複雑・ファジー小説
- 3−3 ( No.33 )
- 日時: 2018/10/14 01:15
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: ZFUj677N)
3−3
「岬」の表札がかかった家に着くと、ハイジは飛鳥の傘を無言で奪って傘立てに立てた。ハイジ自身のビニール傘は傘立てには入れられず、靴箱に立てかけられた。
そこは広い家だった。飛鳥の家よりも廊下の幅が大きく、スロープが造られた玄関も広々としている。階段の見当たらない紅野の家は、1階以上が存在しない平屋だ。
ハイジは慣れた動きで靴を脱いで廊下を進み、左手にある横開きの扉をノックした。すぐに、奥から声が返ってきた。
「こんにちは、紅野さん」
「やあ、ハイジ」
薄暗い部屋の中で、車椅子に座る紅野が振り向く。
デスクワークの最中だったらしく、机の上には書類が広げられていた。光源は卓上ランプとブラインドカーテンの向こうから射す弱い日差しのみ。ハイジが入り口で立ち止まったまま中に入ろうとしないので、飛鳥は紅野の部屋の全貌を見ることはできなかったが、床に物は置かれておらず整然とした様子だった。無駄な物が少ないのはおそらく、車椅子での動線を確保するためだろう。
「わざわざすまないね」
「紅野さんのため、なので」
「ここでは何だし、リビングに行こう」
紅野が動き出すのと同時に、ハイジも飛鳥をリビングへ促した。
紅野と一瞬目が合う。彼の笑顔は作り物のようではなく、純粋な柔らかい笑顔だった。妹とは似ていない、と飛鳥は頭の隅で思った。
リビングで紅野に勧められて、飛鳥はレザーのソファに座る。紅野とテーブル越しに対面するような形だった。何となく落ち着かず恐る恐る通学鞄を床に降ろすと、キッチンからハイジの声が飛んできた。
「紅野さん、紅茶きれてます」
「そうなのか。冷蔵庫にウーロン茶があった筈だから、そっちでいいよ」
「分かりました」
ハイジの動作には迷いがない。まるで自分の家かのようにスムーズに動く。何がどこにあるのか全て把握しているのだろう。もしかして、ここに住んでいるのだろうか——いや、まさか。
「ハイジのことが気になるのかい」
「……彼は、鏡高の生徒だったんですね」
「沖原灰慈、鏡高校の1年生だ」
だから頭がいいんだ、と紅野は笑った。
「兄弟ではないんですね」
「それは初めて言われたな。俺と灰慈は似ていないと思うんだけど」
「灰慈くんが、この家に随分慣れているように見えたので」
「ああ、灰慈はここによく来るんだ」
やがて灰慈が2人分のウーロン茶を持ってテーブルにやってきた。彼がグラスを置くと、こん、と木を叩く柔らかい音がした。
傘を立てかける時にも、靴を脱ぐ時にも、扉を開ける時にも、そして今まさにグラスを置く時にも感じたことだが、灰慈の所作には、見た目に反して荒さが無かった。どの動きも柔らかい。歩くときもほとんど足音を立てない。育ちがいい、と形容すればよいのだろうか。それとも、躾の行き届いたとでも言えばいいのか。
「ありがとう」
「いえ」
「今日は、学校は?」
「3限目から行きました。本当は1限目から行こうと思ってたけど、朝起きられなくて」
「それでも学校に行ったんだろう、えらいじゃないか」
「……それで、数学の小テストが、あったんですけど」
「どうだった?」
「100点、でした」
「すごいね、ちゃんと勉強したんだな」
灰慈の頬が緩んだ。隈のせいで変色した目尻を下げて、嬉しそうに笑んだ。そんな彼の口から零れたのは称賛を受け入れる「ありがとうございます」でも、それ以上の称賛を求める言葉でもなく、「次も頑張ります」と——その一言だけだった。
紅野から2人きりになりたいと告げられた灰慈は、頷いてリビングから出る。本当に、従順な少年だ。
「……ここまで来てくれて、ありがとう。瀬川飛鳥くん」
「……いえ」
「俺のことは、知っているよね」
「それは、勿論です」
「だろうね。だって、10年も前のことを今でも覚えていてくれたんだから」
10年前、誘拐されそうになった自分を助けてくれたヒーロー。紅い目、紅い髪。記憶の中で決して色褪せることがなかった色彩。紅いヒーロー。
それが『岬紅野』という名前を持って今、そこにいる。知らない家のリビングの、窓から射す無彩色の光の中で笑っている。
「あの」
「何?」
「海黒さんって、今どこにいるんですか。玄関に海黒さんの靴はありませんでした。ここにはいないんですよね」
「……ああ、それが俺にも分からないんだ」
「分からない?」
「俺も20分前に帰ってきたばかりで、その時にはもういなかったんだ。でも、遠くには行っていないと思うよ」
そう言いながら彼は、灰慈が運んできたウーロン茶を少し飲んだ。
