複雑・ファジー小説
- 3−7 ( No.37 )
- 日時: 2018/12/25 01:00
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: arA4JUne)
3−7
「なんでこんなところに」
困惑する飛鳥を他所に灰慈は踵を返そうとする。待って、と飛鳥は慌てて灰慈のパーカーを掴んで彼を引き止めた。
灰慈は迷惑そうに飛鳥の手を振り払ったが、そこで素直に立ち止まった。
「なんで君がこんなところにいるんだ。しかも、こんな時間に」
「……お母さんに会いに来た」
「……お母さん?」
「でも『コレ』着けたままじゃ会えないから、戻ってきた」
灰慈はそう言いながら、指先で右耳のピアスを弄る。そんなの外せばいい、と言えば灰慈は驚いたような顔で飛鳥を見た。しかしすぐに、どこか寂しそうにして視線を落としてしまう。
初めて灰慈の姿を見た時、彼の耳にはもっと多くのピアスが着けられていたような気がする。けれど今は右耳の小さなピアス1つしかない。きっとただの外し忘れだろう。
それだけのことで「会えない」と口走る灰慈を飛鳥は不自然に思った。
「……離せよ。もう帰る」
「帰るって、ひとりで?」
「ああ」
「もう11時はとっくに過ぎてるんだ、危ないよ」
「アンタだってこんな時間にひとりで外にいるだろ」
「僕はいいんだよ。家、近いから」
灰慈は不服そうにして飛鳥を睨みつける。街灯の光を受ける灰慈の顔はやはり幼かった。それもそうだ、だって彼は3か月前まで中学生だったのだから。そう考えると、尚更彼をこのまま放っておくわけにはいかなかった。
うちにおいで、と飛鳥が言えば、灰慈は飛鳥への反抗で顰めていた顔を今度は怪訝さで顰めるのだった。
「なんで、アンタの家なんかに」
「最近、この辺りの治安は悪いんだ。『あの人』の傍にいる君が、気付いてないわけないよね」
岬紅野を示す言葉を放った瞬間、暗い目が分かり易く見開かれる。
「これからうろつくよりはずっといい」
灰慈は目を伏せて黙り込んでしまった。すぐに反論してこなかったのは、彼がいつも岬紅野の隣にいて、戦況を感じ取っているからだろうか。
長い間があって灰慈は静かに頷いた。しっかりとした首肯ではなく、こくり、と首を小さく動かしただけだった。
生み出す言葉は強いし棘がある、眼光も鋭い。その容姿さえも周りを拒絶するように作り上げられているのに、灰慈は出会ったばかりの飛鳥に大人しく従うのだということを知ると、飛鳥は漠然とした恐怖を感じた。
あんなに紅野を信仰しているようだったのに、それ以外の人物にも簡単に靡いてしまうのだ。意思が薄弱なのか、否そもそも彼に意思は存在するのだろうか。
飛鳥が歩き出すと、灰慈は口を閉じたまま飛鳥の後ろをついてきた。2歩分の距離は開くこともなければ近づくこともない。飛鳥は後ろを振り向かなかった。自分のとは違う足音はずっとついてきていたので、振り向く必要が無かった。
自宅に着くと、飛鳥は灰慈を連れて勝手口の方に回った。それから自分は鍵を使って玄関から入り、勝手口で待たせていた灰慈を家の中に入れる。灰慈はこんな時にも「失礼します」と小さな声で言った。
2階の自室に上がり、飛鳥はベッドの下から冬用の掛布団を引っ張り出して床に敷く。
「敷布団じゃなくてごめん。これしかないんだ。だから今日はここで寝て」
灰慈は黙って首を縦に振る。それから、カーペットに靴底が接地しないようスニーカーを裏返して、敷布団の頭の方にそれを置いた。
「タオルケットと掛布団があるんだけど、どっちを使う?」
「……タオルケット」
「分かった」
飛鳥は灰慈にタオルケットを差し出す。灰慈は両手で受け取ると、タオルケットを自分の上に広げた。しかし上体を起こしたままで寝転ぼうとはしなかった。ずっとタオルケットを握ったまま、自分の手元を見つめている。
「……寝ないのかい?」
「ああ……うん」
肯定か否定かも分からない曖昧な返事。飛鳥がベッドの上に身体を倒すと、灰慈もやっと横になった。
掛布団を肩まで引き上げる。外に出ていたせいだろうか、今日は少し寒い気がした。
