複雑・ファジー小説
- Re: ヒノクニ ( No.28 )
- 日時: 2020/09/11 20:32
- 名前: ルビー ◆B.1NPYOoRQ (ID: YGRA.TgA)
——わたしたちは育てた。必死に育てた。
毎日、いや、時間があるときや仕事が終わってから大体兜虫にかかりっきりで面倒をみた。
餌やオカクズなどこまめに変えながら——、時には餌の事で雪ちゃんと喧嘩したり、時には中身を見たくて解剖しようと思案した上様を説得したり——忙しくもあり、割と充実した日々だった。
けれど、別れは突然訪れた。
※
「ええっ!? 何で成虫がまた蛹になってるでやんすか!?」
「退化した……?」
和人と瑛太にわたしたち兄妹は兜虫の定期的な報告をしていたのだが——実は前日の夜からおかしな出来事が起きたのだ。
成虫であるこの兜虫——名前は「紋次郎(もんじろう)」は蛹になったのだ。本来成虫で、これ以上の成長はないはずなのだが——なぜかこうなってしまったのだ。
ちなみに、紋次郎は上様は命名した。名前の由来は「何となく」。
そのことを2人に言うとやはり、酷く驚いていた。
「兜虫研究家であるわたしにもわからないなんて……不覚」
「研究家かどうかはさておき——……、こいつ、異形だろ」
「へ?」
はー、と深くため息をつく雪ちゃん。
最後の最後で異形だと判断した兄は少しショックだったようだ——純粋な兜虫ではなかったのだから。
その瞬間、わたしが持っていた兜虫の籠が黄金に輝き始めた。
あまりの眩しさに目を閉ざすと、光は消えていく。
再び目を開けると、
「ありがとう。心優しき者」
穏やかな低音がわたしたちの耳に入る。わたしの両手に座っていたのは——、兜虫の角をつけた雪ちゃんと同世代くらいの男だった。
え? 何これ。どうなってるの?
「うわああああああああああああああっ!!」
「不審者でやんす!! 逃げるでやんすよ瑛太!!」
子供たち2人は力の限りそう叫ぶと、凄まじい速度でその場から逃げていった。
正しい判断だ——……。そしてよくも騙してくれたなこの兜虫もどき。
思い切り変質者じゃねえか!!
雪ちゃんも同じことを思っていたらしく、怒りの形相に満ちている。
「殺す」
「どうしてそう言われないといけないのかわからないが——。ありがとう。お礼を言いたくて。僕はあの森で、少年たちに捕まるまで酷い怪我をしていてね……。君たちに世話してもらったお陰でこの通り元気になった」
「え——……」
変質者だけどそんな事情が……。少しお気の毒だ。確かに、育て始めた紋次郎(仮)は弱っていた。嘘ではないのだろう。
「僕は紋次郎という名前を貰った。嬉しいことだ。でも、僕には帰るべき——、いや、護るべき森がある。出来ることであればこのまま日々を過ごしたかった——けれど、僕にはそれが許されない」
紋次郎は悲しそうな顔をした。
先程まで怒髪天だった雪ちゃんもさすがに極まりの悪い顔をした。
そしてそっぽを向きながら、
「……行けよ。手前には手前の帰る場所があんだろうがよ。第一手前を連れてきちまったのは人間の勝手だ。いちいち気にしてんじゃねえ」
「慶司……」
そうだね……。いろいろ言いたいことはあるけれど、帰りたい場所があるのなら。
お世話人として見送って上げなくちゃ。
「大丈夫。和人や瑛太、上様にはわたしたちから言っておくよ。だからもうお帰り。森のみんなも心配しているよ」
「……ありがとう。成葉。慶司。本当に、本当に——……」
そう瞳を潤ませた紋次郎は背中から翼を出し、青空へと羽ばたいていく。
でも、1つだけ。
「紋次郎! 君の名前は何て言うの!?」
「僕の名前は深山(みやま)。深山だ——」
「ぜんっぜん被ってねえ……」
雪ちゃんはげっそりとした顔でそう言った。
何だかんだで紋次郎——いや、深山の姿は見えなくなった。
こうして、今年の夏と兜虫は終わりに向かっていく。
そして——……。
「何それ。紋次郎兜虫ではなかったのか? はー、しんど……」
以上のことを上様に報告すると、酷く哀しみを隠し切れなかった上様は暫く拗ねてしまった。