複雑・ファジー小説
- 1−1 ( No.2 )
- 日時: 2018/04/19 23:58
- 名前: トーシ (ID: NVMYUQqC)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=905.jpg
第1話 アオタブルー
1−1
朝だというのに、空は雲に覆い隠されてくすんだ色をしている。きっと、1限目の間に降り始めるだろう。登校中に降らなかったのは幸運だったな、と瀬川飛鳥は片手に持った傘をちらりと見て思った。
玄関の傘置き場にそれを置いて、飛鳥はいつものように上履きを履く。すれ違う同級生と挨拶を交わしながら、彼は自分の教室に入る。そして、一瞬動きを止めた。自分の席に自分ではない男子生徒が座っていた。座る席を間違えたのだろうか。そこ僕の席だよ、と声をかけようとして、飛鳥はそこで昨日のクラスラインを思い出した。
この2年B組では2ヶ月ごとに席替えが行われる。進級直後の学級ホームルームでそう決めたのだ。それから2ヶ月経って、今日が初めての席替えだった。
昨晩、クラスラインに貼られていた新しい座席表を思い出しながら、飛鳥は教室の後ろを歩いていく。確か自分の席は、と記憶を頼りに、飛鳥は教室の1番後ろで窓から2列目の机に鞄を置いた。
「瀬川くん、おはよう」
「おはよう、潮田さん」
飛鳥の右隣、窓から3列目に座っていた女子が飛鳥に話しかける。彼女は、飛鳥が名前を呼ぶと嬉しそうに微笑んだ。
「私、瀬川くんと隣の席だって知って、昨日すごくテンション上がっちゃって。今日はね、学校に来るのとっても楽しみだったの」
飛鳥はそれに薄く笑って答える。彼にとって、女子を相手にして話すのに今更どぎまぎするようなことはなく、教科書を机に入れながら言葉は自然に出てきた。
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいよ」
「なんか、学校に来る目標ができたなあ。最近蒸し暑くなってきたから、登下校すら億劫なんだよね」
「もう梅雨だからね。潮田さん、今日から夏服なんだね」
「気付いた? 今朝、急いで出してきたの」
アイロンとか十分に出来てないんだよね、と潮田は恥ずかしそうに自分のセーラー服を撫でた。セーラー服の上で、色素の薄い髪が静かに揺れる。
「瀬川くんも今日から夏服だよね、お揃いだね!」
潮田はじっと、飛鳥の琥珀の目を見つめて笑った。潮田の目は鮮やかな桃色をしていた。飛鳥はその時初めて、この女子生徒の目を直視した。眼前で輝く、一対の色彩。宝石のようにも思える。こんなにもはっきりとした色をしているなんて知らなかった。飛鳥は無意識に息を止めて、しかしすぐに意識を取り戻して「そうだね」と、息を吐き出した。
朝から気分が重い。窓の外の空を見てしまえばもっと沈みそうで、飛鳥は潮田の声に空返事をしながら、彼女を見ないように教室を見渡す。始業までに15分はあるが、教室にはクラスメイトのほとんどが揃っていた。茶色、焦げ茶、亜麻色、橙色、金色。それだけではなく、まるでアッシュカラーで染めたような、桃色、藤色、彩度の低い緑色。
もちろん、自由な髪染めが許されるほど、この高校の校則は緩くない。中にはこっそり染めている生徒もいるかもしれないが——大抵の生徒はそれが生まれつきのもので、あちらこちらでカラフルに煌めく目も、また同様だった。
自分の高い背が後ろの邪魔にならないな、とついさっきまで安心していた飛鳥だったが、こうもよくクラスメイトが見えてしまうとなると、新しい席はあまりよく思えなかった。その上、隣には自分によく話しかけてくる『色鮮やかな』女子生徒がいる。
次の席替えはまだまだ遠い。さらに2ヵ月後に思いを馳せながら、ふと、左隣が空席であるのが見えた。教室の隅の席。ここには誰が来るのだろうか。まだ登校していないクラスメイトを考えていると、突然脳裏を黒色がよぎった。真っ黒な髪の毛。そして黒く光る両目。完全な黒髪黒目が逆に珍しいこの教室で、それでも目立つことのない、大人しくて地味な男子生徒。
ああ彼だ、水島青太だ。
飛鳥は青太について、よく知っているわけではない。高1の時は別のクラスで、今年初めて同じクラスになったばかりの生徒だからだ。
運動はまあまあできるが、勉強は少し苦手なようで、けれどどちらも平均に分類される程度。自己主張をあまりしないので、クラスの中心にはなれない存在。でも誰とでも問題なく話せるし、仲のいい友人と楽しそうにお喋りしているのをよく目にする。言ってしまえば、どこにでもいる、普通の、平々凡々とした少年。
そしてなんとなく、彼は『無色』なのだろうなと思っていた。何の色彩も持たない髪と目は、一般的に『無色』である証拠となる。それに彼は、友人に自分は『無色』だと話していたような。やはり水島青太は『無色』なのだ。
予鈴が鳴り響いて、飛鳥は考えるのを止めた。授業開始まであと5分。隣人はまだ来ていない。生徒達はお喋りをやめて、自分の机の上に教科書やノートや筆記用具を出し始める。カーテンがふわりと揺れる。湿った風が、教室に静寂までもたらしたようだった。
そういえば、潮田さんとの会話はいつ終わったんだろうか。彼女をちらりと見ると、特に不機嫌な様子はなく、普通にしていた。どうやら上手く対応できていたらしい。
また、カーテンがたなびく。雨のにおいがする。予想通り1限目の間に雨は降り出すのだろう。それで晴れたらもっと蒸し暑くなる。まあ下校の時に晴れたなら、それはそれでいいだろう。
飛鳥が窓を閉めようと立ち上がるのと同時に、静けさを裂く足音が聞こえた。
「隣、瀬川なんだな。おはよう」
青太が教室に入ってきて、早足で真っ直ぐこちらの方に歩いてきて、飛鳥にそう言った。目が合った。
「おはよう、水島」
飛鳥は立ったまま、動けなかった。初めて青太と目を合わせた気がする。彼の目はやはり黒かったが、なぜだかその奥に青を湛えているような気がした。海の底の、青が濃くなって黒のようになったところと同じ色のような気がした。
青太はリュックサックを机の横にかけた。そして椅子に座る前に、あ、と呟いた。
「窓、閉めたほうがいいよな」
「あ。うん、よろしく」
青太は人のよさそうな笑顔のまま、窓枠に手をかける。その時一際大きな風が吹いて、飛鳥の前髪を煽った。自分の白い髪が揺れる向こうで、飛鳥は青太の黒髪が翻るのを見た。そうして、普段彼の耳にかかっている髪の毛の、奥の色が覗いた。
晴れた日の海のような、濁りのない青色が覗いた。
涼しい、と青太は零した。飛鳥にとっては、自分の顔に触れていくその風は冷たかった。
NEXT>>3
- 1−2 ( No.3 )
- 日時: 2018/04/22 23:35
- 名前: トーシ (ID: NVMYUQqC)
1−2
目の奥で青色が瞬いている。隣の席の青太を盗み見る。彼の耳には黒髪がかかっていて、青色は見えない。しかしそこに青色があるような気がするし、時折黒の隙間から色が覗いている気がする。思い込みすぎて、ただ錯覚しているだけかもしれないが。
けど確かに飛鳥は、青太の青い髪の毛を見たのだ。それも、このクラスの誰よりも鮮明な色彩の青を見た。姉やその同僚の『色』と同じくらい、美しい色だったと思う。
「オレ、何か間違ってた?」
「えっ」
唐突に青太に声をかけられて、飛鳥はハッとした。間違ってた、って今朝のことだろうか。自分に青色をうっかり見せてしまったことだろうか。
「オレの方ずっと見てるみたいだったから、和訳で間違ってるとこがあったのかなって」
青太は自分の英語のプリントを飛鳥に差し出した。2行ほどの英文があって、その下に青太の文字で日本語が書かれている。そこで飛鳥は、今が6限目の英語の時間であることを思い出した。机をくっつけて、隣同士で模試の演習の答え合わせをしている最中だった。
今朝のことなんて全然関係ないじゃないか。何を考えているんだ、と自分の忌々しい思考を振り払う。青太の日本語訳を急いで読み、参考書に書いてあった解説を思い出しながら、それらしく誤りを指摘する。青太はなるほど、と素直に納得した。
「すげえ分かりやすかった、さすがだな」
「そうかな。分かりやすかったならいいんだけど」
青太の純粋な賞賛に、いつもなら「ありがとう」と言えていたのだろうが、飛鳥はなぜかそれが喉に引っかかったまま出てこなかった。気分が悪い。さっきまで暗かった空がやっと晴れ間を見せようとしているのに、こんなに気持ちが沈んでいるのだから、自分の憂鬱が雨のせいではないことは明らかだった。
やがて教師の解説が始まって、青太は顔を前に向けた。飛鳥も青太に倣ってみるが、教師の言葉がいまひとつ耳に入ってこない。そしてすぐに、耳鳴りのような重低音が鼓膜の奥で響き始めた。雑然とした脳内が、意識の全てを占領していく合図だった。
——青太はおそらく、《COLOR》所持者であるということ。それも、強力な《COLOR》を持っている人物であるということ。
この世界には、異能力が存在する。
念力、透視、瞬間移動、テレパシー、発火、その他多くのいわゆる超能力が、異能力と呼ばれている。かつて人間が想像していたよりも多種多様で超常的なものばかりだから、超能力と呼ばれていたそれは、超能力の既存のイメージを超えて『異能力』と呼ばれるようになった。
異能力者の人口が8割を優に上回った現在でも、異能力について判明していることは数少ない。
その希少な1つに、異能力者は身体の色素が変化する、ということが挙げられる。つまり、平たく言ってしまえば、異能力者は髪の毛や目がカラフルなのだ。しかも異能力が周囲に与える影響が大きければ大きいほど、強力であればあるほど、色彩は作り物かと見紛うくらい鮮やかになっていく。
だから異能力は、根源とされている物とも相俟ってこう呼ばれている。
——Characters Of Linked ORigine、通称《COLOR》。
そして、その理論に従うならば、今まで自分を無能力者——『無色(colorless)』だと自称してきた青太も《COLOR》を所持していることになる。誰よりも強力な力を有しながら、それを隠していることになる。
もちろん、色素の変化の度合いには個人差がある。強い《COLOR》を持ちながらも黒髪のままの人だっているし、その逆で《COLOR》が弱くても、派手な髪色の人だっている。
だが飛鳥は、青太のあの青色はその範疇を超えていると思った。誤差だとか個体差だけで済まされるようなものではない。力が伴わなければ、あれほどまでにさやかな色にはならない。だからあの彩りは、正真正銘の青太の力を示しているように思えた。
だとしたらなぜ、青太はそれを隠すのだろうか。髪の毛の一部だけ色素が変わることはないから、きっと地毛があの色だ。目だって本当は黒ではないのだろう。それをわざわざ黒に染め上げて、黒のカラーコンタクトをして、自分を『無色』だと主張する意味が分からない。
どうしてなんだろう。どうして、そんなことをするのか。いっそ訊いてみようか。いや、「どうして」自分はそれを訊きたがるのか。なぜ。その問いかけの裏にある本心は一体何だ。訊いて、その後どうするんだ。自分は何を思うのか。
予測できてしまいそうだった。
胸の奥に潜む不定形の物体が、徐々に輪郭を持っていく——次の瞬間、鐘が鳴った。
物体は瞬きする間もなく霧散した。同時に飛鳥の意識は現に浮上する。鼓膜が震わされる。外界の音の侵入を拒んでいた耳が、椅子を引く音や、号令の声を受け入れ始める。
授業が終わったらしい。先生の話、全然聞いてなかったな、と飛鳥はぼーっとする頭でそんなことを考えた。
