複雑・ファジー小説

3−2 ( No.32 )
日時: 2018/09/29 07:15
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: 14pOvIO6)

3−2

 水島青太はやはり優しい人物で、クラスメイト全員分の英語課題を運ぼうとしていた飛鳥に、「手伝おうか」と当然のように声をかけてきた。
 テスト期間に入ったこともあって、放課後だというのに廊下にある人影は疎ら(まばら)だ。教室に残っている生徒も既に自主勉強を始めている。緊張感が張り詰める校舎内はとても静かだった。
 職員室に40人分のノートを運び終わったところで、青太は飛鳥に問いかけた。

「瀬川って日直だったっけ」
「違うよ。今日の日直が早く帰らないといけないからって、代わりを頼まれたんだ」
「ああ、そうだったのか」

 職員室の前に置いていたリュックサックを背負い直しながら、結構重かったな、と呟く青太に、そうだねと返す。通学鞄を肩にかける飛鳥を見て、青太は再び口を開く。

「瀬川も帰るのか?」
「いや、図書館に行って勉強するよ」
「真面目だな」
「テスト期間中じゃないか」

 呆れて言えば青太は困ったように笑った。隣の席で彼の解答を見る機会ができたからこそ分かることだが、彼は英語が苦手なようだった。語彙力は一定の水準に達しているが、文法や文章構造を理解するのに時間がかかるらしい。塾で教わったことや参考書に書かれていたことを噛み砕きながら説明すれば、彼は素直に感謝し、飛鳥を褒めた。
 最近は脳の回転が鈍っているような気がして、教師の話を聞くことだけで精一杯になってきている。以前とは違ってどの授業も苦痛だった。しかし、英語の授業で隣と机をくっつけて解答を確認し合う時間だけは、今でも楽しい。
 英語くらいは教えてもいいかな、とふと思った。
 飛鳥は図書館に行くために、そして青太は生徒玄関に行くために、2人は階段を降りる。踊り場の大きな窓ガラスの向こうには、大きな水溜まりができた校庭が広がっている。それから、目を凝らしてようやく視認できるような細い雨が降っていた。

「水島は帰るのかい」
「帰る、けど」
「けど?」

 突然言葉を詰まらせた青太を、飛鳥は数段下から見上げた。

「これから、警察署に行くんだ」

 警察、と聞いてぞっと鳥肌が立つ。まさか数日前の戦闘が警察にばれたのだろうか。
 だが青太はすぐに、この前のことじゃないと否定した。

「瀬川と一緒に警察署に行ったときに、『抑制器具』の話しただろ」
「《COLOR》を抑制するために、支給される物……だったっけ」
「うん。それの話を、もう一度聞きに行こうかと思ってさ」

 青太の《COLOR》は強力だが、彼は《COLOR》を過剰に出力してしまう傾向にあった。《COLOR》を高出力のまま使い続ければ、暴走し、他者を傷付けてしまうかもしれない。かつて《COLOR》の暴走を経験している青太は、勿論抑制器具を受け取るだろうと飛鳥は思っていた。
 しかし彼は、意外にも、抑制器具は受け取らないと答えた。

「あれって、自分の意思で装着はできるけど、検査を受けて矯正されたのが認められないと解除されないんだ。でも、もしもの時に、それは困るだろ。だから、自分でどうにかしようと思うんだ」

 青太は自らの開いた右手を見つめていた。彼はそこから目を逸らさない。
 どうにかすると言ったって、自力でやれることには限界がある。それに《COLOR》を使用するということは、その分身体に負荷をかけることになる。負荷が蓄積すればいずれ腕や肩が壊れてしまうだろう。
 だから理性的に考えれば、青太は抑制器具を受け取るべきだ。けれど飛鳥は、彼の考えを否定することができなかった。
 青太に守ってもらわなければならないのは事実だ。青太の強力な《COLOR》がなければ、飛鳥だけではなく青太まで怪我をするかもしれない。彼から《COLOR》という「盾」を奪うことはできなかった。そして何より、青太自身が、飛鳥を守るための「矛」を捨てはしないだろう。
 考えている内に1階に着いた。生徒玄関の方へ歩いて行く青太の背中を見て、飛鳥は言わなければならない言葉を思い出した。

「水島っ。あの、さ」

 普通に、自然に、友達のように。直前まで「言える」と思っていた言葉が、青太が振り返った瞬間喉から出てこなくなってしまった。彼の両眼の深海に真っ直ぐに捉えられる感覚は、やはり慣れない。
 言い淀む飛鳥に、青太はそういえばと声を被せた。

