複雑・ファジー小説
- 2−10 ( No.25 )
- 日時: 2018/08/31 23:29
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: nYs2x9iq)
2−10
海黒は電話口に「湾近くの地下道を移動している」と伝えてきた。一ヶ所に留まれない状況から察するに、彼女はやはり何者か——おそらく『対抗勢力』に追われているのだろう。
「今、どの方向に向かって走ってる?」
「水華の方に——」
海黒がそう答えたとき、突然通話が途切れた。もう猶予はないようだ。
飛鳥はうるさく鳴る心拍音を抑えるように、目を閉じて浅く息を吸った。
ここ鏡高から水華までは走って15分程だ。あそこには、鏡高周辺よりは閑散としているが、それなりに人の多い街がある。『相手』もさすがに街中で海黒に攻撃を仕掛けてくることはない。それを踏んで、海黒は水華の街を目指しているのだろう。
「水華へ向かおう」
「そこに岬海黒がいるのか」
「いや、いるわけじゃない。でも海黒さんは水華に向かって地下道を走ってる。だから水華の街から地下道に入って、海黒さんを保護する。急がないと時間がないよ」
「分かった」
2人は同時に走り出した。走りながら、飛鳥は脳内で地図を広げる。
湾岸のエリアである水華において、街の区画はほんの一部に過ぎない。基本的には火力発電所や企業の工場がそのコンクリート製の建物を構えているような場所だ。水華について詳しいわけではないが、飛鳥の記憶が正しければ、その辺りはいつも人通りが少ない。
最も避けたいのは、海黒が発電所や工場の区域に追い込まれてしまうことだ。不特定多数の目が無い場所では、『相手』はきっと容赦なく《COLOR》を使用してくるだろう。海黒がそれに対抗できるとは思えない。もしそれができていたら、彼女はもっと早い段階で『相手』を迎え撃っていた筈からだ。
とにかく時間がない。鬱血痕と傷だらけの足で走る海黒の姿を想像する度、嫌な汗が背中を伝っていった。水華の街から地下道に入って海黒を探し出し、すぐに地上の街に撤退する。海黒を救うための筋書きを何度も確認しながら、大丈夫だと自分に言い聞かせる。けれど視界に映る暗い色をした空が、飛鳥の心をざわつかせるのだった。
そうして、やはり雨が降ってきた。鉄色の雲が毀れて(こぼれて)いくような、冷たい雨だ。
飛鳥は煩わしげに目元にかかった雫を拭う。上空に隙間なく敷き詰められた雨雲を見れば、雨は止むどころか、ますます強くなっていくであろうことは簡単に予測できた。
ここで雨に降られるのは厄介だ。水に濡れた靴底は滑りやすくなるし、冷たい雨は体力を奪っていく。
飛鳥は辺りを見回して、10メートル程先に地下道への入り口があるのを見つけると、そこへ走っていった。後からついてきた青太が、肩を上下させながら飛鳥に尋ねる。
「水華に行かないのか」
「ずっと雨に打たれていたら明日に響く。だとしたら、ここから追いかけながら探した方がいいよ」
青太はあまり納得していないような顔をしていたが、飛鳥が再び走り始めると、飛鳥と同じ速度で黙ってついてきた。
青太にしてみれば、こんな状況で『明日』のことを気にする飛鳥が不自然に思えたのだろう。しかし飛鳥にとっては、『明日』も学校に行くことは、海黒を助けるのと同じくらい重要なことだった。
本来人間相手に傷害目的で《COLOR》を行使することは、立派な犯罪行為だ。だから『あの夜』青太は、塾帰りに突然襲われたと、まるで一方的に攻撃されたかのように嘘を吐かなくてはならなかった。そうすれば多少《COLOR》を使用していたとしても、正当防衛として罪には問われないからだ。
だが実際は、青太は海黒相手に積極的に《COLOR》を使った。そして自分は青太に《COLOR》を使わせた。飛鳥も青太も普通の高校2年生だ。もしこのことが露見すれば、停学や退学処分だって免れない。自分だけならまだましだ。けれど青太という『ヒーロー』の原石に、社会的な傷をつけるわけにはいかなかった。
だから、風邪をひいて学校を休むなんてできなかった。たったそれだけで自分たちがやっていることがバレる確率は低いだろうが、露見の原因となり得る要素はできるだけ潰しておきたい。
街から地下道へ降り、すぐに地上へ逃げるという作戦を立てたのもその為だ。青太に無駄な戦闘はさせられない。海黒を見つけたら、迷わず逃げるのが最善だと飛鳥は考えた。
でも、絶対に上手くいく保障なんて、どこにもない。
「瀬川……?」
左右の分かれ道の手前で、飛鳥は立ち止まった。蛍光灯に照らされる薄汚れた壁が、酸欠のせいか、じわりと滲んで見える。
「瀬川、あのさ」
「なに」
「……いや、何でもない。行こう」
青太の言葉をきっかけに、飛鳥は再び走り出す。
2人の足音が四角形の空間に反響する中、飛鳥は他に音が聞こえないか耳を澄ます。しかし水華の街の方へ近づいても、海黒の気配は全く感じ取れなかった。
「……海黒さん、どこに行ったんだ」
「なあ、さっきの分かれ道までいったん戻ろう」
乱れた前髪の下で、青太の瞳が、走って来た道の方に向けられた。さっきの分かれ道——工場のエリアへ向かう道と、街のエリアへ向かう道の、分かれ道のことだ。2人は街の方向へ走って来た。だから残るのは工場への道のみ。
「でも」
でも、何だと言うのか。飛鳥はその先の台詞をすぐに飲み込んで、自身に問いかける。時間がないと言ったのは自分だ。ここで「でも」なんて迷っている場合ではない。飛鳥がやるべきことは、岬海黒を助けることだ。
「もし、海黒さんが工場の方に追い詰められているとしたら、絶対に『相手』と戦闘になる。それでも——」
「言っただろ。オレが、瀬川を守るって」
青太がまっすぐに見つめてくる。その眼光は柔らかく、青い、一条の光のようだった。
彼の言葉を信じるように、そしてそれに縋るように、飛鳥は「うん」と頷いた。
「行こう」
『あの夜』とは違って、警察には通報できない。自分と青太の2人だけで対処しなくてはいけないのだ。
最初に海黒を襲撃していたのは1人だけ。次の『あの夜』の襲撃は3人。そして昨日海黒を追っていたのは2人。『相手』もたった1人の少女に対して、何人も人員を割くことはしないのだろう。だから今日も、多く見積もっても5人といったところか。
《COLOR》を持った5人を相手に立ち回れるだろうか。『相手』を戦闘不能にする必要はない。自分たちを追ってこられない状況を作り出せばいい。
あらん限りの思考力を以て、飛鳥は作戦を再構築していく。
そして、ようやっと自分たちのものではない足音が聞こえた。最後の角を曲がった先に2人の人物と、その奥に海黒の姿があった。
「海黒さんッ!」
「——飛鳥先輩!」
海黒の掠れた声、崩れた三つ編み、汚れた制服、四肢を流れ落ちていく血。黄昏の両眼は、不安げな、弱弱しい光を灯していた。
走る。走りながら、手を伸ばしたくなるのを抑えて、飛鳥は『相手』2人と青太に意識を向けた。
青太が片手を広げて《COLOR》を発動しようとするのをアイコンタクトで制す。『相手』は足を止めて完全にこちらに向き直る。その時すでに、『相手』との距離は数メートルまで迫っていた。
やがて『相手』の片割れが、飛鳥に手の平を向けた。今だ。飛鳥は青太に囁く。
「水島、奴らの——頭を狙え」
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