ノートを仕舞いながら、ついつい青太の方に目線を向けてしまう。今日で何度目だろうか。また、目が合った。不自然な色の目だ。
「体調、悪いのか」
青太が首を傾げて尋ねてくる。
「いや、元気だよ。どうして?」
努めて自然に振舞う。早鐘を打つ心臓の音が、相手に聞こえてしまわないように。唇が震えないように。
「瀬川、今日一日中ずっとぼんやりしてただろ。授業とかいつも真面目に聞いてるから、珍しいなと思ってさ。だから、もしかしたら体調悪いのかなって」
「ああ、ちょっと疲れてるのかな。でも平気だよ、心配してくれてありがとう」
「そうか。ならよかった」
青太は優しい奴なんだろう。けれどこれ以上彼と言葉を交わすのは苦痛だった。飛鳥はいつもより早く荷物を纏めて、椅子を入れる。青太の「じゃあな、お大事に」という言葉に自分が何と返したのか、よく覚えていないが、いつものように当たり障りのないことを言ったのだろう。
お大事に、って何だ。平気だって言ったじゃないか、ちゃんと聞いてたのか。
青太の言葉が「ゆっくり休めよ」くらいの意味であろうことは、飛鳥も知っている。知っているが、その言葉を受け入れられない。
外に出ると、雨は降っていなかった。薄くなった雲は停滞したままだ。飛鳥は片手に閉じたままの傘を持って、生徒玄関を出た。今日の放課後は予定がない。1時間かけて徒歩で帰宅してもいい。いや、やっぱりいつも通り電車で帰ろう。早く帰って、問題演習の解説を聞いていなかった分も、早く勉強に集中しよう。余計なことを考えないように。
飛鳥は、色彩のない空の下を歩き出した。
NEXT>>4
- 1−3 ( No.4 )
- 日時: 2018/05/07 17:39
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: Sss3ynyw)
1−3
飛鳥が通う高校から歩いて15分ほどの場所に、大きな駅がある。この市の中枢となる駅だ。その間には別の高校があって、駅裏には中学校と大学が存在している。15分間自転車で走ったとしたら、もっと多くの学校を目にすることだろう。だから駅周辺は、放課後になるといつも学生でごった返していた。
ただ、今日の混雑は理由が違った。
飛鳥の目に映るのは、駅の2階の窓ガラスが割れている様だ。1枚のガラスに大穴が開いている。その周辺のガラスも穴だらけで、白い大きなヒビが何本も走っている。明らかに自然現象や不注意による事故ではない。
飛鳥は自分の前に立ち塞がる群集を掻き分けて、何とかイエローテープの手前まで出た。イエローテープを挟んですぐ向こう側には、武装した警官が等間隔に並んで立っている。当然これ以上先へは進めない。駅前広場へさえ行くこともできず、駅前の交差点で立ち往生をくらったまま、飛鳥はその光景を凝視した。
広場の石畳の上にガラスの破片が散乱している。それらは広場全体に落下していて、駅舎からかなり離れたところにまで飛んでいた。そして耳を澄まさずとも、建物の中からくぐもった轟音、何かが割れる音、そして怒声が一際、はっきりと聞こえた。
瞬間——甲高い音が、空気を割った。ガラスが割れた。欠片が宙に飛散する。群集から驚愕の声と悲鳴が上がる。鼓膜を突き刺した派手な音に次いで、飛鳥の神経を刺激したのは、その穴から空に身を放るひとつの人影だった。それは1階の屋根に着地して地面に飛び降りる。それを追って、もうひとつの人影が同じ場所から現れた。同じように、そしてより身軽にその人物も地面に降り立った。
追われる方は、黒いパーカーを目深に被った男だった。衣服は所々切れていたが、血が滲んでいる箇所はない。息を荒げて、肩を大きく上下させながら相手を睨みつけている。
対して追う方は、黒い戦闘用スーツに身を包んでいた。身体のラインに沿うように防具が取り付けられた、シンプルな形のスーツ。その胸元に輝く銀色の紋章が、飛鳥の網膜に克明に焼き付けられる。頭部にはヘルメットを装着している為、それが誰なのかは分からない。しかしあまり高くない背や、どことなく曲線の多いボディラインから、それが女性であり『彼女』であるのは明らかだった。そして何よりも、全身を黒で包んだ彼女の、唯一露出された手の白さが際立っていた。
距離をとって相対する二人。じり、と破片を踏みながら、相手の様子を伺う。硬直する空気の中では、そよ風さえ吹かない。
つかの間の静止、きっかり5秒後。
両者の腕が動いた。
男の剥き出しの掌は飛鳥達の方に向けられ、彼女は逆の方へ掌をかざして。大気が鈍く轟くのと同時に、彼女の腕は、空気を大きく振り払う。
飛鳥は一瞬、空気が弾丸のような輪郭を持ち、こちらへ飛んでくるのを見た。だが1秒とおかず、白い盾が視界を覆った。白は刹那に粉砕される。高い音を立てて、盾の形を成したまま、それは粒子となる。白が視界を舞う。すぐに空間に溶けて消える。まるで雪だ。
その間にも男は、2発3発と空気砲を撃った。彼女は氷の盾で確実に受けとめていく。唸る発砲音と、氷が砕ける音が、何度も何度も。男の罵声が混じりながら、何度も何度も何度も響いた。
石畳を駆ける音は止まない。透明な欠片が蹴り上げられて、ダイヤモンドダストの如く輝く。あちこちで破壊される氷塊が、雪になる。統率のとれていない影絵のように、6月の銀世界を黒い人影が動き回っていた。彼女は男の動きを全て見切る。一挙手一投足、その中に隙が生まれる零コンマ1秒を狙って。
飛鳥の眼前で繰り広げられる戦闘は、そこにある筈なのに、まるで液晶を挟んでいるかのようだった。だとしても、有り余った威力で生み出された風が、髪を、睫毛を、袖口を揺らす度、それが本物であると肌で感じる。時折頬にかかる粒子は、冷たい。
足裏に粉々になったガラスを煌めかせながら、彼女は動く、走る。
その時、男の態勢が崩れた。
あ、転んだ、と飛鳥が思うのとほぼ同時。彼女は両手を接地する。
白の粒子が、接地点から霜のように立ち昇る。
ピキッと、小さな氷解が宙に生まれる。
凍る時間。
金属同士がぶつかるのにも似た音がして。
——白龍が地面を穿ち、男の足に喰らいついた!
男はあっという間に、膝の下までを氷漬けにされた。足を地面に固定されて動くことができない。再び空気砲を撃とうとするが、彼女が腕を一振りすると、手まで氷漬けにされてしまった。彼女は、自らが作り出した氷の道の終点にいる男をじっと見つめる。
「確保!」
彼女が叫ぶと、武装警官達はすぐに喚く男を取り囲んだ。「16時47分、器物損壊罪及び威力業務妨害罪現行犯、逮捕!」と、男はそのまま手袋と手錠を嵌められ、パトカーに数人の警官によって押し込まれた。残りの警官達はイエローテープを回収し、ガラスを撤去し、人々を安全な順路で駅舎へ誘導していく。少し遠回りをして駅裏から入るようにさせているのだろう。ざわめきはすぐに収まって、人々はそれに従って歩き始める。非日常は余韻を残すことなく、日常へ逆戻りしていく。
飛鳥はというと、人の流れから外れた位置に移動して広場の方を見ていた。広場の真ん中に立つ、彼女を見ていた。彼女の前にはもう、あの氷の脈はない。既に粒子と化してしまって、そこには平らな石畳が広がっている。さっきは地面を穿ったように見えたが、本当は表面を凍らせていただけのようだ。
彼女は首や肩を回しながら、ふと飛鳥の方に視線を流した。飛鳥が小さく手を振ると、彼女は頭部を包み隠す黒いヘルメットに手をかけて取った。黒で覆われた肩と背中に、白く長い髪が流れ落ちる。琥珀の目を細めて、彼女は飛鳥の方に歩いてくる。
「凄かったね、姉さん!」
「ありがと、飛鳥」
彼女——飛鳥の姉、瀬川白鳥は一切照れることなく、白い歯を見せて、その端正な顔に逞しい笑顔を浮かべた。
「飛鳥、怪我してない? 大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「それならよかった! 結構近かったから、破片とか飛んでないか心配でさ」
「姉さんがちゃんと守ってくれたから、僕は平気。それに、怪我するとしたら姉さんの方じゃないか」
「私も平気。ちゃんと今日も無傷よ」
「姉さん、強いからね」
「慣れよ、慣れ」
そう言って、白鳥はぐっと伸びをする。すると凛々しかった表情は、弟の前であることもあってか、ふっと弛緩した。家のリビングで見せるような顔つき。それでも戦闘服姿は様になっている。飛鳥はそんな姉に微笑み返して、けれど意識は彼女の左胸に向けられていた。
左胸にある、盾と旭日を模った紋章——府警直属、対《COLOR》犯罪専門戦闘員の紋章に。
「それにしても、こんな時間に駅前にいるなんて珍しいじゃない」
「今日は何の予定もないから、真っ直ぐ帰ろうと思って」
「ほんと真面目ね。たまには遊べばいいのに」
「遊んでる暇なんかないさ」
「そうかなあ」
暫し考えて、「今度休みが取れたら、どこか連れて行ってあげる」と白鳥は飛鳥の頭をぽんぽんと叩いた。
「たまにはガス抜きも必要ってね……じゃあ、気をつけて帰るのよ。最近は事件の連続発生も増えてるし」
「連続発生?」
飛鳥は耳に覚えのない言葉に、思わず聞き返す。白鳥は再び、うーんと悩むように腕を組んだ。どれほどまで弟に話していいのか、そのラインの見極めが難しいようだ。
「なんて言えばいいのかな……1人を逮捕した直後に、その近辺で、一般人が襲われることが増えたのよ。まあそうは言っても、頻発してるわけじゃないけどね。でも、こんな変なこと今までにはなかったから」
それは、飛鳥の知らないことだった。しかし思い返してみれば、確かに、新聞の小さな記事に、そのような事件について書かれているのを読んだことがあるかもしれない。
「最近、特に物騒だし、気をつけておいて損はないから」
「うん、分かった。姉さんは、今日も遅いんだよね」
「多分そうなると思う。晩ご飯、残しといて」
「了解。じゃあ姉さんも気をつけて」
白鳥はばいばい、と手を振って踵を返した。歩きながら、ウエストの辺りまで伸びた長髪を器用に仕舞って、ヘルメットを被った。そういえば姉の移動手段はバイクだったな、と何となく思う。戦う姉も、バイクに乗る姉も、どちらもかっこいい。
白鳥の背中を見送った飛鳥も駅舎へ向かう。風穴の空いた窓ガラスは、風景の中でやはり異質なものだった。けれどそれが異質だと思えるのは、道も、人も、駅以外の建物も、日常の姿をなしているからだ——いや、違う。異質なものが、もう1つ。
飛鳥の目は、駅のすぐ近くの、建物と建物の間に釘付けになった。正確に言えば、そこに走りこんでいく1人の少女に。長い三つ編みを耳の下で輪っかにしたような、変わった髪形の少女だった。そして、特徴的な台形のセーラーカラーが、彼女が自分と同じ高校に通う生徒であることを示していた。
建物の隙間は暗く、真っ黒だ。女子生徒の小さな背中は、一瞬で長方形の闇にかき消されて見えなくなった。だから、彼女が焦っていたのかどうかは分からない。彼女の傍らで、せわしなく揺れる通学鞄がなぜか脳に焼きついた。
飛鳥の脳内で、街の喧騒がフェードアウトしていく。代わりに、姉の言葉が頭蓋骨に響く。
逮捕した直後に、その近辺で、一般人が襲われる、と。
歩行者用信号機が青に変わる音が聞こえて、飛鳥は迷わず少女の後を追うように走り出した。
NEXT>>6
- Re: アスカレッド ( No.5 )
- 日時: 2018/04/25 22:47
- 名前: 荏原 ◆vAdZgoO6.Y (ID: 2rTFGput)
こんばんわ、荏原です。
小説用イラスト掲示板から素敵な絵だなと思って飛んできたのでが、内容もいいとはこれはもう最高ですね!
