複雑・ファジー小説

3−8 ( No.38 )
日時: 2019/01/15 22:43
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: akyskkyw)

3−8

 翌朝、飛鳥はいつもより遅い時間に登校した。夜の間はよく眠れなくて、5時頃に灰慈をこっそり家から送り出してからもう一度眠ったところ、寝過ごしてしまったのだ。
 久々に母親に起こされて、体調は大丈夫かと心配までされてしまった。母は飛鳥に何かあると白鳥に相談することが多いから、姉さんにだけは言わないでと頼んで、朝食も摂らずに家を出てきた。

 ——アンタにも《COLOR》があるかもしれないって言ったら、どうする。

 灰慈の言葉が回らない脳内を埋め尽くしている。
 もし、自分に《COLOR》があるとしたら。
 答えは簡単には出なかった。「あるとしたら」の仮定ばかりが頭の中を占めていて、その先を思考することができない。
 ふと見上げた空では図体の大きい不気味な怪物のような雨雲が蠢いていて、それを見ていると眩暈がしそうになった。
 教室に入ったのは授業開始の10分前だった。重苦しい空気が生徒たちをこの狭い室内に閉じ込めてしまったようで、教室内は騒々しい。飛鳥はクラスメイトに「おはよう」とか「遅かったね」とか声を掛けられ、適当に返事をしながら自分の席に行くと、隣席には青太の姿があった。青太は珍しく自分より早く学校に来ていたようだった。

「おはよう瀬川」
「……おはよう」
 
 自然に笑いかけてくる青太に、飛鳥は不愛想なまま挨拶を返す。
 青太は1限目の予習をするのではなく、かといって窓の外を眺めているのでもなく、机上の1枚の紙をぼうっと見つめていた。飛鳥の机にも同じ紙があった。いくつかの欄があって、一番上に「進路希望調査票」の文字が大きく印刷されていた。

「来週の水曜日までに提出だってさ」

 そう教えてくれた青太の進路希望調査票には、彼のクラスと出席番号を名前しか書かれていない。大抵の生徒は附属の鏡大学に進学するから、青太もエスカレーター式に内部進学するものだと思っていたが、彼は外部進学と内部進学のどちらかに丸を付ける欄すら空白のままにしていた。
 それを見つめていると、青太に気付かれて「どうした?」と訊かれる。

「内部進学じゃないんだなって思っただけ」
「ああ。どうしようかなって、悩んでて」
「どうしようか……」
「将来の夢とか目標とか決まってないし、なのに私立に行くのもなって思ってさ。学費高いし」
「……ちゃんと考えてるんだね」
「そんなことないさ」

 青太は照れ臭そうにして、進路希望調査票を机の中に仕舞った。

「瀬川は?」
「僕?」
「内部進学するのか?」

 進学——首を絞めつけられるような心地がした。高校2年生の夏。1年生の内は有耶無耶にできていたことも、刻々と迫る受験期に向けてそろそろはっきりさせなければいけない頃だ。
 飛鳥は、内部進学はしたくなかった。

「いや。外部に行くよ」
「そうなのか。府外?」
「分からない。まだ決めてないから」

 そっか、と青太がころころと笑う。
 飛鳥は机の横にかけた鞄からペンケースを取り出すと、プリントに自分のクラスと出席番号と名前を書いた。それから内部進学か外部進学を選択する項にペン先を滑らせていき、やや逡巡してから「外部進学」に丸をつけた。
 次に、進学を希望する大学名を記入する欄。そこで飛鳥の動きは完全に止まってしまう。第一志望の大学は中学生の時から決めていた。しかし、それを書くのが恐ろしかった。
 だから飛鳥は大学名より先に、学部名を書いた。飛鳥のペン先を見ていた青太が「法学部かあ」と呟く。

「人の調査票見るなよ」

 調査票を引っ込めると、ごめん、と全然申し訳なくなさそうに謝られた。

「すごいな、法学部って。じゃあ将来は弁護士とか検察官とか?」
「いや……」

 飛鳥は青太から目を逸らした。喉が痙攣する。青太なら絶対に馬鹿にしたり否定したりしてこないのは分かっていたが、音にするには自信が足りない。

「……警察官に、なりたくて」
「そっかあ警察官か、かっこいいな」

 どうにか声にした言葉に、青太は素直に関心してくれた。妙に納得したような顔をしているのは、白鳥のことを思い浮かべたからだろうか。

「瀬川はなりたいものが決まっててすごいな」

 青太が濁りのない深海色の目をきらきらさせて飛鳥を称賛するのは今までに何度もあったが、今回ばかりは、飛鳥はこのまま無限の奈落へ落ちて行ってしまうのではないかと思う程の居心地の悪さを感じていた。
 警察官になりたいというのは真っ直ぐな本心ではない。確かに警察官にはなりたいけれど、本当は、警察官の中でも《COLOR》犯罪対策を専門にする『戦闘員』になりたい。
 無色(colorless)の分際で不相応な夢を描いてしまっている。だから第一志望の大学名を書くことができないのだ。

