複雑・ファジー小説

2−6 ( No.21 )
日時: 2018/07/29 11:03
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: WqZH6bso)

2−6

 海黒が逃げて行ったのは西の方角だった。飛鳥は店から出た途端白鳥のバイクに乗せられて、そのまま西へ走った。
 走り出して間もなく、幸運にも海黒の背中を見つけた。彼女は左手に曲がって、狭い路地へ入っていった。バイクはその1つ向こうの、幅の広い道を同じく左に曲がる。
 小さな店が立ち並ぶ中、やがて、ガードレールと鬱蒼と茂る木々が見えてくる。そこは公園だった。小柄な遊具と狭い砂場があるだけの、小さな公園だ。外周を囲うように広葉樹が植えられていて、ポールが立つ入り口に近づいて初めて、内部の様子が分かった。
 海黒は、ブランコの柵に手をついて、肩を大きく上下させていた。飛鳥が白鳥の背中を叩くと、2人が乗るバイクは公園近くの駐車場で停まる。
 飛鳥は急いで座席から降りて、公園の中に入った。海黒さん、と声をかければ、海黒ははっと身体を強ばらせて、飛鳥を見た。その目は、橙の光彩が円形なのが分かる程、大きく見開かれている。

「……どうして、こんなところに」

 彼女が震える声で呟くのと同時に、白鳥も公園に入ってきた。

「その子が、飛鳥が追いかけてた子なのね」

 白鳥の言葉に、飛鳥は黙って首肯する。彼女は飛鳥のすぐ隣に立って、小さな声で飛鳥に囁きかけた。

「……あっちの方、男2人組が外から、その子を見てる」

 白鳥が西側に並ぶ木々を目線で示す。飛鳥もそれに倣って、男らと目が合って気付かれないよう下の方を見つつ、そちらを確認する。すると、姉の言う通り木々の隙間から2人分の足が視認できた。
 
「その子は、あの男たちのことは知ってるの」
「多分、知ってる」

 『あの夜』、海黒と自分たちを襲撃してきた3人組の仲間だろうか。詳細は分からない、けれど海黒が彼らから逃げているというのは、2人組が遠巻きに海黒を監視していることから明らかだった。
 飛鳥が一歩だけ海黒に寄ると、彼女は一歩退いた。その動きがどことなくぎこちない。見れば、膝にガーゼが貼られていた。『あの夜』海黒は膝から血を流していたから、おそらくその傷が完治していないだけなのだろうが、足首の辺りに見える鬱血痕には見覚えがなかった。

「海黒さんが走ってるのが、たまたま目に入ってさ」
「それで追いかけてきたんですか」
「心配になったから」

 追われてるよね、と飛鳥が声を抑えて問い詰めれば、海黒は不快そうに眉を顰めた。
 
「ええそうですよ。それで? わざわざそんなことを言うために、来たんですか」
 
 海黒は即座に、強く切り返してくる。乱れて、頬にかかった横髪を雑に払って、飛鳥の隣に立つ白鳥に鋭い視線を向けた。

「……その人は」
「私は瀬川白鳥です。飛鳥の姉で——府警の警察官です」

 海黒は、警察、と小さく反芻した。白鳥は、白い長髪をふわりと耳にかけて、目の前の少女に尋ねる。
 
「君は……岬、海黒ちゃん、かな」
「……どうして、私の名前を」
「たまたま、そんな名前な気がしたから」

 嘘だ、と飛鳥は思った。姉は、飛鳥が落としたメモに書かれていた『岬海黒』の名前を覚えていたのだ。彼女の聡明な脳による必然だ。もしくは、強運による本当の偶然だったのだろうか。
 海黒は少し俯いて、今度は白鳥から逃れんとするように、再び後退する。しかし白鳥は、海黒には近付かず、今立っている場所から彼女に優しく笑いかけた。

