複雑・ファジー小説

2−11 ( No.26 )
日時: 2018/08/31 23:29
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: nYs2x9iq)

2−11

 水の弾丸が2つ放たれた。光の尾を引きながら、『相手』に向かって真っすぐに飛んでいく。
 飛鳥はその間をすり抜けるようにして全速力で走った。青太の攻撃に注意を奪われた『相手』は飛鳥に反応できない。そのまま海黒に近づいて、彼女の小さな体を抱え上げる。
 振り返れば、同時に水弾がはじけ飛んだ。青太は飛鳥にしっかりとついてきている。彼は右足を軸に身体を反転させると、もう一度同じように弾丸を放った。
 頭部を狙えば否が応でも『相手』は防御に徹することになる。つまりそのあいだ、こちらが攻撃されることはない。
 青太の指先から零れる《COLOR》の残滓が、ガラスの欠片のように舞う。 
 飛鳥は海黒を抱えたまま走り出した。海黒は飛鳥の首にしっかりと掴まっているが、その力は心なしか弱い。耳のすぐ近くに海黒の口があって、彼女の荒い呼吸音と時折小さく咳き込むのが聞こえる。
 青太は絶えず弾丸と水刃を発射しながら応戦する。青い光が生まれたかと思えばすぐに消えて、次の瞬間にはまた青太の手元で輝いた。水は様々な形に変化しながら四方をマーブル模様に照らし出す。
 ただ彼は『あの夜』よりも苦戦しているようだった。『あの夜』の舞台はもう使われない廃工場だったから、建物への被害は考えなくてもよかった。しかしここは今でも使われている地下道だ。だから、派手な攻撃はできないようだった。

「水島ッ、足を狙え!」

 だが『相手』を戦闘不能にする必要はない。自分たちの目的は逃げ切ることだ。その為には『相手』の足を止めればいい。
 青太もそれを理解したのか、飛鳥の背後で立ち止まって追っ手に対面する。そして、右手を横薙ぎに払った。
 青太の足元に、光る直線が現れて。直後、波打った。
 線から溢れ出たのは水。水が清流となり『相手』の方向へ流れる。唸りながら壁にぶつかった水が砕け、飛び散った青い光子が蛍光灯の光に溶ける。地下道の奥の暗いところまで、一瞬にして、サファイアの川になる。
 『相手』は流れに足を取られて、後ろにふらついた。水量は多くはないが、流れの速さがその動きを封じたのだ。
 第二波を放つべきか否か。『相手』との距離はかなり離れた。ここは逃げに徹した方がいい。
 青太がそう思考した矢先、向こうから青い光が飛んでくるのが見えた。間違いなく、それは青太が撃った水の弾と同じだった。
 彼は川の水底から第二波を送る。下から水面を押し上げるようにして、大きな波を生み出す。天井まで届く程の防御壁は、水の弾1つ程度など簡単に防いだ。
 壁の向こうから続けざまに水が飛来してくるが、青太の防御壁は衝撃に揺らめきながら、それらを完全に受け止める、次の瞬間。
 壁が、割れた。
 割れたのか崩れたのか、一瞬何が起こったのか分からなかった。突如壁の一ヶ所に穴が空き、そこを中心に壁を成していた水が渦を巻き、形が崩壊した。水の瓦礫が青太に降りかかる。青太は埋もれてしまう前に飛鳥に向かって叫ぶ。
 しかし、先に反応したのは海黒だ。
 海黒は飛鳥の首をぎゅっと抱くと、彼の肩から上体を乗り出した。

「しっかり、捕まえていてくださいよ……!」

 右手の中心に黒い分子が密集し凝結する。そこに生まれたのは純黒の小さな鉄塊。
 それは銃の形になった右手の人差し指から、青色の飛沫を纏う『見えない何か』へ回転しながら飛んでいく。
 甲高い衝突音。『見えない何か』と真っ向からぶつかった鉄塊は空中で静止。壁を這う衝突音の残響を裂くように、海黒が叫ぶ。

