複雑・ファジー小説

3−14 ( No.44 )
日時: 2021/06/11 01:42
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: WglqJpzk)

3−14

 ——どうしてそんなに、飛鳥先輩に拘るんですか。

 海黒の声が今もなお耳にこびりついて離れない。
 昨日、結局青太は何も答えなかった。眉を顰めるばかりで、最後に「お前には関係ないだろ」と、そう一言呟いただけだ。
 飛鳥にとっては、彼が言葉を発するまでの沈黙が無性に怖かった。誤魔化す為の適当な言い訳が出てくるのは嫌だ。きっと自分はその裏に隠れる本心を勘ぐってしまうから。でも彼の口から直接本音を聞くのも怖い。
 飛鳥には、青太の本心など何一つ見えない。いや、そもそも見ることを拒んできたのだ。
 
「瀬川?」

 はっとして、飛鳥は顔を上げた。呼びかけてきたのは青太ではなく、いつも一緒に昼食を食べる友人だ。
 話聞いてなかっただろ、とからかうように言う彼に、飛鳥は曖昧に笑い返した。

「なんか瀬川さ、最近疲れてねえ? そんな遅くまで起きて勉強してんの?」
「……数学の問題がなかなか解けなくてさ、気付いたらいつの間にか日付越えてるんだ」
「へー、先生から期待されてる奴は大変だな」
「僕より数学できる奴なんて沢山いるよ」

 おかずを口に突っ込んで咀嚼するが、なんだか粘土を噛んでいるような気分だった。味が薄いのだろうかと思ったが、母がよく弁当に入れてくれる、いつもと同じおかずだった。

「てかさ、今度数学教えてくれよ。オレも今の単元に入ってから全然分かんなくなってさ」
「うん、いいよ。昼休憩でいい?」
「あー、できれば放課後がいいんだけど」
「放課後……」

 友人は唐揚げを噛みながら「うん」と頷く。

「放課後の方が時間あるし。あ、でも無理だったら昼休憩でもいいよ。瀬川、最近放課後になったらすぐ学校からいなくなるし、忙しいんだろ?」
「まあ、塾に行く時間、増やしたから」

 咄嗟に吐いた嘘の続きは、ご飯を口に入れて誤魔化した。
 友人は「真面目だなあ」と笑いながら、それ以上の追及はなかった。

「そういえば今日は、津田はいないんだね」

 呑気に笑う友人の表情を伺いながら、飛鳥は話題を逸らす。
 いつもは飛鳥と目の前にいる友人とあともう1人と一緒に昼食を摂っているのだが、今はその1人がいなかった。

「あーなんか、先生に呼ばれたって」
「先生に?」
「課題出してなかったんだって、しかも化学の」
「それは昼休憩中ずっと拘束されるかもね」

 飛鳥のクラスの化学課担当教師は課題提出に厳しいことで有名だった。しかも説教が長くて、昼休憩の時間など簡単に奪い取られてしまう。飛鳥はその化学教師から説教されたことはないが、たまに教務室で彼が生徒に説教しているのを見ると、自分が怒られているわけでもないのにうんざりするのだ。
 だから課題を提出しなかった友人は、昼休憩が終わるぎりぎりでやっと帰ってくるだろうと思っていた。しかし彼は存外早く教室に戻ってきて、「ラッキーだった」と言いながら自分たちの隣の席に座った。

「意外と早かったじゃん」
「いやそれがさ、教務室行ったら先生たちが超ばたばたしてて、説教とかする雰囲気じゃなかったんだよ」
「何かあったの?」
「なんか、事件、みたいな?」
「事件?」

 飛鳥が訊ねると、彼は小さく手招きした。3人は顔を寄せ合い、2人はじっと、もう1人の顔を見つめる。

「1年生の子が1人、行方不明なんだって」

 1年生の子が、行方不明。
 胸の奥が微かに冷たくなる。
 飛鳥の隣で、緊張感に欠けた声で友人は訊き返した。

「行方不明?」
「そう。今朝1年生の母親から電話があって、昨日の夜家に帰ったら、そいつがいなかったんだって。しかもその1年生、昨日も今日も学校に来てないんだってさ」
「名前は」

