複雑・ファジー小説
- Re: アスカレッド ( No.40 )
- 日時: 2019/06/26 00:14
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: wZJYJKJ.)
3−10
岬家は相変わらず静かだった。そして玄関に置かれている靴も少なかった。飛鳥は青太のスニーカーの隣に自分の黒いローファーを並べて、静かにフローリングに上がる。家全体に冷房が効いているのか、それともこの家を温める人間がいないのかは分からないが、初夏とは思えない程に床はひんやりとしていた。
昨日灰慈が履いていたあのくたびれたスニーカーは、そこにはなかった。
海黒がリビングの引き戸を開けると、クーラーの冷気が流れ出てきて足元から這い上がってくる。
岬紅野は大きなガラス窓の前にいて雨雲を見上げていた。しかし飛鳥たちの気配を感じ取ると、頭だけ振り向いて、紅い目を細めて笑った。
「青太」
飛鳥も海黒もその場にいたのに、彼は青太ただ1人の名前を呼んだ。
「立ったままはなんだから、座ってくれ」
紅野は目でリビングの椅子を示す。重い足取りでリビングに入った青太だったが、その足は椅子の前で止まる。
「水島、立ったままじゃ埒が明かない」
飛鳥が後ろからそう言ってやっと、青太は奥の椅子を引いて座った。飛鳥もその隣に座る。紅野は机を挟んで、2人の丁度真ん中にあたる位置まで車椅子を動かした。
「久しぶりだね青太。会えて嬉しいよ」
視線を隣に滑らせて窺った青太の横顔は、今までに見た中で最も緊張して、最も恐い表情をしていた。青太の目線は上がらない。彼はずっと机の真ん中を睨み続けている。
「……この前も会ったじゃないですか」
「うん、そうだね」
「白々しい」
「でもこの前は、大して話もできなかっただろ」
ねえ、と突然、飛鳥は同意を求められた。投げかけられた細い紅玉から、思わず目を逸らしてしまう。
「青太、学校は楽しい? ——『俺が勧めた』学校は」
ぎり、と奥歯が擦れる。青太が悔し気に下唇を噛む前で、紅野は楽しそうに続ける。
「10月頃だったかな。青太は成績がよかったから、鏡高校を目指したらどうかって、丁度ここで言ったね。青太の中学校は鏡高校から遠かったし、青太の同級生でそこに進学する子は少ないだろうからって。——連絡がとれなくなって、完全に嫌われたんだと思ってたから、まさかそこに進学してるなんて想像もしてなかったけれど」
紅野は笑みが、決して醜悪な物ではなく寧ろ相変わらず柔らかで優しいものだったから、飛鳥は紅野の顔を直視することができなくなった。
「『俺の言う通り』にしてくれるなんて、青太はやっぱりいい子だな」
「アンタの言う通りになんかしてない、オレはオレで決めたんだ」
「でも俺の思い通りに動いたじゃないか」
瞬間、椅子が乱暴に投げ出され、隣を見れば青太が今にも紅野に掴みかかろうと机上に身を乗り出していた。
でも完全に掴みかかるには机越しでは遠すぎて、青太の体重で押された机は紅野の方に傾いている。このままでは車椅子の紅野もろとも青太まで倒れてしまう、と飛鳥は慌てて青太の袖を鷲掴んで、なんとか彼を机から引き剥がした。
「——お前なんか嫌いだッ!」
飛鳥に腕を掴まれたまま青太は叫んだ。悲しく、痛々しい絶叫だった。
しかし、紅野の表情は一寸たりとも変わらなかった。
青太を落ち着かせ椅子に座らせると、飛鳥も席に着き直す。その時海黒が奥のキッチンからトレーを持って現れた。かたん、と机上にカップとソーサーが置かれると、紅色の水面が音もなく揺れた。
端の方は色が薄くて、真ん中の方は濃い紅が沈んでいる。紅野の瞳を思わせるそれは、どうやら紅茶のようだった。
先程の緊張状態が僅かばかり緩んだ為だろうか、唐突に喉の渇きを感じた飛鳥はカップの持ち手に指を添え、ちらりと海黒の方を見た。彼女は小さく首を横に振った。危険な物は入っていないらしい。
だからカップを持ち上げて、少しだけ飲んだ。甘酸っぱい果物の香りが鼻を抜けていく。苺に近い酸味と甘みがあるが苺とは微妙に違う味。飛鳥が知っている限りでは柘榴の味に似ていた。
「お兄ちゃん。私、部屋に行ってた方がいい?」
「そうしてくれると助かるよ」
「うん、分かった」
海黒は頷くとすぐにリビングを出ていった。
紅野も海黒が淹れた紅茶を一口飲んだ。青太は一切それに手を付けず、力なく俯いていた。
「……あの」
「ん、何かな?」
「今日僕たちを呼んだ用件は何ですか」
「ああ、そうだね」
紅野はカップを置くと、柔らかく微笑んで、問いかけた飛鳥ではなく項垂れる青太を見た。
「青太のカウンセリングを再開したいと思っているんだ」
え、と青太が顔を上げる。紅を映す深海の瞳が揺れている。