「——散れッ!」

 1秒後、今際の高音と共に両者は確かに砕け散った。風が、飛鳥の首筋を撫で後ろ髪を煽った。
 飛鳥の視界の中央には、四角形の淡い光が見えている。地上への出口だ。
 地上へ出れば、コンクリートと鉄筋の巨大な工場が立ち並んでいた。大型車両が通る道路は道幅が大きく、工場に面積の大半を占められている割には、そこは広く見えた。
 雨に打たれるアスファルトからは、独特な匂いが立ち昇っている。どこか雨をしのげる場所はと周りを見渡せば、屋根のある倉庫が目に入った。倉庫の裏手に周り、海黒を一度降ろす。

「立てそうかい」
「立つくらいなら、なんとか」

 そう話す海黒はやはり辛そうで、傷だらけの細い足が彼女の体重を支え続けられるとは思えなかった。
 海黒を座らせて、鞄からタオルを取り出して手渡す。

「海黒さん、これ使って。雨でちょっと湿ってるけど」
「……ありがとうございます」

 海黒は恐る恐るタオルを受け取った。青太の方を見れば、倉庫の陰から顔を出して地下道の方の様子を確認していた。

「追っ手は?」
「ひとまず、撒いたみたいだ」

 青太はそう言いながら振り返る。ずぶ濡れの前髪が額に貼りついて、透明な雫が鼻筋を滴り落ちている。雨水を拭く素振りを見せない彼は、タオルもハンカチも持っていないのだろうと思われた。
 飛鳥は顔を拭こうと取り出したハンカチを見て、そのまま青太の方に目線を滑らせた。

「水島、これ」
「え?」
「ハンカチ」

 腕を伸ばして、ハンカチを差し出す。素直じゃないのは自覚していた。

「ああ……いいよ。瀬川も濡れてるんだから、瀬川が使えよ」
「……風邪」
「風邪?」
「君に風邪ひかれると困るから」
「……ありがとう」

 青太は飛鳥のハンカチを受け取って、自分の体を拭き始めた。やがて返されたハンカチは四つ折りの表だけが湿っていて、裏は乾いていた。飛鳥は乾いた面で顔を拭いた。
 
「どうする、これから」

 青太からの問いかけに飛鳥は小さく唸る。できれば雨が止むまでここにいたい。しかし地下道の入り口からさほど離れていないここにいれば、いつ追っ手に見つかってもおかしくはないのだ。
 雨水を吸ってすっかり黒く染まったアスファルトには、白い水煙が立ち上っていた。雨が弱くなったら移動しようと言おうにも、そもそも雨脚が弱まるかどうか分からない。
 地下道に戻るという考えが、一瞬脳裏を過ぎった。

「地下道に——」
「地下道に、戻るのか? でも奴らは地下道に留まってる可能性だってあるし、今あそこに戻るのは危険だろ」
「……うん、そうだよね。悪い、少し混乱してた」

 飛鳥は俯いて、濡れたスニーカーの爪先を見た。水分を含んだ前髪から両の爪先の間へ、ぽたりと、水滴が落ちる。

「……まあ、真っ向からぶつかっても、いいんじゃないか」
 
 ほら、オレ結構強かっただろ、と青太は無邪気に笑った。しかし飛鳥は青太が『相手』との戦闘も辞さないつもりだと理解した瞬間、頭に血が上る感覚に襲われて、次に体の心から熱が奪われていくような心地になった。

「駄目だそんなのっ、リスクが大きすぎる」
「でも、ここにいても何にも変わらないじゃないか。奴らに見つかっても戦闘になる。どっちにしろ戦わずに逃げるなんて無理だ。だとしたら、屋外で戦うか屋内で戦うかの違いしかない」

 2人くらいだったら何とかなると、青太は飛鳥に言って聞かせる。確かに青太はさっきまで2人に対して上手く立ち回っていた。『相手』の《COLOR》の詳細も分からないのに、青太は1人で2人分の攻撃を防いだ。
 どうにか、なるのだろうか。自分が精いっぱい頭を回して彼をサポートすれば、もしかしたら。
 だがそんな飛鳥の思考は、海黒によって呆気なく潰える。

