複雑・ファジー小説
- 1−6 ( No.9 )
- 日時: 2018/05/12 00:25
- 名前: トーシ ◆zFxpIgCLu6 (ID: NVMYUQqC)
1−6
飛鳥、と名前を呼ばれた気がした。ゆっくりと目を開けると、姉が自分の顔を覗き込んでいた。
「起きた?」
そう訊かれて、ああ自分は眠っていたのか、と自覚する。
真上に天井がある。暗い色をした天井にキッチンの柔らかい光が差し込んで、滲んでいる。身体を動かすと何かがずり落ちる感触。手に取ってみると、それは見慣れたタオルケットだった。
「……いま、何時?」
「11時半のちょっと前くらい」
白鳥がくすりと笑ったが、寝起きの目では、彼女の表情はぼやけて見えた。彼女の白くて細い髪が、淡い照明の光の中に溶けてしまいそうにも見えた。
「学校から帰って、そのまま寝ちゃったの?」
「……いや、塾にも行ったよ」
「そう。お疲れさま」
白鳥の言葉で、飛鳥は、帰宅してすぐにリビングで生き倒れてしまったことを思い出した。ソファから垂れ下がった方の腕を力なく振ってみると、手の甲に通学鞄が触れる。帰宅したのが9時半頃だったから、2時間近く眠っていたのだろう。しかも制服のままで。ああ、どおりで少し肌寒いわけだ。
飛鳥はカーペットの上に落ちたタオルケットを引き上げて、上半身にかぶせると、そのまま顔まで覆った。しかしすぐに引き剥がされた。
「だーめ。こんなところで寝たら風邪ひくでしょ」
ちょっと睨みつけたところで姉はびくともせず、タオルケットを畳んで小脇に抱えて、キッチンの方へ行ってしまう。仕方なく飛鳥は緩慢に上体を起こし、腕を上げて伸びをした。ん、とくぐもった声が漏れた。彼が眠るにはソファは手狭で、身体が休まったような気はしない。それでも、今朝からの睡眠欲や鈍い頭痛は幾分が和らいでいた。
「飛鳥ー」
「なに、姉さん」
「晩ご飯、食べた?」
「食べてない、と思う」
「食べる? ハヤシライス」
「うん」
腹が小さく鳴いた。さっきまで腹は空いていないと思っていたのに、姉の言葉を聞くと食欲は急に戻ってきた。
電気コンロのダイヤルを回す音が、普段よりも大きく聞こえる。それくらい家の中が静かだった。母親が作っておいてくれたハヤシライスに火をかけながら、白鳥はお玉でそれをかき混ぜている。ハヤシライスの匂いは、湯気と共に飛鳥の嗅覚をくすぐった。
母は、夜は早めに就寝する人だから、もう寝ているのだろう。父は普段はこの時間帯にはまだ起きているけれど、姿が見られないということは、今日は夜勤だろうか。
「姉さんは、もう仕事終わったの?」
「ううん。むしろ、これから明日の朝までが仕事」
「夜勤ってこと? でも、今日の日中は家にいなかったよね」
「日中は、署の仮眠室で寝てたのよ。勤務時間外でも緊急で応援要請がくるかもしれないから、一応、ね」
白鳥はコンロに一番近い席に自分のハヤシライスを置いて、その向かい側に飛鳥の分を置いた。同時に飛鳥も、2人分の皿の隣に、それぞれコップとスプーンを置く。さっきまで白鳥が持っていたタオルケットは、彼女の椅子に座布団代わりにして敷かれていた。
ウーロン茶を注ぐと、べっ甲みたいな光がコップの下に散らばった。
いただきますは、示し合わせずとも重なる。そういえば、姉と一緒に食事をとるのは随分と久しぶりだ。そもそも白鳥が戦闘員になってからは、彼女と飛鳥の生活リズムは微妙にずれていたし、最近はさらに出動回数が増えているのか、家に帰ってこない日も増えていた。
「これから、また署に戻るんだよね」
「うん。今は、晩ご飯食べに帰ってきただけだから。12時過ぎたらまた出るよ」
美味しいね、と白鳥が笑う。そうだね、と、疲れを見せない笑顔に飛鳥も笑い返す。
「怪我しないで帰ってきてね」
「勿論」
白鳥は強い。怪我をして帰ってきたことなんてほとんどない。だから「怪我しないで」なんて、本心だけれどそうではない気もする。でもやはり、無事で帰ってきて欲しいという思いに嘘はない。
