複雑・ファジー小説
- 2−2 ( No.17 )
- 日時: 2018/07/23 08:01
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: MGNiK3vE)
2−2
警察署を訪れたことは、その実あまりなかった。小学生のとき、意外とおっちょこちょいな母が財布を落として、それを受け取るのに一緒に訪れたのと、中学生のときに総合学習の一環で見学に訪れたのと、この2回しかない。
自動ドアを入ってすぐ真正面に1列に並ぶ様々な窓口や、その前で横列をなすベンチを見ると、市役所のような印象すら受ける。青太は——初めて足を踏み入れたのだろうか——きょろきょろと、警察署内をもの珍しそうに眺めていた。やがて『総合窓口』の看板を見つけると、そちらへ行ってしまった。
残された飛鳥は、ベンチには座らずに壁の方に寄った。街中でよく見る交通安全啓発ポスターや、警察官採用試験の案内が貼られている。その1枚1枚に書かれた文字を目で追っていると、壁の一画に設置された掲示板が目に入った。そして、そこに不審者情報が掲示されているのを見つけた。
10年前見知らぬ男に誘拐されかけたとき、飛鳥は警察の世話にはならなかった。誘拐未遂のことを通報しなかったからだ。それだけじゃなくて、その時のことを誰かに話さなかった。家族にも友達にも、最も仲のいい姉にさえも、今までに一度たりとも話したことがない。
飛鳥はふとそんなことに気が付いて、自分のことながら不思議に思った。ただ今更言ったところでどうにもならないだろうし、飛鳥は言わないままでいいとも思った。
当時の自分もきっと同じように感じたのだろう。だから、理由も自覚できないまますべて秘密にしておいたのだ。それは、宝石のような特別な宝物を、入れ物の一番底にしまうのにも似た感覚だった。
「あれ、飛鳥?」
聞き慣れた声。はっと振り向くと、警察官のライトブルーの制服を着た白鳥が立っていた。飛鳥はいきなりのことに少し驚いたが、ここは警察署なのだから白鳥がいても何らおかしくはないし、むしろ飛鳥がここにいることの方が不自然だ。
「え、どうしたの? 何かあったの?」
白鳥は戸惑って、そして心配そうに訊ねる。飛鳥はそれを払拭するように、慌てて「違う違う」と体の前で手を横に振った。
「クラスメイトの付き添いで来ただけだよ」
飛鳥がそう言うと、彼女は「それなら、よかった」と分かり易く胸を撫でおろした。それから、飛鳥のちょうど隣にあった自販機に小銭を入れる。
「警察官もロビーの自販機使うんだね」
「給湯室の自販機が壊れててね。ほんとは、あんまり持ち場から離れちゃいけないんだけど」
でもコーヒー飲みたいし、と子供っぽく笑って、彼女は取り出し口から黒いスチール缶を取り出した。そうして、飛鳥も何か飲むよね、と訊きながら更に200円を投入する。飛鳥は躊躇いがちに頷いて、姉と色違いの缶コーヒーのボタンを押した。
「コーヒーでいいの?」
「もう子どもじゃないんだし、コーヒーくらい飲めるさ」
「眠れなくなっちゃうかもしれないじゃない」
「1缶くらいなら大丈夫だよ」
「そう?」と聞き返しながら、白鳥は自販機の近くに設置されたベンチに座る。飛鳥がぼーっと立っていると、彼女はプルタブを起こそうとしていたのを止めて、ぽんぽんと、自分の隣を叩いた。飛鳥は大人しく、そこに収まった。
「最近、ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
「ほんとに?」
「……多分」
「多分って。ちゃんと寝なきゃだめよ」
少し笑って、白鳥が缶コーヒーを煽る。同じようにコーヒーを口に含むと、特有の匂いが鼻腔を通り抜けていった。すぐに飲み下したが、舌の上には、僅かに苦みが残った。
「寝てないように、見えるかな」
「うーん、どうかな。他の人から見たらそれほどでもないかも」
「……なら、別に」
「でも私には、元気がなさそうに見えたから」
人差し指で缶を撫でながら、白鳥が呟く。飛鳥は言葉に詰まって俯いた。自分の手元にある、彩度の高いパッケージが目に痛い。
やっぱり、姉は自分のことをよく分かっているようだった。
間を繋ぐように、凛々しい横顔を見る。姉さん、と声をかければ、彼女は一拍と置かず弟の顔を見つめ返した。
「《COLOR》抑制器具って——何?」
「《COLOR》抑制器具?」
「うん。ちょっと気になってさ」
「そうねー……まあ、《COLOR》抑制器具っていうのは、その名の通り、《COLOR》が暴走しないように抑える器具のことなんだけど」
