複雑・ファジー小説
- 3−4 ( No.34 )
- 日時: 2018/10/22 02:05
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: BS73Fuwt)
- 参照: https://www.youtube.com/watch?v=1Ff6cy_HhDY&t=0s&list=LLGAusmZdyD-FMA24mxeQZNg&index=2
3−4
君は真面目だろう、と紅野が言った。何と答えていいのか分からず吃って(どもって)いると、彼はグラスの水滴を指先で掬いながら、ふっと笑った。
「君は校則を遵守するタイプだって、少なくとも皆には、そう思われているんじゃないか」
事実かどうかは別として、と付け加えて。
飛鳥は思わず自分の首を撫でて、襟足に触れた。何度かの脱色で傷んでしまった髪が肌にちくちくと刺さる。
「けれど瀬川君は、自分が守っている校則は誰が作ったものなのか、って考えたことはあるかい」
「……それは、さっき仰っていたことと、関係あるんですか」
「ああ、そうさ」
——この世から秩序を排除する。
水島を何に巻き込もうとしていたのか、あなたは一体何に関わっているのか。単刀直入にそう訊ねた飛鳥に、紅野は一言で答えた。
秩序の排除。それが、青太が滅茶苦茶だと言っていた彼らの思想らしかった。
一瞬にして顔を強ばらせた飛鳥を前に、紅野は平然としていた。彼は視線を逸らさない。一方の飛鳥の瞳は、まるで迷子のように揺らいだ。その違いは、飛鳥が自分の方が間違っているのではないかと錯覚しそうになる程に明らかだった。
「校則然りルール然り……知らない誰かが作った規定に囚われるなんて、馬鹿らしいだろ」
「だから、無秩序へ作り変えるんですか」
「そうさ」
「極論ですね」
「だろうな」
自分の思想が極端であることをあっさりと認めた紅野を見て、飛鳥は、今度は琥珀色の目を大きく見開いた。
紅野の表情はやはり変わらない。指先の濡れた手を組んで、薄ら笑ったままだった。
「君に、『すぐに』理解してもらえるとは思ってないさ」
次がある、と暗に示すような言い回し。理解できるわけがない、と首を横に振ろうとしたが、身体は動かない。秒針が空気を刻み、冷蔵庫のモーター音が重く床を這っている。
カタン、と机上に1台のスマホが置かれた。そろそろ塾の時間だろう、と紅野が飛鳥の前にそれを差し出す。液晶画面を見れば時刻は18時を少し過ぎた辺りだった。
なぜ紅野が自分のスケジュールを把握しているのか。たとえここで問い詰めたとしても笑顔ではぐらかされるだけだ。
彼は海黒を呼び出して、彼女に飛鳥を駅まで送るように言いつけた。飛鳥が玄関に行った時には、靴箱に立て掛けられていたビニール傘は、地面に小さな水溜まりだけを残して無くなっていた。
雨は強かった。大きな雨粒が絶えず落ちてきて、傘をうるさく叩き続けるような雨だ。コンクリート上で跳ね返った水は、透明から白に煙って(けぶって)足元を湿らせる。
間を空けて飛鳥の前を歩く海黒は、何も話さなかった。歩きづらそうではなかったから、足は完治したのだろう。胸を撫でおろすのと同時に、しばらく海黒が学校を休んでいたことを全く知らなかったくせに、彼女の無事に安心する自分が偽善的で気持ち悪いものに思えた。
「どうして、うちにいたんですか」
駅のタクシー乗り場に着いたところで、海黒が突然振り返った。紅野に呼び出されたのだと正直に答えると、海黒は警戒心がないのかと半ば呆れた様に言った。
「僕を傷つけるようなことはしないと思ったんだ」
紅野からの提案にのったのはリスクよりメリットの方が大きかったからだ。海黒の無事を確認し、紅野から情報を聞き出せるなら——そう考えて紅野と会ったのに、自分が得たものは少なかった。
紅野は「秩序の排除」を共通思想とする組織の中にいる。そしてその組織には名前がないから、外界の者がそれの実態を掴むことはできないらしい。いつから組織が暗躍しているのか、具体的に何をしているのか、そんなことは話されなかった。
「……海黒さんは、さ」
「……何ですか」
「正しいと、思ってるのかい」
ぎゅっと、海黒は傘の柄を握って言葉の続きを待っていた。
