複雑・ファジー小説
- 3−15 ( No.46 )
- 日時: 2020/05/05 01:54
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: 8kUUPb.W)
3−15
初めて、担任に嘘を吐いた。昼休憩後の4限目は「体調が優れない」と言って保健室に行き、そのままそこで早退届を書いた。
ちょうど授業が無かった担任はわざわざ保健室まで様子を見に来てくれたが、飛鳥はそんな担任に早退します、とだけ伝えるしかなかった。
少し俯き、小さな声で喋る飛鳥に対して、担任は「家でゆっくり休みなさい」と優しく言ってくれた。最近疲れているみたいだから、瀬川は頑張り屋だから今まで気を張り過ぎていたんだろう、と。早退届に了承印を捺す担任は、飛鳥のことをちっとも疑っていなかった。
両親には自分から連絡しておきます、と言って、飛鳥は保健室を出る。担任から受け取った自分の通学鞄を肩にかける。スマホで現在時刻を確認すると、まだ13時45分だった。自宅にいる母には連絡しない。何時に帰られるか分からないからだ。もし時間がかかっても、学校が終わってからそのまま塾の自習室に行っていたと言えば多少は誤魔化せるから、母には自分はいつも通り授業を受けていると思ったままでいてもらうしかない。
飛鳥は生徒玄関近くにあるバス停へ向かうと、ちょうど停車したバスに乗り込んだ。
バスは毎日利用している鏡高校の最寄り駅とは真逆の方角に進んでいく。窓の外に見える街並みは、すぐに見慣れないものへ変わっていく。学園裏へ訪れたことはほとんどない。
20分程して、飛鳥は小さな商店街の近くのバス停で降りると、今度はスマホのマップを頼りに歩き始める。主要駅から外れた場所にあるこの土地は、建物が多い割に人通りは疎らだ。昼間に制服姿で歩いている自分を、不審そうな目で見る人が少ないのは、むしろ好都合かもしれない。
やがて飛鳥はコンクリート打ちのビルが立ち並ぶ通りへとやってきた。すべての音が拒絶されているような、嫌に静かな場所だ。建物の窓ガラスがくすんだ色をしている。埃が積もっているのだろうか。人の管理の手を離れた建物が多いようだった。
彼はそこで、自分が如何に安全な場所で生きてきたのかを理解した。自分の安全を守ってくれる人がいて、そしてそんな人々の言うことをよく聞いてきたからこそ、自分は自身の身に迫る危険を感知する必要もなく過ごしてきたのだ。
ここの空気は、まるで有刺鉄線が張り巡らされているようだ。緊張感がじくじくと肌を突き刺す。
意図せずここに来たわけではない。自分で望んで来たのだ。自分を大切にしてくれる、沢山の保護膜を自ら破ったのだ。
ふと、道の端に1台の携帯端末が落ちているのが目に入る。黒色のシンプルなカバーが装着されたスマートフォン。海黒が持っていたものと同種だということはすぐに分かった。
カバーや液晶画面はほとんど無傷のままだ。無理矢理取り上げられて投げ捨てられたのではなく、『路上に置かれた』と言った方が正しいだろう。試しに電源を付けてみるが、充電は切れていた。
マップを確認すると、紅野が「居場所の目星はついている」と言っていた辺りは、ここからもう少し離れていた。その地点で灰慈のスマホのGPSが途絶えたらしい。ここでダミーのスマホを捨てておくことで、GPS内臓の端末はもう持っていないと思い込ませメインの端末を取られないようにしたのだろうか、。
灰慈が消えた地点は、アスファルト舗装の道路が交差する場所だった。人の気配がするビルと、明らかに無人の様相を呈しているビルの両方が道沿いに混在している。どれもが外壁が排気ガスで汚れた、鉄筋コンクリート造りの建物だった。鉄筋コンクリート製の建物の内部ではGPSは機能しないと聞いたことがある。灰慈がこの付近のいずれかの建物の中にいることは確かだ。
飛鳥は息を嚥下すると、最も近い廃ビルへ爪先を向けた。通学鞄のハンドルを握り直す。どこか適当な場所に置いてくればよかったかもしれない。いや、もう遅い。とにかく灰慈を見つけださなければ——このまま夜を迎えてしまえば、彼が闇夜に霞んで、消えてしまうような気がした。
