が不自然だ。
「え、どうしたの? 何かあったの?」
白鳥は戸惑って、そして心配そうに訊ねる。飛鳥はそれを払拭するように、慌てて「違う違う」と体の前で手を横に振った。
「クラスメイトの付き添いで来ただけだよ」
飛鳥がそう言うと、彼女は「それなら、よかった」と分かり易く胸を撫でおろした。それから、飛鳥のちょうど隣にあった自販機に小銭を入れる。
「警察官もロビーの自販機使うんだね」
「給湯室の自販機が壊れててね。ほんとは、あんまり持ち場から離れちゃいけないんだけど」
でもコーヒー飲みたいし、と子供っぽく笑って、彼女は取り出し口から黒いスチール缶を取り出した。そうして、飛鳥も何か飲むよね、と訊きながら更に200円を投入する。飛鳥は躊躇いがちに頷いて、姉と色違いの缶コーヒーのボタンを押した。
「コーヒーでいいの?」
「もう子どもじゃないんだし、コーヒーくらい飲めるさ」
「眠れなくなっちゃうかもしれないじゃない」
「1缶くらいなら大丈夫だよ」
「そう?」と聞き返しながら、白鳥は自販機の近くに設置されたベンチに座る。飛鳥がぼーっと立っていると、彼女はプルタブを起こそうとしていたのを止めて、ぽんぽんと、自分の隣を叩いた。飛鳥は大人しく、そこに収まった。
「最近、ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
「ほんとに?」
「……多分」
「多分って。ちゃんと寝なきゃだめよ」
少し笑って、白鳥が缶コーヒーを煽る。同じようにコーヒーを口に含むと、特有の匂いが鼻腔を通り抜けていった。すぐに飲み下したが、舌の上には、僅かに苦みが残った。
「寝てないように、見えるかな」
「うーん、どうかな。他の人から見たらそれほどでもないかも」
「……なら、別に」
「でも私には、元気がなさそうに見えたから」
人差し指で缶を撫でながら、白鳥が呟く。飛鳥は言葉に詰まって俯いた。自分の手元にある、彩度の高いパッケージが目に痛い。
やっぱり、姉は自分のことをよく分かっているようだった。
間を繋ぐように、凛々しい横顔を見る。姉さん、と声をかければ、彼女は一拍と置かず弟の顔を見つめ返した。
「《COLOR》抑制器具って——何?」
「《COLOR》抑制器具?」
「うん。ちょっと気になってさ」
「そうねー……まあ、《COLOR》抑制器具っていうのは、その名の通り、《COLOR》が暴走しないように抑える器具のことなんだけど」
缶の縁を弄りながら、白鳥は話し始めた。
そもそも《COLOR》とは、「火事場の馬鹿力」と比喩されるように、「人間が本来持っているが、日常生活では行使されない力」のことだ。そして、その力の出力は、普通なら思い通りに操作できるものではない。だから、多くの人々は《COLOR》を持っていても大した力は使えない。
だが一方で、数は極めて少ないが、白鳥のように自身の《COLOR》の出力の程度や形態までもを自由に操作できる所有者も存在する。
「例えば、戦闘員になると、《COLOR》を高出力で使うことが求められるんだけど、力を出しすぎると自分で制御できなくなっちゃうの。ほら、全力で走ってるときに突然『止まれ』って言われても、足は何歩か前に出ちゃうでしょ? 自分の身体が思い通りに動かない場合があるように、《COLOR》だって、思い通りに使えないときがある」
高出力からいきなり出力を止めるというのは、出だしから駆け足無しで全力疾走するのと同じくらい難しいことなのだと白鳥は言う。そして、白鳥が持っているような、何らかの物質を具現化する《COLOR》においては、制御不可能になったそれは凶器に等しい。
周囲を破壊し、害を為しているのに、使用者自身でも力を止められなくなったとき、それを「暴走」と呼ぶ。
「いくらちゃんと訓練してるって言っても、戦闘員の《COLOR》が暴走する確率は高い。だから、戦闘服には元から抑制器具が取り付けられてるし、そういう職業じゃなくても、どうしても必要なときには民間人に支給されることもあるの。まあでも、申請と検査を受けた上で厳しい審査に通らなきゃいけないから、一般の人に支給されることは少ないんだけどね」
それにしてもよく知ってたわね、と白鳥が言う通り、《COLOR》抑制器具の知名度は低いらしかった。
たまたま知ってさ、と飛鳥が答えていると、ちょうどその時、受付から青太が戻ってきた。彼は飛鳥の隣に座る白鳥に気付くと、あっと声を漏らした。白鳥も青太の姿を見て、彼があの夜に会った少年だと理解すると、優しく笑いかける。
「こんにちは」
「こんにちはっ……あの、この前はお世話になりました」
「いいのよ、仕事だから。あれから、変なことはなかった?」
「はい。特に何も」
「よかった。再犯も多いから、気を付けてね。それにしても、飛鳥が付き添って来たのって、この子のこと?」
飛鳥は重く首肯した。白鳥が「だから抑制器具のこと知ってたのね」と納得したように零す。誤魔化すみたいに、飛鳥は缶コーヒーに口をつけた。
「そっか、クラスメイトだったんだ。不思議な偶然もあるものね」
「えーと、瀬川の、お姉さん……? ですか?」
「ああ、自己紹介してなかったね。飛鳥の姉の瀬川白鳥です。ここの警察官で、戦闘員を務めてます」
「鏡高2年の、水島青太です。あ、瀬川とは同じクラスです」
「水島、青太くんね……ぴったりな名前ね」
白鳥がそう言うと、青太は少し照れたように笑った。飛鳥はむっとして、青太を見上げてもう全部終わったのかと尖った声で訊く。青太はううん、と首を横に振って、そのまま飛鳥の隣に腰を下ろした。
「まだやらないといけないことがあるらしくて、もう少し、時間がかかるみたいだ」
「そうかい」
「それで、ここを出られるのが6時くらいになるかもしれないんだけど……帰りは電車使うから、瀬川の塾には間に合うと思う」
「……帰りも、一緒なのか」
間髪を入れず、うん、と強い肯定。それは、飛鳥に断らせまいとしているように聞こえた。
帰りまで一緒にいる心算はなかった。どこか適当なところで帰ろうと思っていた。岬海黒のことは気になるけれど、彼女について青太が口を割ることはないだろうし、それ以外に青太と話したいことはない。
「いいんじゃない? ほら、2人でいた方が安全だし」
しかし、白鳥にそう言われてしまって、飛鳥は逃げ場がなくなった。聡い姉だから、ここで変に拒絶してしまえば怪しまれるだろう。
飛鳥がしぶしぶ首を縦に振ると、青太の口角が満足げに上がった。
間もなく彼は窓口に呼び出され、再び白鳥と2人きりになった。飛鳥は空になった空き缶を両手で包み、ローファーの爪先で、床の継ぎ目をなぞってみた。飛鳥の手と比べてコーヒーの缶は小さく、所在なさげに、手の中にいる。
「飛鳥は、青太くんのこと、嫌い?」
「……好きじゃないだけだよ」
「そう」
人を嫌うのはダメだとか友達とは仲良くしろだとか、そんなつまらないこと、白鳥は言わなかった。彼女は黙ったまま、ベンチから腰を上げた。
「じゃあ、私も、そろそろ戻るから」
「うん。仕事頑張ってね」
「飛鳥も、塾頑張ってね」
「分かった」
あ、それと、と何かを差し出される。
「これ、青太くんに」
そう言って白鳥が渡してきたのは、ペットボトルのスポーツ飲料だった。いつの間に買っていたのだろうか。
「最近蒸し暑いから、ちゃんと休んでね。忙しいと思うけど、頑張りすぎもよくないから。青太くんも、飛鳥も」
琥珀色の瞳が、柔らかく細められる。白の長髪をさらりと靡かせて、彼女は来た方向へと去って行った。飛鳥は姉の姿を目で追って、彼女の背中が見えなくなると、ペットボトルを空いている左側に置いた。それはひんやりと冷たかった。
受付の方を見れば、そこに青太の姿はなかった。どこか別室へ移動したのだろうか。彼が言っていた通り、まだまだ時間はかかるようだ。
どうして、好きでもない奴の帰りなんか待っているのだろう。自分は嫌だと思っているのに、結局彼の言う通りに動いている。人間関係を円滑に進めるなら、自分の行動は最適解だ。けど、自身の気持ちと相反する行動をとっている自分が、自分から剥がれ落ちていくようで、心地が悪かった。
姉がしていたように、手のひらに収めたまま、缶を人差し指で撫でてみる。体温が移って、生温くなっていた。
ふと、スマホのバイブ音が聞こえた。一定の間隔を挟みながら、何度も聞こえる。着信が入っているようだ。
飛鳥は急いで端末を取り出して、画面を確認した。途端に、心臓が嫌な音で鼓動し、視界が暗転するような錯覚に襲われた。
『岬海黒』。
そこには、彼女の名前が表示されていた。
「外、出てたのか?」
屋内に戻ると、青太も同じタイミングでロビーに帰ってきたところだった。電話がかかってきて、と、鞄の中にスマホを仕舞いながら答える。
そうか、と青太は短く相槌を打って、自分の傘を取って外に出た。飛鳥も傘立てから暗い色をした傘を引き出す。自動ドアを通り抜けてすぐの屋根の下で、青太はくすんだ雲を見上げていた。雨は、まだ降っていた。
飛鳥は意を決して、青太の背を見た。
「これ、姉さんから」
飛鳥は鮮やかな青のラベルのスポーツ飲料を、半ば押し付けるように青太に渡した。「最近蒸し暑いから、ちゃんと休めって」と、白鳥からの言伝も一緒に。すぐに、1歩下がってしまったけれど。
青太は驚いたようにぱちりと瞬きをした。でも両手でそれを受け取って、「ありがとう」と顔を綻ばせた。
「——って、白鳥さんに言っといて」
「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないでくれるかな」
「だって、『瀬川さん』じゃ分かりづらいだろ」
朗らかに笑う青太の頭の上で、透明な傘がぱっと咲く。跳ねた水滴が、きらきらと光ったような気がした。帰ろう、と友達みたいに青太が言うものだから、飛鳥の足も自然に彼の方に近づいてしまった。
けれど、立ち止まった。地面に足を掴まれたようだった。
「瀬川?」
「帰りの、ことなんだけど」
濁りのない黒の目に、真っ直ぐに捉えられる感覚。
「母さんから連絡があって、今からそっちの方に行かないといけなくなった。だから、一緒には帰られない」
違う。嘘だ。これは本当じゃない。
本当は、海黒から連絡があったのだ。今から会えませんか、私ちょうど近くにいるので。彼女はそう言ってきた。だが青太にそんなことを正直に教えてしまえば、確実に止められるだろう。行くな、とその眼差しで突き刺してくるに違いない。
「……本当か?」
「嘘じゃない」
信じてほしい。
飛鳥の言葉に、青太はたじろいた。雨の中だ。傘をさしているとはいえ、少し顔を伏せてしまえば、水の線に邪魔されて飛鳥からその表情は見えなくなる。やがて面を上げた青太は、困ったような笑顔を浮かべていた。
「分かった。疑ってごめんな」
ふと、どうしてそんなにも、2人で帰ることに拘るのだろうかと思った。しかし、その思考に「2人でいた方が安全だ」という白鳥の言葉が重なってくる。
青太は今でも、飛鳥を守ろうとしているのだろうか。直接的に言ってしまえば飛鳥を傷つけてしまうかもしれないから、偽物の理由を用意して。そこまでして、ただのクラスメイトを庇護しようとしている。
青太は、じゃあと言って踵を返した。飛鳥は、遠ざかっていく彼を、ただぼうっと眺めていた。
——青太くんのこと、嫌い?
