複雑・ファジー小説

3−5 ( No.35 )
日時: 2018/10/28 01:42
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: k5lEWJEs)

3−5

 背後から足音が聞こえる。後ろをちらりと見れば、リュックサックにぶら下がったマスコットキーホルダーを揺らしながら、飛鳥とほとんど同じ速さで青太が歩いていた。

「……なんでついてくるんだよ」
「だってオレも電車で帰るし」

 学校の最寄駅への道は今まさに歩いているこの道だけなので、飛鳥は何も言えなくなる。
 久々の晴れ間を見せた空は薄い水色が広がっている。だが相変わらず蒸し暑く、飛鳥は襟元を掴んでぱたぱたと仰いだ。

「もしかして、オレが瀬川と一緒に帰りたがってるって思ったのか?」
「うるさい」

 拗ねた声で返せば青太が笑う声が聞こえて、飛鳥は歩調を速くする。タンタンと革靴の足音に重なって、柔らかいスニーカーの足音も速くなる。

「やっぱりついてきてるじゃないか」
「いいじゃん、一緒に帰ろうぜ」
「やだよ、そんなの。水島、寄り道とかしそうだし」
「しないって」
「本当に?」
「……滅多には」
「たまにするんだろ」
「たまにするくらいならいいだろ」

 ぱたぱたと足音がより速くなる。自分の真横に青太の横顔が見えかけて、飛鳥も更にスピードを上げた。

「せーがーわ」
「うるさい」
「瀬川っ」
「一緒に帰るなんて言ってないからな」

 ぱっと、前を見れば青太が自分の前に立ちふさがっていて、飛鳥は仕方なく足を止めた。
 また何か用があるのだろうか。昨日青太に何も相談せず紅野の家に行ったことについて咎められるのだろうか。
 確かに、紅野の家に単身赴いてしまったことは軽率で危険な行為だったと自覚している。それに関して自分に弁解の余地はない。だから飛鳥は言い訳は考えず、何の用だと青太に尋ねた。
 しかし青太は不思議そうな顔をして、特に何も、と答えた。

「何も無いのに僕に話しかけてきたのかい?」
「何か用が無いと話しかけちゃだめなのか?」

 だめ、ではない。
 けれど青太とは特別な用事がなければ話してこなかったから、今更、そんな普通の友達のような関わり方をするのは慣れない。
 青太と日常会話をしたことはほとんどないし、そもそも属している友人グループが違う。『こんなこと』さえなければ、飛鳥と青太の接点は隣の席であることくらいだ。
だから、こんなにも長い時間一緒にいて、お互いのコンプレックスを晒し合って、彼の本当の色が他の誰よりも綺麗な『青色』だということも知っているのに、青太の好きな食べ物も好きな本も誕生日も血液型も、飛鳥は何も知らなかった。
 飛鳥が黙っていると、青太は慌てて「嫌だったらもうしない」と一歩後ろに退がってしまった。それがなぜだか苛立たしく思えて、「嫌なんて言ってない」と強い語調で言い返してしまう。
 それから2人はうやむやなまま、通学路を並んで歩き始めた。

「瀬川は学校で勉強するのかと思ってた」
「今日は姉さんが帰ってくるから、早く帰るんだ」
「そっか」

 1分も経たずに、沈黙。青太は別の話題を探しているようで、目線を上の方でふらつかせていた。飛鳥も会話の糸口を考えてみるが、如何せん日常会話につながるような話題はどれも唐突に思えてしまって、なかなか言葉にできない。
 そうしているうちに青太が「あー」と呻いて、やがておずおずと口を開いた。

「白鳥さんは瀬川がやってること、知ってるのかな」

 予測していなかった姉の話題に、じわりと汗が噴き出す。声が震えないように、飛鳥はしっかりと息を吸って声を出す。

「知らないと思う」
「話してないのか?」
「話せるわけないだろ」

 飛鳥がそう言い捨てれば、青太は言葉を詰まらせて、その後にそうだよなあと零した。

「白鳥さんに、相談できたらいいなって思ったんだけど」
「姉さんは捜査官じゃないから、相談しても意味無いよ。それに」

 続く言葉で、舌が回らなくなりそうになる。

「……姉さんに、心配はかけたくない」

 とってつけたような、いい弟を演じるかのような台詞に、内側からフォークの切っ先で何度も突かれているみたいに、胸の辺りがずきずきと痛む。
 青太は「ああ」と頷いたが、肝心の自分自身がそれは違うと声を上げていた。心配をかけたくないのではなく、ただ自分のやっていることが露見して、姉に失望されたくないだけなのだ、と。

