複雑・ファジー小説
- Re: ハートのJは挫けない ( No.1 )
- 日時: 2018/04/16 17:41
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕の名前は針音貫太(はりおと/かんた)。まあ自分で言うのもなんだけど普通の高校生だ。成績も中の中の上といった所で、特徴というものもあまりない。強いて言うなら身長が小柄で154cmしか無い事だろうか。まあ成長期だから今後伸びる予定だけど。
今日から二年生となる僕は、いつもの通学路を歩いていた。今は偶然通り道にあるだけのバス停を通っている所だ。とは言っても僕はこれを利用する事はほとんどない。ここのバスは大体、都会や都市部からこの水平町に向かってやってくるものであり、僕の高校の前を通ることは無いからだ。
僕がそこを通りかかった時、思わず目を引かれた。バスから出てきたその男は、身長190cmにも及ぶ程の巨大な体を有していたからだ。灰色のスーツに身を包んでいて、その服の上からでも分かるほどに肩幅が広く体格が良い。肩幅が狭くひ弱な体型の僕からすれば羨ましいばかりである。
男がバス停から降りると真っ先に地図の方に向かっていた。その途中で、何かポケットから何か紙切れが零れるのが目に入る。男は気がついていない様子だった。
「すみませーん。落としましたよ」
ガタイのいい男がこちらを向くと、予想通りの強面だった。途端にどうして声を掛けてしまったのか後悔したくなる程度には重圧がある。
「すまないな。君、名前は?」
「針音貫太です」
「そうか。俺は友松見也(ともまつ/けんや)という。……所で君、滝水公園を知っているか?」
「一応知ってますけど……?」
「もし迷惑でなければ案内を頼みたい。いや無論、差し支えなければ、の話だが」
滝水公園とは噴水が割と豪華でちょっとだけ有名な公園のことだ。しかしあのバスから乗ってきたということは都心部からだろう。都心部から噴水を見に来たとは考えづらい。
それはとにかくとして、滝水公園は僕の高校の通り道でもある。まあ差支えはないかなと腕時計を確認する。学校の始業時刻にはまだかなりの余裕があった。
「大丈夫ですよ。分かりました」
「すまないな。貫太君」
隣に並んで歩くがやはりでかい。僕との身長差は僕の頭二つ分くらいある。とても同じ日本人とは思えない。
「よくデカブツと言われるが日本人だ。身長が高い家系ではあるがな」
隣で何気なくその言葉を発した友松さん。身長というものはやはり大きく家系が関わってくるものなのだろうか。僕の両親はあまり高くないが、僕もこれから伸びることはないのだろうか。
「いや、遺伝だけが全てではない。実際妹はかなりのチビだ」
友松さん、この強面で妹がいるとは予想外で思わず横を見てしまう。確かに顔立ち的にはクールな雰囲気がかっこいいとも取れるしモテそうではある。そしてとても女性が苦手そうではある気がする。
「……確かに、女性は苦手だ。高い歓声を上げてくるタイプは、特にな」
……そもそも高い歓声を上げてくる機会すら巡ってこない僕に喧嘩を売っているのだろうか。
「何故か寄ってくるんだ。分からん」
理由自体が分かっていないとは、これが強者の余裕という奴なのだろうか。
そこでふと違和感を覚えた。そういえば僕は──どうしてさっきから一度も口を開いていないんだ?
僕はこの男に対して一度も口を開いていない気がする。なのにどうして僕は友松さんと会話をしていたんだろうか。
「所で貫太君。俺のことは見也と呼んでくれないか? これからの事情を考えると、な」
「分かりました、見也さん」
そんな会話を交わしていると、滝水公園が見えてきた。公園と呼ぶには敷地面積は意外と拾いが入口からでも中央に立つ噴水の先端が確認できる。
「こっちです。意外と複雑な作りなんですよねここ」
それから花弁が散った桜並木の道を通り、石畳の敷かれた中央部に出た。皿の中央に棒を突き立てたような形状の噴水に、それを囲むようにしてベンチがいくつか設置されている。平日の朝ということもあり、まだ人は少ない。掃除が行き届いており、葉などの植物由来のゴミは幾つか見かけたが、人口由来のゴミは一つも落ちていなかった。
「背丈の高い高校生を探してくれ。性別は男だ」
辺りを見回すと、噴水の先から落ちてくる水の向こう側に、僕と同じ制服を着た高校生くらいの人がいるのが分かった。小走りでそちらに向かう。
「……ふぁぁ」
その男は眠たそうに欠伸をしていた。ベンチがあるのにわざわざ噴水の淵に座っている。
背丈格好はかなり大きな方だ。高校生にしても高い。顔はよく見えない。制服は同じだから恐らく同じ学校の生徒だろう。……今日は背の高い人とよく会うな。
「オイお前! そこはオレ達のナワバリだ!」
威勢のいいというより、脅かすように張り上げた声が聞こえた。そちらに目線を向けると、僕と同じ制服を着崩した男が二人。そしてタバコをふかす男が一人居た。見た目からして如何にも不良といった感じである。
「……あ、俺ですか?」
ようやく気が付いた背丈の高い男はパッと立ち上がる。その時ようやく顔が見えた。クールな印象を受ける顔立ちがだか、先ほどの強面と比べると幾らか親しみやすい感じがする。
ナワバリ、と言われていたそこをどこうとしたのだろうが、その前に足を踏み付けられて立ち止まる。
「待てよ。お前二年生か? なら先輩に対して失礼はしちゃいけねぇよなぁ?」
直感的に、面倒な絡み方をしてくる人種だと分かった。背丈の高い男が、ゆっくりと背筋を伸ばすと、ガラの悪い方よりも10センチ程度高かった。ガラの悪い方の顔が、一瞬だけ怯える。反射的に足を離したのをいい事に、その背丈の高い男はそこをスグに立ち去る。
かと思えば、少しだけ離れて三人の方を向いて、綺麗に腰を折り曲げたのだ。いわゆるお辞儀である。
「先輩方ッ! すいませんでしたッ!」
張りのある声だった。誠意の込められた声だった。聞いている側に、本気で謝っているんだと確信させる程に、その謝罪は誠実だった。こうやって何も出来ずに傍観している僕には無い、そんな強さを持っていた。少しだけ自分が情けなくなる。
が、ガラの悪い方はというもしめたといったような顔をしていた。弱者を見付けた時のクズみたいな顔だ。
「そぉだよなぁ? キチッと落とし前付けなきゃ……なぁ!」
そしてお辞儀している彼をガラの悪い男が蹴飛ばす。他の男もニヤニヤとした笑みを浮かべて傍観しているだけだ。
「後輩よォ……名前なんて言うんだ? オイ」
「友松……共也です」
その苗字を聞いた時、ふと見也さんの顔が思い浮かぶ。もしかして兄弟なのだろうか。見也さんが探していたのは、目の前の共也くんの事なのだろうか。
なんて考えていると、共也くんは立ち上がってまた謝る。僕は流石に疑問に思った。どうして彼はそこまでして謝り続けるのだろうかと。
今度は別のガラの悪い男が彼を殴る。三回ほど殴った後に、一際強いパンチが彼を襲った。また地面に倒れる彼。綺麗だった制服も今は薄汚くなっている。
「オオイオイ、なにか落ちたぜ後輩クンよ」
ガラの悪い男が拾ったのは、一つの布のなにかだった。色や形から察するに、恐らくはお守りだろう。
「お守り……プッ、ははははは! お前高校生にもなってまだお守りとか付けてんのかよ! しかもこれ小中学生とかに向けた奴じゃねぇか!」
男はそれを見て大きな声で品のない笑い声を上げる。するとタバコの男が笑う男になにか声をかけた。
「おい、それ貸せよ。俺がもっと良い感じにしてやっからよ」
遠くで見ていたタバコを吸っている不良が、お守りを受け取るとポケットからライターを取り出した。二、三回カチカチと音が鳴る。まさか火をつけるつもりなんだろうか。
「オレがこんなんから卒業できるようにしてやっからよ。へへっ」
そして火が灯ったライターが、お守りに押し付けられた。炎はそれを包んで激しく燃える。なんで酷い奴らだ、と僕は思った。しかし、この場でただ傍観しているだけの僕も共犯だと考えると、胸がきつくなる。
「しかし異様に熱ちーな、こ……れ?」
ライターをしまいながら男がそう呟いた。最後が疑問形になった理由が、その一秒後にわかる。タバコを吸う男はたった今気が付いた。そう、燃えているのが、お守りではなく自分の指だということに。
「あああああ! 熱い熱い熱い熱い熱い熱いぃぃッ!」
水水と叫びながら噴水に手を突っ込む男。他の取り巻きも共也くんから離れて近くに行く。
「先輩」
酷く、苛立ちを全面に出した声だった。とても先程の声と同一人物のものとは思えない程の豹変ぶりだ。
ふと、そこで僕は気が付いた。彼の手には、先ほど燃やされそうになっていたお守りが握りしめられていたのだ。僕がどういう事だと考えている間に、共也君が言う。
「何してんだよ」
彼の顔が一気に冷める。これは僕でもわかった。絶対に怒らせてはいけない人種の怒り方だと。
「う、うるせぇ!」
そう言った男と共也くんの間には、確かに5メートルもの間隔があった。
しかし次の瞬間、共也くんはいつの間にか男の前に踏み込んでいたのだ。思わず目を擦っていると、激しい音が一つ。そして大きな水の音もした。目を開けると、男が頬を押さえて水に突っ込んでいる。恐らく共也くんが殴り飛ばしたのだろう。
「ふざけんじゃねぇぞテメェら! 次この御守りに触ったら、その顔面がタイヤみてーに穴が開くまで殴ってやるからな!」
そして激しい音が二つ、水音が二つ聞こえた。揃って三人は仲良く噴水の中に突っ込んでいる。
「まだだ! まだ終わってねぇんだよ! おいアンタら!」
そう言って共也君が、ガラの悪い男達の足を持って引き上げようとした時だ。
「そこまでだ、共也」
まだ怒り足りないといった様子だった共也くんの肩に、大きな手が乗せられた。それは僕が今日の朝知り合った友松見也のものだった。
次話>>2
- Re: ハートのJは挫けない ( No.2 )
- 日時: 2018/04/21 15:18
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
不良達が逃げ去った後に、二人は相対する。見比べてみると、確かに二人共赤の他人には見えないほど雰囲気が似ていた。
「どうしたんすか兄さん。こんな田舎町に来て」
「そうカリカリするな共也」
「とぼけてんじゃねぇ!」
が、どうやらあまり仲が良い方ではないらしい。少なくとも、共也君は見也さんに対して当たりが強い。
「……俺はお前を連れに来たんだよ。共也」
「はぁ!? 何言ってんすかアンタ!」
「冗談じゃない。本気だ。お前はこんな所で腐らせておくには勿体無い人ざ……おい、俺を殺してやろうなんて一時の気の迷いでも考えるんじゃないぞ」
そう言った直後、共也君の右拳が見也さんの顔面に向けて放たれた。が、僕がそれを言う前にその拳は見也さんの手のひらに受け止められている。
途端に、今までの態度とは違ったものを見せる共也君。彼は何をトリガーにそこまで怒るのだろうか。
「兄さん……アンタよぉ! たった今! こんな所でなんて言い回してこの街を侮辱しやがった! 俺のばーちゃんが愛したこの街をなぁ! アンタには一度痛い目に遭ってもらわなくちゃならねぇみてぇだなぁ!」
「やめろ馬鹿。部外者もいるんだぞ」
部外者、とは僕の事だろう。正直、傍から話を聞いていても全く話が掴めない。彼らのことを知らないから当然と言えば当然だが、何故か仲間外れにされているような気がする。
「……チッ。この為の保険ってわけですか。クソ兄貴が」
「全く……やれやれだ」
二人が似たような動作で肩を竦めた後に、共也君がそういえばといった表情で僕の方を向いた。
「所でお前、なんて名前だ? 俺は友松共也」
「ああ、針音貫太だよ」
「そうか。貫太か……で、俺と同じ学校……学校? ……あ」
ふと、彼が呟くように学校と反復する。学校でなにか思い当たる節があるだろうかあったそうだ始業時刻だやばいあと少ししかない。
「やばいよ! あと十分しかないじゃないか!」
「おい貫太! 行こうぜ! 走るぞ!?」
慌ただしく走る僕らを、見也さんはずっと見ていた。正確には、共也君の方をだろう。
「どうして力を使わないのか。分からん奴だ」
僕はその言葉を聞き取った後に、焦りのせいですぐに忘れてしまった。
○
「怪しいデスねぇ。貫太クン」
「……なんだよ観幸君」
前の男子生徒──深探観幸(ふかさぐり/みゆき)が教室で机に座っている僕に、ルーペ越しに如何にも疑ってますよ感を全開にした目線を向けてきた。口で中身がカラのパイプを咥えている。お前それ校則大丈夫かと言いたくなるが、敢えて黙っておこう。
深探観幸。こんな名前だが男だ。見た目に関しても、特に女性らしさは感じられない。とは言っても身長150cmしかない彼から男性らしさを挙げろと言われれば、それはそれで難しいのだが。彼の親は探偵らしい。というのもその姿を一度も見たことがないので信じられないだけだが。また彼は成績も平均的なものだが頭は良いと自称しており、「能ある鷹は爪を隠す……フッフッフ、つまりボクは自らの学力を隠すためにワザと低い点を取っているのデスよ」というのが彼の主張だ。損しているのに早く気が付け。
「今日、同じクラスの友松共也クンと一緒に登校してまシタね?」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「キミィ、もしかして彼の噂知らないのデスか?」
僕が訝しげな目線を向けると、彼はやれやれとこちらにルーペを向けるのを止めて話し始める。
「やれやれ、これだから情報収集を怠る人間はダメなのデス」
うるさい。
「彼……友松共也クンには不思議なウワサがあるのデス」
「へぇ、どんな?」
「超能力者かもしれない、というウワサデスよ」
「……………は?」
流石に付き合いの長い僕でもこの発言は固まってしまった。超能力者、なんて何をバカけた事を言っているのだろうか。
「エエ、その反応は予想済みデスとも。デスがボクは分かったうえで敢えてキミに教えたのデスよ?」
「でも、超能力者なんて……」
「ニワカには信じ難い事なのは分かるのデス。が……最近ボクも探偵業で少しばかり不可解な事がありまシテ」
何だか彼の雰囲気がホラ話をしている様子では無さそうなので、黙って聞いている事にした。お前は自称探偵だろというツッコミも控えておく。
「最近の事件の一つにデスね、どうにもおかしな事件があったのデス。まあ概要はよくある殺人事件だったのデスが……その遺体には刺し傷や打撃痕どころか擦り傷一つすら付いてなかったのデスよ」
「……でも、それなら絞殺とか毒殺とか……」
「絞殺なら線状痕が残るのデスが……まあそれはとにかく、ボクも毒殺を疑ったのデスが……」
ここで彼は自分の机に置いてあったパックのカフェオレを口に含んで一呼吸を置く。そしてこう続けた。
「死因は大量出血だったのデス」
「……え?」
「おかしいデスよね? 傷どころか手術痕さえ見られなかったのに、出血による死亡なんて有り得ないのデス。が……これは事実として起こっているのデスよ」
思わず、唾を飲み込んだ。
僕の様子に気が付いたのか、彼はわざとらしく咳払いをして話を再開した。
「とにかく、そんなこんなで世の中にはザッツ不思議な怪奇現象もあるのデス。よってワタシは友松共也クンの噂もまた真であると考えているのデス」
「そういえば、共也君の噂って?」
「それはデスね……彼は何かを引き寄せる力があるのではないか、というのが私の推理デス」
引き寄せる力、と聞いて少しだけ何か引っかかった気がした。
「どうして?」
「先日の事デス。ボクが購買に行って残り一つだったサンドイッチを取ろうとしたら、いつの間にか消えていたのデスよ。そしてスグ近くでは彼がボクが買おうとしていたサンドイッチとそっくりなものを買っていたのデス」
「……そんなの、観幸君が目を逸らしてる内に誰か誰か取って行ったんじゃ?」
「ボクのカンが言ってるのデス。彼が買ったのはボクが買おうとしたものだと」
「そんなアホな……あ、でも」
そういえば、と先程の公園での光景を思い返す。確かに、彼には一つ、おかしな事があった。
「思い出たるフシがあるのデスか?」
「えーっと……確か今日公園で……そう、5メートル以上離れてる人が持ってたものを……気がついたら手に持ってた……気がする」
「言い方が弱いデスねぇ」
「し、仕方ないじゃないか。あんな急な出来事だったんだから」
「まあ分かったのデス。これでより一層、ボクの推理が固まりましシタ。フッフッフ、やはりボクの推理はパーフェクトデスね」
しかし何かまだ引っかかっる。そうやって考えていると、また思い出した。そう。彼のもう一つのおかしな現象。
「後、さっきと同じ状態で5メートル離れた所から一気に距離を詰めてたよ。走ったとかそんなんじゃなくて、一瞬で」
「……なんデスって?」
「嫌だから、気がついたら距離が詰まっていたというか……」
「むむむむむ……これはボクの推理が怪しくなってきたのデス……」
そのまま探偵もどきは頭を抱えて長考状態に入ってしまった。何やってんだと思いつつも、僕はゴミ箱にパンの袋を捨てた。
「超能力者なんて、居る訳が無いのに」
その言葉も一緒に、ゴミ箱に捨てて置いた。
次話>>3 前話>>1
- Re: ハートのJは挫けない ( No.3 )
- 日時: 2018/04/21 09:35
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「では貫太クン。ボクはここで」
「ああ、また明日ね。観幸君」
放課後、僕らは帰宅部らしくすぐに家路についていた。四つ角で観幸君と別れ、自分の家の方向に向かって歩く。
僕の家はバス停やビルなどが集まっている発展した部分から少し遠い所にある。学校までは歩いて20分といった所だ。
「あれ、メールだ」
自分のパカパカするタイプのケータイが、振動するのを感じ、確認すると親からメールが来ていた。内容はスーパーで買い物をして欲しい。との事だ。因みにスーパーは随分前に通り過ぎた所にある。間の悪さに悪態をつきつつも、さてどうしたものか。
一度家に戻って荷物を置いてくるか。それともこのままスーパーへ行くか。結果一度家に戻る事にした。小柄な僕に学校の荷物とスーパーの荷物を同時に持つのは厳しいと考えたからだ。自分の体格を恨みつつも家に帰る。
「ただいまー」
家には誰もいなかったので、黙って荷物を置いて家を出る。勿論財布はポケットに入れておく。
それからスーパーへと向かい、品を選び、買い物を済ませ、スーパーから出た頃には、既に時刻は7時を過ぎていた。陽は沈んでおり、結構薄暗い。
「……もうすっかり夜だ……早く帰ろう」
レジ袋を持つ手の方の右肩に、多少の負荷を感じつつも、すっかり暗くなった道を歩く。
退屈しのぎに今日あった事を思い浮かべる。色々あった気がする。朝から見也さんや共也君と合った。そこまで思い出して、友人の言葉を思い出す。
『最近の事件の一つにデスね、どうにもおかしな事件があったのデス。まあ概要はよくある殺人事件だったのデスが……その遺体には刺し傷や打撃痕どころか擦り傷一つすら付いてなかったのデスよ』
まさか、こんなところにいるわけが無い。そう思いつつも、頭の片隅で言葉が離れていかない。
ふと、周囲を見渡す。人の気配も何も無く、まるで誘拐現場によくありがちな場所である。自分で考えておきながら、誘拐現場という言葉に鳥肌が立つのを感じた。
「早く帰らなきゃ……」
自然と歩みが早くなるのを感じる。僕を変な不安に襲わせた友人を許すまいと心に決めながらも、自分の家を目指す。
その時、ふと自分の足音以外が聞こえた。良くあることだ。気にするなと自分に言い聞かせながらも更に速度を上げる。すると、その足音もまた同じように加速する。
更に速度を上げる。足音の速度も上がった。曲がり角を曲がった。足音はまだ付いてきている。少しだけ走り始めた。足音は少しだけ速くなった。
思わず背後を振り向く。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
そこには、ギラギラとした目を光らせる男がいた。どろどろと瞳の奥でよく分からないものが渦巻いている気がする。なんだこれ。また走り出そうとして、足が絡まった。思いっ切り地面に体を打ち付けて、スーパーの買い物袋も道路にぶちまけた。中から玉ねぎなどの丸い形状の野菜が幾つか零れる。
「急に声を上げるなよ……あは……は」
「ひっ……」
口がガタガタとして言うことを聞かない。誰だお前はと言おうとしたのに、確かに口に命令したはずなのに、漏れたのは言葉ですらない。電灯に照らされた男の影が自分に重なると、その男がより一層猟奇的な表情を浮かべたのが分かった。
「ひひっ! なんか良い機嫌なんだ! ひはっ! まるで競馬で何連続も勝ち続けた後みたいっつーか! パチンコで連続で大当たりを引き続けたっつーか! そんな感じにサイコーの気分なんだよ! ふひひひひはっ!」
「なっ……あ……」
「サイコーの気分だ! あはは、だからさ、なんか唐突に人を殺したいとか思って、な、ははは、は!」
自分の首に、他人の指が絡み付くのを感じだ。思わずその違和感に叫びそうになるが、喉から漏れるのは車に轢かれるカエルの断末魔みたいな声だ。
「は! 気持ちいいだろ! ひっ!」
そんな訳ない。そう言いたかった。
「…………は……は……はは、はは、はははは! はははは! ははははははははッ!」
しかし、僕の声は笑っていた。いや、完全に僕は笑っていた。
え? なんて思うのも束の間だ。僕は笑っていた。ただひたすらに笑っていた。まるで生霊か亡霊かに取り憑かれている哀れな人形みたいに、笑っていた。おかしくておかしくてしょうがない。どうして僕はこんなに笑っているんだ?
「楽しいだろ!? サイッコーの気分だろ! ひはっ!」
目の前の男が何を言っているかなんてどうでも良かった。ただ今はひたすらにおかしくてしょうがない。どうして僕はこんな愉快な気分になっているのか。今自分がどうしようもなく狂っている事と、今とんでもなく自分が愉快な気分である事しか分からない。
そして僕の意識が少しずつ白くなり始めた。点滅していく視界の中を、僕はただ呆然と眺めているしか出来なかった。
「そこまでだ」
次の瞬間、不意に首の圧迫感が無くなった。乱暴に手が引き剥がされたと思えば、途端に怖くなってくる。自分が殺されそうになっていた事実と、自分が先程まで異常な笑い声を上げていた事に。思わず、震える自分の体を抱き締める。誰でもない、自分の体だった。
「貫太君。俺の後ろに隠れていろ」
「あ、あなた……は……」
ただこれだけは分かった。僕の命を救ったのは、今僕の目の前にいる友松見也さんであることだけは。
「見也……さん?」
「ああ。友松見也だ。……しっかりしろ。精神がやられている」
頭がまだハッキリしない事もあるが、取り敢えず見也さんの後ろにいる。見也さんは振り返り、先程の不審者と相対した。
「……お前、ハート持ちだな?」
「ひひ、ハート持ち? はは、何を言っている」
ハートモチ、という単語が僕には分からない。どういう事だろうか。この深刻な場面で出す言葉にしては少し場違いな気もする。男は相変わらず狂った電波を受信するテレビのように訳の分からない挙動だ。
「……チッ、受け答えすら怪しい程狂っているとは、面倒だな」
「狂いか。そうだ。私は狂っている。は! ははは!」
「……せいぜい、心を壊す力とでも言うべきか。しかし自分の心まで壊れてしまっているとは如何せん厄介な能力だな」
不審者が見也さんに近付こうと走り出す。両手を突き出しながら走るその男の表情は相変わらず崩壊甚だしく笑っている。
「見也さぁん! その手に触れちゃダメです! その手は触れちゃダメなんです!」
一度体験した。だから分かる。あの手に触れてはいけない。先程の異常な程に愉快な感情がどろどろと流し込まれる感覚。アレはどう考えても異常なのだ。
「心配はいらない。当たらなければいい話だ」
「当たらない、なんて、できるか! ひひっ!」
その両手が見也さんを捉えようと伸ばされる。既に二人の距離は縮まっており、もう十分お互いの手が届く距離だ。
「ひゃはぁ!」
そして、不審者の男がその右手を突き出した。が、見也さんはまるでその位置に腕が来ることを予想していたかの如くかわし、不審者の顔面を殴った。大きな音が鳴り、男が数本よろめく。
「なっ……!」
「詳しい話は後だ貫太君。まずはこの不審者を撃退するぞ」
僕は目の前で何がどうなっているのか理解すらできないまま、その理解できないものに取り込まれていた。
次話>>4 前話>>2
- Re: ハートのJは挫けない ( No.4 )
- 日時: 2018/04/27 23:45
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「はひっ!」
殴り飛ばされたと思った男が、再び見也さんに飛びかかる。見也さんはと言うと、ただそこでじっと相手を見ているだけだ。
「危ない!」
「どうやら効果範囲は手だけのようだな。安心したぜ」
が、男の体がふらりと揺れる。どうやら見也さんが足を引っ掛けたようだ。上体を崩した男の腕を掴み、思い切りしゃがみ込む見也さん。
「じゃなきゃ、殴りも投げもできないからな」
そのまま背中で男を背負い、思い切り地面に男の背中を打ち付けた。ロクに受け身すら取らせない勢いで投げられた男が、呻き声をあげるがすぐにケタケタと笑い出す。
「きひひっ! 愉快愉快!」
「……どういうことだ」
「お前はまだ! 気が付いていない! お前の右腕の状態にな! ひひっ!」
男が見也さんの右腕を指差してまたケタケタと笑う。何がおかしいんだとそちらに目線を向けて、目を見開いた。そこにあった右腕は、確かに右腕ではあった。しかし、灰色のスーツが暗い中でも分かるほどに色が変化している。もっと言うと、赤っぽい色に。
「……ハートの具現すらしてくるとはな」
「何を言っているかはサッパリだがお前が! お前が驚いていることが分かる! 分かるぞ! ひひひっ!」
見也さんが自分の血塗れの右腕を確認した後に、相手を睨み付けるように顔を向ける。
「あははっ! 圧倒的大差! 私の方が何倍も有利! ひひひひひ!」
男の発言には同意せざるを得なかった。変な感情を流したり、腕を血塗れにするような力を使う男。それに対して見也さんが行ったのは体術だけ。超常的な力を使う相手の方が、数段上である気がする。
「見也さん! もう無理です! 逃げましょうよ! 貴方の腕だって! もうボロボロじゃないですか!」
僕の叫びに振り返る見也さん。その表情は驚く程に──普通だった。自販機でジュースを買って、注文した品が出てきた時みたいに、平然とした様子だった。
「やれやれ。一つ、重要なことを忘れているようだな」
「え……?」
「ひひっ! 何を言うか!」
男がもう一度、見也さんに近付く。先ほどのように飛びかかる訳ではなく、体を低くした状態から突っ込んできた。
「そう、一つの常識的な事実を忘れている」
男がそのまま見也さんに飛びつこうとする。ダメだ。飛び付かれたら取っ組み合いになって、間違いなくあの不思議な力で壊されてしまう。そう考えた僕は叫ぼうとした。逃げてくれと、全力で避けてと。
「それは、だ」
しかし、僕が叫ぶ前に見也さんと男は接触していた。そして──見也さんは飛び付かれても倒れない。足に力を入れただけで、飛び付かれた衝撃をカバーしたのだ。そして男の胸ぐらを掴んで持ち上げる。
「どんな人間だろうが、どんな力があろうが、人間である以上、殴り続ければ倒せることだ」
音が鳴るほど激しく、見也さんの右手が男の鳩尾に突き込まれた。持ち上げられ宙に浮いたままの男が、口を開いて空気を吐き出した後、ニヤリと笑いを浮かべる。
見也さんが引き抜いた右手から、血が滲み出る。掌や手の甲から溢れるようにして、その赤い血液は出続けていた。
「ゲホゲホっ! ……はは! 何を言っている何を言っている何を言っている! こうして現に! ダメージを負っているではないか!」
男のその発言にすら、見也さんは表情を変えない。そして、手から血が出ていることなどお構い無しに、何度も何度も腹に右手を打ち込む。
「ゲホゲホッ! ガハッ! グアッ! ゲホッ!」
「だからどうした。ダメージを食らうことが、お前を殴らない事には直結しない」
男が呼吸困難に陥っても、見也さんはひたすらに殴り続ける。ただ一点のみを、幾ら血が出ようと、自分の手が傷つこうと、相手が言葉を出さなくなっても、それでもずっと殴り続けた。
そして男が完全に何も言わなくなった後で、見也さんが胸ぐらを離した。どさりと音を立てて落ちる男は、もう何も動いていない。死んでいる訳では無いの思うが、先程までの光景を見ている身としては、死んでいるのではないかと疑ってしまう。一体何発の拳が打ち込まれたかはさておき、電信柱に寄りかかって座る見也さんに近寄る。
「だ、大丈夫です!? きゅ、救急車……」
見也さんが手だけ上げてストップのハンドシグナルを送ってくる。要らないということか。あれほど血が出ているのに。
「……自分の不甲斐なさに呆れるぜ」
そう呟いた後に、ふらふらと立ち上がった見也さん。顔は相変わらず涼しそうだが、顔から下は右腕を中心に血塗れのと言っても過言ではない。
彼は左手でポケットから液晶型の最新の携帯電話を取り出し、少しだけ操作して耳元に当てた。動作から察するに、誰かに電話でも掛けたのだろうか。
「……もしもし、見也だ。……共也の件についてはひとまず後回しだ。ハート持ちが見付かった。しかも未登録のな。……ああ。いつもの手筈で頼む。……この街にはまだ、何人か潜んでいるかもしれない。……可能性の話だ」
数分間ほどやり取りをした後に、通話が終わる。彼はこちらを向くなり睨みつけるような視線を向けて来た。思わず、後ずさりする。
「……安心して欲しい。別に取って食おうなんて思っちゃいない」
「は、はい……」
「……貫太君、君には一つ、頼みたい事がある」
「……?」
「難しい話では無い。一連の出来事を忘れて欲しいというだけだ。君にとって、一番幸せな選択肢だ」
「忘れる……」
「そうだ。君は本来こちら側の人間ではない。忘れるべきだ」
場を静寂が支配する。二人共無言だった。僕は……ただただ、状況も何も分かっておらず、困惑するだけだった。
暫くすると、見也さんが動き出す。僕の方から顔を逸らし、そのまま振り返って何処かへと消えていった。
呼び止める気は、起きなかった。今はただ、僕は家に帰りたくて、自分のあるべき場所に戻りたくて仕方が無かった。
【ブレイクハート(終)】>>1-4
次話>>5 前話>>3
- Re: ハートのJは挫けない ( No.5 )
- 日時: 2018/04/21 14:57
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
早朝。
俺は、友松見也は異常な程に早く目が覚めた。カーテンを開けると、弱い日差しが飛び込んでくる。大して眩しくないのでそのまま放置しておく。
右腕の傷を確認する。昨日応急手当を施した後に包帯を巻いておいたが、まだ治りきってはいないようだ。右手に関しては、結構深刻で、一週間程度では治らないと見て間違いなだろう。
寝間着から灰色のスーツに着替えつつも、昨日の出来事を思い返す。あの不審者に関しては適切な処理が施されているはずだが、気掛かりなのは彼──針音貫太だ。
彼は一般人だ。心を視た限りでも、不思議な力を有している訳でもない。俺や共也とは違う存在だ。
無論、これで忘れるだろうなんて思ってはいない。人とは衝撃的事実に対しては忘却機能が著しく低下する。こればっかりは仕方が無い事だ。
唐突に、滞在中のマンションの一室に、携帯電話から放たれた着信音が反響した。すぐさま応じる。
『もしもし……お早い時間に失礼します』
「要件は」
『先日のハート持ち……灰原明(はいばら/あきら)はこちらの方で処分を決めたいと思います……』
「了解した。それと、そいつのハートは?」
『……どうやら《心を壊す力》のようです』
「なるほどな。……気を付けな。そいつはハートの具現化もしてくる。万一抵抗された時の対策も考えておく事だな」
『了解しました……それと、一つお伝えしたいことが』
何かあっただろうか。聞き返すと電話相手の彼はこう答えた。
『心音様が実家にも帰ってきて欲しいと……』
頭の中に身長の低い妹の顔が思い浮かぶ。ため息を付きつつも、「仕事が終われば帰る。そう伝えてくれ」と言い、通話を切った。
「……悪いな心音。どうやらこの街には、まだまだ怪異が潜んでいるらしい」
机の上に置いておいた、この街の行方不明者のリスト──普通の街にしては多すぎるほどの行方不明者がいると分かる──を眺めながら、そう呟いた。
○
朝。
目覚まし時計の音で目が覚める。時間は午前五時。徒歩で学校に通う生徒にしては早いくらいの時間かもしれない。が、僕にはこの時間帯に起きるのが合っている。
「課題しよっと……」
僕はあまり夜が得意ではない。少なくとも夜に勉強するとすぐに眠くなってしまうのである。だからこうして、半分程度課題を残して朝を迎え、朝にそれらを消化するという生活だった。
暫くの間机に座って問題とにらめっこした後、一段落したところで体を伸ばす。僕の部屋は二階にあり、朝食を食べるには一階へと降りなければならないので階段を下る。そのまま自然な動作で洗面台へと向かった。
蛇口を捻ると冷たい水が出てくる。水で掬って顔にかけ、タオルで拭き取る。鏡には誰でもない僕の顔が映っていた。
「……僕、だよね……」
昨日ケタケタと笑ったあの僕は、きっとおかしな力によるものだったに違いない。そう結論付けて、要らない疑念を頭から消し去る。
その後はリビングで適当にテレビを観て時間を潰し、朝食を摂り、身支度を済ませて家を出た。気分の問題で、昨日の路地は通らなかった。
「はぁ……なんかモヤモヤするなぁ……」
昨日あった事がどうにも頭の中に引っ掛かる。あんな体験をしたのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが。
「ハート持ち……ハートの具現化……なんの事なんだろ」
昨日、見也さんが言っていたフレーズを呟きながら道に転がっていた石を蹴る。そのまま蹴り続けていくつもりだったのに、一発で川に転がり落ちてしまった。
「ちぇっ、付いてないなぁ」
そう呟いてから、前の方を向く。するとそこには、誰かの体があった。思わずビックリして一歩だけ後退する。
「よう貫太。朝からシケた顔してんじゃねぇか。どうかしたか?」
「きょ、共也君か……びっくりしたぁ……」
「スマンスマン。驚かせるみたいになっちまった」
共也君の顔をじっくりと見てみる。やはり、見也さんとどこか似ている雰囲気があった。しかし、共也君の方がどことなく親しみやすい。
「共也君……あのさ……」
「ん? どうかしたか?」
見也さんからあの話は聞いたの、と言おうとして、黙る。確か、二人の仲は険悪だった気がするし……何より、仮に知られていた場合、口に出すのは不味そうだ。
「共也君って、見也さんの事嫌いなの?」
代わりの質問を用意したつもりだったが、すぐさま頭が冷えるのを感じた。まずい。この質問はある意味もっとまずい。
共也君が暫く黙ったあと、答え辛そうに首の後ろを掻く。
「いや……どうなんだろうな。正直俺もよくわかんねぇ。ま、昨日の兄さんは許せなかったがな」
「許せないのに分からないの?」
許せない、ということは嫌いなのではないだろうか。僕がそう考えている間に、共也君から返答が返ってくる。
「許せない部分はあっても、それでも人間100%が嫌いな訳じゃねぇんだ。一つや二つの欠点くらい、誰にでもあるしな」
心が広い、という言葉の意味を、今の瞬間実感した気がする。
なんて僕が一人で感動していたところに、聞き慣れない音楽が響く。音源は方向から考えて、共也君の方。
「俺のケータイだわ。ワリーワリー」
共也君は自分の学生鞄から最新型の携帯電話を取り出す。そして、顔を一瞬だけ不機嫌そうに歪めた後、応答する。……別に最新型か羨ましいなんて思っていない。
「……んだよ兄さん。あ? 今から学校だ」
兄さん、という辺り相手は見也さんなのだろう。昨日の発言を思い出して、少しだけ足が竦む。
「……わーったよ。了解了解。じゃこれで切るぜ」
なんてやっている内に、話を終えていたようだ。携帯電話をしまい、学校へと歩き出す共也君。僕も走って、彼の隣へと向かった。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.6 )
- 日時: 2018/04/28 16:36
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「はぁ、記憶の忘れ方、デスか」
「そう。なんか無いかな?」
昼休み、僕はまた観幸と一緒に昼食を摂っていた。彼の手に握られている包み紙を見る限り、今日は念願のサンドイッチを手に入れたらしい。
「忘れ方……ウーン……覚え方なら聞かれる事もあるのデスが忘れ方……デスか」
目を伏せて数回ほど首を捻る観幸。こんな質問をされたのは初めてだったのだろう。お気に入りの空のパイプを咥えることも忘れて机の上に置いている。没収されないのかな……。
「恋、とかどうデスかね」
らしくない友人の言葉に、思わずむせ返って数回ほど咳をする。こいつ僕に嫌がらせしてるな?