嫌い、なのだろうか。好きじゃないのは確かだけど、彼に抱く全ての気持ちが、ネガティブなものばかりではないのも事実だ。ただ、受け入れられないのだ。
飛鳥は独りになったところで、やっと、傘をさした。
NEXT>>18
- 2−3 ( No.18 )
- 日時: 2018/08/24 17:28
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: Au2wVmYz)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=998.png
2−3
飛鳥が呼び出されたのは、静かな音楽がバックグラウンドに流れる、小さなカフェだった。海黒は窓際の2人掛けの席に座っていた。彼女は飛鳥の存在に気付くと、ストローから口を離して、対岸の椅子に座るよう視線で促した。
「何か注文しますか」
「いいよ。コーヒー飲んできたから」
そうですか、と言って、海黒は差し出したメニューを元のところに立てる。
ルビーを溶かしたようなアイスティーをストローで混ぜながら、海黒はふっと笑った。
「そんなに緊張しないでくださいよ」
「……僕に、何の用かな」
「この前の上着を返そうと思いまして」
海黒は傍らから紙袋を取り出し、飛鳥に渡した。中を確認してみれば、あの夜海黒に着せた上着が、きちんと畳まれて入っていた。目線を上げると、海黒と目が合う。橙の中で、黒々とした瞳孔は、夕焼け空に穴が空いているようにも見えた。
「それだけですよ」
からん、と冷涼な音と共に氷が崩れる。
「僕が、近くにいるって分かったのはどうして?」
「ただの勘です」
「本当に?」
「ごめんなさい。勘っていうのは嘘です。本当は、『コレ』に連絡が入ってきたんです。飛鳥先輩が、警察署の方に向かってるって」
海黒は1台のスマホを飛鳥に見せた。黒いカバーが付けられているだけのそれは、女子高生が持つにはいささか地味だと思った。
足のつかない携帯、という奴だと直感した。だから海黒はこのご時世にラインのアカウントではなく、電話番号を教えてきたのだ。ラインは会話のログが残ってしまうが、電話の音声は残らない。
飛鳥は窓の外に目を向けた。得体のしれない誰かから見張られていたのかと思うと、今更ながら背筋が凍るようだった。海黒は「危害は加えませんよ」と言ったが、彼女の笑顔に、飛鳥は底恐ろしさしか感じなかった。
「……君は一体、何に関わっているんだ」
「それは、今はまだ言えません」
海黒が嵩の減ったアイスティーをかき混ぜると、最後の氷は完全に溶けて、なくなった。だのに海黒はかき混ぜるのを止めない。コースターに落ちる紅玉色の影が、くるくると回り続けている。
「いつかは教えてくれる、ってことかな」
「そうですね。飛鳥先輩がこれからも私とお話してくれるなら、いつかは」
「でも、海黒さんの目的は僕じゃないんだろ」
——君の目的は『水島青太』だ。
飛鳥がそう言うと、海黒はストローを止めた。そして、その黒いストローの先端を、親指と人指し指で潰してしまった。潰しながら、飛鳥をじっと見ていた。
「生憎、僕は水島の為の釣り餌になるつもりはないよ」
だから、君の都合のいいようには動かない。飛鳥はきっぱりと告げた。しかし、海黒の唇から漏れ聞こえてきたのは、やはり渇いた笑い声だった。
「飛鳥先輩は、随分と『水島青太』さんに拘っているようですけど」
その言葉で、口内の水分を一瞬で奪われたような気分になった。
「……僕が、水島に?」
「だって、そうでしょう。飛鳥先輩はあの時、私ではなく水島青太さんを信じた。それも、ちっとも疑うことなく。なのに、実際は彼に反発している。飛鳥先輩は水島青太さんに対して、矛盾した感情を抱いている」
ローテンポのBGMに混在する、ガラス窓を叩く雨音が、消えない。雨音が飛鳥の鼓膜を打ち、思考の奥の扉を叩く。そして、心の見ないようにしていたところに光が当たる。その光は、10年前と、青太に初めて助けられたときに幻視した、あの闇を裂く光ではない。全てを露わにする探照灯だ。
——あの時青太のことを信じたのは、漠然と、青太は『ヒーロー』なのだと感じてしまっていたからだ。
『ヒーロー』が誰かを傷つけるはずがない、痛めつけるわけがない。だから青太が海黒を襲うなんてありえない、だって彼は『ヒーロー』なのだから。
助けた方と、助けられた方。
助けた方は『ヒーロー』だろう。であれば、その対となる助けられた方は『ヒーロー』ではないのだ。
青太に守られている限り、飛鳥は『ヒーロー』にはなれない。彼が差し出してくる庇護と言う名の傘の外に出なければ、『ヒーロー』にはなれないままだ。だから、彼に反発する。
そして、それは単純な1つの感情だ。
「私には、それが何なのかは分かりません。嫉妬なのかもしれないし、畏怖なのかもしれないし……『劣等感』かもしれない」
青太への『劣等感』。その言葉が、水が地面に染み込むように、自然に胸に落ちる。
「水島青太さんの《COLOR》はとても強力です。威力自体もそうですし、操作する技術も彼はずば抜けています。天賦の才能なんですよ。羨ましいんですよね? 飛鳥先輩は無色(colorless)だから」
どうして知っているんだ、と思ったが、訊くのを止めた。海黒も青太や白鳥のように、相手が無色(colorless)かどうか、感じ取れる側の人間なのだ。
グラスの表面を伝う水滴を、海黒は指先で掬う。それを見ていると、まるで自分の首筋を撫でられたかのように錯覚して、ぞっとした。
「でもね、水島青太さんと、飛鳥先輩では、生きているステージが違うんですよ。だから、彼を意識したって意味がないんです。意味がないのに、飛鳥先輩は彼に拘ってる。水島青太さんの手を借りたくなくて、強がって。でも」
海黒の黄昏が、伏せられて。次の瞬間に、彼女の視線が、飛鳥に突き立てられた。
「——私たちは《COLOR》所持者で、そして飛鳥先輩は無色(colorless)です。一体、飛鳥先輩に、何ができるって言うんですか」
飛鳥は、膝の上で拳を強く握った。爪が痛かった。それ以上に惨めだった。
「力がないのなら、大人しく流された方がいいんじゃないですか」
海黒に黙って従って、そして青太に助けられればいい。そして青太を犠牲にして、何事もなかったように、またいつもの生活に戻ればいい。『ヒーロー』としての青太を研磨する、ただの小石のひとつであればいい。
青太は特別だから、『ヒーロー』の原石だから。皆が彼に注目する。飛鳥自身でさえも思考を彼に占領されている。そして飛鳥に目が向けられることはない。
だとしたら、どうして、現在の海黒は、こんなにも飛鳥のことをしっかりと見ているのだろう。
「……僕、これから塾だから」
飛鳥は、海黒の視線を振り払うように、鞄を手に取って立ち上がった。
「逃げるんですか」
「無断欠席したくないだけだよ」
「分かってます。冗談を言っただけですよ」
「……不愉快だな」
海黒は残ったアイスティーを、グラスに口をつけて飲んだ。
「大人しく、してた方がいいんですよ。無力なんだから」
消えそうな呟きは、彼女が1人で2人掛けのテーブルに座っているせいだろうか、どことなく寂しげに聞こえた。
カフェを出て腕時計を確認すると、時刻は18時半をとっくに過ぎていた。19時半までには塾に着いていなければいけないから、余裕はなかった。
ここからなら、警察署の最寄駅よりも、そこから1つ進んだところの駅の方が近いだろう。飛鳥は、重い足取りのまま駅へ向かった。駅に近づく程人通りが多くなる。いつの間にか帰宅ラッシュの時間帯になっていて、なおさら人が多かった。
雨は止んでいなかった。視界にグレーのフィルムがかかったように、目の前の景色は暗い色をしていた。
頭に、鈍い痛みが走る。前へ進みたがらない足を無理やり動かしているのだから、もう足を引きずっているようなものだった。それでも、塾に行かなければならない。せめて、今までできていたことだけは、『できる』ままでいたかった。だから、塾に行って、19時半からの講義を受けなくちゃいけない。
目線を上げて、進行方向を見る。もうすぐで駅に着く。やはり風景は灰色だった。
——だからこそ、あか色が映えた。
あかい髪、あかい目。夕焼けの下で、10年前に見たあか色。そんな色を持つ、車椅子に乗った男が、飛鳥の横を通り過ぎて行った。それがどんな絵の具よりも鮮やかで、残像すら目に焼き付きそうな程輝いていたから、飛鳥は一瞬時が止まったような気さえした。
はっとして振り返ると、そこにあるのは人ばかりだった。車椅子の人物の姿は見えない。それでも、まだ遠くへは行っていないだろうと、飛鳥は人波をかき分けながら逆行する。そして、すぐに車椅子が目に入った。
「あのっ!」
飛鳥の声で、車椅子がゆっくりと止まる。しかし、振り向いたのは車椅子に乗った人物ではなく、大きな傘をさしながら、それを押していた方の人物だった。
その人は、こんな季節に長袖のパーカーを着て、フードを目深に被っていた。そして、布の奥から真っ直ぐに飛鳥を睨みつけた。冷えた色の瞳だった。
やがて車椅子は道の端を静かに進み始め、雑踏の中に溶けていった。だから、飛鳥はそれ以上何かを言うことはできなかった。
NEXT>>19
- 2−4 ( No.19 )
- 日時: 2018/07/08 09:58
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: P.nd5.WZ)
2−4
「片付け、代ろうか?」
青太の声が、背後で聞こえた。だがそれは飛鳥にかけられたのではなく、一緒に3限目の体育の片付けをしていた、別の男子生徒にかけられたものだった。
ただの日常会話の一部のように、青太がごく自然に代ろうかと言ったので、その男子生徒も遠慮せず、助かると言ってすぐに教室に戻ってしまった。
しかし飛鳥は、青太の本当の目的は片付けを手伝うことではない、と何となく理解した。
「……今度は何だい」
大方、また何か話でもあるのだろうと思った。けれど青太は黙ったままだった。飛鳥が得点板を器具庫の奥に仕舞う後ろで、青太は授業で使ったゼッケンを畳んでいた。こちらへの視線は感じないが、彼の気配はある。青太の呼吸音が聞こえている。だが、今までとは違って、その沈黙から彼の感情を読み取ることはできなかった。
ボールまで仕舞い終わって、後ろを見る。青太も、最後の1枚をカゴに入れたところだった。彼の畳み方は案外大雑把だった。
体操着が肌に貼りつく。早くこんな蒸し暑いところから出たい。しかし飛鳥は1歩も踏み出せなかった。器具庫に唯一ある出入り口の前に青太がいたからだ。彼はゼッケンのカゴを、壁に設置された棚の上段に収めた。それで片付けは完了した筈だった。それでもなお青太は黙っていた。そして、動こうともせず、その場に立っていた。無音の空間は、教室棟で、昼休憩で賑わう生徒たちの声が流れ込んでくる程だった。
「岬海黒に会ったのか」
唐突に、青太が言った。
「クラスの女子が話してた。お前が昨日の6時半頃に1年の女子と一緒にいた、って」
彼は早口で言った。彼の渇いた唇しか動いていなかった。それ以外の動作は一切削ぎ落ちていた。彼の両目がどこを見ていたのか、横顔からは窺い知れなかった。
「岬海黒に、会ったのか」
そうして、青太の頭が動いた。
首だけを動かして飛鳥を見つめる目は、薄暗い空間の中でも、けっして黒一色に塗り潰されてはいない。やはり、深海のように青い光を奥に湛えているのが分かる色をしていた。それくらい、彼の本当の瞳の色は鮮やかなのだった。
「会った」
平らな水面に石を落とした時のように。青太の瞳が確かに揺れた、と思った次の瞬間、身体が前にふらついて、彼の双眸が眼前に現れた。
「どうして」
絞り出すような声も、その言葉に纏わりつく浅い息遣いまで、はっきりと聞こえた。首元が苦しい。どうやら、青太に体操着の襟ぐりを掴まれているらしかった。
「岬海黒にはもう近付くなって言っただろ」
青太の声に、さっき男子生徒に話しかけたときのような穏やかさはない。冷たさと熱を同時に孕んだ、今までに聞いたことのない声で飛鳥に詰め寄る。どうして会ったんだ、と絞り出す声。
飛鳥は少し息を吸った。6月の水分と、汗の臭いのする生温い酸素が喉の内側を撫でていく。
「言わない。君には関係ない」
それを吐き出した途端、黒い前髪の隙間に見える目が、一瞬で激情に染まった。
ガンッ、と重い金属音と共に、腰に鈍痛が走る。身体を押されて、後ろにあった鉄のボール籠に激突したのだろう。だが青太は距離を広げることなく、至近距離から飛鳥を睨み続ける。
「彼女は危険だって、言っただろ」
「ああ。言ってたね」
「近付くなって言っただろ」
「ああ聞いたよ」
「じゃあ何で会ったんだ」
「僕は君の言うことに従うなんて一度も言ってないだろ」
そう言えば、より強い力で抑え付けられた。鉄枠が身体に食い込みそうな程、強い力で。
「お前、自分が『無色(colorless)』ってこと、分かってるのか」
ああ、水島までそんなこと言うのか。
「——分かってるよ、そんなことは!」
叫んで、飛鳥は、自らの首を圧迫する手に掴みかかった。拘束を離そうとしたわけではない。ただ、彼の手首を握り締めて爪を立てるためだった。それが無力な無色(colorless)にできる唯一の足掻きだった。
自分は無色(colorless)で、海黒や青太のように強力な《COLOR》を持った人間には敵わない。そんなことは、海黒と対峙し、青太に助けられたあの夜に痛感していた筈だった。
だから本当は、海黒と会ってはいけなかった。海黒を無視することの方が正しかった。それが正しいと、分かっていたのに、会ってしまった。
「なら、彼女と会って、無事ではいられない可能性だって考えられただろ。かすり傷程度の話じゃない、今ここに五体満足で立っていられるかだって分からなかったんだ。五感が正常なままでいられるか分からなかったんだぞ。今日学校に来られるか、昨日家に帰れるかさえ分からなかったんだぞ。今、生きていられるかどうかすら——」
最悪の事態を想像してしまったのだろうか。青太の最後の言葉は、苦しそうに掻き消えていった。
「分かってるさ。分かっててやったんだ。全部、僕が決めてやったことだ」
だから君は関係ない、と飛鳥は吐き捨てた。青太の手を掴む力も、一瞬たりとも緩めなかった。それに反して、視界は不安定で、何度も歪んだ。眩暈にも似ていた。ともすれば、薄暗い器具庫の天井を、雨雲だと勘違いしてしまいそうだった。
加速していくような、解離していくような、崩壊していくような。胸の中心が冷たくなって、ずっとざわめいている。
人差し指の爪は、ついに青太の肌を突き破った。爪の先に赤い血が滲んだ。しかし、青太が飛鳥から目を逸らすことはなかった。
「お前が、『信じてほしい』って言うから」
手首を、何かが伝っていった。それは汗だったのだろうか、それとも青太の血だったのだろうか。床に落ちてしまった今、もう確認することはできない。
「オレも、信じていいんだって思って、信じたのに」
瞬間、あんなに頑なだった青太の手が、驚くほどあっさりと解かれた。気道が急激に酸素を取り込んだせいで、少し咽る。
呼吸を整えて、気が付けば青太の姿は目の前にはなく、教室棟へ戻っていく背中だけが見えた。
飛鳥は、鉄枠に触れた手で、ボール籠を殴った。強い衝撃と痛みが、指先にまで伝播した。中に入っていたバスケットボールが、幾つかその中で転がった。
教室に戻ると、いつも一緒に昼食を食べている友人が、今日は先に弁当箱を開いていた。飛鳥に気が付くと、遅かったなーと言って唐揚げを口に放り込んだ。仕舞う場所が分からなくて、と適当な言い訳をしながら、飛鳥は昼食を取りに自分の席に向かう。
隣の席には、潮田が座っていて、他の女子生徒数人と一緒に弁当を食べていた。
「飛鳥くん、遅かったね。体育の片付け?」
「うん」
もう1つの隣の席——窓際の、青太の席は空っぽだった。だのに青太の声が間近で聞こえたような気がした。はっとして周りを見る。けれど、教室内に青太の姿は見当たらなかった。
「どうしたの?」
「……いや、何でもないよ」
「あ、そういえば……飛鳥くんに、訊きたいことがあるんだけど」
「訊きたいこと?」と飛鳥が訊ねる前に、潮田は飛鳥の方に身体を寄せて、声を潜めた。
——昨日、飛鳥くんが、1年生の女の子と一緒にいたって聞いたんだけど、それって。
「その話、今じゃないとダメかな」
飛鳥は立ったまま、彼女の台詞を遮った。いつもと同じように、自然に言ったつもりだった。しかし、ふと目を向けた先にいた潮田の表情は引き攣っていた。自分は、存外、きつい言い方をしてしまっていたのかもしれない。潮田の不自然な沈黙は、その友人たちをも黙らせた。そして次第に、それが他のグループにも伝染していく。十数秒後には、温い空気で充満する教室が、昼休憩だというのに静寂に包まれた。
「あ……ごめん」
情けないほど小さな声で、飛鳥は謝った。すぐに潮田に背を向ける。鞄から弁当を取り出す為、という名目の上で、飛鳥は彼女からの視線から逃れようとした。鞄を開いた時、スマホの通知のライトが光っていることに気が付いた。ポップアップで、ラインに送られてきたメッセージが表示されている。送信者は姉の白鳥だった。
——放課後、暇? 夕方から休みが取れたから、一緒に何か食べにいかない?
簡単なメッセージが飛鳥の目に映る。飛鳥は、一度だけ端末をぎゅっと握って、了承の意を伝える返信を送った。
NEXT>>20
- 2−5 ( No.20 )
- 日時: 2019/06/26 00:13
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: wZJYJKJ.)