「追っ手は多分、あの2人だけじゃないと思います」

 海黒が、2人に割って入るように呟いた。

「奴らは私を何日も執拗に追いかけ回してきている。いい加減、奴らも私を捕まえたい筈です」

 そう言いながら、海黒は自分の足に触れた。色素の薄い柔肌には、凝固した血液がこびりついている。
 海黒は壁を支えにしながら立ち上がった。飛鳥が手を差し伸べようとすれば、彼女は首を横に振ってそれを拒む。

「足もこんな状態で、私がもう逃げられないことなんて『相手』は分かってる。だから今日、確実に、私を捕まえに来る」

 飛鳥先輩たちが来るのは想定していなかったようですけど、と海黒は薄ら笑った。それから、真剣な眼差しを飛鳥に向けた。
 雨音が海黒の微かな声を掻き消してしまいそうだった。けれど「逃げてください」という言葉が、いやにはっきりと聞こえた。

「頭は良くないみたいですけど……それでも、奴らが強いことは確かです。だから、怪我する前に飛鳥先輩たちは逃げてください」
「嫌だよ、僕は逃げない」

 助けてと言ってきたのは海黒の方だ。そして、飛鳥は絶対に海黒を助けると決めた。ここで帰るわけにはいかなかった。

「君が、僕に助けを求めたんだ」
「そうですね。飛鳥先輩に助けを求めるなんて、私も、頭が悪かったんですね」
「仮に僕たちだけが逃げたとして、海黒さんはどうするつもりなんだ」
「大人しく捕まりますよ。どうせ、すぐに殺されるわけじゃありませんから」
「殺される、って」

 飛鳥は息を呑んだ。海黒があまりにも簡単に「殺される」と言ったからだ。思い返せば、青太も飛鳥に対して「明日生きていられるかどうか分からなかった」と言っていた。
 海黒が今関わっている何か、青太が過去に関わっていた何か。飛鳥はその何かの詳細は知らない。だがまさか、生死を揺るがす程のものだとは思っていなかった。
 ——カルト集団。
 青太は、海黒の兄はカルト集団の幹部格だと言っていた。海黒がその集団に関わっていることは確実だ。
 同一の思想を妄信し、同一の思想のもとに活動する、カルト集団。少年が何気ないことで「死にたい」と思ってしまうように、人の考え方はいくらだって極端になる。そして、思想が、人をどこまでも極端に、残酷にしてしまうとしたら。

「……『海黒ちゃん』」

 飛鳥の背後で静観していた青太が、口を開いた。

「『紅野さん』には、頼れないのか」

 飛鳥は目を見開いて青太を見た。学校であんなにも苦々しく岬紅野の名前を呼んでいたのに、そんな彼を頼ろうと言い出したからだ。そしてそれ以上に、青太が『紅野さん』とごく自然に言ったことに対して、胸の奥がざわめいた。それは、過去の彼が何度も岬紅野の名を呼んでいたということの証左だった。

「……お兄ちゃんは、私のことなんて、助けにきてくれないと思います」
「オレと一緒にいるって言えばいい」
「水島、何言ってるんだよ」
「オレの名前を挙げれば、『紅野さん』は絶対にここにくる」
「待ってよ。水島は、今さら、岬紅野に会えるのか」

 自分の為に、まだ中学生だった青太を戦闘に巻き込もうとした男だ。もし自分が青太の立場にいたら、わざわざそんな男を呼び寄せようだなんて思わない。
 だが青太は淡々と、そうするしかない、と言った。
 絶対に瀬川を守る。心に温かく響いた筈の言葉が、雨水が染み込むように、飛鳥の心臓を冷やしていく。
 降り止まない雨の線が檻のようになって、飛鳥たちをその場に閉じ込めていた。
 やがて、海黒が1台の携帯端末をポケットから取り出した。それは無地のケースに入った飛ばし携帯ではなかった。紅色の花がいくつも描かれたケースの、プライベート用の端末だ。
 海黒は飛鳥たちに背を向けて電話をかける。電話がちゃんと繋がったのかどうかは、飛鳥の位置では分からなかった。しかし海黒が、「お兄ちゃん」と寂しそうに呼びかけるのは聞こえた。

