複雑・ファジー小説

3−6 ( No.36 )
日時: 2018/12/25 00:59
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: arA4JUne)

3−6

「ごめんね飛鳥。かなり遅れちゃった」
「ううん、大丈夫だよ姉さん」

 白鳥が帰ってきたのは22時半——約束から3時間以上過ぎた頃だった。

「出動があったんだよね」

 曰く、16時半頃に隣の市で発生した暴動の事後処理に想定よりもかなり時間がかかってしまったらしい。
 その暴動というのは、紅野が所属している『組織』の内部抗争のことだろうかと飛鳥は思ったが、白鳥が詳細を語ることは無かった。
 そしてそれは飛鳥にとっても些末なことだった。少なくともその時は、『組織』や内部抗争よりも飛鳥の意識を奪うには十分なことが別にあったのだ。
 飛鳥の目は、白鳥が帰ってきてからずっと、彼女の肩にかかる髪にずっと向けられていた。

「姉さん、髪が……」
「ああ、これ? へましちゃって、戦闘中に切られちゃった」

 白鳥の髪の一房が、肩の辺りで不自然に切れていた。彼女は恥ずかしそうに笑ったが、それが一層乱れた毛先を痛ましく見せる。

「本当は、戦闘員なら、髪は短くした方がいいんだろうね」
「切っちゃうの?」
「……このままにしておきたいかな。せっかくここまで来たんだし」
「ずっと伸ばしてるもんね、髪の毛」
 
 白鳥は頷きながら、無事だった方の髪の毛を愛おしそうに撫でた。どうしたって長髪では戦闘に支障をきたしてしまう。それでも彼女は髪の毛を短くしようとはしなかった。白鳥は決して愚かではないから、彼女なりに考えがあるのだろうと思って、飛鳥も特別それについて触れることはなかった。
 
「姉さん。何か飲む?」
「ううん。大丈夫」

 それよりも、と白鳥はソファに座って空いた隣をぽんぽんと叩いた。

「飛鳥」
「……うん」

 ついに、だ。ついに『大切は話』をするのだ。
 大好きな姉の隣だと言うのに空気は重く、飛鳥はその重さで動けなくなってしまう。

「私が話したいことは、分かってる?」
「うん」

 おそらく自分が戦闘員になりたいと言ったこと。それから2週間ほど前の夜、白鳥が初めて青太と出会ったとき、飛鳥があの廃工場にいたことについてだろう。
 白鳥は静かに息を吸って、口を開いた。

「飛鳥は本当に、戦闘員になりたいって思ってるの?」
「うん。本当に、思ってる」

 そう、と白鳥は呟いた。

「……飛鳥はずっと、戦闘員になりたいって言ってたもんね。中学に入る前から、ずっと」

 飛鳥が戦闘員に憧れを抱いたのは小学6年生の時だった。民間人を救う戦闘員。人員が少なく単独での戦闘を強いられることも多いが、たった1人で誰かの為に戦う彼らは本当にかっこよかった。紅い少年が残していった『ヒーロー』、その言葉を体現化したような存在を見て、自分も将来はそうなりたいと強く願った。まだ《COLOR》が発現する以前のことだ。
 中学生になって《COLOR》が発現したら——たとえつまらない《COLOR》だったとしても、血の滲むような努力で補完できると思っていた。戦闘員になる為なら、どんなに苦しい思いをしたって構わない。
 幼かった頃は自分が無色(colorless)だなんて思っていなくて。
 自分に《COLOR》がないことを知ったのは、中学2年生の時だ。それを境に戦闘員になりたいと言葉にすることは少なくなった。だが諦める気にはなれず、夢の残骸を引き摺ったまま今この瞬間に来てしまった。
 もう高校2年生だ。いい加減、現実を見てもいい年齢だ。だから白鳥も飛鳥と話をすることを決断したのだろう。
 飛鳥、と白鳥が言った。飛鳥は息を詰めて唇をきつく結んだ。

「飛鳥は、戦闘員にはなれない」

 握り締めた手が、震えた。

「『無色(colorless)』は、戦闘員にはなれないの」

 何を言われても動揺しない、と自分に言い聞かせていた。白鳥が言うことは正論なのだから、聞き入れなければいけない。しかしいざ言葉にされると、それは氷の破片のようで、胸の中に落ちていきながら体内のあちらこちらを切り裂いていった。
 
「……どうやっても、無理なのかな」
「『無色(colorless)』でも警察官にはなれる。けど、戦闘員にはなれない」
「姉さんが、僕が戦闘員にはなれないって言うのは、そういう『規定』があるからだろ」

 自分は一体、何を言っているのだろう。

「戦闘員の免許取得の第一条件は《COLOR》を所持していること。だから無色(colorless)じゃあ戦闘員にはなれない。その理屈は、通ってると思う。でも。でもさ、そんなのあくまで『規定』だし『ルール』じゃないか。
規定もルールも法もいつか変わるかもしれない。どうしてそれだけで、僕が戦闘員にはなれないって断定できるの」

 規定もルールも何も響かない。それらは不変ではない。どうしてそんなものに、自分が縛られないといけないのだろう。
 飛鳥の思考は加速する。最早、正常な動作はしていなかったが。

「姉さんは、どう思ってるの」
「え……?」
「『規定』じゃなくて、僕は、姉さん自身の考えが聞きたいんだ」

 白鳥は動揺して吃って(どもって)しまった。だが彼女は次に、先程と同じ言葉を、今度はより鋭さを持った声で言った。
 やはり、飛鳥は戦闘員にはなれない、と。簡潔な言葉だった。