2−5
「あっ、飛鳥! こっちこっち」
腕時計の短針が、午後4時を示している。白鳥がコンビニ近くの駐車場で手を振っている。傍らには、彼女の愛車の、よく磨かれたバイクが従っていた。
「姉さん、待った?」
「全然。今来たところ」
今日の白鳥は、ライトブルーの制服でも戦闘服でもなく、モノトーンの私服姿だ。彼女は無彩色の空を見上げて、雨が降らなくてよかったと笑った。
「飛鳥、甘いものとかは大丈夫よね」
「うん、大丈夫だよ。これからどこに行くの?」
「ちょっといいとこ」
白鳥が楽しそうにしているので、飛鳥も眉を下げて笑い返した。彼女は飛鳥にヘルメットを渡し、自分もヘルメットを装着してバイクに跨る。飛鳥は、少し行儀は悪いけれど、通学鞄を縦にして背負って、彼女の後ろに乗った。
白鳥が運転するバイクに乗るのは久々で、レザーの硬いサドルに座ると、自然と心拍数が上がる。やがてエンジンがかかり、同時に下半身から全身に振動が伝わってくる。バイクは駐車場を飛び出して、道路を真っ直ぐに走り始めた。見慣れた景色が急速に流れていく。シールド越しに見えるものだけれど、それは車内から見るのとは違って、映像のようではなかった。身体が風を切っていく感触が、リアルに思わせているのだろうか。
外界の音はほとんど入ってこない。空気の中を突き抜けていく感覚が、何もかもを後ろに置いて行って、全てを忘れさせてくれるようだった。
ほどなくして到着したのは、警察署の近くの、とあるビルの1階に作られたパンケーキの店だった。白鳥曰く、1か月前に東京からやってきたばかりらしい。店内はほとんど女性客ばかりだったが、中には空席もあった。2人は4段重ねのパンケーキを注文して、2段づつ分けて食べることにした。
「パンケーキって、専門店で食べたことなかったから、食べてみたかったのよね」
やがて運ばれてきたパンケーキを、白鳥はナイフとフォークで器用に2枚の皿に分けた。そして片方を、はい、と飛鳥に渡す。
「ありがとう」
パンケーキの分厚い生地は、水彩のような黄土色をしていた。フォークの背で押さえてみるとふんわりと沈む。その一片を口に含んでみれば、瞬間、きつい甘さが口内に広がった。
「甘すぎた?」
「……ちょっと、ね」
「きついなら、残りは私が食べるけど」
「いいよ。食べ切れる」
実際食べ切れない程の甘さではなかったし、ここで残すのはせっかく誘ってくれた姉に悪い気がして、飛鳥は食事を止めなかった。白鳥を見れば、美味しそうにパンケーキを食べていた。
「あ、そういえば、知ってる? 糖分って、本当は疲労回復にはならないんだって」
そう話す白鳥の口に、黄土色の塊がまた吸い込まれていく。
「砂糖はアドレナリンやドーパミンの分泌を促すから、甘いものを食べると元気になったような気がするけど、実際は身体の疲れはとれないんだって」
「そうだったんだ、知らなかった」
「私も、ついさっき知ったの。でももうちょっと早く知りたかったな」
飛鳥は、丸い皿の上の物体を見下ろしてみた。気持ちを明るくするだけのものなんて、覚醒剤のアッパーと同じだとふと思った。
「今日は、塾は無いのよね」
「うん」
「じゃあ、久しぶりに一緒に帰れるね」
久しぶりに、姉さんと一緒に。そう考えると、心が浮遊するようだった。
「そうだね。姉さんは仕事で忙しいし」
「飛鳥は、学校と塾で忙しいから」
「姉さんと一緒に帰れるなんて、嬉しいな」
「私も」
パンケーキをフォークで刺して、食べる。それは甘いばかりで、美味しいとは感じない。しかし心は、少し柔くなっているような気がした。勿論、パンケーキ程ではないけれど。
「そういえば、最近、学校はどう?」
「……あんまり、上手くはいってないかな」
「テストの点が悪かったとか?」
「勉強のことじゃ、ないんだ」
飛鳥は視線を落としたまま答えた。フォークの切っ先が、天井の灯りに照らされ、ぎらりと光る。彼はフォークを皿の上に置いた。その時にお互いが擦れて、甲高くて不快な音が鳴った。
「……昨日、警察署でさ。姉さんが、僕に、水島のことが嫌いかって訊いてきたのは——僕が、水島のこと、嫌ってるように見えたから?」
飛鳥の言葉を聞くと、白鳥は一度だけ瞬きをした。そしてそのまま、静かにナイフとフォークを置いた。
「……青太くんにかける言葉に、どことなく、棘があるような気がしたから。クラスメイトの子にあんな言い方するのは、飛鳥にしては珍しいなって、思ったの」
やっぱり、外面を保ち続けることまで困難になっているようだ。青太が相手だと、自分の内心が過剰に表れてしまうのは自覚していたけど、今日の潮田との一件で、青太以外に対してまで『瀬川飛鳥の外面』を貼り付けられなくなっている。
飛鳥は自身の空の両手を、無意識に机の下で組んだ。
「でも、飛鳥が本当に青太くんのことを嫌ってるって思ってたら、あんなことは言わなかったよ」
「……どういうこと?」
「言葉に険がある割には、飛鳥は、青太くんの目を見て話してた。だから、ただ単純に嫌いってわけじゃないんだろうなって思った」
「僕が、水島を……」
気が付けば、昨日海黒と話した時と似たような台詞を反復していた。「水島青太に拘っている」と海黒に言われて、劣等感を抱いていると暴かれて、その時思わず言ってしまった台詞だ。
けれど白鳥が言いたいのは、嫌悪とも劣等感とも違う感情のような気がした。
「だからね、気になってちょっと意地悪なこと言っちゃった」
ごめんね、と白鳥が言うから、飛鳥もいいよと言う風に首を横に振った。
白鳥は手放していたフォークとナイフを手に取って、再びパンケーキを口に運び始める。飛鳥も両手を解いて、残り少なくなった甘さの塊を片付けることにした。
「姉さん、あのさ」
最後の一塊を嚥下して、飛鳥は相対する白鳥の目を見た。
「僕、戦闘員になりたいんだ」
白鳥の目線が落ちてしまう前に、飛鳥は言葉を続ける。
「姉さんと同じ、戦闘員になりたいんだ」
姉と同じようになるなんて無理だと、飛鳥は分かっていた。《COLOR》犯罪専門の戦闘員になるには、自らも《COLOR》を所持していることが最低条件で、その中でも優秀な《COLOR》所持者——例えば、水島青太みたいな人間でないとなれないのは、ずっと前から知っていた。
けどここで、たとえ白鳥に「無理だ」と言われても、自分は決して諦められないだろうと思った。いつの間にか、自分が無色(colorless)であることに、こんなに拘泥していた。無色(colorless)であるならば、他のことを頑張って、無い分を埋め合わせればいいと思っていた。それで自分の心に整理がつくと思っていた。しかし現実はそうはならなくて、自らの甘さがずきずきと痛むのだった。やっぱり無色(colorless)であることを認められない。無様で、馬鹿みたいだ。
「……戦闘員は、危険な仕事よ」
白鳥は思っていた通り、居心地悪そうに目を伏せた。彼女はこの話題を避けたがる。
「知ってる。でも姉さんは、それを職業にしてるじゃないか」
「確かにそうだけど」
皿の上で銀色のナイフがぎらぎらと、その刃を光らせている。
どうすれば自分はまともになれるだろうか。どうすれば醜態を晒さずにいられるだろうか。払拭すればいいのか、乗り越えればいいのか。
「……どうして、僕にも、人を救えるって言ってくれないのさ。水島と僕は、そんなにも違うの」
「ちょっと、待ってよ。なんでそこで青太くんが出てくるの」
「だって、姉さんが、水島にだけは『誰かを守れて、救える』って、言った……か、ら」
いや、違う。白鳥がこれを言ったのは、あの夜青太と2人きりになった時だ。それで飛鳥は隠れていたから、白鳥は、あの場に飛鳥がいたことを知らない。だのに飛鳥が2人の会話を知っているなんて、白鳥からしてみればおかしなことで。
しまった、と思ったときには、姉の目の色が変わっていた。懐疑の色を含んだそれは、刹那、罪を見抜く警察官の目になる。
「飛鳥。あの夜、あの廃工場にいたの」
「それ、は」
「イエスかノーで答えなさい。いなかったのなら『いなかった』って言えばいい筈よ」
そうだ、無駄な言い訳なんて逆効果だ。正直にイエスと、嘘を吐いてでもノーと、とにかくそのどちらかで答えなければいけない。なのに何も言えない。声が、出ない。呼吸もしているし、喉も震えているのに、音になって出ていかない。
膝に乗せた掌に嫌な汗が滲んで、スラックスの上で滑る。喘ぐように開いた口から吐息しか漏れない飛鳥を、白鳥はじっと見つめてる。
その琥珀色の拘束から逃れたくて、彼は窓の方に視線を逸らした。
そして、視界の中心に『岬海黒』の姿を捉えてしまった。
見間違いではなかった。彼女は制服姿のまま、向こう側の歩道を走っていた。どうしてここにいるのか、どうして走っているのか。彼女の進行方向とは逆の方に目線を移動させれば、2人の人間が彼女を追いかけていた。
「行かないと」
あんなに言葉に困っていたのに、その呟きは簡単に音声になった。飛鳥が派手な音を立てて立ち上がったので、白鳥は瞠目して、微かに弟の名を呼んだ。
「姉さん、ごめん。僕、行かないと」
「待って飛鳥!」
白鳥の隣を通り抜けて店から出ていこうとする飛鳥の腕を、彼女は素早く掴んだ。
「……離してよ」
「いやよ。突然どうしたの」
細い指に血管を圧迫されながら、飛鳥は白鳥の顔を見る。
「僕が行かないと……『彼女』が、傷つくかもしれないんだ」
「え……?」
だから離して、と飛鳥は姉の手を無理やりに振り払おうとした。しかし反して、白鳥の力は強くなった。そして、「私も行く」とただ端的にそう言った。
NEXT>>21
- 2−6 ( No.21 )
- 日時: 2018/07/29 11:03
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: WqZH6bso)
2−6
海黒が逃げて行ったのは西の方角だった。飛鳥は店から出た途端白鳥のバイクに乗せられて、そのまま西へ走った。
走り出して間もなく、幸運にも海黒の背中を見つけた。彼女は左手に曲がって、狭い路地へ入っていった。バイクはその1つ向こうの、幅の広い道を同じく左に曲がる。
小さな店が立ち並ぶ中、やがて、ガードレールと鬱蒼と茂る木々が見えてくる。そこは公園だった。小柄な遊具と狭い砂場があるだけの、小さな公園だ。外周を囲うように広葉樹が植えられていて、ポールが立つ入り口に近づいて初めて、内部の様子が分かった。
海黒は、ブランコの柵に手をついて、肩を大きく上下させていた。飛鳥が白鳥の背中を叩くと、2人が乗るバイクは公園近くの駐車場で停まる。
飛鳥は急いで座席から降りて、公園の中に入った。海黒さん、と声をかければ、海黒ははっと身体を強ばらせて、飛鳥を見た。その目は、橙の光彩が円形なのが分かる程、大きく見開かれている。
「……どうして、こんなところに」
彼女が震える声で呟くのと同時に、白鳥も公園に入ってきた。
「その子が、飛鳥が追いかけてた子なのね」
白鳥の言葉に、飛鳥は黙って首肯する。彼女は飛鳥のすぐ隣に立って、小さな声で飛鳥に囁きかけた。
「……あっちの方、男2人組が外から、その子を見てる」
白鳥が西側に並ぶ木々を目線で示す。飛鳥もそれに倣って、男らと目が合って気付かれないよう下の方を見つつ、そちらを確認する。すると、姉の言う通り木々の隙間から2人分の足が視認できた。
「その子は、あの男たちのことは知ってるの」
「多分、知ってる」
『あの夜』、海黒と自分たちを襲撃してきた3人組の仲間だろうか。詳細は分からない、けれど海黒が彼らから逃げているというのは、2人組が遠巻きに海黒を監視していることから明らかだった。
飛鳥が一歩だけ海黒に寄ると、彼女は一歩退いた。その動きがどことなくぎこちない。見れば、膝にガーゼが貼られていた。『あの夜』海黒は膝から血を流していたから、おそらくその傷が完治していないだけなのだろうが、足首の辺りに見える鬱血痕には見覚えがなかった。
「海黒さんが走ってるのが、たまたま目に入ってさ」
「それで追いかけてきたんですか」
「心配になったから」
追われてるよね、と飛鳥が声を抑えて問い詰めれば、海黒は不快そうに眉を顰めた。
「ええそうですよ。それで? わざわざそんなことを言うために、来たんですか」
海黒は即座に、強く切り返してくる。乱れて、頬にかかった横髪を雑に払って、飛鳥の隣に立つ白鳥に鋭い視線を向けた。
「……その人は」
「私は瀬川白鳥です。飛鳥の姉で——府警の警察官です」
海黒は、警察、と小さく反芻した。白鳥は、白い長髪をふわりと耳にかけて、目の前の少女に尋ねる。
「君は……岬、海黒ちゃん、かな」
「……どうして、私の名前を」
「たまたま、そんな名前な気がしたから」
嘘だ、と飛鳥は思った。姉は、飛鳥が落としたメモに書かれていた『岬海黒』の名前を覚えていたのだ。彼女の聡明な脳による必然だ。もしくは、強運による本当の偶然だったのだろうか。
海黒は少し俯いて、今度は白鳥から逃れんとするように、再び後退する。しかし白鳥は、海黒には近付かず、今立っている場所から彼女に優しく笑いかけた。
「怪我してるね。その足だと、立ってるのはしんどいでしょう。どこかに座る?」
海黒は首を横に振った。白鳥は「そう」と目を細める。
すうと、息を吸う音がした。
「——あの男たちと、面識はある?」
静謐な声で白鳥は問う。海黒が鈍い動作で否定すると、彼女は少し考えて、再び問いかける。
「追われてる原因に、心当たりはある?」
「……ありません」
海黒は俯いたまま答えた。喉から絞り出したような、か細い答えだった。
その時、バイブレーションの音が聞こえた。音源は白鳥が持つ鞄の中だった。白鳥は急いでスマホを——彼女がプライベートで使っている白い手帳型のものではなく、銀色のカバーが装着された、仕事用の端末を取り出す。
その時にはもう、白鳥は優しい笑顔から、眉根を寄せた厳しい表情に変わっていた。後ろを向き、飛鳥と海黒から数歩離れて、端末を耳に当てる。凛とした声の短い応答が、徐々に緊張を孕んでいくのが分かる。
やがて通話を切った白鳥は、スマホを強く握って、飛鳥達の方に振り返った。
「姉さんどうしたの」
「緊急の応援要請が入ったわ。だから、もう行かなきゃ」
白鳥は、一度目を横に滑らせて、また海黒を見た。
「岬海黒ちゃん。君は、家はこの近く?」
「……はい」
「それじゃあ、飛鳥、海黒ちゃんを家まで送ってあげて」
飛鳥は小さな間を置いて、うんと頷いた。男2人組はもういなかった。
「本当に、何か困ってることがあったら、警察に相談してね。すぐに動いてくれないこともあるけど、それでも、何も言わないよりはずっといいから」
それから彼女は、飛鳥を見上げた。飛鳥のとは違う、色素が透明感のあるまま凝縮された琥珀と目が合う。
「飛鳥も——彼女を、家に送るだけよ。それ以外のことは、絶対にしないで。それ以上踏み込んだことはしないで」
約束よ、と白鳥は小指は出さなかったが、飛鳥の手をぎゅっと両手で包み込んで、去って行った。飛鳥は姉の背中を見送れなかった。姉の体温が離れた手が、どうしようもなく小さく見えた。
唐突に、砂利が擦れる音が聞こえた。
「海黒さん……」
「1人で帰れます」
「でも」
「1人で帰れるって、言ってるじゃないですか」
「……海黒さん、自分では気付いてないかもしれないけど、顔色、すごく悪いよ」