アスカ君視点で進む一人称?小説だと思うのですが、ホの字なのか!?と勘違いしてしまいそうな潮田さんや、力を隠しているのか染めている青田君。更にアスカ君の姉のシトリさんはクールビューティ—な感じがして、彼女の戦闘シーンを間近で見られる彼が少しうらやましく思います。
定期更新やイラスト投降を両立するのは大変だとは思いますが、楽しみにしています。
- 1−4 ( No.6 )
- 日時: 2018/05/04 11:03
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: mNBn7X7Y)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=913.png
1−4
狭く見えた隙間は意外と幅があり、建物の裏手の空間に繋がっていた。コンクリートの地面と壁に囲まれたそこで、さっきの少女と男が対峙していた。と言っても、少女は尻餅をついて男を見上げている状態だ。男は少女を見下ろしながらにじり寄っている。上手く立ち上がれないのだろうか、少女は座り込んだ態勢のまま何とか退こうとしているようだった。
待て、と、2人の距離が近くなってしまう前に、飛鳥はその間に割って入った。男の前進が止まり、低い声が聞こえた。不快感を孕んだ声。飛鳥は鞄を投げ捨て、少女を背に、男の方へ傘の切っ先を向けそいつを見据える。その男もまた、駅で暴れていた奴と同じようにパーカーのフードを目深に被っていた。顔面を見ることはできないが、その口が舌打ちをするのだけは見えた。
「なんだお前、退け」
飛鳥は、存外その声が若いことに気が付いた。自分たちとそれほど変わらない年齢、おそらく少し上くらいだ。
男は一度は動きを止めたが、眼前の少年を威嚇するように、大股で彼に迫り始めた。飛鳥は黙ったまま、琥珀の目で男を睨みつける。何か言って逆上させてしまったら、返り討ちに遭うかもしれない。別にそいつを倒す必要はない。一撃食らわせて、その隙に少女を逃がして自分も逃げるだけでいい。
手の平に汗が滲む感覚。肌が熱を帯びていくようだ。傘の柄の形を覚えるように、飛鳥は一層強く握り締める。やがて、傘の切っ先が、迫ってきた男の胸の真ん中に当たった。男は再び止まった。しかし、次の瞬間にその口が開いた。
「お前らが正しいと思うなよ!!」
突然の大きな声が、飛鳥の内耳を貫く。お前らって何だ、と思う間もなく、男はまた叫んだ。
「お前らが全て正しいと思うな!! いずれ、我々が覇権を握る。我々が正となるのだ! これからの時代にお前たちはいない!」
男は唾を飛ばしながら不気味な言葉を続ける。その意味不明な日本語の濁流に、飛鳥は当惑した。傘を握る力こそ緩めなかったが、男を真っ直ぐに捉えていた瞳孔は揺らぎ、その時、彼の上着が所々切り裂かれたみたいに破れているのが見えた。
長い絶叫が終わり、男はひゅっと渇いた息を吸い込んだ。視界の端で、男の腕が動く。今だ——飛鳥は傘を思い切り突き出した。男の上体が向こうに倒れていく。尚もこちらに向けてこようとする腕を、今度は横薙ぎに、傘で強かに打った。
「逃げろ!」
背後の少女にそう叫ぶ。少女は一瞬、びくりと肩を震わせた。けれどすぐに、躓きそうになりながらも飛鳥が来た道の方へ走り出した。彼女が横を駆け抜けていくとき、一度だけ目が合った。橙色をはめ込んだような両眼。それはすぐに逸らされて、彼女はそのまま走っていった。
飛鳥も男が地面に倒れているのを認めて走り出す。だが刹那、彼の身体はコンクリートに叩きつけられた。受け身すらとれず、強い衝撃と痛みが背中に走る。しゅるしゅると、植物の蔦のようなものが飛鳥の襟元から抜けていった。あの蔦で引き倒されたのだろう。2本の蔦は空中で鎌首をもたげて、その根元は男の袖口の奥に繋がっている。ああ、《COLOR》だ。
勿論、飛鳥はそのことだって考慮していた。けれども、体格のいい男子高校生を、それも一瞬で引き倒す程の力があるとは思っていなかったのだ。
大抵の《COLOR》にそれくらいの力はない。いや、それ程の力を『発動することはできない』のだ。
——Characters Of Linked ORigine
——つまり、原初にまつわる性質。
《COLOR》は人間の潜在能力で、所謂火事場の馬鹿力と同種であると考えられている。危機的状況に陥った時の、人間の120パーセントの力なのだ。逆に言えば、火事場の馬鹿力を常に発動することはできないし、自分の意志で発動することもできない。
だから、大抵の人間の《COLOR》の力は抑制されていて、せいぜい日常の中で小物を動かせる程度だし、力の出力を調節することもできない。物を破壊したり、相手を組み伏せたり、戦闘不能にしたり——高火力を自由自在に操れるのは、本当に、本当に限られた極一部の人間だけだ。それ以外の人間が無理に力を使おうとすれば、制御できず暴走してしまう。
正確に飛鳥を地面に伏せさせ、蔦を宙で静止させることもできる。男は予想よりずっと手強く、身体を起こそうとした飛鳥を、初動無しでアスファルトに押さえつけた。肩を強く打ち、飛鳥の手から傘が離れる。しまった、と思うのと同時、蔦が首筋を辿り、巻き付いた。
乾いた感触、温かみのない、細くて長いもの。それが気管を締め付けようとしている。
今すぐ蔦を引き千切らなければいけない、なのに身体はちっとも動かなかった。ただ嫌な汗が汗腺から溢れて、喉は一瞬で水分を失った。
ざらついたコンクリートの感触が、10年前の夏の日の、あのざらついたシートの感触とそっくりだった。生温い空気の中、息もできず、ただ闇に飲まれていくばかりだったあの時。
気が付けば息をしていなかった。蔦が飛鳥の首に食い込む。開いた口からは残りの息と喘ぎが漏れるだけで、酸素が全く入ってこない。指先が痺れる。視界が歪む。そして、端から黒に侵食されていく。
あの時はヒーローが助けに来てくれた。あか色のヒーロー。
目の前はもう真っ暗だった。あか色が真ん中に見えた気がしたが、すぐにぼやけて消えてしまった。縋る為に手を伸ばすことも叶わない。飛鳥の意識は、重くなる身体と共に、海の底に沈んでいくだけだった。
しかし、次の瞬間、闇を光が裂いた。
解放された気管に一気に酸素が流れ込む。吸いすぎた息で噎せ返りながら、飛鳥は混乱していた。横たわる飛鳥の眼前に誰かが立っている。滲む景色の中で、それが誰かは分からなかった。ただその人は、男と飛鳥の間に立っていた。男はずぶ濡れで、先程より飛鳥から離れた位置に、先程とは違う格好で伏して、その人を憎らしげに見上げていた。だから飛鳥は、その人が男に何かしたのだろうと思った。
「動くなよ。次動いたら、今度は顔面に撃つ」
水滴がひとつ、落ちて消えた。その人の右手の人差し指から、青い光を湛えた水が滴り落ちていた。
動くな、と言われた男は確かに動かなかった。だが瞬間、絡み合い1本の槍のようになった蔦が、その人を貫——パチン、と指を鳴らす音。水刃が、槍を一刀両断した。それだけじゃない。飛鳥は自分の顔に水が降りかかるのを感じた。見れば、自分の真上で、円形の断面を露わにした2本の蔦がそこにあった。男はもう片方の腕からも《COLOR》を発動して、大きく弧を描いて飛鳥を狙ったらしい。だが、突然現れた何者かはそれを看破した。蔦はすべて、完全に粒子となって散った。
男が絶望的な表情をする前で、まったく動かずに立っている『その人』。黒いスラックスに白い半袖のシャツ。袖口にラインが入ったデザインのそれは、飛鳥の通う高校の制服だ。そして、短く切られた黒い髪が目に入った。
「動くなって言っただろ」
低くて、若くて、聞き覚えのある声が響く。『その人』は濡れた掌を、男の方に向けた。
「……水、島」
どうしてその時、水島青太の名を呼んでしまったのか、飛鳥は自分でも訳が分からなかった。青太が一瞬振り向いた。青太に隙ができて、男はチャンスとばかりに立ち上がって走り出した。「おい!」と青太は声を荒げたが、結局追いかけることはなかった。
ただ、2人と沈黙だけが残った。
飛鳥は上体を起こした。肩と背中が痛んだが、それよりもずきずきと痛みを訴えているものがある。
瀬川、と青太が膝をついて飛鳥に目線を合わせる。首、大丈夫か。その言葉に、飛鳥は、大丈夫だと掠れた弱い声で答えた。本当はまだあの感触が残っていたし、10年前の紐までもが、まだ巻き付いているような気さえする。指先で触り、もう首には危険なものは何もないと分かったとしても、だ。
ふと、首に水が触れた。
「触るなッ」
青太の手を払うのに、躊躇いはなかった。青太は何も言わず、静かに自分の手を下ろした。
「……冷やさないと、痕になるかと思って」
「そんなの、自分でどうにかできる」
「うん、そうだよな……ごめん」
「《COLOR》、持ってたのか。やっぱり」
うん、と、肯定する声。飛鳥はコンクリートの上で、自分の手を握った。痛いほど強く握った。けれど自分の手の中には、握り締める以外の感触はない。
青太はやがて立ち上がって、立てるか、と飛鳥に手を差し出した。飛鳥は言葉では答えたが、やはり相手の手を取ることはなく、ひとりで立った。
「……どうして、こんな奥まった所に来たんだい」
「偶然、瀬川がここに入っていくのが見えてさ。行き止まりなのに変だなって思ってしばらく見てたら、同じところから女の子が走って出てきたから、何かあったのかと思って」
「そういえば、あの子は」
落とした傘と鞄を拾いながら尋ねると、青太は柔く、それでいてぎこちなく微笑んだ。
「ああ。あの子なら大丈夫だろ」
「それならよかった」
「瀬川」
そこから急いで立ち去ろうとしていた飛鳥を、彼は止めた。飛鳥は振り返らずに、顔を少しだけ動かした。青太の声が反響する。
「もう、こんなことするなよ」
「こんなことって」
「1人で《COLOR》所有者を相手にしようとするの、絶対に次はするな」
君には関係ない、と飛鳥が言うより早く、青太は言葉を続けた。最近は事件が増えているから、何をするか分からない《COLOR》所有者が増えているから、危険だから、絶対に関わるな。その言葉の1つ1つが正しくて、そして首が絞められていくようだった。何よりそれを言っているのが、姉でもなく、友人でもなく、『水島青太』だという事実が、苦しくて、悔しくて堪らない。だって、僕は。
「……どうして、そんなこと言ってくるんだ」
「だって、お前は——『無色(colorless)』だろ」
微かに、息が止まる音がした。
NEXT>>8
- Re: アスカレッド ( No.7 )
- 日時: 2018/04/27 10:13
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: iuL7JTm0)
>>5 荏原さん
コメントありがとうございます!(号泣)
まだまだ、他の方に比べて小説を書くことに関して未熟なので、イラストではいいものを描こうと思っております! なのでお褒めいただき、とてもうれしいです!
