複雑・ファジー小説
- 2−9 ( No.24 )
- 日時: 2018/08/23 23:11
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: Au2wVmYz)
2−9
「瀬川……?」
液晶画面を操作して、再び電話をかける。けれどやはり、海黒は出ない。もう一度かける。出ない。
どれだけ待っても、端末の向こうから海黒の声が聞こえてくることはない。代わりに、まるで耳のすぐそばに心臓があるかのように、自分の生々しい鼓動の音が聞こえていた。
「瀬川、どうしたんだよ」
「……海黒さんが」
「え?」
「……海黒さんが、電話に出ないんだ」
岬海黒の名を聞いて、青太は不快そうに顔を歪めた。そして、まだ彼女に拘るのか、と吐き捨てた。
「いいか、彼女は瀬川を利用しようとしたんだぞ。今はまだ無事でも、いつか危害を加えてくるかもしれない。彼女はそういう人間なんだ」
「でも」
「でもって何なんだよ!」
青太はついに声を荒げた。体育館倉庫で怒った時だって吼えることはなかった彼が、苛烈に喉を震わせたのだ。
けれど飛鳥は言葉を続ける。緊張で体の感覚はほとんど失われていた。手の中にある、スマホの硬い感触だけが唯一のものだった。
もう、頭の中はぐちゃぐちゃだ。オーバーヒートを起こしそうな脳内に、熱を持っているはずの青太の言葉が、冷たく染み込んでくる。
「でも——海黒さんは独りなんだ」
飛鳥の言葉を聞いて、青太は何か言いかけていた口を閉じた。
飛鳥が覚えている限り、海黒はずっと独りだった。それは、彼女が孤独を好んでいる、というよりは寧ろ、追いやられているように思えた。遊びに交ぜてもらえない子どものように、お喋りに交ぜてもらえない生徒のように、彼女だけ透明で分厚い殻の中に閉じ込められてしまっている。そんな風に見えた。
事実、青太は海黒には仲間がいると言ったけれど、海黒が窮地に陥っているときに応援が来たことはなかった。それに彼女は、路地裏で出会ったあの日と、廃工場で戦ったあの夜に失敗を犯している。対抗勢力を狩り損ねて、青太を仲間にすることもできなかった。だから、独りで逃げていたんじゃないか。
もう、仲間から見捨てられているんじゃないか。
息が苦しくなって、飛鳥は自分の胸元を握り締めた。
「海黒さん、僕に、自分の苗字を呼ばせようとしなかったんだ」
「……それが、どうかしたのか」
「その理由が、お兄さんに——『岬紅野』に、あるとしたら」
暗闇の中に、海黒が1人立っている幻覚。いや、これは『あの夜』の記憶だ。だって、瞼の裏に見える海黒の足は、これ以上は歩けないんじゃないかと思うくらいに傷付いているのだから。
「岬海黒が、岬紅野のことを、嫌ってるってことか?」
「——いや。多分、逆だ」
岬海黒は、岬紅野のことが——兄のことが、本当に好きなのだろう。尊敬していて、妹として支えたくて、だから『あの夜』、ひどく傷付いた足で立ったのだ。
でも、兄の岬紅野の方は。
「水島。さっき海黒さんの話、したよね」
「え、うん」
「海黒さんが、中2のときに背中に大きな傷を負ったって」
「……うん」
「その時……岬紅野は、海黒さんに対して『どうだった』?」
どんな表情で、どんな態度で、どんな言葉をかけたのだろう。そうして、その時の海黒はどんな顔をしていたのだろう。
飛鳥から問われた青太は戸惑って、しばらく黙り込んでしまった。それから、「覚えていない」と小さく答えた。
ああ、そうだろうな、と飛鳥は何となく思った。岬紅野の目的が本当に青太だったのなら、海黒もまた、青太がヒーローとして、戦力として洗練されるための捨て石の1つでしかないのだから。
——大人しく、してた方がいいんですよ。無力なんだから。
海黒の声がリフレインする。彼女は一体どんな気持ちで、「下の名前で呼んでください」と言ったのだろうか。兄妹なのに、自らの全て捧げている兄と同じ苗字を名乗れないなんて。
胸元を握る手に、一層力が籠る。すると青太は、飛鳥の腕に恐る恐る手を添えて、それから静かに飛鳥の手を下ろさせた。飛鳥の指が離れた白いYシャツの胸元は、すっかりくしゃくしゃになってしまっていた。
青太の手は硬くて、温かかった。
「……僕、やっぱり海黒さんのことが気になるよ」
飛鳥が零した言葉で、青太は息を呑んだ。
「彼女のところに行きたい。だから……もう、関わってこないでほしい」
「……いやだ」
「水島、頼むから」
「だって瀬川は」
「頼むから消えてくれよ邪魔なんだからッ」
飛鳥の絶叫が、青太の言葉を掻き消す。想像できてしまったその言葉の続きが、飛鳥の心を突き刺す。
青太の顔は一瞬で悲愴の色に染まった。唇をきつく結んで、決して雫を零さないようにと、黒の両眼は見開かれていた。
「……水島がいる限り、僕はどこにも行けないんだよ」
青太を傷つけたのは自分の方なのに、そんな自分の声は震えて、濡れていて、それが滑稽にすら思えた。