飛鳥の言葉に、海黒ははっと、自分の頬を触った。そのまま、彼女の手の平はまるで頬に爪を立てるような形で硬直し、ゆっくりと下がっていく。悔しそうに唇を噛んで、飛鳥を見上げた。その眼には、カフェで飛鳥を見透かしたときの、軽視と蔑みの色はなかった。ただただ、今にも泣きだしそうな程に歪んで見えた。
「私は、独りで帰れます。独りだって……」
悲痛な言葉が砂利の上に落ちていく。海黒はしばらくして、またふらりと歩き出した。でも、そんな足で帰れるわけがない。飛鳥は、彼女の名を呼んで、そちらにつま先を向けた。
「ついてこないで!」
小さな背中が、震える肩が、か弱い腕が、強く握られた拳が。彼女の背後から見える全てが、飛鳥を拒絶している。俄かに走り出した彼女の姿は、彼女自身が小柄な為だろうか、すぐに見えなくなってしまった。まだ明るいのに、まるで、闇の中に溶けていくみたいだった。
公園に取り残された飛鳥は、はあと湿った息を吐いた。空気が停滞している。こんなところに突っ立って、自分は何をしているのだろう。
とりあえず、駅に向かおうと思った。この辺りの地理はよく知らないが、大通りに戻って歩いていれば、警察署の最寄り駅か、その1つ向こうの駅のどちらかには辿り着くだろう。
ふと空を見れば、珍しく雲が薄くなっていて、雨は降りそうになかった。けれど、紗のような雲越しの太陽の、その白い光が目に刺さった。
公園から10分程歩いた辺りで、昨日使った駅の近くに出た。時間帯が早いこともあってか、昨日より人通りは少なかった。
そうして、昨日と同じものが目に入った。
あかい髪、あかい目。そんな色彩の青年を乗せた車椅子と、フードを目深に被った人物。写真のように、もしくは絵画のように、彼らが視界に入って来た途端、世界が止まって見えた。灰色の背景の中心できらきらと、『あか色』が絶え間なく輝いているのだ。
「あの、すいません」
飛鳥は彼らに近づいて声をかけた。今度は間近に寄っていたから、彼らを見失うことはなかった。
そうすると、車椅子を押す人物が、自分と同じ年頃の少年であることが分かった。背丈は自分より少し低い程度。濃い灰色をした目は剣呑な光を孕んで、唇は一文字にきつく結ばれていた。頬には大きなガーゼが貼られていて、痛々しい。けれどその顔立ち自体は、子どもらしいあどけなさを残したものだった。
「誰だ、アンタ」
低くもなければ高くもない、濁りのない声が少年から発せられる。
「鏡高2年の瀬川と言います。車椅子に乗ってる方に……用が、あるんです」
「用……?」
少年は、車椅子の青年をちらりと見た。そして、青年が彼を見上げてゆっくりと頷くと、少年は器用に車椅子を動かして、飛鳥と青年が対面できるようにした。
その『あか色』と対峙すると、改めて圧倒されるのだった。単色のように見えて、暗いところは深みのある色になっているし、明るいところは彩度が増して煌めいている。それが、髪の毛の色も目の色も作り物ではなく、生来の色であるという何よりの証拠だった。
「瀬川くん、だっけ。一体、何の用かな」
低音の、大人の男性の声。彼は細いフレームの眼鏡をかけていた。レンズ越しに見える双眸は、ショーウインドウ越しに眺める宝石のようだ。
「10年前の夏の日、あなたに助けてもらったんです」
ただ1つの色に染め上げられた夕暮れの空、ヒグラシの鳴き声。ワゴン車のシートのざらつき、首に纏わりついた紐の圧迫感。男の冷たい体温と、『ヒーロー』の温かい手。
脳裏に、あか色の輝きと共に流れ込んできた感覚が、涙が頬を伝っていく感触まで思い起こさせるようだった。
飛鳥は息が上がりそうになるのを抑えて、言葉を続ける。
「それで、あなたにお礼を言いたくて。あの時は、本当に——」
覚えてないな、と。
冷たい音が、飛鳥の声を塞いだ。
「生憎、そんなことをした記憶はないんだ。きっと人違いだよ」
声音の割に、青年の表情は非常に優しいものだった。涙を拭ってくれた『ヒーロー』と全く同じ顔をしているのに、かけてくる言葉はまったく解離している。
「でも、確かに」
「10年前、って言ったね。それ程昔の記憶は、自分の都合のいいように脚色され尽くしてしまっているものだ。君が間違いないと思っていても、実際は間違っている可能性の方が高い。だから簡単に『確かに』なんて言わない方が賢明だよ」
飛鳥はそれ以上、台詞を続けられなかった。しかし、青年の『あか色』は、ヒーローの『あか色』と全く同じなのだ。見間違える筈がない。だって、ずっと思い続けてきたのだから。
だのに、『ヒーロー』と思われる青年は、平然と否定したのだった。
「行こう、ハイジ」
青年がそう言えば、「ハイジ」と呼ばれた少年は、素直に、そして厳かに「はい」と答えた。それから、飛鳥に一言も残さず、冷えた視線を飛鳥に突き刺して、車椅子を押し始めた。
NEXT>>22
- 2−7 ( No.22 )
- 日時: 2018/08/09 23:18
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: kws6/YDl)
2−7
5限目が終わってすぐ、飛鳥は英語の教師に廊下へ呼び出された。廊下の端まで来ると、その英語教師は「最近小テストの成績が悪いじゃないか」と言って、飛鳥に数枚の紙を渡した。それはここ数回の小テストだった。右上に点数が書かれている。その赤色の数字は、回を重ねる毎に降下していた。
さあっと、身体の温度が抜け落ちていくような気がした。着実に点数が悪くなっていることを、彼は知らなかった。自覚していなかったのだ。普段なら気が付けていた筈なのに。
確かにこの十数日は色々あって、放課後に勉強することは少なくなっていた。でもその分、自宅に帰ってからの勉強時間は増やしていたし、勉強の仕方だって変えていない。集中できていなかったのだろうか。だから成績が下降しているのだろう。
ちゃんと復習しておけよ、と教師は飛鳥に言った。2週間後には期末テストがあるから、と。飛鳥は、英語は特によくできる生徒だったから、教師も彼のことを叱りはしなかった。しかし、返事をした彼の声は震えていた。赤色の、無様な数字が網膜を責め立てる。遅くまで起きて勉強していたあの時間は、紙くずみたいに無駄なものだったんだと思った。
こめかみに何かがちらちらと当たる感触がする。廊下に出ている生徒が、こちらを盗み見ているようだった。期末テストは頑張ります、と飛鳥は答えた。
教室に戻ると、隣の席に青太がいた。彼は自分のリュックサックを机に置いて、その上に自分の頭を乗せて、ぼんやりと、何もない窓の外を見ていた。彼が、特に用もないのに放課後まで教室に残っているのは珍しいことだ。
飛鳥が近づくと、青太の身体がびくりと動いた。そして、リュックサックを抱え込むように引き寄せて、そこに頭を埋めた。飛鳥の方は見なかった。
飛鳥は自分の席に座って、机上に置かれていた配布物のプリントを眺める。なんてことはない、スクールカウンセラーの出校日が書かれたプリントだ。紙面の下の方には、学校周辺にある児童支援センターの紹介の欄があって、そこには相談員の名前も書かれていた。
相談員の内の1人、『岬紅野』——そこで飛鳥は、ああと了解した。岬海黒と初めて会って名前を教えられたときに感じた既視感は、これのことだろう。カウンセラーの出校日は毎月変わるけれど、それ以外の書かれている内容は毎月同じだから、『岬』という苗字を無意識に覚えていたのだ。
この人物は、海黒の血縁者だろうか。それとも、『岬』という苗字は特別珍しいものでもないから、ただの他人だろうか。飛鳥は、年齢も性別も分からない『岬紅野』に思考を巡らせる。この名前は、一体何と読むのだろう。
「岬、『コウヤ』……?」
彼がそう呟いた瞬間、ひゅっと、青太の息を吸う音が聞こえた。青太はすぐに上体を起こして、飛鳥を直視した。その目が、信じられないものを見たというように、もしくは何かを恐れるように、不安げに見開かれている。
「……何」
飛鳥が問えば、青太は小さな声を吐き出した。
「……どうして、『ミサキコウヤ』を知ってるんだ」
「知ってるも何も、ここに書いてある」
飛鳥は青太に、自分が持っていたプリントを見せた。その時、その児童支援センターの住所が、学校の最寄駅から3つ先の駅——あか色の青年と、ハイジと呼ばれた少年と出会ったところだと、気が付いた。
青太は飛鳥の言葉を聞き、そうか、と苦々しく呟いて、またリュックサックの上に伏せてしまった。
「……君は、この人のこと、知ってるのか」
青太は何も答えない。こちらに耳を欹てて(そばだてて)いるくせに、反して彼は無反応だった。
「海黒さんと、何か関わりのある人なのか」
返事はない。水島、と青太の肩を掴もうと手を伸ばす。しかし、糊のきいた真新しいYシャツの、存外硬い生地に指先が触れたところで、飛鳥は止まった。
昨日の、体育館倉庫での一件が蘇ってきたのだ。飛鳥は青太に嘘を吐いて、信頼を裏切って怒らせた。怒りと失望と、遣る瀬ない感情で混濁として、鈍い光を放っていた青太の目。そんな色の目を向けたような相手と、関わりたくないと思うのは当然だった。
青太が堅い殻を纏っているような気がして、飛鳥は手を離した。そんな自分の手が、やはり情けなく見えてくるのだった。思えば、彼が飛鳥の言葉を無視するのはこれが初めてかもしれない。
プリントを鞄に仕舞って、ファスナーを閉める。顔を上げれば、チョークの跡が残った黒板と、黒板に落書きしながら、教卓のところで談笑する女子生徒が見えた。
悪かった。ごめん。
青太がぴくりと動いた。だがそれを言ったのは青太ではなくて、飛鳥の方だった。飛鳥の唇の隙間から漏れ出た台詞だった。
「……本当に、そう思ってるのか」
顔を伏せたまま、青太が言う。思ってる、とは声に出して答えられなかった。だとしても、青太に対して不誠実なことをしたのは本当で、そのことを、ちゃんと謝らなければいけないと思った。
「僕は、水島の気持ちを、蔑ろにしたから」
膝の上に両の掌を置いて、けれど青太に真正面に向き合う勇気はなくて。まだ何人か生徒が残っている教室に、霧散して消えてしまいそうな声だった。
ぺきり、と。チョークの割れる音。女子生徒の指先から、白墨の破片が零れ落ちていった。
しばらく経って、青太がおもむろに起き上がり飛鳥を見た。何かを言おうとするように、彼の口が何度か小さく動く。そうして、意を決したように息を吸って、青太が最初に発したのは『岬紅野』の名だった。
「『岬紅野』——その人は、岬海黒の兄だ」
「海黒さんの、お兄さん……」
「そう。普段はカウンセラーとして働いてる。でもそいつは」
そこで青太は再び口を噤んだ。口元に手を当てて、時折飛鳥に視線を寄越しながら、言葉を模索しているようだった。やがて、彼の喉が隆起した。
「——『岬紅野』は、犯罪者だ」
犯罪者、と飛鳥は思わず繰り返した。
「……海黒さんのお兄さんが、犯罪者……?」
青太は沈黙したまま頷いた。そして「場所を変えよう」と告げて、リュックサックを持って立ち上がる。飛鳥も通学鞄を肩にかけて、廊下に出た青太を急いで追いかける。その時になぜか、海黒の言葉が脳裏を過ぎった。
——まあ、特に珍しい苗字ってわけでもないですもんね。
——でも、もしよかったら、下の名前で呼んでください。
ひょっとすると海黒は、飛鳥に近づくためではなくて、『苗字で呼ばれないために』下の名前で呼ばせるようにしたのではないかと、飛鳥には思えてきた。
階段を降りていく背を見失わないように、飛鳥は歩調を速めた。
NEXT>>23
- 2−8 ( No.23 )
- 日時: 2018/08/11 19:37
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: qs8LIt7f)
2−8
「瀬川は、死にたいなって、思ったことあるか?」
中庭の隅、校舎の陰になるところで立ち止まった青太は、振り返って飛鳥に問いかけた。死にたい、なんて言葉が青太の口からとても自然に出てきたものだから、飛鳥は一瞬、呼吸の仕方すら分からなくなりそうになった。飛鳥が首を横に振ると、青太は残念そうにするわけでもなく、ただ静かに微笑んだ。
「水島は……そう思ったこと、あるのか」
「——中3の、夏頃に」
微笑んだまま、そう言った。
「オレの《COLOR》が発現したのは、中3の春先でさ。それまでは全然、予兆みたいなのは何もなかったんだ。でも、髪と目には、中学に上がる前から色がついてたから、自分に《COLOR》があるのは何となく分かってた」
「青い色、が」
「うん。オレ、本当は髪も目も青なんだ。今は黒染めにして、黒のカラーコンタクトしてるけど」
「というか、どうして青色のこと知ってるんだ」と青太が不思議そうに訊ねてきたので、飛鳥は耳の後ろをとんとんと指で示して、染め残し、と呟く。青太はそれを見て、恥ずかしそうに笑って、こめかみ辺りから後ろへ髪を掻き上げた。するとやはり、耳の周りで、鮮やかな青色の髪の毛が黒髪に混じっていた。
「どうして、わざわざ染めたり、カラーコンタクトしたりしてるのさ」
「うーん、そうだな……黒髪にしてたら、自分の《COLOR》を忘れられるというか……ああ、多分、受け入れたくないんだと思う。自分に、《COLOR》があるのを」
「受け入れたくない……?」
「中3の、初めて《COLOR》が発現した時、オレ、誤って学校の備品を壊しちゃったんだ。まあわざとじゃなかったし、先生にもあんまり怒られなかったんだけど、その時、もし人に当たってたらどうなってたんだろうって、怖くなった」
青太は自分の掌を見ながら、滔々と話す。本当は『無色(colorless)』になりたかった、と、青太は『あの夜』そう嘆いていた。自分の内にある猛獣を、ひどく恐れて、あの暗闇に飲み込まれてしまいそうなほど弱かった。
「それで、前にも話した通り、それから《COLOR》が暴走するようになった。幸い、誰かを傷つけることはなかったけど……でも、次はどうなるんだろうって、次はもしかしたら、人を傷つけてしまうんじゃないかって、思ってた。その次がいつくるかも分からなくて、毎日怖かった」
瀬川、と青太が手を差し出してくる。飛鳥は、青太に初めて助けられた時のことを思い出した。あの時飛鳥は、つまらない意地に邪魔されて、青太の手を取らなかった。もしかしたら、その行動は青太を傷つけたんじゃないか。そう思うと、飛鳥は今ここで青太の手を取ることすら怖くなった。
飛鳥がためらっていると、青太は差し出していた手を引っ込めてしまった。
「……情けないけど、オレ、今でも自分の《COLOR》が怖いんだ」
「水島、違うんだ。これは」
「瀬川」
何も言わないで、と青太は縁のない自分の片手を強く握った。
「瀬川が、オレの《COLOR》を認めてくれてるのは知ってるよ。それでもやっぱり、怖いって、思われてるんじゃないかって、不安になる。こういうの、もう嫌なんだ。瀬川の気持ちを無視して、勝手に思い込んで、勝手に傷ついて。自分で自分を傷つけてるだけなのに、相手のこと、嫌いになりそうになる。そんな自分が、1番嫌いだったし、今でも同じだ」
それで、中3の夏に。飛鳥がそう問えば、青太は黙って首肯した。辛い気持ちが集積して、彼を押し潰そうとしていたのだ。こんなことで死にたいなんて変だろ、と青太はぎこちなく口角を上げる。飛鳥はすぐに首を横に振った。気持ちが極端になってしまうことは、飛鳥にだってあった。
「……それで、夏休みが明けると、何となく学校に行きづらくなって。その時に、先生の紹介でカウンセリングを受けたんだ。そこで会ったのが『岬紅野』だ」