 吾妻あづま大学——それが飛鳥がずっと望んできた大学だ。
 文系と理系両方の学部を有する、一見すれば普通の大学だが、吾妻大学法学部は多数の警察官を輩出していることで有名だった。警察官輩出でよく知られる大学は他にも幾つかあるし、国公立や私立に関わらずどの大学に行っても警察官にはなれるが、吾妻大学には日本で唯一、戦闘員を育成する為のコースがある。
 白バイ警官と同じで、戦闘員の訓練を受けられるのは警察官として採用されてからだが、吾妻大学では警察官になる前から戦闘員の訓練を受けられる。20代前半で既に戦闘員として前線で活躍しているような人は皆、吾妻大学の卒業生であり、姉の白鳥もそこで戦闘員の訓練を受けた。
 姉が大学生の内から訓練を受ける姿を見て、飛鳥も同じようになりたいと思っていた。まだ無邪気に夢を見ていられた自分は、絶対にそうなるんだと心に決めていたのだ。
 その夢を見苦しく引きずり続けてしまうくらい、強く。
 偏差値が足りないわけじゃない。寧ろ、飛鳥の成績なら余裕で合格できるだろう。担任にはもっとレベルの高い大学を受験した方がいいと言われるだろう。吾妻大学でなくても警察官にはなれる、と。もし「戦闘員になりたいから」なんて言ってしまったら。おそらく「戦闘員にはなれない」と突きつけられるだけだ。
 だから、書けない。

「……水島は?」
「オレ?」
「将来の夢とか目標とか無いにしても、興味あることとか、ないの」

 心の痛みから逃れるために、青太に話を振った。青太は天井を仰いでしばし悩む。

「……経済学とかは、無理かなあ。数学苦手だから」
「経済学」
「うん。それから文学とか、言語にもあんまり興味ないし、哲学とか宗教もよく分かんないし……」

 少し、意外だと思った。青太が後ろ向きな発言をする印象が無かったのだ。

「どうした?」
「何でもないよ」

 意外だと思ったのが顔に表れていたらしい。青太に訝しまれて、飛鳥は慌てて取り繕う。
 青太は首をかしげて不思議そうにしていたが、また自分の思考に入ってしまった。それから唐突に、低く、優しく、澄んだ声で呟いた。

「——でも、人の役に立つことがしたいな」

 ああ、水島らしい。

「それなら、福祉とかが合うんじゃないの」
「福祉?」
「うん。うちの大学だったら、社会学部で専攻できたはずだよ」
「そっか、福祉か……」

 青太は1人で何度か「ふくし」と繰り返していた。それが心の中に上手く落ちていったようで、ちょっと考えてみる、と嬉しそうに言ってきた。胸の片隅がほっと温かくなった。
 
「まあ福祉以外にも、教育学とか、あとは心理学とかも」

 調子にのって言葉を続ける。すると青太は最後の言葉に反応して、眉根を顰めて、直後に不自然な笑顔を作った。

「あー……『心理学』は、いいかな」
「……ああ、そうだね」 

 青太の反応の理由は訊かずとも察することができる。きっと心理カウンセラーの『あの人』を思い浮かべたのだろう。
 青太は自分の進路希望調査票を机から引っ張り出して、隅に「福祉」とメモをした。それと同時に、彼は別のクラスメイトに呼ばれて席を立った。
 飛鳥はもう一度、瀬川飛鳥と記名された紙に目を落とす。今回も第一志望に吾妻大学とは書けないだろう。飛鳥は担任から薦められていた関東の国立大学の名前を書いて、調査票をクリアファイルに入れた。
 始業まであと3分だが、青太はクラスメイトと話し込んでいるようでなかなか帰ってこない。
 飛鳥がノートと教科書を机上に出していると、右隣に座る潮田から話しかけられた。

「飛鳥くんって、意外と水島くんと喋るんだね」
「まあ、隣の席だから」
「友達になったの?」

 潮田にそう訊ねられて、飛鳥はちらりと隣の空席を見た。
 自分は本当に卑怯な人間だと思った。

「別に……友達じゃないよ」

 力なく呟いた言葉は、冷たいまま机の上に落ちていく。
 青太が席に戻ってきてすぐに授業開始のチャイムが響いた。

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