「白鳥さんは頼れないってことは、やっぱり、オレ達でどうにかするしかないか」
「どうにか、できるものなのか」
「どうだろう。でも、岬紅野の方から介入してこない限りはオレ達は普通にしていればいいし、もし介入されたとしても、あしらうことに専念すれば、回避できないわけじゃない」
「水島」
「ん?」
「水島は、紅野さんのこと、どう思ってるんだ」

 え、と青太の表情が凍りついた。眉は不安げに下がり、薄く開かれた唇からは、乱れた呼吸が漏れ出している。
 きっと彼はもっと楽しくて他愛ない話がしたかったのだろう。けど飛鳥は、どうしてもそこに踏み出せなかった。自分と青太が楽しく話している姿が、全く思い浮かばなかったのだ。
 やがて青太は、苦しそうな声で呟いた。

「正直、分からない」

 彼の、澄んだ水色の空を見ていた目が、汚れたアスファルトの上に落とされる。

「オレは、紅野さんのことを忘れたくてあの人と縁を切った。だから、あの人と会っていない1年間で、紅野さんのことは乗り越えられたって思ってた。でもこの前紅野さんと再会して、名前を呼ばれただけで、身体が動かなくなった」

 それは、青太が硬直してしまった飛鳥の腕を引いて、紅野の前から去ろうとしたときのことだった。それまで紅野に対して強く出ていた青太だったが、たった一つの言葉の鎖に完全に拘束されてしまった。

「好きとか嫌いとか、そういうのじゃないんだ。でも、どう足掻いても、オレにとって紅野さんの存在は大きいんだと思う。よくも悪くも、な」

 そして彼は、飛鳥の目を真っ直ぐ見て無理やりに笑った。その笑顔は彼なりの終止符なのだろう。
 飛鳥は曖昧な返事をして、青太から目線を外す。
 だが、すぐに肩を叩かれた。再び青太を見れば、彼は目線で前の方を示した。

「そこの自販機で飲み物買っていい?」
「寄り道しない、って」
「そんなことは言ってない」

 青太はへらっと笑って、すぐ前方にある自販機に駆け寄った。自分は特に買いたいものもなく、青太の横に立ち止まる。
 ふと青太は飛鳥を見て、それからふっと口角を上げた。

「なんだかんだ言って、待っててくれるんだな」
「早くしろ」
「はいはい」

 青太は楽しそうに、陳列されたペットボトルを眺めていた。色とりどりのパッケージがきらきらと輝く青太の黒い目に映りこんで、ビー玉のようでもあった。
 手持無沙汰になった飛鳥は、通学鞄からスマホを取り出す。待機画面にポップアップで、白鳥からの「7時頃に帰るね」というメッセージが表示されていた。すぐに、分かったと返信。既読はつかない。
 
「瀬川!」

 すると突然青太に名前を呼ばれ、飛鳥はびくりと肩を震わせてしまう。リアクションが大げさになってしまったのが恥ずかしくて眉を顰めながら青太を見やれば、彼はなぜか両手にペットボトルを持っていた。

「当たった!」
「何が?」
「カルピス!」

 青太は満面の笑みで、カルピスのペットボトルを飛鳥に差し出した。
 
「1本買ったらもう1本出てきたんだよ、だからほら」
 
 彼の笑顔があまりにも眩しくて、飛鳥はまばたきをした。カルピスの白に、鮮やかな青いパッケージはよく映える。それがとても甘そうで、飛鳥は喉の渇きを覚えた。
 ありがとう、とペットボトルを受け取ると、手の平から心地よい冷たさが伝わってくる。隣の青太が早速蓋を開けて飲んでいたから、飛鳥も少しだけ口内に流し込んだ。
 淡い甘みが舌の上に広がって、少しの酸味が最後に駆け抜けていく。冷たくて清涼感のある風味に、蒸し暑さによる倦怠感が僅かに和らいだ気がした。
 目の前を、同じ高校の女子生徒達が仲良さげにお喋りしながら通り過ぎていく。
 彼女たちから見れば、自分たちも普通の友達に見えるのだろうか。そんな思考は、次の瞬間には、ペットボトルに付いた水滴が指をくすぐって滑り落ちていく感触に掻き消されてしまった。

NEXT>>36