「だから、その『岬紅野』っての人のこと、知ってたんだ」
「だって、何度も会って話したからな」
カウンセリングの途中から『岬紅野』とは、カウンセリング以外のプライベートでも会うようになった。他のカウンセラーに比べて、歳が近くて性別も同じ『岬紅野』に、青太はよく懐いていたし、『岬紅野』が自分を気に入ってくれていると思うと嬉しくて、喜んで彼と会っていたのだ。その時に、当時中学2年生だった海黒とも対面していたらしい。
青太は、純粋に懐かしむような眼をして、そんなことを飛鳥に話して聞かせた。
「それで、高校に入っても会ってて——去年の冬頃だったかな。『紅野先生』から、頼み事があるって言われたんだ。オレは、『紅野先生』の役に立てるならって、ちゃんとやれるか分からなかったけど、引き受けたんだ」
頼み事というのは、「岬海黒の護衛」。海黒が不審な男たちにつけられているようだから、彼女の塾からの帰りに付き合ってあげてほしい、という頼みだった。警察に言った方がいいんじゃないかと、当時の青太は思ったけれど、実害がなければ警察は動けないし、何より『紅野先生にはきっと、自分には分からないけど、何か理由があるのだろう』と感じて、青太は二つ返事で引き受けた。
何度か海黒と一緒に帰って、一度だけ、いつもの帰り道が工事中だったので遠回りをして帰ったことがある。そうして、不審者の襲撃に遭った。ただ青太も海黒も強力な《COLOR》を持っていたから、何とか撃退できた。けれど2人とも怪我を負ったし、海黒にいたっては背中に大きな切り傷が残った。それでも尚、『岬紅野』は警察に通報しなかった。
さすがに、おかしいと思った。海黒が傷ついているのに、『岬紅野』から感謝の言葉を述べられるのも、賛辞を呈されるのも、全てが違和感だった。彼の魂胆を知ったのは、それからしばらくしない内だった。
「——カルト団体、って知ってるか」
「神様を信仰して、信者で集まって、活動する団体……だよね」
「そう。ただ、神様を信仰していなくても、同じ思想を支持している時にもそう言うらしい」
『岬紅野』は、カルト団体の幹部格だった。当時、団体の内部は2つの派閥で分かれていた。その対立が激化して、ついに武力抗争まで発展した。その対立がいつからあったのかは分からないが、青太が中学生だった時には、もうすでに抗争の兆候はあったのかもしれない。
詳しいことは分からなかったが、青太は、『岬紅野』は、『水島青太』という戦力が欲しかっただけなのだと、理解した。事実、同じ派閥の人間に抗争の指示を出していたのは『岬紅野』だった。
それから、『岬紅野』とは連絡を取らなくなった。
「でも、海黒さんは君に接触してきていたじゃないか」
「多分だけど、抗争が、もっと苛烈化してきているんだと思う」
最近、物騒になってきてるだろ、と、水島は言う。確かに、建物の陰ではあったが、人通りの多い夕方に海黒と不審な男は争っていた。互いが互いに、早急に反乱因子を潰そうとしているようだ。
しかし飛鳥は、同時に白鳥の言葉を思い出した。
——最近は事件の連続発生も増えてるし。
——1人を逮捕した直後に、その近辺で、一般人が襲われることが増えたのよ。
治安は悪化している。けれどその悪化の様子と、青太の言うカルト団体の内部抗争の様子が、一致していない。そして、そんな違和感よりももっと気になることがある。
「海黒さんに、仲間はいないの?」
青太は瞬きをして、いると思う、と言った。
でも、その言葉が思考回路を混線させる。だっておかしいじゃないか。海黒と初めて会った時も、海黒と戦った時も、酷くなじられた時も、逃げているところを追った時も、海黒は、ずっと独りだった。
飛鳥は急いで携帯を取り出した。そして、通話履歴の最新にある人物に電話をかける。徐々に速度が上がっていく心拍音に反して、コール音は同じ速度で、無機質に耳腔に響く。
やがて聞こえてきたのは、『岬海黒』の声ではなく、温度のないアナウンスのみだった。
NEXT>>24
- 2−9 ( No.24 )
- 日時: 2018/08/23 23:11
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: Au2wVmYz)
2−9
「瀬川……?」
液晶画面を操作して、再び電話をかける。けれどやはり、海黒は出ない。もう一度かける。出ない。
どれだけ待っても、端末の向こうから海黒の声が聞こえてくることはない。代わりに、まるで耳のすぐそばに心臓があるかのように、自分の生々しい鼓動の音が聞こえていた。
「瀬川、どうしたんだよ」
「……海黒さんが」
「え?」
「……海黒さんが、電話に出ないんだ」
岬海黒の名を聞いて、青太は不快そうに顔を歪めた。そして、まだ彼女に拘るのか、と吐き捨てた。
「いいか、彼女は瀬川を利用しようとしたんだぞ。今はまだ無事でも、いつか危害を加えてくるかもしれない。彼女はそういう人間なんだ」
「でも」
「でもって何なんだよ!」
青太はついに声を荒げた。体育館倉庫で怒った時だって吼えることはなかった彼が、苛烈に喉を震わせたのだ。
けれど飛鳥は言葉を続ける。緊張で体の感覚はほとんど失われていた。手の中にある、スマホの硬い感触だけが唯一のものだった。
もう、頭の中はぐちゃぐちゃだ。オーバーヒートを起こしそうな脳内に、熱を持っているはずの青太の言葉が、冷たく染み込んでくる。
「でも——海黒さんは独りなんだ」
飛鳥の言葉を聞いて、青太は何か言いかけていた口を閉じた。
飛鳥が覚えている限り、海黒はずっと独りだった。それは、彼女が孤独を好んでいる、というよりは寧ろ、追いやられているように思えた。遊びに交ぜてもらえない子どものように、お喋りに交ぜてもらえない生徒のように、彼女だけ透明で分厚い殻の中に閉じ込められてしまっている。そんな風に見えた。
事実、青太は海黒には仲間がいると言ったけれど、海黒が窮地に陥っているときに応援が来たことはなかった。それに彼女は、路地裏で出会ったあの日と、廃工場で戦ったあの夜に失敗を犯している。対抗勢力を狩り損ねて、青太を仲間にすることもできなかった。だから、独りで逃げていたんじゃないか。
もう、仲間から見捨てられているんじゃないか。
息が苦しくなって、飛鳥は自分の胸元を握り締めた。
「海黒さん、僕に、自分の苗字を呼ばせようとしなかったんだ」
「……それが、どうかしたのか」
「その理由が、お兄さんに——『岬紅野』に、あるとしたら」
暗闇の中に、海黒が1人立っている幻覚。いや、これは『あの夜』の記憶だ。だって、瞼の裏に見える海黒の足は、これ以上は歩けないんじゃないかと思うくらいに傷付いているのだから。
「岬海黒が、岬紅野のことを、嫌ってるってことか?」
「——いや。多分、逆だ」
岬海黒は、岬紅野のことが——兄のことが、本当に好きなのだろう。尊敬していて、妹として支えたくて、だから『あの夜』、ひどく傷付いた足で立ったのだ。
でも、兄の岬紅野の方は。
「水島。さっき海黒さんの話、したよね」
「え、うん」
「海黒さんが、中2のときに背中に大きな傷を負ったって」
「……うん」
「その時……岬紅野は、海黒さんに対して『どうだった』?」
どんな表情で、どんな態度で、どんな言葉をかけたのだろう。そうして、その時の海黒はどんな顔をしていたのだろう。
飛鳥から問われた青太は戸惑って、しばらく黙り込んでしまった。それから、「覚えていない」と小さく答えた。
ああ、そうだろうな、と飛鳥は何となく思った。岬紅野の目的が本当に青太だったのなら、海黒もまた、青太がヒーローとして、戦力として洗練されるための捨て石の1つでしかないのだから。
——大人しく、してた方がいいんですよ。無力なんだから。
海黒の声がリフレインする。彼女は一体どんな気持ちで、「下の名前で呼んでください」と言ったのだろうか。兄妹なのに、自らの全て捧げている兄と同じ苗字を名乗れないなんて。
胸元を握る手に、一層力が籠る。すると青太は、飛鳥の腕に恐る恐る手を添えて、それから静かに飛鳥の手を下ろさせた。飛鳥の指が離れた白いYシャツの胸元は、すっかりくしゃくしゃになってしまっていた。
青太の手は硬くて、温かかった。
「……僕、やっぱり海黒さんのことが気になるよ」
飛鳥が零した言葉で、青太は息を呑んだ。
「彼女のところに行きたい。だから……もう、関わってこないでほしい」
「……いやだ」
「水島、頼むから」
「だって瀬川は」
「頼むから消えてくれよ邪魔なんだからッ」
飛鳥の絶叫が、青太の言葉を掻き消す。想像できてしまったその言葉の続きが、飛鳥の心を突き刺す。
青太の顔は一瞬で悲愴の色に染まった。唇をきつく結んで、決して雫を零さないようにと、黒の両眼は見開かれていた。
「……水島がいる限り、僕はどこにも行けないんだよ」
青太を傷つけたのは自分の方なのに、そんな自分の声は震えて、濡れていて、それが滑稽にすら思えた。
「分かってるさ、『無色(colorless)』じゃ何にもできないってことくらい。水島に守られてる方が、ずっと賢くて正しいってことくらい。だけどダメなんだ。君と関わると変になるんだ。水島に正論言われて、それに反発して、幼稚で馬鹿みたいだけど、それでも自分が止められないんだ」
瞼の裏に青い光がちらついている。どこまでも遠く届く光。鮮やかで、優しい青色の光だ。この光を、心の底から純粋に美しいと思えたなら、どんなに楽だろうか。
「水島は正しいよ。君が優しいのだって知ってる。でも、君から与えられる正しさも、正義も、善意も好意も、僕は受け入れられないんだ。僕は水島に嘘をついた。ひどい言葉だって言ったし、拒絶もした。それでも僕を守ろうとする水島が……君の存在が、息をできなくさせるんだ。正しくて優しい水島を、受け入れられない自分が、とても……惨めなんだ」
たった十数日で刻み込まれた劣等感。自分が欲しかった評価を奪って行ってしまった者への、嫉妬。『無色(colorless)』であることをいつまでも受け入れられない、どうしようもない愚かしさ。自身の心象は憧れの『ヒーロー』とは程遠い。死にたいと思い悩むくらいに恐れていた自身の《COLOR》でさえ、誰かのために行使できるような、そんな青太と関わる度、自分がいかに矮小な人間なのかを思い知らされるのだった。
だとしても、青太と同じくらいの存在意義が欲しい。価値が欲しい。大好きな姉が言っていた『誰かを救えて、守れる人』になりたい。
「……オレ、そんな人間じゃないよ」
青太は弱弱しく呟いた。しかしやがて、彼は拳を握り直すと、飛鳥を真っ直ぐに見据えた。
「瀬川が岬海黒のところに行くなら、オレも一緒に行く。一緒に行って——オレが、瀬川を守る」
深海を湛えた目に、もう迷いはなかった。
「絶対に瀬川のことを守るから。だから、瀬川は岬海黒を助ければいい」
飛鳥と青太の目が合う。飛鳥には、青太の纏う空気が、陽光に煌めく水のように輝いて見えた。
その時飛鳥のスマホが鳴った。急いで画面を見てみれば、そこには海黒の名前が表示されていた。すぐに通話を繋ぐ。
「海黒さん!」
電波の受信状況が悪いのだろうか。ノイズ音が絶えず流れている。数秒経ってやっと、通話口越しに海黒の呼吸音が聞こえた。
「……飛鳥先輩」
「海黒さん、今どこで何してるの」
「……内緒です」
「じゃあ、君は今無事なのかい」
「無事ですよ。大丈夫です」
無事だと言うのなら、どうして息が上がっているんだ。
だが飛鳥がそれを訊く前に、海黒が二の句を継いでしまう。
「どうしたんですか。突然、何件も電話をかけてきて。もしかして、私のことが心配だったんですか」
「そうだよ、心配だったんだ」
「『無色(colorless)』の飛鳥先輩に心配されるなんて、私も落ちぶれたものですね」
刹那、ガンッ、と歪な音が飛鳥の鼓膜を貫いた。ノイズ音が一層大きくなる。海黒が携帯電話を落としたのだろうかと思ったが、それにしては雑音の数が多かった。何か、硬い地面の上を転がるような音がしていた。落としたというよりは、弾き飛ばされた、と表す方が正しいだろうか。
落下の音は青太にも聞こえていたらしく、心配そうにこちらを窺っている。
また数秒して、海黒の声が聞こえてきた。音質が悪くなったのか、それとも彼女自身の声が小さくなってしまったのか、その声はノイズに掻き消えてしまいそうだった。
「特別な用がないのなら、もう切りますよ」
「待って。やっぱり無事じゃないんだろ。ねえ、今どこにいるんだ」
「しつこいですよ。飛鳥先輩には関係ない」
関係ないと、そう言われて初めて、飛鳥はその言葉の鋭利さに気付いた。鋭利であると同時になまくらで、傷がいつまでも痛むようだった。青太の方に視線を寄越せば、彼は静かに息をしていた。
「……君を助けるのは、僕しかいないって。そう言ったのは君の方だ」
——私を助けてくれるのは、飛鳥先輩しか、いないから。
それは、筋書きを辿るための、都合のいい台詞だったのだろう。事実海黒は、そんなの嘘だったとすぐに言い返してきた。だとしても。たとえ、嘘だったとしても、海黒の中から出てきた言葉であることにかわりはない。彼女の感情が、そこに詰まっている筈なのだ。
——絶対に、すぐに、戻ってきてくださいね。
——私のところに、戻ってきてください。
海黒は自分にそう言った。だから、飛鳥は行かなければならなかった。そんな気がしていた。
「だから僕は、君を助ける」
海黒は黙ったままだった。やがて、はっと笑った。衰弱した声だった。
「本当に……本気なんですね」
「ああ、僕は本気だよ」
「飛鳥先輩」
助けて。
「今すぐに行く」
青太と目を合わせれば、青太は確かに頷いた。
NEXT>>25
- 2−10 ( No.25 )
- 日時: 2018/08/31 23:29
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: nYs2x9iq)
2−10
海黒は電話口に「湾近くの地下道を移動している」と伝えてきた。一ヶ所に留まれない状況から察するに、彼女はやはり何者か——おそらく『対抗勢力』に追われているのだろう。
「今、どの方向に向かって走ってる?」
「水華の方に——」
海黒がそう答えたとき、突然通話が途切れた。もう猶予はないようだ。
飛鳥はうるさく鳴る心拍音を抑えるように、目を閉じて浅く息を吸った。
ここ鏡高から水華までは走って15分程だ。あそこには、鏡高周辺よりは閑散としているが、それなりに人の多い街がある。『相手』もさすがに街中で海黒に攻撃を仕掛けてくることはない。それを踏んで、海黒は水華の街を目指しているのだろう。
「水華へ向かおう」
「そこに岬海黒がいるのか」
「いや、いるわけじゃない。でも海黒さんは水華に向かって地下道を走ってる。だから水華の街から地下道に入って、海黒さんを保護する。急がないと時間がないよ」
「分かった」
2人は同時に走り出した。走りながら、飛鳥は脳内で地図を広げる。
湾岸のエリアである水華において、街の区画はほんの一部に過ぎない。基本的には火力発電所や企業の工場がそのコンクリート製の建物を構えているような場所だ。水華について詳しいわけではないが、飛鳥の記憶が正しければ、その辺りはいつも人通りが少ない。
最も避けたいのは、海黒が発電所や工場の区域に追い込まれてしまうことだ。不特定多数の目が無い場所では、『相手』はきっと容赦なく《COLOR》を使用してくるだろう。海黒がそれに対抗できるとは思えない。もしそれができていたら、彼女はもっと早い段階で『相手』を迎え撃っていた筈からだ。
