複雑・ファジー小説
- 2−4 ( No.19 )
- 日時: 2018/07/08 09:58
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: P.nd5.WZ)
2−4
「片付け、代ろうか?」
青太の声が、背後で聞こえた。だがそれは飛鳥にかけられたのではなく、一緒に3限目の体育の片付けをしていた、別の男子生徒にかけられたものだった。
ただの日常会話の一部のように、青太がごく自然に代ろうかと言ったので、その男子生徒も遠慮せず、助かると言ってすぐに教室に戻ってしまった。
しかし飛鳥は、青太の本当の目的は片付けを手伝うことではない、と何となく理解した。
「……今度は何だい」
大方、また何か話でもあるのだろうと思った。けれど青太は黙ったままだった。飛鳥が得点板を器具庫の奥に仕舞う後ろで、青太は授業で使ったゼッケンを畳んでいた。こちらへの視線は感じないが、彼の気配はある。青太の呼吸音が聞こえている。だが、今までとは違って、その沈黙から彼の感情を読み取ることはできなかった。
ボールまで仕舞い終わって、後ろを見る。青太も、最後の1枚をカゴに入れたところだった。彼の畳み方は案外大雑把だった。
体操着が肌に貼りつく。早くこんな蒸し暑いところから出たい。しかし飛鳥は1歩も踏み出せなかった。器具庫に唯一ある出入り口の前に青太がいたからだ。彼はゼッケンのカゴを、壁に設置された棚の上段に収めた。それで片付けは完了した筈だった。それでもなお青太は黙っていた。そして、動こうともせず、その場に立っていた。無音の空間は、教室棟で、昼休憩で賑わう生徒たちの声が流れ込んでくる程だった。
「岬海黒に会ったのか」
唐突に、青太が言った。
「クラスの女子が話してた。お前が昨日の6時半頃に1年の女子と一緒にいた、って」
彼は早口で言った。彼の渇いた唇しか動いていなかった。それ以外の動作は一切削ぎ落ちていた。彼の両目がどこを見ていたのか、横顔からは窺い知れなかった。
「岬海黒に、会ったのか」
そうして、青太の頭が動いた。
首だけを動かして飛鳥を見つめる目は、薄暗い空間の中でも、けっして黒一色に塗り潰されてはいない。やはり、深海のように青い光を奥に湛えているのが分かる色をしていた。それくらい、彼の本当の瞳の色は鮮やかなのだった。
「会った」
平らな水面に石を落とした時のように。青太の瞳が確かに揺れた、と思った次の瞬間、身体が前にふらついて、彼の双眸が眼前に現れた。
「どうして」
絞り出すような声も、その言葉に纏わりつく浅い息遣いまで、はっきりと聞こえた。首元が苦しい。どうやら、青太に体操着の襟ぐりを掴まれているらしかった。
「岬海黒にはもう近付くなって言っただろ」
青太の声に、さっき男子生徒に話しかけたときのような穏やかさはない。冷たさと熱を同時に孕んだ、今までに聞いたことのない声で飛鳥に詰め寄る。どうして会ったんだ、と絞り出す声。
飛鳥は少し息を吸った。6月の水分と、汗の臭いのする生温い酸素が喉の内側を撫でていく。
「言わない。君には関係ない」
それを吐き出した途端、黒い前髪の隙間に見える目が、一瞬で激情に染まった。
ガンッ、と重い金属音と共に、腰に鈍痛が走る。身体を押されて、後ろにあった鉄のボール籠に激突したのだろう。だが青太は距離を広げることなく、至近距離から飛鳥を睨み続ける。
「彼女は危険だって、言っただろ」
「ああ。言ってたね」
「近付くなって言っただろ」
「ああ聞いたよ」
「じゃあ何で会ったんだ」
「僕は君の言うことに従うなんて一度も言ってないだろ」
そう言えば、より強い力で抑え付けられた。鉄枠が身体に食い込みそうな程、強い力で。
「お前、自分が『無色(colorless)』ってこと、分かってるのか」
ああ、水島までそんなこと言うのか。
「——分かってるよ、そんなことは!」
叫んで、飛鳥は、自らの首を圧迫する手に掴みかかった。拘束を離そうとしたわけではない。ただ、彼の手首を握り締めて爪を立てるためだった。それが無力な無色(colorless)にできる唯一の足掻きだった。