「戦闘員の仕事は、ターゲットを倒すことじゃない。ましてや戦闘に勝利することでもない。民間人を守って、その上でターゲットを捕獲すること。それも、できるだけ無傷のままでね。その為には人一倍の努力は勿論、『才能』が必要になる。例えば、強力な《COLOR》を持っている、とか」

 日常生活においては《COLOR》を所持している人間と無色(colorless)の人間にはそれほど差は生まれない。しかし戦闘となれば話は別だ。戦闘において無色(colorless)は、圧倒的に無力だ。それは0と1の差に過ぎないのかもしれないが、あるか無いかの、決定的な差なのだ。
 ——でもね、水島青太さんと、飛鳥先輩では、生きているステージが違うんですよ。
 いつか海黒に言われた台詞が蘇ってきて、再びナイフの形になって飛鳥の胸を突き刺す。ああ本当に、その通りだ。

「……分かった? 飛鳥」

 うん、分かったよ姉さん。僕、もう一度考え直してみるね。
 ——とは、言えなかった。

「……無理だよ」

 俯いてしまった飛鳥を、白鳥は目を見開いて見つめる。

「無理だよ、今更。なんで、今更そんなこと言うんだよ。僕はそれしか見てこなかったのに、なんで、今更、諦められる訳ないだろ」
「飛鳥ッ」
「無理だって分かってるよ! それでも諦められなかったんだ。無理だって分かってて諦められなくって、駄目だって分かっててここまで来たんだ。今更、別のものなんて見られるわけない」
「飛鳥、戦闘員にはなれないって言ったけど、無色(colorless)でも警察官にはなれる。だから」
「だから? 警察官になれって?」
「考え方を変えろって言ってるの。別に人を助けるのは戦闘員じゃなくたってできる」
「諦めろってことじゃないか」
「ええ、そうよ。諦めて」
「嫌だ」
「飛鳥」
「やだよ」
「飛鳥!」
 
 その場から逃げようとした飛鳥の腕を白鳥はすかさず掴んだ。戦闘員らしく洗練された身体を持つ彼女は、自分よりずっと大柄な飛鳥を引き倒して、そのままソファの上に押さえつけてしまう。能力のある姉と何もない自分。力の差を見せつけられ飛鳥は抵抗する気力すら失ってしまって、覆いかぶさる姉を茫洋と見上げるほかなかった。
 部屋の照明が逆光になって、白鳥の表情はほとんど見て取れなかった。だが琥珀色の両眼が、自分を真っ直ぐに睨みつけている。

「……飛鳥は、無色(colorless)なの」

 冷たい、氷のような声が降ってくる。降り注ぐ。

「無色(colorless)はね、パワーバランスの一番下なの。《COLOR》に比べたらずっと非力なの。それで戦闘員になっても、飛鳥、すぐに死ぬよ」

 白鳥の切れてしまった髪の毛が目に入った。弱いところなんてないと思っていた姉ですら、傷つくことがあるのに、自分が無事でいられる筈がないだろう。

「心配なの、飛鳥のこと。飛鳥には何も響かないかもしれないけど、本当に、飛鳥には危険なことしてほしくないし、傷ついてほしくない。……あの夜、廃工場にいたのよね」
「……うん」
「理由は聞かない。でもこれ以上危険なことしないで。それから、あんな嘘、もう吐かないで」

 そう言って白鳥は自分から離れていった。いつも優しい笑みを浮かべている口角は強ばって、柔らかな琥珀色をした眼はひどく悲しそうに歪んでいた。
 そんな白鳥の顔を見ていられなくて、飛鳥は両腕で目を覆い隠してしまう。

「……飛鳥」
「うん、大丈夫だよ」
「ねえ、飛鳥」
「ごめん……僕、今、姉さんの顔見たくない」
「ん……分かった」
  
 目の前にあるのは暗い闇。白鳥がすぐ傍にいるのに、彼女の温度を感じられない。寒くて、まるで独りでいるみたいだった。

「私、出かけてくるから、鍵かけといて」
「帰ってこないんだ」
「どうせ明日朝早くから出なきゃいけないし、このまま署に戻った方がいいわ。早朝から動き出しても起こしちゃうでしょ」

 飛鳥は黙ったままだった。白鳥が荷物をまとめる音がして、ほどなくしてリビングの扉が開く音が聞こえた。

「おやすみ」

 飛鳥がおやすみを返すより早く、扉は閉ざされてしまう。だからおやすみと言えなかった。いや、元より言う気がなかったのかもしれない。
 誰もいない、何もない。秒針の音と冷蔵庫のモーター音だけが飛鳥を包んでいる。この音をどこかで聞いたことがある。そうだ岬紅野の家だ。ここは、岬紅野の家と変わりはしないのだ。
 それに気づくと、今度はどこかへ逃げ出したくなってしまった。今外に出たら白鳥と鉢合わせてしまうだろうか。そんなことを考えながら腕を外すと、時計の針は先程から既に半周していた。なんだ、もう姉さんはいないだろう。
 ぼやける視界のまま外に出る。夜の帳が下りた世界は、半袖で歩き回るには肌寒かった。しかし飛鳥は家に戻る気にはなれず、スニーカーで歩き出した。
 街灯の光が等間隔で道路を照らしているが、その白い光は夜を明るくしてくれず、むしろ寂しく見える。
 目的地はない。当てもなく歩いて、歩いて、ふと遠くの街灯の下に人影を認めた。そのシルエットに見覚えがあるような気がして、飛鳥はすぐに駆け寄った。
 
「……は?」
「……あ」

 右耳にピアスを煌めかせる少年。そこにいたのは、沖原灰慈だった。

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