「分かってるさ、『無色(colorless)』じゃ何にもできないってことくらい。水島に守られてる方が、ずっと賢くて正しいってことくらい。だけどダメなんだ。君と関わると変になるんだ。水島に正論言われて、それに反発して、幼稚で馬鹿みたいだけど、それでも自分が止められないんだ」
瞼の裏に青い光がちらついている。どこまでも遠く届く光。鮮やかで、優しい青色の光だ。この光を、心の底から純粋に美しいと思えたなら、どんなに楽だろうか。
「水島は正しいよ。君が優しいのだって知ってる。でも、君から与えられる正しさも、正義も、善意も好意も、僕は受け入れられないんだ。僕は水島に嘘をついた。ひどい言葉だって言ったし、拒絶もした。それでも僕を守ろうとする水島が……君の存在が、息をできなくさせるんだ。正しくて優しい水島を、受け入れられない自分が、とても……惨めなんだ」
たった十数日で刻み込まれた劣等感。自分が欲しかった評価を奪って行ってしまった者への、嫉妬。『無色(colorless)』であることをいつまでも受け入れられない、どうしようもない愚かしさ。自身の心象は憧れの『ヒーロー』とは程遠い。死にたいと思い悩むくらいに恐れていた自身の《COLOR》でさえ、誰かのために行使できるような、そんな青太と関わる度、自分がいかに矮小な人間なのかを思い知らされるのだった。
だとしても、青太と同じくらいの存在意義が欲しい。価値が欲しい。大好きな姉が言っていた『誰かを救えて、守れる人』になりたい。
「……オレ、そんな人間じゃないよ」
青太は弱弱しく呟いた。しかしやがて、彼は拳を握り直すと、飛鳥を真っ直ぐに見据えた。
「瀬川が岬海黒のところに行くなら、オレも一緒に行く。一緒に行って——オレが、瀬川を守る」
深海を湛えた目に、もう迷いはなかった。
「絶対に瀬川のことを守るから。だから、瀬川は岬海黒を助ければいい」
飛鳥と青太の目が合う。飛鳥には、青太の纏う空気が、陽光に煌めく水のように輝いて見えた。
その時飛鳥のスマホが鳴った。急いで画面を見てみれば、そこには海黒の名前が表示されていた。すぐに通話を繋ぐ。
「海黒さん!」
電波の受信状況が悪いのだろうか。ノイズ音が絶えず流れている。数秒経ってやっと、通話口越しに海黒の呼吸音が聞こえた。
「……飛鳥先輩」
「海黒さん、今どこで何してるの」
「……内緒です」
「じゃあ、君は今無事なのかい」
「無事ですよ。大丈夫です」
無事だと言うのなら、どうして息が上がっているんだ。
だが飛鳥がそれを訊く前に、海黒が二の句を継いでしまう。
「どうしたんですか。突然、何件も電話をかけてきて。もしかして、私のことが心配だったんですか」
「そうだよ、心配だったんだ」
「『無色(colorless)』の飛鳥先輩に心配されるなんて、私も落ちぶれたものですね」
刹那、ガンッ、と歪な音が飛鳥の鼓膜を貫いた。ノイズ音が一層大きくなる。海黒が携帯電話を落としたのだろうかと思ったが、それにしては雑音の数が多かった。何か、硬い地面の上を転がるような音がしていた。落としたというよりは、弾き飛ばされた、と表す方が正しいだろうか。
落下の音は青太にも聞こえていたらしく、心配そうにこちらを窺っている。
また数秒して、海黒の声が聞こえてきた。音質が悪くなったのか、それとも彼女自身の声が小さくなってしまったのか、その声はノイズに掻き消えてしまいそうだった。
「特別な用がないのなら、もう切りますよ」
「待って。やっぱり無事じゃないんだろ。ねえ、今どこにいるんだ」
「しつこいですよ。飛鳥先輩には関係ない」
関係ないと、そう言われて初めて、飛鳥はその言葉の鋭利さに気付いた。鋭利であると同時になまくらで、傷がいつまでも痛むようだった。青太の方に視線を寄越せば、彼は静かに息をしていた。
「……君を助けるのは、僕しかいないって。そう言ったのは君の方だ」
——私を助けてくれるのは、飛鳥先輩しか、いないから。
それは、筋書きを辿るための、都合のいい台詞だったのだろう。事実海黒は、そんなの嘘だったとすぐに言い返してきた。だとしても。たとえ、嘘だったとしても、海黒の中から出てきた言葉であることにかわりはない。彼女の感情が、そこに詰まっている筈なのだ。
——絶対に、すぐに、戻ってきてくださいね。
——私のところに、戻ってきてください。
海黒は自分にそう言った。だから、飛鳥は行かなければならなかった。そんな気がしていた。
「だから僕は、君を助ける」
海黒は黙ったままだった。やがて、はっと笑った。衰弱した声だった。
「本当に……本気なんですね」
「ああ、僕は本気だよ」
「飛鳥先輩」
助けて。
「今すぐに行く」
青太と目を合わせれば、青太は確かに頷いた。
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