これからやっと本編が始まります。たぶん、面白くなると思います。カキコ内の他のすてきな作品ともコラボさせていただこうと考えているので、引き続き読んでいただければ、とてもうれしく思います!
- 1−5 ( No.8 )
- 日時: 2018/05/06 00:23
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: 7aD9kMEJ)
1−5
《COLOR》は大抵、10歳前後で現れる。確かに個人差はある。しかし遅い人でも、中学校在学中には、必ず一度は発現するものだ。
瀬川飛鳥の《COLOR》が発現したことは、ない。決して、一度たりともない。彼の手元にあるのは、皆が普通に持つ特別な力ではなく、無色(colorless)の称号だけだ。
そして、自分がそれであることを誰かに言ったこともなかった。だから飛鳥がそうであるのを知っているのは、彼の姉と両親くらいだ。少なくとも飛鳥は、家族以外の誰にも知られていないと思っていた。
何となく分かるんだ、と青太は飛鳥の背中に向かって言った。冷や水が背筋を伝い落ちていくような感覚がして、飛鳥はちっとも動けずに、ただ青太の声を聞くしかなかった。
「相手がどれくらいの力を持ってるのか、何となく、分かるんだ。《COLOR》が強いほど、感知能力みたいなのも、高くなるみたいなんだ」
青太の声音は穏やかだ。けれど、つっかえながら出てくる言葉で、彼が自分を気遣いながら喋っているのが分かった。いつ切れるか分からない緊張の糸が1本、2人の間に張られている。それが切れたときに壊れてしまうのは、飛鳥の方だった。
多分青太は、飛鳥が『青太が《COLOR》を持っている』ことに気づくよりも早く、『飛鳥が無色(colorless)である』ことを知っていたのだろう。そして自分の虚勢を全て見透かしているくせに、さすがだな、なんて称賛したのだ。
「……このことは、誰にも言うな」
険のある声を真後ろの青太に突き立てた。お願いでも頼みでもなく、脅しだった。青太は何でもかんでも吹聴するような性質ではないのだろうけど、再び言葉にされるのは恐ろしかった。それを誰かに聞かれるより、自分自身が再びそれを聞くことの方がずっと嫌だった。
青太は、「うん」とだけ返事をした。ただ、飛鳥の靴底がやっと地面から離れて彼が歩き出したとき、青太は小さな声で呟いた。
「無色(colorless)って、そんなにだめか」
体内を傷つけながら、体の奥の、最深部に沈殿する。それが色彩を持つのなら、その痛みも、血も、飛鳥は受け入れるつもりでいた。それが自分の色になるのなら、と。けれどどう足掻いても彼に《COLOR》はない。
青太に何か酷いことを言ったような気がする。灼ける喉が、自分が大きな声をあげたことを示している。飛鳥は青太の表情なんか碌に見ずに、そのまま走り出した。家に帰るまで、拳はきつく握り締めたままだった。無闇に手を開いて、自身の手が虚空を掴む感覚は、もう味わいたくなかった。
ベッドの中に入っても手を緩められず、布団の中に身を沈めたところで眠れやしない。翌朝、飛鳥は寝不足で重い頭を携えたまま登校して、なんとか午前の授業を受けた。隣席の青太は普通に授業を受けていて、昨日のことを誰かに言う素振りなんて、ちらりとも見せない。だから飛鳥も隣人を意識を外へ追いやった。事務連絡以外の彼らのやりとりは、「一瞬だけ目を合わせること」さえもない。
昼休みになると、普段昼食を一緒に食べている友人に断って、飛鳥は購買へ向かう。たまたま今日は弁当がなかっただけだが、青太のいる教室から離れられるのは気が楽だった。
パンを買って、どこで食べようかと辺りを見回したとき、ふと、1人の女子生徒が飛鳥の視界の真ん中に収まった。三つ編みを耳の下で輪っかにしたような、変わった髪型の少女。昨日、謎の男に追い詰められていた彼女だ。ねえ、と飛鳥が声をかけると、彼女は驚いて肩を震わせた。
「ああ、ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」
少女がゆっくりと振り向く。真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下で、長い睫毛が上がって、丸い両目が飛鳥を見上げた。顔が小さい。頬にかかる黒髪は肌の白さをより際立たせているが、儚げな雰囲気はなく、素朴な感じの少女だった。
「ただちょっと、訊きたいことがあって」
昨日会ったよね、と尋ねると、彼女は持っていたパンの袋を握り締めて、小さく頷いた。セーラーカラーに施された深緑のライン。彼女は1学年下のようだった。
「あの後、大丈夫だった?」
「あの」
少女が飛鳥の言葉を遮る。そして少女は周囲を横目で窺いながら、「場所、変えてもいいですか」と、とてもか細い声で尋ねた。飛鳥の容姿は目立つから、視線は絶えずどこからともなく注がれる。少女は、そんな注目の眼差しに身を縮こまらせているらしかった。
2人は中庭の隅に移動した。日が当たらず、6月ではまだ肌寒さすら感じるような場所だ。校舎の陰になっているせいもあるのか、生徒もあまり寄り付かない。だから2人の周りには誰もいなかった。そこから見える曇り空は、今にも雨粒を落としてきそうで落とさない。相も変わらず、彩度の低い分厚い雲が蠢いているのみだ。
「昨日は、ありがとうございました。本当に」
少女は、お手本のような丁寧なお辞儀をして、飛鳥を見た。黄昏を閉じ込めたみたいな橙色の瞳の中心に捉えられると、不思議と言葉は喉元で消散した。飛鳥は対人用の笑みだけを返した。
「私はこの通り、元気です。怪我とかもしてないです……先輩は大丈夫でしたか」
「僕?」
「はい。怪我とか、されてないのかな、と」
飛鳥は自分の首に触れそうになって、止めた。幸い痣にはなっていなかったから、わざわざ気にする必要もない。男と少女の間に入って、少女は何とか無事に逃げおおせた。そして自分も、大した怪我もなく今日も学校に来ている。それだけのことにしておこう、と思った。
「僕も大丈夫だよ」
「それなら、よかったです」
「でも、あんな人気のないところに、1人で行くのはよくないよ。最近は特に物騒だから」
「そうですね。これからは気を付けます」
彼女はにこりと笑った。しかし飛鳥には、それが精巧にできた仮面に見えた。周囲の視線を避けたがっていたところから、勝手に人馴れしていない子なんだと考えていたが、その割には自分と話すときはとても落ち着いている。昨日のことについて触れても、まるでそんなこと意にも介していないとでも言うように、彼女から動揺が漏れることもなかった。簡単に言ってしまえば他とは違う子、なのだろう。けれど、どこがどう違うのか、というのは飛鳥には掴めなかった。
「……じゃあ、私はこれで」
「あのさ」
だからこそ、ここで彼女との繋がりを切ってはいけないような気がした。『普通じゃないこと』に巻き込まれたのに『普通』に振る舞えている彼女は、何かがおかしい。それに飛鳥には気になることがもう1つあった。
「昨日の奴が『お前らが正しいと思うなよ』って言ってたの、覚えてる?」
「……はい、覚えてますけど。それが、どうかしたんですか?」
「お前らって、誰のことなんだろうと思って」
湿度の高い、べたつくような空気の中では、風は吹かない。淀みも困惑も気まずさも留まったまま、時間まで止まってしまったようだった。少女の黒い瞳孔はわずかに動いた。
半ば彼女を呼び止める口実に言ったようなものだから、飛鳥にはその先の考えなんてない。けれど改めて言葉にしてみると、あの男の言っていたことの奇妙さや、それに対しての疑問が一気に脳を埋め尽くしていった。彼は思考すると同時に、それを音に紡ぎ出していく。
「普通に考えれば、僕と君のことだとは思うんだけど。でも、僕らは昨日が初対面だったから、接点どころか共通点もあまりない。なのに、どうしてアイツは『お前ら』って一括りにしてきたんだろう」
「共通点、ですか」
「うん。同じ高校だっていうのは制服を見れば分かるけど……でも同じ高校の括りで『お前ら』って言ったんだとしても、正しいとかそうじゃないとかっていうのは、あまりにも脈絡がないじゃないか」
「……アンチ、みたいなものじゃないですか」
「アンチ?」
「はい。ここって所謂名門校ですから。受験に失敗して、劣等感とか抱いてる人も、中にはいるんじゃないかなって」
「進学の掲示板とか、結構激しく書いてありますよ」と少女は言った。飛鳥は中学からの内部進学だから、外部事情にはあまり明るくはない。それでも中3のとき、ここよりどこそこの学校の方が優秀だとかを言い争う書き込みを見た記憶はある。けれどそれで、あの男の言葉に繋がるのかと問われれば、答えは間違いなく否だ。
だとしたら他には。『お前ら』に自分が含まれていない可能性。そうか、それがある。『お前ら』というのは自分のことは指していなくて、少女だけを——いや、少女とそれを取り巻く者たちのことなんじゃないか。
「……何かに、巻き込まれているとか、ないかい」
少女の呼吸音が、揺らいだ。彼女から初めて狼狽の鱗片が見えた。しかし瞬きをした次の瞬間には、彼女は真っ直ぐ飛鳥に向き直っていた。
「ありません」
はっきりとした音で、きっぱりと飛鳥の考えを否定した。
「……そうか。ならやっぱり、この学校に私怨があったのかな。何にしろ、また襲ってくるかもしれないから気を付けてね」
結局、気を付けて、しか言えない。しかもそれは飛鳥本人の言葉ではなくて、姉から渡された言葉をそのまま流用しているようなものだ。少女に気を付けてと言う度、姉の声が自分の声に重なってくるようだったし、副音声で、あの青い少年の声が流れていた。
お前は人の身を案じていられるような立場なのか、と。若い男の声が聞こえていた。
だが意外にも、その声を打ち破ったのは少女だった。
「もし、私がまた危ない目に遭いそうになったら、その時も助けてくれますか」