飛鳥の部屋の窓から街灯の光は入らない。真っ暗だ。何も見えない。灰慈の控えめな呼吸音だけが灰慈の存在を教えてくれる。
「……灰慈くんは」
「その呼び方やめろ」
「慣れ慣れしかったかな」
「アイツと同じ呼び方するな」
「アイツって……海黒さんのこと?」
無言。肯定だろうと捉えた飛鳥は、彼を何と呼ぶべきか頭の中で考える。「沖原くん」や「沖原」は、今更という気もするし彼にとっては抑圧的かもしれない。だとしたら「灰慈」か。しかし瞬間紅野が脳裏を過ぎって、飛鳥は紅色の残映を払拭するように頭を横に振った。
「……君は」
結局出てきたのは、当たり障りのない二人称だった。
「どうして、こんな時間にあそこにいたの」
「さっき言っただろ」
「そうじゃないよ。どうして、君がこんな時間に外出できていたのかなって思ってさ。普通は、他の家族に止められるじゃないか」
「母子家庭だから。お父さんいないし」
「……なんかごめん」
「別に」
父親がいないことを打ち明けた灰慈の声に悲壮感はなく、彼にとって父親がいないということは、大したことではないのだろうなと何となく思った。
上手く眠れないのだろうか、灰慈の方から衣擦れの音が聞こえる。
「……紅野さんには、止められなかったのかい」
「……なんで紅野さんが出てくるんだ」
「だってあの人は君のことを気にかけてるみたいだったから」
「あの人は、家族じゃない」
重く、暗闇に沈んでいく言葉。
「そうか……そうだよね」
この同調が正しかったのかどうかは分からない。再び訪れた静寂が正解を提示してくれることもなかった。
これ以上話しても無闇に灰慈を傷つけるだけかもしれない、と飛鳥は唇を結んで、灰慈に背を向けるようにして寝返りをうつ。
けれど沈黙に綻びを作ったのは、独り言を呟くような灰慈の声だった。
「アンタは無色(colorless)なんだろ」
驚いて灰慈の方を向く。灰慈がどの方向を見ているのかは分からなかったが、確かにそれは自分に向けられていた。
責め立てるでも馬鹿にするでもなく、単純な事実確認。そう思わせるほど、灰慈の声音は無機質で抑揚が無かった。
「君にも、僕が無色(colorless)ってことが分かるんだね」
「いや、オレには分かんねえ」
「え?」
「紅野さんやアイツほど、オレの《COLOR》は強くない」
「ああ……そっか」
「紅野さんが何度もアンタの話するから、知ってるだけだ」
アンタが無色(colorless)だろうがどうでもいい、と灰慈は吐き捨てた。ついこの間まで、少なくとも飛鳥の方は灰慈を認知していなかった程なのだから、急に興味を持てということの方が難しい。
飛鳥が腹の底に抱える悩みなど、他人からしてみれば取るに足らないことらしかった。
「もし」
「……もし?」
「アンタにも——《COLOR》があるかもしれないって言ったら、どうする」
——取るに足らないことなのに、飛鳥の周りの『他人』は、それを何度でも刺激しては飛鳥を乱す。
「なんだよ、それ」
「……いや、何でもねえ。忘れろ」
「笑えない冗談はやめてくれ」
灰慈は返事をしなかった。冗談なのか本気なのか、彼の声音からは判断できなかった。否、どちらかといえば真剣だったような気がする。
ねえ、と灰慈に話しかける。応答はない。眠ってしまったのだろうか、と一番小さな明かりをつけると、仄かな橙の光で瞼を閉じた灰慈の横顔が明らかになった。彼の横顔は鼻先や頬のラインがまだ丸みを帯びていてあどけないものだったが、目の下の隈や絆創膏が、彼が普通ではないことを教えてくれる。右耳のピアスは着けられたままだ。
灰慈は敷いた掛布団の端を握って、身体に巻き付けるようにして眠っていた。タオルケットだけでは寒かったのだろう。初めから遠慮せず、掛布団の方を選べばよかったのに。
飛鳥は灰慈の手から布団を引き抜いて、自分の分の掛布団を彼にかけてやった。
それから別の毛布を取りに、自室のドアを静かに開けた。
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