複雑・ファジー小説
- 2−3 ( No.18 )
- 日時: 2018/08/24 17:28
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: Au2wVmYz)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=998.png
2−3
飛鳥が呼び出されたのは、静かな音楽がバックグラウンドに流れる、小さなカフェだった。海黒は窓際の2人掛けの席に座っていた。彼女は飛鳥の存在に気付くと、ストローから口を離して、対岸の椅子に座るよう視線で促した。
「何か注文しますか」
「いいよ。コーヒー飲んできたから」
そうですか、と言って、海黒は差し出したメニューを元のところに立てる。
ルビーを溶かしたようなアイスティーをストローで混ぜながら、海黒はふっと笑った。
「そんなに緊張しないでくださいよ」
「……僕に、何の用かな」
「この前の上着を返そうと思いまして」
海黒は傍らから紙袋を取り出し、飛鳥に渡した。中を確認してみれば、あの夜海黒に着せた上着が、きちんと畳まれて入っていた。目線を上げると、海黒と目が合う。橙の中で、黒々とした瞳孔は、夕焼け空に穴が空いているようにも見えた。
「それだけですよ」
からん、と冷涼な音と共に氷が崩れる。
「僕が、近くにいるって分かったのはどうして?」
「ただの勘です」
「本当に?」
「ごめんなさい。勘っていうのは嘘です。本当は、『コレ』に連絡が入ってきたんです。飛鳥先輩が、警察署の方に向かってるって」
海黒は1台のスマホを飛鳥に見せた。黒いカバーが付けられているだけのそれは、女子高生が持つにはいささか地味だと思った。
足のつかない携帯、という奴だと直感した。だから海黒はこのご時世にラインのアカウントではなく、電話番号を教えてきたのだ。ラインは会話のログが残ってしまうが、電話の音声は残らない。
飛鳥は窓の外に目を向けた。得体のしれない誰かから見張られていたのかと思うと、今更ながら背筋が凍るようだった。海黒は「危害は加えませんよ」と言ったが、彼女の笑顔に、飛鳥は底恐ろしさしか感じなかった。
「……君は一体、何に関わっているんだ」
「それは、今はまだ言えません」
海黒が嵩の減ったアイスティーをかき混ぜると、最後の氷は完全に溶けて、なくなった。だのに海黒はかき混ぜるのを止めない。コースターに落ちる紅玉色の影が、くるくると回り続けている。
「いつかは教えてくれる、ってことかな」
「そうですね。飛鳥先輩がこれからも私とお話してくれるなら、いつかは」
「でも、海黒さんの目的は僕じゃないんだろ」
——君の目的は『水島青太』だ。
飛鳥がそう言うと、海黒はストローを止めた。そして、その黒いストローの先端を、親指と人指し指で潰してしまった。潰しながら、飛鳥をじっと見ていた。
「生憎、僕は水島の為の釣り餌になるつもりはないよ」
だから、君の都合のいいようには動かない。飛鳥はきっぱりと告げた。しかし、海黒の唇から漏れ聞こえてきたのは、やはり渇いた笑い声だった。
「飛鳥先輩は、随分と『水島青太』さんに拘っているようですけど」
その言葉で、口内の水分を一瞬で奪われたような気分になった。
「……僕が、水島に?」
「だって、そうでしょう。飛鳥先輩はあの時、私ではなく水島青太さんを信じた。それも、ちっとも疑うことなく。なのに、実際は彼に反発している。飛鳥先輩は水島青太さんに対して、矛盾した感情を抱いている」
ローテンポのBGMに混在する、ガラス窓を叩く雨音が、消えない。雨音が飛鳥の鼓膜を打ち、思考の奥の扉を叩く。そして、心の見ないようにしていたところに光が当たる。その光は、10年前と、青太に初めて助けられたときに幻視した、あの闇を裂く光ではない。全てを露わにする探照灯だ。
——あの時青太のことを信じたのは、漠然と、青太は『ヒーロー』なのだと感じてしまっていたからだ。
『ヒーロー』が誰かを傷つけるはずがない、痛めつけるわけがない。だから青太が海黒を襲うなんてありえない、だって彼は『ヒーロー』なのだから。
助けた方と、助けられた方。
助けた方は『ヒーロー』だろう。であれば、その対となる助けられた方は『ヒーロー』ではないのだ。
青太に守られている限り、飛鳥は『ヒーロー』にはなれない。彼が差し出してくる庇護と言う名の傘の外に出なければ、『ヒーロー』にはなれないままだ。だから、彼に反発する。
そして、それは単純な1つの感情だ。