「怪我してるね。その足だと、立ってるのはしんどいでしょう。どこかに座る?」
 
 海黒は首を横に振った。白鳥は「そう」と目を細める。
 すうと、息を吸う音がした。

「——あの男たちと、面識はある?」

 静謐な声で白鳥は問う。海黒が鈍い動作で否定すると、彼女は少し考えて、再び問いかける。

「追われてる原因に、心当たりはある?」
「……ありません」

 海黒は俯いたまま答えた。喉から絞り出したような、か細い答えだった。
 その時、バイブレーションの音が聞こえた。音源は白鳥が持つ鞄の中だった。白鳥は急いでスマホを——彼女がプライベートで使っている白い手帳型のものではなく、銀色のカバーが装着された、仕事用の端末を取り出す。
 その時にはもう、白鳥は優しい笑顔から、眉根を寄せた厳しい表情に変わっていた。後ろを向き、飛鳥と海黒から数歩離れて、端末を耳に当てる。凛とした声の短い応答が、徐々に緊張を孕んでいくのが分かる。
 やがて通話を切った白鳥は、スマホを強く握って、飛鳥達の方に振り返った。

「姉さんどうしたの」
「緊急の応援要請が入ったわ。だから、もう行かなきゃ」

 白鳥は、一度目を横に滑らせて、また海黒を見た。 

「岬海黒ちゃん。君は、家はこの近く?」
「……はい」
「それじゃあ、飛鳥、海黒ちゃんを家まで送ってあげて」

 飛鳥は小さな間を置いて、うんと頷いた。男2人組はもういなかった。
 
「本当に、何か困ってることがあったら、警察に相談してね。すぐに動いてくれないこともあるけど、それでも、何も言わないよりはずっといいから」

 それから彼女は、飛鳥を見上げた。飛鳥のとは違う、色素が透明感のあるまま凝縮された琥珀と目が合う。

「飛鳥も——彼女を、家に送るだけよ。それ以外のことは、絶対にしないで。それ以上踏み込んだことはしないで」

 約束よ、と白鳥は小指は出さなかったが、飛鳥の手をぎゅっと両手で包み込んで、去って行った。飛鳥は姉の背中を見送れなかった。姉の体温が離れた手が、どうしようもなく小さく見えた。
 唐突に、砂利が擦れる音が聞こえた。

「海黒さん……」
「1人で帰れます」
「でも」
「1人で帰れるって、言ってるじゃないですか」
「……海黒さん、自分では気付いてないかもしれないけど、顔色、すごく悪いよ」

 飛鳥の言葉に、海黒ははっと、自分の頬を触った。そのまま、彼女の手の平はまるで頬に爪を立てるような形で硬直し、ゆっくりと下がっていく。悔しそうに唇を噛んで、飛鳥を見上げた。その眼には、カフェで飛鳥を見透かしたときの、軽視と蔑みの色はなかった。ただただ、今にも泣きだしそうな程に歪んで見えた。

「私は、独りで帰れます。独りだって……」

 悲痛な言葉が砂利の上に落ちていく。海黒はしばらくして、またふらりと歩き出した。でも、そんな足で帰れるわけがない。飛鳥は、彼女の名を呼んで、そちらにつま先を向けた。

「ついてこないで!」
 
 小さな背中が、震える肩が、か弱い腕が、強く握られた拳が。彼女の背後から見える全てが、飛鳥を拒絶している。俄かに走り出した彼女の姿は、彼女自身が小柄な為だろうか、すぐに見えなくなってしまった。まだ明るいのに、まるで、闇の中に溶けていくみたいだった。
 公園に取り残された飛鳥は、はあと湿った息を吐いた。空気が停滞している。こんなところに突っ立って、自分は何をしているのだろう。
 とりあえず、駅に向かおうと思った。この辺りの地理はよく知らないが、大通りに戻って歩いていれば、警察署の最寄り駅か、その1つ向こうの駅のどちらかには辿り着くだろう。
 ふと空を見れば、珍しく雲が薄くなっていて、雨は降りそうになかった。けれど、紗のような雲越しの太陽の、その白い光が目に刺さった。
 公園から10分程歩いた辺りで、昨日使った駅の近くに出た。時間帯が早いこともあってか、昨日より人通りは少なかった。
 そうして、昨日と同じものが目に入った。
 あかい髪、あかい目。そんな色彩の青年を乗せた車椅子と、フードを目深に被った人物。写真のように、もしくは絵画のように、彼らが視界に入って来た途端、世界が止まって見えた。灰色の背景の中心できらきらと、『あか色』が絶え間なく輝いているのだ。