想像もしていなかった台詞だった。不自然で、何かを隠しているかもしれない人間のそんな言葉を容易く受け入れるほど、昨日までの飛鳥は愚かではない。けれど今の彼にとっては、それは不思議と甘美な響きを持っていた。まるで真っ黒な闇の向こうから聴こえてくる、セイレーンの歌声のようだった。
一拍おいて、飛鳥は頷いた。
「……それじゃあ、電話番号、交換しませんか。私も、先輩にお礼したいですし」
少女はスカートのポケットから生徒手帳を取り出し、白紙のページに何やら書くと、そのページを破り取って飛鳥に差し出した。「もし、私がお手伝いできることがあれば、連絡してください」と、見ればそこには電話番号と彼女の名前『岬海黒』という文字が書かれていた。
「みさき、う、み……?」
「黒い海って書いて『みくろ』って読むんです」
「みさきみくろ、さん、だね。……岬か」
岬。みさき。なぜだか、1文字の漢字と3文字の音が印象に残る。それらはすぐに他の情報に紛れてしまったので、特に気にかけるようなことでもなかったのかもしれない。
飛鳥は貰ったメモを胸ポケットにしまうと、同じように生徒手帳を開いて、自分の情報を手早く書きこんでいった。
「どうかしましたか?」
「ううん。いや、どこかで聞いたことあるような気がしてさ」
「まあ、特に珍しい苗字ってわけでもないですもんね。でも、もしよかったら、下の名前で呼んでください」
「じゃあ、海黒さん。僕は瀬川飛鳥です、よろしく」
飛鳥の名前と携帯の電話番号が記された紙を受け取って、岬海黒は頬を上げて微笑んだ。それはやはり貼り付けたような笑顔だった。
「よろしくお願いします、飛鳥先輩」
NEXT>>9
- 1−6 ( No.9 )
- 日時: 2018/05/12 00:25
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: NVMYUQqC)
1−6
飛鳥、と名前を呼ばれた気がした。ゆっくりと目を開けると、姉が自分の顔を覗き込んでいた。
「起きた?」
そう訊かれて、ああ自分は眠っていたのか、と自覚する。
真上に天井がある。暗い色をした天井にキッチンの柔らかい光が差し込んで、滲んでいる。身体を動かすと何かがずり落ちる感触。手に取ってみると、それは見慣れたタオルケットだった。
「……いま、何時?」
「11時半のちょっと前くらい」
白鳥がくすりと笑ったが、寝起きの目では、彼女の表情はぼやけて見えた。彼女の白くて細い髪が、淡い照明の光の中に溶けてしまいそうにも見えた。
「学校から帰って、そのまま寝ちゃったの?」
「……いや、塾にも行ったよ」
「そう。お疲れさま」
白鳥の言葉で、飛鳥は、帰宅してすぐにリビングで生き倒れてしまったことを思い出した。ソファから垂れ下がった方の腕を力なく振ってみると、手の甲に通学鞄が触れる。帰宅したのが9時半頃だったから、2時間近く眠っていたのだろう。しかも制服のままで。ああ、どおりで少し肌寒いわけだ。
飛鳥はカーペットの上に落ちたタオルケットを引き上げて、上半身にかぶせると、そのまま顔まで覆った。しかしすぐに引き剥がされた。
「だーめ。こんなところで寝たら風邪ひくでしょ」
ちょっと睨みつけたところで姉はびくともせず、タオルケットを畳んで小脇に抱えて、キッチンの方へ行ってしまう。仕方なく飛鳥は緩慢に上体を起こし、腕を上げて伸びをした。ん、とくぐもった声が漏れた。彼が眠るにはソファは手狭で、身体が休まったような気はしない。それでも、今朝からの睡眠欲や鈍い頭痛は幾分が和らいでいた。
「飛鳥ー」
「なに、姉さん」
「晩ご飯、食べた?」
「食べてない、と思う」
「食べる? ハヤシライス」
「うん」
腹が小さく鳴いた。さっきまで腹は空いていないと思っていたのに、姉の言葉を聞くと食欲は急に戻ってきた。
電気コンロのダイヤルを回す音が、普段よりも大きく聞こえる。それくらい家の中が静かだった。母親が作っておいてくれたハヤシライスに火をかけながら、白鳥はお玉でそれをかき混ぜている。ハヤシライスの匂いは、湯気と共に飛鳥の嗅覚をくすぐった。
母は、夜は早めに就寝する人だから、もう寝ているのだろう。父は普段はこの時間帯にはまだ起きているけれど、姿が見られないということは、今日は夜勤だろうか。
「姉さんは、もう仕事終わったの?」
「ううん。むしろ、これから明日の朝までが仕事」
「夜勤ってこと? でも、今日の日中は家にいなかったよね」
「日中は、署の仮眠室で寝てたのよ。勤務時間外でも緊急で応援要請がくるかもしれないから、一応、ね」
白鳥はコンロに一番近い席に自分のハヤシライスを置いて、その向かい側に飛鳥の分を置いた。同時に飛鳥も、2人分の皿の隣に、それぞれコップとスプーンを置く。さっきまで白鳥が持っていたタオルケットは、彼女の椅子に座布団代わりにして敷かれていた。
ウーロン茶を注ぐと、べっ甲みたいな光がコップの下に散らばった。
いただきますは、示し合わせずとも重なる。そういえば、姉と一緒に食事をとるのは随分と久しぶりだ。そもそも白鳥が戦闘員になってからは、彼女と飛鳥の生活リズムは微妙にずれていたし、最近はさらに出動回数が増えているのか、家に帰ってこない日も増えていた。
「これから、また署に戻るんだよね」
「うん。今は、晩ご飯食べに帰ってきただけだから。12時過ぎたらまた出るよ」
美味しいね、と白鳥が笑う。そうだね、と、疲れを見せない笑顔に飛鳥も笑い返す。
「怪我しないで帰ってきてね」
「勿論」
白鳥は強い。怪我をして帰ってきたことなんてほとんどない。だから「怪我しないで」なんて、本心だけれどそうではない気もする。でもやはり、無事で帰ってきて欲しいという思いに嘘はない。
「そういえば、昨日さ、今度休みが取れたらどっか連れてってあげる、って言ったじゃない」
「うん」
「海とかどう?」
ザザーンと、波の音。快晴の下、鮮明な青の海面と白波が思い浮かんだ。
「……海は、今はいいかな」
飛鳥は、皿についたルウをスプーンの縁でさらいながら答えた。
「そっか。まあ、晴れてないと綺麗じゃないか」
「海がダメだとしたら、山とか?」なんて呟く姉のコップが空いているのを見て、飛鳥はお茶を注ぐ。こぽこぽと涼しい音を立てて水泡ができては、ガラスのコップの中で、プラスチックのボトルの中で、次々と消えていく。
「屋外じゃなくて、屋内がいいんじゃないかな。どこかの店とか」
「うーん。確かにそうね」
米粒を咀嚼して、嚥下して、それを繰り返す。ハヤシライスは美味しい。ウーロン茶は少し苦い。
スプーンが皿を撫でる音がして、白鳥は両手を合わせてごちそうさまと言った。少し遅れて、飛鳥もごちそうさまを言った。
「お皿、僕が洗っとくよ」
「ありがとう、助かるわ」
壁にかけられた時計を見れば、時刻は既に12時を過ぎていた。白鳥はもう、署に戻らなくてはいけない。飛鳥が食器と鍋を洗っていると、リビングから白鳥の声が飛んできた。
「この電話番号が書いてある紙、飛鳥の?」
水を止めて振り向くと、ソファのところで白鳥が紙切れを持っていた。それはちょうど生徒手帳と同じサイズで、今日海黒と交換した連絡先だった。眠っているときに、胸ポケットから落ちたのだろう。
タオルで手を吹いて、白鳥からそれを受け取ると、今時電話番号なんて珍しいわね、と白鳥が言った。
「変わった名前ね、女の子?」
「うん。1年生の子」
「ふぅん、そっかそっか」
白鳥はなぜか嬉しそうに頷いている。電話番号は既に登録してあるから、飛鳥はそれを手の中でくしゃりと丸めた。
「別にそういうのじゃないよ。困ったら助け合いましょう、みたいなものさ」
飛鳥がそう言っても、白鳥はにこにこしたままで、だから彼もそれ以上は言及しなかった。
「まあ、人助けはいいけどね、あんまり無理しちゃダメよ」
「それは」
口をついて、言葉が零れ落ちる。
「僕が、無色(colorless)だから」
返事は、すぐには返ってこなかった。白鳥が短く息を吸う音だけが聞こえた。
かちり。時計の秒針が動く。
それから彼女はふと飛鳥と目を合わせた。琥珀の両眼にキッチンの照明が映って、光が当たらず暗くなったところの色とグラデーションを作り出している。それは、いつもよりももっと、自分のよりずっと宝石じみて見えた。
「弟だから。心配なの」
それだけよ、と言って白鳥はリビングを出ていった。
1人になった飛鳥は、姉の言葉を耳奥で反芻しながら、残りの皿を洗った。洗いながら、いってらっしゃい、と今更1人で呟いた。今言ったところで、彼女はいないのだから意味がない。
姉が行きたいと言った場所に、僕も行きたいと言うこと。いってらっしゃいを目を合わせて言うこと。今まで普通にできていたことが、今日はできなかった。
寝起きだったから頭が回らなかったんだ。眠かったから反応が遅れたんだ。だから、早く寝よう、と多めに出した水が手を叩く度、手の温度を少しずつ取られていくような気がした。
自分の部屋に戻った頃には、時計の長針は6の文字を過ぎていた。
寝間着に着替えて、今朝開けてそのままだった窓を閉めるために手を掛ける。その瞬間だった。スマホの着信音が、暗い一人部屋に鳴り響いた。
心臓が跳ね上がる。急いで画面を見て、そこに表示された名前に、心拍数が急上昇していく。
『岬海黒』。
通話を繋げる。もしもし、と言って、しばしの沈黙の後声が聞こえた。
「……飛鳥、先輩」
小さな声だった。息の多い、囁くような声。それは間違いなく海黒の声だ。どうしたの。尋ねる。
「助けてください」
梅雨の温い風が、飛鳥の首筋を撫でる。窓の外は、真っ黒だった。
NEXT>>11
- クロスオーバー ( No.10 )
- 日時: 2018/05/06 12:49
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: 7aD9kMEJ)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=925.jpg
複ファ板で連載中の、狒牙さん作「守護神アクセス」との、クロスオーバーイラストを描かせていただきました!
