複雑・ファジー小説

1−5 ( No.8 )
日時: 2018/05/06 00:23
名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: 7aD9kMEJ)

1−5

 《COLOR》は大抵、10歳前後で現れる。確かに個人差はある。しかし遅い人でも、中学校在学中には、必ず一度は発現するものだ。
 瀬川飛鳥の《COLOR》が発現したことは、ない。決して、一度たりともない。彼の手元にあるのは、皆が普通に持つ特別な力ではなく、無色(colorless)の称号だけだ。
 そして、自分がそれであることを誰かに言ったこともなかった。だから飛鳥がそうであるのを知っているのは、彼の姉と両親くらいだ。少なくとも飛鳥は、家族以外の誰にも知られていないと思っていた。
 何となく分かるんだ、と青太は飛鳥の背中に向かって言った。冷や水が背筋を伝い落ちていくような感覚がして、飛鳥はちっとも動けずに、ただ青太の声を聞くしかなかった。

「相手がどれくらいの力を持ってるのか、何となく、分かるんだ。《COLOR》が強いほど、感知能力みたいなのも、高くなるみたいなんだ」

 青太の声音は穏やかだ。けれど、つっかえながら出てくる言葉で、彼が自分を気遣いながら喋っているのが分かった。いつ切れるか分からない緊張の糸が1本、2人の間に張られている。それが切れたときに壊れてしまうのは、飛鳥の方だった。
 多分青太は、飛鳥が『青太が《COLOR》を持っている』ことに気づくよりも早く、『飛鳥が無色(colorless)である』ことを知っていたのだろう。そして自分の虚勢を全て見透かしているくせに、さすがだな、なんて称賛したのだ。

「……このことは、誰にも言うな」

 険のある声を真後ろの青太に突き立てた。お願いでも頼みでもなく、脅しだった。青太は何でもかんでも吹聴するような性質ではないのだろうけど、再び言葉にされるのは恐ろしかった。それを誰かに聞かれるより、自分自身が再びそれを聞くことの方がずっと嫌だった。
 青太は、「うん」とだけ返事をした。ただ、飛鳥の靴底がやっと地面から離れて彼が歩き出したとき、青太は小さな声で呟いた。

「無色(colorless)って、そんなにだめか」

 体内を傷つけながら、体の奥の、最深部に沈殿する。それが色彩を持つのなら、その痛みも、血も、飛鳥は受け入れるつもりでいた。それが自分の色になるのなら、と。けれどどう足掻いても彼に《COLOR》はない。
 青太に何か酷いことを言ったような気がする。灼ける喉が、自分が大きな声をあげたことを示している。飛鳥は青太の表情なんか碌に見ずに、そのまま走り出した。家に帰るまで、拳はきつく握り締めたままだった。無闇に手を開いて、自身の手が虚空を掴む感覚は、もう味わいたくなかった。

 ベッドの中に入っても手を緩められず、布団の中に身を沈めたところで眠れやしない。翌朝、飛鳥は寝不足で重い頭を携えたまま登校して、なんとか午前の授業を受けた。隣席の青太は普通に授業を受けていて、昨日のことを誰かに言う素振りなんて、ちらりとも見せない。だから飛鳥も隣人を意識を外へ追いやった。事務連絡以外の彼らのやりとりは、「一瞬だけ目を合わせること」さえもない。
 昼休みになると、普段昼食を一緒に食べている友人に断って、飛鳥は購買へ向かう。たまたま今日は弁当がなかっただけだが、青太のいる教室から離れられるのは気が楽だった。
 パンを買って、どこで食べようかと辺りを見回したとき、ふと、1人の女子生徒が飛鳥の視界の真ん中に収まった。三つ編みを耳の下で輪っかにしたような、変わった髪型の少女。昨日、謎の男に追い詰められていた彼女だ。ねえ、と飛鳥が声をかけると、彼女は驚いて肩を震わせた。