「……らしくないこと言うなよ。パンが台無しになる所だったじゃないか」
「案外スグに嫌な事くらい忘れるかもデスよ。ほら、二年四組の愛泥サンとかどうデスかね」
頭の中で数回ほど言われた名前が回転するが、その苗字にヒットする名前が思い浮かばない。詰まりは知らない人ということだろう。
「誰?」
「……キミは情報社会から隔絶されているのかと思いまシタよ。今、本気で」
本気で呆れたと言わんばかりの表情に、思わずムカッと来る。
「知らないでもおかしくないだろ、別に」
「まあいいのデス。……愛泥隣(あいでい/りん)サンはこの学校一美しいとか、モデルのオファーが来たとか、そういったウワサが大量に流れている人物なのデス。見た目的にもモデルになっても間違いないほどの美人でシタね」
「……ふーん。やけに詳しいじゃないか。好きなの?」
その問に対し、ようやくいつものように空のパイプを咥えた観幸は、若干の嘲笑を込めた口調で返してきた。
「ボクはそんな理由で情報を集めないのデス」
「じゃあなんでだよ?」
チッチッチ、と舌を鳴らしながら、僕の前に手を出して指をリズム良く振る観幸。……早く言えよ焦れったいなぁ……。
「分かってないデスね。では特別にお教えするのデス。……彼女もまた、超能力者なのデス」
あまりの予想外の回答に、思わずぽかんとする。その間彼は何食わぬ顔でこちらにルーペを向けてくる。その隙あらば探偵要素を主張する癖を直せと叫んでやりたい。
「……は?」
「彼女は人の目を異様に集めるのデス。確かに美人ではあるのデスが、それでも超が付くほどでは無いのデス。なのに彼女は現にこうして注目されている……おかしいとは思わないのデスか?」
「……もうホラ話は聞き飽きたよ。大体、どうして観幸は超能力なんて信じてるんだ?」
前から疑問だった。どうして、観幸は超能力なんてものがあると主張し続けるのか。僕みたいに、昨日の出来事のような超常現象にでも立ち会ったのだろうか。
が、観幸の回答は僕の予想とは違っていた。
「ボクが信じている理由、デスか。単純な話なのです」
観幸はワザらとらしく間を置いてから、決め台詞でも言うかのように表情を固め視線を鋭くしてから、言った。
「あった方が、面白いからデス」
「……面白い?」
「だって、面白いじゃないデスか。普通の人間普通の出来事普通の事件。もうそんなものは見飽きたのデス。ボクが求めているのはボクを退屈させない物なのデス」
何を馬鹿なことを、なんて言いそうになった。慌てて口を閉じる。何故なら、観幸の目は今まで以上に真剣なものだったからだ。
それから二人で黙っていると、まあ、と観幸が切り出す。
「とにかく、何か忘れたいならば放置しておくのが一番なのデス。きっと半年後には、嫌な事なんて忘れているものデスよ」
「それも……そうか」
色々と言うし、話は逸らすしだったが、なんだかんだで真剣に考えてくれていたことに、僕は感謝せずにはいられなかった。
その日の放課後、僕はいつも通り靴を履き替えていた。観幸君は学校の委員会、確か図書委員の仕事があるとかで、先に帰っておいてと言われた。待っていても結構かかるだろうし、やることもないので先に帰ることにした。
「……ん? あれ共也君かな……」
学校から出ると、共也君が走って何処かへ向かっているのが見えた。体格が大きく、体型も運動部かと思うほどに引き締まっている共也君の足は速く、小走り程度でもすぐに遠くに行ってしまった。
「そういえば、今日は見也さんと放課後に待ち合わせてるんだっけ」
朝、確か電話でそんな話をしていた気がする。腕時計で時間を確認する。まだ余裕があった。
このまま尾行するか、帰るか。悩ましいが問題は向こう側には見也さんが居る事だ。昨日言われたことを思い出して、僕の好奇心が気が消える。
「……やっぱ余計な詮索は止めておこう」
頼まれてもいないのにこんな事をするのはプライベートの侵害だ。何処ぞの自称探偵ならとにかく、僕がやるべきじゃない。そう考えて、自分の家路に付こうとした。
「すまないが、ちょっと、良いかね?」
が、誰か知らない人物から声を掛けられた。その人物は髪を金色に染めていた。明らかに自然な色とは思えない。わざとらしく地図を広げ、数回ほど回転させたりしている。地図を見方を知らないのか?
「僕、あんま地図得意じゃなくて、つい迷ってしまったんだ。良かったら、案内でもして貰えたら有難いんだがね」
「はぁ……分かりました……」
最近、よく道案内を頼まれる気がする。とは言っても、断れないものは仕方ない。さっさと済ませて家に帰ろう。そう考えて、金髪の男から渡された地図の、マークの付いた部分を見る。どうやら、昔あった教会へと行きたいらしい。しかし確かあそこは数年前から放置されていて廃墟同然のはずだが……。
「いやぁ、実は僕、記者なんだよ。いかにも幽霊とか出そうだろう?」
その事を問うと、このような返事が入って来た。どんな雑誌の記者なのかも聞いておきたかったが、あんまり金髪の男が急かすものだから、その質問をするのは止めておいた。
「ありがとう。名前、なんて言うんだい? 僕は八取仁太郎(はっとり/じんたろう)と言いう」
「ええと、針音貫太です」
人の良さそうな笑みを浮かべる男こと八取さんは、歩きながらも話し掛けてくる。記者と名乗っただけあって、相手を喋らせる技術には長けているかもしれない。
暫く歩いていると、横断歩道で足止めされた。赤信号で止まっているところに、誰かに僕の名前を呼ばれた気がした。音源の方を向く。
「……観幸君?」
「予想より早く委員会が終わりまシタ。今から帰るところデス」
観幸が学校の方から歩いて来た。確かに、ここはよく考えたら観幸の通学路でもある。
彼はむむ、と唸るように言葉を発した後、ルーペをこちらにかざしてくる。その手捌きの良さが無駄に腹立たしい。恐らくこれは彼なりの説明しろの合図なのだろう。全く遠まわしな表現だなと思いつつも、それに応じる。
「ああ、これから僕、この人を教会まで案内するから」
すると納得したようにルーペを仕舞う観幸。ほんとにお前は何がしたいのかさっぱり分からないよ……。
「そうデスか……全く善人デスね。貫太クンは。では失礼するのデス」
観幸は手を振って、僕達と90度違う方向へと行ってしまった。その後ろ姿を見ていると、唐突に八取さんから声を掛けられる。
「良いねぇ。友人ってやつかい?」
「はい。結構前からの付き合いなんです。彼とは」
「素晴らしいね。友情は大切にするといい。なんたって人生を彩る香辛料のようなものだからね。刺激の無い人生ほどつまらないものは無い」
そんな雑談を交えつつも、暫く経って目的地へと着いた。教会は……まあ見るのも酷い位にはボロボロだ。やはり人の手の加えられなくなった建造物はすぐに悪くなるのだろう。ステンドグラスは割れ放題。壁もヒビだらけで欠陥のオンパレードだ。
「うっひゃあ、酷いなぁ。この教会」
敷地内への入口には鉄格子のような扉があり、立ち入り禁止の看板が貼ってある。が、八取さんは遠慮無くその扉を開け、敷地内へと入って行った。
「ちょ、八取さん!?」
「どうしたんだい、針音君」
「どうしたもこうしたも無いですよ! 立入禁止ですよ!?」
「別にいいじゃないか。誰も困らせていないし」
「そ、そんなぁ……」
呼び止める為に僕も敷地内に入る。庭の手入れもされていないようで、周囲は雑草だらけだ。
そして扉を閉じていた鎖を外し、教会のドアを開ける八取さん。流石に不味いだろうと思い、注意しようとして、僕は扉の中に入った。
「ようこそ。僕の教会へ」
扉が、閉じた。
次話>>7 前話>>5
- Re: ハートのJは挫けない ( No.7 )
- 日時: 2018/04/22 19:56
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
滝水公園で、俺こと友松共也は、兄さんこと友松見也の事を待っていた。自分から待ち合わせを指定しておきながら、待たせるとは兄さんは一体何をしているんだ。
「うう、ひっぐ、ひっぐ」
などと心の中で愚痴を零していたら、目の前で泣きじゃくる子供に気が付いた。どうしたのかと思い、声をかけてみる。
「おう、どうしたちびっ子」
「ぼ、僕の風船が……」
どうやら手放した風船が木に引っかかったようだ。まあ、お空に消えていくよりはマシだが……風船が引っかかっているのは大体ここから10m程度上。とても登れる高さでは無かった。仕方ねぇな、と呟いてから、ちびっ子の方を向く。
「なぁちびっ子。少しだけ、待っててくれよな」
そう言ってちびっ子の目を左手で塞ぐ。うわっと驚いたのか声を上げるが、その後は大人しくしておいてくれた。
さて、ここからはちょいとだけ見られてはマズイ。俺は手を上げる。当然このままでは届かない。ここで俺の手首の辺りと、風船の糸の辺りの位置を、俺のハートの力で繋げる。すると俺の手首から先が消え、その代わりに風船のある位置に俺の手首から先が出現した。掴んで引き寄せると、手元に風船が瞬間移動したかのように現れる。
「ほらよ、ちびっ子」
「……え?」
「次からは手、離すんじゃねぇぞ?」
「わー……ありがとう! 大きなお兄さん!」
ちびっ子は風船を手に巻き付けるとそのまま何処かへと走り去って行く。その後ろ姿を見ていると、少しだけ微笑ましくなってきた。
「空間と空間を繋げて、距離を縮めたか」
唐突に、背後から声が掛けられた。振り向くと、どうやらようやく兄さんが公園に姿を表したようだった。跪いて風船を渡した姿勢から立ち上がって、そちらに向かう。
「急に呼び出しなんてどうしたんだよ。兄さん」
「……俺達の仕事に関するの話だ」
すると兄さんはバックから数枚ほどがクリップで纏められた紙の束を渡してくる。黙って受け取り、パラパラと捲ると、図やグラフやらのデータが載っていた。
「これ何だ?」
「この街の行方不明者の数だ。……お前はもう知っている……いや、もう知っていた、か」
「……分かっただろ。俺がこの街を離れない理由」
最も大きな離れない理由は別にあるのだが、もう既にこの男は知っているだろう。今更説明してやる義理も無い。
「祖母の跡を継いでこの街を護る、か。お前は祖母の友松梨花(ともまつ/りか)の事を慕っていたな」
案の定、こちらが説明せずとも知っていた。
「そんなことより、呼び出したからには何かあるんだろ?」
兄さんだけに進行させていると、回りくどくて性にあわない。催促をすると兄さんは俺に紙束のとあるページを見るように言った。そこには数人の顔写真と日付が書いてある。
「そこにいるのは最近の行方不明者だ。そして恐らく、同一人物であると推測される」
「根拠は?」
「その被害者達はどれも毎週金曜日に捜索願が届けられている。つまり行方不明になったのは木曜日という訳だ。……最初の被害者が出たのは五週間前。そこから一週間で一人ずつ、その日に消えている」
確かに、法則性としては筋が通っているかもしれない。しかし一つや疑問が残る。それは今日が木曜日であるということだ。
「兄さん、今日は木曜だ。今からじゃ、もう犯行は終わってるんじゃねぇか?」
「別に、今日探すなんて言ってはいない。明日行方不明者が出た時、早急に動くというだけでな」
「それから共也。恐らく次に行方不明者が出るのはお前の学校の中からだ」
「……どうしてだ?」
兄さんはポケットから折り畳んだ紙を取り出し、パラパラと開き、俺に見えるように出してくる。どうやら水平町の地図のようで、所々に赤ペンで印が付けられている。
「一人目の被害者は、お前の学校からこの街の中で東の一番遠くにある。次の被害者は、お前の学校から東で二番目に遠い。三人目四人目と続き、次はお前の学校だ」
東から順に、どこかの高校、小学校、中学校、高校を指して行き、最後に俺の通う高校を指さす。確かに、それらは一直線上に位置していた。
「……偶然、じゃないのかよ。そんなの、狙う理由もない」
「人とは無意識でやっている間にも何かしら法則を付けたがるものだ。お前だって、歯を磨く時、意識はしてないが、大体の順番というものがある筈だ」
何故かは分からないが、兄さんの言葉には謎の説得力が含まれている。分かりそうで分からない理論だからなのか、単純に納得したのかの判断はとにかく、黙って頷いておく。
「これで話は終わりか?」
「いや、もう一つある。……昨日、ハート持ちに遭遇した」
「なっ!?」
「奴のハートは《心を壊す力》だった。お陰様で腕がこの始末だ」
そう言って兄さんが差し出した手は包帯でグルグルと巻かれており、とても万全な状態であるとは言えなかった。
「だが奴の力は壊すだけ。行方不明にするのには都合の良いハートではない。……気を付けろよ共也。この町、何人どころじゃなくハート持ちが潜んでる可能性がある」
兄さんの表情は相変わらず固いが、これはいつに無く真剣なものだと分かった。
そして思わず、鼻で笑ってしまう。
「ハート持ちが何人居ようが関係無ぇ。俺がこの町を守りゃいいんだよ」
「……そうか」
兄さんはそう返した後、踵を返して歩き始める。別れも挨拶もなしかこの兄は……。
そう思った矢先だ。
「じゃあな。期待してるぜ。共也」
一瞬、その発言があまりに意外すぎて驚いた。まさかあの兄が、俺に、期待してるなんて言うとは思わなかったのだ。
「……ああ、またな、兄さん」
そして兄さんの背中は、公園の何処かへと消えて行った。
次の日。いつも通りに登校した。
頭の中には兄さんの言葉が残っている。次に狙われるのはこの学校の生徒であると。だがクラスの中を見る限り、特に欠けている印象は無い。最も、まだ朝なのでこれから登校してくる生徒もいるのだが。
時間が経過し、チャイムが鳴った。これ以降登校してくる生徒は遅刻扱いになるためか、皆急いで自分の席に着く。教室が静かになったところで、今一度確認してみる。
一つだけ、欠けている席があった。頭の中でその席に座っていた思い出そうとする。深探観幸という男子生徒の後ろの席、確か──。
「す、すいません。朝から立て込んでいて」
そこで、担任がガラガラと急ぎ足で教室に入って来た。待て。ここのクラス担任はいつもチャイムが鳴ると同時に入ってくる。なのに今日に限って遅れるだと? しかも急ぎ足で?
妙な胸騒ぎがする。自分でも無意識に制服の胸部分を掴んでいるのに、ようやく気がついた。
号令で朝のHRが始まる。最初の健康観察で、体調の悪いものが名乗り出るように言われた後、担任はこう言った。
「針音貫太君は今日はお休みです……多分病気です」
待て、多分という言い回し。少しだけ引っかかる。どうして担任がそれを知らない? もしかして、という想定が頭の中で展開される。
針音貫太は、もしかしたら、という、そんな想定である。頭の中ではそうでないことを願っていたが、同時に、この想定が当たっている、という確信も持っていた。
次話>>10 前話>>6
- Re: ハートのJは挫けない ( No.8 )
- 日時: 2018/04/22 12:38
- 名前: 荏原 (ID: AwQOoMhg)
初めまして、超殴の方を拝見させていただたことがあり、偶々波坂さんのお名前が目に入ったので紺作品も読ませていただきました。
まだまだ始まったばかりですが、ケンヤ君の戦い方の渋さ。またカンタ君の不幸体質とでもいうでしょうか、巻き込まれていく様を見てこれからどうなるかドキドキです!!
これからも楽しみにさせていただきます
- Re: ハートのJは挫けない ( No.9 )
- 日時: 2018/04/22 19:53
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
>>8
荏原さん
初めましてー! 個人的に前作を知っていてくれたことにめっちゃテンション上がってます波坂です!
見也さんの戦い方は能力でキラキラ戦う(語彙力の壊滅)感じじゃないんですけどそこに渋さを感じてくれて私は嬉しいです!
ほんと貫太君は不幸体質というか巻き込まれ体質ですけど多分これからも強く生きてくれます。多分()
ありがとうございます! 更新頑張ります!
- Re: ハートのJは挫けない ( No.10 )
- 日時: 2018/04/23 23:50
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
昼休みの事だ。俺はトイレの一室に篭ってひっそりと携帯電話で兄さんと連絡を取っていた。
「ああ。貫太がいねぇ。担任の言い回しもなんか妙だし、俺が直接聞いた時も挙動が不審だった」
あのHRの後、担任に問い詰めてみた所、目が泳いでいたりと明らかに不自然だった。普通はあんな顔しないはずだ。それこそ、自分の生徒が行方不明にでもなったと言わんばかりの顔を。
『……実は先日のハート持ちと遭遇した時、彼はハート持ちに襲われていた』
「げぇっ! マジかよ貫太の奴……不幸体質か?」
『……本来ならば、引き寄せ合うのはハート持ち同士の筈だが……彼には何かあるのかもしれんな』
ハート持ち同士は比較的出会いやすい、というデタラメなのか真実なのか分からない噂がある。もしそれが本当ならば、今頃巻き込まれているのは俺や見也さんの筈なんだがな。
『とにかく、昨日の貫太君の動向を知る人物を探せ。まずはそれからだ。俺は放課後の時間帯になったら校門の周辺で待機しておく』
「ああ、分かったぜ……」
そう言い、通話を切ってトイレから出る。ここに長居したいとは思わない。そのまま教室に戻って席に座り、改めて教室を見渡してみる。
……だが、出会って数日の貫太の友好関係を知っている訳ではない。クラスの中を見渡しても、誰が貫太と仲が良いのかサッパリだ。昼休みは飯の後に体育館にバスケをしに行く習慣が仇となってしまった。
しかし行動しないでおくのもそれはそれでダメだ。仕方が無いので友人に手当りしだいに聞いてみる事にした。
「貫太? あー、あいつとあんま話したことねーな」
「良い人だとは思うけど、昨日のことは知らないなぁ」
だがこのクラスはまだ出来たばかりだ。貫太と友好関係の無い人物が多い。友好関係があったとしても、昨日の動向を知る人間はいなかった。
ただ、得られた情報が一つだけある。
「あー、深探君とかどうだろう。この前幼馴染みだって言ってたよ」
「深探君なら知ってるかも」
貫太は深探観幸という男子生徒と仲が良いという事だ。それも親友のレベルで。そいつに話を聞こうとしていた所で、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
間に合わなかったことに心の中で舌打ちしつつ、今日の放課後、深探観幸から話を聞くことを頭にインプットしておいた。
そして時間が過ぎ去り、放課後。
深探観幸に話を聞きに行く前に、俺は荷物を纏めてから足早に校門へと向かった。昨日とは違い、兄さんは既に待ち合わせ場所にいた。
「何か分かったか」
「ああ、実は──」
兄さんに今まで起こった事を説明する。兄さんは聞いた後に、考えているように目線を下に向け、顎に手を当てる。
「なるほど。深探観幸か。……共也。そいつが学校から出てきたら教えろ。そいつを視る」
そう、先にこちらに来たのには訳がある。それは兄さんのハートだ。
兄さんのハートは《心を視る力》。相手の思考や記憶が文字や写真のような絵になって視界に入ってくるという力だ。触れなければ深層心理は読み取れない、情報を探すのに時間がかかる。等の欠点もあるが。他にも一応、使い方はある。
「……そんなに良いハートじゃない」
今も、俺がハートの事を考えていたのを読み取ったのだろう。確かに、人の心を読むというのは辛い事なのかもしれない。
「あ、アイツだ兄さん! あの身長の低い男子生徒が深探観幸だ!」
丁度校門から出てきた深探観幸を指差す。兄さんは即座に目で補足し、じっくりと眺め始める。その間にも俺達は移動し、出来るだけ深探との距離を一定に保つ。
「『深探観幸。年齢16歳。身長150cm。体重39kg。誕生日5月6日。家族構成は両親とペット。住所は』」
「ああ、個人情報は要らねぇから」
「『……自分は探偵である。貫太君の件はおかしい……』」
そう呟きながらも音声を録音する兄さん。恐らく後で忘れない為にも、メモ書きのように口に出して記録しているのだろう。
暫く歩いていると、交差点に着いた。深探が止まったので、俺達も止まる。
「『……今日はあそこへ行ってみよう。昨日貫太君があそこに行くと言っていた……』」
「やっぱり何か聞いてたか」
「『……交差点はいつもとは違うこちらに行かなければ……』」
深探観幸。ビンゴで助かった。こいつが外れていたらどうしようかと思っていたぜ。なんて兄さんの声で読み上げられる深探の思考を聞きながらそう思った。
矢先の事だった。
「『……ではあそこへ行くために……まずは怪しい尾行をしている二人組を撒こう』、だと!? 不味いぞ共也! アイツ尾行に気が付いている!」
「なにッ!?」
兄さんが読み上げた瞬間、深探が走り出す。横断歩道を渡りきった後、細い路地裏の中へと入っていった。
「視界内にいなければ思考が読めない……。チッ、やってくれるな。深探観幸」
「急いで追うぞ! 兄さん!」
「いや、俺は先回りしておく。挟み撃ちだ」
「……そういう事か! 分かった!」
急いで俺も追い掛ける。一方兄さんは俺とは別の方向に走り出した。
細い路地裏は一本道になっている。隠れるスペースも無ければ物もない。そのためこの先を追えば深探に辿り着けるはずだと思い、奥へ奥へと進む。
一度曲がった所で、誰かの足が見えた。が、すぐに角を曲がって見えなくなる。間違いない。深探だ。足はそこまで早くないらしい。
「しかしここで分かれ道か!」
曲がった先には分かれ道があった。右か左か。どちらへ行ったのかは分からないが、取り敢えず気分的に左へと行く。
「頼む……!」
左の路地へと進み、また角を曲がる。すると視界に飛び込んできたのは、一面の壁、壁、壁。
「クソ! 行き止まりじゃねぇか!」
振り返って、今の位置と分かれ道の位置をハートの力で繋げる。俺が一歩踏み出すと、そこは分かれ道だった。ロスした時間を短縮出来たことに喜びつつも、再び地面を蹴る。
そこからは暫く分かれ道は無かった。ずっと走っていると、今度は何か声のようなものが聞こえた。今居る路地を抜けた所、深探の姿が遂に見えた。
そして深探の前には兄さんがいる。
「……しまったのデス……まさかこんな所で命を落とすハメになるとは……」
「おい待て! 誰もテメーを殺そうなんて思っちゃいねぇさ!」
「では何故尾行していたのデスか! はっきり答えるのデス!」
その問いには、俺でなく兄さんが答えた。
「俺達は、針音貫太君の行方を追っている。君から話が聞きたい」
「……アナタタチも貫太クンの件を怪しいと睨んでいるのデスか?」
「ああ。そうだ」
深探は兄さんと視線を合わせて対峙する。ただでさえ目付きが鋭く強面である兄さんと顔を合わせ、オマケに逸らさないどころか逆に合わせている深探に、思わず驚く。小さな体の割には、全く体格差や雰囲気に押されていない。
「……そうデスか。ひとまず信用するのデス」
話し始めて一分も立たない内に、信用を宣言する深探。思わずどうしてだ? なんて聞いてしまう。
「ここでアナタタチを疑っても仕方ないのデス。何よりボクが探しているのはアナタタチではなく貫太クン及び犯人なのデス。アナタタチを疑ったところで、何が出でくるというのデスか?」
「……中々にクレバーな奴だな。深探観幸」
「……アナタも、その大きな体によらずに知的デスね。そこの不良みたいなのと違って」
「オイ! 誰が不良だテメー!」
深探は俺の言葉に視線を逸らしつつも、路地から抜ける。俺も後に続き、三人で話し合うような位置関係になる。……深探だけやけに身長が小さいので微妙に話しづらいが。
「そんな事より、ボクはアナタタチに聞きたいことが一つあるのデス。返答してくれたら、ボクの持つ情報を差し上げるのデス」
俺の事をそんなことなどと片付けた深探は、俺達に探偵が咥えていそうなパイプを向けて言った。
「……言ってみろ」
兄さんがそう返すと、深探は一度パイプを咥えてから、こう言った。
「アナタタチ──何か不思議な力をもっているのデスか?」
その言葉に、俺は、いや恐らく兄さんもこう思っただろう。
──深探観幸、ただ者ではない。と。
次話>>11 前話>>7
- Re: ハートのJは挫けない ( No.11 )
- 日時: 2018/04/26 15:47
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
俺が完全に呆気を取られていると、兄さんがそれに応じた。クソ、さっきから驚かされっぱなしだ。やはりただ者じゃないぞコイツ。そしてすぐに応じる兄さんもただ者じゃない。そう思った。
「確かに、持っている」
「……ホウ。では詳細を求めるのデス」
「……いやまずはこの条件で情報を一つ。お前の事だ。恐らく小分けで情報を渡していくつもりだろう?」
「む、バレていまシタか」
バレていたのではなく、単純に兄さんは心を読んでそれを予期したのだろう。勿論、それを深探が知ることは無いだろうが。
しかし兄さんのハートの力では思考は探れても、触れない限り記憶は探れない。個人情報などのアイデンティティのようなものたちは読み取れるが、それ以外は直接聞くしかないのだ。
「ではお伝えするのデス。ボクは昨日、貫太クンが知らない男性と歩いているのを見かけまシタ。見た目は金髪で年齢は若い方デス」
「……なるほどな」
サラサラとメモ用紙を取り出して筆を走らせる兄さん。
「ではこちらからも。俺達はハートと呼ばれる異能を有している」
「ハート……ふむふむ」
「ハートを持つ人間の事をハート持ちと呼ぶ。またハートの力は必ず《心を○○する力》のように心に働き掛けるものだ」
「ナルホド……精神に影響を持つ力。それがハートデスか」
「……お前の番だ」
「ボクはお前、ではないのデス。深探観幸という名前があるのデス。……因みに、アナタの名前は?」
「俺は友松見也。そこにいる友松共也の兄だ」
兄さんが俺を指さしながらそう言う。深探は一度俺達の名前を口ずさんだ後、話を戻す。
「ではコチラもお答えするのデス。貫太クンはその後、こんな事を言っていまシタ。この人を教会に案内する、と」
その言葉を聞いて、兄さんがポケットから先日俺に見せた地図を取り出す。学校に印が付いていたり線が引かれているが、今注目すべきは別の場所だ。
「教会教会……っつーとこの和泉教会って所か?」
俺が一番に見付けた教会らしい場所に指を置く。和泉教会。確か最近、新しく出来た教会だとかなんとか。しかし深探は首を横に振った。
「それだとツジツマが合わないのデス。和泉教会までの道は先ほどボクが通った場所は通らないのデス。しかし貫太クンと出会ったのはあの交差点だったのデス」
深探は兄さんの持つ地図に背伸びをして自分の指を置いた。地図上のそこには、何も載っていない。
「何してんだ?」
「ココには以前、教会があったのデス。最も今は廃墟となっていますが……廃墟というのも怪しいくないデスか?」
「確かに……」
「ボクは知る情報はこれだけデス」
そう深探が言うと、兄さんは歩きながら話そうと提案した。三人で歩くと歩幅の関係で深探のみ早歩きのような歩き方となる。
「……先ほどの続きだが、ハートの力は精神に働き掛けるだけではない。ハートの具現化、という現象がある」
「具現化?」
「そうだ。ハートの具現化とは、本来相手や自分の精神に対して起こす現象を、現実を対象にして起こす行為だ」
「例えば?」
「そうだな。例えば心を壊す力を持ったハート持ちがいるとする。そいつがハートの具現化をすれば、そいつは心だけでなく物体を破壊する力を得る」
「フム……つまりハートの力は物理にも作用する」
「ああ。だがハートの具現化が出来ないハート持ちも珍しく無い。その逆もあるがな。……以上だ」
「フフフ、ありがとうなのデス」
嬉しそうな表情を浮かべながらメモ帳を鞄にしまう深探。今までそういった表情を浮かべる印象も無く、意外に感じた。
「なぁ深探、ついでに一つ聞いていいか?」
「なんデス?」
「どうして不思議な力があるか、なんて聞いたんだ?」
率直な疑問。そもそもどうしてコイツはこんな事を思ったのか。謎でしかなかった。常識的に考えてみれば、いくら追い詰められたからといって相手が異能を持っている、なんて思いもしないだろう。
「簡単な事デス」
口に咥えているパイプを、右手で持ち上げて二、三回クルクルと器用に手元で回した後に、深探は言った。
「偶然、ってヤツなのデス」
その答えに、思わず間抜けな声が出た。咄嗟に横を見ると、兄さんも驚いたような顔をしている。かなりレアだ……。
「偶然……ってつまり、何の根拠も無く聞いたのか!?」
「ハイ。アナタに関しては以前から超能力を持っているのではないかと疑っていまシタが、先ほどの問いは完全に偶然なのデス」
「……まさか、あの土壇場で不思議な力、なんて唐突に言い出したのには驚かされたが……なるほど、偶然、か」
感嘆の込められた口調で納得する兄さん。俺としては全く納得出来ないし、なによりあの場でそれを聞き出すコイツの精神も分からない。
「結果、アナタタチはハートと呼ばれる技能を有していたのデス。フフフ、コレはボクにとって大きな一歩なのデス。やはり、超能力は存在していたのデスから」
嬉しそうに顔を綻ばせながら語る彼に、ますます同様を隠せないが、まあひとまずは黙っておく事にした。
そこから少し歩いた所で、唐突に深探がその歩みを止める。少し遅れて俺も止まると、俺達のすぐ横には、正しくボロボロと言った姿の教会があった。もう何年間放置されているのか分からないレベルだ。
立入禁止の看板がぶら下がる、鉄格子の扉に付いているロックは、鎖だけと何とも緩い。しかも鎖に関しても、南京錠などは付けられておらず、ただ巻いただけだ。
「サ、どうするのデスか?」
「どうもこうも、入るしかねぇだろうがよ」
鎖を解いて鉄格子の扉を開ける。ギィギィと錆びた関節が悲鳴を上げる事に放置による劣化を感じつつも、雑草だらけの道を通り、教会の前へと行く。扉扉の周辺は不思議と、ホコリのようなものがない。
「……深探。お前は此処で待っていてくれねぇか」
「わかったのデス。……もしもの時、ボクは足でまといなのデスね?」
「……ワリィな」
「いえいえ、物事には適材適所があるのデス。ボクは頭脳労働で君は肉体労働。今回はキミの出番、というだけなのデス」
「……サンキューな、深探」
快く承諾してくれた深探に感謝しつつも、兄さんと軽く頷き合う。そして意を決して、その協会の巨大な扉を、そっと触れて、勢いよく押して開いた。
光が差し込む教会の中。中は少し暗いが自然の光が入ってくるおかげか幾らか暗室に比べれば明るい。だから、俺でも見つける事が出来た。
「貫太!」
貫太は丁度、教会の中央を走る赤い絨毯の上に倒れていた。急いで貫太の元に向かう。それはもう、必死で。
「おい大丈夫か!」
急いで駆け寄ってそこに跪く。しかし全く反応が無く、何度肩を叩いてもビクともしない。背中に、じんわりと嫌な予感が広がった。
それと、兄さんの言葉が飛んできたのは、ほぼ同時だった。
「共也! 背後に跳べ!」
その言葉を聞いた瞬間、貫太の制服を掴んだ後に思いっ切り床を蹴って飛んだ。そして、目の前を何かが高速で通り過ぎて行き、思わずゾッとする。
「おや、外れてしまったかな」
そいつは教会の椅子の辺りから、ぬっと姿を現した。恐らく、椅子のところにしゃがんで隠れていたのだろう。薄暗いこの部屋で隠れていたことに加え、俺の意識は完全に貫太に向かっていた事を考えれば、気が付かなかったのも道理と言える。
「誰だテメェ! お前が貫太を連れ去った野郎か!」
「如何にも」
そう答えたその男が、薄暗い場所から光の差し込む絨毯の上へと出た。神父のような服装の、金髪の男だった。
「ようこそ、僕の協会へ」
その男は、両手を広げて俺達を歓迎するかのように、怪しい笑みを浮かべながらそう言った。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.12 )
- 日時: 2018/04/26 19:49
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
神父のような格好の金髪の男。恐らく髪の毛は人工色だろう。顔立ちは東洋人と見て間違いない。
正直、不味い状況になった。俺は今貫太を背負った状態でこの男と相対している。先ほどの攻撃から、この男が恐らくハート持ちであることは分かるが、詳細が分からない。俺に分かるのは先ほどの攻撃は黒い何かだったことだけだ。
「君、なんて名前なんだい? 私は八取仁太郎という」
「……どうして聞くんだ?」
男は表情を変えずに、淡々とした、落ち着いた口調で話す。
「君は、自分の秘密を持った人間の事を知らずにはいられるかい? 僕は居られないね。君は僕の秘密を暴いた。だから僕も君の事が知りたいのさ」
「ワリィがテメェに答えてくれる義理はねぇんだよ」
俺の返答に、小さく笑って自嘲気味に笑う八取。
「随分と私も嫌われたものだなぁ。ま、いいさ。君が今背負っている子は友松兄弟について話してくれた。そして背後にいる彼は君の事を共也と呼んだ。つまり君は友松共也で奥にいるのは友松見也だ」
「……知ってて聞いたのかよ、アンタ」
「何、君の口から聞きたいと思っただけさ。まあそんなことはどうでもいいんだ。僕が君に願う事はただ一つ──」
瞬間、目を見開いた。
八取が両手で長い棒を持つかのような姿勢を取った。すると、彼の両手に握られる形で鎌が出現した。それもただの鎌ではない。映画なんかで死神役が持つような、そんな巨大な鎌だ。柄が1.5メートル以上、刃もおおよそ1メートルほどのリーチがある。
「──そこを動くな、ということだけだ」
八取が踏み込む。その真っ黒な鎌が振り下ろされるのを見て、右に避けた。すると鎌は突き刺さるようにして床に刃をくい込ませた。が、鎌が抜かれると、そこに傷は出来ていなかった。
「その鎌……物理的効力はねぇみてぇだな」
「その通りだ。まだハートの具現化には至らずといった所でね。無論、君を狩る程度なら十二分だがね」
大鎌は床に刺さらなかった。つまり、あの鎌は実体があるようで無い。アレで物を切る事は不可能だが、逆にアレに切られると何かしら精神的な攻撃をされる、という事だろう。
再び、大鎌が振るわれた。今度は先ほどのように振り下ろすのではなく横に薙ぐような軌道だ。今度は後ろに跳び、距離を取る。
今は両手が使えない上に貫太がいる。無茶な回避は出来ないし、かと言って下手に距離を取るのも失策と言えるかもしれない。
「はは! 避けてばかりでは僕は倒せないぞ!」
「もう少ししたらそのニヤケ面を跡形もなく粉砕してやるから黙ってろ!」
防戦一方の俺を嘲笑う八取。彼が大きくスイングした鎌を、ギリギリの所で避ける。
この状況、圧倒的に不利だ。俺が背中にいる貫太で両手が塞がっている。しかも相手は武器があり、受け止めるのはNG。全て回避するしかないと考えるとかなり不味い。
「随分とまあ、余裕が無いじゃあないか。しっかり寝ているかい? 顔面がストレスで塗れているよ」
「ストレスの権化はテメーなんだがな! オラァ!」
鎌を回避した直後に、八取に向かって蹴りを放つ。しかし余り力が乗らず、腕に当たったもののダメージらしきものは入らない。鎌で切られそうになるのですぐに距離を取る。
「君、今とても考えているな? どうすればいい。どうすればこの男を倒せると必死に考え込んでいるな? 動きに迷いしかない。そんな攻撃ではこの状況は打破できない。早く君のハートを使うべきではないかね」
「ハッ! テメーのような三下に使ってやるのは蹴りと拳で十分だっつの! 無理に気ィ使うなよオッサン!」
「ほう? 言うじゃないか。では証明して見せてくれたまえ! 因みに私は二十代だクソガキィ!」
俺が力を使わない原因。それは今力を使っても大したダメージは与えられないからだ。使うならば、一際油断し、尚且つ確実に仕留められる時。
などと頭の中で思考を巡らせていると、再び黒い大鎌が横に薙がれる。咄嗟にバックステップを取る。が、何か違和感を覚えた。が、そのまま次の攻撃が来る。
二、三回ほどその場で回避し、相手が踏み込んで来たのでバックステップ。一定の距離感を意識しつつも、攻撃を回避していく──つもりだった。
が、次の薙ぎ払いの攻撃で、俺の服に鎌が掠ったのが見えた。おかしい。明らかに一定距離を保ち、尚且つ掠りもしない範囲なのに、掠っている。しかし相手が特段何かしたとは思えない。武器を持つ手の位置も、振り方も、変わったとは思えない。
つまり、予想できる事と言えば──
「その鎌、大きさを変えられるのか……?」
「おや、バレてしまった、かな。バレないよう、ゆっくりと変えていったのだがね」
更にリーチが伸びられてはこちらにとっては大迷惑だ。時間ごとにリーチが変わるなんてやり辛いことこの上ない。
「バレないようゆっくりと変えていった、だと? 嘘付くんじゃねぇよ」
「……何故、そう思うのかな」
「ゆっくりなんてまどろっこしい事しなくてもよぉ、横に薙いだ瞬間に2cm伸ばすだけで俺は切られるんだぜ? なのにテメーはそれをしない」
図星だったのか、面白くなさそうにフンと鼻で笑うような音を出す八取。
「……よし、止めよう」
何を思ったのか、八取が唐突に、その大鎌を手放した。大気に透けるように、黒い鎌が姿を消す。
「さっきの自信は何処へ消えたんだ?」
「何、君を倒せない訳ではない。だが如何せん労力が掛かる。だからより良い方法を実践するだけさ」
何やら服の内ポケットを漁る八取。そして、彼は中から一本の瓶を取り出した。
その瓶はこちらから見ても異質であった。何故なら、中に何とも判別のつかない怪しい青い炎のようなものが入っていたからだ。
「なんだそれ。人魂みてぇだな」
「おやおや……意外と勘が良いね。正しくこれは人魂だ」
「……何だって?」
「君の言う通り、これは人の魂だ。正確に言うならば心だ。では誰のものか。答えは君の背中にある」
まさか、と思い首を回して貫太を見る。こんなに動き回っているにも関わらず、先程から声の一つも挙げないとは、明らかに異常だ。
「……嘘は付いてないようだな」
後ろから見ている兄さんの、その言葉に愕然とする。つまり、今俺が背負っている貫太は、抜け殻でしかないという事だ。肝心の心は八取に握られている。
「私のハート、《心を奪う力》はこの鎌で切った人間のハートを奪う力だ。そしてハートを持たない人間が対象となった場合、こういう風に心そのものが切り取れる。そして切り取ったものを戻せるのは私だけ……もうわかるだろう?」
分かっている。この後八取が何を言うかも、この後自分が何をするべきかも、分かっている。
「次の攻撃を避けるな、友松共也。もしお前が避けたら、お前が私を攻撃する前にこの瓶を地面に投げ付ける」
「……クソが」
やはりだ。コイツは貫太の魂を人質にして、俺のハートを奪う気だ。あわよくば兄さんのハートも奪うつもりだろう。
しかしこの時、俺はどうにもコイツを許すことが出来なかった。別に、俺や兄さんがどうこう、という訳では無い。
「おい八取仁太郎……お前は知らないだろうが、貫太は、良い奴なんだ」
「何を急に、そんな事を」
ああ、コイツにはきっと何を言っても分からないだろう。だから突き付けてやる。