缶の縁を弄りながら、白鳥は話し始めた。
そもそも《COLOR》とは、「火事場の馬鹿力」と比喩されるように、「人間が本来持っているが、日常生活では行使されない力」のことだ。そして、その力の出力は、普通なら思い通りに操作できるものではない。だから、多くの人々は《COLOR》を持っていても大した力は使えない。
だが一方で、数は極めて少ないが、白鳥のように自身の《COLOR》の出力の程度や形態までもを自由に操作できる所有者も存在する。
「例えば、戦闘員になると、《COLOR》を高出力で使うことが求められるんだけど、力を出しすぎると自分で制御できなくなっちゃうの。ほら、全力で走ってるときに突然『止まれ』って言われても、足は何歩か前に出ちゃうでしょ? 自分の身体が思い通りに動かない場合があるように、《COLOR》だって、思い通りに使えないときがある」
高出力からいきなり出力を止めるというのは、出だしから駆け足無しで全力疾走するのと同じくらい難しいことなのだと白鳥は言う。そして、白鳥が持っているような、何らかの物質を具現化する《COLOR》においては、制御不可能になったそれは凶器に等しい。
周囲を破壊し、害を為しているのに、使用者自身でも力を止められなくなったとき、それを「暴走」と呼ぶ。
「いくらちゃんと訓練してるって言っても、戦闘員の《COLOR》が暴走する確率は高い。だから、戦闘服には元から抑制器具が取り付けられてるし、そういう職業じゃなくても、どうしても必要なときには民間人に支給されることもあるの。まあでも、申請と検査を受けた上で厳しい審査に通らなきゃいけないから、一般の人に支給されることは少ないんだけどね」
それにしてもよく知ってたわね、と白鳥が言う通り、《COLOR》抑制器具の知名度は低いらしかった。
たまたま知ってさ、と飛鳥が答えていると、ちょうどその時、受付から青太が戻ってきた。彼は飛鳥の隣に座る白鳥に気付くと、あっと声を漏らした。白鳥も青太の姿を見て、彼があの夜に会った少年だと理解すると、優しく笑いかける。
「こんにちは」
「こんにちはっ……あの、この前はお世話になりました」
「いいのよ、仕事だから。あれから、変なことはなかった?」
「はい。特に何も」
「よかった。再犯も多いから、気を付けてね。それにしても、飛鳥が付き添って来たのって、この子のこと?」
飛鳥は重く首肯した。白鳥が「だから抑制器具のこと知ってたのね」と納得したように零す。誤魔化すみたいに、飛鳥は缶コーヒーに口をつけた。
「そっか、クラスメイトだったんだ。不思議な偶然もあるものね」
「えーと、瀬川の、お姉さん……? ですか?」
「ああ、自己紹介してなかったね。飛鳥の姉の瀬川白鳥です。ここの警察官で、戦闘員を務めてます」
「鏡高2年の、水島青太です。あ、瀬川とは同じクラスです」
「水島、青太くんね……ぴったりな名前ね」
白鳥がそう言うと、青太は少し照れたように笑った。飛鳥はむっとして、青太を見上げてもう全部終わったのかと尖った声で訊く。青太はううん、と首を横に振って、そのまま飛鳥の隣に腰を下ろした。
「まだやらないといけないことがあるらしくて、もう少し、時間がかかるみたいだ」
「そうかい」
「それで、ここを出られるのが6時くらいになるかもしれないんだけど……帰りは電車使うから、瀬川の塾には間に合うと思う」
「……帰りも、一緒なのか」
間髪を入れず、うん、と強い肯定。それは、飛鳥に断らせまいとしているように聞こえた。
帰りまで一緒にいる心算はなかった。どこか適当なところで帰ろうと思っていた。岬海黒のことは気になるけれど、彼女について青太が口を割ることはないだろうし、それ以外に青太と話したいことはない。
「いいんじゃない? ほら、2人でいた方が安全だし」
しかし、白鳥にそう言われてしまって、飛鳥は逃げ場がなくなった。聡い姉だから、ここで変に拒絶してしまえば怪しまれるだろう。
飛鳥がしぶしぶ首を縦に振ると、青太の口角が満足げに上がった。
間もなく彼は窓口に呼び出され、再び白鳥と2人きりになった。飛鳥は空になった空き缶を両手で包み、ローファーの爪先で、床の継ぎ目をなぞってみた。飛鳥の手と比べてコーヒーの缶は小さく、所在なさげに、手の中にいる。
「飛鳥は、青太くんのこと、嫌い?」
「……好きじゃないだけだよ」
「そう」
人を嫌うのはダメだとか友達とは仲良くしろだとか、そんなつまらないこと、白鳥は言わなかった。彼女は黙ったまま、ベンチから腰を上げた。