「海黒ちゃん、ちゃんと学校来てるのかな」
「……海黒さん、学校来てないのか?」
「少なくとも、今日はな」

 先程職員室で1年生の連絡ボードが目に入った時に、欠席者の欄に海黒の名前を見つけたらしい。
 海黒と最後に連絡をとったのは、海黒が電話をかけてきたあの雨の日だ。その日の夜と翌日の放課後にはこちらから電話をかけたが、どちらも繋がることはなかった。その上、巨大な鏡高校でクラスも知らない海黒を探し出すのは難しく、海黒を探していることが青太に察知される可能性も高い。彼は、飛鳥を海黒に——その背後にいる岬紅野に近づけさせたくないようだから、海黒を案じての行動だとしても、きっといい顔はしなかっただろう。

「水島は海黒さんのこと、心配してるのか」
「……ちょっと気になっただけだ。岬海黒からアクションがないなら、こっちも下手に動くべきじゃないし」

 ややあって、そうだね、と頷く。それ以外の言葉は、蛍光灯に照らされる廊下のどこを探しても見当たらなかった。
 また明日、と言って遠ざかっていく青太の背を見送った後、飛鳥は図書館の方に歩き出す。
その時、鞄の中でスマホが震えた。その画面に表示されているのは『岬海黒』という文字列で、突然の海黒からの着信に飛鳥は急いで通話ボタンを押した。しかし、海黒の声が聞こえてくることはなかった。

「——こんにちは、瀬川飛鳥くん」

 それは、男の声で——間違いなく、岬紅野の声だった。

「海黒からではなくて残念だったかな。妹は今体調を崩していてね。足のこともあるし、しばらく学校を休ませていたんだけど、明日からは登校させるつもりだ」

 一瞬で思考は停止した。透明な水に紅い絵の具を溶かすように、静止した世界に、意識の中に、紅野の声が流れ込んでくる。

「すぐに電話に出てくれる程、海黒を心配していてくれたんだね。兄としても嬉しいよ。ありがとう」

 さて、と彼は息を吐いた。まるで、今までのことはどうでもいい、と言い放っているかのようだった。

「瀬川飛鳥くん、これから、うちに来てほしい」
「……え?」
「俺の自宅に来てほしいんだよ」

 予想外の誘いに飛鳥は困惑した。当然、岬紅野の自宅に1人で行くなんて危険だ。青太にも迷惑がかかるだろう。迷惑だけならまだましだ。これ以上彼に無駄な被害を被らせることはできない。 
 飛鳥は間を置かず、行かない、と返そうとした。その返事を、紅野は狙っていたかのように自らの声で遮った。

「当然君は警戒しているだろう。けど俺は誓って何もしない。俺は海黒から君の報告を受けているんだ。君が模範生であることも知っている。真面目な優等生が家に帰らなければ、周囲は1日とおかず怪しむだろう。青太は間違いなく俺の仕業だと考えるだろうさ。それで警察に通報されでもしたら、困るのは俺たちだ。君を傷つけたり殺したりしても、何のメリットもない。デメリットしかない。だから君を害することはしない」

 それから、と彼は付け加える。

「もしうちに来てくれたら、君が知りたいことを、できる限り教えてあげよう。海黒とも会える。君だって、自分の目で海黒の無事を確かめたいだろう」
 
 裏門にハイジを待たせている、と言い残され、一方的に通話を切られてしまう。有無を言わせないその態度は、裏を返せば、飛鳥の行動を全て読んでいるということだった。
 彼の筋書き通りに行動してはいけない。しかし、彼から提示されたメリットは大きい。もし、青太や海黒を取り巻く闇の全容が分かったら。もし、彼らを救い出す糸口を手繰り寄せることができたら。
 もし、紅野が犯罪者ではないと、憧れのヒーローそのものであると確信できる何かを得ることができたら。
 事態は好転するのではないか。

 裏門では、ビニール傘を差した男子生徒が立っていた。蒸し暑い中で、彼は鏡高の学ランを着ていた。襟に着けられた一本線のエンブレムが、彼が1年生であることを示している。
 ピアスは全て外されているが、傷の多さは変わっていない。灰がかった髪に、血色の抜けた肌。目の下に刻まれた隈。そして、長い前髪の下から覗く、暗い瞳。
 飛鳥に気付いたハイジは黙ったまま、視線だけを飛鳥に向けた。

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