自分は無色(colorless)で、海黒や青太のように強力な《COLOR》を持った人間には敵わない。そんなことは、海黒と対峙し、青太に助けられたあの夜に痛感していた筈だった。
だから本当は、海黒と会ってはいけなかった。海黒を無視することの方が正しかった。それが正しいと、分かっていたのに、会ってしまった。
「なら、彼女と会って、無事ではいられない可能性だって考えられただろ。かすり傷程度の話じゃない、今ここに五体満足で立っていられるかだって分からなかったんだ。五感が正常なままでいられるか分からなかったんだぞ。今日学校に来られるか、昨日家に帰れるかさえ分からなかったんだぞ。今、生きていられるかどうかすら——」
最悪の事態を想像してしまったのだろうか。青太の最後の言葉は、苦しそうに掻き消えていった。
「分かってるさ。分かっててやったんだ。全部、僕が決めてやったことだ」
だから君は関係ない、と飛鳥は吐き捨てた。青太の手を掴む力も、一瞬たりとも緩めなかった。それに反して、視界は不安定で、何度も歪んだ。眩暈にも似ていた。ともすれば、薄暗い器具庫の天井を、雨雲だと勘違いしてしまいそうだった。
加速していくような、解離していくような、崩壊していくような。胸の中心が冷たくなって、ずっとざわめいている。
人差し指の爪は、ついに青太の肌を突き破った。爪の先に赤い血が滲んだ。しかし、青太が飛鳥から目を逸らすことはなかった。
「お前が、『信じてほしい』って言うから」
手首を、何かが伝っていった。それは汗だったのだろうか、それとも青太の血だったのだろうか。床に落ちてしまった今、もう確認することはできない。
「オレも、信じていいんだって思って、信じたのに」
瞬間、あんなに頑なだった青太の手が、驚くほどあっさりと解かれた。気道が急激に酸素を取り込んだせいで、少し咽る。
呼吸を整えて、気が付けば青太の姿は目の前にはなく、教室棟へ戻っていく背中だけが見えた。
飛鳥は、鉄枠に触れた手で、ボール籠を殴った。強い衝撃と痛みが、指先にまで伝播した。中に入っていたバスケットボールが、幾つかその中で転がった。
教室に戻ると、いつも一緒に昼食を食べている友人が、今日は先に弁当箱を開いていた。飛鳥に気が付くと、遅かったなーと言って唐揚げを口に放り込んだ。仕舞う場所が分からなくて、と適当な言い訳をしながら、飛鳥は昼食を取りに自分の席に向かう。
隣の席には、潮田が座っていて、他の女子生徒数人と一緒に弁当を食べていた。
「飛鳥くん、遅かったね。体育の片付け?」
「うん」
もう1つの隣の席——窓際の、青太の席は空っぽだった。だのに青太の声が間近で聞こえたような気がした。はっとして周りを見る。けれど、教室内に青太の姿は見当たらなかった。
「どうしたの?」
「……いや、何でもないよ」
「あ、そういえば……飛鳥くんに、訊きたいことがあるんだけど」
「訊きたいこと?」と飛鳥が訊ねる前に、潮田は飛鳥の方に身体を寄せて、声を潜めた。
——昨日、飛鳥くんが、1年生の女の子と一緒にいたって聞いたんだけど、それって。
「その話、今じゃないとダメかな」
飛鳥は立ったまま、彼女の台詞を遮った。いつもと同じように、自然に言ったつもりだった。しかし、ふと目を向けた先にいた潮田の表情は引き攣っていた。自分は、存外、きつい言い方をしてしまっていたのかもしれない。潮田の不自然な沈黙は、その友人たちをも黙らせた。そして次第に、それが他のグループにも伝染していく。十数秒後には、温い空気で充満する教室が、昼休憩だというのに静寂に包まれた。
「あ……ごめん」
情けないほど小さな声で、飛鳥は謝った。すぐに潮田に背を向ける。鞄から弁当を取り出す為、という名目の上で、飛鳥は彼女からの視線から逃れようとした。鞄を開いた時、スマホの通知のライトが光っていることに気が付いた。ポップアップで、ラインに送られてきたメッセージが表示されている。送信者は姉の白鳥だった。
——放課後、暇? 夕方から休みが取れたから、一緒に何か食べにいかない?
簡単なメッセージが飛鳥の目に映る。飛鳥は、一度だけ端末をぎゅっと握って、了承の意を伝える返信を送った。
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