「今日さ、クラスの連中に話を聞いたんだ。貫太の事を。でさ、誰も貫太の事を悪く言わなかったんだ。それどころか良い奴って言葉を沢山聞いたくらいだ」
「それがどうかしたのかね? 君の話に付き合っている暇はない」
鎌を再び作り出し、俺を切るために横に構える八取。アレに切られれば、もう俺のハートは使えなくなる。だが、そんなことは知ったことではない。
「テメーには分からねぇかも知れねぇ。でもな、貫太は本当に良い奴だ。普段から周りに気遣いして、他人の不幸を悲しんで、他人の幸福を喜んでやれる。出会って数日の俺でも、嫌な顔一つせずに付き合ってくれる……」
無意識の内に、手を強く握っていた。
「そんな良い奴が……貫太みてぇな良い奴が! テメェのような心底腐り切った野郎に! 食われれちまうのは許せねぇんだよ!」
瞬間、一歩踏み出した。無論その一歩は俺が八取に近付くには、余りに小さ過ぎる一歩だ。──しかし俺のハートで、踏み出す直前に俺の前の位置と奴の前の位置を繋げた。
結果、俺は奴の前に瞬間移動したかのように現れた。目の前で八取の目が見開かれるのが分かる。
コイツは今までで一番油断していた。人質を取ったという圧倒的アドバンテージに加えて、俺が話を続けた事による集中力の途切れ。それらが、コイツを油断へと引きずり込んだ。
「しまっ──」
「喰らいやがれ! このド外道が!」
そして、その踏み込んだ足を思い切り腰ごと捻り、もう片方の足を思い切り目の前に放った。蹴りは横腹を捉え、八取をそのまま吹き飛ばす。
赤い絨毯をゴロゴロと転がる野郎を傍目に、落とした貫太の魂が入ったボトルを拾う。幸い、割れてはいなかった。
「……ふう」
正直、危なかった。相手が油断していなければ、貫太の魂を取り返すことは出来なかっただろう。一度貫太を背中から下ろし、床に寝かせる。
「……バカが! 僕の力が無ければ魂を戻すことは出来ないんだぞ!」
なんだ、まだ意識があったのか。そう思いつつ音源の方を向く。ふらつきながらも脇腹を抑えて立ち上がる八取は、こちらを指さしていた。
「そうか、なら俺のハートを教えてやるよ」
俺は魂の入ったボトルを左手に持ち、右手を貫太に当てる。
「《心を繋ぐ力》。それが俺のハートだ」
次話>>13 前話>>11
- Re: ハートのJは挫けない ( No.13 )
- 日時: 2018/04/27 16:08
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
心と心を繋ぐ力。それが俺の力であり、具現化することによって物と物や空間と空間などもものまで、なんでも繋げることができる。
そしてその力を使えば──切り分けられた魂と体を繋げることもできる。左手のボトルから魂のようなものが、貫太の中に入って行く。
「……うっ……」
瞬間的に、貫太が呻くような声を、微かにだが上げた。
「……あ……れ……共也、君?」
「おう、正真正銘、友松共也だ」
力なく座り込む貫太を見て、思わず安堵の息が漏れる。
「ふぅ、上手くいって良かったぜ……」
「……反省したぞ」
その声を聞いて、貫太に自分の後ろに隠れるように促す。貫太はまだ体が安定して動かないのか、ゆっくりとした動作で移動し始める。その間に、声の方へと顔を向けた。そして、彼との距離を歩いて詰める。彼との距離がほんの2m程になった。
「どうした。悪行の反省でもしたか?」
だが、彼は全く俺の言葉が聞こえていないかのように、独り言めいた様子で言葉を喋り続ける。その顔は、俯いていて見えない。
「反省した。ああ僕は反省したよ。僕は自分の行動を省みることが出来る人間だ。だから分かるとも」
彼は再び鎌を作り出し、右手でぶら下げるようにして持つ。俯いたまま、言葉を続ける。
「僕が今までどれだけ自分を過大評価していたのか。どれだけ君を過小評価していたのかハッキリ分かる」
彼は顔を上げる。そして自分の左手で拳を作り、それで自分のこめかみを、鬼気迫る表情で殴り付けた。思わず、驚きの声が、自分の口から漏れる。苦痛で彼の顔が歪み始めた頃には、堪らず声に出していた。
「おまっ、何してやがる!」
「何……くそ下らないゴミみたいな勘違いをしていた自分を戒めただけだ……ああそうだ。このクソったれの僕は今まで勘違いをしていた。愚かだ。愚か過ぎる」
自分で自分を本気で殴る事はできない。と何処ぞの誰かが言っていた気はしたが、彼の自らへの拳は間違いなく本気のものだった。事実、彼は現在こめかみを抑えて軽くだがフラ付いている。
「だから僕は変わる。反省した。反省したからには生かさねばならない。これから僕は、君を全力で打ち倒す。神に誓おう。もう僕は油断しない」
なんて精神力だ。そう思わざるを得なかった。同時に、何が彼をここまでさせているのかも、俺には分からなかった。
「そして僕は考えた。どうやったら君を倒せるか。そして分かった。今の僕では君には勝てない」
「ハッ、分かってんじゃねぇか。だったらさっさと」
俺の言葉を遮って、彼は言う。
「だから奪う」
瞬間、彼がぶら下げていた大鎌を持ち上げる。それの様子に、思わず一歩、後退する。
それの長さは間違いなく10m以上あった。教会の天井が高いからつかないようなものの、一般住宅なら軽く2回まで貫いてしまうのではないか。そう思える程のサイズだった。
そしてそれが、先程と同じようなスピードで振り下ろされる。物理的作用が無いために、そもそも重さという概念があの黒い鎌には存在していないのだろう。
柄が長すぎるせいか、その刃が向かう先は近くにいる俺ではなかった。それは俺の数m背後に向かう。つまり、
「貫太! 避けろ!」
そう、まだそこには貫太が居た。未だに意識が曖昧なのか、俺の言葉に反応はしているものの、その大鎌の存在には気が付いていない。
大鎌が、床に到達した。それは、肩を抉るようにして人に刺さっている様にも見える。最も、物理的な効力はないため、傷は付いていないはずだが。
「……え?」
貫太の意識が漸くハッキリしたのか、訳が分からないと言いたげな声を漏らす。俺だって分からない。
「貫太君、大丈夫か」
そこには兄さんがいた。兄さんが、貫太を持ち上げて強制的に刃の着弾地点から逸らしていた。おかげで、貫太はその鎌の餌食にはなっていなかった。
「け、見也さん……」
「心配するな」
貫太が震える声で兄さんの肩を指差す。それに対し、兄さんは安心させるかのように平然とした声で言う。
──肩に大鎌が刺さっているにも関わらず。
「擦り傷だ」
その強がりが、逆にその光景の痛々しさを際立たせた。
○
僕は目覚めてから、余り意識がハッキリとしていなかった。
だから、唐突に共也君から何か言われても、その意味を理解することはできなかった。そして意味もわからないまま、走って来た見也さんに突き飛ばされ、今に至る。
ただ分かるのは、見也さんの肩にくい込んでいるのは、僕があの時切られた鎌と同じものであること。そして、見也さんは僕を庇って切られたということだけ。
「擦り傷だ」
擦り傷な筈がない。そう言おうとした所で、見也さんの身体から鎌が引き抜かれる。傷という傷は全く無かった。
しかし、見也さんのちょうど切られた辺りから、何か青い炎のようなものが溢れ出る。それが完全に抜け切ったかと思えば、途端に見也さんは力が抜けたように膝を付いた。青い炎はと言うと、八取さんの鎌へと吸われるように入り込んでいく。
「予定通りだ。そうすると予想していたよ友松見也。そして君の今奪ったハートから察するに、君は僕のこの思考に気が付いていたはずだ。だが君はそれに乗ってこの少年を助けた。……フフフ、バカな事をするじゃあないか。聞いた話によれば、君が一番厄介だと思っていたがそうでもないらしい」
「……俺のハートなんざくれてやる」
正直、2人が何を話しているかサッパリ分からなかった。ハート、という単語は以前耳にしたことがあるが、それでも分からない。
「兄さん!」
「こっちを気にするな共也! お前までハートを奪われたらいよいよ勝ち目が無くなる!」
険しい顔付きでやり取りをする2人。どうやら、かなりのピンチらしい。だけど僕には……どうすることも出来ない。ただここで、見ている事しか出来ない。
「フフフ……なるほど、《心を視る力》か。中々便利なハートを持っているじゃあないか。んん? 友松共也、君の考えている事を言ってやろうか? 君は今、能力で距離を詰めてから殴りを繰り返すつもりだな? 君の力の前で多少の距離は無意味、か。なるほど、実に厄介な力だ」
「テメェ……」
「おやおや? そう怒るなよ。手に取るように君の怒りが分かるぞ?」
その笑いながらの話し方こそ砕けているが、その目に一片の油断も見せない八取さん。いざとなればすぐさま共也君を切り裂く為に鎌を振るうつもりだろう。
「……許さねぇ」
こちらからは、共也君の表情は見えなかった。声音は、どうしようもない怒りが、滲み出ていた。
その言葉で、火蓋が切って落とされる。先に仕掛けたのは共也君だ。不思議な力を使い、八取さんとの距離を一気に詰める。以前にも見た瞬間移動だ。そして、拳を突き出す。しかし分かっているかのように余裕のある動作で躱す八取さん。
「あ、あの動きは……!」
見也さんのものだ。見也さんが不審者に襲われた時、初手の攻撃をあんな風に躱した。間違いない。でもどうして八取さんがそんな動作が出来たのかは分からない。
「もう、お前の攻撃は当たらない」
「んなモン知るか! 意地でも当ててやるっつーの!」
独り言のように言葉を流しつつも、鎌を振るう。一方共也君はしゃがみ込み、そのまま片手を付いて瞬発的に右足を繰り出した。が、八取さんはジャンプして回避。そのまましゃがんでいる共也君に向けて鎌を振り下ろす。共也君は横に飛んで回避。しかし振り下ろされる鎌が軌道を変えた。その着地地点は共也君の首。
その姿勢からの回避は絶望的だったが、共也君は拳を虚空に突き出す。見れば、突き出された腕の肘から先が消えていた。そしてその代わりに、八取さんの前に肘から先が姿を現し、一直線に鳩尾へと向かう。が、またも八取さんが直前で回避。拳は空を殴るが、バックステップを取ったことにより若干起動がズレ、鎌が共也君の首のすぐ横に突き立つ。
「中々粘るじゃあないか」
「くっ……!」
明らかに、共也君の方が分が悪い。恐らくあの避け方の必死さを見るに、当たれば一発で共也君の負けらしい。
「だがそれももうすぐ終わりだ!」
共也君が体制を立て直すと、再び2人は激突する。お互いに一撃も相手に打ち込めないまま、戦闘は激化して行く。しかし、共也君の方がどんどん追い詰められていくような気がした。
僕は何をしているんだ。そう考えていた。
僕はただここで傍観しているだけ。何も出来ないんじゃない。何もしないんだ。胸が酷く痛い。自分の惨めさが嫌になる。
あの日もそうだった。共也君がガラの悪い連中に絡まれていた時、僕は声の一つも上げることなく、傍観していただけだった。
不思議と胸が熱くなるのを感じた。なんだこれ、なんでこんなに熱いんだ。痛い。段々と胸を締め付けられる痛みが熱のような熱さに変わっていく。
「ほらほらどうした! もう抵抗すらしていないじゃあないか!」
「うる……せえ……!」
その会話に意識が引き戻される。その時、共也君の動きが鈍くなっているのが分かった。疲れが目に見える。
再び、鎌が横に薙がれる。余裕無く躱した共也君。その時、運は共也君の敵になった。
共也君が踏んだ絨毯の淵が、ズルりと捲れた。そして、そのまま足を取られる。共也君が、転倒した。致命的なミス。そして、それを見逃す八取さんではない。
「君のハートを寄越せ! 友松共也!」
共也君の鳩尾を踏みつける八取さん。共也君が空気を不自然な声と共に吐いた。アレでは回避もできない。
そして、鎌が遂に、共也君に、振り下ろされた。
共也君から溢れ出た青い炎が、黒い鎌に吸われていく。
そして八取さんは、もう一度鎌を上に構えた。
「フフフ、ハハハ! これで君はハート持ちではなくなった! だが君の執念は厄介だ! ここで魂も刈り取ってやる!」
「この野郎っ……!」
共也君が踏み付ける足を殴るが、力が無い。あの姿勢から殴るのでは、大したダメージは与えられないのだろう。
これで、共也君の魂が刈り取られたら、どうなるんだ? 想像さえ付かなかった。
ただ、間違いなく、僕は友達を失う。
それだけは、どうしても、嫌だった。
不意に、先程まで忘れていた胸の熱が再び湧き上がる。
「やめろ……」
その言葉が、無意識の内に出ていた。
「止めろ……!」
また、言葉が出た。胸が熱くなるのに比例して、その言葉が強くなる。
「止めろぉぉぉぉぉ!」
身体中の力を全て使って、その言葉を絞り出した。失いたくない。嫌だ嫌だ。ただその一心で、全ての力を吐き出した。
────不意に、胸から熱が取れるのを感じた。
そして、鎌が、振り下ろされる。
前話>>12 次話>>14
- Re: ハートのJは挫けない ( No.14 )
- 日時: 2018/04/27 21:21
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
振り下ろされた鎌は、共也君を外していた。
「何故だ……」
八取さんが、有り得ないといった表情を浮かべ、2、3歩蹌踉めく。その手から鎌がこぼれ落ち、虚空に消える。
彼は訳が分からないと言った様子で辺りを見渡す。そして、すぐに気が付いた。
自分のちょうど心臓の辺りに、ナイフが突き立っている事に。
「な、なんだこれはッ!」
慌ててナイフを抜こうとする八取さん。しかし、ナイフはするりとすり抜けた。つまり、あの鎌と同じように、物理的な作用のない霊体のようなものなのだろう。
「これは友松兄弟の力ではない……! 誰が! 誰がこのナイフを私に突き刺した!」
そして、八取さんと目が合う。
「君か……! 針音貫太……!」
どうやら、そういうことらしい。
僕も最初は何が何だか分からなかった。ただ、僕の胸の熱が、ナイフとなって外に出てきたのは分かる。そしてそのナイフの刃には、『止めろ』の三文字が刻まれていた。
そしてそれは、一直線に八取さんへと向かい、彼の心臓の辺りに刺さった。
「僕はさっき、変な感覚を覚えた! ああ確かに覚えた! この鎌で友松共也の首を切ってしまうのは不味い。切ってしまいたくない。切ってしまうのは嫌だ。切りたくない。そんな覚えもない感情共が勝手に入って来たんだ! それは君の仕業か! 答えろ針音貫太!」
恐らく、あのナイフは僕の心そのものだ。僕の感情が、八取さんの心に流れ込んだのだ。
「僕には分からない。心を読める貴方には分かるはずだ」
「……クソッ! こんな奴に……!」
どうして僕の心があんな形になって飛んでいったのかは分からない。ただ、一つ分かることがある。それは、
「所で、こっち向いてていいんですか?」
しまった、と言わんばかりに顔を歪めた頃には、もう遅い。
「……隙だらけだなぁ!」
八取さんが慌てて視線を戻すと、既に共也君は立ち上がり、顔面に目掛けて拳を振るっていた。ダイレクトに頬を撃ち抜く拳。
「クソ! しつこい奴だ!」
再び八取さんが鎌を作り出し、共也君に目掛けてそれを振る
「しつこいのが、共也だけだと思うなよ」
直前で、見也さんが八取さんを背後から羽交い締めにした。結果、鎌を上手く振るう事ができない八取さん。体格差的にも、拘束を振りほどくことは殆ど不可能と見て間違いない。
「まさか……椅子に隠れながら僕の背後に回ったのかッ……!」
「その通りだ。お陰で、ホコリだらけの教会の床をほふく前進する事になったがな」
「くっ……!」
共也君が再び拳を構えて、言う。
「さて、俺達のハートを返して貰おうか?」
○
軽く昏倒状態に入るまで殴られた八取さんは、そのまま絨毯の上に寝かせられた。きっといつか目を覚ますだろう。
僕達はと言うと、教会の地下室に来ている。と、言うのも、2人の目的は僕だけではないらしい。確か、行方不明者の捜索と言っていたが。
階段を下った先には、薄暗い空間があった。ヒンヤリとした空気が肌を撫でる。幾つかドアがあり、順に見ていく。
一番左のドアを開ける。すると、そこには四つほど棺桶があった。
「……ちょうど、人数分あるな」
そう呟いた見也さんが、棺桶の蓋をずらす。そこには、ちょうど目を閉じた人の顔があった。横には、青い炎の入った瓶が置かれている。
「ビンゴ。魂と身体だ。共也」
「まかせろ」
共也君が瓶と身体に触れると、瓶の中身が身体に入っていった。しかし、何の反応も無い。
「やはり貫太君のように比較的短時間ならとにかく、長時間魂が切り分けられているとすぐに起きるのは難しいようだな」
そう呟きつつも、他の棺桶も開けていき、そこにいる人とその魂を繋げていく。棺桶の数だけ繰り返したところで、見也さんがポケットからメモを取り出す。
「……いずれも一連の行方不明者だ」
「じゃあ今回の事件はこれで解決だ。いやー疲れた疲れた」
「まだ仕事は残っているぞ」
体を伸ばす共也君を戒めるように言う見也さん。しかし、彼の顔にはいつもの覇気が感じられなかった。
その部屋を出て、もう一つの部屋に入ろうとする。しかし、鍵が掛かっていたのか、何回か開けようとしても、開かない。
「……仕方ないな。おい共也」
「へいへいっと」
そして2人が、慣れた様子でドアに突撃する。幸い一発でドアが開いた。これはドアが脆いのではなく2人が強いのだろう。
中の部屋は、様々な器具が置いてあった。ただ、用途はイマイチ分からない。
部屋の中には、もうそれだけしかないのかと思っていた矢先のことである。部屋の隅に、ベットがあることに気が付いた。
「……あれ、ベットかな?」
「……ホントだ。案外、野郎のプライベートルームかもな」
そう言って、そのベットに近付いた所で、ふと違和感を覚えた。何故なら、そのベットにはタオルケットが掛けられており、そのタオルケットには僅かな膨らみがあったからだ。
まさかと思い、近付く。近くにあった証明のスイッチを捻ると、周囲が少しだけ照らされる。そして分かった。ベットでは、誰かが横になっていることに。
「女の子だ……」
綺麗な顔と髪の女の子が、瞳を閉じてそこに佇んでいた。
「……魂のボトルが無いな」
ホントだ。前の部屋では棺桶の中に入っていたのに、このベットには置かれていない。
「おいおい君達、レディの部屋に無理矢理入るとは節操は無いのかい?」
その声に、咄嗟に背後を振り向く。2人も同じような反応を示した。僕を含めて合計3人の視線が注がれた八取さんはというと、黙って両手を上げた。
「降参だ。僕は今、君達の慈悲で生きている。それを踏み躙るほど僕はクズじゃない」
そんな彼は僕達を押しのけて、女の子の近くまで行って跪く。そして、彼女の手を握って、静かに彼女を見つめていた。先ほどとは打って変わって、優しい印象を受ける。
「僕の妹さ。名前は八取千晴(はっとり/ちはる)という。……綺麗だろう?」
「オイ、さっさと魂のボトルを渡せ。その女の子が目覚めねぇだろうが」
共也君がそう言うと、彼は深いため息を付いた。
深い、深いため息を。
「僕の生き甲斐は千晴だけだった」
「……何が言いてぇんだよ」
「僕は千晴の為に生きていた」
「……おい!」
うわ言のように言葉を並べる八取さんにしびれを切らした共也君が、彼の胸ぐらを持ち上げる。
「さっさと魂を出せ! テメェの力だろうが!」
「……そうなら何億倍良かっただろうね」
その言葉に、共也君が思わず小さく、は? と言う。神父服を直した八取さんは、悲しげな瞳を浮かべていた。
「……僕の妹、千晴は数ヶ月前から意識不明だ。千晴に持病は無いし、生まれつき体が弱い訳でもない。僕が魂を取った訳でもない」
そして、八取さんはそこで深呼吸した。よほど、無理をしているのだろうか、先程から彼の汗の量が尋常ではない。
「僕の妹は……千晴は……心を殺されたんだ」
その発言に、思わず2人は声を上げる。
「心を殺された……だと!?」
「ああ。そうだ。千晴は心を殺された。《心を殺す力》を持ったハート持ちにね」
「《心を殺す力》だと? そんなハート、聞いたことがないな」
深く、深くため息をついてから、八取さんは話し出す。
「今ここにいる千晴の心は死んでいる。でも、確実に死んでいる訳じゃあないんだ。仮死状態なだけで、打開策はあるはずなんだ」
八取さんの目は悲しげだった。
しかし、同時に強い決意のようなものを秘めていることも分かる。
「僕はね、千晴を取り戻す為のハートを探していた。千晴を仮死状態から回復させるような、この呪縛から解放できるような、そんなハートをね」
「……お前が攫ったのは全員ハート持ちでは無かったがな」
「だが結果として君たち2人のようなハート持ちが現れた。……最も、負けてしまっては意味は無いのだがね」
一呼吸を置く八取さん。何処か、その一呼吸が余りに重い。
「君達、僕はね、千晴を生き返らせる為なら何だってやる。この子にもう一度世界を見せる為なら、この命だってくれてやるさ。何億人だろうが殺してみせる」
その言葉には薄っぺらさなど微塵も無かった。きっと彼は、自分なりの正義を貫いているのだろう。だからあんなにハッキリ堂々と語れるのだろう。
「……だったら! お前はなんで助けを求めなかったんだ!」
共也君が、声を荒らげる。
「テメェはただ妹を救いたかっただけなんだろうが! ならなんで俺達は争ったんだ! 俺達が教会に来た時、テメーは俺達に事情を話すことさえ出来なかったのかよ!」
「……もしあの時、僕が助けを求めたら、君は応じたのかい? ……そんな訳が」
「口を挟むようで悪いが、共也は本気でそう思っていやがる」
その言葉に、八取さんの表情が驚きに変わる。
「……でも、もう遅い。私は君たちに、取り返しのつかない事を」
「遅くなんかねぇ。これから探せばいいんだ。妹さんは絶対助けようぜ。俺達も協力する」
「やれやれ……事件は終わらないな」
八取さんの肩を手に乗せて、励ますように言葉を掛けるのは共也君だ。横では見也さんが嬉しそうにため息を付いている。
「……一つ、聞かせて貰えないだろうか」
「お、どうした?」
「君は、どうして、僕を助けてくれるんだい?」
「簡単な話だっつーの」
共也君が、八取さんに指を指す。
「それが、俺の正義だからだ」
「……ありがとう。それ以外、なんと言えばいいだろうか」
八取さんの顔に、笑みが零れた。さっきみたいな歪んだ笑みではない。これ以上無い、清々しい笑みだった。
「さて、取り敢えず今後どうするかを決めなきゃな」
そうやって共也君が呟いたところで、ふと、八取さんの顔が急に強ばった。
「友松共也ぁッ!」
何故? と思ったところで、唐突に共也君に向かって突撃する。まさか裏切ったのか!? あの状態から!?
八取さんは共也君を突き飛ばす。ベットの隅に背中を打ち付ける共也君が苦痛の声を漏らす。見也さんが応じて戦闘態勢に入る。
そして八取さんの方を再度確認して──唖然とした。
「八取ぃッ! テメェ…………」
「あら、外れてしまいましたねぇ……」
クスクスと、笑い声のようなものが部屋に響く。女性の声だ。
「君は……ッ! あの時の……ッ!」
「でもまぁ──」
そして女性は、その八取さんの腹部を貫く刀を思い切り横にスライドさせた。
「ネズミが駆除できたので良しとしましょうか」
八取さんが倒れるのを、僕らはただ、唖然として見ているだけだった。
次話>>15 前話>>13
- Re: ハートのJは挫けない ( No.15 )
- 日時: 2018/04/28 17:41
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「テ、テメェ!」
共也君がその場で拳を放つ。肘から先が八取さんを刀で刺した人物の前に現れ、一直線に鳩尾へと向かう。その人物はすぐに後ろに下がって拳を躱すと、またクスクスと笑い出す。
「随分お疲れのようですねぇ?」
女性は黒いローブのものを羽織っていて、大まかな体の形しかわからない。声が無ければ、女性と判別することも出来なかっただろう。
「心配すんなよ。このくらい余裕だっつーの」
「あらあら、それは逞しい事」
緊迫した空気が一気に広がる中、見也さんは倒れた八取さんに駆け寄る。僕もそれにつられて行く。
「しっかりしろ! 奴は何者だ!」
八取さんは正しく今にも死にそうな表情を浮かべながら、相手を震える指で指す。その手は安定というものを知らないのか、徐々に定まらなくなっていく。
「あ……い……つ……が、ち……はる……を……」
「まさか、奴が《心を殺す力》のハート持ちか!」
そうやっていると、共也君が横から檄を飛ばす。
「兄さん! そんなまどろっこしい事してねぇで記憶を読め! その位置なら触れれるだろうが!」
よくわからないが、見也さんには人の心を読む力があるようだ。そして、触れることで更に詳しく読み取れるのだろう。僕の推測だが。
だが見也さんの表情は険しいままだ。
「できない」
「なんだって!?」
「出来ないと言った! 八取仁太郎の心は既に見えない! 俺のハートの適応範囲は生きている心だ! つまり八取の心は殺されている!」
その言葉に、またクスクスと笑う女性。そして、ニタニタとした口調で言葉を発する。
「そのネズミが言ったんでしょうか……ほんと、最初から最後までちっちゃな害虫みたいな人でしたねぇ、ネズミさん?」
「オラァっ!」
共也君がまたも瞬間移動で距離を詰め、その拳を振るう。が、その女性の手にはいつの間にか刀が握られており、拳を刀で受ける。
「じ、実体がある! この刀、ハートの力の癖に実体があるのか!」
「いや違う共也! 八取仁太郎の身体に傷はない! つまりそいつはハートの具現化ができるタイプのハート持ちだ! 気を付けろ……そいつの具現化は何か不味い!」
女性は共也君の拳を弾くと、ひらりと後ろに跳び、距離を大きく取る。
「まあ今回はネズミを駆除するのが目的ですし……見逃してあげましょう」
「テメェ! さっきからネズミネズミ言いやがって! コイツには八取仁太郎っつー名前があるだろうが!」
共也君のその言葉に、女性は一瞬停止して、こう言った。
「テメーは家に出てきたネズミ共に名前を付けんのかよ」
その声音に、思わず心が冷えた。寒くなって、自分の体を抱く。他の2人も、同じような感覚があったのか顔を顰めている。
女性はその氷のようなオーラから一転、また先程のような柔らかい雰囲気に戻る。
「それでは、ごきげんよう」
「ま、待ちやがれ!」
そのまま、彼女は二、三回跳んで地下室から出ていってしまう。が、共也君はそれを見るなり追い掛けるのではなく、八取さんの方にかけていく。
「おい八取! アイツの名前はなんだ! おい!」
「……がッ、あがぁッ……」
だが八取さんは答えない。いや、答えられないのだろう。見る見るうちに衰弱していくのがわかる。
「おい! なぁ!」
共也君が、必死で呼びかけながら胸を叩く。その衝撃にたたき起こされたように、八取さんの瞳が一瞬だけハッキリと輝いた。
「む……か……わ……」
「むかわ!? それが奴の名前か!」
だが、それでも一瞬だけだった。
遂には、八取さんは、その瞼を下ろしてしまった。
だが、共也君は彼の胸ぐらを掴んで無理矢理起こす。当然、瞼は閉じたままだ。
「おい! 目を覚ませ! 一緒にテメーの妹助けるんだろ! 力合わせて救うって決めたんだろ! なぁ! 兄のお前がやらないで誰がやるんだよ! 答えろよ八取!」
その光景を見ていられなくて、気がついたら声を出していた。
「もう止めてよ共也君! 八取さんは! 八取さんはもう……!」
「うるせぇよ貫太! 八取は! 八取は妹を救わなきゃならないんだ! じゃなきゃ……コイツの心はいつまで経っても救われねぇじゃねぇか! 起きろよ! 八取!」
だが、もう八取さんは目を開けることは無かった。代わりに、その目から一粒、水の玉が落ちた。
○
「それで、事件は解決シタ……とは言えないのデスか」
「……ああ」
何故か教会の外で待っていた観幸の問いに、力無く答える共也君。
見也さんは教会に残って後処理をすると言っていた。多分、誘拐された人達などを運ぶのに人を呼ぶのだろう。
「てか、なんでいるんだよ、観幸」
「フッ、事件ある所にボクは居るのデス」
「何カッコ付けてんだか」
軽口を飛ばし合うが、すぐに途切れてしまう。と、言うのは、僕らの間にトボトボと無言で歩く共也君の存在がチラつくからだ。
「きょ、共也君……」
「……ワリィ、なんか今、力出ねーんだわ」
そう言って、無理矢理笑顔を作ってみせる共也君。逆に痛々しすぎるほど眩しいそれが、胸の中でチクリと棘を指す。
「……ところでさ、共也君」
「……なんだ?」
僕は前からずっと聞こうと思っていた事を、今この場で聞くことにした。
「ハートって、何?」
共也君がそういえば、と言わんばかりの表情でこちらを見る。
「言ってなかったか?」
「聞いてないんだけど。目の前で知らない単語が飛び交ってて、仲間外れな気分だったよ?」
「スマン、まずハートって言うのはだな……」
そう言って言葉の説明をする共也君の表情が、少しだけいつものものに戻っていて、僕は少しだけ安堵した。
○
夜。
滞在中のアパートの一室で、俺は携帯電話を操作していた。無論、連絡を取る為である。
『もしもし』
「友松見也だ。報告がある」
俺は電話の相手に、今回の事件について、犯人がハート持ちだった事について、《心を殺す力》を持っている者がいる事についてを話した。
「──。そうだ。ああ。それで頼む」
そして電話を切ろうかと提案しようとした時、一つの事が頭に過ぎった。そうだ、忘れてはいけない事が一つ、あった。
「それから、もう一つある」
頭の中で彼の事を思い出しつつも、言葉を繋ぐ。
「短い期間に何度も能力の影響を受けた事。しかも弱いものではなく強いものに、だ。それから本人の素質もあったのだろう。そして、感情の昂り。これらが主な要因で、新しくハートを発現させた者がいる。名前は──」
彼は何かと不幸体質ではあったが、まさかこちら側の素質があったとは、正直思いもしなかった。
「針音貫太という」
【スティールハート(終)】>>5-7 >>10-15
次話>>16 前話>>14
- Re: ハートのJは挫けない ( No.16 )
- 日時: 2018/04/30 11:47
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
目覚まし時計の音が部屋中に鳴り響く。
ゆっくりと上体を起こしてから、目覚まし時計のスイッチをOFFにして、目を擦る。いつも通りの朝だ。今日も僕の、針音貫太の平凡な一日が始まる。
結論から言うと、事件は今も続いている。もうアレから5日間も経っているが、未だに犯人のはの字も見つかっていない。
分かることは犯人が女性であること。そして『むかわ』という読み方の名字、または名前であるということ。しかしそれ以外は何も分かっていない。身長や体格はローブで体が隠れていたせいで分かりづらかった。
見也さんは調査を続けているらしいが、どうにも進まないらしい。まだまだ絞込みには時間がかかるようだ。
ふと、その旨の連絡を受けた時、見也さんに言われた言葉を思い出す。
『貫太君、君にはハートが宿っている』
曰く、僕にはハートと呼ばれる不思議な力が発現したらしい。
もちろん、そんな事言われても、実感が湧かない。思い返してみれば、あの時八取さんの胸に刺さっていたナイフ。アレは僕から飛んでいったものだった。確かに、僕はあの時、不思議な力を使っていた。
でも、だからと言って、急に自分が不思議な力を使えるようになった。なんて、唐突過ぎて分からない。第一、あの日以来僕はハートの力が出せずにいる。結局の所、僕は何も変わっていないのだ。
『まあそう気にすんなよ貫太。オメーにはハートが無くっても、その心はピカイチだからよ』
そう共也君は言ってくれたが、如何せん自分の中にあるのに出せない事が、どうにももどかしく感じる。
「……はぁ」
深い溜息を付いて、僕は課題の為に机に向かった。
いつも通りの時刻に家から出る。暫く道を歩けば、共也君がちょうど滝水公園の辺りで立っていた。駆け寄って声を掛ける。
「おはよー。どうしたの? こんなところで」
「おう。貫太、アレ見てみろよ」
共也君が指差すのは道路を挟んで向かい側の方だった。そちらには、男子生徒が数人と女子生徒一人が談笑しながら歩いている。男子生徒の方は少なくとも5人以上は居た。朝の登校風景としては、異常な気がする。
「愛泥さん! 荷物持ちますよ!」
「愛泥さん! 今日も髪、綺麗ですね!」
男子生徒の発言は、こう、まるで女王に媚を売る側近みたいだ。相手より下手に出て、気に入られようとしている感じが滲み出ている。
一方女子生徒は柔らかな笑みを浮かべて言葉を返している。男子生徒の声が騒がしいのでこちらからはあまり聞こえない。
「あの人が愛泥さんかぁ……」
愛泥隣。観幸から聞いた話だと超絶美人だとかなんだとか。ここから見た限り、髪が黒くて長い事しか分からない。詳しい事は近づかないことには分からないだろう。
「なんだ貫太。知ってんのか?」
「うん、この前観幸が言ってた」
「へぇ、アイツ意外なトコあんだなー」
それは少し違うのだが、訂正するのが面倒だった事もあり流しておく。若干胸が痛むが、気にしない。
「にしても、ありゃちと気味がワリィっつーかよ、なんか盲目的だなー。愛泥の方もちょっとばかり遊んでるだけみてーな雰囲気だぜ」
「そうかな……」
容赦の無い共也君の言い方に苦笑いしつつも、僕達は横断歩道を渡る。
その時、一瞬だが、何か高い音がした。まるで、金属と金属がぶつかるような、そんな音が耳に入った。
「共也君、今なんかキンッて音がしなかった?」
「気のせいじゃねぇか?」
「そっか。ごめんね。変な事言って」
聞き違いだと切り捨て、僕達は学校へと向かった。
教室に入って自分の席に向かうと、既に観幸がいた。
「おはよう、観幸」
「おはようなのデス……ふむ」
「なんだよ、そんなジロジロ見て」
「……何かありまシタ?」
なんでコイツはこんなに鋭いんだと頭の中で思いつつも、目を逸らして何でもないと答える。目を逸らしたのは少しまずかったかもしれない。
「……まぁいいのデス。何かと疲れていそうデスし」
「……ありがとう、なのかな」
ほっと安堵の息を吐く。正直、観幸はハート持ちなんじゃないかと思い始めた。若しかしたら発現しているんじゃないだろうか。
「ボクはハート持ちでは無いのデス」
「なんで分かるんだよ!」
「あのデスね。ボクは不思議な力を使いたい訳では無いのデスよ? ボクはそれを追い掛けて暴きたいだけなのデス」
「……観幸とは結構長い付き合いだけど、ほんとまだまだ知らないことだらけだ……」
「フフッ、探偵というものはミステリアスなものなのデス」
そう言ってポケットから空っぽのパイプを口に咥える観幸。
「ミステリーを追う探偵がミステリアスなの?」
「ハンムラビ法典というものをご存知で?」
「ミステリーにミステリーで対抗してどうするんだよ」
友人に半分呆れつつも、課題を提出しに行く。課題の提出は、廊下のロッカーの上だ。……別に意図してダジャレを言った訳では無い。
「すみません……針音貫太君、ですか?」
「え? 僕に何か用で──」
一瞬、目を疑った。
何故なら、僕に声を掛けたのは、
「すみません……少し、良いですか?」
愛泥隣さんだったからだ。
思わず、押し黙ってしまう。近くで見ると、彼女の顔立ちは超級とまでは行かないが、結構整っている事が分かった。身長は僕よりも少し高い程度。
「は、はい、えっと……どうしました?」
「すみません……どうか何も言わずに付いてきて下さい。お願いします……」
そう懸命に言うものだから、ついつい了承してしまう。こうやって意味不明な頼みでも受けてしまうのが僕の悪い癖なのだろう。
何か視線を感じた。チラリと教室の方を覗くと、共也君と観幸がこちらを向いて何か驚きながら喋っている。クソ、君たちいつから仲良くなったんだ! そして助けて!
そんな僕の切実な願いが通じたのか、共也君はこちらに拳を突き出し、親指が上に来るように回転させ、親指をこれでもかという程上げて、口パクでこう言った。
『良かったな。頑張れよ』
どうしよう。共也君の思いやりに涙が止まらないよ。そして観幸。さり気なくルーペをこちらに向けてニヤニヤするな。
「こっちです……」
そう言っている間にも、愛泥さんは歩いていってしまう。後で友人達になんと言ってやろうか考えつつ、僕はその後を追った。
暫く歩いたところで、人気の無い体育館裏へと付く。なんか、こう、変な期待をしてしまう場だ。
いけないと雑念を振り払おうと頭を振る。大体、なんだって僕をこんな所に呼び出したんだ。最近、僕は少し忙し過ぎるぞ。なんて頭の中で考えていたら、愛泥さんが僕の名前を呼んだ。
それは、真剣な声で。
「貫太さん」
「……どうしたの?」
愛泥さんは、頭を勢い良く下げたかと思えば、少し恥じらいを含めた声でこう言った。
「わ、私の男役をやって下さい!」
……………………男役。
「………………………………え?」
発言の意味が分からずに、僕はただただ、困惑するだけだった。
次話>>17 前話>>15
- Re: ハートのJは挫けない ( No.17 )
- 日時: 2018/04/30 11:49
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
場に、痛いほどの沈黙が、充満する。
きっと間抜け面をしている僕を見て、慌てたように「あっ」とか「その……」などと言う愛泥さん。いや正直言って訳が分からない。
「あの……」
「は、はいっ!」
そんなに驚いたような顔で反応しないで欲しい。まるで僕が不審者みたいじゃないか。そう考えるとつい先日の事件を思い出してしまう。……嫌だなぁ、不審者。
「男役って……なんです……か?」
驚きのあまり口が回らない。いやほんとに男役ってなんだ男役って。愛泥さんは演劇部で男役の代打をして欲しいとかそういう事か。いやそれだと身長の低……控えめな僕を選ぶ理由が分からない。
「あの……信じて貰えないかも知れないんですけど……良いですか?」
「いや……なんかもう、多分大体なら信じられるよ」
何だか緊張して言葉が出てこない。愛泥さんは僕の方をチラチラ窺いつつ、顔を逸らしながら話す。なんだその動作。
「男役っていうのは、その……私の……彼……役……で」
「え? なんて?」
頼むからちゃんと発言して欲しい。全く後半部分が聞こえなかった。
愛泥さんの態度がやけに不自然に思えてくる。朝は慣れたように男子生徒と登校していたのに、今はこんなに挙動不審だ。それだけ何か、不味いお願いなのだろうか。だとすれば……想像しただけでも恐ろしい。
「私の彼氏役を……お願いしたいなって……」
「いやいやいやいやいや待って待とうよ愛泥さん一から十までちゃんと説明しなきゃまるで告白みたいになってるからね!?」
ついつい早口になってしまう。なんなんだこの空気……これはある意味最大のピンチだぞ僕……。
「オホン……では説明を……」
○
「で、結局どうなったのデスか?」
「貫太……お前案外隅に置けない奴だな……」
「ニヤニヤしながらこっちにルーペを向けないでよ。共也君も酷いよ」
昼休み。観幸と共也君と3人で昼食を摂っている。……僕がほかの所で食べようとしたら共也君にハートで追い付かれた。学校でハートを乱用するなと言いたいが、知らない人だらけのここでそんな発言をするわけにもいかず、黙るしかない僕。許さない……!