画面左が「守護神アクセス」より奏白真凜さん、画面右が本作より瀬川白鳥です。
「守護神アクセス」は、わたしが本作を書き始めるきっかけになった作品です。
胸が熱くなるようなストーリー展開、かっこいい台詞の数々、そしてなにより大迫力で臨場感のあるバトルシーンが魅力的です!
また、登場人物の掘り下げが本当にすごくて、圧倒されます。胸を抉ってきます。ほんとに。
File8は狒牙さんの本領発揮といった感じで、毎レス心に突き刺さってきます。価値観とか考え方とかを変えられるくらいには、すごいです。File8まで読んだあなたは、きっと守護神アクセスの虜になって昼も眠れなくなることでしょう……!!
ぜひぜひ、読んでみてください!
- 1−7 ( No.11 )
- 日時: 2018/05/19 01:14
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: NVMYUQqC)
1−7
暗くなったスマホの画面には、何も映らない。自分の姿すらも映らない。それもその筈で、飛鳥の周囲に光源など一切なかった。彼は、手に持った端末から顔を上げた。
飛鳥がたどり着いたのは、飛鳥の住む市を2つに分断する大河、その上流にある地域だった。そこは下流に広がるビル街に比べると、随分と寂れていた。廃業した中小企業の工場や作業場や、使われなくなった倉庫が点在しているだけのエリア。そして、女子高校生が夜中に1人で訪れていいような所ではなかった。
しかし、海黒から聞き出した場所は確かにここだ。川沿いに遡ると見えてくる、もう使われていない生産工場。薄汚れた外壁と、塵と埃で曇った窓ガラスが、飛鳥にそこがずっと無人であることを教えてくれる。飛鳥はわずかに開いた窓ガラスを自分が通れるくらいまで開けて、そこから中に入った。
内部は見た目よりも広く感じられた。やはり照明は点いていないが、暗闇を走ってきてだいぶ慣れた目には、そこに並ぶ様々な機械の輪郭が見えていた。大きなローラーがついた機械、筒状の部分を経由して空間を埋めるように伸びたベルトコンベアー、どれも見慣れないものばかりだ。
本当に、ここに海黒がいるのだろうか。そう思ってしまうほど静かだった。だがそれは、同時に、海黒以外の誰かがここにいる可能性も低いということでもある。
「海黒さん——」
飛鳥は意を決して声を発した。声は、天井に、壁に、真っ黒な闇の中に吸い込まれていく。静寂。埃すら舞わない。飛鳥は歩を進めながら、もう一度海黒の名を呼んだ。
すると奥の方が、僅かに、本当に僅かに明るくなった。機械の陰から光が漏れだして、工場のリノリウムの床に当たっている。その彩度を欠いた光は、スマホの画面から溢れ出しているもののように思えて、飛鳥はそちらに向かって、また名前を呼んだ。
「——飛鳥先輩」
人影が、動く。人影がローラーの機械の陰から座ったまま半身を出して、こちらを見ているようだった。顔は見て取れなかったが、その声は間違いなく海黒だ。飛鳥は迷わず、彼女に駆け寄った。
「海黒さんッ」
「飛鳥先輩、来てくれたんですね」
海黒はそこでぺたんと座りこんだまま、飛鳥を見上げた。床に置かれた彼女のスマホは、その光によって、海黒の左半身を不明瞭に描き出している。飛鳥は膝をついて、できるだけ優しい声で海黒に話しかけた。
「困ってたら助けるって、約束したから」
「ごめんなさい。ありがとうございます」
「……大丈夫?」
「無事といえば、無事です」
ごめんね、と断って、飛鳥は自分のスマホを取り出すと海黒を照らし出した。深夜だというのに、彼女は制服を着ていた。学校帰りに何かに巻き込まれたのだろうか。彼女は汚れた姿をしていて、土や埃だけではなく、ところどころ肌や服に色がついていた。それはどうやら絵の具の色らしかった。
それから、彼女の丸い膝に大きな擦り傷があるのを見つけた。傷は浅いようで、血は滲むだけで流れてはいない。だとしても、立ったり歩いたりするには痛むだろう。少なくとも、さっき飛鳥が入ってきたところから出るのは難しそうだ。
飛鳥は端末のライトを照射し、他に出入り口がないかと周囲を見渡した。自分たち以外には誰もいない、という判断の上だった。壁を添わせるように光の円を動かしていくと、左手の方向で円が消えた。扉が開いている。ドアノブのついた、どこにでもある扉だ。その奥は真っ暗だった。
「海黒さん、あそこから出られないかな」
飛鳥がそこをライトで指し示すと、海黒は目を向けて、ああ、と言った。
「あそこの奥は倉庫ですから。多分、出られないと思います。外に出る方ならあっちに」
海黒が指さした方向を見ると、確かにもう1つ同じ形をした扉がある。それにしても、外に出る扉の位置を知っているなら、自分が来る前にここから出ていた方が安全なのに、と思った。けれど海黒の膝の傷を思い返し、その考えを払拭した。助けを求めてくるくらい怖くて動けなかった、ということもある。
飛鳥は再び海黒にライトを当てる。腕、肩口、首、そして最後に顔を浮かび上がらせる。そうして、飛鳥はぎょっとした。海黒の頬が濡れていた。泣いていたのだろうか。ただよく見ると、濡れているのは頬だけではないようだった。水を含んで濡羽色に照る髪の毛は、顔のラインに沿って白い肌に張り付いていたし、黄昏を縁取る睫毛は、濡れて瞬きをする度に震えていた。そして、陰になって見えなかった右半身の肩や腕も濡れていた。制服の袖が、腕の細さを明らかにしている。
飛鳥は、自分の上着を海黒にふわりとかけた。そして、真っ直ぐに目を合わせた。
「なんで、濡れてるんだい」
塵に覆われたリノリウムの上に端末を置いて、尋ねた。
「今日は、雨は降ってないよね」
「……同じ学校の……水の《COLOR》を使う人に、襲われて」
水島青太。
曖昧な微笑が、自分を見抜く瞳孔が、風に揺れる黒髪が、そして黒に紛れる青が。海のように輝く青が、彼の姿形が、一瞬のうちに鮮明に思い出された。
なぜだか、怒りは湧いてこなかった。路地裏で海黒に詰め寄っていたあの男には明確に怒りを感じたのに、1人のか弱い少女に危害を加えたかもしれない青太に対しては、むしろ違和感を感じた。まだ青太がやったと決まったわけではないからだろうか。いや、きっと違う。多分、青太がやったとしても、自分はそれを簡単に信じないような気がした。
脳が冷水に浸されたみたいに、思考が急速に冷えていく。海黒の橙の相貌が、深い闇に潜む蝙蝠の眼のように見えた。そのまま見ていると喉笛に噛みつかれそうな気がして、飛鳥は思わず視線を落とした。
ふと、床に色がついているのに気付いた。これも絵の具だろうか。カラフルな点が30センチくらいの間隔で並んで、線のようになっている。その線の一方は海黒の足元に繋がっている。もう一方は、とライトでそれを追っていくと、扉の開いた倉庫に繋がっていた。先程は気が付かなかったが、闇の奥から溢れ出すようにして、銀色の物体が幾つも転がっていた。アルミチューブの絵の具のようだ。
「倉庫から、出てきたの?」
海黒は答えない。しかし彼女はその奥が倉庫であることを知っていた。彼女は一度そこに入ったのだ。そこで何かがあって、だから身体が絵の具で汚れているのだ。
「倉庫の方、見てきてもいいかな」
「……どうしてですか」
「なんだか、あの奥が気になって」
「やめましょう、危ないですよ」
「なんで危ないって分かるんだ」
彼女は口を噤んだ。
もしかすると倉庫に追い詰められて、なんとか逃げ出してきたのかもしれない。それで自分に電話をかけてきたのかもしれない。まだ、倉庫の奥に危険な何者かが潜んでいるのかもしれない。だとしたら、どうしてずっとここに留まっているのだろうか。どうして、ここから早く離れたい、と言わないのだろうか。自分に害を為す者がすぐそこにいるかもしれないのに、どうして、こんなにも海黒は冷静なのだろう。
「……少し確認するだけだから。確認したら、すぐにここを出よう」
飛鳥は努めて穏やかに言った。彼女は縋るように、飛鳥の服の裾を掴んだ。俯いたまましばらくそうしていた。やがて、くい、と少しだけ裾を引っ張って、自分よりずっと背の高い少年を見上げた。
「私を助けてくれるのは、飛鳥先輩しか、いないから」
夜に溶ける、静かな声だった。
「絶対に、すぐに、戻ってきてくださいね。私のところに、戻ってきてください」
うん、と飛鳥は頷いた。そして立ち上がって、倉庫の方へ目を向ける。絵の具を辿るようにして、口を開いた闇に近づいていく。背中に視線を感じる。海黒が自分を見ているのだろう。じりじりと灼くような視線を、自分に向けている。まるで、自分より向こうにあるものを睨みつけるように。
飛鳥の足が、扉の前に接地した。そこで音を聞いた。
ぴちゃん、と。
雫が滴る、涼しい音だった。
「瀬川!」
闇の中から現れた青太が、身を投げ出すようにして身体で扉を開き、飛鳥の片腕を掴む。
自分を扉の内側に引きずり込んだ手、その傍らで飛鳥の後ろの方に向かって開かれた手。
数秒ほどの光景が、飛鳥の視神経に焼き付く。青い光子が蛍のように現れて、集まり、1つの水の球になる様。掌ほどの大きさに膨張して、揺らぐ様。青が視界の中で輝いている。
刹那、射撃。
青の尾をひいて空を貫く弾丸。それは飛鳥の背後、海黒が座り込んでいる方に飛んでいき、途中で大きな金属音とともに破裂した。からんからん、と金属が床に散らばる音がした。
こちらに向けていた手を下ろして、海黒は溜め息をつく。
「ひどい人ですね。怪我人を攻撃してくるなんて」
「最初に鉄塊を撃ってきたのは、そっちだろ」
「私は、あなたが飛鳥先輩の腕を引いたから、飛鳥先輩を守ろうとしただけです」
海黒は首を横に振ると、機械に手を添えて、ふらつきながらもしっかりと立ち上がった。スカートに付着した埃を払って、そして、飛鳥の方を見た。真っ黒な瞳孔の真ん中に、飛鳥をしっかりと捉えて、「こっちに来てください」と手を差し出した。
それを遮るように、飛鳥の前で腕を伸ばしたのは青太だった。「絶対に行くな」と、海黒から目を離さずにそう言った。
「瀬川を巻き込むな」
「巻き込んでなんかいませんよ。『私たち』の中に入るかどうか、それを決めるのは飛鳥先輩ですから——でも、飛鳥先輩はきっと、『私たち』の考えに賛同してくれるはずです」
「考え、だって? あんなの、考えにもならない、滅茶苦茶な主張だろ」
「今は、そうかもしれません。でも、それはいつか正義になる」
正義、正義のヒーロー。
ねえ飛鳥先輩、と海黒は笑った。
NEXT>>12
- 1−8 ( No.12 )
- 日時: 2018/07/23 08:22