「そういえば、昨日さ、今度休みが取れたらどっか連れてってあげる、って言ったじゃない」
「うん」
「海とかどう?」
ザザーンと、波の音。快晴の下、鮮明な青の海面と白波が思い浮かんだ。
「……海は、今はいいかな」
飛鳥は、皿についたルウをスプーンの縁でさらいながら答えた。
「そっか。まあ、晴れてないと綺麗じゃないか」
「海がダメだとしたら、山とか?」なんて呟く姉のコップが空いているのを見て、飛鳥はお茶を注ぐ。こぽこぽと涼しい音を立てて水泡ができては、ガラスのコップの中で、プラスチックのボトルの中で、次々と消えていく。
「屋外じゃなくて、屋内がいいんじゃないかな。どこかの店とか」
「うーん。確かにそうね」
米粒を咀嚼して、嚥下して、それを繰り返す。ハヤシライスは美味しい。ウーロン茶は少し苦い。
スプーンが皿を撫でる音がして、白鳥は両手を合わせてごちそうさまと言った。少し遅れて、飛鳥もごちそうさまを言った。
「お皿、僕が洗っとくよ」
「ありがとう、助かるわ」
壁にかけられた時計を見れば、時刻は既に12時を過ぎていた。白鳥はもう、署に戻らなくてはいけない。飛鳥が食器と鍋を洗っていると、リビングから白鳥の声が飛んできた。
「この電話番号が書いてある紙、飛鳥の?」
水を止めて振り向くと、ソファのところで白鳥が紙切れを持っていた。それはちょうど生徒手帳と同じサイズで、今日海黒と交換した連絡先だった。眠っているときに、胸ポケットから落ちたのだろう。
タオルで手を吹いて、白鳥からそれを受け取ると、今時電話番号なんて珍しいわね、と白鳥が言った。
「変わった名前ね、女の子?」
「うん。1年生の子」
「ふぅん、そっかそっか」
白鳥はなぜか嬉しそうに頷いている。電話番号は既に登録してあるから、飛鳥はそれを手の中でくしゃりと丸めた。
「別にそういうのじゃないよ。困ったら助け合いましょう、みたいなものさ」
飛鳥がそう言っても、白鳥はにこにこしたままで、だから彼もそれ以上は言及しなかった。
「まあ、人助けはいいけどね、あんまり無理しちゃダメよ」
「それは」
口をついて、言葉が零れ落ちる。
「僕が、無色(colorless)だから」
返事は、すぐには返ってこなかった。白鳥が短く息を吸う音だけが聞こえた。
かちり。時計の秒針が動く。
それから彼女はふと飛鳥と目を合わせた。琥珀の両眼にキッチンの照明が映って、光が当たらず暗くなったところの色とグラデーションを作り出している。それは、いつもよりももっと、自分のよりずっと宝石じみて見えた。
「弟だから。心配なの」
それだけよ、と言って白鳥はリビングを出ていった。
1人になった飛鳥は、姉の言葉を耳奥で反芻しながら、残りの皿を洗った。洗いながら、いってらっしゃい、と今更1人で呟いた。今言ったところで、彼女はいないのだから意味がない。
姉が行きたいと言った場所に、僕も行きたいと言うこと。いってらっしゃいを目を合わせて言うこと。今まで普通にできていたことが、今日はできなかった。
寝起きだったから頭が回らなかったんだ。眠かったから反応が遅れたんだ。だから、早く寝よう、と多めに出した水が手を叩く度、手の温度を少しずつ取られていくような気がした。
自分の部屋に戻った頃には、時計の長針は6の文字を過ぎていた。
寝間着に着替えて、今朝開けてそのままだった窓を閉めるために手を掛ける。その瞬間だった。スマホの着信音が、暗い一人部屋に鳴り響いた。
心臓が跳ね上がる。急いで画面を見て、そこに表示された名前に、心拍数が急上昇していく。
『岬海黒』。
通話を繋げる。もしもし、と言って、しばしの沈黙の後声が聞こえた。
「……飛鳥、先輩」
小さな声だった。息の多い、囁くような声。それは間違いなく海黒の声だ。どうしたの。尋ねる。
「助けてください」
梅雨の温い風が、飛鳥の首筋を撫でる。窓の外は、真っ黒だった。
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