なんて悠長なのだろうか。体調を崩して怪我をして、つい最近まで危険な目に遭っていた妹が知らない内にどこかに行ってしまったら、普通はもっと心配するのではないか。少なくとも自分なら、迷わず外へ探しに行く。
だが紅野は、あの子は俺に迷惑をかけたがらない、と呟いた。迷惑をかけたがらないから、余計なことはしない。迷惑をかけたがらないから、自分の言うことをよく聞くのだと、暗にそう言っているようだった。そして、レンズの奥の目を細める彼を見て、飛鳥も妙に納得してしまった。だから言い返すことも訊き返すこともしなかった。否、できなかったのだろうか。
「しばらくしたら、帰ってくるんじゃないかな。海黒に会いに来てくれたんだろう? なのに、すまないね」
「……どうして、僕を呼び出したんですか」
「この前の傘の催促の為だよ——ああ、焦らなくてもいい。傘は学校で灰慈か海黒に渡してくれればいいから。今日君に来てもらった理由と言うのは、青太について、訊きたくてさ」
「水島、ですか」
また、水島青太のことだ。
「そう。瀬川くんは、青太と仲がいいんだろ」
「それ、は……」
「ああごめん。君は、あんまり青太のことが好きじゃないんだったか」
沈黙する飛鳥を、紅野は口角を上げて見つめ続ける。
「誰にだって好き嫌いはある。別に君が青太のことを好きじゃないとしても、何の問題もないし、そのことを気に病んでいるとしたら、それは君がそれだけ優しい人間だってことだ」
「……そんなことないです」
「そうかな。まあ、彼は優しくていい子だろう」
「そうですね……優しいです。水島は」
青太は優しい。だからこそそんな青太が「犯罪者」だと言った岬紅野が、青太のことを「青太」と親し気に呼び、それを青太自身も拒絶しないのが、とても怖い。
ウーロン茶を口に含む。乾いた口内を濡らしていく液体は、少しだけ苦かった。
「青太は今、どうしてる? 中学生の時は学校に行きたがらなかったけど、今はちゃんと高校に行ってるかい?」
「毎日、ちゃんと来てますよ。僕も、今年から同じクラスになったばかりなので、水島の学校生活について、よく知っているわけじゃないですが」
「いや、いいんだよ」
飛鳥が顔を上げると、紅玉のような目が不思議な光を宿しているのに気付いた。紅野は、どこか遠くの、海の向こうの水平線を見つめるような目をしていた。
「そうか……ちゃんと、学校に行っているのか。それなら、いいんだ」
「……紅野、さん」
グラスからテーブルに落ちる、濁った色の光。それを見つめた後紅野を見れば、その鮮やかなルビーに目が眩みそうになった。どんなに磨き上げられた宝石でも敵うことはない瞳だ。
そしてやはり、自分がそれに触れることはできないのだと思った。自分が彼の真っ黒な瞳孔に「真に」捉えられることも、ないのだろうと思う。
「この前お会いした時、10年前のことを『覚えていない』と嘘を吐いたのは、なぜですか」
「……俺もね、動揺したんだ」
机の上で手を組みながら、紅野は目を伏せた。
「まさか、10年前に、たった一度きりだけ会った男の子と再会するなんて夢にも思わなかった。そして相手が、俺と同じようにそのことを覚えていてくれたことも——だからあの時は、都合がよすぎると思ったんだ。そんなこと、ある筈ないと思った。そんな確証も持てないような状態で、君の大切な記憶を踏み荒らすことはできなかったんだ」
「だから、嘘を吐いたんですね」
「冷たい言葉だったと、自分でも思う。すまなかった」
「謝らないでください。あの……あなたに忘れられていなくて、僕も」
続く言葉は、突然ドアの向こうから聞こえてきた足音に塞き止められる。
ドアを開いたのは、ワンピースを着た海黒だった。彼女は紅野を見て、次に飛鳥を見て、黄昏色の目を見開いた。どうしてここにいるんだ、と、音にせずともそんな海黒の声が聞こえてくるようだった。
「おかえり、海黒」
「……ただいま、お兄ちゃん」
「何か買ってきたのか」
「紅茶がきれてたから、新しいの買ってこようと思って」
「そうなのか。ありがとう」
「ううん、いいの」
海黒はもう一度飛鳥を見たが、声をかけることはなかった。
ふと海黒が開けたままにしていたドアを見れば、そこには灰慈が立っていた。海黒の足音を聞いて、2人きりになりたいという紅野の頼みを破った彼女を咎めに来たのだろうか。しかし灰慈は、1歩たりともリビングに入ろうとしなかった。紅野が海黒に対して何も言わないから、彼も海黒に干渉することができないのだろう。キッチンの戸棚に紅茶の缶を収めていく海黒を、ずっと見ている。
全て仕舞い終わって、やっと灰慈の存在に気付いた海黒は、彼からあからさまに目を逸らした。紅野はやはり、黙ったままだった。
沈黙の中で、灰慈はゆっくりと俯いて、そして静かに扉を閉めた。
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