「ああ、ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」

 少女がゆっくりと振り向く。真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下で、長い睫毛が上がって、丸い両目が飛鳥を見上げた。顔が小さい。頬にかかる黒髪は肌の白さをより際立たせているが、儚げな雰囲気はなく、素朴な感じの少女だった。

「ただちょっと、訊きたいことがあって」

 昨日会ったよね、と尋ねると、彼女は持っていたパンの袋を握り締めて、小さく頷いた。セーラーカラーに施された深緑のライン。彼女は1学年下のようだった。

「あの後、大丈夫だった?」
「あの」
 
 少女が飛鳥の言葉を遮る。そして少女は周囲を横目で窺いながら、「場所、変えてもいいですか」と、とてもか細い声で尋ねた。飛鳥の容姿は目立つから、視線は絶えずどこからともなく注がれる。少女は、そんな注目の眼差しに身を縮こまらせているらしかった。
 2人は中庭の隅に移動した。日が当たらず、6月ではまだ肌寒さすら感じるような場所だ。校舎の陰になっているせいもあるのか、生徒もあまり寄り付かない。だから2人の周りには誰もいなかった。そこから見える曇り空は、今にも雨粒を落としてきそうで落とさない。相も変わらず、彩度の低い分厚い雲が蠢いているのみだ。

「昨日は、ありがとうございました。本当に」

 少女は、お手本のような丁寧なお辞儀をして、飛鳥を見た。黄昏を閉じ込めたみたいな橙色の瞳の中心に捉えられると、不思議と言葉は喉元で消散した。飛鳥は対人用の笑みだけを返した。

「私はこの通り、元気です。怪我とかもしてないです……先輩は大丈夫でしたか」
「僕?」
「はい。怪我とか、されてないのかな、と」
 
 飛鳥は自分の首に触れそうになって、止めた。幸い痣にはなっていなかったから、わざわざ気にする必要もない。男と少女の間に入って、少女は何とか無事に逃げおおせた。そして自分も、大した怪我もなく今日も学校に来ている。それだけのことにしておこう、と思った。 

「僕も大丈夫だよ」
「それなら、よかったです」
「でも、あんな人気のないところに、1人で行くのはよくないよ。最近は特に物騒だから」
「そうですね。これからは気を付けます」

 彼女はにこりと笑った。しかし飛鳥には、それが精巧にできた仮面に見えた。周囲の視線を避けたがっていたところから、勝手に人馴れしていない子なんだと考えていたが、その割には自分と話すときはとても落ち着いている。昨日のことについて触れても、まるでそんなこと意にも介していないとでも言うように、彼女から動揺が漏れることもなかった。簡単に言ってしまえば他とは違う子、なのだろう。けれど、どこがどう違うのか、というのは飛鳥には掴めなかった。

「……じゃあ、私はこれで」
「あのさ」

 だからこそ、ここで彼女との繋がりを切ってはいけないような気がした。『普通じゃないこと』に巻き込まれたのに『普通』に振る舞えている彼女は、何かがおかしい。それに飛鳥には気になることがもう1つあった。

「昨日の奴が『お前らが正しいと思うなよ』って言ってたの、覚えてる?」
「……はい、覚えてますけど。それが、どうかしたんですか?」
「お前らって、誰のことなんだろうと思って」

 湿度の高い、べたつくような空気の中では、風は吹かない。淀みも困惑も気まずさも留まったまま、時間まで止まってしまったようだった。少女の黒い瞳孔はわずかに動いた。
 半ば彼女を呼び止める口実に言ったようなものだから、飛鳥にはその先の考えなんてない。けれど改めて言葉にしてみると、あの男の言っていたことの奇妙さや、それに対しての疑問が一気に脳を埋め尽くしていった。彼は思考すると同時に、それを音に紡ぎ出していく。