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: MGNiK3vE)
1−8
「瀬川、逃げろ」
青太が苦々しく呟く。正義、という言葉に頭を強く打たれ、激しく揺さぶられるように混濁していた飛鳥の脳は、その言葉ではっと平静を取り戻した。奥の方に1つドアがあるから、そこから出ろ、と青太は前を見たまま、飛鳥に小さな声で伝えた。
でも海黒は、倉庫から外へは出られないと言った。それは嘘だった、ということだろうか。青太がここにいるのを知っていたから、飛鳥を倉庫へ近寄らせたくなかったのだろうか。しかし、それならやはり、海黒がここに留まり続ける必要はなかったし、飛鳥が倉庫へ行こうとしたときにもっと強く止めただろう。
むしろ、飛鳥と青太を会わせたかったのかもしれない。そんな考えが飛鳥の脳裏を掠めていった。
水の《COLOR》を使う人、と言われたときに真っ先に思い浮かんだのは『水島青太』だった。とても自然に、それ以外に考えられない程に、飛鳥はそれを当然のように受け入れた。たった2日で、飛鳥の思考はすべて『水島青太』に支配されていた。
自分は青太に引き寄せられてここにいるのだろうか、それとも自分が青太を引き寄せてしまったのだろうか。どちらにしろ、ここで2人が出会うことは必然だったのだろう。それが海黒の算段の上にあるのだとしたら、もうとっくに彼女の術中にかかっていたのだ。飛鳥は、今更ながら自分の軽率さを呪った。
「……水島はどうするんだ」
「オレも同じ所から逃げる」
でも、と青太は続ける。
「もしもの時は、オレを置いて逃げろ」
もしもって何だよ、と聞き返すことはできなかった。こんなに強い《COLOR》を持つ青太が追い詰められる程の状況を想像するのが、怖かった。
飛鳥は足を1歩後ろに下げた。靴底で絵具のチューブを踏み潰す感触がする。アクリルの匂いが、突然に飛鳥の鼻をつく。もう1歩下がろうとしたが、海黒の声がそれを止めた。
「飛鳥先輩」
海黒の声は極めて優しいものだった。敵意も悪意も感じられない、空気に心地よく馴染んでいくような声。解れのない完璧な笑顔のまま、飛鳥から一瞬たりとも目を離さない。
「私のところに、戻ってきてください」
それとも、私のことが信じられませんか。海黒から尋ねられ、飛鳥は答えられなかった。
信じられないわけじゃない。現に、彼女が飛鳥に害を為そうという気は感じ取れなかった。助けてください、と自分を頼ってくれた彼女を、その言葉を、本当だと思い込みたいだけかもしれない。自分は必要とされているのだ、と。身体が傷つかないのなら、騙されたという精神的苦痛を受けるより、彼女の甘言に嵌ってしまった方がずっと楽だろう。だが、飛鳥が海黒の方に前進するには、青太の存在は強すぎる。飛鳥には、遮るように伸ばされた青太の腕が、茨の柵のように見えていた。
その柵越しの海黒は、飛鳥の大きな上着を纏っていることもあってか、ひどく小さく見えた。
「……駄目ですか。駄目みたいですね」
ふと、彼女は差し出していた手を下ろした。そして端末を拾うと、画面も見ずにそれを操作する。たったワンコールだけ、重い無音を引き裂いてすぐに消える。
「じゃあ、新しい提案をします」
直後、飛鳥の背後でドアが開いた。3人、誰かが入って来る。青太が目を見開いて、そちらに視線を逸らす。狙って、海黒の人差し指から粒子が発生し、凝縮し、形を成した黒の物体が放たれる。それが空を切り裂く音を聞いて、青太はすぐに視線を戻し水流を撃った。黒の物体——おそらく鉄塊だろう——は、真っ二つに割れたが、その欠片の1つが、発射するそのままの勢いで青太の腕を抉った。
「飛鳥先輩を守りたいなら、水島青太さん、あなたが、私達のところに来てください」
海黒が笑う。いや、本当は顔なんて見えていなかった。蝙蝠のような目だけが煌々と、闇の中に浮かんでいるようだ。
青太は即座に、嫌だと吐き捨てた。その声は幾分か苦しそうだった。彼が片手で水泡を作りだすと、青い光で傷口が明らかになる。ペンで描いたような真っ直ぐな切り傷が、青太のしなやかな腕に刻まれている。傷は浅くはないのだろう、血が滲んで、滴り落ちた。それだけじゃない。今まで気が付かなかったが、青太の着ている制服も数か所が裂かれていた。その様は、昨日、海黒と対峙していたあの男を想起させた。
そうか、あれは彼女がやったのか。
「いいんですか? あなたが私達の味方についてくれたら、飛鳥先輩はこのまま、無事に返しましょう。何も知らないままで、ね——でも、ここであなたが拒むなら、力づくでも飛鳥先輩を頂戴します」
「オレはお前らの味方になんかつかないし、瀬川も渡さない」
「強情ですね。そんなこと、言っていられるような場合じゃないと思うんですけど」
背後から3人が詰め寄ってくる気配がして、飛鳥はそちらを向いた。背を見せてはいけない。青太と背を向き合わせて、3つの人影を注視したまま青太と海黒の声と息遣いに耳を澄ませる。青太の息は、飛鳥より荒かった。怪我人に守られている自分は駄目だ。けれど飛鳥には対抗策がない——あと5分だけ凌ぐ方法を、自分は持っていない。
飛鳥は息を吸った。酸素を取り込んで、少しは冷静になれただろうか。心臓が全身に血を送り出す感覚はしていた。熱を帯びた指先で、後ろに立つ青太のシャツをわずかに引っ張る。
「水島。あと5分、持ちこたえられるか」
「……ギリギリかもな」
大丈夫、お前に怪我はさせないから。青太は努めて力強く、飛鳥に言い聞かせる。その言葉の重さが、飛鳥の身体を縛り、海底の深くへ沈めていく碇になるだなんて青太は知らないのだろう。
飛鳥は水中で空気を求めるように、口を開いた。発声のための器官、それ以外を一切動かさずに囁く。
「——警察を呼んだ」
「……いつ」
「ここに来る直前に」
——《COLOR》を使用した喧嘩が起こっています」と、言った。もしかしたら、いたずら電話だと判断され、無視されているかもしれない。しかし、対《COLOR》犯罪専門の戦闘員が署に常駐しなければならない程、ここ1か月での治安の悪化は凄まじかった。《COLOR》を使用した喧嘩だと言われれば、警察も完全無視はできない筈だ。現場に直行しなかったとしても、必ずここを確認しに来る。現状を切り抜けるには、それまで耐えればいい。
「……やっぱり、さすがだな」
青太が、飛鳥の服の裾を指先で引いた。でもそれが上手くいくかどうかは、青太に全てかかっている。だから飛鳥は素直に喜べなかった。結局自分1人では何もできない。暗闇の中、無残に転がった絵の具が、踏み潰されて中身が出てしまった絵の具のチューブが、悲しく飛鳥の目に映っていた。
「オレ、無色(colorless)になりたかったんだ」
『色』を失った絵の具なんて、意味がないのに。
「《COLOR》が暴走することがあるんだ。力ばかりが強くて、オレの手には負えなくて……いつか誰かを傷つけるんじゃないかって、怖かった。《COLOR》を使うのが怖かった。そんなモノが自分の中にあるのが怖かった。人を傷つけるような力なんて欲しくなかった」
飛鳥は何も返さない。青太はまるで、懺悔室で神に祈るように話し続ける。なんて臆病なのだろう。そして、そんな恐怖を抱えながら、あの時も、そして今も、自分を助けようとしてくれる青太は——『ヒーロー』だ。
「だから……戦ってみるけど、お前のこと、傷つけるかもしれない」
自分とは対極にいる水島青太という人間、彼が『ヒーロー』なのだとしたら、瀬川飛鳥は『ヒーロー』とは最も遠い位置にいるということになる。それが現実だった。青太が海黒を襲うはずがないと、思ってしまったのは、青太が『ヒーロー』だと認めているからだ。
青色は、冷静さを表す色だ。客観的事実から、現在がどうであるかを分析し、導き出す色。そんな色をした『ヒーロー』が、今になって、夢と理想に夢中になるあまり気づかなかった現実を再教育してくれているだけ。それだけのことなのだ。
「……いいよ、派手にやれ」
威勢だけはいい自分に嫌気がさす。自分を律することで精いっぱいだ。
青太の手の中で、水泡が波打った。
NEXT>>13
- 1−9 ( No.13 )
- 日時: 2018/08/24 17:27
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: Au2wVmYz)
- 参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=997.png
1−9
水がうねり、唸り、とぐろを巻いて1本の柱になる。次の瞬間には、青太の掌が海黒に向けられ、彼女の体側を打たんとする弧状の水流が発射された。その水流が彼女の間近に届き、派手な音を立てて弾けるまでには1秒もかからなかった。青い彩光を散らしながら、水の破片が飛ぶ。海黒は鉄塊をぶつけて水流に対抗したのだろうか、飛沫に混じって、黒の破片が落ちていく。
と、思ったその時、漆黒が見えた。まだ粒子化していない水の一切を裂き、黒の破片すら破壊し、青い空気を貫く漆黒の物体。掌よりもずっと大きく、歪な形ながらも鋭利な切っ先を持つ鉄塊が4つ、急速に飛来する。
青太は舌打ちをして、右手の指を鳴らした。水刃が魁の2つを打ち落とす、だが砕くには至らない。落下した鉄がからんと鳴る。涼しい響きだった。その残響を断つのは、後続のもう2つが風を切る音。青太はさっきとは逆の手をすぐさま横に振る。その横薙ぎの一線が青く光る。
青太の左肩が、飛鳥の右肩に当たる。瞬間、瞬きをする前に光が広がる。波にも似た音がするより速かった。床も天井もまるで真昼のように鮮やかな青で照らし出され。それは、青太を中心に半円を描く巨大な波紋で、今度は鉄塊を完全に粉砕した。筈だった。
疑似水面から飛沫が上がる。青い——いや、青い光をその全体に反射させる、純黒の鏃が一直線に青太に向かってくる。
「嘘だろ……ッ」
息を弾ませながら青太が右手を上げる。その瞬間に疑似水面は消え去り、鉄塊は再び真っ黒に塗りつぶされた。水の抵抗から解放されたそれは一気に加速する。水飛沫などもはや一滴も纏わない、ただただ黒い凶器のシルエットが接近してくる。
一際大きく、水が渦巻く重い音を立て、青太は水流を放った。先程のよりもずっと太いそれは、最早水の槌のようだ。こんなにも《COLOR》を高出力してしまえば、当然青太にも負荷がかかる。反作用の力に耐えきれなかった青太の背が、飛鳥の背にぶつかる。飛鳥は、彼を倒すまいと足を踏ん張った。青太の背から、彼が放つ水の衝撃が伝わってくるようだった。
「もう……諦めてくださいッ」