「ええい! さっさと答えるのデス!」
「取り調べは警察の仕事だよ? 探偵の仕事じゃないんだよ?」
「時には強情な証人や関係人物の口を割らねばならぬ時もあるのデス」
「どうやって?」
「フィジクス、デス」
「物理じゃないか!」
いつもの頭脳は何処に行ったんだ頭脳は。自ら知性派を主張しておきながら、説得は物理に頼るとか矛盾にも程があるぞコイツ……。
「で、結局のところ何があったんだよ」
「…………」
もちろん何も無かった訳ではない。ただ、愛泥さんから他言はしないでと言われたら言えない。
愛泥さん曰く、三年生の藤倉雄(ふじくら/ゆう)先輩に『オレの女になれ』のような旨の発言をされたらしい。当然嫌なので、僕に彼氏役として振る舞って欲しい。そうすれば藤倉先輩も諦めるだろう……との事だ。もちろんフリである。フリである。僕は悲しい。
なんだか作り話のようだが、実際に僕の周囲では作り話のような話が幾つもある。事実は小説より奇なり、とかなんとかいう言葉があるくらいだ。僕は彼女を信じて了承してしまった。……ほんとに、断れない癖は直した方が良いんじゃないかと思えてきた。
「……実はさ、告白されたんだ」
そして、この言葉を他の人に伝えるように言われた。何故断らなかったと数時間前の僕を殴ってやりたい。何これ。なんかカッコつけて「俺○○から告白された」とか言ってカッコつけてる小学生みたいだ。恥ずかしい。今すぐ屋上に行ってこの身を大空に投げ出してやりたい気分だ。
「…………」
「…………観幸、サンドイッチ、落としたぜ」
共也君が指摘したにも関わらず、足元に落ちた食べかけのサンドイッチの亡骸には目もくれない観幸。……コイツ、さては僕に彼女なんて出来ないと思っていたな? 一方、共也君はただただ驚いているだけだ。まだこちらは良心的である。
「……何故?」
いつもの口調すら吹き飛んだ様子で尋ねてくる観幸。そんなの僕が聞きたい。きっと、彼氏のフリをしてもらいたい理由は単純に、たまたま断らなさそうな僕がそこに居た、という事なのだろう。……僕はどうやら見た目からして断れない雰囲気が漂っているようだ。
「いやー、良かったな貫太……ちと意外だったけどよ。ピカイチじゃねぇか」
「意外の二文字が僕の心に突き刺さるよ共也君」
「……取り調べするのデス。何か、何かトリックがあるのデス……」
「諦めた方がいいと思う……僕にもよく分からないから……」
2人とも僕に彼女が出来たという話がそこまで信じられないのだろうか。長く付き合っている観幸ならとにかく、共也君にまでそんなことを言われるなんて思ってもいなかった。
下の名前で呼び合う辺り、いつの間にか仲良くなっていた2人を傍目に、僕は弁当のミニトマトを八つ当たり気味に噛み潰した。
酸っぱい。
その日の放課後、待ち合わせ場所の体育館裏で待っていると、愛泥さんが向こうから走ってくるのが見えた。
「ご、ごめんなさい……待ちましたか?」
「いや、全然大丈夫だよ。……で、これからどうするの?」
正直、気が乗らない。初めての恋愛関係が(仮)が付くようなものなんて認めたくない。……僕らしいといえば僕らしい。なんて言葉を否定出来ないのが悔しい。
愛泥さんが近寄って、恥ずかしげに顔を逸らしながら僕の手を握る。……僕の手の方が小さいだと……!?
「て、手を握って……その辺りを……」
待ってくれ。そんな馬鹿な。嘘だ。こんな小柄、いやまあ確かに僕より身長は高いけど、女子に、負けるなんて、嘘だ。認めたくない。
「あ、あの、貫太君?」
「ハッ! ご、ごめん。つい考え事してた」
「そう……なんだ……」
一瞬だが、視線が悲しそうな色に変わった。確かに、僕はそれを感知した。
そうだ。彼女は手を握ったんだ。僕の手を。それはきっと、勇気のいる事だったんだ。僕だって少し戸惑う。でも彼女は勇気を振り絞って、自分から手を握ったんだ。なのに僕は考え事をして……最低じゃないか。
「取り敢えず、学校の周辺を歩こうかな?」
軽くだが気分が重くなる。学校の周辺……知り合いに遭遇する確率は十分にある。いやまあ確かに、三年の先輩に知らせるにはそうするのが手っ取り早いのだろう。
でも、さっきの罪悪感もあってか、僕はまた首を振れなかった。やはり僕は、どこまで行っても断れない男なのかもしれない。
「じゃ、よろしくね?」
「よろしくお願いします……」
軽くリードされている気分になりつつも、僕は大人しく愛泥さんに手を引っ張られて校門から出た。
次話>>18 前話>>16
- Re: ハートのJは挫けない ( No.18 )
- 日時: 2018/05/01 00:14
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
こうして、僕らは学校周辺を見せつけるかのように、手を繋いで歩く。周囲からはどう映るんだろうか。なんだかこう、いつもと何か違う。視線で舐められてる気分だ。
「貫太君、アレが監視です」
「アレ……?」
愛泥さんがさり気なく視線を向けた先を、チラリとだけ見る。そこには一つの木があった。そして、その陰に隠れるかのように、男子生徒が2人ほどいる。
「なんで監視なんているのさ!」
「恐らく藤倉先輩が回したものかと……」
三年の藤倉先輩は所謂学校を仕切る長として名を挙げられるほど喧嘩の腕が立つ。一応、僕も見た目は知っているがかなり体格が良かった。それこそ、共也君なんかと張り合えるレベルで。
「……喫茶店にでも入りませんか?」
「え?」
「貫太君も疲れてるでしょうし……」
そのまま、愛泥さんと一緒に喫茶店に入る。普段僕が絶対に行かないタイプの店だ。中ではなく外のテーブルに座る。
「な、なんで中じゃないの!?」
「中だったら見られない可能性もある……ので」
「そ、そんなぁ……」
くっ、どうして僕はこうやって抵抗するまもなく困難に突き落とされていくんだ。
注文はよく分からなかったので取り敢えず自分でも飲めそうな甘いものにしておく。僕の好物は日本食なんだけどな。
注文が来るまでの間、暫く無言が続く。……無言、ってなんか怪しまれそうな気がするな。なんか喋っておくべきかもしれない。そう思って、喋りかけてみる。というか、聞きたかった事だ。
「あのさ……愛泥さんは、なんで僕に彼氏役なんて頼んだの?」
「それは……怒らないで聞いて欲しいんですけど……」
その後、愛泥さんは本当に苦しそうな様子で言葉を吐いた。
「……貫太君なら……断らなさそうだなって……」
でも、僕にはその光景が異常に映る。この僕が断れない男っていうのは、もはや周知の事実と言っても過言じゃない。なのに、どうしてそこまで胸を痛めながらそう言うのか。まるで本心を押し殺しているかのような言い方をするのか。僕は、彼女の事が分からなかった。考え事をして返答をしないのもなんなので、一旦思考を止める。
「ああそういう事か。いや……断らなさそうって良く言われるよ。自分でもこの癖、何とかしなきゃって思うんだけど……ね」
軽くため息を付きそうになって、慌てて飲み込む。そうだ、ここでため息を付いたら、なんか愛泥さんに文句を言いたいと囚われてしまう可能性もある。
「お待たせしました」
そこで丁度ウェイターさんが注文した商品を届けてくれた。軽く会釈して自分のものを取って飲む。苦い。堪らず砂糖とミルクを追加した。もう一度飲むと、少しは良くなっていた。
一方、愛泥さんは上品な感じで飲んでいる。……やっぱ綺麗な顔だなと見ていると、一瞬だけ目が合って、思わず逸らす。微妙な空気感になりつつも、取り敢えずカップの中の液体を飲み干した。
「……貫太君、私の事、どう思ってますか?」
その発言に、思わずむせ返った。液体こそ飛び出なかったから良かったものの、僕は思いっきり咳込んでしまう。店員さんから心配されるほどに。
「あっ、ごめんなさいっ! 急にこんなこと聞いて……」
「いや、良いんだけどさ、どういう意味?」
僕の何気ない質問にも、答えづらそうな表情をする愛泥さん。まさか僕、ひょっとして何か間違ったことでも言っただろうか。
「私って……貫太君から嫌われてるかも知れないって……」
「え?」
嫌う? どういことだろうか。少なくとも僕は現時点では愛泥さんのことは嫌いではない。少しズレているのかなとは思うけど、彼女の行動には幾らか優しさがある。
「私……ずっと貫太君を困らせてばっかりで……でも私からは何もしてなくて……こんなの、ホントは頼むべき事じゃないのに……」
「ああ。大丈夫だよ。面倒事を押し付けられるのは慣れてるし、愛泥さんのはまだ良心的だよ」
事実、これよりも厄介な頼み事をされた事もある。
それを聞いたら、愛泥さんがテーブルを強く叩き、上体をこちらに乗り出してきた。食器が音を立てて揺れる。
「わ、私の事嫌いじゃないんですか!?」
「う、うん。そうだけど……」
そこまで驚くような事だっただろうか、そうやって自分の発言を省みる。……いや、驚く要素は無いはずだが。
「じゃあ、私の事……好きですか!?」
「待って今とんでもないこと聞いてるから。また一から十まで説明できてないパターンだから」
愛泥さんは焦ると話を端折る癖があるのだろうか。などと考えていたら、首を横に振る彼女。……それってつまり、本気で聞きたいということなのだろうか。
正直、返答に困る。僕は愛泥さんの存在を知って数日程度だ。何故かこういう風に関わりを持っているけど、僕はまだ彼女の事を何も知らない。かと言って、変に気を使って好きなんて無責任なこというのは、僕は少なくとも嫌だ。
「嫌いじゃない……かな」
結局、僕は逃げ道に走った、この言葉は嫌いではないが特筆して好きなわけではないという意味を持っている。つまり、大して特別な感情はないよと、そう伝えているのだ。
「そうですか……」
残念そうな表情を浮かべて、椅子に座る愛泥さん。僕には彼女の発言の真意は分からない。ただ、今の彼女の顔は、とても残念そうだった。……まさか彼女は僕に──
──いや、変な期待は止めておこう。
「じゃあ出ましょうか」
愛泥さんがそういうので、財布を取り出す。
「あ、会計は僕がやっておくから。愛泥さんは先に出てて」
「私が払いますよ。私が頼み事したんですから……」
「そっか。じゃあお願いします」
そう言って席から立って会計に向かう愛泥さん。そこで、何かが通学カバンから落ちたのが分かった。向かい側の席に回ってそれを拾う。
「……なんだこれ? 熊……のキーホルダー?」
キーホルダーだった。しかし、鍵などは付けられておらず、どうやらキーホルダー単体で持っていたらしい。……どういう事だろう。こういうの、好きなんだろうか。
「これ、どこかで見たような気がするなぁ……気のせいか」
何となくこの熊のキーホルダーに既視感を覚えたが、特に証拠がある訳でもない。愛泥さんが遠くから声を掛けてきた頃には、既にその事は忘れていた。
「愛泥さんこれ。さっき落としたよ」
「あれ……ホントだ。無くなってる。ありがとうございます」
「あんまり新しいそうじゃないけど、愛泥さんって物持ちがいいんだね」
そう言うと、愛泥さんは硬かった表情筋を少しだけ緩めて答えた。少しだけ、嬉しそうに。
「これ、大切な友人がくれたもので……思い出の品でもあるんです」
そうか。だからキーホルダー単体で持っていたのか、と合点がいく。
「そっか。無くさないで良かったね」
はい、と返答した彼女の顔は、やはり嬉しそうだった。その笑顔に、思わず可愛いと思ってしまったのは、どうでもいい話だろう。
○
彼は覚えているだろうか。
今日、ふとあの記憶を思い出した。まだ私が1年生だった時の、思い出したくもあり、思い出したくもない記憶。
ただ、キーホルダーを差し出してきた時の姿が、どうにもあの時の姿と重なる。もしかしたら、彼は、
「……そんな訳無い……か」
そうだ。まず彼は1年生の時に私の事を認知していたかすら怪しい。こちらが一方的に名前を知っていただけで、相手からすればせいぜい通りかかった一般生徒Aである。そんなの覚えているわけが無い。そして──1年生と2年生の私は違うのだから。見た目だって、今まで気にもしなかった肌や髪を気にするようになったし、歩き方だって変えた。少しでも、自分の姿を彼に認めてもらう為に変えたかった。
本当は、声を掛けるのはもっと後の予定だった。でも、私にはもう、そうする必要が無い。少しばかり強硬手段でも、私にはその方法があるのだから。
「……おやすみなさい」
どうか夢にも、貴方が出てきますように。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.19 )
- 日時: 2018/05/03 08:55
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: 5VUvCs/q)
次の日の朝。
共也君といつも通り登校していると、また愛泥さんが登校しているのを見かけた。が、男子生徒は周囲にはいない。愛泥さんが気が付いているかは分からないが、遠巻きに眺めている男子生徒が多いようだ。……僕と代わってくれないかなぁ。
「コイツらも気ィ使ってんのかもな。貫太と愛泥に」
「そっかぁ……」
「ん? なんか妙に元気無いな。風邪か?」
「体調はいいんだけどね……体調は」
これからの事を考えるだけでも憂鬱だ。ああ、どうして僕はこんな目に遭ってるんだと昨日から数えるともう10回は思っている。
交差点で立ち止まっている愛泥さんが、こちらに気が付いた。手を振られたのでそちらへと掛けて行く。共也君も何となく察したのか、僕に付いてくることはなく、むしろ歩くペースを落とす。普通に付いてきて欲しいんだけどな……。
「おはよう。愛泥さん」
「おはようございます、貫太君。今日も……お願いしますね……」
予想はしていたが、今日もあるのか。内心ではうへぇと悲鳴を上げつつも表面は取り繕う。
「あと、私の事は下の名前で呼んでもらって良いですか……? 私だけ貫太君呼びなのも……少し不自然な気が……」
「それもそうだね。愛で……り、隣さん」
それから暫く通学路を歩いていると、向かい側の道路に一際目立つ存在が居た。大柄な身体に大人びた顔。制服を着ていなければ間違いなく高校生とは見られないであろう姿。……この件の隣さん曰く元凶の藤倉先輩だ。友人らしき男子生徒と歩いている。
そして、向こうが横断歩道を渡った事で、丁度僕と愛泥さんが歩く道に入ってきた。……これ、まずいんじゃないだろうか。
「おはようじゃ、愛泥」
「……おはようございます、藤倉先輩」
低めの声で、愛泥さんに声を掛けた藤倉先輩。……身長高いなぁ。180は越えているんじゃないだろうか。流石に見也さんとまでは行かないが、高校生にしては充分すぎるほどの丈である。
「そういえばじゃ、愛泥、確か──」
その時、また、昨日聞いた金属音のような音が耳に飛び込んできた。不審に思いつつも、また気の所為だと思って特に気にしなかった。
「藤倉先輩! おはようございます!」
唐突に大きな声が聞こえた。誰か、藤倉先輩に挨拶でもしたのだろうか。やたらと元気なその声が、さっき藤倉先輩が何か喋ろうとしていたのを掻き消す。
「貫太君」
急に僕の手が引っ張られたかと思えば、愛泥さんが走り出す。危うく転ける所だったがなんとか体制を立て直し、愛泥さんと一緒に走る。暫く走って校門辺りに付いたところで、僕達は止まった。
「……隣さん、どうしたの?」
「……ごめんなさい。さっき、藤倉先輩に例の件の話をされるかと思って、つい」
「そっか。……藤倉先輩の気が逸れてよかったぁ……」
「そう言えばさ、藤倉先輩とどんな繋がりがあるの?」
「……答えた方が、良いですか?」
「うん、なんか気になってさ」
嫌々、とまではいかないが、余り話したく無さそうな様子だ。それでも、僕が頼むと了承してくれた。
「私、生徒会に所属していて……藤倉先輩はそれで知り合いなんです」
「さっきの男子生徒は知ってる? あの大きな声で挨拶してた」
「彼は違うクラスの生徒会の人です……藤倉先輩と仲がいいんでしょうか」
隣さんとの会話はここで途切れてしまう。何だか少しだけ、やりにくい。いつも話さないタイプの人だからだろうか。
その後、昨日と同じように観幸から質問責めをされつつも、なんとか耐え凌いで昼休みに入る。
「僕ちょっとトイレ行ってくる」
片手で了解のサインを出した観幸を後目に、トイレへと向かう。事を済ませて、手を洗ってハンカチで手を拭いていた丁度その時だっただろうか。
「おい、お前が針音貫太か」
「……はい? そうですけど」
そこには、2人の男子生徒。少しだけ既視感があるが、何処で見たかは思い出せない。喋りかけてきた人とは違う方が、言葉を繋ぐ。
「お前、最近愛泥さんと付き合ってるって?」
はっきり言って、全力で否定したい。これは肯定したら色々と面倒な事になるタイプの物事だ。
でも、否定する直前で、胸がチクリと痛む。こんな所で、隣さんとの約束を破ってしまっていいのか。いや、ダメに決まっている。
「……はい」
「……ちょっとツラ貸せや」
僕の背中に1人が回り肩を組んでくる。そしてさり気なく僕を押してくる。それも強く、無理矢理歩かせるように。前にも1人。この人たち、逃がさないつもりなんだろうか。
階段を何回か登ると、屋上に着く。薄暗い階段を登っていた為に、日光に眩しさを感じていると、唐突に背中に鈍い感触がした。あまりに唐突な衝撃に、地面に倒れる僕。
「お前……ガチで愛泥さんと付き合ってんのか?」
「そうだけど……」
答えた直後、脇腹が蹴られた。空気を無理に吐き出したせいで、数回程咳き込む。
「違うよなぁ?」
「だから違わないって」
また、上履きが腹部にめり込んだ。それから何回も何回も、蹴られて踏まれて咳き込む。痛いなんて話じゃない。死にそうだ。今本気でそう思える。そして、こんな自分が惨めで、情けなくて、悔しかった。
なんで僕がこんな目に合わなくちゃならないんだ……? 僕が何か悪い事をしたのか。なんでなんにもしちゃいないのに、こんな事で神様許してなんて考えなきゃいけないんだ。どうして神様は僕を助けてくれないんだ。
「おい、お前達」
僕がそうやって、現実から逃げていた時、その声は聞こえた。
「何寄ってたかって1人を虐めとるんじゃ。ああ?」
共也君や観幸の声ではなかった。低い声だ。重厚感があって、心に重く響くような声。
「ふ、藤倉先輩ッ……!」
藤倉先輩、たしか、愛泥さんを、無理矢理彼女にしようとした……先輩だっただろうか。
「おう、そこのお前、今まで何しとったんじゃ」
「お、俺はただ……」
「嘘付くなよ」
「こ……コイツが愛泥さんと付き合ってるって言うから……」
「ほう、そこに倒れてる小柄な後輩君が愛泥となぁ」
少し驚いたような声を出した藤倉先輩。なんでこうなるんだ。泣きっ面に蜂。ここで藤倉先輩にまで暴力を振るわれたら、もう僕は学校に来れる自信が無い。
「ふむふむ……なぁ、そこの立ってるお前ら2人……いい加減にせぇよ」
だが、藤倉先輩の反応は180度違っていた。心底底冷えするような声で、彼は怒っていたのだ。僕に対してではない。この2人にだ。
「ひっ……!」
「確かに愛泥は美人じゃ。狙っとる奴が多いのも分かる。人の彼女だからって諦め切れんのもな。じゃけど……それを理不尽な暴力や脅しで無理矢理引き剥がすのは違うやろうが! 反省せぇ! お前達は根本から間違っとる! そんなことじゃ愛泥は一生お前らには振り向かんぞ!」
大音量の説教は、こちらに向けたものでもないのにビリビリとした肌で感じれる迫力があった。これを聞いている2人は、一体どのように感じているのだろうか。
顔をそちらに向けると、藤倉先輩は2人の胸ぐらを掴み、自分の顔を近づけ、脅すような表情で説教していた。
「いいか。俺は過ちを許す男じゃ。じゃけど過ちを悔い改めん奴は許さん。それが分かったらとっとと去れ」
藤倉先輩が手を離すと、パッと離れる2人。
「は、はい! スミマセンしたッ!」
揃って綺麗なお辞儀を見せた後、2人は急いで屋上から立ち去ってしまった。
「お前さん、大丈夫か」
「全然、大丈夫ですよ」
「そうか……お前さんは強いな」
藤倉先輩は僕に手を貸しながらこんな事を言った。……僕が強い、なんてどういう事なんだろうか。
「僕は弱いですよ。今だって、何の抵抗も出来なかったのに」
「それがお前さんの強さなんじゃ」
僕の言葉を遮る勢いで言葉を返してきた藤倉先輩。……それが僕の強さ……?
「相手の暴力に決して返さない。……こんなん普通の奴には出来ない事なんじゃ。俺が言うとんのは喧嘩や暴力の強さや無い。心の強さの事じゃ。お前さん、名前なんて言うんじゃ?」
「……針音貫太です」
褒められたようで、少し恥ずかしいというか、むず痒い気分だ。藤倉先輩は笑いながら「そうかそうか! いい名前じゃな!」などと言って僕の肩をバンバンと叩いてくる。無論暴力的なものではなく、コミュニケーションの一種のものだ。
「お前さん、さっきのアホ共の話じゃと愛泥と付き合っとるのか?」
「はい。……なんででしょうね。僕なんかが彼女の恋人なんて」
正直、この話題は振られたくなかった。なぜなら元凶はこの人であるし、今からもしかしたら僕に愛泥さんと別れるように言ってくるかも知れないからだ。
「……そうか。まあ頑張るんじゃな! アイツは気難しい所もあるが悪い奴じゃない! 根気強く付き合ってやってくれ!」
……え?
「それに、愛泥がお前さんを選んだのにもきっと訳があるはずじゃ。アイツは理由無しで人を選ぶようなボンクラじゃないんじゃ」
その言葉を残して、藤倉先輩は屋上のフェンス際まで行ってしまった。そして、また1人、人影が屋上に現れる。
「雄くーん! お弁当持ってきたよ!」
「おお! 今日もありがとうな!」
恐らく3年生の女子生徒が、藤倉先輩の方へ2つの小包を持って走って行く。片方を嬉しそうに受け取る藤倉先輩。……何だかまるで
「……恋人みたいだな」
そうやってぼんやりと思いつつも、僕は階段を降り始めた。
次話>>20 前話>>18
- Re: ハートのJは挫けない ( No.20 )
- 日時: 2018/05/04 22:03
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕が制服についた汚れをある程度払ってから教室に戻る。すると、観幸がルーペをこちらに翳しつつも、一言。
「貫太クン、何かありまシタね?」
案の定、観幸は見抜いていたようだ。断定で伝えてくる辺り、確信を持っているのだろう。……出来れば、何が起こったのかについては悟って欲しくないところだ。
「……まあ、ちょっとね」
僕が心底言いたくなさそうな声音で言うと、微妙な表情になる観幸。もしかしたら、気遣いと好奇心がせめぎ合っているのかもしれない。できれば、気遣いが勝って欲しい所だ。
「……相談ならいつでも乗るぜ、貫太」
共也君は少し事態を重く受け止めているのか、固い表情のまま肩を叩いてくる。
正直、僕は何を信じていいのか分からなくなっていた。愛泥さんも、藤倉先輩も、何が何だか分からなくて、頭の中が全く整理出来ていない。もう誰が何をしているのかさっぱりわからない。
だから
「実はさ……」
僕は、頼る事にした。
そして昨日と同じように呼び出し場所に行こうとすると、教室を出る直前に、廊下に立つ隣さんの姿が視界に入った。向こうは僕を捉えると小さく手招きする。こっちに来い、という事だろうか。
「貫太君……今日はこっちに……」
そっと、僕にしか聞こえないような大きさで話し掛けてくる。少しだけ、声に緊張のようなものが混ざっていた。
「また監視が付いています。……これはもう、れっきとした証拠を示すしか無いのかも知れません……」
「証拠、って?」
空気を読んで、同じように小さな声で返すと、こちらを振り向く。その顔には昨日と同じように、というかもっと酷く羞恥が滲み出ている気がする。
「私に……その……愛の言葉をかける……みたいな……」
「……へ?」
「……恥ずかしいので……何度も言わせないで欲しいというか……」
気まずそうに視線を逸らす隣さん。いや待って。ほんとにおかしいだろう。そんな、急に、愛の言葉……って? 彼女は僕に何を求めているんだ。というか、藤倉先輩はそういう趣味でもあるのか……いや、無いだろうけど。多分。
「愛の言葉って……どんな?」
「私が好きだと……言って下さい……」
「……拒否権は無いの?」
「……私が、藤倉先輩に無理矢理……」
それは嫌だと顔を両手で隠して頭を振る彼女。……僕としても、このまま彼女を放っておきたくはないと思う。
「……隣さんを放っては置けないや」
「あ、ありがとうございます……! こっちです……!」
嬉々とした様子で僕を誘導する愛泥さん。暫く校舎を歩くと、普段使わないような場所に来た。人も少ないが、監視が自然なほどあからさまな尾行をしてきているのが分かった。きっと、人気の少ない場所の方が言いやすいだろうという、彼女なりの配慮だろう。
「……お願いします」
彼女の目線が、力強く僕を貫く。絶対にして欲しいという意思の現れだろうか。そして、僕も決めた。彼女はここまで本気なんだ。僕も本気にならなければならない。
「隣さん」
「────いい加減にしなよ」
「────は?」
僕の言葉を聞いて、隣さんの顔が有り得ないほどに崩壊する。今までで見たことがないほどの『何故だ?』を表した顔であると思う。
「僕は君に、何も思っちゃいない」
「いえ、ですから、言ってもらわないと困るので」
「不自然すぎるんだよ」
不自然だ。余りに隣さんの行動には謎が多すぎる上に、矛盾が酷い。僕を利用して藤倉先輩を回避するなら、僕に好きと言わせることをそこまで楽しみな表情で待つはずかないのだから。そして、あんな落胆した表情を見せる必要もまた、無いのだから。
「今日、藤倉先輩と話したよ」
「えっ……!?」
「偶然だけどね。彼は言っていたよ。暴力や脅しなんかで無理矢理人の仲を引き裂いちゃいけない。そんなことじゃ一生振り返ってくれないって。……こんな事を言う藤倉先輩が、脅しなんかする訳ないんだ」
痛い所を突かれた、と言わんばかりに表情を歪める隣さん。いつもはこんなに表情に出る人ではないのだろうが、先程の動揺がまだ残っているらしい。
「そ、それは……藤倉先輩が嘘を……」
「藤倉先輩の言葉が嘘なら、僕は人間不信になりそうだよ。何よりさ……彼には仲のいい女子生徒がいたよ。弁当を作ってきて貰うほどのね……それこそ、彼女みたいな」
「…………わ、私は……」
そのまま俯いて黙り込む隣さん。……彼女は、嘘つきだったのだろうか。恐らく反応を見る限りそうなのだろうが、幾つか分からない事がある。
それは根本的な理由だ。どうして僕を巻き込んだのか。最も重要な要素であるそこを、僕は未だに知らないし考えていない。
「……ははは……バレちゃいました、ね……」
疲れた顔でヘラヘラと笑う隣さん。少しだけ、見ていて胸が痛む。
「まあ……もういいかな……」
隣さんは、投げやりな様子で言う。
「無理矢理、私のものにすれば……」
その時、また、あの金属音が響いた。
確かに、それは聞こえた。
音源は、僕の目の前から発生した。それは鎖だった。少しだけ錆びてはいるが、強度のありそうな鎖である。
──そしてそれは、隣さんの服の中をすり抜けて、彼女の体から出ていた。明らかに、異常な光景である。
後ろから、足音が聞こえた。振り返ると、2人の男子生徒が、近付いてきている。……ロボットのような、感情の無い様子で、こちらに淡々と歩み寄って来る。
そして、隣さんから放たれた鎖は、その男子生徒の胸に突き刺さるようにして入り込んでいる。ちょうど、心臓の部分だ。
「な……なに……これ……」
「あれ……貫太君は見えるんですか……?」
不思議そうに問い掛けてくる隣さん。……僕や隣さんに見えて、他の人には見えないものなのだろうか。あの鎖達は。
2人の男子生徒が、僕の目前まで近付くと、すぐに動き出して僕を拘束してきた。2人が僕の腕を片方ずつ抑え、僕は動けなくなる。2人の動作はどこまでも業務的で淡々としていた。
「や、止めてよ!」
僕がそう言っても、まるで僕の事なんか見えていないみたいに、何の反応も返さない。一方、隣さんはまた、笑うだけだ。
「さぁ、貫太君、私の事を好きって言って下さい……」
何故だろうか。
なぜ彼女は、それに執着するのだろうか。
彼女の発言を振り返ってみる。そこでふと、喫茶店での一幕を思い出した。確かあの時、彼女は自分が好きかと聞いてきた。
「……言わないよ」
「言わないなら……仕方ありませんね……」
僕の頬が、隣さんによって叩かれた。
「言って下さい……私は酷いことはしたくないんです」
どういう事だろうか。こんな事をしておいて、今更酷いことをしたくないなんて。もう僕は、彼女の事が分からない。
「もっと酷いこと、しますよ……?」
その言葉に返したのは、僕では無かった。
「やってみろよ。そしたらテメェの顔面をこれ以上無いほど破壊してやっからよ」
隣さんが、驚いたように僕の前を退いた。そして、隣さんの背後にいた彼が──共也君が、僕を拘束している2人を同時に突き飛ばす。
「来なかったらどうしようかと思ってたよ……」
「ワリィな。ちと遅れちまった」
そして、場違いな声も聞こえる。
「フム……共也クン、彼女からは鎖が出ているのデスね?」
「ああ。信じ難いかもしれねぇが、俺から見からアイツの体から鎖が出ている」
「ボクには見えないのデス。つまり彼女は……ハート持ち、という事デスか」
いつものように空パイプを口に咥えて推理を披露する観幸だ。彼にはこの鎖が見えていないらしい。そして……隣さんはハート持ち、らしい。つまり、この鎖にも何らかの力があるのだろうか。
「貴方も、この鎖が見えるんですか……?」
「だからどうした」
「なら……ただで帰せません……ね」
再び、金属音が響いた。つまり、また新しい鎖が何処かへと伸びていく。
が、それでは終わらない。何回も何回も何回も、その内数える事すら億劫になるほどの回数、金属音が鳴り響いた。そして彼女の背中から、おびただしい数の鎖が伸びる。……正直、嫌な予感しかしない。
「……貴方にもハートがあるようですが……」
階段を降りる音。廊下を走る音が聞こえる。明らかに、異常な数の足音が。
「私のハート……《心を縛る力》には勝てませんよ……?」
そして、40人以上にも及ぶ男子生徒が、僕らを取り囲むようにして立っていた。彼らの胸には、彼女からは放たれた鎖が、突き立っていた。
「……なんつーハートだ……」
初めて、共也君が冷や汗を流したのを、この目で見た。
次話>>21 前話>>19
- Re: ハートのJは挫けない ( No.21 )
- 日時: 2018/05/05 13:42
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
笑みを耐えさない隣さん。それは純粋な笑顔だった。何処か外れただけの、笑い方だ。
「……どうしますか? 今この人達は私のハートによって操られています……諦めてしまっては?」
僕らは二方を壁、二方を人、左右が壁で前後か人といった形で囲まれている。僕らと相対する彼女の背後には、20人ほどの男子生徒が控えている。彼らはまるで死んでいるかの如く、ピタリと停止している。
「テメェのハートは人を操れるのか……?」
「はい。この鎖で捉えた人間なら、誰であろうと」
隣さんがすぐ後ろの男子生徒の鎖を持って言う。あの鎖、壁やら床やらをすり抜けていた辺り、八取さんの鎌と同じで物理的な効力は無く、ハートの持ち主以外には触れないものなのだろう。
「さぁ貫太君。言って下さい。私が好きだと。そしたらもう、酷い事はしませんから」
隣さんが、僕らを迎えるように両手を広げて言った。
「さぁ、選んで下さい! 往生際悪く抵抗して道端に捨てられたボロ雑巾みたいに半殺しになって、私を好きだと言うか! 子犬みたいに従順に、私を好きだと言うか!」
「くっ……」
恐らく、半殺しというのは僕だけではないのだろう。ハートを持つ共也君が居るとしても、この人数は絶望的すぎる。何より、彼が操られているだけの男子生徒達を殴れるとは思えない。
ならば、もう、諦めて言ってしまった方がいいのかもしれない。単純な話だ。3人犠牲になるか、1人犠牲になるかのどちらか。当然、後者が良いのは目に見えている。
「隣さん、僕は」
「キミが大嫌いだ! ……と彼は言っているのデス」
僕の声を遮るように、観幸が大声を張り上げた。
隣さんの微笑みが、少しだけ、崩れる。
「……貴方には黙って貰いたいのですが」
「ハッ! 黙れと言われて黙る人間がいると思っているのデスか! 人間は自我を持ち、理不尽な圧力に対して反発する力を持つのデス! そしてオマエのような独裁者かぶれのガキ大将は! 反発によって崩れ去るのデス! そんなヤツを、貫太クンが好意を抱くと思うのデスか!? このアホウが!」
冷たい声音を弾き飛ばすかのごとく、更に声を張り上げた観幸。隣さんの微笑みが、また一つ、整いを失う。
「……今、なんと?」
「何度でも言ってやるのデス! オマエのようなサルの大将──おっとこれはサルに対して失礼なのデス。サル未満のお山の大将には分からないかもデスが! オマエのような人間に、一生貫太君が振り返るハズ無いと言っているのデス!」
空のパイプを隣さんにビシッと向ける。僕は、それに声も出なかった。
彼は、一体どうして、この状況でも尚、抗う事が出来るのだろか。
「……そのチビを倒しなさい! 今すぐに!」
とうとう隣さんの微笑みが崩れた。恐ろしい形相の彼女が、観幸に向かって指を指した。
直後、凄まじい音が階段を駆け抜ける。地震か、いや違う。多くの生徒が、一糸乱れぬ行動で、こちらに向かって走り始めたのだ。
「今デス! 共也クン!」
「ピカイチだぜ! 観幸! テメェのどこから湧いてくるのか分からねぇその度胸!」
瞬間、共也君が観幸の肩を掴む。すると、彼らが一歩移動したかと思えば、隣さんの背後に回っていた。共也君のハートで瞬間移動したのだろう。
「貫太ァ! 俺達はコイツらを引き付ける! 今はとにかく愛泥から逃げろ!」
多くの生徒が、尻餅を付く僕を完全に無視して、一直線に共也君と観幸、正確には観幸に向かって走り出していく。ドタドタと凄まじい振動が過ぎ去った所で、この場には隣さんの僕だけが残った。
「あのクソチビ……!」
怒ってあちらを見ている隣さん。その隙に、僕はなんとか砕けた腰で立ち上がり、近くにあった消火器を手に取る。
「う、うわぁぁぁぁ! ごめんなさぁぁぁぁぁい!」
ホースを隣さんに向け、火災講習会で習った動きを思い出しながらキャップを捻り、消火剤を噴射した。
瞬間、凄い勢いで白が飛び出る。意識外から吹き掛けられた彼女はかなり焦るだろうと、見えない彼女の様子を考えつつ、それが無くなるのを確認すると、僕はそれを置いて逃げる。階段に差し掛かった辺りで、下から物凄い音が聞こえてきた。恐らく、下ではあの2人と大人数が追い掛けっこをしているのだろう。
「上に逃げるしかないじゃないかぁ! どうしろって言うんだよー!」
ヤケクソに叫びながらも階段を登る。それはもう、校則なんて無視して、ひたすら全力でだ。下から響いてくる音があまりに怖く、上へ上へと目指してしまう。
そして、僕が完全に上に登り着ると、屋上に辿り着いた。
「……しまった……」
そう、完全なる行き止まり。無我夢中になり過ぎて、僕は自ら袋の中に入り込んでしまったようだ。
「ど、どうしよう……」
取り敢えずドアを背中で押す。もし隣さんが来たとしても、入って来れないように。
僕が奥歯をガタガタ鳴らしていると、唐突にケータイに振動がした。慌てて取り出すと、携帯電話が入っている。パカパカするタイプのやつだ。取り出すと、共也君から着信が入っている。
『おう! 屋上まで逃げたか貫太!』
「な、なんで知ってるのさ!」
『観幸が貫太ならビビって屋上まで逃げちまうと予想済みだ!』
「観幸ーッ!」
向こうから自慢げな声が聞こえてきたのは、気のせいだということにしておこう。
「そ、そんなことよりどうしよう……」
『焦るんじゃねぇ! 俺達も何とかしてコイツらを撒いてスグに駆け付ける! 絶対に隣に捕ま』
『共也クン! 前! 前!』
『なんだよ観ゆ嘘だろオイッ!』
唐突に観幸の声が遮ってきたと思えば、電話が終わりツーツーと音が鳴る。思わず、最悪の絵面が浮かぶ。
その時、背後ドアノブが回る音がした。背中に、氷でも詰め込まれたような錯覚がした。
○
幾ら押しても開かない。向こうから彼が押しているのだろうか。どうして、彼はそこまで私を拒むのだろうか。私は、愛泥隣はこんなにも彼を、針音貫太を求めているというのに。
「貫太君、そこにいるんですか?」
向こうからは、悲鳴が聞こえてくるだけで、返事らしきものが帰ってこない。どうして、どうして彼は私に応えてくれないのだろうか。
服や髪には彼が撒き散らした消火剤が着いているが、少し払えば問題無い程度だ。しかし、彼にそれをされたという事実が、明確な拒絶が、私の心を蝕む。こんなにも、こんなにも確かな拒絶が痛いなんて、全く知らなかった。
「開けて下さい」
だが緩む気配は無い。彼は小柄だが一応男子だ。しかもここぞとばかりの気迫を見せている。できれば、それは今、見せて欲しくはなかった。
「私の事が嫌いですか?」
もう、答えなど分かりきっている。彼の態度を見れば、そんな事は百も承知だ。だからそこ、彼には言わせなければならない。
「私の事、好きですか?」
私が好きであると。
少しだけ、昔の事になる。時間にして、一年間。
私は、恐らくだが虐めを受けていたのだろう。最も、今となって振り返れば、の話であり、当初は何も感じていなかった。
当時、私は誰にも気付かれない影のような存在だった。誰にも関心を向けられず、教師からの受けはそこそこ良いが、クラスメイト達には存在を認識されるかも怪しいレベル。向けられるのは、せいぜいサンドバック程度の考えだけ。
そこまで悲惨なやり方ではない。勉強関連には手出してこなかったし、せいぜい靴に何か仕込んだり、椅子や机に簡単に消せる素材で落書きをされる程度。もっと酷いものもあった気もするが、正直思い出したくない。
そんなある日の事だ。私の当時学生カバンに付けていた、キーホルダーを女子が目の前で取った。
