複雑・ファジー小説

3−11 ( No.41 )
日時: 2019/03/17 23:01
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: 9J1bMPkW)

3−11

「……やっぱり、怖いな。『紅野さん』は」
 
 青太は依然青ざめた顔のまま、そう呟いた。
 横断歩道のところで過呼吸で蹲ったときから、青太は顔を上げようとしない。黒い前髪が覆い被さってしまって青太の表情を見ることもできない。ただ彼の顔色が悪いことだけは分かっていたから、飛鳥はそれ以上青太を見ないようにしていた。彼を真っ直ぐに見つめると、胸の奥から冷たいものがせり上がってくるようで、目を逸らすしかなかったのだ。
 車窓の向こうで走り去る景色は次第に緩やかになり、やがて止まる。停車時の揺れでバランスを崩しかける青太を支えたとき、リュックサックを抱える青太の手が震えているのに気が付いた。
 早く彼をどこかに座らせてあげたかった。しかし退勤と下校が丁度重なった午後18時過ぎの車内は人で溢れていて、空いている席は見当たらない。
 最初は満員電車に青太を乗せることすら躊躇った。だが飛鳥は、それよりも青太を早く帰宅させるべきだと考えた。慣れない土地にいるよりは、慣れた自分の部屋にいた方が少しは気持ちが和らぐかもしれない。せめて青太が乗客たちの塊に圧し潰されてしまわないよう、青太をドアの近くに立たせ、自分は他の乗客と青太の間に立った。青太はリュックサックを胸に抱え、壁に凭れ掛かっていた。
 ほどなくして電車は再び動き出す。次の駅で降りることを伝えると、青太は小さく頷いた。飛鳥は乗り換えがあるから下車しなくてはならないが、青太はこのまま数駅行けば自宅の最寄り駅に着くらしい。
 彼を独りきりにするのは不安だった。でも、自分が一緒にいて青太に何かをしてやれる自信もなかった。

「瀬川」

 青太が、またぽつりと零す。
 
「ごめん」
「……そんなの、いいよ」

 何も悪いことなんてしてないのだから謝らないでほしかった。謝られると、まるで自分が青太を迷惑に思っているかのように錯覚してしまう。

「なあ、瀬川」
「なに」
「オレ、また、紅野さんのとこに行かなくちゃいけないのかな」

 心が弱いままだから、と青太は怯えているようだった。行かなくていい、と伝えると彼は僅かにほっとして、それから窓の外に目を向けた。飛鳥も同じように外の景色を目に映す。沈みゆく夕日の前で、見慣れた風景のシルエットが見え始めた。

「行く必要ないよ。僕も、君をあの人のところに連れて行こうなんて思ってないし」

 そっか、とか細い返事。飛鳥は、それからは黙っていた。
 次の駅が近づいてきて、乗客たちはドアの近くに寄り始める。青太が潰されないようにしながら、飛鳥は預かっていた青太のビニール傘を、席が空いたら早く座れという言葉と共に彼に渡した。
 空気が抜けるような音を立ててドアが開き、車内に入り込んでくる外気とは逆に、人々はホームへ溢れ出していく。

「せがわ……っ」

 青太に呼ばれて、飛鳥は振り向いた。

「水、ありがとな」

 青太はリュックサックのサイドポケットからわざわざペットボトルを抜き出して、飛鳥に笑いかけた。横断歩道の近くの自販機で買って青太に飲ませたものだ。
 たった100円とちょっとのミネラルウォーターのペットボトルを、青太はとても尊い物のようにしっかりと持っていた。
 しかし飛鳥は降車する人の波に押されて、青太の笑顔に何の言葉も返すことができなかった。

 電車から降りた飛鳥は、そのままホームでしばらくぼうっとしていた。壁に貼られた大きな広告の情報なんか一切頭に入ってこない。次の電車がホームに滑り込んでくる。無機物の風に袖口を煽られて、飛鳥はやっと我に返った。飛鳥はその時、青太が乗った電車から降りて初めて、自分が緊張から解放されたのだと気付いた。
 JRから阪急に乗り換えるため、飛鳥は改札口へ向かう。学校の最寄り駅ともなると同じ高校の制服を着た生徒があちらこちらに見えて、飛鳥は無意識のうちに構内の端を歩いた。
 ふと前方に、既視感のある『色』がちらつく。
 黒でもない、白でもない。どちらともつかない、煤を被ったような灰色の髪の毛。
 今朝とは違って、パーカーではなく飛鳥と同じ高校の制服を身にまとった彼は、行き交う人波の中を頼りない足取りで歩いていて——彼がたまたま顔を上げた時、その半透明の瞳と、吸い寄せられるように目が合った。
 飛鳥は慌てて俯いた。しかし予想外だったのは、灰色の少年——沖原灰慈の方から近付いてきたことだ。
 意を決して目線を上げ、再び灰慈を目を合わせる。半ば睨みつけているようなものだった。灰慈は足を止め、はく、と口を開く。けれど音が喉でつっかえて言葉が出てこないようで、唇を何度も開閉させていた。

