複雑・ファジー小説

2−7 ( No.22 )
日時: 2018/08/09 23:18
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: kws6/YDl)

2−7

 5限目が終わってすぐ、飛鳥は英語の教師に廊下へ呼び出された。廊下の端まで来ると、その英語教師は「最近小テストの成績が悪いじゃないか」と言って、飛鳥に数枚の紙を渡した。それはここ数回の小テストだった。右上に点数が書かれている。その赤色の数字は、回を重ねる毎に降下していた。
 さあっと、身体の温度が抜け落ちていくような気がした。着実に点数が悪くなっていることを、彼は知らなかった。自覚していなかったのだ。普段なら気が付けていた筈なのに。
 確かにこの十数日は色々あって、放課後に勉強することは少なくなっていた。でもその分、自宅に帰ってからの勉強時間は増やしていたし、勉強の仕方だって変えていない。集中できていなかったのだろうか。だから成績が下降しているのだろう。
 ちゃんと復習しておけよ、と教師は飛鳥に言った。2週間後には期末テストがあるから、と。飛鳥は、英語は特によくできる生徒だったから、教師も彼のことを叱りはしなかった。しかし、返事をした彼の声は震えていた。赤色の、無様な数字が網膜を責め立てる。遅くまで起きて勉強していたあの時間は、紙くずみたいに無駄なものだったんだと思った。
 こめかみに何かがちらちらと当たる感触がする。廊下に出ている生徒が、こちらを盗み見ているようだった。期末テストは頑張ります、と飛鳥は答えた。
 教室に戻ると、隣の席に青太がいた。彼は自分のリュックサックを机に置いて、その上に自分の頭を乗せて、ぼんやりと、何もない窓の外を見ていた。彼が、特に用もないのに放課後まで教室に残っているのは珍しいことだ。
 飛鳥が近づくと、青太の身体がびくりと動いた。そして、リュックサックを抱え込むように引き寄せて、そこに頭を埋めた。飛鳥の方は見なかった。
 飛鳥は自分の席に座って、机上に置かれていた配布物のプリントを眺める。なんてことはない、スクールカウンセラーの出校日が書かれたプリントだ。紙面の下の方には、学校周辺にある児童支援センターの紹介の欄があって、そこには相談員の名前も書かれていた。
 相談員の内の1人、『岬紅野』——そこで飛鳥は、ああと了解した。岬海黒と初めて会って名前を教えられたときに感じた既視感は、これのことだろう。カウンセラーの出校日は毎月変わるけれど、それ以外の書かれている内容は毎月同じだから、『岬』という苗字を無意識に覚えていたのだ。
 この人物は、海黒の血縁者だろうか。それとも、『岬』という苗字は特別珍しいものでもないから、ただの他人だろうか。飛鳥は、年齢も性別も分からない『岬紅野』に思考を巡らせる。この名前は、一体何と読むのだろう。

「岬、『コウヤ』……?」

 彼がそう呟いた瞬間、ひゅっと、青太の息を吸う音が聞こえた。青太はすぐに上体を起こして、飛鳥を直視した。その目が、信じられないものを見たというように、もしくは何かを恐れるように、不安げに見開かれている。

「……何」

 飛鳥が問えば、青太は小さな声を吐き出した。

「……どうして、『ミサキコウヤ』を知ってるんだ」
「知ってるも何も、ここに書いてある」

 飛鳥は青太に、自分が持っていたプリントを見せた。その時、その児童支援センターの住所が、学校の最寄駅から3つ先の駅——あか色の青年と、ハイジと呼ばれた少年と出会ったところだと、気が付いた。
 青太は飛鳥の言葉を聞き、そうか、と苦々しく呟いて、またリュックサックの上に伏せてしまった。

「……君は、この人のこと、知ってるのか」

 青太は何も答えない。こちらに耳を欹てて(そばだてて)いるくせに、反して彼は無反応だった。

「海黒さんと、何か関わりのある人なのか」

 返事はない。水島、と青太の肩を掴もうと手を伸ばす。しかし、糊のきいた真新しいYシャツの、存外硬い生地に指先が触れたところで、飛鳥は止まった。
 昨日の、体育館倉庫での一件が蘇ってきたのだ。飛鳥は青太に嘘を吐いて、信頼を裏切って怒らせた。怒りと失望と、遣る瀬ない感情で混濁として、鈍い光を放っていた青太の目。そんな色の目を向けたような相手と、関わりたくないと思うのは当然だった。
 青太が堅い殻を纏っているような気がして、飛鳥は手を離した。そんな自分の手が、やはり情けなく見えてくるのだった。思えば、彼が飛鳥の言葉を無視するのはこれが初めてかもしれない。
 プリントを鞄に仕舞って、ファスナーを閉める。顔を上げれば、チョークの跡が残った黒板と、黒板に落書きしながら、教卓のところで談笑する女子生徒が見えた。

 悪かった。ごめん。

 青太がぴくりと動いた。だがそれを言ったのは青太ではなくて、飛鳥の方だった。飛鳥の唇の隙間から漏れ出た台詞だった。

「……本当に、そう思ってるのか」

 顔を伏せたまま、青太が言う。思ってる、とは声に出して答えられなかった。だとしても、青太に対して不誠実なことをしたのは本当で、そのことを、ちゃんと謝らなければいけないと思った。

「僕は、水島の気持ちを、蔑ろにしたから」

 膝の上に両の掌を置いて、けれど青太に真正面に向き合う勇気はなくて。まだ何人か生徒が残っている教室に、霧散して消えてしまいそうな声だった。
 ぺきり、と。チョークの割れる音。女子生徒の指先から、白墨の破片が零れ落ちていった。
 しばらく経って、青太がおもむろに起き上がり飛鳥を見た。何かを言おうとするように、彼の口が何度か小さく動く。そうして、意を決したように息を吸って、青太が最初に発したのは『岬紅野』の名だった。

「『岬紅野』——その人は、岬海黒の兄だ」
「海黒さんの、お兄さん……」 
「そう。普段はカウンセラーとして働いてる。でもそいつは」

 そこで青太は再び口を噤んだ。口元に手を当てて、時折飛鳥に視線を寄越しながら、言葉を模索しているようだった。やがて、彼の喉が隆起した。

「——『岬紅野』は、犯罪者だ」

 犯罪者、と飛鳥は思わず繰り返した。

「……海黒さんのお兄さんが、犯罪者……?」

 青太は沈黙したまま頷いた。そして「場所を変えよう」と告げて、リュックサックを持って立ち上がる。飛鳥も通学鞄を肩にかけて、廊下に出た青太を急いで追いかける。その時になぜか、海黒の言葉が脳裏を過ぎった。
 ——まあ、特に珍しい苗字ってわけでもないですもんね。
 ——でも、もしよかったら、下の名前で呼んでください。
 ひょっとすると海黒は、飛鳥に近づくためではなくて、『苗字で呼ばれないために』下の名前で呼ばせるようにしたのではないかと、飛鳥には思えてきた。
 階段を降りていく背を見失わないように、飛鳥は歩調を速めた。

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