「これいいね。貰っていい? ありがとー」
私の返答なんて聞かずに持って行ってしまった彼女。そして、そのままそれは帰って来なかった。
私が彼女に放課後尋ねると、なんでも昼休み前にゴミ箱に捨てたとか。狙ってやったのだろうが、昼休みの後は掃除だ。ゴミ箱の中にはゴミの集積場に持っていかれる。幸い、その日はゴミの処理される日では無かった。
あの熊のキーホルダーは、私の中学校での唯一の友人がくれた、私の中では最も大切なものだった。そして、私はゴミの集積場へと向かう。大量にゴミ袋が積まれていた。鍵は、空いている。
「……どれだろう」
一応、一年生はどの辺と大体の目安は決まっているため、目星は付くが、それでも数はあまりに多かった。それでも探そうとして、袋を順に探していく。
勿論、私にはあまりに過酷な重労働だった。2袋目にして、既に息が上がる程だ。それでも私が続けようとした、その時だった。
「あれ、君、何してるの?」
彼が現れたのは。
「あっ……えっと……」
しまった。と思った。1人でゴミを漁る地味な生徒。どう考えても、男子生徒には格好のネタでしか無い。
「……その……探し物が……」
明日から、なんと言われるんだろうか。想像しただけで鳥肌が立つのがわかった。思わず、涙まで出そうになっていた。
「探し物? 一緒に探そうか?」
彼が、そう言う迄は。
「……え?」
「いや、探し物ならさ、1人じゃ時間かかるし、2人でやった方がいいと思うんだけど……? 迷惑だったかな」
「……いいんですか?」
私は、不思議で不思議で堪らなかった。何故、知りもしない彼が、こんな勉強しか取り柄が無いような私を、助けてくれるのか。
「うん。何を探してるの? こう……形とかも言ってくれると嬉しいかな」
「……く、熊の……キーホルダー……サイズはこの位で……」
「分かった。見付かったら言うね」
そう言って、彼は山から2つ程のゴミ袋を取って、中身を漁り始める。見続けているのも失礼かと思って、私は探すのに集中する事にした。
それから数時間が経っただろうか。
「これの事?」
彼が見せてきたのは、汚れたキーホルダーだった。そして、私の大切なものでもある。
「……あっ……は、はい! あっ……あ……ありがとう……ございます……」
「うん、見つかって良かったよ」
彼はそう言って、自慢する様子も何もなく、当然の事をしたまでと言わんばかりに、片付けを始める。
「あの……」
「えっと……どうかしたかな」
今考えると、当時の私からすれば、よく聞いたな、と思える事だ。
「どうして……助けてくれたんですか……?」
あんな所で、惨めにゴミを漁っていた私を、馬鹿にせずに話を聞いて、数時間経っても手伝い続けてくれた。私には何の長所も無く、私とは何の接点も無く、彼には何の意味も無い。なのに、どうして、彼は。
「……うーん……そうだなぁ」
腕組みをして、頭を捻る彼。そして、答え辛そうに、言った。
「君を助けた理由は……無いんだ」
「理由が……無い?」
「強いて言うなら……困っていたから……かな?」
照れ臭そうに微笑む彼。
この時、この瞬間なんだと思う。
私が、彼に取り憑かれたのは。
○
この鉄の向こう側には、彼がいるというのに、求めても、求めても、求めても、彼は応じてくれない。あの日から、彼に恥じない自分になろうと、彼が振り返ってくれる自分になろうと、そう誓って、この力を手に入れて、遂に彼に接触したのに。
どうして、彼は私の方を向いてくれないんだろう。
下から、足音がする。そちらを見ると、私のハートで操られた男子生徒が、ゾロゾロと歩いてきた。恐らく、あの観幸とかいうのを拘束して私の元へ返ってきたのだ。多分、共也と呼ばれていたのも、抵抗したなら同様に拘束されている事だろう。
丁度いい。彼らにドアを押すのを手伝ってもらう。自分で幾らか押していたのが嘘のように、扉がじわじわと開き、遂には一気に開いた。
「うわぁっ!」
彼がうつ伏せで倒れていた。寝返りを打つように、こちらを振り返った彼の表情が、絶望に染まる。
彼は知らないだろう。
私が、その表情に、どれだけ心を痛めているか。
次話>>22 前話>>20
- Re: ハートのJは挫けない ( No.22 )
- 日時: 2018/05/06 10:13
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「うわぁっ!」
僕の抑える力が負けて、ドアから弾き飛ばされた。屋上にうつ伏せになって這い蹲っていたら、ドアが開く音がした。慌てて寝返りするように振り返ると、そこには居た。
口がカタカタと恐怖で震えているのが分かった。自然に後ずさりしてしまう程、恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。
「やっと開けてくれましたね……貫太君……」
少しだけ悲しそうに目を伏せる彼女。どうして、彼女がそんな顔をするんだ。僕だって悲しい。その原因を作っているのか彼女なのに、どうして彼女は被害者みたいな表情を浮かべるんだ。
「貫太君……もう、言わなくても分かりますよね……?」
僕に、好きと言えと、言うのか。
僕は怖かった。恐ろしかった。その言葉を吐いた瞬間、自分という存在そのものが剥げていきそうな、そんな気がして、言葉を紡ぐ事も出来なかった。
「うわぁぁぁぁ!」
気が付けば、僕は走り出していた。当然、ここは屋上だ。逃げられる場所なんてない──いや、ある。
そこに、大空があるじゃないか。こんな辛い思いをする位なら、大空に逃げ出してしまった方がいいんじゃないか。なんて考えに取り憑かれて、そのままフェンスまで走った。
後ろから、僕を追いかける音がした。だが、もう関係無い。このまま逃げ切れれば、僕の勝ちなのだから。そう思って、錆びたフェンスに手を掛け、そのまま自分の身を投げようとした時だ。
「……ひっ……!」
フェンスから見えた景色、いつもは立っているはずの場所が、あんなにも遠くに見えた。ここから落ちる、そう考えると、足を止めるには十分すぎるほどの恐怖の風圧が襲ってきた。自分の中の血が一瞬にして冷却され、頭が段々と冷えていく。
「貫太君に自殺なんて、できないでしょう?」
彼女の声音は笑っていた。まるで、僕を嘲笑うかのように、お前は所詮無力な人間だと、そう言いたげだった。
「そんな……そんなぁ……」
事実、そうなのだから、僕は何も言い返せない。
生まれてから、喧嘩なんてした事は無い。人を守った経験も救った経験も無い。見也さんのような逞しさと強さは無い。共也君のような信念も優しさも無い。観幸のような知性も度胸も無い。僕は何も持ってない。ただただ臆病なだけの、小さな力すらない、弱者だ。
「ほら、言って下さいよ。どうせ貴方に、出来ることなんて無いんですから」
そうだ。
僕には何も出来ない。
この状況をひっくり返す事も、目の前の彼女に最後の抵抗をすることも、自分を投げ出して逃げることも、出来ないんじゃない。しないんだ。僕はまた、そうやって、何度だって、何度だって、逃げて、逃げて、逃げて。
もう、結果なんて分かり切っていた。
「あのお友達さんも捕まえられたみたいですよ……ふふ……あのチビなお友達の方は結構酷くやられたみたいですねぇ……」
「……観幸が?」
「私は彼を倒すように命令しました。あのチビなお友達は何らかの形で拘束されていると思いますよ……ふふっ、あの人も私が操ってこの学校から追い出してあげます……」
もしも、
「観幸を……追い出す?」
もしも、この時、この瞬間、たった今。
「はい、だって要らないでしょう? 私が彼の代わりになってあげます。大丈夫です。あんなのの代わりくらい簡単です」
僕が、惨めに這い蹲って、子犬みたいに綺麗なまま、従順に、言いなりになったとして。
もしも、僕の友達が、大親友が、居なくなったとしたら。
僕は、自分を許せるのだろうか。
「許さない」
「え?」
いや
「僕は絶対に許さない」
僕自身も、隣さんも、僕は絶対に許さないだろう。
「……っ!」
隣さんが、眉を顰める。どうした、僕がちょっとでも反抗したから、また怒るのか。
「おかしいんじゃないのか」
そうだ。こんなのおかしい。余りにおかしすぎる。
「僕は何もやってない。悪い事なんて一つもやってない。なのに、なのに、理不尽に蹴られたり殴られたりして、友達を……傷付けられて……!」
そうだ。間違っている。
「違うんじゃないのか! 何も悪くないこの僕が! 神様ごめんなさいなんて神頼みするのは間違っているんじゃないのか! 神頼みするべきなのは! 全ての原因の君なんじゃないのか! 答えてみろ愛泥隣!」
僕は、針音貫太は、ここで彼女を、愛泥隣を正さなければならない。
僕の為に、友人の為に。
「答えられないのか! 答えられ無いわけが無いよな! こんな無力でチビなドブネズミの僕にだって分かることを! お山の大将が分からないのか!」
心の熱のまま、言葉を叫び散らす。
「僕は! この針音貫太は! 絶対に君を許さない! 共也君や他の男子生徒を虐げた君を! 観幸を追い出すなんて言った君を! 僕はもう許さないからな!」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 私のことが好きだと言って下さいよぉッ! どうして! どうして私の事を! そんなに拒絶するんですか! 私は! 私はこんなに貴方が好きなのに!」
僕の胸の熱が、外れた感覚がした。
「何回だって言ってやる! 愛泥隣! 僕は君の事が大嫌いだ!」
瞬間、何か銀色に光るものが、僕から飛んでいくのが分かった。それは、隣さんの胸にちょうど突き立つ。
「な、なんですかこれはッ!」
抜こうとしても、それは、そのナイフは隣さんの手をすり抜ける。隣さんの鎖が本人にしか障れないのと、同じ事なのだろう。
「止めて! 止めてよ! 何これ……! 私の、私の心に入って来るな! 違う! 私は貫太君の事が好きなんだ! 嫌いじゃない! 嫌いじゃないのに! なんで嫌いって感情が流れ込んでくるの! 止めてよ! これ以上、これ以上私に貫太君を嫌わせないでよ!」
隣さんが頭を抱えて喚き散らす。
彼女の胸に、正確には心に突き立ったナイフ。アレは、人の心に僕の心を流し込む力だ。
「貫太君……! 貴方、ハート持ちなの……!」
「今の今まで使えなかったけどね! そのナイフは刃に刻まれた感情を流し込む! その刃には『大嫌い』の三文字が刻まれているのさ!」
「止めなさい……! 今すぐ止めて! お願いだから! もう、嫌ぁぁぁぁぁ! 嫌いになりたくないのに! 貴方の事が好きなのに! どうして! どうしてよぉぉぉぉッ!」
両手で耳を塞いで、何かを遮断しようとする彼女。きっと、彼女には聞こえているんだろう。僕の大嫌いという声が、何度も何度も繰り返しで。
彼女の背中から、鎖が大気に透けるようにして解けていくのが分かった。そちらに回す気力が無くなったのだろう。何個か地面に伸びていたのも消えたので、きっと2人も助けられたはずだ。
そして、隣さんが、パタリと糸が切れたかのように、その場に跪いて、首をカクンと前に倒した。そこから、1ミリも動かない。
まさか、精神がやられて気絶したとかだろうか。正直予想外だったが、取り敢えずナイフを差しっぱなしにして置くのは少しだけいたたまれないので、引き抜こうと歩み寄る。
愛泥隣さん、本当に、本当に恐ろしい人だった。こんなにしつこく求められるのは初めてだったが、如何せんアプローチの仕方が不味すぎた。
「これに懲りてくれたらなぁ……」
そう言って、ナイフを手に取り一気に引き抜く。物理的作用は無いので、すんなりと抜けた。
すんなり、という言葉が、少しだけ引っかかった。
背中に、ヒヤリとした冷たい感覚が這う。
これだけの執念を持った人間が、果たしてこんなにすんなりと、終わるものだろうか。
そして、その心配は杞憂では無かった。
瞬間、隣さんの背中から鎖が飛び出た。僕がしまったと思った時にはもう遅い。鎖は僕らを囲むようにして背後に回り込み、フェンスに巻き付いた後に僕の腹部に巻き付いた。
そして、後ろからかなり強い力で引っ張られた。背中からフェンスに激突すると、激痛と共に結構イヤな音が響く。
食い込む鎖が、僕を締め上げる。思わず、悲鳴を上げてしまう。
「ぐッ! な、なんてパワーだ……!」
物理的作用の無い筈の鎖が、僕を万力のような力で締め上げる。その時、共也君が以前言っていたセリフを思い出した。
「……ハートの具現化……! まさか……土壇場で開花したのか……! ぐぁぁぁッ! 痛いッ!」
到底、僕の力では引き剥がせそうにないパワーだ。そして、その鎖を操る者が、ゆっくりと、立ち上がる。
彼女の表情は、今までに無いくらい、爽やかだった。
「ふふふ、感謝します。貫太君。貴方のおかげで……」
いや、爽やかではない。
何方かと言えば、濁った、と言った方が正しいだろうか。
「大ッ嫌いな貴方を! 私の手で殺す事が出来ますから! ははは!」
嗤う彼女に、僕はただ、鎖がこれ以上食い込まないように、力の限り抵抗するしか、為す術が無かった。
次話>>23 前話>>21
- Re: ハートのJは挫けない ( No.23 )
- 日時: 2018/05/11 13:07
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
腹部とフェンスを結び付ける鎖の力が、一層強くなった。ギリギリと鎖が擦れる度にフェンスが悲鳴を上げる。そして、僕はどんどん締め上げられていく。
「く、苦しい……た、助け……て」
「ふふふ、最高の気分です。こんなに、こんなに嫌いな人をいたぶるのが楽しいなんて知らなかった!」
彼女の背中から、3本の鎖が発射される。それは、僕ではなく、鎖が外れた時に倒れた男子生徒達へと向かっていった。まさか、また操る気だろうか。
「させない……! ぐっ……!」
僕が胸に手を当て、握るような動作をする。すると、3本のナイフが現れた。それをとにかく鎖を狙って投げる。
不自然な程に起動を歪めつつも、それらはピッタリと鎖を弾いた。男子生徒に行き着く前に、着地点を見失った鎖達が、戸惑うように隣さんの方へと戻って行く。
「アレは実体のない鎖だったのか……?」
具現化していない僕のナイフで弾く事が出来た。つまり、アレは具現化していない状態の鎖という事だ。彼女のハートは、具現化したものでは他人を操れないのだろうか。
「邪魔なんですよ! 鬱陶しい!」
またもや、背中から鎖が発射される。今度は物理的効力があったのか、ナイフを投げてもすり抜けてしまい、防ぐ事は出来なかった。そしてフェンスに巻き付いた後に、2本の鎖が僕の両腕を絡め取り、フェンスに括り付けるようにして巻き付いた。いくら力を入れても、腕はびくとも動かない。
「小さな虫ケラの癖に!」
鎖の力が強くなり、また一層、腹部が締め付けられる。そして、フェンスの悲鳴が大きくなる。
「や……め……て……! ダメだ……! このままじゃ……! 君も……!」
「今更何を言ってるんですか!? さっき貴方は私がいくら懇願しても頼みを聞き入れなかった! だから私も聞き入れません! ほら! 死になさいよ!」
違う、そういう事が言いたいんじゃない。
手を何回か握ると、そこにナイフが現れた。
「させない!」
が、僕のナイフを握る手を、鎖が叩いた。当然それは僕の手から弾かれ、フェンスをすり抜けてはるか下の校庭へと落ちて行く。
僕がそれに気を取られていると、鎖が手の平にグルグルと巻き付き始めた。恐らく、手の開閉をさせないようにする気なのだろう。しばらくすると、僕の手には毛糸玉のように鎖が巻き付いていた。
「……はぁ、はぁ……追い詰めましたよ……もう逃がしません……」
追い詰められてしまった。確かに、その通りである。
「もう一度だけ聞きます……私の事、好きですか?」
彼女の苦しそうな顔で吐かれたその問い。
それを聞いた僕は
「……ははは」
笑っていた。
彼女が眉を顰めるが、僕はついつい笑ってしまう。仕方ない事だろう。
僕がずっと悩んでいた事が、ようやく分かったのだから。少しくらい笑うのは許して欲しい。
「そっか。君は僕に是が非でもそれを言わせなきゃいけないんだね」
僕がそう言うと、彼女の表情が強ばった。
「君のハート、《心を縛る力》はとても強い。だって人を無限に、幾らでも操れるなんて、余りに強すぎる。でもずっと疑問だったんだ」
一呼吸おいて、続ける。
「どうして君は、僕らを操らないんだろうって」
「……ッ!」
明らかに、顔に動揺が走ったのが見て取れた。
だっておかしいだろう。人の事を操れるのに、僕の事を最初から操らないなんて。
「だからこう思った」
僕は、友人の推理を披露する顔を思い出しつつも、それの真似をしながら言った。
「君のハートの範囲は……君に好意を伝えた人間なんじゃないか……ってね。好きだ、とか。そういう言葉さ」
「な……なんでそれが……!」
「だって君の周りには男子しかいないじゃないか! 女子生徒がいたっておかしくないじゃないか! なのに男子だけ。そして君がしきりに僕に言わせたがること。それらから考えて! 君のハートは好意を伝えてきた人間を操る力だ!」
だから、僕は絶対に言ってやらない。言ってはならない。
「僕は言わないからな! 君が望む言葉なんて言ってやらないからな!」
「黙りなさい!」
発射された鎖が、僕の首に巻き付く。ギリギリと音を立てていくそれが、どんどん僕の首を圧迫する。それにつられる様にして、体を締める鎖の力も強くなる。
「い、息ができ…………な……」
「さっきの言葉は慈悲だったんですよ! 私の最後のね! でも貴方はそれを蹴った! ……死になさい! 私の大嫌いな針音貫太!」
そうか、彼女にとっての慈悲は、この程度のものだったのか。なんて軽く納得しつつも、僕は最後の力を振り絞って、愉快そうに笑ってやる。
「悪い事は……言わない……僕を放して……死んじゃう……」
締め付けられた喉から、絞り出すように、枯れきった声を紡ぎ出す。その意図が、彼女に伝わらない事は分かっている。
「ハッ! 命乞いなんて情けない! 潔く死ね!」
更に鎖の力が強くなる。当然、僕の気道は完全に潰され、遂には息が出来なくなる。
そして、折れた。
激しい音を立てて。
僕の、背後のフェンスが、鎖の力に負けて、崩れた。
僕は思い切り床を蹴って、フェンスに向かって跳ぶ。すると、フェンスは痛々しい金属音を出した後、呆気ない音を立てて、一部が空中へと投げ出された。
そして、それに縛り付けられるように拘束されていた僕も、同じように空中に投げ出される。
「だから、言ったじゃないか」
そしてその鎖は彼女から放たれたものだ。僕が落ちる瞬間、彼女も引きずられてその身を宙へと放り出す。
「僕を放して、君が死んじゃう、ってさ」
目を見開く彼女の顔が、やけに色濃く景色に映った。まさに、しまったと言わんばかりの表情だった。
そして、僕らは重力に従って落下を始める。
「間に合え……」
僕が首に巻き付く鎖を手繰り寄せ、隣さんを引き寄せる。驚いた表情を浮かべる彼女を、思い切り腕で掴み、その体を自分の体と密着させる。
彼女が反射的に僕を振り解こうとするが、その前に彼女の胸にハートで作ったナイフを突き立てる。刃に刻まれた文字は『死にたくない』の六文字。
瞬間、彼女がハッとした表情を浮かべるのも束の間、背中から鎖を出し、屋上の千切れていないフェンスに巻き付けた。僕らの体が、ぶら下がるようにし静止する。
ふう、なんて僕が一息付いていると、唐突に、自分の首に生暖かい何かが触れた。
そして、それが僕の首を圧迫する。
「……そんな……!」
「殺すって言ったでしょう!」
こんな状況で、2人で屋上から鎖で吊られている状況で、それでも尚、彼女が殺しにくるとは思わなかった。鬼気迫る表情の彼女は、ちょっとやそっとの出来事で、それを止めるようには思えなかった。
先ほど絞められたこともあり、早々に意識が点滅する。いや、まだだ。まだ手は動く。足も動かせる。まだ、まだ何かできるはずだ。
「く……まだだ……!」
諦めてたまるか。鎖で体が縛られているなんて関係ない。思い切り身を揺らすと、ガチャガチャと音を立てる鎖。そして、ブランコのように揺れる僕ら。
──唐突に、嫌な音が上から聞こえた。
僕らが同時に上を向くと、鎖が絡めとっていたフェンスが、千切れ落ちてきた。僕らは再び重力に引きずり込まれるように落ちて行く。
彼女が慌てて鎖を伸ばすが、もう僕らの速度は鎖を超えていた。当然、絡め取る事は出来ず、それは消滅する。
「間に合え……!」
僕は、地面に、叫ぶ。
「間に合えぇぇぇぇぇ!」
その声に、何かが呼応することを願って。
「ピカイチだぜ、貫太」
そして、僕の待ち望んでいた声が、聞こえた。
「お前のハート、確かに受け取ったぜ!」
胸にナイフが刺さった彼は、いつの間にか、落ちてくる僕らの真下にいた。そして、右手を僕らを受け止めるようにして掲げる。
僕らがそれに当たる寸前で、自分自身の体が消えた。そして一気に視界が移り変わる。
そこは丁度、学校の水泳の授業で使う設備、プールの上だった。彼のハート、《心を繋ぐ力》によって、落下地点とプールの上を繋げたのだ。
僕らはそのまま、飛沫と共に激しい水の歓迎を受けた。
次話>>24 前話>>22
- Re: ハートのJは挫けない ( No.24 )
- 日時: 2018/05/12 13:01
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
ぼやぼやと、景色が朧気に揺れる。
私は何をしていたんだろう。
私はただ、彼に振り返って貰えたくて、それで、それで。
結局、嫌われてしまった。
どうして、なんて、分からない。私には、分からない。私は本当は人との接し方なんて分からないし、人と話すのだって怖い。自分以外の人間が、怖くて怖くて堪らない。
だから操りたかった。操って、私のものにして、私だけの言うことを聞いてくれる彼が欲しくて、私を嫌わない彼が欲しくて。私を……好きになってくれる彼が、欲しくて。
「結局、ダメだったな」
頑張って、努力して、走って、疲れて、また頑張って、努力して、走って、繰り返して。
本屋で読み慣れない雑誌を読んで、インターネットで聞き慣れない単語を検索して、洋服屋で気慣れない服を着て、美容室で見慣れない髪型に変えて。
そして不思議な力まで手に入れて。
それでも、私は彼を振り向かせられなかった。
「やっぱり私には……出来ないよ……」
人生で一度だけ頑張ろうと思えた。人に関わろうと思えた。自分を見て欲しいと願った。全力で頑張った。足掻いてみた。最後の最後まで。
でも、それでも。
「どうしたらいいの……?」
私には、出来なかった。
「教えてよ……」
ただただ、両手で潰すほど、キーホルダーを握りしめて。
「助けてよ……」
彼女は、とても強い人だった。
そんな彼女なら、どうしていたんだろう。
「ねぇ、私はどうすれば良かったの?」
言葉が虚空に透けていく。
「私は、何がダメなの?」
誰かに教えて欲しかった。
「分からないよ」
私は何も分からない。
「分からないよ……」
他人の心も、感情も、目の前にあるはずのものが分からない。
自分の行動も、考えも、何が悪いのか分からない。
自分か良いのか悪いのか。そんな単純な事も分からない。
だって教えてくれなかった。
みんな、私には教えてくれなかった。
そんな事、分かるだろうって。
「分からないんだよ」
知らないものは、分からない。
分からないものは、分からない。
「誰か、私に教えてよ」
○
「──さん──起きてよ──」
「──落ち着──貫太─」
意識が戻ると、途切れ途切れの音声が耳に飛び込んでくる。誰かが、2人で大きな声で話しているようだ。そして、途端に会話が止む。
「ん……」
目を開けると、一面の空が広がっていた。そして、私の顔を覗き込んでいるのは……貫太君なんだろうか。しかし、それならばどうにも一つ、疑問が生じる。
「隣さん……良かった……!」
なぜ彼は、涙を流しているのだろうか。嬉しさから来たものなのか、悲しさから来たものなのかは分からないが、私が嫌いな彼は、きっと私が起きたことを悔やんでいるのだろう。
「ったーく、ただ気絶してるだけって言ったろ?」
「で、でも……もしかしたら……」
「はぁー、お前ホント、良い奴だよな」
2人が軽い様子で言葉を交わす中、1人置いて行かれる気分を味わう私。取り敢えず上体を起こしつつ、声をかけてみる。
「あの……」
「え? どうしたの?」
「……何が……起こったんです……か?」
私は、何が起きているのかさっぱりわからない。鎖を屋上に引っ掛けたはいいものの、外れてしまい落下したところまでは覚えている。そして──何故か、プールサイドで倒れていた。
「俺のハート、《心を繋ぐ力》だ。詳細は省くがお前らが落ちてくる地点とプールの真上を繋げたんだよ」
確かに、肌寒いと思えば制服はびしょ濡れで髪も濡れている。プールの中に落ちたのだと考えれば納得が行く。……最も、この男子生徒の不思議な力が、本当ならばの話だが。
しかしまだ疑問は残る。
「……どうして私達の落ちてくる地点が分かったの……?」
あの言い方だと、私達が落ちてくる場所が分かっていたようだが、そもそもどうやってそれを知ったのだろうか。
男子生徒は私の方を向きつつ、右手で貫太君の方を示した。
「貫太が教えくれたのさ」
「知らせた、の方が正しいかも知れないけどね」
貫太君は手元にナイフを出す。私に刺したものと殆ど同じ形状のナイフだ。
「僕のハート、《心を刺す力》は狙ったものに自動で飛んでいく性質がある。まあ、射程範囲は分からなかったから、賭けみたいなものだったけどね。さっきは共也君に無事にこのナイフが刺さったみたいだ」
貫太君が刃の側面がこちらに見えるように見せてくる。そこには『助けて』と刻まれていた。恐らく、ナイフには刃に刻まれた文字以上の情報が入っているのだろう。何処何処に落ちてくる。とか。
そして、それが貫太君によってもたらされたものなら、もっとおかしい。
どうして、彼はそのナイフを私を止めるのに使わなかったのか?
恐らく、彼が友人に向けて飛ばしたナイフは、彼が持っていたものを私が鎖で弾き飛ばしたものだろう。それ以外に彼がナイフを校舎へと落とした記憶は無い。
そして、彼はそのナイフには自動で対象に飛んでいく性質があると言っていた。つまり、そのナイフを使えば、もし彼の力を活用すれば、私なんて簡単に止められたのではないか。
「んじや、愛泥も目覚めた事だし、俺は後始末に行くぜ」
そう言って、知らない男子生徒は両手に屋上の千切れたフェンスを抱えながら何処かへと行ってしまう。どうやって直すつもりかは分からないが、彼のハートを使ってなんとかするつもりだろう。
「……じゃあ、僕も」
「待って!」
貫太君が立ち去ろうとした時、思わず引き留めてしまう。
貫太君は、一瞬だけ苦そうな顔をした後に、私の方を振り返らなかった。そして、背を向けて歩き出す。
いや、彼が聞いてくれなくなって構わない。私はただ、彼に言いたいだけなのだから。
「どうして! どうして貴方はあのナイフを私に使わなかったの!? 貴方の力なら、簡単に私を倒せたでしょう!?」
彼は、振り返らない。
しかし、異常な程に、その拳を強く震わせている。
「貴方はまさか──自分が殺されそうになっている時に、私を助ける方法を考えていたんですか!?」
それでも、彼は答えない。
私は最後の質問を飛ばす。彼が居なくなってしまう前に。
「貴方は、貫太君はどうして私を助けたんですか!? 私は貴方を殺そうとしたのに!?」
言い切ると、彼がその歩みを止めた。痛い程の静寂の後に、こちらを振り向く彼。彼は、少しだけ答えづらそうに、こう言った。
「君を助けた理由は……無いんだ」
その言葉に、彼の姿が、一年前と重なった。
私がぼーっとしていると、彼は振り返る時に、言い残した。どこか少しだけ、懐かしむような声音で、いつもの優しい表情で。
「あのキーホルダー。今も大切にしてるんだね」
彼は、まさか、私の事を。
「ああ……」
彼が遠くへ行く。もう声も届かないかもしれない。だが、それでも関係無い。
「彼は……変わっていなかった。……あの日の、私が好きになった貫太君と、変わっていなかった……」
だから、思い切り体に力を入れて、全身から声を絞り出す。この心が、彼に届くように。
──いや、届かなくても構わない。
ただ、彼には知っておいて欲しい。
「私……! 貴方の事が好き! 私はなんにも分からないけど……でも! それでもいい! だって、私は貴方の事が……好きだから!」
もう何も分からなくたって構わない。
「絶対、振り向かせてみせるから!」
ただ、私は彼が好きである。それは依然として変わらないし、むしろ前より想いは強くなった。だからハッキリと言える。
愛泥隣は、針音貫太に恋していると。
そしてこれ以外に、なにか必要な事実があるだろうか?
【バインドハート(終)】>>16-24
次話>>25 前話>>23
- Re: ハートのJは挫けない ( No.25 )
- 日時: 2018/05/12 23:21
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
──あれは、少し前の事だっただろうか。銀の髪を持つあの女性に出会ったのは。
記憶そのものは朧気なものの、確かにそれは覚えている。声もよく思い出せないが、やけに自然な色の銀の髪は美しかった。
『ちょっと、いいかしら?』
そう声を掛けられて、立ち止まった俺の胸に、彼女はその白い手袋に包まれた手をそっと当てた。思わず驚いた俺だが、直後の女性の発言にもっと驚いた。
『あら貴方、自分に自信が無いの?』
その言葉が、心に突き刺さった。初対面の、出会って五分もしていないうちに、一度も言葉を交わしていないにも関わらず、自分のコンプレックスに等しいものを当てられたのだから。
『図星ね? 大丈夫。貴方は良い心を持っているわ』
そして、女性がそう言ったかと思えば、次の瞬間、白い手袋に包まれた指達が、俺の胸に沈むように食い込んでいった。
それからの記憶は、虫食い状態だ。
○
早朝。
いつもの滝水公園に向かっていた。いつもより30分も早い時刻だが、兄さんから呼び出されたので仕方が無い。例の件について話がある、と言っていたので、恐らく『ムカワ』という人物についての話だろう。
『ムカワ』の事件から、もう二週間が経つ。因みに愛泥の件に関しては、あれ以来特に目立ったハートの力の使用が見られないため、特にこちらから行動は起こしていない。事件も俺が千切れたフェンスをハートの力で繋げたので事なきを得た。
噴水の近くのベンチに腰掛け、足を組んで新聞を読む兄さんが見えた。するとあちらも気が付いたのか、それを畳んでスッと立ち上がる。
「来たか。共也」
「ああ。兄さん。……で? 事件はどうなってんだよ」
「結論から言う。全く進展無しだ」
「……何故呼び出した?」
「話は最後まで聞け」
兄さんは一度間を置いて、少しだけ詰まりながら言った。普段の堂々とした冷静沈着な態度からは、少し離れている。……何となくだが、察しがついた。
「つまりだな……アイツの……心音の力を借りようと……思う」
予想していた事がピンポイントで的中してしまい、何となくだが同情に近いものを抱いてしまう。確かに、それなら兄さんの様子も少しは納得が行く。
「……アイツか……」
「……そうだ……」
快晴の清々しい朝の公園に、重苦しい空気が流れる。俺が心配している事は兄さんと同じだか、多分ベクトルは別方向だろう。俺の場合は精神が抉れる方。兄さんの場合は精神が削れる方。似ているようだが、少し違う。
「まあ、アイツのハートを使えば……特定は捗るだろう……多分」
「それ、兄さんが頼まなきゃダメなやつじゃねぇの?」
「……一番の心配事を言うんじゃないぜ」
ふう、とため息を零す兄さん。心底億劫そうな様子が、一転して締まった表情へと転換する。雰囲気が変わったのを感じて、頭を切り替えた。
「とにかく、だ。アイツが来るのはもう少し後の話だ。それから、幾つか話すことがある」
「他にどうかしたのか?」
「……以前、貫太君を襲っていた不審者を撃退したことがあってな。そいつはハート持ちだった」
「ああ、《心を殺す力》の持ち主だろ?」
「そいつだが……妙だとは思わないか?」
妙、という言葉に、少しだけ考えてみる。しかし、俺はその意図がよく分からなかった。
「……アイツのハートは、自分の心すら壊していた。……おかしい。異常だ。ハートの力は、自らの心から発するもの。心が壊れたら、それと同時にハートも消え、効果も消える。つまり……自分の心を壊すなど不可能なはずだ」
「……確かに、言われてみればそうだな。しかし……だとするなら……」
「ああ、そうだ。奴のハートの力は自ら発したものでは無い。という事になる」
兄さんは一呼吸置いて、言葉を続ける。
「……これは俺の推測に過ぎないが、ハート持ちを作る力を持つ何かがいる」
兄さんの顔は、今までに無く深刻そうな顔だった。
兄さんが去って、時間が過ぎて、貫太が来た。いつも通りに、二人で歩く。
「おう貫太。調子はどうだ?」
「元気だよ。……心配事はあるけど……」
「愛泥の事か? 心配すんなよ。いざとなったらまた三人で協力してとっちめてやれば良いんだよ」
「……そんな簡単に言わないでよ。こっちとしては色々と大変だったんだから……精神的に」
やけに色濃く疲れた表情を見せる貫太。恐らく愛泥との出来事を思い出しているのだろう。……あんな事があった後なら、良い思い出も全部苦いだけだろうな。いや、苦いとは少し違うか。
「お、噂をすればなんとやらだぜ」
俺達が信号を渡ると、すぐ前には噂の人物、愛泥隣が歩いていた。以前のような男子生徒の取り巻きはいない。……反省したのか? アイツが?
「なあ貫太。……貫太?」
返事が無いので貫太の方を向くと、歩きながら愛泥を指さしてガタガタと震えていた。
「……どんだけトラウマなんだよ。豆鉄砲向けられたハトみてーな顔になってんぞ、貫太」
「だ、だだだだって……り、りり、りんさん……」
「落ち着けよ。愛泥も流石に傷付くぞ?」
どれだけの事をすればこんなに恐れられるのかは分からないが、少なくとも愛泥から好かれた貫太には労いの言葉を掛ける他ない。
「……あ」
「信号が赤になったな」
進行方向の信号が止まる。当然、前を歩いていた愛泥も信号で止まった。このまま行くと、鉢合わせすることになる。
「共也君、ここで信号が変わるのを待とう」
「よーし行こうぜ貫太!」
「待って! 共也君! 君はその行為がどれだけ残酷なものか理解していない!」
ゴチャゴチャと何かを言っている貫太の背中を押して無理矢理歩かせ、信号に近づいた所で、突き飛ばすように押した。転びかけるがなんとか体制を立て直した貫太が、こちらを振り返ろうとして、すぐ横に立っていた愛泥と目が合った。
直後、貫太がいつもからは考えられないくらいの形相でこちらを見て、いや睨み付けてくる。それに満面の笑みで返してやると、一層視線が険しさを増した。
それでも、愛泥から声を掛けられると態度を180度入れ替えて反応する貫太。悪いが見ていてとても面白い。笑いを堪えているとまた叱られそうなので、俺はハートの力で一足先に行く事にした。
その後、貫太がどうなったのかは知らないが、学校の教室に入ってくる貫太は、腑に落ちないといった様子の顔をしていた。
……ホント、何があったんだ?
次話>>26 前話>>24
- Re: ハートのJは挫けない ( No.26 )
- 日時: 2018/05/13 18:20
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「……共也君?」
「いやー、悪い悪い。うん。悪かった」
「絶対悪いって思ってないよね!?」
休み時間、案の定と言うべきか、貫太がこちらに文句を言ってきた。上手い返しが思いつかなかったので、取り敢えず適当に返してみたが、残念ながら貫太には通じなかったようだ。
「……僕がどれだけ苦しんだと……!」
「いや、ほんとすまん。なんか面白そうだったから」
「僕の価値は面白さ未満かな!?」
「以下だ」
「せめて以上にして欲しかったな!」
このままだと、貫太に叱られてしまうと考えて、話を逸らそうと何か話題を探す。そこで、ふと気になっていた事を聞いた。
「で? 愛泥からは何を言われたんだよ」
その辺りの壁に背を預けながら貫太に聞いてみる。彼は納得のいかないような顔をした後に、ため息をつきながら諦めた。
少しすると、彼は不思議そうに首を傾げながら答える。未だに疑問が解決していないというか、なんというか、しっくり来ていないというか、そんな、腑に落ちない、といった表情である。
「いや……ちょっとおかしいって言うかさ……」
「んだよ。じれってぇな」
「こう……普通に話し掛けてきて……何事も無かったみたいに雑談してきて……朝ご飯の話して……」
ああ。そういう事か。なんとなくだが、合点が行く。貫太はどうやら、彼女の様子が普通であることに違和感を感じているようだ。
貫太が愛泥を恐れているのとは対照的に、彼女があまりにも自然な言動である事。彼女が普通であることそのものが、貫太の不安なんだろう。
「ん? まあいいんじゃねぇか。特に目立った害は無いだろ?」
事実、特に彼に害は発生していない。見たところ操られている様子も無いし、彼女もハートの力を乱用する様子は見受けられない。なら、特に問題が無いだろう。
すると、彼はその言葉に反応するかのように、自分の学ランのポケットを漁り、一枚の紙切れを取り出す。こちらに見せてきたそれには、数字とアルファベットが羅列してある。……まるで、メールアドレスか何かのような配列の仕方だ。
「それから……なんか連絡先貰った……」
「……すっげー唐突だなおい」
「だから登録したけど……」
「したのかよ!?」
「あとメールアドレスがlovemudになってて意外と凝ってるなぁって……」
「そこかよ!? もっと思うところないのかお前!?」
「なんかもう、隣さんだからなぁ……って」
「それで納得するのかよ貫太……」
メールアドレスの書かれた紙を見ながらため息をつく貫太に、思わず動揺を隠せない。コイツ、こんなに度胸のあるヤツだったか……!?
