複雑・ファジー小説
- 2−5 ( No.20 )
- 日時: 2019/06/26 00:13
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: wZJYJKJ.)
2−5
「あっ、飛鳥! こっちこっち」
腕時計の短針が、午後4時を示している。白鳥がコンビニ近くの駐車場で手を振っている。傍らには、彼女の愛車の、よく磨かれたバイクが従っていた。
「姉さん、待った?」
「全然。今来たところ」
今日の白鳥は、ライトブルーの制服でも戦闘服でもなく、モノトーンの私服姿だ。彼女は無彩色の空を見上げて、雨が降らなくてよかったと笑った。
「飛鳥、甘いものとかは大丈夫よね」
「うん、大丈夫だよ。これからどこに行くの?」
「ちょっといいとこ」
白鳥が楽しそうにしているので、飛鳥も眉を下げて笑い返した。彼女は飛鳥にヘルメットを渡し、自分もヘルメットを装着してバイクに跨る。飛鳥は、少し行儀は悪いけれど、通学鞄を縦にして背負って、彼女の後ろに乗った。
白鳥が運転するバイクに乗るのは久々で、レザーの硬いサドルに座ると、自然と心拍数が上がる。やがてエンジンがかかり、同時に下半身から全身に振動が伝わってくる。バイクは駐車場を飛び出して、道路を真っ直ぐに走り始めた。見慣れた景色が急速に流れていく。シールド越しに見えるものだけれど、それは車内から見るのとは違って、映像のようではなかった。身体が風を切っていく感触が、リアルに思わせているのだろうか。
外界の音はほとんど入ってこない。空気の中を突き抜けていく感覚が、何もかもを後ろに置いて行って、全てを忘れさせてくれるようだった。
ほどなくして到着したのは、警察署の近くの、とあるビルの1階に作られたパンケーキの店だった。白鳥曰く、1か月前に東京からやってきたばかりらしい。店内はほとんど女性客ばかりだったが、中には空席もあった。2人は4段重ねのパンケーキを注文して、2段づつ分けて食べることにした。
「パンケーキって、専門店で食べたことなかったから、食べてみたかったのよね」
やがて運ばれてきたパンケーキを、白鳥はナイフとフォークで器用に2枚の皿に分けた。そして片方を、はい、と飛鳥に渡す。
「ありがとう」
パンケーキの分厚い生地は、水彩のような黄土色をしていた。フォークの背で押さえてみるとふんわりと沈む。その一片を口に含んでみれば、瞬間、きつい甘さが口内に広がった。
「甘すぎた?」
「……ちょっと、ね」
「きついなら、残りは私が食べるけど」
「いいよ。食べ切れる」
実際食べ切れない程の甘さではなかったし、ここで残すのはせっかく誘ってくれた姉に悪い気がして、飛鳥は食事を止めなかった。白鳥を見れば、美味しそうにパンケーキを食べていた。
「あ、そういえば、知ってる? 糖分って、本当は疲労回復にはならないんだって」
そう話す白鳥の口に、黄土色の塊がまた吸い込まれていく。
「砂糖はアドレナリンやドーパミンの分泌を促すから、甘いものを食べると元気になったような気がするけど、実際は身体の疲れはとれないんだって」
「そうだったんだ、知らなかった」
「私も、ついさっき知ったの。でももうちょっと早く知りたかったな」
飛鳥は、丸い皿の上の物体を見下ろしてみた。気持ちを明るくするだけのものなんて、覚醒剤のアッパーと同じだとふと思った。
「今日は、塾は無いのよね」
「うん」
「じゃあ、久しぶりに一緒に帰れるね」
久しぶりに、姉さんと一緒に。そう考えると、心が浮遊するようだった。
「そうだね。姉さんは仕事で忙しいし」
「飛鳥は、学校と塾で忙しいから」
「姉さんと一緒に帰れるなんて、嬉しいな」
「私も」
パンケーキをフォークで刺して、食べる。それは甘いばかりで、美味しいとは感じない。しかし心は、少し柔くなっているような気がした。勿論、パンケーキ程ではないけれど。
「そういえば、最近、学校はどう?」
「……あんまり、上手くはいってないかな」
「テストの点が悪かったとか?」
「勉強のことじゃ、ないんだ」
飛鳥は視線を落としたまま答えた。フォークの切っ先が、天井の灯りに照らされ、ぎらりと光る。彼はフォークを皿の上に置いた。その時にお互いが擦れて、甲高くて不快な音が鳴った。
「……昨日、警察署でさ。姉さんが、僕に、水島のことが嫌いかって訊いてきたのは——僕が、水島のこと、嫌ってるように見えたから?」
飛鳥の言葉を聞くと、白鳥は一度だけ瞬きをした。そしてそのまま、静かにナイフとフォークを置いた。
「……青太くんにかける言葉に、どことなく、棘があるような気がしたから。クラスメイトの子にあんな言い方するのは、飛鳥にしては珍しいなって、思ったの」
やっぱり、外面を保ち続けることまで困難になっているようだ。青太が相手だと、自分の内心が過剰に表れてしまうのは自覚していたけど、今日の潮田との一件で、青太以外に対してまで『瀬川飛鳥の外面』を貼り付けられなくなっている。