「普通に考えれば、僕と君のことだとは思うんだけど。でも、僕らは昨日が初対面だったから、接点どころか共通点もあまりない。なのに、どうしてアイツは『お前ら』って一括りにしてきたんだろう」
「共通点、ですか」
「うん。同じ高校だっていうのは制服を見れば分かるけど……でも同じ高校の括りで『お前ら』って言ったんだとしても、正しいとかそうじゃないとかっていうのは、あまりにも脈絡がないじゃないか」
「……アンチ、みたいなものじゃないですか」
「アンチ?」
「はい。ここって所謂名門校ですから。受験に失敗して、劣等感とか抱いてる人も、中にはいるんじゃないかなって」

「進学の掲示板とか、結構激しく書いてありますよ」と少女は言った。飛鳥は中学からの内部進学だから、外部事情にはあまり明るくはない。それでも中3のとき、ここよりどこそこの学校の方が優秀だとかを言い争う書き込みを見た記憶はある。けれどそれで、あの男の言葉に繋がるのかと問われれば、答えは間違いなく否だ。
 だとしたら他には。『お前ら』に自分が含まれていない可能性。そうか、それがある。『お前ら』というのは自分のことは指していなくて、少女だけを——いや、少女とそれを取り巻く者たちのことなんじゃないか。

「……何かに、巻き込まれているとか、ないかい」

 少女の呼吸音が、揺らいだ。彼女から初めて狼狽の鱗片が見えた。しかし瞬きをした次の瞬間には、彼女は真っ直ぐ飛鳥に向き直っていた。

「ありません」

 はっきりとした音で、きっぱりと飛鳥の考えを否定した。

「……そうか。ならやっぱり、この学校に私怨があったのかな。何にしろ、また襲ってくるかもしれないから気を付けてね」
 
 結局、気を付けて、しか言えない。しかもそれは飛鳥本人の言葉ではなくて、姉から渡された言葉をそのまま流用しているようなものだ。少女に気を付けてと言う度、姉の声が自分の声に重なってくるようだったし、副音声で、あの青い少年の声が流れていた。
 お前は人の身を案じていられるような立場なのか、と。若い男の声が聞こえていた。
 だが意外にも、その声を打ち破ったのは少女だった。

「もし、私がまた危ない目に遭いそうになったら、その時も助けてくれますか」

 想像もしていなかった台詞だった。不自然で、何かを隠しているかもしれない人間のそんな言葉を容易く受け入れるほど、昨日までの飛鳥は愚かではない。けれど今の彼にとっては、それは不思議と甘美な響きを持っていた。まるで真っ黒な闇の向こうから聴こえてくる、セイレーンの歌声のようだった。
 一拍おいて、飛鳥は頷いた。

「……それじゃあ、電話番号、交換しませんか。私も、先輩にお礼したいですし」

 少女はスカートのポケットから生徒手帳を取り出し、白紙のページに何やら書くと、そのページを破り取って飛鳥に差し出した。「もし、私がお手伝いできることがあれば、連絡してください」と、見ればそこには電話番号と彼女の名前『岬海黒』という文字が書かれていた。
 
「みさき、う、み……?」
「黒い海って書いて『みくろ』って読むんです」
「みさきみくろ、さん、だね。……岬か」

 岬。みさき。なぜだか、1文字の漢字と3文字の音が印象に残る。それらはすぐに他の情報に紛れてしまったので、特に気にかけるようなことでもなかったのかもしれない。
 飛鳥は貰ったメモを胸ポケットにしまうと、同じように生徒手帳を開いて、自分の情報を手早く書きこんでいった。

「どうかしましたか?」
「ううん。いや、どこかで聞いたことあるような気がしてさ」
「まあ、特に珍しい苗字ってわけでもないですもんね。でも、もしよかったら、下の名前で呼んでください」
「じゃあ、海黒みくろさん。僕は瀬川飛鳥です、よろしく」

 飛鳥の名前と携帯の電話番号が記された紙を受け取って、岬海黒みさきみくろは頬を上げて微笑んだ。それはやはり貼り付けたような笑顔だった。

「よろしくお願いします、飛鳥先輩」

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