「治療の途中で青太と連絡手段がなくなってしまったから、カウンセリングも中途半端なままなんだ。青太が今の高校生活を安定して送れているのならいいけど、さっきのように、まだ不安定さが残っているみたいだからね。このままじゃ、青太だって辛いだろう」
カップの持ち手を指先で撫でながら、彼は淡々と言った。でも飛鳥には、青太がそんな提案に乗るとは思えなかった。きっと彼は禍根が残るこの家をこれ以上訪れたがらないだろう。
しかし紅野は、まるで飛鳥の思考を読み取ったかのように言葉を重ねた。
「でも青太は自分からじゃここに来たがらない。だから、飛鳥くん、君に青太をここに連れてきてほしいんだ」
「僕ですか……?」
「なんで、瀬川は関係ないだろっ」
「青太」
紅色の鋭い眼光が青太の喉元に突き刺さる。青太が口を噤んでしまうと、彼は満足そうに笑って、机の上で手を組んだ。
「どうかな」
「……水島をここに連れてくることはできません。水島も嫌がっているし、僕にも何のメリットもありませんから」
「そうか。でも、メリットなら提示できるよ」
「……何ですか」
「ここに来てくれたら、君に『可能性』の話をしてあげよう——君が『無色(colorless)ではない』という可能性の話、をね」
——アンタにも《COLOR》があるかもしれないって言ったら、どうする。
一瞬、灰慈と紅野の声が重なって、思考回路に絡まって。不協和音になって際限なくループを始めた。
『無色(colorless)ではない』可能性。今までの人生をまるっきり覆すような可能性。そんなの本当にあるのだろうか。だってもし自分に《COLOR》があったとしたら、傷ついて、誰かを傷付けてきたこれらの事実は、一体どこに葬られてしまうのだろうか。
しかし飛鳥はそれ以上に、灰慈のことで頭がいっぱいだった。紅野は絡んでいないと思って彼を家に泊めたのに、彼の発言は紅野の指示によるものだったのかもしれないのだ。飛鳥は、布団で小さくなって眠っていた沖原灰慈に裏切られたような気分になった。
こめかみの辺りに視線を感じて、見れば青太が心配そうに、横目でこちらを窺っていた。自分のことで精一杯なくせに、他人の心配なんてしてる場合じゃないだろう。人の不安を全部受け止めきれるわけじゃないくせに。だから紅野に付け込まれるんだ。
なんて、とても言えやしないけれど。
紅野は、今すぐに答えを出す必要はないと言った。それから青太としばらく問答を繰り返していた。青太は黙りこくっていて紅野の問いにはほとんど答えなかったが、紅野の言葉が増えていくにつれて、ぽつりぽつりと短い返答をするようになった。
会話から外された飛鳥は、残った紅茶を飲んだ。最初から冷えていた紅茶は時間が経っても冷たいままで、この部屋だけまるで、時の凍った世界に在るように思えた。
岬家から出た2人は海黒に帰路の途中まで案内されて、最後の横断歩道の前まで来た。あとは道なりに真っ直ぐ進むだけだと教えてくれた海黒に礼を言って、飛鳥は信号機が青に変わるのを待った。
ふと、海黒が動かないままずっと青太を見つめているのが、目に入る。
「水島に言いたいことでもあるのかい」
「……いえ。今はいいです」
海黒が言ったのはそれだけだった。さようなら、と踵を返した彼女の背中を見送っているうちに、信号機は青に変わった。
しかし歩き出してすぐに、青太の足音が聞こえないことに気付いた。
飛鳥が振り返ると、青太は信号機の下にいて、俯いたまま口許を手の甲で押さえていた。
「……水島?」
雨音の中で、彼の返答は聞こえなかった。垂れ下がった前髪のせいで彼の顔も見えない。
嫌な予感がした。
青太の肩が上下に揺れ始める。それが徐々に大きくなっていく。口許にあった手は、胸元を強く握り締めた。
そうして、砂の城が崩壊するように、彼は膝から頽れた(くずおれた)。
寸でのところで飛鳥は青太の身体を支える。近付けばぜえぜえと、彼の異常な呼吸が鮮明に聞こえた。過呼吸だ。はっと息を吸う音と、冷たい風のような、全てを切り裂く甲高い音が間を置かず交互に繰り返され止まらない。
飛鳥はどうしていいか分からず、ただ青太の背中を擦った。こんなことは初めてだった。青太の顔からみるみる内に色が失われていくのを見て、自分の手まで震えそうになった。歪に軋み停止していく脳味噌に、濁って掠れた呼吸音が流れ込んでくる。青太の名前を呼ぶことすらできなかった。
青太の方に傘を傾ければ、2人の傘は窮屈に折り重なる。青太の傘の露先から雫が落ちて、飛鳥の袖を冷たく濡らした。
その内に、信号機はまた赤色に変わってしまった。
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