 飛鳥の声に、津田は少し驚いたように目を丸くする。

「な、名前? 1年生の?」
「うん」
「えーと……あ、苗字は覚えてないけど、変わった名前だったからそっちは覚えてる。確か『ハイジ』って子だ」

 間違いない。沖原灰慈だ。沖原灰慈がいなくなったのだ。
 昨日海黒を介して自分達に居場所を聞いてきたくらいだから、紅野でさえ灰慈がどこにいるか知らないのだろう。誰も、灰慈の居場所を知らない。

「瀬川の知り合い?」
「……いや、知らない人だよ。興味本位で聞いただけ」

 訝しまれないよう、適当な言葉で切り上げる。
 弁当を食べ終えて自分の席に戻ると、鞄の中で携帯電話が震えているのに気付いた。メッセージの通知ではなく、着信だった。
 わざわざ電話をかけてくる人は限られている。海黒も今校内にいる筈だから電話をかける必要はない。だから恐らく、彼だ。
 飛鳥は端末をスラックスのポケットに突っ込むと、すぐに教室を出ようとした。しかし扉の手前で一度止まって、後ろを振り向く。
 青太はこちらに背を向けて彼の友人と話していた。大丈夫だ、見られていない。もし青太に、彼の目を盗んで「彼」からの着信に応じようとしていることを知られてしまったら——今度こそ、手を差し伸べられることはなくなってしまうのだろうか。
 そんな考えを頭を振って払拭して、体育館裏に出た飛鳥は着信に応答した。

『まさか出てくれるなんてね。昼休憩の最中だったのかな?』

 ここ数日で随分と聞き慣れてしまった声に、飛鳥はできるだけ平坦に、緊張がばれないように返す。
 
「あなたからかけてきたんでしょう」
『話たいことがあったからね』
「——用件は」
『灰慈の件で、大変になっているようだね』

 海黒から聞いたのだろう。ただ、灰慈が関わっていることなのに紅野の口調はどこか他人事で、飛鳥の胸に引っ掛かった。

『この件は他の生徒にはまだ広まっていないようだから、一先ず安心ではあるけれど』
「悠長ですね」
『ああ、居場所の目星はついているから』

 は、と思わず声が出た。

「……なら、どうして迎えに行かないんですか」
『どこにも行けないからさ』

 この足では。
 一瞬、ワントーン下がった紅野の声に怯み、飛鳥は口を噤む。
 だから、と紅野は次の瞬間には何事もなかったかのように元の声に戻った。

『君に、灰慈を探しに行ってほしいんだ』
「……僕が?」
『勿論、無理にとは言わない。賢い君なら察しているとは思うが、この件にはこちらに敵意を向ける《COLOR》所持者が関わっている』
「だとしたら、僕にできることは無いと思いますよ。海黒さんの方が」
『相手には海黒の存在は認知されている。さすがにそんなところに海黒を行かせるのは危険だ』

 僕はどうなってもいいということかと問えば、紅野は電話越しに薄く笑うのみだった。

『……君は、俺の味方ではない。だから君はまだ、相手には認知されていない。そして、君は無色(colorless)だから警戒されることもない』

 単純で簡潔な理論だと思った。
 ここで灰慈に対していい感情を抱いていない海黒を向かわせても、灰慈の奪還が叶うとは限らない。

『瀬川飛鳥くん、君にしか、頼めないんだ』

 岬紅野は危険人物で、そして灰慈は紅野側の人間だ。
 だから、紅野の提案に乗らない方が賢明だろう。これ以上、自ら彼らに関わってはいけない。
 灰慈だって、紅野が暗い世界の中にいることを知って尚彼の傍にいるのだ。
 自業自得だと——そう言って、切り捨てることはできなかった。
数学の小テストで満点を取って、紅野に褒められてあんなに嬉しそうにしていた灰慈にとって、紅野は彼自身を維持する支えなのだ。紅野の言うことに従って、遂行して、褒められることが、彼にとって唯一の存在意義なのだろう。
 彼には意思がない。自室に泊めたあの夜だって、飛鳥が声をかけないと灰慈は布団の上に寝転がることさえできなかった。実体のない幽霊のような少年で、紅野がいなければこの世に存在を繋ぎ止めることができない。
 もしここで自分が断れば、灰慈は紅野に切り捨てられたことになるのだろうか。灰慈も——。

『君だけが頼りなんだ』

 予鈴の音がどこか遠く聞こえる。
 気が付けば飛鳥は、ゆっくりと頷いていた。

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