複雑・ファジー小説

1−4 ( No.6 )
日時: 2018/05/04 11:03
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: mNBn7X7Y)
参照: http://www.kakiko.info/upload_bbs3/index.php?mode=image&file=913.png

1−4

 狭く見えた隙間は意外と幅があり、建物の裏手の空間に繋がっていた。コンクリートの地面と壁に囲まれたそこで、さっきの少女と男が対峙していた。と言っても、少女は尻餅をついて男を見上げている状態だ。男は少女を見下ろしながらにじり寄っている。上手く立ち上がれないのだろうか、少女は座り込んだ態勢のまま何とか退こうとしているようだった。
 待て、と、2人の距離が近くなってしまう前に、飛鳥はその間に割って入った。男の前進が止まり、低い声が聞こえた。不快感を孕んだ声。飛鳥は鞄を投げ捨て、少女を背に、男の方へ傘の切っ先を向けそいつを見据える。その男もまた、駅で暴れていた奴と同じようにパーカーのフードを目深に被っていた。顔面を見ることはできないが、その口が舌打ちをするのだけは見えた。

「なんだお前、退け」

 飛鳥は、存外その声が若いことに気が付いた。自分たちとそれほど変わらない年齢、おそらく少し上くらいだ。
 男は一度は動きを止めたが、眼前の少年を威嚇するように、大股で彼に迫り始めた。飛鳥は黙ったまま、琥珀の目で男を睨みつける。何か言って逆上させてしまったら、返り討ちに遭うかもしれない。別にそいつを倒す必要はない。一撃食らわせて、その隙に少女を逃がして自分も逃げるだけでいい。
 手の平に汗が滲む感覚。肌が熱を帯びていくようだ。傘の柄の形を覚えるように、飛鳥は一層強く握り締める。やがて、傘の切っ先が、迫ってきた男の胸の真ん中に当たった。男は再び止まった。しかし、次の瞬間にその口が開いた。

「お前らが正しいと思うなよ!!」

 突然の大きな声が、飛鳥の内耳を貫く。お前らって何だ、と思う間もなく、男はまた叫んだ。

「お前らが全て正しいと思うな!! いずれ、我々が覇権を握る。我々が正となるのだ! これからの時代にお前たちはいない!」

 男は唾を飛ばしながら不気味な言葉を続ける。その意味不明な日本語の濁流に、飛鳥は当惑した。傘を握る力こそ緩めなかったが、男を真っ直ぐに捉えていた瞳孔は揺らぎ、その時、彼の上着が所々切り裂かれたみたいに破れているのが見えた。
 長い絶叫が終わり、男はひゅっと渇いた息を吸い込んだ。視界の端で、男の腕が動く。今だ——飛鳥は傘を思い切り突き出した。男の上体が向こうに倒れていく。尚もこちらに向けてこようとする腕を、今度は横薙ぎに、傘で強かに打った。

「逃げろ!」

 背後の少女にそう叫ぶ。少女は一瞬、びくりと肩を震わせた。けれどすぐに、躓きそうになりながらも飛鳥が来た道の方へ走り出した。彼女が横を駆け抜けていくとき、一度だけ目が合った。橙色をはめ込んだような両眼。それはすぐに逸らされて、彼女はそのまま走っていった。
 飛鳥も男が地面に倒れているのを認めて走り出す。だが刹那、彼の身体はコンクリートに叩きつけられた。受け身すらとれず、強い衝撃と痛みが背中に走る。しゅるしゅると、植物の蔦のようなものが飛鳥の襟元から抜けていった。あの蔦で引き倒されたのだろう。2本の蔦は空中で鎌首をもたげて、その根元は男の袖口の奥に繋がっている。ああ、《COLOR》だ。
 勿論、飛鳥はそのことだって考慮していた。けれども、体格のいい男子高校生を、それも一瞬で引き倒す程の力があるとは思っていなかったのだ。
 大抵の《COLOR》にそれくらいの力はない。いや、それ程の力を『発動することはできない』のだ。

 ——Characters Of Linked ORigine
 ——つまり、原初にまつわる性質。

 《COLOR》は人間の潜在能力で、所謂火事場の馬鹿力と同種であると考えられている。危機的状況に陥った時の、人間の120パーセントの力なのだ。逆に言えば、火事場の馬鹿力を常に発動することはできないし、自分の意志で発動することもできない。
 だから、大抵の人間の《COLOR》の力は抑制されていて、せいぜい日常の中で小物を動かせる程度だし、力の出力を調節することもできない。物を破壊したり、相手を組み伏せたり、戦闘不能にしたり——高火力を自由自在に操れるのは、本当に、本当に限られた極一部の人間だけだ。それ以外の人間が無理に力を使おうとすれば、制御できず暴走してしまう。
 正確に飛鳥を地面に伏せさせ、蔦を宙で静止させることもできる。男は予想よりずっと手強く、身体を起こそうとした飛鳥を、初動無しでアスファルトに押さえつけた。肩を強く打ち、飛鳥の手から傘が離れる。しまった、と思うのと同時、蔦が首筋を辿り、巻き付いた。
 乾いた感触、温かみのない、細くて長いもの。それが気管を締め付けようとしている。
 今すぐ蔦を引き千切らなければいけない、なのに身体はちっとも動かなかった。ただ嫌な汗が汗腺から溢れて、喉は一瞬で水分を失った。
 ざらついたコンクリートの感触が、10年前の夏の日の、あのざらついたシートの感触とそっくりだった。生温い空気の中、息もできず、ただ闇に飲まれていくばかりだったあの時。
 気が付けば息をしていなかった。蔦が飛鳥の首に食い込む。開いた口からは残りの息と喘ぎが漏れるだけで、酸素が全く入ってこない。指先が痺れる。視界が歪む。そして、端から黒に侵食されていく。
 あの時はヒーローが助けに来てくれた。あか色のヒーロー。
 目の前はもう真っ暗だった。あか色が真ん中に見えた気がしたが、すぐにぼやけて消えてしまった。縋る為に手を伸ばすことも叶わない。飛鳥の意識は、重くなる身体と共に、海の底に沈んでいくだけだった。

