複雑・ファジー小説

3-12 ( No.42 )
日時: 2019/06/25 22:51
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: wZJYJKJ.)

3−12

 青太と一緒に下校することになったのは、本当に偶々だった。青太が飛鳥を待ち伏せしていたわけでも、飛鳥が青太を呼び止めたわけでもなく、偶然下足場で鉢合わせただけだ。

「瀬川はこれから帰るのか?」

 青太のスニーカーが、コンクリートの床の上にぱたっと落ちる。飛鳥はローファーを履きながら、首を横に振った。 

「いや、塾があるから。塾に行く」
「そっか。どっちにしろ駅に行くだろ」
「うん」
「オレも」

 ついて来るな、なんて意地悪なことは言えなかった。弱っている同級生に対してそんなことは言えない。
 今朝、青太は始業時間ぎりぎりに登校してきた。青太はいつも始業5分前に教室に入ってくるから、普段より少し遅いくらいだった。飛鳥の隣に座った彼は、まるで昨日路上で過呼吸になって蹲ってしまったのが嘘かのように元気で、いつもどおり飛鳥に「おはよう」と笑いかける。
 おはよう、と飛鳥も小さな声で返した。あくまで、くじ引きで隣同士になっただけのクラスメイトにかける挨拶だと思われるように。他の生徒に自分たちが放課後に会っているのを知られてはいけないような気がしていた。
 たった4文字を発することにすら怯えてしまうような自分とは違って、青太は強い。そんなことは既に知っている。だが青太が虚勢を張っていることは、飛鳥にはすぐに分かった。
 何物に対しても、折れず、挫けないと思っていた彼は岬紅野というたった1人の男の前に立っただけで簡単に崩れた。昨日の今日で岬紅野の影響を払拭できるはずもない。
 青太が瞬きをすると、睫毛にかかる前髪が静かに揺れる。目を凝らして初めて、彼の目の下に薄い隈ができているのに気付いた。やっぱり眠れなかったのだろう。だからいつもより遅く学校に来たのだ。
 それを理解してもなお、飛鳥は教室の中で彼に特別言葉をかけることはなかった。
 だから飛鳥は、青太が自分より半歩遅れて歩いているのを感じながら黙って歩いた。相変わらず2人の足音は僅かにずれていた。
 学校を出てほどなくして鮮やかな色をした自販機が視界に入る。瞬間、口内に甘いような、酸っぱいような味が蘇ってくる。この前ここで水島にカルピスを貰ったんだっけ、と青太と並んでカルピスを飲んだのが遠い昔のことのように思えて、飛鳥は思わず一瞬自販機の前で足を止めた。
 そこで、通学鞄の中のスマホが震えているのに気が付いた。5秒以上続くバイブレーションはLINEやショートメールではなく、非通知からの着信だった。

「誰?」
「……知らない」

 適当に「母さんから」などとでも言っておけばよかったのだろうが、飛鳥の言葉を聞いて青太は眉を顰めた。
 
「別に、危険なものじゃないと思うよ」
「でも」
「電話に出たからってすぐに危険に晒されることもないだろ」

 心配しすぎだ、と青太を見遣ると、彼は寂しそうに俯いて数歩後ずさった。きつい語調だっただろうか。青太の表情から彼の心情は読み取れなかった。
 仕方なく飛鳥は通話ボタンの上に親指を滑らせて、そっと押す。

『——もしもし』

 スピーカーの向こうから聞き慣れた少女の声が聞こえてきた。まさか非通知の正体が海黒だとは想像していなかった飛鳥が、小さな驚きでしばらく声を出せないままでいると、もう一度呼びかけられる。

『飛鳥先輩?』
「……あ、えっと、海黒さん?」
『はい。岬海黒です』
「どうして非通知から?」
『今、この前まで使ってたのじゃなくて自分の携帯から電話かけてるんです。この間電話番号教えたじゃないですか』
「ああ……そうだったね」

 確かに、1人で岬紅野と会った帰りのタクシー乗り場で、『プライベートの』携帯電話の番号を教えられていた。だがあの時は、海黒が泣いていたのに気を取られて連絡先に登録するのを忘れていたのだ。
 
「それで、どうして僕に電話を」
『飛鳥先輩に訊きたいことがあって』
「訊きたいこと……?」

 はい、と細い返事が聞こえて、海黒の言葉が若干の間を伴って途切れる。それから彼女ははっきりと、灰慈くん、と言った。

『……今日、学校に灰慈くんが来てたか知りませんか』
「……知らないな。学年も違うし、そもそも僕は彼が何組なのかも知らないから」

 そうですよね、と少し落胆したような声が返ってくる。彼女はそのまま「ありがとうございます、それじゃあ」と通話を切ろうとしたが、飛鳥は慌ててそれを止めた。

『なんですか』
「どうして、沖原灰慈が学校に来たかどうかを知りたいの」
『どうして……』
「何て言えばいいのかな。海黒さんは、その、沖原くんのことをあまり好いてないと思ってたから、君から彼が学校に来たかどうかを訊かれるとは思ってなかったんだ」

