複雑・ファジー小説
- 3−1 ( No.31 )
- 日時: 2018/09/24 00:40
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: CW6zBFcM)
3−1
スマホのバイブレーションで目が覚めた。
カーテンの隙間から白い朝日が差し込んでいる。半袖から出た腕に触れる空気は乾いても湿ってもいなくて、少し冷たかった。携帯端末の画面を見れば、数字は中途半端な時刻を示していた。
階段を下りると、丁度玄関で靴を履いていた白鳥と鉢合わせる。寝癖のない白い長髪は背中にさらりとかかっていた。
「おはよう、飛鳥」
「おはよう姉さん。今日も早いんだね」
「まあね」
ぼうっと立っていると白鳥に手招きされる。近寄って屈むと、白鳥は飛鳥の頬に手を添えて親指で目の下を撫でた。
「隈、できてるかな」
「ううん、大丈夫よ。……やっぱり寝てないのね」
「寝てないわけじゃないよ。最近は思うような時間には起きられてないけど」
「眠りが浅くなってるってことじゃない」
白鳥は微笑んでいたが、声は苦々しいものだった。飛鳥が目線を落とすと、白鳥の手が頭に乗せられる。その温かみがなぜか居た堪れなくなって、飛鳥は僅かに身を引いた。
「母さんから、この前、飛鳥がびしょ濡れになって帰って来たって聞いたの」
「傘を忘れただけだよ」
「傘を忘れたからって、飛鳥は、濡れ鼠になって帰ってくるような子じゃないでしょ」
「……風邪はひいてないから」
「そういうことじゃないの」
「ちゃんと学校には行った」
咄嗟に反論して返って来たのは溜め息だ。白鳥は飛鳥が逃げないように腕を掴むと、飛鳥の眼を真っ直ぐに覗き込んだ。
白鳥の眼を見ると心がざわつくようになったのは、最近のことだ。それは普段の飛鳥と同じ琥珀色をしているが、その中には橙色も黄色も茶色もあって、透明な球体の中に絵の具のそれらが浮遊しているように見える。薄いコンタクトレンズに着色されただけの、飛鳥の偽物の琥珀とは全く違うものだ。
「飛鳥。明日は確か、塾はなかったよね」
「うん」
「明日の夜、絶対に帰ってくるから、だから……大事な話をしよう」
うん、ともう一度頷いた。
「それじゃあ……いってきます」
「……いってらっしゃい」
白鳥の姿が扉の向こうに消えて、外からの光が閉ざされた時、飛鳥は胸の奥が波打っているような気がした。
真冬の海の、灰色の波が押しては返すような感覚。朝日に網膜を焼かれてしまったのだろうか、温かい色をしていた筈の扉が、飛鳥の瞳孔にはモノクロに映る。
耳奥で響く波の音に体が突き動かされて、飛鳥は急いで自分の部屋に戻ると、スマホを手にしてメッセージアプリを開いた。
彼とのやりとりは、相手からの返信で終わっていた。
彼からのメッセージは、雨の中で彼らと逃げた『あの日』の晩に送られてきた。クラスのグループラインから見つけ出した連絡先を前にして、何を言えばいいのかベットの上で考えあぐねていた時、「怪我してないか」という言葉が届いたのだ、すぐに既読をつけてしまったから、何か答えなくてはと思って慌てて「大丈夫」とそっけない返事をしてしまった。
本当は、自分が最初に送るべき言葉だったのだろう。
「よかった」と、1分もしない内にメッセージが表示されて、続けて「オレも何とか怪我はしてないみたい」と送られてきたから、飛鳥はもう何も言えなくなってしまった。心配する言葉も、謝罪も、感謝も、どれも違うような気がしてしまった。
あの夜は無言のままアプリを閉じて、スマホを投げ出して、暗闇の中で改めて彼の優しさを思い知った。ただの優しさじゃない。彼の優しさは、自分がいかに矮小なのかを明らかにしてくる優しさだ。
今、4つのメッセージしか表示されていないトーク画面を見て、飛鳥はキーボードの上で指を彷徨わせていた。しかし右上に表示されている時刻に気づいて、我に返りスマホを机に置く。
こんなことをしている場合じゃない。早く学校に行く準備をしなければ。そもそも、こんな朝からメッセージを送ったって、彼にとっても迷惑だろう。
1階に下りて、洗面台に向かう。顔を洗って鏡を見れば、そこには『薄茶色』の眼をした自分がいる。カラーコンタクトをつければ簡単に琥珀色になる。脱色と染髪を繰り返して傷んだ白髪は、枝毛が増えてきた。だから毛先が頬に刺さると痛い。
リビングに行けば母親がいて、飛鳥に朝ごはんを出してくれた。時計はやはりいつもより遅い時間を示していたが、母親が飛鳥を急かすことはなかった。飛鳥も味噌汁を啜りながら、急がなくてもいいか、なんて思い始めていた。どうせ早く行ったって窓際の隣人はいない。会えないのなら、早く行く意味もないだろう。姉と違って、飛鳥が薄い隈を作っていたところで彼は気付かないだろうが、彼の優しさにどこか期待していた。
温かい味噌汁を体の中に流し込みながら、飛鳥は優しい青太のことを考える。考えても考えても、胸の奥のざわめきは止まなかった。
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