「紅野さんの、考えを——秩序を、排除するっていうことを」
疑問形ではない。海黒を否定したいわけでもない。彼女の本音を引き出す為に選び出した声は、抑揚に欠けた冷たい声で、自分で自分が怖くなる。
「分かりません」
ばたばたと雨が降る。肌寒い。きっとこの雨は、夜になって空が完全に黒くなってしまっても止むことはないだろう。濡れるコンクリートの匂いすらしなくなって、辺りは息苦しくなるような水の匂いに充たされていた。
「私にとって正しいのは、お兄ちゃんだけです」
雨音に辛うじて掻き消されない程度の声で、海黒は続ける。
「『それ』が正しいかどうかなんて、どうでもいいんです。お兄ちゃんがそうしろと言うなら、私は『それ』を正しいと言います。それだけです」
「どうして」
「……兄だから、ではだめですか」
「……だめじゃないよ」
海黒は間違ってはいなかった。正しくはないのかもしれないが、間違ってもいない。
ややあって、海黒は上着のポケットからスマホを取り出した。紅い花柄のカバーが取り付けられた、海黒のプライベート用の端末だ。
「連絡先、交換しませんか。以前教えた携帯はもう使わないので」
飛鳥は頷いて、海黒に自分の電話番号を見せた。直後にワンコールだけかかってきた電話番号は、確かに初めに教えられたものとは違っていた。
「……本当に、警戒心がないんですね。これがもし、私がお兄ちゃんに言われてやってることだとしたら、どうするんですか」
「もしそうだったら、君からの着信は全部無視するだけさ」
「そうですか」
おそらくこれは、紅野の指示ではなく、彼女の意思でやったことだ。ラインでもメールでもなく電話番号だけ交換したのは、2人のやりとりの履歴が残らないようにする為。電話口越しの声のやりとりは、録音しない限り残らない。
「お兄ちゃんは、青太さんとのコネクションが欲しいんだと思います。だから、仲介役になれる飛鳥先輩に接触したんです」
「まあ、そうだろうね。でも僕だって、簡単に従属するつもりはないよ」
「強気ですね」
「……水島がいるから」
海黒は意外そうに飛鳥をじっと見て、それから「そう」と目を逸らした。
彼女が視線を滑らせた方に飛鳥も目を向けてみれば、タクシー乗り場の丸い屋根の端から水が流れ落ちていた。
煙っているのは地面だけではなかった。夕陽は雨雲に遮られ視界は薄暗く、雨に滲んで建物や車の輪郭はぼやけている。霧がかかっているようにも見えた。近くにある筈の信号機の光が、遥か遠くで輝いているように思えた。
「飛鳥先輩」
「なに?」
「私、やっぱり、お兄ちゃんが大事なので。お兄ちゃんの為に、また飛鳥先輩を傷つけることもあるかもしれません」
「分かってるよ。海黒さんが、そうしないといけないことだって」
飛鳥は紅野の隣に仕えていた少年のことを思い出していた。沖原灰慈、彼は特に紅野から可愛がられているようだった。それは、実の妹である海黒を脅かす程に。
だが飛鳥は、海黒と灰慈は明確に線引きされていると感じていた。海黒はリビングに入っても咎められなかったが、灰慈は紅野が許さなければリビングに入ることはできなかった。海黒もまた紅野にとっての特別なのだろう。
だから、不安がる必要はない——なんて、言えるわけがない。それは彼女が抱える苦しみを否定するのと同義だ。
兄弟だから無償で愛されるとは限らないのかもしれない。姉の白鳥に幾つもの隠し事をしたままなのも、きっとその為だ。嫌われたくないからだ。
手に力を籠めると、封筒がかさりと鳴った。タクシー代にと紅野から渡された3枚の紙幣。乾いた感触は手に馴染まない。
「海黒さんは」
空車の文字を光らせたタクシーが近付いてくる。腕時計を確認すれば、紅野の家を出てから30分経っていた。塾の講義には間に合うだろう。もうすぐお別れだ。ここに海黒を一人にして、行かなきゃいけない。
「海黒さんは、頑張ってるよ」
海黒は首を横に振った。薄い肩が震えていた。手の甲で、何度も目元を拭っていた。
彼女は声を上げようとしなかった。だが堪えきれず漏れてしまう嗚咽と、手首を伝い落ちていく雫を見て、飛鳥は、海黒が泣いているのを知った。
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