変に適応した友人がそこそこ心配になるが……まあ悪い方向には行かないだろう。多分。そう信じる事にした。
「……あとさ……」
ポケットにそれを仕舞いながら、貫太はまた口ごもりながら言う。……彼自身、愛泥との距離感や接し方がイマイチ掴めておらず、困惑を極めているのだろう。
「他にもなんかあんのか?」
「こういう事を言うのは……その……おかしいのかも知れないけど……」
貫太は、困った顔のまま言った。自分でも、何が言いたいのかわからない様子で。
「普通に……綺麗だなって……思ったんだ……さっき」
少し照れ臭そうに、困惑しながらも、彼は頬を掻きながらそう言った。……確かに、異常な事かも知れない。自分を殺そうとした相手を、そんなふうに思えるのは。まあ、だが。
「良いじゃねぇか。嫌いじゃないぜ。お前のそーゆー所」
そうやって、貫太の肩を叩いた所で、学校の次限開始のチャイムが鳴り響いた。大人しく自分の席に戻り、さり気なく貫太の方を確認する。その表情は、どことなくだが、嬉しそうな顔だった。
因みに、この授業が終わった後の貫太の第一声は、「さっきは上手く誤魔化したね、共也君?」だった。最近、貫太の成長を身を以て体験する。
そして授業の時間が過ぎ、放課後が訪れる。自分の席から貫太と観幸が話しているのが見えた。
「じゃあ行こうか、観幸」
「了解なのデス」
貫太がそう言うと、観幸がコクリと頷く。気になって、好奇心から尋ねてみる。
「どこ行くんだ?」
「演劇部の公演。今日やるって言ってたでしょ?」
そう言えば、HRの時に担任がそんなことを言っていたな。ぼんやりと思い出す。俺がいかに朝のHRを聞き流しているかが窺えるが、いつもいつも同じセリフしか喋らない教師にも非はあるのではないだろうか。と思う。などと言い訳臭く俺が考えつつも、返答する。
「ああ。何やるんだっけか?」
「オリジナルらしいよ。それと……」
「演劇部の噂を確かめに行くのデス」
颯爽と名乗り出て来た観幸が、自慢げな顔でパイプを吹かすような仕草をする。……お前、それいつも握ってんな……何処から出してるんだ……? などと、軽い神秘を不思議に思いつつも、それはひとまず置いておき、質問をする。
「噂? って何の噂だ?」
フッフッフ、と含みのある笑い声を出した後、彼はニヤリとした笑みを浮かべて言った。
「変幻自在の演者……といった所デス」
器用な手付きで彼がくるりと手のひらでパイプを回し、口に咥えた。
次話>>27 前話>>25
- Re: ハートのJは挫けない ( No.27 )
- 日時: 2018/05/16 19:25
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
幕が下りた体育館のステージを見ながら、演劇部の公演を待つ。パイプ椅子の座り心地は背もたれがあるだけ良かったと言えるだろう。席順は俺が右端。貫太を挟んで観幸が左端、といったところだ。
「で、変幻自在の演者ってなんなんだ?」
小声で観幸に聞こえるように問うと、彼は流石に教員やらがいる前ではパイプを出さないのか、何かを右手に持つような仕草だけしながら答えた。エアパイプ芸人でも目指すつもりかお前は。
「ありとあらゆる役を演じる演劇部のダークホース……浮辺縁(うわべ/ゆかり)の事デス」
「浮辺縁……女か?」
「男デス。僕と同じように女子と間違えられるような名前デスが、彼はれっきとした男デスよ」
「でもさ、それって単に演技が上手いだけじゃないの?」
貫太の質問に、チッチッチと舌を鳴らしながら音に合わせて指を振る観幸。
「ノンノンノン。彼はそのレベルではないのデス」
「そのレベルじゃないって?」
「彼はあらゆる役柄を演じる……というより、自然に行うのです」
その言葉の意味が分からず、なんとなく聞き返してしまう。
「自然、だぁ?」
「彼は全ての役柄を自然体でこなしているかのような、そんな感じなのデス」
「でもよぉ……自然に振る舞うのと演技をするのはちとちげぇんじゃねぇか?」
俺は演劇に関しての知識が全く無いために、あまりそういう事はよく分からないが、自然に振る舞うのと演劇をするのは少し違うとは思う。
「では共也クン。キミは自分が感情移入できる人間と出来ない人間、どちらが演じやすいデスか?」
「そりゃ勿論できる人間だな」
「言い換えると、彼は全ての役柄に対して無理なく入り込めるのデス。先程は少し言い方が悪かったかも知れまセン」
観幸の言葉になんとなくだが納得する。しかし、それでは根本的な疑問は解消されない。
「でも、そいつぁ結局、演技が上手いで終わるんじゃねぇか?」
俺がそう言うと、観幸はニヤリと笑う。この発言を予想していたのだろうか。既に切り返しは考えていたようで、間髪入れずに彼は言う。
「それがデスね。以前、たまたま図書委員で遅くまで残っていた時、部活帰りの彼と出会った時の話デス。彼はいつも柔和な雰囲気の穏やかな気性の持ち主でシタ。しかし……その日に限って、彼はとても荒々しい口調の豪快な人物だったのデス」
「……その日に限って性格が変わったって事か?」
「そうなのデス。そして彼に聞いてみた所、演劇部の練習で彼が演じたのは酒飲みの気前の良い人物だったそうデス。……偶然デスかね?」
確かに、偶然とは考えづらい。観幸の言葉には合理性と説得力があった。だが、
「それ、アイツの気質とかじゃねぇのか? 一度役に入ると中々抜けないみたいな」
「……ヤケに食いついてきマスが何か理由でもあるのデスか……?」
「てかな、普通に考えておかしいんだよ。ハート持ちっていうのはそんなに多くねぇんだ。一つの学校に一人いるかいないか。もっと言えば、地方都市なら市町村の中に一人いるか居ないかのレベルだぞ?」
だがここはどうだ。俺、貫太、愛泥とこの学校に三人もいる。兄さんはまだ都会からやって来たとして数えずとも、かなりの数になる。
「それがこんな狭い領域に三人もいるんだ。誰かが意図的に作らねぇ限りはもう居ないはず……」
そこで、少しだけ、何かが頭の中で引っかかる。記憶を辿ると、朝の兄さんの発言に辿り着いた。
『これは俺の推測に過ぎないが、ハート持ちを作る力を持つ何かがいる』
この言葉が何回か頭の中で反響し、思わず押し黙る。もし、仮に、そんな力を持つ者が居たとしたら──?
「どうしたのデスか?」
不審な顔でこちらを見てくる二人。急に言葉を切ったのが不味かったのだろうか。何でもないと返しておく。
「とにかく、普通は有り得ねぇんだよ。こんなにハート持ちが集まるのは」
「ふむ……普通はデスか。なるほど」
すると観幸は何処からとも無くルーペを取り出しこちらに翳して、一言。
「探偵の仕事は、普通を疑う所から始まるのデス」
その後の彼のドヤ顔が無ければ、俺はもしかしたら、その可能性を疑っていたかもしれない。
「あ、始まるよ」
観幸と話していると、貫太がステージの方を向いてそう言った。顔を向ければ、幕が引かれ始めており、舞台には二人の人間が立っていた。背の高めな女子生徒と、中くらいの身長の男子生徒だ。
「……あの背が高い男子生徒が浮辺クンデス」
背が高い、と言われて少し見回したが、良く考えれば観幸から見たら、ステージに立つ男子生徒の身長は高く見えるのか、と納得し、それを見る。服装から男と分かったが、顔立ちからはあまり男らしさが感じられない。が、幼い訳ではなく、むしろ女性らしさを持ち併せている、と表現するべきだろうか。
そして、演劇部の公演が開始された。
○
演劇中、俺はずっと主役を演じていた浮辺を見ていた。正直、俺は演劇や演技に詳しくないので、あまり評価は出来ないが、特に下手な印象は無かった。恐らくだが、上手い部類に入るだろう。
劇が終わった所で、俺達の他に十数人程度居た人々が拍手を送る。当然、俺も便乗して手を叩く。内容自体は結構退屈しないものだった。隣では、貫太が少しだけ涙ぐんでいるのが分かった。
「泣いてんのか?」
「だ、だってぇ……」
貫太は多分、感動系の作品を読むとすぐに涙を流すタイプだろうとは薄々考えていたが、案の定というべきか、的中していた。観幸は正直よく分からない複雑な表情をしている。
「さて、これからどうする?」
俺が問うと、答えたのは観幸だった。貫太は制服からハンカチを取り出して涙を拭いている。貫太の女子力を確認しつつも、観幸の話を聞く。
「勿論、浮辺クンに会いに行くのデス」
それから俺達は校門で暫く雑談しながら浮辺を待っていた。公演の後の片付けなどの作業があるのだろう。既に時刻は7時を回っており、陽はとっくに落ちていた。
「ええと、今日の主役ってどんな役柄だったっけ?」
「正義感が強くてハキハキした感じデス」
貫太の質問に、観幸が答える。つまり、浮辺が主役と同じような性格であれば、観幸の発言の信憑性が増す。という事だ。
「……来たのデス」
学校から、一人で浮辺が出てきた。彼は制服に着替えており、少しだけ疲れたような顔をしていた。……何かあったのだろうか。
「やあ、浮辺君」
「ん……ああ、貫太君か」
知り合いである貫太が声を掛ける。戸惑うような様子を少し見せたのは、暗くて一瞬、誰が話し掛けてきたのか分からず身構えたからだろう。正体を確認すると、すぐに緊張を解いた。
「その……今日の演技、凄く良かった。なんか語彙力足りなくてアレなんだけど……その」
「別に凝った表現なんて要らないから、素直に嬉しいよ。ありがとう。もっとも……先生からは少し叱られちゃったんだけどね……」
それから数回言葉を交わした所で、浮辺がこちらの存在に気が付いた。視線の先は、俺。
「そこにいるのは……観幸君と……」
「ああ、俺はこの2人の知り合いだ。今日の公演、観てたぜ」
「君も見てくれたんだね……嬉しいよ。主役で緊張したけど……」
「そうかぁ? 結構自然体な演技だったぜ」
「……演じてる時は役に入るのに無我夢中だから……自分じゃよく分からないかな……」
声音は柔らかめで丸みのようなものがあった。雰囲気的には、少しだけナヨナヨとしているが、弱気とまでは行かない程度。身長は俺よりも十センチ程低いだろうか。
「というか……君たち、僕に感想を言うためにこんな遅くまで……? 明日言ってくれても良かったのに……」
「いや、ワリィな。今日感じた事は今日伝えるのが筋かと思ってな」
「……そっか。そうだね。うん、確かにその通りかもしれない」
ニコリと笑う彼。その笑顔は嬉しさを示しているが、少しだけ儚さが混じっているようにも思える。
「君、なんて名前なの? 僕は浮辺縁。……こんな名前だけど男なんだ」
「俺は友松共也。共也って呼んでくれ」
「ああ、宜しくね、共也君。僕の事は好きに呼んでよ」
彼が右手を差し出してきたので、取り敢えず握り返しておく。2人で握手をした後に、それじゃあ、と言って浮辺は帰って行った。
「……観幸、なんかお前の話と違うんじゃないか?」
彼は全く、今日の主役のような性格ではなかった。寧ろ、彼の素の性格では無かっただろうか。
俺の問いに答えない彼の方を向くと、彼は自分の手を顎に当てて考え込んでいた。
次話>>28 前話>>26
- Re: ハートのJは挫けない ( No.28 )
- 日時: 2018/05/20 09:11
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「観幸……話が違うんじゃねぇか?」
「ムムム……おかしいのデス……」
首を捻る観幸に問いかけても、返ってくるのは唸るような声だけ。彼はルーペの持ち手の方でこめかみを軽くグリグリと押しながら考え込んでしまう。
「ボクの考えが外れたのデスか……?」
「どうもこうも、そうとしか考えられねぇだろこれ」
浮辺が歩いて行った方を見れば、既に彼の姿は夜に消えていた。ここは観幸の考えが違っていたと考えるのが妥当だろう。彼は今日、特に演じたキャラクターと同じような性格をしていた訳でもないし、いつも通りの性格だったらしい。普段の彼を知らない俺が確認したのでは無いが。
「……いや、まだ可能性があるのデス」
「はぁ? お前この期に及んでまだ変えないつもりかよ……それは流石に呆れるぜ」
「共也クン、探偵と言うものは常に別の可能性を考え続ける生き物なのデス。例え99%の確率で間違いの推理も、残り1%を切り捨てる訳にはいかないのデス」
「へいへい。そんで? どーゆー事なんだよこれは」
正直、こんなに遅い時間帯だ。家に帰ってやる事もあるし、俺は早く帰りたいという考えで一杯だった。だから、こんないい加減な対応ていたのかもしれない。観幸の言葉も、いつもの探偵トーク程度にしか考えていなかった。
「彼の力は……一定時間が経つと自動で溶けるタイプのものデス」
「つまり?」
「ボクが遭遇した時、彼は演劇部の帰りでシタが、その時は恐らく練習で演技した直後に帰ったのデス。しかし……今日は片付けやら何やらで時間を取られた為に、学校から出る間に力が解けてしまったのデスよ」
確かに、と言うと思ったのだろうか。
まあその考えなら状況が一致するのも理解できる。結構良好な推理かもしれない。無論、全てが推測である点を除けばの話だが。
「……今日は遅いから帰るぜ。じゃあな」
「あ、うん。またね」
なんだかいるだけ時間の無駄な気がしてしまい、俺はその場から離れることにした。
そして、次の日の事だ。いつもの滝水公園の入口辺りで貫太を待つ。滝水公園は入口が幾つかあり、中を突っ切ることでショートカットできるため、いつも公園の中を通っている。噴水を通りかかった時、ふと、先日の事を思い出した。
「……兄さん、まだこの街に俺がいるのは間違い、なんて言うのかね」
兄さんや実家からは何度も此処を離れるように言われた。と言うよりは、実家で暮らせと言いたいのだろう。別に俺は実家が嫌いな訳では無いし、仮に行ったとしても辛い思いはしないだろう。
だが俺がこの街を離れる訳にはいかない。何が起こっても、離れられない訳がある。
「おはよー共也君」
「おう、貫太」
一人で考え込んでいるところに、貫太が来た。相変わらず低い背丈の彼は必然的に俺を見上げるようになる。
「そういや、貫太は浮辺と知り合いなのか?」
昨日話していたのを見た感じだと、少なくとも初対面という訳では無さそうだった。
「うん。一年生の時、隣の席になった事が何回かあって」
「じゃあよ、昨日何か変わった所とかあったか?」
貫太は目を瞑って唸りながら2、3回自分の頭を人差し指で軽く押す。そして悩ましい顔をしつつも言葉を紡いだ。
「なんだか……自信があるなって……」
「自信……どういう事だ?」
発言の意味がよく分からなかったので問い返してみると、貫太は目を開いてこちらに顔を向けて、手振りを添えて話し始める。
「一年の時、浮辺君は極端に自分に自信が無かったんだよ。褒めると自己嫌悪の言葉が止まらないタイプの人。でもなんだか……昨日は褒め言葉を素直に受けたり、自信があるように見えたし……それに主役を受けたっていうのも違和感かな。彼、脇役したいって言ってたし。まあ、自信がついたなら良い事なんだけどさ……」
昨日の浮辺の様子とは確かに違うが……貫太の言う通り、自信が付いたとなればそこで終わりだ。だが頭に観幸の存在がチラつくせいでついつい色々と考えてしまう。要らない考えだと切り捨てて、俺は大人しく、ハートの力で瞬間移動した。
理由は、まあ、貫太の方を見れば分かるだろう。
「おはようございます。貫太君」
「あ! ちょっと! 共也く……お、おはよう。隣さん……」
その後、学校へ行くと、観幸が既にいた。珍しくルーペもパイプも握らずに、ずっと静かに顎に手を当てて静止している。
「おう観幸、どうした?」
「……ああ、共也クン。特定する方法を考えていたのデス……」
彼は少しだけ疲れた様子で対応してきた。……多分、昨日から考えていたのだろう。ここまで来ると呆れを通り越して心配になって来るが、言われて止める彼ではないことは、既に把握済みである。
「で? 成果は?」
そう問うと、彼は黙って人差し指のみを立てた手を突き出してきた。一つ? 何かあるのだろうか。
「一つ、少々粗い方法デスが、思いつきまシタ」
「ほー、じゃあ聞いてもいいか?」
「……まあ、条件として貫太クンか愛泥サンが必要デスが……無難に貫太クンに協力して貰いましょう」
貫太か愛泥……2人の共通点はなんだろうか。ハート持ち、と言うなら俺や兄さんが入っていないのはおかしいだろう。仮に忘れていたとしても、観幸がそんなことするようなタイプではないことは百も承知だ。
「実に単純な事なのデスがね……」
観幸の策を聞いて、確かに、と驚いた。ハート持ちでも無いのに、いや……ハート持ちではないからこそ思い付いた策だろう。やはり侮れないなと意識を改めつつも、俺は自分の席へと戻り、どうやって戻ってきた貫太を説得するかを考え始めた。
結論から言うと、やはり奴は断れない男だった。
次話>>31 前話>>27
- Re: ハートのJは挫けない ( No.29 )
- 日時: 2018/05/18 20:02
- 名前: 透 ◆zFxpIgCLu6 (ID: NVMYUQqC)
波坂さん
こんにちは。某所ではお世話になっております、透です。
3話の途中ですが、ちょっとお邪魔させてください。
支離滅裂な文章になってしまいますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
ハジケナイ、いつも楽しんで読ませていただいております。胸アツな展開に毎回心臓を揺さぶられています。
どのお話もすごく好きなのですが、わたしはスティールハートが一番好きです。なぜなら共也くんがかっこいいからです。
最初は「殴れば皆死ぬ」理論の見也さんが好きだったのですが、いつの間にか共也くんが好きになっていました。完全なヒーローではないけれど、助けに来てくれる共也くんめちゃくちゃかっこいいです。
なのでバインドハートの共也くんのあのシーンも「最ッ高〜〜〜!!」って思いました。何度も読みました、何度読んでも興奮しました。
1人1人が壁にぶつかって、それに真っ向から立ち向かって壁をぶち壊していく登場人物とストーリーが好きです。
ストーリーは王道でシンプルなんだと思ってます。でも、王道と言っても絶対に人を感動させられるかと言われればそうではないと思うので、人を感動させたりアツくさせたりできるハジケナイは本当にいい作品だと思います。
ハジケナイの文章も好きです。はっきりしてて、無駄がないというか、ストレートな文章が、作品にあっていていいなあと思います。台詞やモノローグで好きなところがあるのですが、ネタバレになってしまうので、また別のところでお伝えします。
アクションシーンはめちゃくちゃかっこいいし、とても好きです。アクションシーンはバインドハートのが迫力があって一番好きです。愛泥さんこわかった……。
それと、この作品での能力の使い方には、毎回すごいなあと思わされています。能力の設定も能力名もとても好みです。その上、思いもよらなかった使い方がされているので、さすがだなあ、と思っています。異能力モノを書いている身として、とても見習いたいです。
ハジケナイは面白いです。最新話を追いかけるのが楽しいです、最終回まで追いかけ続けます。それくらい面白いし読んでいて楽しいです。
波坂さんも色々思われることはあると思いますが、今回はそれを伝えたくて来ました。どうか最終回まで、ここで書いていただけたら、とてもうれしいです。
これからも応援しています。また来ます。それでは。
透
- Re: ハートのJは挫けない ( No.30 )
- 日時: 2018/05/20 09:09
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
>>29 透さん
某所ではこちらこそお世話になってます!感想ありがとうございます!
作者的にストーリーには結構力入れてるので、ほんと、そこを褒めてください嬉しさ極まってますありがとうございます! 一応作者的に思う主人公は共也君なので気に入って抱けて嬉しいです!
個人的にはなんか物理的成長より精神的な成長描写が好きですね! そこはがっつり作者の趣味です! この作品で1ミリでも感動されられたら私の勝ちだと思ってるので私の勝ちですね(?)
出来るだけスラスラ読めて最低限は伝わる文章を意識しています! 狙ったことが上手くいっていたら嬉しいです!
バインドハートのアクションシーンって珍しく蹴りも拳も何ですよね。ほんと、なのに1番動いてる気がするので作者としても謎です。
なんかもう……そんな言葉言われたら作者冥利に尽きますね! ありがとうございます! 完結できるように頑張ります! ほんとにコメントありがとうございました!
- Re: ハートのJは挫けない ( No.31 )
- 日時: 2018/05/22 06:17
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕は共也君と一緒に、今ここに居る。僕が学校に着くなり頼み事をしてきた彼。僕は特に断る理由も無いので了承した。
そして、その後僕達は浮辺縁君のいる演劇部の部室までやって来たのだが──
「なぁ貫太。さっさと俺を信じようぜ」
僕から見て、右前方にいる共也君がそう言う。ボタンが掛けられておらず、羽織るだけの学ラン。大きな身体に筋肉質な体格。そして彼の顔。どこからどう見ても、彼自身である。
その見た目は間違いなく友松共也であろう。だが僕には、目の前の共也君が、本当に共也君であると断定することは出来なかった。
何故なら
「おいおい待てよ。俺が本物だっつーの」
もう一人、僕の左前方に瓜二つの顔に全く同じ服と体をした、友松共也がいるからだ。ドッペルゲンガーというか、最早本人が2人になったと言う程の再現度である。無論、2人が居るということは、どちらかが偽物なのだろう。
「どっちが本物なの?」
「俺だ」
「俺だ」
僕がそうやって問うと、彼らは全く同じ動作で自分を指さした後、隣の方を睨み付けるように見て、お互いに指を差し合う。
「テメェ! 真似なんかしてんじゃねぇぞ!」
「テメェ! 真似なんかしてんじゃねぇぞ!」
僕は目の前で繰り広げられる鏡写しの言い合いに頭を抱えるしかない。2人は同じような動作で全く違わないセリフを同時に言うのだ。
「どうしてこうなったんだ……」
僕は現実逃避気味に、意識を少し前の事が起こる前に向けた。そう、それは確か──。
○
「浮辺君? ごめんなさいね。今先生と買い出しに言ってていないの」
「買い出し?」
僕が演劇部を訪ねると、浮辺君は留守だった。買い出しという単語を聞いて、演劇部にそんな事が必要なのかと思い、聞き返してみる。
「ええ。昨日の公演でダメになったのがあってね。ほら、ウチの演劇部って男子が少ないからさ。浮辺君は男の子だし」
荷物持ち要員にされたのか、とそう解釈する。多分だが間違っていないだろう。
「いつぐらいに帰ってきます?」
「えーっと、あと1時間くらいしたら帰ってくるかしら。少し遠目の場所に行ったから」
その後、演劇部の先輩が逆に聞き返してくる。
「ところで、浮辺君に何か用事でも?」
「はい。少し話がしたくて……」
「うーん、なら待ってる? ちょうどいい場所があるし」
それは僕らにとっても良い提案だったので、僕らは付いていく事にした。案内されたのは、視聴覚室。教室の前には大きな白いスクリーンが掛けられており、すぐ近くにはプロジェクターが設置されている。適当な椅子にかけるように言われたので従うと、先輩が放送器具を弄り始めた。
数分後、少し後に映像が流れ始める。見覚えのある場所の映像。そう、ウチの学校の体育館のステージだ。先日、演劇部が公演をした場所。
「これは?」
「勧誘も兼ねた暇潰しね。あ、映像は去年のよ」
勧誘しているのか、と思わず身構えるが、実際内容は単純な劇だった。暫く映像を見ていると、物語の中に見覚えのある人物が出てくる。
「あれ、浮辺君?」
確かに浮辺君だった。配役としては、少なくとも序盤に出ては来るものの、完全に目立たないであろう、脇役のポジション。昨日の配役とは大違いだ。そして何より……下手だ。いや、下手なのかどうかはよくわからないが、少なくとも昨日のものとは全く違う事だけは分かる。共也君にこっそりそれを言うと、同意の言葉が返ってくる。
「……少し、違う気がする」
「……ああ。なんかまるで人自体が変わったみてぇだ」
その後も話は進んでいくが、特に彼の活躍のシーンもない。単純な脇役な上に、数少ない彼の演技には、何か違和感というものがある。昨日に比べると、精度も質もまるで違う。
「……浮辺君、去年と全然違う……」
「ええ。彼、少し変わったのよね」
気が付けば、無意識のうちに漏らしていた言葉に、演劇部の先輩が反応していた。
「彼、1年生の三学期辺りに、突然演技の質が変わったの。急に、役作りが上手くなって、なんだか……その人本人になったみたいに、全然、演技しているって感じじゃなくなったの」
「え……」
「それに演技もなんだか……演じている人そのものが変わったみたいなの。昔の一生懸命な演技、嫌いじゃなかったんだけど……」
その言葉に、浮辺君の演技を見てみる。確かに、今の彼のような精密さと本物感に溢れた演技ではないが、彼が熱意を持って、真剣に演じているということは分かる。見ていて、好感が抱ける演技というのだろうか。
「その……えっと……」
「私の名前は雪原優希乃(ゆきはら/ゆきの)よ」
「……雪原先輩は、やっぱり浮辺君が変わったと……思いますか?」
「そうね。彼なりに努力を積んだのかしら。かなり変わったわ。でも……昔の一生懸命さとか、必死さとか、そういうのが無くなっちゃったのは少し寂しいわ。……最も、最近は凄く幸せそうだけどね。彼」
「幸せそう?」
「ようやく努力が実ったんだもの。周囲から評価を受けたら誰だって喜ぶわ。彼の場合、最近急に先生から気に入られ始めてるし……」
雪原先輩は少しだけ寂しそうな顔をしている。が、すぐに表情が変わったと思えば、演劇が終わっていた。プロジェクターを弄りながら彼女が時計を確認する。
「もういい頃ね。部室にいるかしら」
その後視聴覚室から出て部室へ向かう。
彼女から外にいるよう言われた為、部室の前で待機していた。少し経った頃に浮辺君が現れた。僕らと同じ制服を着ている。多分、買い出しに行く時の服装のままで着替えていないのだろう。
「えっと……僕に用事があるの? かな?」
「ああ、ワリィな。浮辺」
「全然。それより、どうしたの? 貫太君までさ」
「何でもないけど、まあ、ほら、少しだけ見せたいものがあるんだよ」
そう言って、僕は観幸に言われた通りのセリフを言う。正直、芝居がかっているせいで演劇部にはバレるんじゃないかとヒヤヒヤする。が、彼は少しだけ訝しげな目線をぶつけてきたものの、なんだかんだで了承してくれた。……バレたのかと思った。
それから人気のない渡り廊下まで足を運んだ僕ら。
「こんな所まで来て、何するんだい?」
「いや、俺も知らねぇんだ。なんか貫太が見せたいものがあるっていうからよ」
そう話している浮辺君と共也君。そして、共也君は僕に背中を向けていて、浮辺君がその斜向かいにいる。余りに絶好すぎる位置関係。偶然にしては出来すぎている。
これから行うことを想像して、思わず息を飲み込んだ。2、3回、ほどバレないように深呼吸をする。
目の前で2人が会話していること。そして共也君に見えないように、また浮辺君に見えるようにやることが重要なのだ。
何故なら、共也君にバレたら、困るのだから。そう考えると、手に汗が吹き出てくる。暑いなと気温のせいにして、自分の動揺を誤魔化しつつも標的を見据える。
僕は1歩、共也君への距離を詰めた。心臓が飛んでいきそうな位、鼓動が大きくなる。胸が張り裂けそうなほど緊張する。もしこれが失敗したら後がない。そう考えるだけで、僕は死んでしまいそうだった。
まあおかしな話だろう。
これから人を刺すというのに、自分が死にそうとは冗談にも程がある。
そして僕は、隠し持っていたナイフを突き刺した。
しっかりと、ゆっくりと押し込む。
「────貫、太?」
共也君が、驚いたような声音を上げる。彼にしては珍しいな、なんて思いながら、振り返った彼の見開かれた目を見る。きっと彼も、本気を出せば僕なんてすぐに殴り飛ばせるはずなのに、そうしないのは、彼の優しさ故だろう。
ゆっくりとだが、彼の体が力なく倒れていく。膝をつき、手を付き、そして体を這いつくばる様に床に押し付ける。彼の背中に突き立つのは、1本のナイフ。
視線をゆっくりと、倒れた共也君から浮辺君に向ける。彼の表情が、僕への驚愕で埋め尽くされていた。まあ当然だろう。僕は彼に見せ付けるためにやったのだから。
「……僕が見せたかったものはこれだよ」
「き、君はなんて事を! そんなもので人を刺すなんて!」
浮辺君が、腰を抜かしながら、伏した共也君を指さす。彼の手は震えていた。だから、僕はここで追い打ちをかける。
倒れた共也君と浮辺君の間に入り込むようにして立つと、制服からもう1本、ナイフを取り出す。学ランは物を隠すのに都合が良い。そしてそれを彼に向けると、彼はガタガタと震え始めた。
「や、止めて……、止めてくれよ貫太君!」
そうやって、必死の表情で懇願する彼。
その必死さに、僕は思わず笑ってしまう。いや本当に、おかしくておかしくてたまらない。
どうして彼はそんなに恐怖しているのかさっぱりわからない。笑いを堪えきれなくなって、僕が笑い始める。
すると、彼の表情がさらに一層、僕を恐れるものになった。
不思議に思いつつ、僕は笑いながら、そのナイフを二、三回、手の中でクルクルとした。
次話>>32 前話>>28
- Re: ハートのJは挫けない ( No.32 )
- 日時: 2018/05/24 18:30
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕はゆっくりと、一歩一歩、しっかり、ゆっくりと、焦らすようにして、浮辺君に近づく。すると彼は細かい震えを刻みながら、手と足を駆使して後ずさりする。しかしそれも束の間。5秒もしない内に壁に背中が付いて、もう彼は逃れることが出来なくなる。それを見て少しだけ笑みを深めると、彼の怯えが強くなるのを感じた。
「どうしたのさ。そんな怖がって」
「こ、来ないでッ!」
そんな言い方酷いなぁ、なんて思いつつも、じわりじわりと、先程よりもより遅く、床をじっくりと踏みしめながら、彼に近付く。
「ひ、ひぃ! く、くくく来るなぁ!」
大げさな程、殺されまいと必死になっている彼。そんな彼に、ナイフを首に近付けてから一言、少しだけ声音を変えて、脅しかけるように言ってみる。
「じゃあ白状しなよ……君、ハート持ちなんでしょ?」
彼は訳が分からないと言いたげな表情と視線でナイフと僕をじっと見つめつつも、正常に動きもしない首を、廃工場で何年も眠っていたゴミ同然の機械を回すようにぎこちない動作で、そのガタガタと震える顔と共に首を横に振る。……もう少しだけ、カマをかけてみる。
「ほんとにぃ? 君はハート持ちじゃないかな? あ、嘘ついたらこのナイフで刺すから」
「は、ハート持ちって何なんだよ! や、止めてくれぇ!」
そんな情けない声を上げるものだから、なんだかおかしくなってクスリと笑ってしまう。
いや、本当に凄いものだ。ここまで演技ができるなんて、流石は演劇部といったところだろうか。
「お願いだから……! 僕を殺さないでくれ……!」
彼がそうやって、懇願するかのように、いや実際に必死で懇願してくるものだから、僕はついついおかしくなって、また笑ってしまう。
でもまあ、取り敢えず彼のお願いにはこう返答しておく。
「いや、殺す気なんてないけど?」
僕がわざと何気ない、いつものキョトンとした口調でいえば、一気に緊張感が無くなったのを感じた。ぱちくりと何回か瞬きをして固まっている浮辺君を傍目に、倒れたままの共也君の元へと向かう。
「ど、どういうこと……?」
彼は相変わらず腰の抜けた様子で、壁に背を預けながらこちらに問う。もう、演技なんて止めればいいのに。そんな、ハート持ちじゃありませんなんて演技は。
その言葉と、僕の様子が急に冷めた事に、彼が疑問符を浮かべる。
「僕が笑ってた理由は単純だよ」
僕はそう言って、自分にナイフを突き立てる。彼がまたもや驚きを見せるが、数秒後、違和感に気が付いたようだ。
そう、1滴足りとも、血が流れていないことに。
これは特に難しい話ではない。
なぜなら、このナイフは僕のハート、《心を刺す力》によって作り出されたナイフであり、物理的な効力が無いからだ。人には刺さるものの、人に物理的なダメージを負わせることはできない。今回はその性質を利用しただけだ。
「僕は自分の役目が果たせて、嬉しかっただけだから」
そして接近した共也君からナイフを引き抜く。勿論、血なんて付いていないし、僕はそれを引き抜くとそれを自分の意思で消し去った。
そうすると、共也君が難無く起き上がる。先程の様子が嘘のように、特に目立った外傷も無ければ、不調という様子も無い。僕らは2人で、壁に背をつけて座り込む浮辺君に相対する。
「共也君、彼はさっき、このナイフに驚いたよね? 僕の持ってたナイフを恐れたよね?」
「ああそうだな。コイツは確かに見えていた。……貫太がハートの力で作った、ハート持ちにしか見えないはずのナイフがなぁ!」
共也君がそうやって、力強く浮辺君を指さした。
しまった。その表情を浮かべた直後、彼はそれを恥じるかのように片手で顔面を隠した。そのまま項垂れるように、頭を下げて、深い、深い溜息をつく。
そして彼の指の隙間から、声が漏れる。彼のくぐもった声が、先程の恐れた様子とは打って変わった声音が、廊下に響いた。
「……ぁあーあー、バレちゃったか」
顔を覆ったまま、彼がふらりと立つ。その足に先程のような震えも情けなさも一切無い。強いて言うなら、今までとは違った雰囲気を纏っている。
「中々の演技だったぜ?」
「バレるとは思わなかったなぁ……いつから気付いてたの?」
「いや、正直オレは騙されてた。ま、こっちにゃ名探偵モドキがいるからな」
「……ああ、深探君ね。彼、今じゃちょっとした有名人だよ。僕からしたら、彼が一番ミステリアスだ」
2人が軽口を叩き合うが、その間やけに空気が張り詰めている。何気ない日常会話というシートに包まれた、いつ爆発するか分からない不発弾のようなものが、近くにあることだけを実感する。
「ま、アイツが一番の謎だよな」
「そうだね……ところで、何がしたいの?」
その文には、きっと『ハート持ちだと暴いて』という言葉達が省略されていたのだろう。その意図を汲み取ったのか、共也君がこう返す。
「何かしたいっつーか……まあなんだ。ちょいと俺の仕事? って奴だ。別に害を加えるつもりはねーさ」
緊張感を和らげる為か、軽い口調で返す。
そのお陰か、少しだけ緊張感で汚染された空気が幾らか改善された。
と思いきや、突如として後ろから引っ張られるのを感じた。そのまま思いっ切り後ろに倒れ込むと、誰かに受け止められる。そして気が付けば、共也君は僕の隣から背後へと移動していた。
そして、僕が先程まで立っていた場所のすぐ後ろの壁に、カッターナイフが突き立っている。
この場において、ハートの力で瞬間移動して僕の背後に回り込み、僕を助けた共也君と、危うくカッターナイフが刺さる所だった僕。僕らを除けば、ここにいる人物はあと1人しかいない。
「……浮辺、テメェ……」
共也君が少しだけ声音を落として、怒りを滲ませた声で名前を呼ぶと、彼は今まで顔を隠していた左手を取り払った。すると、突如として鋭い眼光が姿を現す。
「ほら、よく言うだろう?」
彼はポケットに右手を突っ込むと、何かを握って取り出す。何を握ったのかは分からないが、彼の片手に包まれて見えなくなるレベルのものである。
「先手必勝、ってさ」
彼がその右手を横に振った。すると、彼の振るった右手からカッターナイフが投げられる。驚くのも束の間、共也君によって僕は後ろに投げ出された。彼自身は瞬間移動で避けている。
「おいまて浮辺! 何してんだお前!」
「……仕方ないじゃないか」
彼が溜息を付いて目を伏せる。そしてもう1度目を開けた時、それは姿を現した。
そう──彼の黒目の部分が痛々しい程真っ赤に染まった右目が。
「──嘘だろ、おい」
共也君が、酷く動揺しているのが分かった。その見開かれた目は彼の赤目を一直線に捉えている。口は開かれており、完全に放心状態だった。
「なんだか、自分が抑えられないんだ」
彼はそう言って、再びカッターナイフをどこからとも無く取り出す。狙いは、共也君。
「よく分からないけど、君達を殺さなきゃって」
今更カッターナイフに気がついた彼。だがしかしもう遅い。飛来したその鋭い刃が、彼の右腕、二の腕の部分に突き刺さった。
次話>>33 前話>>31
- Re: ハートのJは挫けない ( No.33 )
- 日時: 2018/05/26 19:42
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「クソ……野郎がッ!」
カッターナイフを無理矢理力づくで引き抜き、苦しそうな表情を浮かべる共也君。ゆかに投げ捨てられたそれが、カシャンと音を出して少しの血を撒き散らしたところで、彼の反撃が始まる。
その場で虚空に向かって左拳を突き出す彼。勿論それだけでは何も起きないが、彼の力を使えば別の話だ。彼の肘から先が消え、それが浮辺君の前に現れる。案の定、彼はそれに全く反応することができずに、胸に拳が突き立つ。彼はそれに後ろに突き飛ばされたようにして後退するが、全く痛がる様子を見せない。
「全然拳に力が無い。右腕を庇ってるからそうなるんだよ」
「気ィ遣ってんだよ! どうやらモヤシの割には力はあるみてーだなぁ!」
「演劇部だって筋トレもするしね。……早く諦めればいいのに」
「生憎諦められるような往生際の良さはねぇんだよ、俺にはな!」
図星であることを悟られまいとしたか、共也君は浮辺君の言葉を豪快に笑い飛ばす。その笑みも、少しだけいつもより曇って見える。
フン、と鼻で笑うように返した浮辺君は、再び右腕を振るった。彼の右手から、握られていないはずのカッターナイフが、再び共也君に飛んで来る。
「なんて手品だよ!?」
「さぁね? 君が死ぬ事には関係無いよ」
共也君の胸めがけて投擲されたそれを、ハートを使いつつ避ける共也君。今はまだハートの力で避けることが出来るが、これ以上彼の得意な接近戦に持ち込もうとすると、恐らく躱す事が出来なくなるだろう。
などと考えている間にも、再び浮辺君が右手を構える。彼の手は、何かが握られていることしか分からない。
「止めろ! その右手を振るな!」
次の瞬間、僕の前にナイフが飛び出した。そのまま高速で浮辺君に、呆気なく突き刺さる。刻まれた言葉は『止めろ』の3文字。直後、彼が振ろうとしていた右手が唐突に停止する。そして、手の中から何かが零れ落ちる。
金属音を出して、銀色に光るそれが床に転がった。そのまま転がって僕の元まで来るそれ。慌てて拾い、その姿を見る。
銀色の薄くひらべったい円形のもの。そして中央には大きく『1』という数字が刻まれている。僕の頭の中は、視界にそれを入れた瞬間、それを示す一つの固有名詞を思い浮かべた。
「い、一円玉だ! お金の一円玉じゃないか!」
「一円玉、だぁ?」
共也君が僕の声に何を阿呆なことをと言わんばかりの口調で反応した。そんな彼に、この硬貨を見せると、彼が驚きの顔を浮かべ、浮辺君の方を見る。
「……ま、もうネタバラシしてもいいかな。……僕のハートの、ね」
そう言って彼は、ポケットに手を突っ込み、何かを人差し指と親指で摘んで僕らに見せつけるようにして押し出した。僕が持っているものと同じ、一円玉だ。
「僕のハートの《心を偽る力》」
彼がそういった瞬間、一円玉が見る見るうち朧気になり、姿が殆ど見えなくなる。そしてすぐに、何か細いものが代わりに姿を現す。そしてそれは、カッターナイフに姿を変えた。
「でも、これだけの陳腐なハートじゃない」
彼はそう言って、膝を付いて床に手を触れた。僕らがなんだなんだと見ている内に、共也君が変な声を上げた。
「うおっ!? な、なんだこれ!?」
そちらを振り向くと、彼の周辺の床が姿を変えていた。全体的に青っぽい模様が付いており、彼が足を持ち上げると、何かが床から伸びて靴の裏にへばりついている。
「ね、粘着シートだ! まるで家の害虫を駆除する罠のように俺の足にくっつきやがる!」
あの床は今、踏んだら中々足が離れないようになっているのだろう。共也君が力づくで歩こうとしても、中々強力な力でそれを封じ込めようとする粘着物。
「君のハート、ちょっとでも動かないと瞬間移動出来ないんでしょ? ……というか、ワープゲートみたいなものを作る力なのかな?」
共也君のハートは《心を繋ぐ力》だ。瞬間移動は空間と空間を繋げ、距離を省略しているだけで、場所から場所へとワープしている訳ではない。だとするならば、動けなくなれば、彼は省略することが出来ない。彼は自分の移動距離を幾らでも引き伸ばせるが、そもそも1ミリも移動できなければ引き伸ばすも何も無いだろう。
「共也君!」
「来るんじゃねぇ貫太! お前までこのゴキ罠モドキの餌食になるぞ!」
そう言って、共也君が僕を制止しながら見せつけるように右足を上げる。しかし少し上がったところで、強烈な粘着力によって引き戻される。彼の全力を用いても、ほんと数十センチしか進むことが出来ないようだ。それどころか、共也君の顔には明らかな疲れが滲み出ている。
「それじゃあ、さよなら」
共也君が驚いたような表情と共に声を上げると、浮辺君が返事に添えるように、カッターナイフを投げ付けた。
だが僕は、何もしなかった。
何故なら、見てしまったからだ。
──共也君が、笑ったのを。
「浮辺、思い込みってものは怖ぇよなぁ」
「何を言っているんだい?」
共也君は、唐突にその言葉を発した。彼が浮かべるのは不敵な笑み。不気味がるように浮辺君が疑問で返すと、共也君は飛んでくるカッターナイフに手を向ける。その行動に、僕と浮辺君が目を見開いた。
「『一度効いたものは二回以降も効く』『一度効いた攻撃は何回でも効く』……なんてのは、結構ありがちな思い込みだよなぁ?」
そして、カッターナイフの銀色に輝く刃が、彼の手に突き刺さる。
いや、違う。カッターナイフが彼の手に吸い込まれるようにして、消えた。
そう、共也君は自分の前とどこかの空間を繋げて、そこにカッターナイフを逃がしたのだ。では、彼はどこに繋げたのか。
その答えは、浮辺君の後ろにあった。
「ハッ! テメェの自業自得だ!」
直後、浮辺君がくぐもった声を上げた。彼が何が起こったのか分からず、背後を振り向く。
「そうか……カッターナイフを僕の背後に移動させたのか……」
彼の顔が苦悶に歪んだ。そして、彼の背中からまたチャリンとお金の落ちる音がした。一円玉だ。彼のハートは恐らく、物を一時的に別の物に変える力なのだろう。そしてそれが解かれて、一円玉が落ちてきたのだ。
すると、連鎖的に周囲に転がっていたカッターナイフが、一円玉に姿を変えてく。そして、粘着質の床も、普段通りの床に姿を戻した。
瞬間、共也君が走り出す。浮辺君にスキが出来た今がチャンスと見たのだろう。
「……甘い!」
が、浮辺君が手にはカッターナイフが握られていた。まさか、隠し持っていたのだろうか。
だから僕は、安堵の息を吐いた。
「なっ……!?」
彼がしまったと言いたげな声を漏らす。彼は、カッターナイフを落としてしまっていた。これは彼のケアレスミスではない。何故なら、彼の胸にはナイフが突き立っているからだ。
──僕が作った、『止めろ』と刻まれたナイフが、だ。
「本当に……ピカイチな奴だぜ、貫太ァ!」
共也君のその言葉の直後、彼の左拳が、浮辺君の呆然とした顔を撃ち抜き、背後の壁まで吹き飛ばした。
次話>>34 前話>>32
- Re: ハートのJは挫けない ( No.34 )
- 日時: 2018/05/29 04:44
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
殴り飛ばされた浮辺君は、背後の壁面に激突して、そのまま人形が崩れるかのように壁に背を預けて倒れた。彼は、もう動かない。
「……はぁ……はぁ……クソ、厄介なハートだったぜ……」
汗を制服の裾で拭いながら共也君が言い、軽い足取りで浮辺君に近付く。思わず、愛泥さんの時のことを思い出した。
そう、倒れているフリをして、実は意識があった時の事だ。
「待って! まだ油断しないで!」
僕の声が廊下に反響すると、共也君がハッとしたような顔を浮かべて、慌てて足を止めた。すると、倒れた筈の浮辺君が目を開け、体を起こす。
「これもバレるとはなぁ……」
「生憎、こっちはそれでトラウマレベルの体験してるからね」
「そっか……じゃあ」
そう言って、彼はまた、その右手に一円玉硬貨を握り締める。
「これはどうかな?」
そう言って、その一円玉硬貨を、床に叩き付けるようにして投げ付けた。
次の瞬間、僕の視界を染めたのは、白、白、白。圧倒的なまでの白い色。これが煙だと気が付いたのは、僕が吸い込んでむせ返った時だった。
共也君の方からも、むせ返る音がする。どうやら、彼もこれを吸い込んでしまったらしい。これは不味い。浮辺君がこの後、何をするのか、僕には想像すらできなかった。
そして、視界が晴れた時。
僕は再び、驚かされる事になる。
僕の目の前の、右にいる共也君は、その顔を驚愕に塗り潰して叫んだ。
「だ、誰だテメェは!」
一方、左にいる共也君は、その顔を驚きに染めて叫んだ。
「お、俺がもう一人だと!?」
そう、僕の目の前には──瓜二つの、何から何まで全く同じ、友松共也が存在していた。
○
今までの回想を終えた僕は改めて2人をじっくりと観察してみる。が……残念ながら違いらしき違いが見受けられない。
「オイ、俺は本物だ。信じていい。間違いねぇ」
「ちょっと待ちな。本物は俺だ。偽物風情が嘘ついてんじゃねぇ」
そしてそれは、目の前の2人に聞いたって何もわからない。
ため息を付いて、僕は2人に、ハートの力で作ったナイフを飛ばした。2人の胸に突き刺さったそれに刻まれた言葉は、『ウソを付くな』の六文字。
「本物はどっち?」
流石にこうしてしまえば分かるだろう。そうやって、高を括っていた。だからそこ、その数秒後、驚かされる事になるとは、この瞬間は知らなかった。
2人の共也君は、同じ動作で自分を指差しながら、同じタイミングでこう言った。
「俺が友松共也だ」
「俺が友松共也だ」
2人の重なった声が、こんなにも憂いを招くとは想像もしなかった僕。目の前では、また鏡合わせの喧嘩が巻き起こる。それによって、また僕は頭を抱えるしかない。
恐らく、彼の《心を偽る力》は自分の本心すらも偽るのだろう。最早偽るとかそういう次元ではない気がするが、少なくとも僕のハートのより彼のハートの方が効力が強いと見て間違いない。
「じゃあ、僕と最初に出会ったシチュエーションは?」
「滝水公園で不良に絡まれた時」
「滝水公園で不良に絡まれた時」
再び重なるセリフ。今度はお互いに拳を突き出し合い、お互いそれを顔面にくらって吹っ飛び合う。なんだかシュールな光景を見ているが、これは少しだけ不味いのではないだろうか。
どうやら、理屈は分からないが彼の力は情報すら仕入れるらしい。どうやってかは知らない。ただ、今はそういう力であると認識するしかない。
「君の人を褒める時に使う口癖は?」
「ピカイチ」
「ピカイチ」
「君の兄の名前は?」
「友松見也」
「友松見也」
ダメだ。どの方向から責めても返ってくる質問は同じ。記憶などでは、この謎は解けないらしい。
何か無いのか。そうやって周囲を見回したところで、ふと、あるものが目に入る。
それは、血にまみれた一円玉硬貨だった。何があったのさ先程までのことを思い返してみる。そのうち、共也君が血を出すようなことは一回だけ。
そう、最初に、右腕にナイフが刺さった時の、あの一回だけだ。
ハートの力は、精神と物理に二極化する。精神の場合は精神にしか働きかけられないし、物理の場合は物理にしか働きかけられない。ちょうど、愛泥さんの具現化した鎖が人を操れずものを縛ることしかできないように。
と、するならば、彼は記憶や心に干渉した。これは精神の真似だ。精神を偽っている。動作の真似も、予想しているだけなら精神的なものだろう。そしてその状態なら──不意に外部的要因から、物理的な要因で発生する、バグのようなものに対処できるだろうか?