とにかく時間がない。鬱血痕と傷だらけの足で走る海黒の姿を想像する度、嫌な汗が背中を伝っていった。水華の街から地下道に入って海黒を探し出し、すぐに地上の街に撤退する。海黒を救うための筋書きを何度も確認しながら、大丈夫だと自分に言い聞かせる。けれど視界に映る暗い色をした空が、飛鳥の心をざわつかせるのだった。
そうして、やはり雨が降ってきた。鉄色の雲が毀れて(こぼれて)いくような、冷たい雨だ。
飛鳥は煩わしげに目元にかかった雫を拭う。上空に隙間なく敷き詰められた雨雲を見れば、雨は止むどころか、ますます強くなっていくであろうことは簡単に予測できた。
ここで雨に降られるのは厄介だ。水に濡れた靴底は滑りやすくなるし、冷たい雨は体力を奪っていく。
飛鳥は辺りを見回して、10メートル程先に地下道への入り口があるのを見つけると、そこへ走っていった。後からついてきた青太が、肩を上下させながら飛鳥に尋ねる。
「水華に行かないのか」
「ずっと雨に打たれていたら明日に響く。だとしたら、ここから追いかけながら探した方がいいよ」
青太はあまり納得していないような顔をしていたが、飛鳥が再び走り始めると、飛鳥と同じ速度で黙ってついてきた。
青太にしてみれば、こんな状況で『明日』のことを気にする飛鳥が不自然に思えたのだろう。しかし飛鳥にとっては、『明日』も学校に行くことは、海黒を助けるのと同じくらい重要なことだった。
本来人間相手に傷害目的で《COLOR》を行使することは、立派な犯罪行為だ。だから『あの夜』青太は、塾帰りに突然襲われたと、まるで一方的に攻撃されたかのように嘘を吐かなくてはならなかった。そうすれば多少《COLOR》を使用していたとしても、正当防衛として罪には問われないからだ。
だが実際は、青太は海黒相手に積極的に《COLOR》を使った。そして自分は青太に《COLOR》を使わせた。飛鳥も青太も普通の高校2年生だ。もしこのことが露見すれば、停学や退学処分だって免れない。自分だけならまだましだ。けれど青太という『ヒーロー』の原石に、社会的な傷をつけるわけにはいかなかった。
だから、風邪をひいて学校を休むなんてできなかった。たったそれだけで自分たちがやっていることがバレる確率は低いだろうが、露見の原因となり得る要素はできるだけ潰しておきたい。
街から地下道へ降り、すぐに地上へ逃げるという作戦を立てたのもその為だ。青太に無駄な戦闘はさせられない。海黒を見つけたら、迷わず逃げるのが最善だと飛鳥は考えた。
でも、絶対に上手くいく保障なんて、どこにもない。
「瀬川……?」
左右の分かれ道の手前で、飛鳥は立ち止まった。蛍光灯に照らされる薄汚れた壁が、酸欠のせいか、じわりと滲んで見える。
「瀬川、あのさ」
「なに」
「……いや、何でもない。行こう」
青太の言葉をきっかけに、飛鳥は再び走り出す。
2人の足音が四角形の空間に反響する中、飛鳥は他に音が聞こえないか耳を澄ます。しかし水華の街の方へ近づいても、海黒の気配は全く感じ取れなかった。
「……海黒さん、どこに行ったんだ」
「なあ、さっきの分かれ道までいったん戻ろう」
乱れた前髪の下で、青太の瞳が、走って来た道の方に向けられた。さっきの分かれ道——工場のエリアへ向かう道と、街のエリアへ向かう道の、分かれ道のことだ。2人は街の方向へ走って来た。だから残るのは工場への道のみ。
「でも」
でも、何だと言うのか。飛鳥はその先の台詞をすぐに飲み込んで、自身に問いかける。時間がないと言ったのは自分だ。ここで「でも」なんて迷っている場合ではない。飛鳥がやるべきことは、岬海黒を助けることだ。
「もし、海黒さんが工場の方に追い詰められているとしたら、絶対に『相手』と戦闘になる。それでも——」
「言っただろ。オレが、瀬川を守るって」
青太がまっすぐに見つめてくる。その眼光は柔らかく、青い、一条の光のようだった。
彼の言葉を信じるように、そしてそれに縋るように、飛鳥は「うん」と頷いた。
「行こう」
『あの夜』とは違って、警察には通報できない。自分と青太の2人だけで対処しなくてはいけないのだ。
最初に海黒を襲撃していたのは1人だけ。次の『あの夜』の襲撃は3人。そして昨日海黒を追っていたのは2人。『相手』もたった1人の少女に対して、何人も人員を割くことはしないのだろう。だから今日も、多く見積もっても5人といったところか。
《COLOR》を持った5人を相手に立ち回れるだろうか。『相手』を戦闘不能にする必要はない。自分たちを追ってこられない状況を作り出せばいい。
あらん限りの思考力を以て、飛鳥は作戦を再構築していく。
そして、ようやっと自分たちのものではない足音が聞こえた。最後の角を曲がった先に2人の人物と、その奥に海黒の姿があった。
「海黒さんッ!」
「——飛鳥先輩!」
海黒の掠れた声、崩れた三つ編み、汚れた制服、四肢を流れ落ちていく血。黄昏の両眼は、不安げな、弱弱しい光を灯していた。
走る。走りながら、手を伸ばしたくなるのを抑えて、飛鳥は『相手』2人と青太に意識を向けた。
青太が片手を広げて《COLOR》を発動しようとするのをアイコンタクトで制す。『相手』は足を止めて完全にこちらに向き直る。その時すでに、『相手』との距離は数メートルまで迫っていた。
やがて『相手』の片割れが、飛鳥に手の平を向けた。今だ。飛鳥は青太に囁く。
「水島、奴らの——頭を狙え」
NEXT>>26
- 2−11 ( No.26 )
- 日時: 2018/08/31 23:29
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: nYs2x9iq)
2−11
水の弾丸が2つ放たれた。光の尾を引きながら、『相手』に向かって真っすぐに飛んでいく。
飛鳥はその間をすり抜けるようにして全速力で走った。青太の攻撃に注意を奪われた『相手』は飛鳥に反応できない。そのまま海黒に近づいて、彼女の小さな体を抱え上げる。
振り返れば、同時に水弾がはじけ飛んだ。青太は飛鳥にしっかりとついてきている。彼は右足を軸に身体を反転させると、もう一度同じように弾丸を放った。
頭部を狙えば否が応でも『相手』は防御に徹することになる。つまりそのあいだ、こちらが攻撃されることはない。
青太の指先から零れる《COLOR》の残滓が、ガラスの欠片のように舞う。
飛鳥は海黒を抱えたまま走り出した。海黒は飛鳥の首にしっかりと掴まっているが、その力は心なしか弱い。耳のすぐ近くに海黒の口があって、彼女の荒い呼吸音と時折小さく咳き込むのが聞こえる。
青太は絶えず弾丸と水刃を発射しながら応戦する。青い光が生まれたかと思えばすぐに消えて、次の瞬間にはまた青太の手元で輝いた。水は様々な形に変化しながら四方をマーブル模様に照らし出す。
ただ彼は『あの夜』よりも苦戦しているようだった。『あの夜』の舞台はもう使われない廃工場だったから、建物への被害は考えなくてもよかった。しかしここは今でも使われている地下道だ。だから、派手な攻撃はできないようだった。
「水島ッ、足を狙え!」
だが『相手』を戦闘不能にする必要はない。自分たちの目的は逃げ切ることだ。その為には『相手』の足を止めればいい。
青太もそれを理解したのか、飛鳥の背後で立ち止まって追っ手に対面する。そして、右手を横薙ぎに払った。
青太の足元に、光る直線が現れて。直後、波打った。
線から溢れ出たのは水。水が清流となり『相手』の方向へ流れる。唸りながら壁にぶつかった水が砕け、飛び散った青い光子が蛍光灯の光に溶ける。地下道の奥の暗いところまで、一瞬にして、サファイアの川になる。
『相手』は流れに足を取られて、後ろにふらついた。水量は多くはないが、流れの速さがその動きを封じたのだ。
第二波を放つべきか否か。『相手』との距離はかなり離れた。ここは逃げに徹した方がいい。
青太がそう思考した矢先、向こうから青い光が飛んでくるのが見えた。間違いなく、それは青太が撃った水の弾と同じだった。
彼は川の水底から第二波を送る。下から水面を押し上げるようにして、大きな波を生み出す。天井まで届く程の防御壁は、水の弾1つ程度など簡単に防いだ。
壁の向こうから続けざまに水が飛来してくるが、青太の防御壁は衝撃に揺らめきながら、それらを完全に受け止める、次の瞬間。
壁が、割れた。
割れたのか崩れたのか、一瞬何が起こったのか分からなかった。突如壁の一ヶ所に穴が空き、そこを中心に壁を成していた水が渦を巻き、形が崩壊した。水の瓦礫が青太に降りかかる。青太は埋もれてしまう前に飛鳥に向かって叫ぶ。
しかし、先に反応したのは海黒だ。
海黒は飛鳥の首をぎゅっと抱くと、彼の肩から上体を乗り出した。
「しっかり、捕まえていてくださいよ……!」
右手の中心に黒い分子が密集し凝結する。そこに生まれたのは純黒の小さな鉄塊。
それは銃の形になった右手の人差し指から、青色の飛沫を纏う『見えない何か』へ回転しながら飛んでいく。
甲高い衝突音。『見えない何か』と真っ向からぶつかった鉄塊は空中で静止。壁を這う衝突音の残響を裂くように、海黒が叫ぶ。
「——散れッ!」
1秒後、今際の高音と共に両者は確かに砕け散った。風が、飛鳥の首筋を撫で後ろ髪を煽った。
飛鳥の視界の中央には、四角形の淡い光が見えている。地上への出口だ。
地上へ出れば、コンクリートと鉄筋の巨大な工場が立ち並んでいた。大型車両が通る道路は道幅が大きく、工場に面積の大半を占められている割には、そこは広く見えた。
雨に打たれるアスファルトからは、独特な匂いが立ち昇っている。どこか雨をしのげる場所はと周りを見渡せば、屋根のある倉庫が目に入った。倉庫の裏手に周り、海黒を一度降ろす。
「立てそうかい」
「立つくらいなら、なんとか」
そう話す海黒はやはり辛そうで、傷だらけの細い足が彼女の体重を支え続けられるとは思えなかった。
海黒を座らせて、鞄からタオルを取り出して手渡す。
「海黒さん、これ使って。雨でちょっと湿ってるけど」
「……ありがとうございます」
海黒は恐る恐るタオルを受け取った。青太の方を見れば、倉庫の陰から顔を出して地下道の方の様子を確認していた。
「追っ手は?」
「ひとまず、撒いたみたいだ」
青太はそう言いながら振り返る。ずぶ濡れの前髪が額に貼りついて、透明な雫が鼻筋を滴り落ちている。雨水を拭く素振りを見せない彼は、タオルもハンカチも持っていないのだろうと思われた。
飛鳥は顔を拭こうと取り出したハンカチを見て、そのまま青太の方に目線を滑らせた。
「水島、これ」
「え?」
「ハンカチ」
腕を伸ばして、ハンカチを差し出す。素直じゃないのは自覚していた。
「ああ……いいよ。瀬川も濡れてるんだから、瀬川が使えよ」
「……風邪」
「風邪?」
「君に風邪ひかれると困るから」
「……ありがとう」
青太は飛鳥のハンカチを受け取って、自分の体を拭き始めた。やがて返されたハンカチは四つ折りの表だけが湿っていて、裏は乾いていた。飛鳥は乾いた面で顔を拭いた。
「どうする、これから」
青太からの問いかけに飛鳥は小さく唸る。できれば雨が止むまでここにいたい。しかし地下道の入り口からさほど離れていないここにいれば、いつ追っ手に見つかってもおかしくはないのだ。
雨水を吸ってすっかり黒く染まったアスファルトには、白い水煙が立ち上っていた。雨が弱くなったら移動しようと言おうにも、そもそも雨脚が弱まるかどうか分からない。
地下道に戻るという考えが、一瞬脳裏を過ぎった。
「地下道に——」
「地下道に、戻るのか? でも奴らは地下道に留まってる可能性だってあるし、今あそこに戻るのは危険だろ」
「……うん、そうだよね。悪い、少し混乱してた」
飛鳥は俯いて、濡れたスニーカーの爪先を見た。水分を含んだ前髪から両の爪先の間へ、ぽたりと、水滴が落ちる。
「……まあ、真っ向からぶつかっても、いいんじゃないか」
ほら、オレ結構強かっただろ、と青太は無邪気に笑った。しかし飛鳥は青太が『相手』との戦闘も辞さないつもりだと理解した瞬間、頭に血が上る感覚に襲われて、次に体の心から熱が奪われていくような心地になった。
「駄目だそんなのっ、リスクが大きすぎる」
「でも、ここにいても何にも変わらないじゃないか。奴らに見つかっても戦闘になる。どっちにしろ戦わずに逃げるなんて無理だ。だとしたら、屋外で戦うか屋内で戦うかの違いしかない」
2人くらいだったら何とかなると、青太は飛鳥に言って聞かせる。確かに青太はさっきまで2人に対して上手く立ち回っていた。『相手』の《COLOR》の詳細も分からないのに、青太は1人で2人分の攻撃を防いだ。
どうにか、なるのだろうか。自分が精いっぱい頭を回して彼をサポートすれば、もしかしたら。
だがそんな飛鳥の思考は、海黒によって呆気なく潰える。
「追っ手は多分、あの2人だけじゃないと思います」
海黒が、2人に割って入るように呟いた。
「奴らは私を何日も執拗に追いかけ回してきている。いい加減、奴らも私を捕まえたい筈です」
そう言いながら、海黒は自分の足に触れた。色素の薄い柔肌には、凝固した血液がこびりついている。
海黒は壁を支えにしながら立ち上がった。飛鳥が手を差し伸べようとすれば、彼女は首を横に振ってそれを拒む。
「足もこんな状態で、私がもう逃げられないことなんて『相手』は分かってる。だから今日、確実に、私を捕まえに来る」
飛鳥先輩たちが来るのは想定していなかったようですけど、と海黒は薄ら笑った。それから、真剣な眼差しを飛鳥に向けた。
雨音が海黒の微かな声を掻き消してしまいそうだった。けれど「逃げてください」という言葉が、いやにはっきりと聞こえた。
「頭は良くないみたいですけど……それでも、奴らが強いことは確かです。だから、怪我する前に飛鳥先輩たちは逃げてください」
「嫌だよ、僕は逃げない」
助けてと言ってきたのは海黒の方だ。そして、飛鳥は絶対に海黒を助けると決めた。ここで帰るわけにはいかなかった。
「君が、僕に助けを求めたんだ」
「そうですね。飛鳥先輩に助けを求めるなんて、私も、頭が悪かったんですね」
「仮に僕たちだけが逃げたとして、海黒さんはどうするつもりなんだ」
「大人しく捕まりますよ。どうせ、すぐに殺されるわけじゃありませんから」
「殺される、って」
飛鳥は息を呑んだ。海黒があまりにも簡単に「殺される」と言ったからだ。思い返せば、青太も飛鳥に対して「明日生きていられるかどうか分からなかった」と言っていた。
海黒が今関わっている何か、青太が過去に関わっていた何か。飛鳥はその何かの詳細は知らない。だがまさか、生死を揺るがす程のものだとは思っていなかった。
——カルト集団。
青太は、海黒の兄はカルト集団の幹部格だと言っていた。海黒がその集団に関わっていることは確実だ。
同一の思想を妄信し、同一の思想のもとに活動する、カルト集団。少年が何気ないことで「死にたい」と思ってしまうように、人の考え方はいくらだって極端になる。そして、思想が、人をどこまでも極端に、残酷にしてしまうとしたら。
「……『海黒ちゃん』」
飛鳥の背後で静観していた青太が、口を開いた。
「『紅野さん』には、頼れないのか」
飛鳥は目を見開いて青太を見た。学校であんなにも苦々しく岬紅野の名前を呼んでいたのに、そんな彼を頼ろうと言い出したからだ。そしてそれ以上に、青太が『紅野さん』とごく自然に言ったことに対して、胸の奥がざわめいた。それは、過去の彼が何度も岬紅野の名を呼んでいたということの証左だった。