飛鳥は自身の空の両手を、無意識に机の下で組んだ。
「でも、飛鳥が本当に青太くんのことを嫌ってるって思ってたら、あんなことは言わなかったよ」
「……どういうこと?」
「言葉に険がある割には、飛鳥は、青太くんの目を見て話してた。だから、ただ単純に嫌いってわけじゃないんだろうなって思った」
「僕が、水島を……」
気が付けば、昨日海黒と話した時と似たような台詞を反復していた。「水島青太に拘っている」と海黒に言われて、劣等感を抱いていると暴かれて、その時思わず言ってしまった台詞だ。
けれど白鳥が言いたいのは、嫌悪とも劣等感とも違う感情のような気がした。
「だからね、気になってちょっと意地悪なこと言っちゃった」
ごめんね、と白鳥が言うから、飛鳥もいいよと言う風に首を横に振った。
白鳥は手放していたフォークとナイフを手に取って、再びパンケーキを口に運び始める。飛鳥も両手を解いて、残り少なくなった甘さの塊を片付けることにした。
「姉さん、あのさ」
最後の一塊を嚥下して、飛鳥は相対する白鳥の目を見た。
「僕、戦闘員になりたいんだ」
白鳥の目線が落ちてしまう前に、飛鳥は言葉を続ける。
「姉さんと同じ、戦闘員になりたいんだ」
姉と同じようになるなんて無理だと、飛鳥は分かっていた。《COLOR》犯罪専門の戦闘員になるには、自らも《COLOR》を所持していることが最低条件で、その中でも優秀な《COLOR》所持者——例えば、水島青太みたいな人間でないとなれないのは、ずっと前から知っていた。
けどここで、たとえ白鳥に「無理だ」と言われても、自分は決して諦められないだろうと思った。いつの間にか、自分が無色(colorless)であることに、こんなに拘泥していた。無色(colorless)であるならば、他のことを頑張って、無い分を埋め合わせればいいと思っていた。それで自分の心に整理がつくと思っていた。しかし現実はそうはならなくて、自らの甘さがずきずきと痛むのだった。やっぱり無色(colorless)であることを認められない。無様で、馬鹿みたいだ。
「……戦闘員は、危険な仕事よ」
白鳥は思っていた通り、居心地悪そうに目を伏せた。彼女はこの話題を避けたがる。
「知ってる。でも姉さんは、それを職業にしてるじゃないか」
「確かにそうだけど」
皿の上で銀色のナイフがぎらぎらと、その刃を光らせている。
どうすれば自分はまともになれるだろうか。どうすれば醜態を晒さずにいられるだろうか。払拭すればいいのか、乗り越えればいいのか。
「……どうして、僕にも、人を救えるって言ってくれないのさ。水島と僕は、そんなにも違うの」
「ちょっと、待ってよ。なんでそこで青太くんが出てくるの」
「だって、姉さんが、水島にだけは『誰かを守れて、救える』って、言った……か、ら」
いや、違う。白鳥がこれを言ったのは、あの夜青太と2人きりになった時だ。それで飛鳥は隠れていたから、白鳥は、あの場に飛鳥がいたことを知らない。だのに飛鳥が2人の会話を知っているなんて、白鳥からしてみればおかしなことで。
しまった、と思ったときには、姉の目の色が変わっていた。懐疑の色を含んだそれは、刹那、罪を見抜く警察官の目になる。
「飛鳥。あの夜、あの廃工場にいたの」
「それ、は」
「イエスかノーで答えなさい。いなかったのなら『いなかった』って言えばいい筈よ」
そうだ、無駄な言い訳なんて逆効果だ。正直にイエスと、嘘を吐いてでもノーと、とにかくそのどちらかで答えなければいけない。なのに何も言えない。声が、出ない。呼吸もしているし、喉も震えているのに、音になって出ていかない。
膝に乗せた掌に嫌な汗が滲んで、スラックスの上で滑る。喘ぐように開いた口から吐息しか漏れない飛鳥を、白鳥はじっと見つめてる。
その琥珀色の拘束から逃れたくて、彼は窓の方に視線を逸らした。
そして、視界の中心に『岬海黒』の姿を捉えてしまった。
見間違いではなかった。彼女は制服姿のまま、向こう側の歩道を走っていた。どうしてここにいるのか、どうして走っているのか。彼女の進行方向とは逆の方に目線を移動させれば、2人の人間が彼女を追いかけていた。
「行かないと」
あんなに言葉に困っていたのに、その呟きは簡単に音声になった。飛鳥が派手な音を立てて立ち上がったので、白鳥は瞠目して、微かに弟の名を呼んだ。
「姉さん、ごめん。僕、行かないと」
「待って飛鳥!」
白鳥の隣を通り抜けて店から出ていこうとする飛鳥の腕を、彼女は素早く掴んだ。
「……離してよ」
「いやよ。突然どうしたの」
細い指に血管を圧迫されながら、飛鳥は白鳥の顔を見る。
「僕が行かないと……『彼女』が、傷つくかもしれないんだ」
「え……?」
だから離して、と飛鳥は姉の手を無理やりに振り払おうとした。しかし反して、白鳥の力は強くなった。そして、「私も行く」とただ端的にそう言った。
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