——もし見つかってしまったら、何か言い訳をすべきなのか、それとも強行突破するべきなのか、そんなことを思考しながら階段を上っていく。生きた心地はしない。それは、建物内部が埃っぽくて、自然と呼吸が浅くなる所為でもあった。喉の内部に、小さな塵が張り付いているような感覚がした。
何棟目かの4階建ての廃ビル。その最上階へ至る階段の途中で、飛鳥は足を止めた。人の咳がかすかに聞こえた。粘着質な異音の混じった、嫌な咳の音。灰慈だろうか、それとも別の人物か。
飛鳥は足音を立てないよう努めて慎重に1段、また1段と進んでいった。最上階には短い廊下が続いており、複数の扉が閉ざされていた。異様なのは、ドアノブがビニールの縄で固定された扉があることだった。そのビニールの縄は隣の扉のドアノブに巻き付けられ、また元の扉に帰ってきていた。単純ではあるが、これでは中から開けるのは不可能だろう。
そして、ドアノブが固定された扉の向こうから、やはり咳が聞こえるのだった。
飛鳥はそっと冷たい鉄に触れ、聴覚を集中させる。存外薄い扉だ。咳は止んだが、代わりに荒い呼吸音が聞こえ始める。そして呼吸音が落ち着いたかと思うと、呻くような、酸欠に喘ぐような、苦し気な声が飛鳥の鼓膜に届いた。喧騒に容易く掻き消されてしまいそうな、地面の上に頼りなく積もっていくような、変声期特有の掠れた声。灰慈の声に、似ていた。
否、間違いなく彼だ。
飛鳥は自分の体温がずるりと抜け落ちていくような気分になった。しかし手を握り締めると、ドンドン、と扉を叩く。
「——ッハイジ、灰慈っ!」
叫ぶ。声が返ってくる。何と言っているのかは判別できない。
ビニールの紐は強固で素手では解けそうになく、ペンケースから取り出したハサミを使って半ば無理矢理に引き千切った。
ドアノブを捻り、押す。とん、と何かに当たる。それが灰慈の背中であることはすぐに分かった。
彼は扉のすぐ前で横たわっていた。背中を丸めて蹲るような体勢で、しかし腕は後ろ手に拘束され、脚部も足首から脹脛にかけてガムテープが何重にも巻かれている。頬には灰色の髪の毛がかかり、元々付けられていたガーゼはよれて、殴打の痕に上書きされていた。
それから、灰慈の口許に視線が行く。彼の小さな口は濡れていた。そこから横溢する半透明の液体が、彼がここで嘔吐したことの証拠だった。嘔吐物に固溶体は見て取れない。しばらく食事を摂っていないのだろう。
飛鳥は跪いて、灰慈の手首のガムテープを取り始める。灰慈の虚ろな目はふらふらと彷徨った後、横目に飛鳥を捉えた。
「……何、しに……」
「迎えに来たんだよ、早く出よう」
「なん……で、アンタが……」
「紅野さんに頼まれたんだ」
紅野さん、と、確かに今までとは違う響きで、灰慈が呟いた。
彼を拘束していたガムテープを全て取り終えると、飛鳥はゆっくりと灰慈を抱え起こす。ハンドタオルを取り出す時間も惜しく、飛鳥は自分の手の平で灰慈の口の端を拭った。何故彼が嘔吐したのか、何故彼の目の焦点が合っていないのか、何故彼は吐いた後も呻き声を上げていたのか。それを考えている余裕は、その時の飛鳥には無かった。
「ほら、立てそうかい」
灰慈の体重を抱えて立ち上がろうとしたその時、灰慈の腕が動いて、飛鳥を突き飛ばす。しかしその力はあまりにも弱く、飛鳥は少しよろめいた程度で、むしろ灰慈の身体が再び床に倒れ込んでしまった。
「灰慈、何して」
「まだ……だめだ、まだ」
「まだ……?」
彼はそのまま、ずるずると部屋の奥へと這い擦っていく。飛鳥から離れんとしているのではなく、帰る為の扉から遠ざかるようだった。
飛鳥が慌てて彼の肩を掴むと、振り向いた灰慈の瞳には、薄い水膜が張っていた。
「まだ……何にも、できてない。アイツら、オレの前で、何にも、話さなかった、扉を出てからも、ずっと……まだ、何の情報も、抜けてねえ……こんなんじゃ、紅野さんのとこ、帰られない……ッ」
「何言ってるんだよ、紅野さんは君が帰ってくるのを待ってる。早く」
「嫌だ、だめだ」
「灰慈」
「だめなんだ」
灰慈の乾いた手が、自分の肩に触れている飛鳥の手を掴む。引き剥がそうとしているようだが、その力はあまりにも弱い。
「オレには……ッ、紅野さんしか」
瞬間、彼の手が落ちた。ぴんと張っていたか細い糸が、ぷつんと音もなく切れてしまうように。
飛鳥の眼前で、灰慈の意識はそこで途絶えた。
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