「……お兄ちゃんは、私のことなんて、助けにきてくれないと思います」
「オレと一緒にいるって言えばいい」
「水島、何言ってるんだよ」
「オレの名前を挙げれば、『紅野さん』は絶対にここにくる」
「待ってよ。水島は、今さら、岬紅野に会えるのか」
自分の為に、まだ中学生だった青太を戦闘に巻き込もうとした男だ。もし自分が青太の立場にいたら、わざわざそんな男を呼び寄せようだなんて思わない。
だが青太は淡々と、そうするしかない、と言った。
絶対に瀬川を守る。心に温かく響いた筈の言葉が、雨水が染み込むように、飛鳥の心臓を冷やしていく。
降り止まない雨の線が檻のようになって、飛鳥たちをその場に閉じ込めていた。
やがて、海黒が1台の携帯端末をポケットから取り出した。それは無地のケースに入った飛ばし携帯ではなかった。紅色の花がいくつも描かれたケースの、プライベート用の端末だ。
海黒は飛鳥たちに背を向けて電話をかける。電話がちゃんと繋がったのかどうかは、飛鳥の位置では分からなかった。しかし海黒が、「お兄ちゃん」と寂しそうに呼びかけるのは聞こえた。
「——電話はしましたけど、来てくれるかどうかは、やっぱり分かりません」
「いいよ。ありがとう海黒さん」
海黒はまた、首を横に振った。
青太が、じゃあ行こうかと、飛鳥に笑いかける。飛鳥は海黒に声をかけて、再び彼女を抱き上げようとした。しかし海黒は、びくりと肩を震わせて、一歩下がってしまう。そんな反応に飛鳥も戸惑ったが、大丈夫だよ、と海黒の身体を持ち上げた。
「私、意外と重いですよ」
「そうかな。むしろ軽すぎるくらいだ」
「……いいんですか、本当に」
「……何が?」
「私、飛鳥先輩のこと、わざと傷つけました」
海黒の手が、飛鳥のシャツを弱弱しく握る。
「そのくせして『助けて』って言ったり、それで呼び出しておいて『逃げて』って言ったり。言ってること滅茶苦茶で……私ね、頭悪いんです。だからいっつも最後で駄目になっちゃうんです。だから……お兄ちゃんにも嫌われたんだ」
そんなことない、と言ってあげるべきだったのだろう。だが飛鳥は、愛してやまない兄弟から嫌われる怖さが理解できてしまった。姉から拒絶されれば、自分はその瞬間に氷の城の中に閉じ籠って、外部からの言葉なんて耳に入れやしないだろう。だから、岬兄妹について何も知らない自分の言葉が、効力を持つとは思えなかった。
何にも言えなかったからこそ、海黒の肩を、ぽんぽんと優しく叩いた。すると海黒の手の力が、わずかに強くなった。
飛鳥は、海黒を雨から守るようにしっかりと彼女を抱き締めて、青太と共に雨の中に入った。モノクロの景色は水に霞み、走っても走っても同じところにいるみたいだった。
地下道の手前で、2人は足を止めた。入り口には2人分の人影。やはり『相手』は地下道で自分たちを待ち伏せしていたようだ。
更に背後から水溜まりを蹴る音が聞こえた。振り返ればそこには黒い服を着た人物が立っていて、こちらを鋭く睨んでいた。
「海黒ちゃんの言う通りだったな」
「3対1、か……水島」
「ちょっと、まずいかもな」
青太が左手を開き、手のひらの中心に水泡を作り出す。手を振り放ったそれは、相手から撃たれた全く同質の水泡に打ち砕かれた。
おそらく『相手』の片方は《COLOR》は、対象の《COLOR》を模倣するものだ。ではもう片方は何だろうか。目に見えない《COLOR》では、どこから攻撃してくるかも予測できない。
「——3対1じゃ、ないですよ」
飛鳥の肩口で、海黒が呟いた。
「海黒さん、もしかして」
「私も戦えます」
海黒は飛鳥の上体に捕まっていた腕を解いて、とん、と地面に降りる。ふらつきながら、けれど彼女の口元は一文字に結ばれていた。
「前の2人は私がやります。だから青太さんは、後ろのあの人をお願いしていいですか。《COLOR》が割れてないんで、大変かもしれませんけど」
「いや、2人相手にするよりはずっと楽さ」
海黒が1歩前に進み出て、それと入れ替わるように、青太が飛鳥の背後に立つ。
雨を斬るように、海黒は腕を振った。
「私、戦ってるときに物考えるの苦手なので。作戦立ててくださいね。飛鳥先輩」
ぎらりと煌めく黄昏と目が合う。飛鳥が頷くと、彼女は少し笑ったように見えた。
指先まで真っ直ぐ伸びた腕に沿うように、鉄塊が幾つも生成されていく。形は歪で、大きさもばらばらだが、雨粒を落とす切っ先は確かな鋭さを持っていた。
それは翼だった。鉄の翼を持つ、片翼の蝙蝠のようだった。
NEXT>>27
- 2−12 ( No.27 )
- 日時: 2018/09/04 01:20
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: jxsNqic9)
2−12
海黒が人差し指を突き出す。その直線上には、飛来する水泡。腕から指先へ、真っ直ぐに伸びたラインに沿うように1つの鉄塊が滑り出した。
その速度は水泡もずっと速い。狙うは中心。青い光子が核を成す、水泡の中心だ。
——《COLOR》を使用した戦闘において、その本質は力のぶつけ合いなのだと姉から聞いたことがある。
一方の《COLOR》の力が相手のそれを上回った時、相手の《COLOR》は打ち砕かれるし、両者の《COLOR》の力が同等な場合それは相殺される。つまり戦闘で有利に立ち回りたければ、相手より高出力で《COLOR》を使えばいい。
ただ「力」は単純なものではない。例えば、青太や海黒のように何かしらの物質を顕現させる《COLOR》では、「力」は物質の形状や質量や硬度、そしてそれを放つ位置やタイミングや速度に左右される。
海黒の《COLOR》は、鉄に限りなく近い性質を持つ物質を生成するものだ。頑丈で鋭く尖った鉄塊は、たとえ手の平より小さかったとしても、相手の《COLOR》を破壊する。
刹那、破っと光が散った。黒の鏃が透明な膜を破り、核を砕いたのだ。
海黒の鉄は砕けない。その勢いのまま、垂直落下する雨水を裂き飛んでいく。そのスピードに反応できなかった相手が寸前で水泡を生み出すも、鉄塊は相手の頬に傷をつけた。
相手の《COLOR》が他人の《COLOR》をコピーするものだったとして、それは劣化コピーにすぎないのだろう。青太の水の弾丸は海黒の鉄塊を砕く。相手が放ったものは、青太が撃ち出す水泡と一見同じだったが、オリジナルに比べて速度が遅かった。だから押し負けたのだ。
「所詮は海賊版、ですね」
「でも水島の《COLOR》はこれだけじゃないよ。気をつけて」
海黒は絶え間なく飛来する水泡を、確実に狙撃していく。不利な状況、ではなかった。
しかし飛鳥は、その水泡が、徐々に扁平な形になっていくのに気付いていた。
海黒によって壊されてしまうような水泡を、相手が意味もなく何度も撃っているとは考えにくい。
「海黒さん——鉄塊を撃たずに、宙に静止させておくことってできるかい」
「……やってみます」
彼女は射撃を続けたまま、下がっている方の手の平を開く。
「水島。そっちの《COLOR》は分かったか」
「まだ正確には分からないけど、多分、棘を生成する《COLOR》だ」
首だけ水島の方に振り向けば、地面の一点から3本の棘が突き出しているのが見えた。高さは1メートル弱。色は透明、表面は滑らかだ。見たところ性質はガラスと同じだろうか。
1つの根元から天空に向かって生えた3本のガラスの円錐は、雨に濡れて美しいとさえ思えた。しかしその尖端は剣先のようだ。貫かれればひとたまりもないだろう。
「対応できそうかい」
「棘の生成には時間がかかるみたいだ。未発達の棘を確実に壊していけば、辛い相手じゃない」
そう言いながら青太は、成長した棘に向かって水泡と水刃を放った。最初に罅が入り、次の一撃で割れる。そうしているあいだにも相手は別の場所から棘を生やす。
青太の反射神経は優れていて、ほとんど真反対に生成さたそれにすぐに3発目を撃った。
「あまり相手に近づかせるなよ」
「了解」
「それから、相手にも近付くな」
「え、どうして」
「ちゃんと『相手』を見ろ」
青太は『相手』を見ようとして、戸惑った。視界が青い光に包まれて、『相手』の姿を捉えることができなかった。宙を舞う幾つものガラスの破片が、青い光を受けて輝いているからだ。
「君を本当に傷付けたいなら、君から離れたところに棘は生成しない」
確かに『相手』は、始めのうちは青太の近くに棘を生成していた。その目的がガラスの棘で青太を突き刺すことだったのは間違いないだろう。しかし青太が次の瞬間には棘を破壊してしまうのを見て、『相手』は青太から少し離れた位置に、続けざまに棘を生成し始めたのだ。
全ては、青太の視界不良を招く為。
「相手の攻撃範囲は限定されてる。そうじゃなきゃ、すぐに僕たちを串刺しにしている筈だよ」
だから自分達に近づくために、自らの姿が見えないようにしたのだ。
青太がそれを理解したのと同時、飛鳥と青太の間で、硬い音が響いた。
飛鳥の袖を掴み、横に飛ぶ。1秒前まで自分たちがいた場所で、ガラスの棘が成長しているのを見て、青太は笑った。
「さすが……瀬川はやっぱり、頭がいいな」
笑えないな、と思いながら、いつの間にか距離を詰めていた『相手』に水泡を弾けさせて目眩ませ。一瞬の隙をついて体側に蹴りを入れる。
「頼んだよ、水島」
「相手は1人だ。攻撃も見える。そんな奴に負けるほど軟じゃないさ」
黒い眼が、すっと細められた。
『相手』の棘は殺傷能力が高い。それに、もしあれで行先を塞がれてしまったら自分たちは逃げられなくなる。撒くだけではいけない。奴だけは、戦闘不能に追い込まなければならない。
思考する青太の背後で、飛鳥は海黒に目を向ける。
模倣の《COLOR》所持者の手には、3つの青い光。
「海黒さん、今だ!」
合図からずれることなく、手の平の倍の大きさまで錬成された黒の立体が宙に浮く。雨の中重い鉄塊が重力を無視して浮遊する光景は、不自然な合成写真のようで、これが《COLOR》なのかと頭の隅で思った。
ただ、それが宙にあったのも瞬きのあいだ程の時間のみ。
雨粒を断ち空を裂く水刃が、たった2つで鉄を圧し斬った。2つ——いや、『相手』が構えていたのは3つの光。つまり最後の一撃が来る。
海黒は動かない。先程の攻撃によって、彼女の視界は黒と青の屑に覆われている。迫りくる弾丸に気づけない。
飛鳥は地面を蹴った。
海黒に手を伸ばし、腕を引いて海黒の身体を傾けさせれば、海黒は寸でのところで攻撃を躱す。頬を掠めん程間近を過ぎった水泡に、海黒の顔は分かり易く引き攣った。
水泡を撃つ原理と水刃を放つ原理は同じなのだろう。『相手』は無意味に水泡を乱射していたのではなく、水刃を放つ為に水泡の形を調節していたのだ。
水刃は厄介だ。あれは水泡とは違って核を持たない。反射的に鉄塊を撃っても逆に斬り伏せられてしまう。
それを完全に防ぐとしたら、《COLOR》の根元——《COLOR》使用者の手を狙うしかない。
「……奴らの手を、狙うのは」
「かなり、難しいと思いますよ。手が傷つけば、《COLOR》を使うのに大きな支障をきたしますから。手は一番防御が硬い場所です」
その防御を無理やりこじ開けることはできますけど、と海黒は言う。手の平一点目掛けて、全ての力を込めた一撃を食らわせるか。だとしても、潰せるのは片手のみで、その隙にもう片方の手で攻撃されてしまえば、こちらはノーガードでそれを受けることになる。最適な策、とはとても言えない。
海黒は迎撃を続けているが、迎撃パターンも読まれているのだろうか、徐々に防げない攻撃が増えてきている。
彼女が持つ攻撃の種類は、決して多くはないのだろう。青太の水のような液体物であれば、形状がどのようにも変わる為攻撃の種類は増える。しかし海黒の鉄ような固形物では、そうもいかないのだ。
更に彼女の場合、一度に生成できる鉄の量も、その範囲もかなり限られているようだった。だから『相手』の足元から鉄柵を生やして動きを封じることもできない。
ふと飛鳥は、『相手』の片割れがスマートフォンを操作してるのに気付いた。もう片方が戦っているのに、それに応戦せず、後ろに隠れて携帯端末を操作しているのは何故だろうか。
まさか。
「仲間を呼ばれたかもしれない」
飛鳥が零した言葉に、海黒がびくりと反応する。その表情は苦々しく、険しい。
眉を顰める飛鳥の背中に、とん、と何かが当たった。それは青太の背中だった。
青太は肩で呼吸しているものの、怪我などは一切していない。対してガラスの棘を生成する『相手』の方は、片手がぶらんと垂れ下がっていた。
「……何したのさ」
「水の球を当てて、手首を捻挫させただけだ」
だのに、青太が言うには、『相手』の《COLOR》の精度は全く変わっていないらしい。
《COLOR》を使う場合にも、利き手とそうではない手では精度に差が出る。両手を使えば出力も精度も最高になるが、『相手』は片手になってもそれが変わっていないということは、奴は最初から片手しか使っていなかったということだ。
「最初から相手は、消耗戦に持ち込むつもりだったってことか」
「紅野さん、本当に来てくれるのかな」
「……岬紅野って、強いのかい」
「……ああ、紅野さんはすごく強いぜ」
今まで相手を睨みつけていた青太が、ふっと笑ったような気がした。
岬紅野。会ったこともない男を信じて待つなんて、いるかどうか分からない神に縋るようで、飛鳥にとっては居心地が悪かった。
飛鳥はもう一度周囲を観察する。3人は気づけば中心に追い詰められてしまっていた。
右手には青太と、ガラスの棘。青太の方が有利であることに変わりはないが、彼は《COLOR》の暴走を恐れてか、出力を制御しているようだった。開けた場所では威力が広範囲に散ってしまうから、波を起こしても意味がない。彼の実質の武器は水泡と水刃のみだ。
そして、左手には海黒と2人の敵がいる。海黒は立っているので精一杯で、攻撃を躱すことができない。防御まで自らの《COLOR》頼りになってしまっている為に、攻撃も防御も精度が落ちている状態だ。
相対するのが1人ならまだ何とかなっただろう。けれど『相手』の片方にいたっては《COLOR》が割れていない。明らかに、不利だった。
「飛鳥先輩」
海黒は再び、鉄塊の生成を始める。まるで弾丸が弾倉に装填されていくかのように、彼女の両手を円形に囲む形で鉄塊が1つ、また1つと黒い艶を得ていく。
彼女はまだ、戦うつもりだ。
「『相手』の攻撃が、なんだか、徐々に強くなっていってる気がするんです」
「徐々に強化される攻撃、か……」
《COLOR》の「力」を左右するもの——つまり、《COLOR》による攻撃の威力を左右するものは、生出す物質の形状や質量や硬度、そしてそれを放つ位置やタイミングや速度。
これらのいずれかに変化があったから、攻撃の威力が増しているのだ。
飛鳥は俯いた。前髪から水滴が落ちる。それは後ろ髪も同じで、大きな雫が、項の稜線を辿って背中へ滑っていった。
そんな感覚を鬱陶しく感じた。しかし次に飛鳥は「ああ」と気付いて、それから、前を見た。
NEXT>>28
- 2−13 ( No.28 )
- 日時: 2018/09/16 00:41
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: GMnx0Qi.)