バクというのは、例えば、小さなキズ、とか。
「……左手上げて」
そう言うと、2人は同じ動作で手を挙げた。
「右手も上げて」
そう言うと、2人は同じ動作で上げる──のではない。左の方の共也君が、若干、痛がるような素振りを見せて、手を挙げるのが遅れた。
右の方の共也君が、しまったと言わんばかりの顔を浮かべるが、こちらをちらりと見た後にすぐに誤魔化すような表情を浮かべる。
それを見落とすほど、僕はマヌケじゃない。
「何もするな!」
僕の胸からナイフが発射。それは右の方の共也君に突き刺さる。彼が動き出そうとしていたのが、一瞬、止まる。
「人の真似ばっかしてんじゃねぇぜ!」
今度は共也君の蹴りが、反対側の共也君──もとい浮辺君に炸裂。
「そん……な……!」
打撃点から霧が晴れるように、皮が剥けるようにして、浮辺君がその姿を現した。炸裂した蹴りは、彼の右腕を破壊する勢いで放たれた。実際、彼が右腕を抱えている辺り、あれはもう折れているのかもしれない。
だが、それでも。
「まだだ……!」
彼は左手でポケットに手を突っ込み、一円玉硬貨を取り出す。彼の貯蓄量が気にならないでもないが、そんな考えは彼の剣幕な雰囲気に一瞬で掻き消される。
「待てよ浮辺! 俺達はお前を殺したい訳じゃねぇんだよ!」
共也君のその言葉も、彼の表情を変えることはできなかった。それどころか、彼は恐れるような表情に、その顔面を変形させていく。
「嫌だ……! この力を失うのは嫌だ……! そんなことしたら、僕は、もう、誰からも……」
彼の体はふらついている。もう立つことだって難しいはずだ。それでも、彼の中で燃える執念のような何かが、彼をどうにか突き動かしている。
涙を流してまで、何かを恐れる彼。演技にしては、大袈裟すぎるが、本心から来たものだと考えると、妙なリアリティがある。
「な、何言ってんだよ!?」
「嫌だ……この力が無いと……僕は……必要じゃない……必要とされない……それだけは嫌なんだ!」
そう叫び散らす彼の右目は相変わらず、いやむしろ更に一層、赤く爛々と光り始めるそれ。共也君が、それを見て眉を顰めた。
「……オイ浮辺、オメーの右目、ソイツはどうした?」
共也君が、いつに無く真剣な眼差しを以て問う。
浮辺君が少しだけ間を置いた後、先程よりはマシな様子で返す。
だが返ってくるのは、キョトンとした声。
「何を言っているんだい……? 僕の右目?」
もしかしたら、これは彼の演技かもしれない。何かを悟られまいと、演技をしているかもしれない。
だが僕の目には、彼のその発言が、どうにも本気に思えてならなかった。
「て、テメェ……自分の右目の色に気がついちゃいねぇのか?」
「僕の両目は生まれた頃から黒だ。……何を言っているのかなぁ!」
「……ほら、見せてやんよ」
共也君が、浮辺君に右手をかざす。するとそこから、何処かへ繋げたのか、異質な壁のようなものが出てきた。最も、共也君の背後からでは何が出ているのか分からないが。
「……鏡の前と空間を繋げたの……は?」
どうやら、トイレかどこかの鏡の前と壁を繋げて、浮辺君に見せているらしい。そして彼は──酷く、動揺した表情を見せた。
「──なに、これ」
彼が、自分の顔面を掴む。形を確かめるように、何度も何度も、様々な部位を掴んで、まるでそこにあるか疑っているように。
「これが──僕?」
「違う」
「こんなの僕じゃない」
「そんな、僕は、僕は」
「僕は、誰?」
そう呟いて、まるで棒が倒れるように、彼が背後に倒れ始める迄に、数秒とかからなかった。
○
ずっと昔から、僕は無色だった。
僕はまるで平坦のような、平面のような、平凡な人間。特に目立ったものが無く、誤差程度の得意不得意はあるが、逆にそれが平凡さをより際立たせている。そんな存在。
目立った個性も、キャラクター性も、特徴も、僕は欲しいとは思わなかった。この思考こそが、僕を平坦人間たらしめるものの源泉なのだろう。
だか、そういった考えは、認められたい、構ってもらいたい、などの承認欲求が無いこととは繋がらない。そして僕は幸か不幸か、人一倍強い承認欲求があった。いや、むしろ小さな頃に人から認められなかった分、今頃になって求めるようになったのかもしれない。
だが僕には他人から認められるものは何も持ち合わせていない。平凡ということは、良くも悪くもないということ。良ければ、それは長所だ。他人から認められる個性だ。悪ければ、それは短所だ。他人から構われる個性だ。では平凡は?
平凡は、認められなければ構われすらしない。皮肉にも、認められたい構われたいと嘆く僕は、認められず構われない平凡というもので埋め尽くされていた。
そんなある日、あの人から、この力を貰った。
《心を偽る力》。彼女はこの力をハート、と呼んでいた。そして、この力を持つ人間をハート持ちというとも言っていた。
彼女の素性は知らない。
だが彼女は僕に、何も色のない透明の僕に、個性という色を与えてくれた。
僕は昔から演劇というものが好きだった。というより、何かを演じることが好きだった。自分ではない、何も無い自分ではない別のものになれるから。演じる自分は、誰かに見られる力があるから。
そしてこのハートの力は、僕の演技をより一層強めた。心を偽り、僕の性格をねじ曲げ、キャラクターに合わせることで、僕の演技は飛躍的に向上した。するとどうだ。今まで見向きもしなかった同輩や先輩、顧問の先生まで、みんな僕の方を見てくれた。僕を賞賛して、ずっと欲しかった役もくれた。それも、一番目立つ主役だ。僕は嬉しかった。
そして、気が付いた。
本当の僕なんて、もう誰も求めちゃいないんだ。
そして、唯一自分を自分たらしめていた、見た目すら変容してしまった今。
僕は、誰?
本当の僕は、何処?
次話>>35 前話>>33
- Re: ハートのJは挫けない ( No.35 )
- 日時: 2018/06/01 04:02
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
浮辺君がそのまま、背後に吸い込まれるように、直立したまま棒のように倒れる。危ない、そう言いかけた時、隣の共也君が、ハートの力を使って、間一髪、浮辺君が頭を壁に打ちつけようとしていた所を、滑り込みで受け止めた。彼の意識は戻っているのか否か、うわ言のように何かを宣っている。
「……嫌だ…………僕……は……」
その様子は、悪夢にうなされている子供のようだ。何か悪いものでも見ているのだろうか。それとも、悪い現実から逃避するためのものなのだろうか。
「……不味いぜ貫太。浮辺の奴、下手したらヤベーことになっちまう」
そう言う共也君が、彼の右手を指さす。それを見て、思わず息を飲み込んだ。
そこにあるはずの浮辺君の右手は、まるでノイズが掛かっているかのように、黒いモヤに包まれている。そして、それは数秒後、タコのような軟体動物の触手に変わった。思わず悲鳴を上げて、また数秒後、今度は普通の手に戻る。目の前で繰り広げられる冒涜的な恐怖に、僕は目を背けずには居られない。
「な、何これ」
「恐らくだが……こいつのハート、《心を偽る力》が暴走してやがんだ。このままだと、こいつは何を何に変えるのか全く分かんねぇ……言わば装置みてぇなモンになっちまう」
「は、ハートの力が暴走するなんてある事なの!?」
そんな事、僕は一度も聞いたことがなかった。ハート持ちとなって、一ヶ月と経たない僕だが、見也さんからも共也君からも、一度もそんな話は聞いていない。
「……あの赤目だよ」
「……え?」
「浮辺の右目、赤かったろ」
そう言われて、先程の爛々と輝いていた右目を思い出す。普段は黒かったのに、急に赤くなったあの目。不自然といえば、不自然過ぎる。
「昔、アレと同じ症状のハート持ちに会った事がある」
そう言えば、共也君が初めてそれを見た時、僕と同じ……いや、それ以上に動揺していた。何があったのかは僕の知る由もないが、きっと彼の過去に何かあったのだろう。
「…………」
「ソイツはな……理性が吹っ飛んだ様子で暴れ始めたんだよ。それで結構な人数を…………殺した」
「ひっ……!」
共也君の言い方や声音も相まって、思わず口から変な声が漏れる。
「だから分かる。コイツを放置していたら、ぜってぇに、何か良くねぇ事が起こりやがる。コイツは俺の勘だが、外れはしねぇよ」
「で、でもどうするのさ! 僕達に出来ることなんて……もう……」
浮辺君を殺すことだけじゃないか。そう言おうとして、セリフを無理やり喉から出てこないように押し込んだ。ダメだ。そんなこと、共也君が出来るはずがない。どうにもならない感情は、歯を食い縛り手を握るエネルギーに変わるだけ。
「あるんだよ」
共也君が、僕に向かって手を差し伸べる。逆の手では、浮辺君にそれを置いた。
「これから、浮辺の心に乗り込む。俺のハート……《心を繋ぐ力》の本来の使い方だ」
本来の使い方。その言葉に、そう言えばと思わず彼の力の使った場面がフラッシュバックする。どれもこれも、ハートの具現化によって引き起こされたものばかりで、本来のハートの非物理的な力は全く見たことがなかった。
「……さぁ、どうする、貫太」
「……え?」
共也君は、少しだけ苦そうな顔をしつつも、僕に出来る限り淡々と伝えようとしていた。それでも、感情が滲み出てしまうのは、きっと彼の性のようなもの故だろう。
「心の中で、もし、もしもの話だ。……なんかあって、俺達が倒れたら……俺達は戻ってこれるかすら分からねぇ。最悪体がもぬけの殻になって死んじまう」
死んでしまう。その今の今まで身近にあったはずの言葉を聞いて、思わずゾワッとした。自分が先程までやっていたこと。そしてこれから起こる事に対する恐怖が、急にこみ上げてきた。思わず息がつまり、足が竦む。
「俺がやろうとしてんのはよ……言わば、火に包まれちまった火災現場の中に、生きてるかすらも怪しい一人の人間救うために、中身もわからねぇまま無防備で突っ込む見てぇなモンだ。無謀なのは百も承知だ。だから……お前が来ない選択をしても、俺は何も言わねぇさ」
彼はどうして、そこまで他人にこだわれるのだろうか。
おかしいだろう。彼は、何故友人や家族だけではなく、言ってしまえば数回程度言葉を交わしただけの相手に、ここまで必死になれるんだ。
──いや、きっとそれが、彼の強さなんだろう。
誰にでも分け隔てなく接する訳では無い。聖人君子を気取っている訳でもない。平等主義でも博愛主義でも無い。ただただ、目の前の人間が困っている時、それを解決する術を自分が持っている時、最善を尽くさずしてそれを見捨てられないだけ。恐らく、友松共也という人間の言動はそこが根幹なのだろう。彼の行動は、複雑に見えて実は最も人間らしいのかもしれない。
では、僕はどうするべきなのだろうか?
僕ははっきり言って臆病だ。誰にだって何事にだって常に一歩引いては、何らかの理由を付けては逃げている。強さなんてありはしない。小柄で力も体力も無い。腹を括れる度胸も無い。
それでも。
一つだけ、僕には動かなければならない理由がある。それは単純で、明快で、稚拙なものかもしれない。
「行くよ。だって……」
だけれど、この世には、理由が浅はかで悪いなんて道理は何処にも無い。ならいいじゃないかと、幼稚な言葉を叩き付ける。
「友達だから」
浮辺君も、共也君も、大切な友達だからだ。
そして、それ以上でもそれ以下でもそれ以外の答えが、必要であるとは、僕は全く思わない。
僕の言葉を聞いた共也君は、少しだけ顔をうつ向け、何故か数回ほど目を擦るような動作をした。
その後、顔を上げた彼の表情は、いつもの不敵な笑みに戻っていた。
彼は言う。
「貫太……もうピカイチじゃあ足りねぇよ」
彼が、僕の手を力強く握る。
「行こう。浮辺君を助けに」
すると、僕の意識は、少しずつだが真っ黒にフェードアウトしていった。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.36 )
- 日時: 2018/06/01 04:02
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
目を覚ました時、僕の視界は朧気で、白以外何も分からなかった。
「おう、起きたか?」
「ここは……?」
「浮辺の心の中だ」
床に背を向けて寝ていた僕は、共也君の手を借りて立ち上がる。周囲を見渡しても、景色は妙にぼやけていてフワフワとしている。ただ、やたらと僕の周辺だけはハッキリとしているので、これまたおかしな気分だ。
「人間の心っつーのは不安定なんだよ。むしろ、安定しちまった方がやべぇんだよ」
共也君はそんな風に言いつつ、僕らの右手側を指した。そちらを向くと、白の中に、少しだけ違う色が見えた。
それは、大きな木──のようなものだった。形そのものは全長5m以上もの大木であるが、枝や幹などの茶色い部分は、全て真っ白だった。そして、その白い枝の先には、赤青緑黄紫白黒と様々な色の付いた葉達がこれでもかと言うほどに生えている。それらは全てがランダムに配置されているわけではなく、区画を分けるように、同じ色が集まるようにして生えていた。
「アレが言わば心の核って奴だな」
「……凄く……カラフルだね……」
「ああ。綺麗だろ? ただまあ……少しばかり浮辺の奴は寒色が多めな気もするがな……」
「違いがあるの?」
「ああ。一応色によって違いがあ──あ?」
共也君が、何を思ったのか血相を変えて駆け出す。僕も慌てて共也君に付いていく。普段より体が軽い気がしたが、それでも疲れるものは疲れる。ましてや共也君は足が速いので、小走りでも付いていくのが結構きつかった。案の定、僕は途中で共也君から引き離されてしまう。
共也君が木の前で立ち止まっていた所に、ようやく追い付いた。膝を付いて息を必死に吸い込んでいると、共也君が何も言わずにいるのに、少し違和感を覚えた。雰囲気的には、無言というよりは、絶句。
何があるんだと、僕の視界を木に向けると、思わず、吸ったばかりの息を、吐き出してしまった。余りの驚きに、吐いた息を吸うことすら忘れ、それをずっと見つめてしまう。
そこには、浮辺君が居た。
そう、確かにそれは浮辺君だ。その左目や左手からは彼の面影が浮かんでくる。顔だって、一応彼の姿は残している。
だが、それでも、
それでも、半身が赤いソレに覆われるかのようにして取り憑かれた彼の光景は、余りに、余りに惨すぎた。赤いソレは、まるでスライムのようにべとりと浮辺君にへばりつき、取り憑いた半身からギョロリと何個もの目玉を出している。
「うっ……」
思わず、その光景に胃の中を吐き出しそうになる。が、寸で抑え込んだ。口の中に若干酸っぱい味が広がると、共也君が唐突に叫ぶ。
「オイ浮辺! しっかりしやがれ!」
浮辺君は、半身をその赤い怪物に取り憑かれた状態で、白い大木に赤い怪物から伸びる触手で括り付けられていた。少し見た感じだが、接着部分は同化している。触手にはまるで生きているかのように、血管のような管が浮かび上がっていたりする。
共也君のその呼び掛けに、代わりに浮辺君に取り憑いた怪物の何個もの目玉が、一斉に彼の方を凝視した。共也君もその様子に、少しだけ顔を顰めた。
直後、赤い怪物の一部が分離した。なんだと思って身構えていると、それは見る見るうちに姿形を変えていく。凄惨な光景に再び胃液が掻き立てられるが、変身が終わると、その感覚は消えた。何故なら、変身した後の姿は、見慣れたものだったからだ。
「……ふう」
その彼は、浮辺君とソックリな姿形をしたソレから漏れた声は、ノイズがかかったように掠れている。
「浮辺……?」
「私は浮辺縁ではない」
落ち着いた様子で淡々と述べる浮辺君の偽物。いや、彼が本物なのか、怪物に呑まれている彼が本物なのかは定かではない。しかし、僕には呑まれている方が本物であるという、妙に確信めいた何かがあった。何より、彼は自身を浮辺縁ではないと否定している。
「誰だテメーは」
「私に名前などない。強いて言うなら、彼の心に取り憑いた寄生体だ」
「寄生体、だぁ?」
浮辺君の形をしたそれは、どこまでも業務的な口調だ。完成された物品のように変調が無い。人間らしさと言うか……生物らしさを感じられない。
「そうだ。私はある力によって作り出された、心に取り憑く寄生体だ。今は、彼を取り込む事で君達との対話が成し得ている。本来ならば、私に思考する力はあれど、それを君達に伝える術はない」
「んなぁこたぁどうでもいいんだよ! さっさと浮辺を離しやがれ! 事情は知ったこっちゃねぇがテメェのせいで浮辺は廃人に成りかけてやがんだ!」
共也君の糾弾にも、一切顔色を変えない。と言うよりは、目の前のソレは、きっと顔色を変えるという機能が無いのだろう。
「それはできない」
「何故だ」
「私とて、精神に一方的に寄生することは出来ても、取り憑くことなどは出来ない。まして一体化など、とても私の力だけでは成し得ない」
その言葉に、共也君がまさかと言ったように、口を開けて浮辺君の方を軽く指さす。
「まさか……」
彼が、唾を飲み込んだ音が、こちらまで伝わってきた。
「浮辺が……浮辺自身がテメェを求めているのか……?」
ソレは、再び貼り付けたような表情で答えた。
「そうだ。彼は寄生した私を、拒むどころか逆に受け入れたのだ。そして……これは私からの提案だ」
直後、ソレの腕そのものが、巨大なカッターナイフの刃に変容した。
「ここで、消えてくれはしないだろうか」
そして、それが共也君目掛けて超高速で発射された。高速で打ち出された凶器に、瞬間移動で回避しようとする。
だが、それは共也君が移動するほんと少しだけ前に、彼の右腕に突き刺さった。彼のちょうど肘辺りに、銀の刃が喰い込む光景は、中々刺激的なものがある。
「ぐッ! ……油断した!」
「共也君!」
しかしそれだけでは終わらなかった。その刃は喰い込んだ後にも尚肉を裂こうと直進し続けるのだ。次第にその刃は共也君の右腕を抉っていく。
「クソ! なんつー力だ!」
共也君がその刃を掴んで無理矢理自分の腕から外そうとするが、その刃が食い込むスピードには勝てない。そのまま段々と、刃が進んでいく。
不意に、手が滑ったのか、刃から共也君の手が離れた。
直後、共也君の右腕が宙に舞い、僕の目の前に転がった。
そして、それが僕の目の前で、大気に透けるかのように消え去る。僕はそれ見つめて、呆然とするしかなかった。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.37 )
- 日時: 2018/06/03 10:16
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
共也君の吹き飛ばされた腕が消え去ると、彼が苦しそうな声を上げた。当然だ。腕を吹き飛ばされたのだから。痛いとか苦しいとか、そういう次元のレベルではないだろう。
「ぁ……ッ……ぐぁ……ぁ……」
呻き声を上げる共也君の前には、右腕の肘から先が消えた浮辺君──の姿をした怪物。彼は何の感情も移さない瞳で、苦しむ共也君を傍観している。
彼をずっと見つめていると、彼の肘の断面辺りが唐突に暴れるかのようにぐにゃぐにゃと動き始めた。制服の中で何が起こっているのかは知らないが、数十秒後、彼の制服の裾から、先ほどと同じ右手が姿を現す。
「さ、再生してる……! 彼の右手、いや体はトカゲの尻尾みたいに何度でも、何度でも生えてくるんだ……!」
そう言っている内に、その手が再びカッターの刃に姿を変えた。不味い。このままだとさっきと同じ事が起こる。共也君は今それどころじゃない。
「止まれ!」
僕の全力を否定の意思を込めて、ハートの力でナイフを打ち出す。それに刻まれた言葉は『嫌だ』。
それは一直線に飛んで行き、怪物に突き刺さる。怪物は、カッターナイフの刃を共也君にかざしたまま、停止した。ほっと、安堵のため息を着く、
暇など無かった。怪物は直後こちらを向くなり、その右手を発射した。超高速で打ち出されたそれに、当然反応する術などない。反射的に横に飛んだは言いものの、凶悪な刃が僕の右腹部を通り抜けた。
「っぁ──ッ!」
声に成らないその振動が、喉の奥から飛び出した。尋常ではない激痛が、僕の体を駆け巡った。僕の視界がかき混ぜられるような感覚に陥る。平衡感覚も崩れ、そのまま右腕を打ち付けるような形で転倒。
頭が痛覚で汚染されているが、それでも揺れる意識の中で、血が出ていない事がわかる。今ここにいる僕は精神だけ。実際の体は無いので、再現されているのは外見だけで、血液や内臓といったものは再現されていないのかもしれない。
「ど……う、して……僕の、ハー……トが」
「先程妙なものを飛ばしていたが、生憎私は君達の感情が理解できない。君なりの感情を込めたのだろうが、私は動かされる心を持ち合わせていない」
淡々とした声が、僕の質問に答える。つまり、僕のハートは完全に無力ということだ。
頭の上に、何かが乗る感覚がした。それはこちらを押し潰したいのか、痛くなるほど圧力を掛けてくる。
「ぅああ……ッ!」
形状から察するに、それは靴のようなものだ。頭を踏み付けられているのだろう。その力は徐々に強くなっており、僕の頭が変形するほどに痛い。
「退きやがれクソ野郎!」
が、その言葉の直後に圧力が消え去る。上から何か鈍い音がしたかと思えば、カエルの鳴き声のようなくぐもった声が聞こえた。
上体を起こすと、喉を抑える怪物が膝を付いているのと、共也君がこちらに駆け寄るのがわかった。恐らくだが、彼のハートで遠くから首を殴り付けたのだろう。
「大丈夫か! 貫太!」
「うん…………、共也君、ごめん」
「何がだよ」
「僕のハート、アレには通じないんだ」
「……なんだと?」
「アイツには心が無いんだ。だから……僕のハートは……」
「危ねぇ!」
僕が俯きながら彼に言葉を吐いていると、突如として突き飛ばされた。そして、何かが突き刺さるような音がする。
「ぐぁっ……!」
共也君の苦しそうな呻き声が耳に聞こえた。だが僕は何が起こっているのか、察しはつくが見えはしない。
そして、共也君の左腕が目の前に落ちたところで、想像が正しかった事を改めて自覚した。
「そ、そんな……!」
「貫太ァ……はぁ、はぁ……大丈夫だよ、なぁ? ワリィ、ちっとばっかし、視界が安定しなくて……よ」
そして、彼が横向きに倒れた。僕の視界に、共也君の左腕と本体が並ぶようにして倒れる。両腕の無くなった彼はまるで、
「芋虫のようだ」
僕の思った通りの事を口にしたのは、左腕を無くした怪物。僕は彼に、何もすることが出来ない。今回ばかりは、何もしないんじゃなくて、出来ない。こうなってくると、自分の無力さを叩き付けられたような気分になる。
「無様だ。無様。何が君をそこまでさせた? その人間を見捨てれば、君はまだ私と戦えた筈だ」
怪物が左腕を生やしながら言う。その通りだ。僕なんか庇いさえしなければ、共也君はまだまだ抵抗することが出来た。きっと片腕が無いくらいで、共也君はアイツになんか負けはしない。なのに──彼は僕を庇って、こんな事に。
「──ああ、無様だな、俺」
それでも、
「そうだよな。こんな風にみっともねぇ姿晒しちまってよ」
それでも、彼は、友松共也は、
「だがそれでもいい」
顔面を手のかわりにして地面に固定し、何とか膝をつくような姿勢にし、そして無理矢理起き上がる。彼は、両手なんて要らないと言わんばかりに、足と頭を使って立ち上がって見せた。
「人を救えりゃ、俺の勝ちだ」
そして、いつものように、豪快な笑みで笑って見せた。
「……フン、今の君には何も出来ない。僕を倒すことも、あの人間を救うことも、な」
「誰が、俺が救うなんて言った?」
共也君がその言葉と同時に、一瞬で近付き回し蹴りを叩き込む。が、全く力が篭っていないのか、片手だけで簡単に受け止められてしまう。怪物の拳が、共也君の鳩尾に突き刺さる。両腕が無ければ防御は出来ない。完全フリーとなった彼の腹部に、これでもかと言うほど連打。
空気を吐き出す共也君。だが彼は止まらない。雄叫びを上げるようにして、彼はそのまま怪物に飛び付いた。
そして、その大きく開けた口で、怪物の肩に見ている方が痛くなる程力強く噛み付いた。そう、彼は両手の無い状態で出せる最大の力で、怪物に文字通り食ってかかったのだ。
「……離せ、鬱陶しい」
だが共也君の鬼気迫る表情を伴う噛みつきは、簡単な力では剥がれない。尚も肉に食い込みそのまま喰いちぎるのではないかという勢いだ。
彼の目には確かな意思があった。何が燃えているのかは分からない。きっと僕には分からない、彼の矜持やプライドがあるのだろう。だがその最後まで諦めない、往生際の悪過ぎる心意気に、見ているこちらが熱くなる。
そうだ。僕は何をしている。
共也君はどうだ。彼には何も出来なかった。両腕無しで、起き上がることも、抵抗することも、ましてや飛びかかるなんて出来るはずもなかった。でも彼はそれをやった。
僕は何も出来ないと言った。ああそうだ。僕は何だって出来やしない。今この状況をひっくり返す事も、共也君を助ける事も、浮辺君を救うことも出来ない。
だからどうした。そんな事は知ったことじゃない。出来ないなんか知らない。力があるとか無いとか関係無い。今ここで、僕は変わる。いや、変わらなければならないんだ。
「死ね」
共也君の体が、遂に剥がれた。彼は身体中をハサミのようなもので貫かれていた。そして、右足はいつの間にか吹き飛ばされている。あと一回攻撃されたら、いくら精神体と言えど死んでしまうかもしれない。
だから僕は叫ぶんだ。弱い犬ほど良く吠える。
──なら僕は、世界一吠える人間だ。
「止めろッ! 僕の友達に手を出すなッ!」
その言葉に、ハートの力は使わない。僕のハートが通じないなら、僕の言葉で伝えるまでだ。
「……ビックリさせるんじゃない。そんな大声を出して」
怪物の意識がこちらに向いた。これで共也君の一命を取り留めた。だが、これではまだ不十分だ。このままでは、皆殺しにされるだけ。現実問題は何も変わっちゃいない。
「僕は変わるんだ」
自己暗示をするように、自分に言い聞かせるように、僕はそう呟く。
「諦めろ。私に君達は殺される」
そう言う怪物の言葉には、説得力以外の何も無い。
「そうだ。僕はこのままじゃ殺される。だから僕は超えるんだ」
そう、僕は壁を超えなければならない。いや、超えなくてもいい。ただ目の前の壁をぶち壊してでも、前に進まなきゃならないんだ。
「私を超える? それは無理だ。少なくとも、君では」
その言葉にも、僕は賛同する他ない。
「お前を超える? お前は何を言っているんだ?」
なぜなら、僕が超えるのは目の前の怪物ではないからだ。
僕が超えるべきなのは、
僕が超えるべきなのは、
「いいか、僕がこれから乗り超えるのは、お前なんてちっちゃな壁じゃない」
そうだ。僕が超えるべきなのは──
「自分だ! 僕はこれから、自分自身を! 最も弱いこの僕を! 今ここで乗り超える!」
世界で最も弱い、世界一の負け犬だ。
次話>>38 前話>>36
- Re: ハートのJは挫けない ( No.38 )
- 日時: 2018/06/06 21:54
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
暗い暗い、闇の中で、僕はずっとうずくまっていた。
「違う……僕は……僕は……」
もう僕は、自分が何なのか分からない。自分に何があるのかも分からない。なんでこんなに、こんなに自分のことがわからないんだ。
今まで体に貼り付けた嘘が、体から零れ落ちていく感覚がする。徐々に体が空虚になり、自分の中身が無くなっていく。このままでは、僕は何も無くなってしまう。だからまた、嘘を吐いては体を虚像で満たしていく。そしてまた失い、再び幻想を注入する。それを繰り返した僕の体は、きっと嘘で出来ている。
僕に真実なんてものは無い。全てが幻想で、偽りで、虚無で、空っぽで。
「僕は……僕は……」
この目から零れる涙だって、きっといつかの嘘がもたらしたのものだ。拭えば拭うほど、今までの嘘が溢れ出てくる。
「違う……! 僕は僕なんだ……!」
頭を掻き毟っても、髪を引っ張っても、それでも自分が嘘に溶けて薄まっていく感覚が拭えない。
「嫌だ」
僕の体が、嘘に紛れて流れていく。次第に、僕が透明になっていく。
「消えたくない」
それでも、僕の意思は消えていく。
「誰か」
僕は大気に溶けて、虚空に透けていく。
「僕の事を見つけてよ」
透明になってからでは、きっとこの願いは叶わない。
その時だった。
ふと、声が聞こえた。
大きな、負け犬の大きな遠吠えが。
○
「それで、話は終わりか」
「ああ。もう僕の言いたいことは全部言った。後はやるだけだ」
ナイフを数本、ハートの力で取り出す。すると、目の前の怪物は嘲るような口調で言った。
「馬鹿の一つ覚えとやらか。それは私には効かないぞ?」
そうだろう。怪物にこのハート、《心を刺す力》は使えない。だから、僕は使う。
「別にお前に使う気なんか無い……よ!」
僕はそのナイフ達を、自分の体に突き刺した。ナイフに刻まれた文字は全て『負けるな』の四文字。
「……負けないぞ」
これはただの自己暗示のようなものだ。あくまで自分の一つの感情を増幅させる効果しかない。だが、足の震えは無くなった。
深呼吸するように息を吸って、吐き出す。その直後、僕はすぐに怪物に向かって走り出した。近付いた所で、ロクに使った事も無い拳を握り、共也君の姿を思い出しながら見様見真似で右手を放つ。
「弱いな」
だがそれは、いとも容易く、簡単に受け止められた。直後、腹部に鋭い痛みが、電撃のように駆け抜けるのを感じた。視界を一瞬ずらすと、ハサミのようなものが、腹部に突き刺さっている。
「ぐっ……ぁぁ!」
負けじと今度は左手を突き出した。だがそれも簡単に防がれ、直後、激しい蹴りが僕の鳩尾を貫いた。それはハサミを蹴るようにして放たれた為、更にハサミが僕の体に沈み込む。視界の中でスパークが弾けるが、歯を砕く勢いで食い縛り、今度は額を怪物の鳩尾に叩き込んでやる。頭突きだ。人間の部位の中で最も硬い頭蓋骨は、その怪物を少しだけよろけさせた。
「……少しだけ、見直したぞ」
その言葉を怪物が呟いた直後、彼の右手が巨大な刃に変わる。またアレを飛ばしてくる気だろうか。だが、それなら僕にも抵抗する術がある。そう考えて、怪物がこちらに照準を合わせる前に、僕は駆け寄った。
直後、超高速の刃が大気を走る。真っ直ぐに僕に向かうそれが、僕の胸に吸い込まれた。
のではなくて、僕の胸に突き刺さる直前で、まるで瞬間移動するかのように、怪物の背後に姿を現した。
怪物の体を後ろから貫いた刃が、上半身と下半身を分断した。初めて顔を顰めた怪物が、僕の足元を見つめて少しだけ納得したような表情を浮かべる。
「そうか……お前の力か……」
「……ありがとう」
僕は、足元にいる彼に礼を言う。正直、彼が起きているかどうかは賭けでしか無かった。だが、僕の友達は、僕の信頼を裏切らなかった。
「へっ、俺がくたばるかよ」
そう言って──ボロボロの友松共也は、ハートの力で巨大な刃を怪物の背後に移動させた彼は、口の端を釣り上げて笑って見せた。
「……後は頼むぜ、貫太」
「……うん、分かった」
そして僕は立ち上がる。
目の前には、上半身と下半身がお互いに引き合うかのようにして繋がっていく怪物の姿。このままでは、少しすれば再生してしまうだろう。
「ねぇ、起きてるんでしょ?」
だから僕は、再生していない今のうちに、大樹に括りつけられた彼に話し掛ける。
「浮辺君」
僕に名を呼ばれた彼は、怪物に飲まれていない左半身だけの彼は、その左目を開けた。
「どうして分かったの?」
「……たまたまだよ」
「そっか」
本当は、最初から気が付いていたなんて言えない。
共也君が吹き飛ばされていた時に、苦しそうな表情を浮かべていたなんて、言いたくない。
だって、彼は今でもきっと、演技をしているつもりなのだから。
「ねぇ、浮辺君。どうして? どうして君はあんなものを受け入れたの?」
僕がそう問うても、彼は沈黙するだけ。
「……雪原先輩に頼んでさ、前の君の演技、見せてもらったよ」
雪原先輩の単語を出すと、彼は少しだけ表情を変えた。神妙で複雑な顔に。
「確かに、今の君よりは下手だった。演技力も、台詞の言い方も、今の君の方がずっと上だ。演劇を知らない僕でも分かるくらいにだ」
「でも、必死に頑張る君は格好良かった」
「……何を言っているんだい?」
「何、じゃないよ。格好良かったって、そう言ってるんだよ」
キョトンとした彼に、僕は言葉を続ける。
「雪原先輩も言ってたよ。君の一生懸命な演技が好きだったって。今の君は上手いけど、それが無くなったって、凄く……悲しそうに言ってたよ」
「嘘だ!」
僕の言葉を遮るように、彼が叫ぶ。
「雪原先輩は……! 雪原先輩は僕が上手くなって喜んでくれたんだ! 主役も出来るようになって、凄いねって、おめでとうって、そう言ってくれたんだ!」
「初めてハートを使って舞台に立った時、自分が自分じゃないみたいな感覚がした。演技が終わったら、みんなが褒めてくれた。雪原先輩だって! 先生だって! みんな僕を必要としてくれた! 見てくれた! 認めてくれた! この力のおかげで、皆『僕』を必要としてくれるんだ!」
彼が言い終えるのを待ってから、僕は言葉を返す。
「嘘を吐いたのは、君だろう?」
「……ッ!」
僕の言葉が、喉の奥につっかえたのか、飲み込むような動作をする彼。
「君だって薄々感じていたはずだ。君がハートの力を使って性格をねじ曲げたって、評価されているのは『君』じゃない。『偽りの君』だ。そんなこと、もう分かっているんだろう?」
「違う! 評価されたのは! 皆が見ているのはこの僕だ! 偽りなんかじゃないこの僕なんだ!」
「それが嘘だって言ってるんだよ! この馬鹿野郎!」
彼は何分かっちゃいない。だから行ってやる。今こそ、彼に本当の事を伝えてやる。
「目を覚ませ浮辺縁! 君は知っているはずだ! 偽りで得た賞賛が、自分の心を苦しめるだけなんて事を! 君はもう知っていたはずだ! だけど君は恐れていたんだ! 止めたら、偽りの自分すら誰も見なくなるんじゃないかって、怖かっただけなんだ!」
「…………」
「だから君は自分自身を偽り始めた! 偽りの自分は自分だって、自分の本心すら偽ったんだ! この大嘘吐きが!」
気圧されたように彼は黙り込み、やがては俯いてしまう。
「だったら」
浮辺君は、うってかわってか細い声で嘆くように言う。
「僕は、どうすれば良かったんだよ」
彼の左目から、涙が零れては頬を伝い、やがては服に染み込んでいく。
「僕は何をすればよかったんだよ」
彼のその問いに、初めて素の彼が現れた気がした。
「何にもないこの僕は、どうすればよかったんだよ。ねぇ、答えてくれよ、貫太君」
彼は何をすれば良いのか分からない子供みたいな事を宣う。彼の気持ちは痛いほどわかる。だからこそ、僕は彼にこの気持ちを叩き付ける。
「そんなの自分で考えろ!」
この言葉は残酷かもしれない。突き放すようかもしれない。だけど、彼はまずこの言葉から始めなければならない。
「そんな……!」
「うるさい! そんなんだからこんな怪物に呑み込まれるんだ!」
何より、彼自身が自分の力で、この怪物を拒絶しない限り、この問題は解決しないのだから。
そして、僕の目の前の怪物は、再生を終えたようで、攻撃を始めようとしていた。
「済んだか?」
「いや全然。もう少し寝てもらいたいんだけど?」
「それは出来ない」
「それは残念だ」
さて、どうやらピンチのようだ。
○
彼は僕に、自分で考えろと言った。
だけど、何にもないこの僕は、何をしていいのかさえも分からない。
僕は、このままでいることしか出来ない。
偽ることすら出来ないまま、偽りの自分を引きずって、現状を維持していく事しか出来ない。
などと考えながら、僕が貫太君と僕そっくりの怪物が戦っているのを傍観していた時だ。
「オイ、浮辺」
そう声が聞こえたのは。
そちらを向くと、彼が居た。ボロボロの、死にかけの、友松共也君が。
「き、君は……」
「テメェ……ほんとにそれでいいのかよ?」
「……え?」
一瞬、彼の言っていることが分からなかった。
「テメェ、誰かから必要とされたいんだよなぁ?」
「…………」
「なのによ──テメェはそれを、こんな怪物に奪われちまってんだぜ?」
彼が目線で示すのは、僕の体にへばりつくものたち。
「おかしいとは思わねぇか?」
その言葉に、僕は少しだけ考えてみる。
僕は確かに認められたい。というか、僕は何故こんなふうになっているのか。そう、『偽りの僕』に全て奪われているからだ。では何故それすら僕は偽ったのか。『偽りの僕』が全てを奪っていることが認められなかったからだ。
では、悪いのは誰だ?