 しかし、次の瞬間、闇を光が裂いた。
 解放された気管に一気に酸素が流れ込む。吸いすぎた息で噎せ返りながら、飛鳥は混乱していた。横たわる飛鳥の眼前に誰かが立っている。滲む景色の中で、それが誰かは分からなかった。ただその人は、男と飛鳥の間に立っていた。男はずぶ濡れで、先程より飛鳥から離れた位置に、先程とは違う格好で伏して、その人を憎らしげに見上げていた。だから飛鳥は、その人が男に何かしたのだろうと思った。
 
「動くなよ。次動いたら、今度は顔面に撃つ」

 水滴がひとつ、落ちて消えた。その人の右手の人差し指から、青い光を湛えた水が滴り落ちていた。
 動くな、と言われた男は確かに動かなかった。だが瞬間、絡み合い1本の槍のようになった蔦が、その人を貫——パチン、と指を鳴らす音。水刃が、槍を一刀両断した。それだけじゃない。飛鳥は自分の顔に水が降りかかるのを感じた。見れば、自分の真上で、円形の断面を露わにした2本の蔦がそこにあった。男はもう片方の腕からも《COLOR》を発動して、大きく弧を描いて飛鳥を狙ったらしい。だが、突然現れた何者かはそれを看破した。蔦はすべて、完全に粒子となって散った。
 男が絶望的な表情をする前で、まったく動かずに立っている『その人』。黒いスラックスに白い半袖のシャツ。袖口にラインが入ったデザインのそれは、飛鳥の通う高校の制服だ。そして、短く切られた黒い髪が目に入った。

「動くなって言っただろ」

 低くて、若くて、聞き覚えのある声が響く。『その人』は濡れた掌を、男の方に向けた。

「……水、島」

 どうしてその時、水島青太の名を呼んでしまったのか、飛鳥は自分でも訳が分からなかった。青太が一瞬振り向いた。青太に隙ができて、男はチャンスとばかりに立ち上がって走り出した。「おい!」と青太は声を荒げたが、結局追いかけることはなかった。
 ただ、2人と沈黙だけが残った。
 飛鳥は上体を起こした。肩と背中が痛んだが、それよりもずきずきと痛みを訴えているものがある。
 瀬川、と青太が膝をついて飛鳥に目線を合わせる。首、大丈夫か。その言葉に、飛鳥は、大丈夫だと掠れた弱い声で答えた。本当はまだあの感触が残っていたし、10年前の紐までもが、まだ巻き付いているような気さえする。指先で触り、もう首には危険なものは何もないと分かったとしても、だ。
 ふと、首に水が触れた。

「触るなッ」

 青太の手を払うのに、躊躇いはなかった。青太は何も言わず、静かに自分の手を下ろした。

「……冷やさないと、痕になるかと思って」
「そんなの、自分でどうにかできる」
「うん、そうだよな……ごめん」
「《COLOR》、持ってたのか。やっぱり」
 
 うん、と、肯定する声。飛鳥はコンクリートの上で、自分の手を握った。痛いほど強く握った。けれど自分の手の中には、握り締める以外の感触はない。
 青太はやがて立ち上がって、立てるか、と飛鳥に手を差し出した。飛鳥は言葉では答えたが、やはり相手の手を取ることはなく、ひとりで立った。

「……どうして、こんな奥まった所に来たんだい」
「偶然、瀬川がここに入っていくのが見えてさ。行き止まりなのに変だなって思ってしばらく見てたら、同じところから女の子が走って出てきたから、何かあったのかと思って」
「そういえば、あの子は」

 落とした傘と鞄を拾いながら尋ねると、青太は柔く、それでいてぎこちなく微笑んだ。

「ああ。あの子なら大丈夫だろ」
「それならよかった」
「瀬川」

 そこから急いで立ち去ろうとしていた飛鳥を、彼は止めた。飛鳥は振り返らずに、顔を少しだけ動かした。青太の声が反響する。

「もう、こんなことするなよ」
「こんなことって」
「1人で《COLOR》所有者を相手にしようとするの、絶対に次はするな」

 君には関係ない、と飛鳥が言うより早く、青太は言葉を続けた。最近は事件が増えているから、何をするか分からない《COLOR》所有者が増えているから、危険だから、絶対に関わるな。その言葉の1つ1つが正しくて、そして首が絞められていくようだった。何よりそれを言っているのが、姉でもなく、友人でもなく、『水島青太』だという事実が、苦しくて、悔しくて堪らない。だって、僕は。

「……どうして、そんなこと言ってくるんだ」
「だって、お前は——『無色(colorless)』だろ」

 微かに、息が止まる音がした。

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