「——電話はしましたけど、来てくれるかどうかは、やっぱり分かりません」
「いいよ。ありがとう海黒さん」

 海黒はまた、首を横に振った。
 青太が、じゃあ行こうかと、飛鳥に笑いかける。飛鳥は海黒に声をかけて、再び彼女を抱き上げようとした。しかし海黒は、びくりと肩を震わせて、一歩下がってしまう。そんな反応に飛鳥も戸惑ったが、大丈夫だよ、と海黒の身体を持ち上げた。

「私、意外と重いですよ」
「そうかな。むしろ軽すぎるくらいだ」
「……いいんですか、本当に」
「……何が?」
「私、飛鳥先輩のこと、わざと傷つけました」

 海黒の手が、飛鳥のシャツを弱弱しく握る。

「そのくせして『助けて』って言ったり、それで呼び出しておいて『逃げて』って言ったり。言ってること滅茶苦茶で……私ね、頭悪いんです。だからいっつも最後で駄目になっちゃうんです。だから……お兄ちゃんにも嫌われたんだ」

 そんなことない、と言ってあげるべきだったのだろう。だが飛鳥は、愛してやまない兄弟から嫌われる怖さが理解できてしまった。姉から拒絶されれば、自分はその瞬間に氷の城の中に閉じ籠って、外部からの言葉なんて耳に入れやしないだろう。だから、岬兄妹について何も知らない自分の言葉が、効力を持つとは思えなかった。
 何にも言えなかったからこそ、海黒の肩を、ぽんぽんと優しく叩いた。すると海黒の手の力が、わずかに強くなった。
 飛鳥は、海黒を雨から守るようにしっかりと彼女を抱き締めて、青太と共に雨の中に入った。モノクロの景色は水に霞み、走っても走っても同じところにいるみたいだった。
 地下道の手前で、2人は足を止めた。入り口には2人分の人影。やはり『相手』は地下道で自分たちを待ち伏せしていたようだ。
 更に背後から水溜まりを蹴る音が聞こえた。振り返ればそこには黒い服を着た人物が立っていて、こちらを鋭く睨んでいた。

「海黒ちゃんの言う通りだったな」
「3対1、か……水島」
「ちょっと、まずいかもな」

 青太が左手を開き、手のひらの中心に水泡を作り出す。手を振り放ったそれは、相手から撃たれた全く同質の水泡に打ち砕かれた。
 おそらく『相手』の片方は《COLOR》は、対象の《COLOR》を模倣するものだ。ではもう片方は何だろうか。目に見えない《COLOR》では、どこから攻撃してくるかも予測できない。

「——3対1じゃ、ないですよ」

 飛鳥の肩口で、海黒が呟いた。

「海黒さん、もしかして」
「私も戦えます」

 海黒は飛鳥の上体に捕まっていた腕を解いて、とん、と地面に降りる。ふらつきながら、けれど彼女の口元は一文字に結ばれていた。
 
「前の2人は私がやります。だから青太さんは、後ろのあの人をお願いしていいですか。《COLOR》が割れてないんで、大変かもしれませんけど」
「いや、2人相手にするよりはずっと楽さ」

 海黒が1歩前に進み出て、それと入れ替わるように、青太が飛鳥の背後に立つ。
 雨を斬るように、海黒は腕を振った。

「私、戦ってるときに物考えるの苦手なので。作戦立ててくださいね。飛鳥先輩」

 ぎらりと煌めく黄昏と目が合う。飛鳥が頷くと、彼女は少し笑ったように見えた。
 指先まで真っ直ぐ伸びた腕に沿うように、鉄塊が幾つも生成されていく。形は歪で、大きさもばらばらだが、雨粒を落とす切っ先は確かな鋭さを持っていた。
 それは翼だった。鉄の翼を持つ、片翼の蝙蝠コウモリのようだった。

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