 海黒と灰慈が嫌悪な関係にあるのは、本人達に確認せずとも明らかだった。だのに海黒が灰慈の所在を気にするのはおかしいし、そもそも彼女が彼の居場所を知る必要があるのだろうか。そんなことを考えていると、言い淀んでいた海黒が言葉を接いだ。

『……お兄ちゃんに頼まれたんです』
「……沖原くんが学校に来たかどうかを、僕に訊くように、って?」
『いえ。お兄ちゃんは、灰慈くんが登校したかどうか知りたいだけです』

 海黒曰く、灰慈は入学してすぐ登校拒否に陥ったらしい。
 そんな彼が少しずつでも他の生徒と同じように学校に通えるようになる為に、紅野は灰慈に「学校に行ったかどうか」を毎日報告させている。1限目からでなくとも、2限目や3限目から、昼休憩が終わった午後からの登校でも、学校に行けたら褒める。もし辛くて学校に行けなかったら、話を聞いて「大丈夫だよ」と伝える。それが彼らのカウンセリングだった。
 しかし今日は灰慈からの連絡が無かった。だから紅野は海黒に、灰慈が「学校に行ったかどうか」を尋ねたのだ。
 だが海黒だってそれを調べるのには限界がある。

『私、灰慈くんと違うクラスなんです。でも彼とは、学校では一切関わってないので、他のクラスの人に、灰慈くんが学校に来たかどうかを訊くことはできないんです。不自然に思われたら困るし、少しでも怪しまれたら、まずいので』

 自分たちがやっていることは堂々と公表できるものではないという自覚があるからこそ、彼女は周囲に詮索されるきっかけとなるものを徹底的に潰しておきたいのだろう。全ては兄である紅野の為だ。

「灰慈くんの姿は見てないよ。一応水島にも訊いてみようか?」
『そこにいるんですか?』
「うん」

 ちらりと青太を見ると、彼は不思議そうに首を傾げた。青太を呼ぼうとして、ふと昨日のことが脳裏を過ぎる。

「——その前に、僕も訊きたいことがあるんだけど、いいかな」
『訊きたい、こと……?』
「昨日、水島に何か言おうとしてたよね。何を伝えたかったのかなって思ってさ」

 ああ、と海黒が渇いた声を漏らす。

『……これは、面と向かって言わないといけないことなので……あの、今どこにいますか』
「学校から駅に向かう道の、コンビニ近くの自販機の前にいるけど」
『分かりました。これから向かうので、青太さんの足止めしててください』
「え、これから……?」

 飛鳥の返事を聞かず、お願いします、とだけ言って一方的に通話は切られてしまった。
 飛鳥が呆然としながらスマホのスピーカーを耳から外すのを見計らって、青太が駆け寄ってくる。

「誰からだったんだ?」
「海黒さんから」
「海黒ちゃんから? どうして」
「僕に訊きたいことがあったみたい。あと水島に話したいことがあるらしくて、これからここに来るって」

 話したいこと、と言っても青太はよく分からないという表情をしていた。心当たりがないのか、それとも思い当たる節が多すぎるのだろうか。青太と海黒の間にも今だ多くのわだかまりが残っているようで、海黒の名を聞いても青太は決して顔を綻ばせはしなかった。

「瀬川もここで待つのか?」
「一応、ね。君の足止めを頼まれたから」
「塾は」
「早く行って自習室で勉強しようと思ってただけだから、いいよ。講義は夜からだし」

 飛鳥は自販機の側面に背を預けて、重りのような通学鞄を下ろした。心なしか気怠くて、瞼を閉じればこのまま眠ってしまいそうだった。

「そういえば水島、今日学校で沖原灰慈を見たか?」

 青太は飛鳥を見つめたまま、二度瞬きをした。

「沖原灰慈? 誰だよ、それ」
「岬紅野と一緒にいた奴だよ」
「紅野さんと一緒に……?」
「灰色の髪の男の子」
「……ああ、あいつか」
「……知らなかったのかい?」
「うん」

 てっきり彼も紅野の患者で青太とも面識があると思っていたが、そうではないらしい。青太は1年以上紅野との連絡を絶っていて、その間に彼と灰慈が出会っていたのだとしたら青太が灰慈のことを知らないのも無理はない。
 それに飛鳥が覚えている限りでは、青太が彼を見たのは海黒が紅野を呼び出したあの時だけだ。自分は彼と何度も会っているし言葉も交わしているから、沖原灰慈の存在やその名前の響きに何の違和感も感じない。だから青太も灰慈のことを知っているものだと勘違いしていた。

「あいつ、同じ学校だったんだ」
「ああ、1年生だよ。毎日は来てないみたいだけど」
「そっか……あのさあ」
 
 瀬川、と青太に呼ばれる。
 その時やっと、飛鳥は自分が間違いを犯したことに気付いた。
 青太も知らない岬紅野の傍にいる人間を、自分ががこんなにも詳しく知っているのは不自然だ。

「どうして、あいつの名前知ってるんだよ」

 冷たい汗が首筋を撫で、落ちていく。顔を強ばらせる青太の前で、言葉は続かなかった。

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