「……なんだよ」
「……昨日は……泊めてくれて、ありがとうございました」

 そうして、頭を下げられる。まさか見るとは思っていなかった灰慈のつむじが見えて、飛鳥は「え」とたじろいた。
 不器用なお辞儀をした灰慈は、不安げに頭を上げるとしばらく飛鳥の様子を窺っていたが、飛鳥が黙ったままなのを鑑みて無言で踵を返そうとする。
 でも彼には訊かなければいけないことがある。紅野のこと、そして、飛鳥にも《COLOR》があると言った発言の意図。
 飛鳥は灰慈の腕を掴み、「ちょっと来て」と駅地下の駐車場へ歩き出した。灰慈は困惑の声を漏らしたり、その場に留まったりしようとせず、驚くほど従順に飛鳥について来る。彼の腕は、16歳の少年にしては細く、硬い気がした。

「僕に『《COLOR》があるかもしれない』って言ったのは、紅野さんに命令されたから、なのか」

 飛鳥の第一声は、人気のない地下駐車場に重く反響した。眉を顰め目を見開くものの何も言わない灰慈に対し、飛鳥は言葉を重ねる。

「今日、紅野さんに会ってきた。それで、僕が『無色(colorless)じゃないかもしれない』って言われた。沖原灰慈、君が昨晩あんなことを言ったのは、僕を動揺させるためだったのか」
「……違う。紅野さんには何にも言われてない」
「じゃあどうしてあんな——」
「なあ」

 突然言葉を遮られ、飛鳥は訝し気に片眉を上げる。
 灰慈はすぐには続きを言わなかった。自分の制服の裾を握り締め、そして浅く息を吸った。

「このこと……オレが、アンタに『《COLOR》があるかもしれない』って言ったこと、紅野さんには言わないで」

 しばし逡巡して、分かった、と飛鳥は答えた。灰慈の目があまりにも真剣で、それ以外に言いようがなかったのだ。

「紅野さんには言わない。でも」
「でも……?」
「その代わりに、どうして僕に『《COLOR》があるかもしれない』って言ったのか、教えてほしい」

 暗色の瞳が大きく揺れる。言葉を詰まらせる彼に「言わないと紅野さんに全部伝える」と強く畳みかけると、全部知ってるわけじゃないという前置きの後、灰慈は小さな声で話し始めた。

「《COLOR》は外部から、意図的に強化できる可能性がある。それで、紅野さんは《COLOR》を強化する方法について調べてる」
「《COLOR》の強化……?」

《COLOR》を端的に言い表すとしたら、火事場の馬鹿力。つまりその詳細は、窮地に追い詰められた時、生存本能によって人間の潜在能力が解放されること。《COLOR》とは潜在能力が具現化したものだ。
 姉の白鳥や青太、海黒のように《COLOR》の出力を自由自在に操れる人間は存在する。けれどそれはあくまで『自身の《COLOR》』は操れるということであり、『他者の《COLOR》』を操作するのは不可能だというのが現在の常識だ。
 しかし灰慈は、『他者の《COLOR》』を外部から操れるかもしれないと確かに言った。

「人間が究極まで追い詰められて《COLOR》が発現するなら、外側からストレスを与えてそれの出力を上げたり……《COLOR》が発現していない無色(colorless)の《COLOR》を引き出したりもできるんじゃないかって、紅野さんは考えてる」
「……だから僕にも『《COLOR》があるかもしれない』って」
「ああ」
「……外側からのストレスっていうのは」
「身体面と精神面がある。精神面なら、介入したい《COLOR》の所持者にプレッシャーを与えて精神を摩耗させる。自己肯定感を削いだり外界への不信感を煽ったり、そうして少しずつ対象の余裕を奪っていけば」

 それは、いつか、精神崩壊を起こして、それと引き換えに《COLOR》が発現するかもしれないという可能性で。

「精神崩壊まで追い詰める必要があるかは分かんねえ。でも、紅野さんが考えていることは……そういうことだと思う」

 飛鳥ははっと息を吸った。喉が痺れるような、嫌な空気だ。傘の柄を握る自分の手は汗で湿っていて、小刻みに震えていた。

「なら……岬紅野は僕を試験体にするために、あんなことを言ったのか」
「紅野さんはそんなことするような人じゃない」
「でも」
「紅野さんには紅野さんの考えがあるんだ。何にも知らねえくせに、紅野さんのこと悪く言うな」

 突然声を荒げた灰慈に、飛鳥は口を噤んだ。鋭い言葉が高いコンクリートの天井にすべて吸い込まれた後、「君も全て知ってるわけじゃないんだろ」と静かに突きつけると、灰慈は唇を噛んで俯いてしまった。
 恐らく、紅野の目的は《COLOR》の強化の調査ではない。紅野の経歴は知らないが、一般人が考え付くようなことなど、自分達よりもずっと頭が良くて知識のある——それこそ、国家直属の碩学せきがくによって調査も研究も進められている筈だ。だから民間の中で、高校生まで使ってそんな調査をする必要はない。
 紅野の目的はきっと、《COLOR》の強化を手段としたその先にある。
 灰慈は自身の爪先を見つめたまま、震える声で零した。

「オレがこんなこと話したの、紅野さんには……絶対に言わないで、ください。こんなのばれたら、オレ、紅野さんに嫌われる……」

 灰慈が寂しそうに訴えるのを聞いて、飛鳥は、ますます居心地の悪さを感じた。

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