「あの、すいません」

 飛鳥は彼らに近づいて声をかけた。今度は間近に寄っていたから、彼らを見失うことはなかった。
 そうすると、車椅子を押す人物が、自分と同じ年頃の少年であることが分かった。背丈は自分より少し低い程度。濃い灰色をした目は剣呑な光を孕んで、唇は一文字にきつく結ばれていた。頬には大きなガーゼが貼られていて、痛々しい。けれどその顔立ち自体は、子どもらしいあどけなさを残したものだった。

「誰だ、アンタ」

 低くもなければ高くもない、濁りのない声が少年から発せられる。

「鏡高2年の瀬川と言います。車椅子に乗ってる方に……用が、あるんです」
「用……?」

 少年は、車椅子の青年をちらりと見た。そして、青年が彼を見上げてゆっくりと頷くと、少年は器用に車椅子を動かして、飛鳥と青年が対面できるようにした。
 その『あか色』と対峙すると、改めて圧倒されるのだった。単色のように見えて、暗いところは深みのある色になっているし、明るいところは彩度が増して煌めいている。それが、髪の毛の色も目の色も作り物ではなく、生来の色であるという何よりの証拠だった。

「瀬川くん、だっけ。一体、何の用かな」

 低音の、大人の男性の声。彼は細いフレームの眼鏡をかけていた。レンズ越しに見える双眸は、ショーウインドウ越しに眺める宝石のようだ。

「10年前の夏の日、あなたに助けてもらったんです」

 ただ1つの色に染め上げられた夕暮れの空、ヒグラシの鳴き声。ワゴン車のシートのざらつき、首に纏わりついた紐の圧迫感。男の冷たい体温と、『ヒーロー』の温かい手。
 脳裏に、あか色の輝きと共に流れ込んできた感覚が、涙が頬を伝っていく感触まで思い起こさせるようだった。
 飛鳥は息が上がりそうになるのを抑えて、言葉を続ける。
 
「それで、あなたにお礼を言いたくて。あの時は、本当に——」

 覚えてないな、と。
 冷たい音が、飛鳥の声を塞いだ。

「生憎、そんなことをした記憶はないんだ。きっと人違いだよ」

 声音の割に、青年の表情は非常に優しいものだった。涙を拭ってくれた『ヒーロー』と全く同じ顔をしているのに、かけてくる言葉はまったく解離している。

「でも、確かに」
「10年前、って言ったね。それ程昔の記憶は、自分の都合のいいように脚色され尽くしてしまっているものだ。君が間違いないと思っていても、実際は間違っている可能性の方が高い。だから簡単に『確かに』なんて言わない方が賢明だよ」

 飛鳥はそれ以上、台詞を続けられなかった。しかし、青年の『あか色』は、ヒーローの『あか色』と全く同じなのだ。見間違える筈がない。だって、ずっと思い続けてきたのだから。
 だのに、『ヒーロー』と思われる青年は、平然と否定したのだった。

「行こう、ハイジ」

 青年がそう言えば、「ハイジ」と呼ばれた少年は、素直に、そして厳かに「はい」と答えた。それから、飛鳥に一言も残さず、冷えた視線を飛鳥に突き刺して、車椅子を押し始めた。

NEXT>>22