「じゃあ、私も、そろそろ戻るから」
「うん。仕事頑張ってね」
「飛鳥も、塾頑張ってね」
「分かった」
あ、それと、と何かを差し出される。
「これ、青太くんに」
そう言って白鳥が渡してきたのは、ペットボトルのスポーツ飲料だった。いつの間に買っていたのだろうか。
「最近蒸し暑いから、ちゃんと休んでね。忙しいと思うけど、頑張りすぎもよくないから。青太くんも、飛鳥も」
琥珀色の瞳が、柔らかく細められる。白の長髪をさらりと靡かせて、彼女は来た方向へと去って行った。飛鳥は姉の姿を目で追って、彼女の背中が見えなくなると、ペットボトルを空いている左側に置いた。それはひんやりと冷たかった。
受付の方を見れば、そこに青太の姿はなかった。どこか別室へ移動したのだろうか。彼が言っていた通り、まだまだ時間はかかるようだ。
どうして、好きでもない奴の帰りなんか待っているのだろう。自分は嫌だと思っているのに、結局彼の言う通りに動いている。人間関係を円滑に進めるなら、自分の行動は最適解だ。けど、自身の気持ちと相反する行動をとっている自分が、自分から剥がれ落ちていくようで、心地が悪かった。
姉がしていたように、手のひらに収めたまま、缶を人差し指で撫でてみる。体温が移って、生温くなっていた。
ふと、スマホのバイブ音が聞こえた。一定の間隔を挟みながら、何度も聞こえる。着信が入っているようだ。
飛鳥は急いで端末を取り出して、画面を確認した。途端に、心臓が嫌な音で鼓動し、視界が暗転するような錯覚に襲われた。
『岬海黒』。
そこには、彼女の名前が表示されていた。
「外、出てたのか?」
屋内に戻ると、青太も同じタイミングでロビーに帰ってきたところだった。電話がかかってきて、と、鞄の中にスマホを仕舞いながら答える。
そうか、と青太は短く相槌を打って、自分の傘を取って外に出た。飛鳥も傘立てから暗い色をした傘を引き出す。自動ドアを通り抜けてすぐの屋根の下で、青太はくすんだ雲を見上げていた。雨は、まだ降っていた。
飛鳥は意を決して、青太の背を見た。
「これ、姉さんから」
飛鳥は鮮やかな青のラベルのスポーツ飲料を、半ば押し付けるように青太に渡した。「最近蒸し暑いから、ちゃんと休めって」と、白鳥からの言伝も一緒に。すぐに、1歩下がってしまったけれど。
青太は驚いたようにぱちりと瞬きをした。でも両手でそれを受け取って、「ありがとう」と顔を綻ばせた。
「——って、白鳥さんに言っといて」
「馴れ馴れしく下の名前で呼ばないでくれるかな」
「だって、『瀬川さん』じゃ分かりづらいだろ」
朗らかに笑う青太の頭の上で、透明な傘がぱっと咲く。跳ねた水滴が、きらきらと光ったような気がした。帰ろう、と友達みたいに青太が言うものだから、飛鳥の足も自然に彼の方に近づいてしまった。
けれど、立ち止まった。地面に足を掴まれたようだった。
「瀬川?」
「帰りの、ことなんだけど」
濁りのない黒の目に、真っ直ぐに捉えられる感覚。
「母さんから連絡があって、今からそっちの方に行かないといけなくなった。だから、一緒には帰られない」
違う。嘘だ。これは本当じゃない。
本当は、海黒から連絡があったのだ。今から会えませんか、私ちょうど近くにいるので。彼女はそう言ってきた。だが青太にそんなことを正直に教えてしまえば、確実に止められるだろう。行くな、とその眼差しで突き刺してくるに違いない。
「……本当か?」
「嘘じゃない」
信じてほしい。
飛鳥の言葉に、青太はたじろいた。雨の中だ。傘をさしているとはいえ、少し顔を伏せてしまえば、水の線に邪魔されて飛鳥からその表情は見えなくなる。やがて面を上げた青太は、困ったような笑顔を浮かべていた。
「分かった。疑ってごめんな」
ふと、どうしてそんなにも、2人で帰ることに拘るのだろうかと思った。しかし、その思考に「2人でいた方が安全だ」という白鳥の言葉が重なってくる。
青太は今でも、飛鳥を守ろうとしているのだろうか。直接的に言ってしまえば飛鳥を傷つけてしまうかもしれないから、偽物の理由を用意して。そこまでして、ただのクラスメイトを庇護しようとしている。
青太は、じゃあと言って踵を返した。飛鳥は、遠ざかっていく彼を、ただぼうっと眺めていた。
——青太くんのこと、嫌い?
嫌い、なのだろうか。好きじゃないのは確かだけど、彼に抱く全ての気持ちが、ネガティブなものばかりではないのも事実だ。ただ、受け入れられないのだ。
飛鳥は独りになったところで、やっと、傘をさした。
NEXT>>18