2−13
「風か」
「……風?」
飛鳥の呟いた言葉に、海黒が訊き返す。もう1人の《COLOR》の正体だよ、と言えば、彼女は少し納得したような顔つきになった。
「地下道で海黒さんが『もう1人の《COLOR》』を迎撃した時、風が吹いたような気がしたんだ。それに風なら、目に見えなくたっておかしくはない」
そういえば地下道で撃ち返した『目に見えない何か』は、青太の壁を貫通した後、青い粒子を纏っていた。あれはただ風が粒子を運んでいただけだったのだろう。
おそらく風の《COLOR》を持つ方は、追い風を起こし片割れの攻撃を支援していたのだ。だから速さを得た水泡や水刃に海黒の鉄塊が押し負け、攻撃を防ぎきれなくなった。
つまり、風の《COLOR》を所持している方を行動不能にすれば、少なくともこの不利な状況は覆せる。
目標は決まった。ではその過程をどうするか。手を狙うのは、海黒にも指摘された通り難しい。そして、片手だけ狙っても意味がない。できれば両手を使えなくしてしまいたい。
飛鳥は思考する。別に手の平を狙わなくてもいい。腕、もしくは肩が動かなくなれば、それだけで《COLOR》の精度は格段に下がる。
青太がやったように、こちらの攻撃が相手に当たればいいのだが、青太の水泡だってたまたま命中しただけだろうし、コピーする方の《COLOR》所持者が実質的な盾となっている現状では攻撃しても意味がない。
そちらを攻撃に集中させて防御を疎かにさせる。その上で風の《COLOR》所持者の方に、片割れの動きを把握させなくする。そうすれば。
「水島、海黒さん。まだ、動けそうか」
「いけるぜ」
「大丈夫です」
「分かった。じゃあ、地下道に向かって走るよ」
「そんなことしたら、『相手』は攻撃してくるんじゃないのか」
「ああ。攻撃、させるんだよ」
飛鳥の言葉に、2人は疑問符を浮かべた。わざと攻撃「させる」なんて普通ならおかしなことだ。しかし飛鳥は、言葉を濁さずに滔々と続ける。
「攻撃させて、こちらは迎撃する。《COLOR》同士がぶつかり合えば、光子や欠片が宙に舞って、視界が悪くなる。そんな中で《COLOR》を撃っても当たる確率は低い」
「当たらないのなら、むしろ相手は攻撃してこなくなると思いますけど」
「確かにそうだね。でも、奴らは僕たちを逃がしたくない筈だ。だから地下道の方向へ動き出した瞬間、奴らは必ず攻撃を仕掛けてくる」
『相手』は自分たちを逃がすまいと、距離を詰めてくるだろう。そんな中で《COLOR》を使えばどこに当たるか分からない。もしかしたら仲間に当たるかもしれない。しかし攻撃を止めれば自分たちを捕らえ損ねてしまう。それにこちらが攻撃を続ければ、相手は《COLOR》を使わざる負えなくなる。
その混戦の中で標的の腕に攻撃が当たれば、この状況を打開できるかもしれない。
我ながら、無茶苦茶な作戦だと思う。成功率だって高くはない。しかしもう考えている余裕はなかった。
「水島は棘の方を防いで。棘が生成される時に音が鳴るから、その音に集中するんだ。海黒さんは水泡と水刃に対応して。もしかしたら、途中で海黒さんの鉄塊も模倣されるかもしれないけど、でも相手は必ず追い風を使ってくる。地下道で青い光子を纏っていたのなら、雨粒だって巻き込むはずだ。注視すれば、早い段階で防げるかもしれない」
——行くよ。
飛鳥の声を合図に、彼らは動き出した。同時に前からは水泡が、後ろからは棘が襲い掛かる。飛鳥の予想通りだった。
青太はガラスを破壊していく。間近に生成された棘はすぐに、少し離れたところに生成されたものには成長しきってから水刃をぶつければ、大量のガラス片が視界を覆った。
海黒は上体を開いて鉄を連射する。彼女は片腕だけでバランスをとりながら、自分を抱える飛鳥を守るように、鉄塊が列なる鉄の羽を掲げている。今空中に生成されている鉄塊が、彼女の残弾の全てのようだ。
景色はやがて霞み始める。青い光子が、黒い粒子が、ガラスの破片が、雨が視界不良を招くが、それでよかった。飛鳥は見えない分、周りの音に耳を澄ます。
何が起こっているのかを正確に把握しているものなんて、この中にはいない。だから、ガラスの棘が誤って仲間に刺さりそうになっているのだ。
地下道まであと10メートル。
風の《COLOR》所持者が目の前に立っている。
そいつは手の平をこちらに向けていたが、青太の放った水泡がそいつの左腕を打ち、ガラスの棘が右腕をわずかに抉った。相手の動きが止まる。
粒子の晴れ間に、飛鳥は地下道への入り口を見た。いける、と飛鳥は大きく踏み出す。
次の瞬間、爪先を棘が掠めて、瞬きする間もなく眼前に棘の障壁が現れた。
飛鳥の身長の倍はあるガラスの壁だ。または砦のようでもあった。棘自体は透明だが、地下道の入り口から飛鳥の眼前まで幾重にも立ち並んでいるようで、奥の景色は全く見えない。
更に飛鳥たちの横にも背の高い棘が生成されており、逃げられそうにもなかった。
まさか、こんなに背の高い棘を、一瞬で、しかも大量に生成できるなんで思っていなかった。『相手』の体力だって青太との戦闘でかなり削がれている。だから、もう自分たちの行く手を妨げることはできないと思っていた。『相手』の《COLOR》を完全に見誤っていたのだ。
『相手』の呼吸は荒いが、その口は下賤な曲線を描いている。そうして、模倣の《COLOR》所持者が前に出てきて、片手を掲げた。
海黒の《COLOR》をコピーしたのだろう。空に、黒々と光る鉄の八面体が並んでいる。それらは全て、こちらに矛先を向けていた。
海黒は「すぐに殺されるわけじゃない」と言っていた。彼女は岬紅野の妹だから、情報を聞き出す為に生かしたままにしておきたいのだろう。では、青太はどうか。岬紅野は青太に拘っているから、青太を手中に収めれば敵対勢力に有利に出られるかもしれない。
つまり、本当に邪魔なのは自分だけ——そう考え付いた時、全ての矛先が、自分に向いている気がした。
真ん中の鉄塊が放たれる。飛鳥は思わず目を閉じた。そして見た。
闇を、光が裂くのを。
一瞬にして、瞼の裏を、煌々と輝くあか色に染め上げられた。ゆっくりと目を開くと、雨が降っているというのに、炎の残映が、不死鳥が落とした羽のように舞っていた。
こちらへ放たれた鉄塊は全て焼き払われていた。無残に落ちていく塵の向こうで、『相手』は目を見開き、喉を引き攣らせ、攻撃の構えのまま硬直している。
『相手』は、飛鳥たちの背後にある地下道への入り口を凝視したままで、飛鳥もそちらへ視線を向けた。
そこには、先程まで自分たちの行く手を塞いでいたガラスの棘は無かった。代わりに灰が散らばる地面と、人影があった。
それは、車椅子に乗った青年と、それに従うパーカーの少年。駅前で2回だけ出会った、あの2人だ。
どうしてこんなところにいるのだろう、と疑問に思う飛鳥の隣で、海黒がぽつりと零す。
「……お兄ちゃん」
お兄ちゃん——そうか、あの2人のどちらかが岬紅野なのか。
パーカーを着た少年は「ハイジ」と呼ばれていたから、青年の方が岬紅野なのだろう。あかい髪にあかい目をした、10年前のヒーローと似た姿をした青年が、岬紅野。
でも彼は自分を助けてくれたことを否定した。それに岬紅野は「犯罪者」だと青太が言っていた。ヒーローが犯罪者なんてあり得ない。あり得ない、筈なのに、岬紅野は10年前のヒーローではないと否定しきれない自分がいる。
ハイジはフードを深く被って、棘の《COLOR》所持者の方へ歩いていく。その迷いのない足取りに『相手』は呆気にとられていたが、ハイジが丸腰のまま自分の攻撃範囲に入ってきたことに気が付くと、ニヤリと笑って、ハイジの眼前に棘を生成し始めた。何もしなければ、あの棘はハイジの胸を貫くだろう。
青太が慌てて、片手に水泡を作り出す。しかし、それが放たれることはなかった。
「……無駄だ」
ハイジは腕を伸ばして、右手の指先でガラスの棘を受け止めた。
次の瞬間、ガラスが切っ先から灰になって崩れた。音など無かった。
ハイジは無感動に腕を降ろして、また歩み始めた。雨でぐちゃぐちゃになった灰を靴の裏に付着させながら、一歩、また一歩と『相手』との距離を詰めていく。
地下道の前で障壁となっていた棘も、ああやって突破したのだろう。地面に薄く積もっていた灰は、彼の《COLOR》の跡形だったのだ。
徐ろに、彼は濡れて重くなったフードを脱いだ。灰色のような髪、血色の悪い肌、鬱血痕のような隈。まだ丸みを帯びている頬には、大きなガーゼと絆創膏が貼られている。耳元で煌めくピアスが、彼に不良じみた雰囲気を与えているが、彼の瞳は不良には不釣り合いな程に澄んでいた。カラーフィルターを何枚も重ねたような、暗くて、透明感のある目。
それは、驚愕で動けなくなった『相手』をしっかりと捉えていた。そして一切の躊躇いなく、『相手』の髪を掴み、顔面に膝を埋め込んだ。
口元まで鼻血で汚して倒れた仲間を見て、再び鉄塊が撃たれる。しかしハイジは、それも手を翳して灰にしてしまった。
分が悪いと考えたのだろう。『相手』はあっさりと撤退した。追いかける必要も、体力もなかった。
ハイジは振り向いて、今度は飛鳥たちの方に歩く。そして海黒に手を伸ばした。飛鳥が彼女を庇って前に出ようとすれば、ハイジは飛鳥を乱暴に引き剥がした。
「無様だな」
ハイジは海黒の腕を引っ張って、無理やりに彼女を立たせた。
「力が無いのなら大人しくしてろ。無力なくせに足掻いて、このザマだなんて笑えねえ」
海黒が悔しそうに唇を噛むのを見て、ハイジは「はッ」と嘲る。
「紅野さんの気を引きたかったんだろ」
「——うるさいッ!」
黙って項垂れていた海黒が、ハイジの手を振り払う。間髪入れずハイジは海黒の胸倉を掴んだ。
しかし紅野が「ハイジ」と諫めると、彼はすぐにその手を離した。
「海黒、帰ろうか」
紅野が笑っている。その微笑みが、姉が自分に見せてくれるのと同じものだと、飛鳥は思った。それを見つめ返す海黒は、笑っているような、泣いているような顔をしていて、小さく開かれた口は酸素を求めるように喘いでいた。
やがて海黒が歩き出した。飛鳥が呼び止めれば彼女は一瞬だけ立ち止まったが、振り向くことはなく、紅野のもとへ行ってしまう。
ハイジは大きな傘を開いて、岬兄弟を覆うように差し出した。
「君は——瀬川飛鳥くん、だったか」
突然あかい瞳に見据えられる。やはり、同じだ。岬紅野の瞳は、10年前の夏の日に自分を助けてくれたヒーローと同じ色をしている。
「瀬川、紅野さんと面識あるのか」
青太が焦ったように訊ねてくるが、飛鳥にはその問いかけはもう届いていなかった。
雨音が蝉の鳴き声のように聞こえてきて、まるで世界に自分と紅野の2人きりになったような気がしていた。
紅野は雨に濡れるのも厭わず、自ら車輪を回して飛鳥に近付いてくる。そうして立ち竦む飛鳥の目の前で止まって、臙脂色の傘を手渡した。
「使うといい」
飛鳥は不器用に傘を受け取った。ありがとうございます、と言うべきなのだろうが、言葉が出てこない。
手元の傘と目の前の紅野との間で視線を泳がせていると、青太が2人の間に割って入ってきた。
「久しぶり、青太」
「お久しぶりです、紅野さん」
紅野の声は柔らかく優しい。それが一層、青太の声が緊張しているのを際立たせる。
青太に腕を掴まれて、飛鳥は怯んでしまった。彼の手がいつもと違って冷たかった。雨のせいだというのは分かっているが、その温度が、自分を襲ってきたあの男の手を一瞬想起させた。
「……じゃあオレたち、もう帰るんで。行こう瀬川」
「俺は瀬川飛鳥くんと話したいことがあるんだけど」
「瀬川には、紅野さんと話したいことなんてないと思いますよ」
「青太」
邪魔をするな。
紅野の声で、青太の手から力が抜ける。紅野は呆然とする青太を退けて、飛鳥を見上げた。
「妹を助けてくれてありがとう。器用ではないけれど、真面目でいい子だから……よければ、これからも仲良くしてやってくれ。それから」
あかい目、あかい髪。水を含んでも変わらない色彩が網膜に突き刺さるようで。それが、ずっと焦がれていたあか色であることは間違いない筈なのに、左胸の拍動の正体が分からなかった。嬉しさも緊張も恐怖も、どれもが正しくて、全て違う。
紅野が、息を吸った。
「——大きくなったね」
呼吸が止まりそうになった。
何も動かない。手も、頭も口も固まってしまって動かない。眩暈、反転、何かに罅が入る音。体温が失われていくのは、冷たい雨だけのせいではないのだろう。
ああ間違いない。海黒と青太の心を絡めとり、暗い世界へ引き摺り込んだこの男は。
岬紅野は、あかい——紅い色をした、10年前のヒーローだ。
第2話 ミクロブラック FIN.
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