「私には、それが何なのかは分かりません。嫉妬なのかもしれないし、畏怖なのかもしれないし……『劣等感』かもしれない」
青太への『劣等感』。その言葉が、水が地面に染み込むように、自然に胸に落ちる。
「水島青太さんの《COLOR》はとても強力です。威力自体もそうですし、操作する技術も彼はずば抜けています。天賦の才能なんですよ。羨ましいんですよね? 飛鳥先輩は無色(colorless)だから」
どうして知っているんだ、と思ったが、訊くのを止めた。海黒も青太や白鳥のように、相手が無色(colorless)かどうか、感じ取れる側の人間なのだ。
グラスの表面を伝う水滴を、海黒は指先で掬う。それを見ていると、まるで自分の首筋を撫でられたかのように錯覚して、ぞっとした。
「でもね、水島青太さんと、飛鳥先輩では、生きているステージが違うんですよ。だから、彼を意識したって意味がないんです。意味がないのに、飛鳥先輩は彼に拘ってる。水島青太さんの手を借りたくなくて、強がって。でも」
海黒の黄昏が、伏せられて。次の瞬間に、彼女の視線が、飛鳥に突き立てられた。
「——私たちは《COLOR》所持者で、そして飛鳥先輩は無色(colorless)です。一体、飛鳥先輩に、何ができるって言うんですか」
飛鳥は、膝の上で拳を強く握った。爪が痛かった。それ以上に惨めだった。
「力がないのなら、大人しく流された方がいいんじゃないですか」
海黒に黙って従って、そして青太に助けられればいい。そして青太を犠牲にして、何事もなかったように、またいつもの生活に戻ればいい。『ヒーロー』としての青太を研磨する、ただの小石のひとつであればいい。
青太は特別だから、『ヒーロー』の原石だから。皆が彼に注目する。飛鳥自身でさえも思考を彼に占領されている。そして飛鳥に目が向けられることはない。
だとしたら、どうして、現在の海黒は、こんなにも飛鳥のことをしっかりと見ているのだろう。
「……僕、これから塾だから」
飛鳥は、海黒の視線を振り払うように、鞄を手に取って立ち上がった。
「逃げるんですか」
「無断欠席したくないだけだよ」
「分かってます。冗談を言っただけですよ」
「……不愉快だな」
海黒は残ったアイスティーを、グラスに口をつけて飲んだ。
「大人しく、してた方がいいんですよ。無力なんだから」
消えそうな呟きは、彼女が1人で2人掛けのテーブルに座っているせいだろうか、どことなく寂しげに聞こえた。
カフェを出て腕時計を確認すると、時刻は18時半をとっくに過ぎていた。19時半までには塾に着いていなければいけないから、余裕はなかった。
ここからなら、警察署の最寄駅よりも、そこから1つ進んだところの駅の方が近いだろう。飛鳥は、重い足取りのまま駅へ向かった。駅に近づく程人通りが多くなる。いつの間にか帰宅ラッシュの時間帯になっていて、なおさら人が多かった。
雨は止んでいなかった。視界にグレーのフィルムがかかったように、目の前の景色は暗い色をしていた。
頭に、鈍い痛みが走る。前へ進みたがらない足を無理やり動かしているのだから、もう足を引きずっているようなものだった。それでも、塾に行かなければならない。せめて、今までできていたことだけは、『できる』ままでいたかった。だから、塾に行って、19時半からの講義を受けなくちゃいけない。
目線を上げて、進行方向を見る。もうすぐで駅に着く。やはり風景は灰色だった。
——だからこそ、あか色が映えた。
あかい髪、あかい目。夕焼けの下で、10年前に見たあか色。そんな色を持つ、車椅子に乗った男が、飛鳥の横を通り過ぎて行った。それがどんな絵の具よりも鮮やかで、残像すら目に焼き付きそうな程輝いていたから、飛鳥は一瞬時が止まったような気さえした。
はっとして振り返ると、そこにあるのは人ばかりだった。車椅子の人物の姿は見えない。それでも、まだ遠くへは行っていないだろうと、飛鳥は人波をかき分けながら逆行する。そして、すぐに車椅子が目に入った。
「あのっ!」
飛鳥の声で、車椅子がゆっくりと止まる。しかし、振り向いたのは車椅子に乗った人物ではなく、大きな傘をさしながら、それを押していた方の人物だった。
その人は、こんな季節に長袖のパーカーを着て、フードを目深に被っていた。そして、布の奥から真っ直ぐに飛鳥を睨みつけた。冷えた色の瞳だった。
やがて車椅子は道の端を静かに進み始め、雑踏の中に溶けていった。だから、飛鳥はそれ以上何かを言うことはできなかった。
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