減速こそしたものの、海黒の放った鏃は止まらない。盾を矛で突き抜かんとするように、水流の真ん中を抉りながら直進する。その表面は次々に削れて、青い光子と混ざり合う。青太の掌が繰り出す明るい青の水流は、水と鉄の接地点からブルーサファイアが溶け出しているかのように、途中から濃紺に染まって、海黒の手前で全て粒子と化す。
「絶対に嫌だ」
言葉と同時、一瞬にして水量が増した。左手で右腕を支え、それでも青太は反作用の力に抗いきることができない。飛鳥の身体にも青太の体重以上の重さが圧し掛かる。2人の踵が擦れ合う。青太を正面で支えた方が、確実に彼を引き倒さないで済むだろう。しかし、飛鳥は、自分の前にいる3人から目を離すことは許されなかった。相手もこちらの様子をじっと窺っているのみで、攻撃はしてこない。何故かは分からない。だからこそ無駄な隙を作るわけにはいかなかった。
青太と海黒の間では、甲高い音がずっと鳴り響いている。ウォーターカッターが宝石を削る音に近似していた。事実、四散する水沫は、粉々に砕け散った蒼玉にも見えた。宝石だというのに、青太の上半身や飛鳥の耳殻や腕にまで降りかかるそれは、肌の奥に瞬時に染み込んでいくように冷たい。
やがて、ピキッ、とヒビが走る音がして。海黒が生成した最後の一矢は、完全に割れた。小片になることすら許されず、黒の粒子になり、輝きもせず、闇に同化した。
けれど水流は止まらなかった。あっ、と青太が焦る声を漏らす。飛鳥が何事かと思っていると、次は奥歯を強く噛みしめているのが聞こえた。青太は右手を握り締めようとしていたが、見えない拘束具でもあるかのように、その指はほとんど動いていなかった。手の甲には静脈と骨格が痛いほど浮かび上がっている。
水流は海黒の身体の中心に向かって飛んでいく。あれをまともに受けてしまえば、ひとたまりもないだろう。ましてや海黒の薄い身体では、水圧という名の牙は、容易く内臓を喰い千切り骨を粉砕するに違いない。
「止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれってば!」
叫ぶ。轟々と唸る水の猛獣を止めなければいけない。狼狽よりも悲痛さが勝る青太の声音に、飛鳥は恐怖を覚えた。これが彼が危惧していた「《COLOR》の暴走」だろうか。
喉が引き千切れる程叫んで、無理矢理にでも手を握り締める。そして、水流は海黒の眼前で照準を狂わせた。それは一瞬だけ、青い光で、彼女の双眸の黄昏を晴天に染め上げた。切り揃えられた前髪を煽って、一滴たりとも彼女に触れることなく横を過ぎって、背後の壁に追突する。だが水流が作り出す風は、海黒の態勢を崩し地に伏せさせるには十分だった。
青太はそれを見ると、飛鳥の腕を引き、彼自身は後ろに退がった。
「あっちのドアから逃げろ」
目で作業場にあるドアを示して、そう告げる。海黒がすぐには動けないと判断したのだろう。そのまま3人の人物の方に向き直り、またも波を使い、飛来する絵の具チューブを一度で叩き落した。
飛鳥はドアの方へ走った。逃げることが彼への最良の手助けになると直感した。数多の水音が背後で聞こえる。水泡の弾ける音、水が流れる音、波打つ音、渦巻く音。全て青太が作り出しているものだ。
その中で、空を切る音も聞こえた。
その音の鋭さは、まるで、昨日の男が蔦を槍にした時のようだ。
「お前は」と青太が声を上げる。どうしてあいつがここに、という疑問はすぐに飛んだ。飛鳥が振り向くと、丁度水刃が蔦を真っ二つに斬るのが見えた。しかし飛鳥の注意を奪ったのは、視界の端に捉えた、もう1本の蔦が海黒めがけて伸びていく様だった。
つま先が、彼女の方向に向いた。
「海黒さんッ!」
上体を起こそうとしていた海黒を抱き締め、彼女の頭を自分の胸に押さえつけて、しっかりと抱え込む。そのまま床の上を転がる。蔦は壁に当たり、小さな窪みをつくる。蔦は青太によって復元できない程まで切り刻まれる。
ふと、スマホのバイブ音がした。飛鳥の腕の中で暫し呆然としていた海黒が、スカートのポケットからスマホを取り出し通話を繋ぐ。相手の声はとても小さく、聞き取ることはできなかったが、海黒の表情が徐々にこわばっていくのは見えた。
「警察が……」
細い声だったのに、たった一言で全員の動きが静止した。
警察が、ここに向かってきているのだろうか。だとしたら、青太に「派手にやれ」と言ったことは間違いじゃなかった。彼に対して意地を張る意味合いも濃かったが、大きな音を立てれば立てるほど、その戦い方が大胆であればあるほど、巡回中の警察官に緊急事態と認知される可能性が高くなると踏んでの台詞だった。実際戦闘の轟音だけではなく、青太の鮮烈な青の光は、窓の外に溢れてどこまでも届いたのだ。
「他の人はっ……そうですか……何か、変だとは思いましたけど」
海黒はぼそぼそと何やら喋ると、通話を切った。そして飛鳥を見上げて、「離してください」と言った。
飛鳥は彼女に従うべきか否か惑ったが、海黒が鋭利な凶器を生成して自分の胸に突き立ててくるかもしれないと考えると、彼は大人しく少女を解放した。
彼女は自分を助けてくれた飛鳥のことを、もう見てはいなかった。その視線は青太ただ1人に注がれていた。
「水島青太さん。あなたは、自分の《COLOR》を『今でも』恐れているみたいですね」
青太は海黒を見ない。3人の人物が退こうとするのを、水の弾丸でドアノブを壊すことで止めた。彼らはもう逃げられない。
「けど、私たちなら、あなたの《COLOR》に価値を与えられます。他を脅かす凶器から、安穏へ導く聖剣のように。あなたは自身の《COLOR》に恐怖せず、誇らしく思えるようになる。あなたの力が必要なんです」
「何度も言わせるなよ。オレはお前らには与しない」
「なら、そのまま自身の中の猛獣に食い殺されてしまえばいい」
でも、そんなの嫌でしょう。海黒は全て見透かしているとでも言うように、青太に問いかける。
「そのままでいいと言うのなら、一生自分の《COLOR》を恐れ続ければいい。でも、そんな弱い心では《COLOR》は制御できない。むしろ一層暴走を招くだけです。あなたがそれを知らない筈がありません」
「でもオレは」
「そんなあなたを救えるのは、私達——いいえ、『あの人』だけです」
あの人、と聞いて青太の目線が跳ね上がった。振り返りそうになって、なんとか止めて、掌に爪を突き立てるほど強く手を握り締めていた。
「……まあ、また後でお話しましょう。もう時間もないみたいですから」
海黒が窓の外を見て目を細めた。飛鳥もそれに倣うと、パトカーの灯が川の対岸に見えた。
海黒はその逆方向、飛鳥が侵入してきた窓の方に寄ると、そこに手を掛けた。出ようとして、直前に飛鳥に向き直って、僅かに残っていた笑みを顔から剥ぎ取った。
「飛鳥先輩。ありがとうございました」
いい釣り餌になってくれて。
音にならなかった言葉の幻聴。飛鳥は何も答えなかった。答えられるわけがなかった。
沈黙。パトカーの走行音が大きくなる。ふと彼の耳は、バイクの走行音を拾った。姉さんだ。確証はなかったが、《COLOR》を使用した喧嘩だと通報したのだから、戦闘員が出動してもおかしくはない。
彼女にここにいることがばれたらどうなるだろうか。無理しないで、と言った彼女の気持ちを無下にしたこの行為を知られたくなかった。
「水島、僕……逃げないといけない」
「ああ……ここにいると面倒だもんな。大丈夫、後は上手くやっとくから。瀬川は逃げろ」
青太は笑いかけてくれた。彼は怪我をしていて、3人の方は殆ど無傷だ。青太は相手からの攻撃を防ぐことはあっても、決して相手を傷つけずに立ち回っていた。だから、加害者とされるなら相手の方だろう。そこまでの思惑が彼にあるかは分からないが、今は彼の言葉に甘えるほかない。
飛鳥は海黒が出たのと同じところから脱出した。地面に着地したときにはもう、海黒の姿はどこにもなかった。
飛鳥はそのまま、壁に背を預けて座り込んでしまった。帰らなければいけないのに、身体が鉛のように重い。
やがて、パトカーが停まり、警官が工場内に呼びかける声が聞こえてきた。それに青太が答える。警官が室内に入り、青太から事情を聴き出し始めた。青太は、塾から帰っている途中にいきなり襲われて、ここまで追い詰められた、などと話していた。
その内に、バイクのエンジン音も鳴り止んだ。警官の1人がライダーの名を呼ぶ。
「あ、瀬川戦闘員」
どくり、と心臓が拍動した。
「お疲れ様です。戦闘行為は起こっていないようですけど、もしかして逃げられてしまいましたか」
「いえ、私たちが到着したときには、もう既に収束していたようで」
「そうですか。怪我人は?」
「彼が。しかし、重傷は負っていないようです」
「なるほど……高校生ですか」
白鳥は数拍言葉を止めていた。やがて、「他には?」と警官に尋ねる。あの3人は署で事情聴取を受けるらしかった。1人、また1人とパトカーに詰め込まれていく。青太は口頭での厳重注意を受け、先程手配されたもう1台のパトカーが着き次第自宅まで送られるようだった。その間、彼の保護を白鳥が請け負うことになったのも、飛鳥は認識できた。
2人きりの静寂で、先に口を開いたのは白鳥だった。
「窓から青い光が見えた、って聞いたんだけど——君がやったんだよね」
青太は「はい」と肯定した。
「そうだと思った。君の《COLOR》はかなり強いみたいだから」
白鳥は少し嬉しそうだった。予想が当たったからではないだろう。青太は「《COLOR》が強いほど感知能力も高くなる」と話していた。白鳥は青太が自分と同類であると感知して、無意識に彼と共鳴したのかもしれない。
「でも、オレは自分の《COLOR》は、あんまり好きじゃないです」
「隠しているみたいだしね。その黒髪黒目って、天然のものじゃないんでしょう」
「はい」
「君がどんな理由で、その力を好んでいないのか、私には分からないけど……君の《COLOR》は、きっと誰かの役に立つ。いや、絶対に」
誰かを守れるし、救える。そんな《COLOR》を持っている。白鳥は力強く、青太にそう言って聞かせた。
飛鳥は誰かの役に立てる人になれる。白鳥はよく自分にそう言ってくれた。けれど、誰かを守れて、救える人になれると言われたことはない。初対面の高校生に投げかけるような言葉を、自分は受け取ったことがない。理由は分かりきっている。だから、悔しさに手をきつく結ぶことさえも、的外れで虚しいことに思えた。6月の夜風に晒され、かじかんだ手は動かなかった。
飛鳥がここにいることを青太も白鳥も知らない。こんなにも近くにいるのに知らない。
飛鳥はその夜、独りだった。
第1話 アオタブルー FIN.
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