それは、『偽りの僕』ではないだろうか。それこそが、最も大きな原因ではないだろうか。
では、それの権化は何だ?
この赤い怪物だ。
「確かに、おかしい」
そうだ。確かに、考えてみればおかしすぎる。
そう考えた瞬間、僕の奥底から、何かユラユラと燃え盛るものを感じた。偽りではない、素の僕の怒りが、燃え盛るのを感じた。
「どうして僕が悩んだ?」
僕は、自分の顔面にへばりつく怪物を掴む。
「違うだろ。僕が悩む必要は無い」
そして、思いっ切り引っ張る。
「僕が苦しむ必要も無い」
僕は燃え盛る感情のままに、その怪物を引き剥がした。
「それこれも、全部全部この怪物のせいだ!」
次の瞬間、僕の体にへばりついていた怪物が、綺麗にペラリと剥がれ落ちた。そしてそれを、掴んで持ち上げる。
「僕の心から──」
八つ当たり気味に、僕は右手そのものをカッターナイフの巨大な刃に変えて、その怪物を切り裂いた
「僕の心から出ていけ!」
奇怪な液体を撒き散らすそれが、苦しそうに傷口を動かしたと思えば、突如として爆発した。いや、爆発というよりは破裂だろう。そして微塵になったそれが、大気に透ける。すると、木に巻き付いていた怪物達が、連鎖的に姿を消す。
「……本体は何処だ」
僕がキョロキョロ見回すと、少し離れた場所で、苦しむような声が聞こえた。見れば、貫太君が首を、僕にソックリな怪物に絞められていた。
許せない。底から湧き上がる、人生最大級の怒りを、僕は今コントロール出来ない。反射的に、僕はその怪物めがけて刃と化した右手を振り下ろした。
「なっ──!」
「くたばれ怪物! お前なんかもう要らない! 僕は、僕は『僕』なんだ!」
その怪物が、驚いたような顔でこちらを向く。だがその手を動かすには、もう遅い。
僕は全身全霊を持ってして、この怪物を拒絶する。もう僕は『僕』なんだ。皆から見られなくたっていい。評価されなくたっていい。認められなくたっていい。
だってこれからはこの僕が、『僕』を認めてやるのだから。
そして、自分の顔面に限りなく近いそれを、僕は思い切り縦に切り開いた。
「ば、馬鹿な──」
その言葉を最後に、その怪物は先ほどのものと同じように、木っ端微塵に破裂した。
○
目を覚ますと、白い天井。こんな経験あるんだな、なんて馬鹿らしいことを考えながら、僕は上体を起こした。
「……何があったんだっけ……」
酷く、記憶が曖昧だ。グチャグチャで整理されていない記憶たちを、頭の中で整理していく。
「あ、起きた?」
カーテンが開けられると、保健の先生が姿を現す。
「はい、えっと……僕は……」
「なんだか急に倒れちゃったみたいで。友松なんとか君? が連れてきてくれたの」
「……そうですか」
「見たところ傷もないし、大丈夫だとは思うんだけど……」
曖昧な記憶の中では、背中にカッターナイフが突き刺さったような気がしたが、傷はないらしい。もしかして、ハートの力で傷口を繋げたとか、そういったオチだろうか。右腕は……まあ、折れてはいないみたいだし、言わなければ大丈夫だろう。後で病院に行こうとは思うが。
「失礼します」
ガラガラと扉を開ける音がする。その声には、少しだけ聞き覚えがあった。
その声の主は保健の先生と少しだけ会話をすると、こちらへ寄ってきた。カーテンによって遮られていた姿が見えるようになる。やはりと言うべきか、僕の考えた通りの人物だった。
「大丈夫? 縁君」
「雪原先輩……」
雪原先輩、僕の初めての先輩であり。
「ユキとはもう呼んでくれないんだ……」
「……高校生ですし」
僕の、まあ、一つ年の離れた幼馴染みでもある。まあ、一度中学校で学校が離れたので、幼馴染みと呼べるのか怪しい節もあるが。
「敬語まで付けるようになってさ。最近、私のこと避けてるよね?」
「……別に、そんなことは」
正直に言ってしまえば、避けている。とは言うものの、僕は雪原先輩に少しだけ罪悪感を抱いているのだから。2人で同じ演劇部からスタートしたのに、彼女に黙って、こんな力を使っている罪悪感に、僕は押し潰されそうだった。
「あーあー、昔はユキねぇユキねぇ言ってきて可愛かったのになー」
「……止めてくださいよ。恥ずかしい」
「あー? 照れてる? ユキちゃん時代も可愛かったよ?」
「照れてません」
「連れないなぁ縁君は」
「……いつもは浮辺君呼びなのに。というか先生は?」
「先生は職員室に行くって。呼び方はなんかこっちの方がしっくり来るの」
彼女は僕の隣のベッドに腰をかける。そしてこちらを見詰める。
「……何ですか」
「いや? なんか憑き物が晴れたみたいな顔してるから、何かあったのかなって。あの2人のおかげかしら?」
「……そうですね」
少しだけ、僕は声音を帰る。
「先輩、もしかしたらの話です。……次、僕の演技は多分下手になってるんです」
「……どういうこと?」
「言えないんです。でも……一生懸命やります。……ごめんなさい」
詳しく言うつもりが、一方的に叩きつけるようにして終わってしまった。何をしているんだと自分を殴りたくなる。
「ん、分かった。楽しみにしてるね」
「へ?」
だからこそ、そのあまりに軽い返し方に、僕は驚かざるを得ない。
「な、なんで……」
「んー、縁君は悪い隠し事は出来ないって知ってるから? まあ何にせよ、君の一生懸命な演技が見られるのは嬉しいかな」
その、何気ない一言に。僕は大きく心を揺さぶられた。
「……て、ちょっと? なんで泣いてるの?」
「あ、あれ……おかしいな……」
無意識のうちに、涙が出ていたようだ。
そうだ。僕はなんて大馬鹿野郎なんだ。
こんな近くに、本当の僕を、見つけてくれる人が、認めてくれる人がいたじゃないか。僕は、何をずっと悩んでいたんだ。それを知らないで、僕はずっと下らない理由で避けていたなんて。
「ユキち……雪原先輩のせいですよ」
「あ! 今ユキちゃんって言いかけた!」
「言ってません!」
涙は僕の中を徐々に、少しずつだが、暖かく満たして行った。
【トリックハート(終)】>>25-28 >>31-38
次話>>41 前話>>37
- Re: ハートのJは挫けない ( No.39 )
- 日時: 2018/06/04 19:46
- 名前: ヨモツカミ (ID: NAPnyItZ)
スレの方にコメントするのはおそらく初めてでしょうか。いつもお世話になっております!
浮辺君の話に心を動かされたので今回感想を述べさせていただこうと思った次第です。
あと、誤字報告もしようと思ってましたが、面倒になっちゃったのでやめますねー(
なんか、上から目線でちょっとうざいこと言いますが、超殴とか夢チルとかボンファンとか、割と波くんの作品を読ませて頂いてきているので、波くんの成長を感じるし、ハジケナイは波くんらしさと読みやすさと面白さがいいバランスで、すごい好きだなって思います。展開のテンポが良くて飽きないですし、登場人物も個性的で魅力的ですしね。何度か伝えてますが私は深探君が好きデス。誕生日で運命を感じたのが興味を持つキッカケでしたが、なんかもう、身長と話し方と性格がツボ。彼、可愛いですよね、最高。ところで読み返してて気づいたのですが、深探くん、ペットいるんですね?? 何飼ってるんですか? にゃんこ?
てかみんな魅力的ですよね。見也さんも共也君も針音くんも、敵として出てきた八取も、愛泥さんも、浮辺くんも。皆人間らしくて、それぞれの信念や正義があって、それがかっこいいなって思います。
八取も、やってることはクソでしたけど妹のために動いてたって知ったとき、ついつい同情してしまいましたし、ムカワさんの「テメーは家に出てきたネズミ共に名前を付けんのかよ」という台詞なかなか好きです(笑)
あの辺の流れ好きでした。貫太くんの能力チラ見せとか、共也くんの正義感とかカッコよかった。
愛泥さんのヤンデレ感結構好きです。ただ純粋な好きが少しずつ捻れていく感じ、良いですよね。可愛い。貫太くんの性格も段々と好きになってくる回でした。
てか、魅せ方上手いなあって思いました。あとから回想で貫太くんに対する恋心とか描写されると、ついつい愛泥さんに感情移入しちゃいますね……。目的がわからなかったけど、真相がわかった瞬間ズドーンとくる衝撃が最高に好き。バインドハート、終わり方も良かったです。
さて、問題のトリックハートですね。まず、能力がユニークですね。一円玉が武器に変わるって新しいなあって思いました。
あとなんだろ……なんか色々言いたいことがあったんですけど割と語彙力吹き飛んでて、すごいすき、しか言えないですね。>>36以降の展開がね、とても好きなんですよ。
貫太君がやっぱいいキャラしてますね。自分自身を超える、世界で最も弱い負け犬だって文章、かっけえなっ思いました。確かに彼は強くないかも知れないけど、それでも立ち向かっていく姿勢とか、人を救う理由なんて無いってとことか、応援したくなる登場人物っていいなって思います。
浮辺君に「どうすればいい」て聞かれて「自分で考えろ!!」って言っちゃうところとか、なんか好きです(笑)普通教えてくれるのに、突き放すんだなって。
それで、やっぱり最後の浮辺くんと雪原先輩のやり取りが好きですね。認めてくれてた人がいたって気づけたところ。自力で頑張ろうって浮辺君が前向きになれて、いい読後感だなあって。登場人物の精神的な成長のシーン、すごい好きです。読んでて楽しかったです。
色々書きなぐってみて、自分で読み返してみると、割と中身のない感想しか言えてないなあって笑っちゃいますが、ハジケナイは展開が面白くて好きってことだけでも伝わればなあと思いますb
あとアレですね、結構課題に追われてて忙しそうなのに定期的に更新する波くんって凄いです。体壊さない程度に頑張ってくださいね。応援してるから。
これから、梨花さんや心音さんやムカワの正体が分かるのも楽しみにしております!
- Re: ハートのJは挫けない ( No.40 )
- 日時: 2018/06/06 22:06
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
>>40
よもつかみさん
感想ありがとうございます!テンションハイになってたんですが落ち着いたので返信します!
意外と私の作品を読んで下さっていた事に少し感激してます。この作品に関しては文章かなぐり捨ててテンポと読みやすさに注ぎ込んでる感じはありますね!深探君はめっちゃ出てくる脇役って感じですけど気に入って頂いてありがとうございます!ペットはなんかよく分かりません!(集中線)
そんなにキャラのこと褒められるとほんとに天に昇るくらいな気分です死んでしまいますありがとうございます。個人的には八取や愛泥に感情移入して下さったのがほんとに嬉しいです。作者的には少し共感できるキャラを作りたいと思っていました。ムカワのセリフは私も気に入ってます(笑)
ありがとうございます!トリックハートは上手くいくか不安だっただけにそう言ってもらえると嬉しいです!
貫太君は弱いしビビりだしで色々とダメな部分だらけなんですけど、強い共也君の背中を見て立ち向かえる彼は、本当は誰よりも強いのかもしれませんね。なんかこれ以上やると語りになりそうなんで辞めときます(
今後も更新を続けるつもりなので、暇な時にでも立寄りくだされば幸いです!ありがとうございました!
- 愛泥隣【恋する乙女】 ( No.41 )
- 日時: 2018/06/07 03:40
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
今日、彼と話した。
その内容は、とてもシンプルで普遍的。何気ない日常の中の、登校中のワンシーン。きっと彼は記憶に留めてすらいないだろうし、他の人だってそんなことは全く気にせず、記憶から消していることだろう。
でも私は、今日の事を忘れないだろう。世界の人間達が忘れるなら、私だけが覚えてやろう。世界は知らないのだ。私と彼が話したという、何気ない幸福があったことを。それを可哀想だと憐れんでやる。そんなことで、少しだけ優越感を抱く私。
勇気を振り絞って、メールアドレスを渡してみた。どうなるか不安で不安で仕方無かったが、彼は私の期待通りに受け取ってくれた。そんな彼の優しさを再確認しつつも、今日来たメールを見返す。件名は無題で内容は『夜分遅くにごめん。これであってるかな?』だけ。それでも、私はそれを返信するのにさえ、軽く20分はかかった。それほどまでに、彼とのやり取りとは私にとって重要なものなのだ。
彼に対して申し訳ないという負い目が無い訳では無い。しかし私とて、どうして自分が悪かったのかわからないし、どうして自分が彼から嫌われているのかも分からない。
彼が怒るなんて、嫌うなんて、きっと私は悪い事をしたのだろう。だけど私はそれが悪いとは思わない。ただ、彼が悪いと言うから、私は無意味に力を使うのを止めた。実力行使をするのも止めることにした。
それと同時に、私はどうして悪かったのだろう? と考えることも少なくない。しかしまあ、私が考えたところで分かるわけもないのだ。分かる扱いされないまま、私は育ってきたのから。本当は何も分からないくせに。今から教えてくれる人は、もう誰もいないだろう。そんな私にとって、彼の価値観は私が基準と定めるものとなった。彼と同じ視点、というのは中々出来ないが、日々の会話の中で少しでも彼の見ている世界に近付けていきたいと思う。
彼から嫌われている、という事実は、確かに私にとっては衝撃的なものがあった。彼の言葉に、私の心がどれほど折られたかは、正直、軽いトラウマレベルである。
しかし、私はその事実に対し、今ではどちらかと言うと言い表せない満足感のようなものを感じていた。
何故なら、温和な彼が嫌うのは、きっと世界で私1人だけなのだから。彼に嫌われるのは、私1人だけ。私は彼の、特別な1人なのだと考えると、少しだけ表情筋が緩むのを感じる。いけないいけないとこれ以上無いほど幸せそうな顔をする鏡の向こうを睨もうとするが、未だにその表情は緩みっぱなしのままだ。
嫌われるのを喜ぶなんて自分でもどうかしているとは思うが、それを押し潰すほどの歓喜や優越感が込み上げてくるのだから、仕方ない事だろう。嫌われるというのは、相手から意識される事でもある。一番悲しいのは、意識されない事だ。そして、相手に思われるのは嬉しい事だろう。実際に、私は今こうやって、嬉しがっているのだ。
手に握っていたキーホルダーをもう1度見る。古びてしまって、少し色も悪くなっているが、それでも醜いレベルではない。
中学時代の数少ない友人から貰った宝物であり、彼と初めて出会う切っ掛けともなったこれ。今ではお守りとして、毎日持ち歩いている。これがあるだけで、なんだか1日が幸せになる気分がする。これも、彼のお陰だろうか。なんて考えると、一層胸が苦しくなるのは、きっと気のせいだろう。
などと考えていると、ふと、カレンダーが目に入った。まだ前の月のものから変えていないことに気が付き、更新しようとそちらに向かう。ビリビリと破いていると、ふと、ある日付が目に入った。
そう、私が、《心を縛る力》というハートの力を手に入れた日の事だ。思い返せば、今でも信じられない様な事ばかりではある。だがまあ、この力があったお陰で、今の状況がある。それを考えると、あの人にも少しは感謝するべきだろう。そう、あの人は確か──
唐突に、着信音が響いた。
ハッとして携帯電話を手に取ってみると、そこにあった名前に、思わず二、三回ほど見直した。
そこには、あった。
私の想い焦がれる、彼の名前が。
今すぐ出てしまえば、声が裏返ってしまう。咄嗟にそう判断して、二、三回ほど深呼吸をした。自分の鼓動を抑えようと必死になりながらも、私は携帯電話のボタンを押した。
「はい、愛泥です」
彼がどんな用事で掛けてきたのかは、想像すら出来ない。
しかし、彼が掛けてきたという事実は、例えこれが間違い電話であったとしても、私にはこれ以上の無い幸福だった。
愛泥隣【恋する乙女】
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.42 )
- 日時: 2018/07/01 06:51
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
午前5時。僕のいつもの起床時刻。ゆっくりと目を覚まして、目覚まし時計のスイッチを切る。
いつもなら勉強机に向かうところだが、今日は少しだけ予定があった。土曜日なので二度寝をしても構わないはずなのだが、この予定はどうしても外せない。
下に降りてテレビの電源を付けると、いつもとは違った番組が映し出される。時間帯が違う事を再確認しつつも、パンをトースターにセット。適当な私服に着替えつつも時間を潰す。その後焼けたパンを食べて荷物を取りに自室へ向かう。と、言っても持っていくものは財布と携帯電話くらいしかない。一応ハンカチもポケットに入れておく。顔を洗い歯を磨き、まだ寝ているであろう両親を起こさないよう、小声で行ってきますと家を出た。
自転車に乗ってもいいが、待ち合わせ場所は滝水公園だ。そう考えると別に徒歩でもいいかという気分になったので、自分の足で歩く事に決めた。朝にしては早すぎるためか、道はいつもより活気がないようにも思える。
滝水公園の入り口から、複雑な道を歩いて噴水のある広場に出る。少しだけ共也君との出会いを思い出しつつも、周囲を見渡す。すると、噴水の向こう側に誰かがいるのが見えた。シルエットからして、恐らくだが立っている。
共也君かと思いぐるりと回ってみると、僕の予想は裏切られた。僕が少しだけ詰まったような驚きの声を上げると、あちらは案の定僕の存在に気が付く。そして、彼女はパッとその美麗な雰囲気を纏う表情に、微笑みを付けた。
「おはようございます。貫太君」
僕の顔は、少しだけ苦笑いを浮かべているかもしれない。
「お、おはよう……隣さん……」
愛泥隣。僕と同じ学校に通う同学年の女の子で……まあ、端的に言えばデートしたり戦ったり一緒に屋上から身を投げた仲だ。と、自分で言っておきながら関係性のあまりの奇妙さに自分でも疑問符を浮かべたくなる。
「きょ、今日は早いね……!」
話しかけようとして、言葉の頭が裏返ったことを若干恥じらいつつ、最後まで言葉を放つ。彼女は頬に片手を当てて嬉しそうな表情のままにこやかな表情で言う。
「だって……貫太君が誘ってくれたんですよ? もう一時間前から居ます」
「一時間前!? ずっとここで立ってたの!?」
「はい。それがどうか……?」
「い、いや。け、結構早起きなんだなーって……はは、ははは……」
苦笑いで誤魔化そうとする。絶対に僕の為とかそういう訳では無いだろう。
「今日だけ特別に、です。いつもは六時起きですよ」
「……そ、そっかー……」
これは彼女が真面目なだけだと思いたいが、『貫太君が』というワンフレーズが全ての邪魔をする。おのれ僕の名前め。お前のせいで僕は未だに隣さんからの感情が尽きていないことを再確認してしまったじゃないか。
「……しかし、共也君はまだかぁ……」
分かっていたことだが、共也君は待ち合わせをすると大体時間一分前位に来ることが多い。彼曰く「兄さんは時間ぴったりに来るからそれはワリィかと思ってよ」だそうだ。単純に見也さんはかなり真面目なだけだと思う。多分。
「おや、もう来ていまシタか」
「結構早い時間だと……思ったんだけどね」
片方の声の特徴的なイントネーションから、僕の頭の中で特定の人物が導き出される。振り返ると、予想通りの人物が居た。そしてその隣には、少し意外な人物。
「観幸に浮辺君、おはよう」
「おはよう」
僕の挨拶に最初に返した彼。名は浮辺縁。僕と同じ学校で同学年で、演劇部に所属している。彼も諸事情により、刺し合ったり言い合ったりした仲だ。明らかに前者が不穏すぎる。
「おはようなのデス。貫太クン。そして……愛泥サン」
「……おはようございます」
遅れて返したのは、僕のクラスメイトの深探観幸。自称探偵で昔からの友人だ。身長は僕よりも低く、多分女装してもそんなにバレなさそうな見た目をしている。本人はそこそこ気にしているらしいが。
そして隣さんにも挨拶をする彼。隣さんは表情こそ変わっていないものの、眉や口元が少しだけ動いている辺り、何かの感情を抑えているらしい。そう言えば彼女と観幸は色々あって、犬猿の仲なのを、今ようやく思い出した。
観幸は観幸でそこにいたから仕方なく挨拶した、といった感じであり、隣さんは隣さんで話し掛けてくるなよオーラ全開である。
2人の雰囲気に疑問符を浮かべている浮辺君。まあ彼は何も知らないから仕方ないだろう。
「なんで2人は一緒に?」
話題を変えるために適当な疑問を持ち出す。彼らは特に仲の良い印象は無かったが……。
「僕が滝水公園の位置が分からないって言ったら……深探君が案内してくれるって」
「ああ、なるほどね」
観幸の方を見ると自慢げな顔で今日もパイプを蒸すような仕草をしている。名付けてエアパイプ。彼のエアパイプは大体ドヤ顔の代わりに使われることがよくある。お前そんなにドヤ顔する事じゃないだろと言ってやりたい。
「うぃーす。揃いも揃ってんなぁお前ら」
そんな所に急に遠くから投げられた軽い口調の声。僕は反射的に彼の名前を呼んでいた。
「共也君」
「おう貫太。ワリィな頼み事しちまって」
頼み事、というのは今日の事だ。彼は僕に隣さんを誘うように頼んできた。まあ共也君も隣さんに好かれてはいないだろうし、僕がやるのは仕方の無い事なのだろう。そうやって自分を無理矢理納得させておく。
「兄さんはまだ……か。まあもうすぐ来るだろ」
公園の時計で時間を確認する共也君。まあ彼が来たということは、もうすぐ見也さんが来るということでもあるだろう。
「おお、そういや浮辺と愛泥にききてぇことがあったんだ」
「……貴方が私に?」
「え? 僕?」
2人が何故という視線を共也君に向ける。彼は何気ない口調でこう問うた。
「お前らのハートってよ……もしかして他人から与えられたものだったりしねぇか?」
少しだけ、2人の表情が変わったのを、確かに僕は確認した。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.43 )
- 日時: 2018/06/10 15:09
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
先に口を開いたのは、浮辺君だった。
「確かに、そうだよ」
そう言った時、共也君の顔が強ばったのを感じた。
「……出来れば誰とか何処とか何時とか色々聞いておきてぇが……先に愛泥、お前の答えも聞きたい」
「……私も、渡されました」
隣さんが少しだけ嫌そうに口を開く。やはり共也君の事がそこまで好きではないのかもしれない。
「そうか。……ところで愛泥、お前、何か変な事とか無かったか?」
「渡された日に、少し悪い夢を見た気がする程度ですけど……次の日にはスッキリしていましたし……」
「……どんな?」
「悪い夢は赤い怪物に襲われる夢で、その後潰す夢を見てスッキリしました」
「……そうか」
今の会話を聞いている限り、隣さんは自分で精神寄生体を捻り潰してしまっちらしい。流石の精神力と言わざるを得ない。
「急にこんなことを聞いたのには訳があって」
「すまない。少し手間取った」
遠くから共也君の声に重なるようにして掛けられた、低い声。共也君は咄嗟に振り返って彼のことを呼ぶ。
「兄さんおせぇよ」
「すまない。少々、時間が合わなくてな」
そう言う彼の背後に、誰かの人影が見えた。誰だろうか。少なくとも、この場にはもう全員揃っていると思うが、他に誰かいるのかと頭の中で思考を巡らせる。
「……君達がハート持ちか。確か、浮辺縁君に愛泥隣さん。初めまして、だな。俺の名前は友松見也という。そこの共也の兄だ。紛らわしいから下の名前で呼んでくれ」
簡潔な自己紹介にそれぞれの反応を示す2人。見也さんは休むこと無く、今度は後ろにいた人の紹介を始める。
後ろから出てきたのは、スラリとした男性だった。男性にしては髪が長く、後ろで一本で結われたそれが、風で少しなびいている。
堅苦しいスーツのような服装で着込んだこの男性は、腰を折りつつも口を開いた。
「皆様方初めまして。青海静(あおみ/しずか)と申します」
青海と名乗ったその男性は、堅苦しく着込んでいるようにもみえるが、それが自然であることに気付かされる。普段からあのような格好をしているということは、もしかして執事のようなものだったりするのだろうか。
「そしてこちらが私めがお仕え致しております、心音様にございます」
大仰な言葉ですっと自分の横を指す彼。
その隣には、小さな女の子が居た。お嬢様チックな雰囲気を纏っている。目付きは少しキツそうだが、見也さんに比べればどうということは無い。身長は僕や観幸よりも低い。……小学生程度の小柄な少女だ。
「初めまして。私は心音。友松心音。そこにいる見也の妹で、そっちの共也の姉よ」
……何かの聞き間違いだろうか。
彼女は今、共也君の姉と名乗った。いやおかしいだろう。明らかに小学生並みだ。145あるかどうかも怪しいレベルだ。
ここで、ふと見也さんに出会った時のことを思い出した。
『妹はかなりのチビだ』
確か、彼はこのような事を言っていた気がする。彼の発言と一致するが……いや流石に小さ過ぎるだろう。僕や観幸より小さいんだぞ。
「そこのチビ、さっきからチビチビうるさいわよ!」
僕の方に指をさしてきて、一瞬ギクリとした。あと君の方がチビじゃないか。
「な、何も言ってないのに……」
「さっきからガンガン聞こえてるわよ! これでもヒールを履けば150に届くんだからね!」
それ、ヒールが無ければ届かないという意味合いで良いのだろうか。
「違うっての!」
先程までの雰囲気は何処に行ったのか、怒りを顕にする彼女。
というか、僕、何も言ってないよな?
「茶番はそこまでにしておけ。心音。高校生組が困惑している」
振り返ると、共也君を除く高校生達が困惑していた。いけないと思い、少し黙っておく事にした。
○
それからは、共也君と見也さんによって今の状況、《心を殺す力》というハートを持つムカワという人物について。そしてハートを作り出せる力を持つ存在がいることについてが説明された。今回はハート持ちがそれぞれ顔を把握して貰いたいという意思で集められたという。
『ハート持ちは、何故かは分からないが惹かれ合う時がある。君達にも、いつ新手のハート持ちが接触してくるから分からんからな。コネクションを作っておきたかった』
これは見也さんの発言だ。そして彼が全員に連絡先を渡したところで解散となったわけだが。
僕は今、病室のような場所にいた。
あの集まりの後、僕は見也さんに連れられて、今ここにいる。他には共也君と見也さん。更に心音さんがいる。青海さんは、外で待っているらしい。僕がここにいる理由は、ムカワを目撃した1人でもあるからだろう。
ここは正確には病室ではない。友松家の管理する施設の一つらしい。これは先程知った事だが、友松家は結構大きな財閥の分家の1つらしい。家業はあまり公にできるものでは無いらしいが。
この部屋は真っ白だったりベットがあったり謎の機器が点々と置いてあったりと、如何にも病院といった感じの部屋だ。そして、大きなベットには、1人の男性が横たわっている。それは僕らの知っている人物だ。
「八取さん……」
八取仁太郎。一月程前に連続誘拐事件を起こした張本人で、『ムカワ』によって心を殺された被害者。彼は今も一度たりとも目を開いていないらしい。
「……今、八取は体だけが生きている状態だ。正直、いつ死んでもおかしくない。妹さんに関しては、生きている事が奇跡と言えるほどだ。……解決を急がねばならない」
見也さんのその言葉に、空気が一層重苦しくなる。が、そんな空気を打ち消すかのように、高い声音が響いた。
「そのために私を連れてきたんでしょー? ほら、落ち込んでる暇あったら手を動かしましょう? で、私はその男の声を聞けばいいのね?」
心音さんは見也さんにそう尋ねる。見也さんが頷くと、彼女はこちらを向いて一言。
「今から暫く、何も考えないで。聞こえなくなるから」
彼女が何を言っているのかはよくわからないが、取り敢えず何も考えないように意識する。……が、人間そんな簡単に思考停止のできる生き物ではない。僕はどうやったら思考停止出来るのかを考え始めてしまった。
「ちょっとそこのチビ! 何も考えるなって言ってんでしょ!」
「ち、チビって……」
そっちの方がチビなのに。
「うるさい! ちょっと出てて!」
結局僕は病室のようなものから追い出されてしまう。うう……酷い。
僕がすぐ近くの椅子のようなものに座ると、すぐ横に誰かが立っている事に気が付いた。
「おや、針音君。どうされましたか?」
青海さんだ。彼は直立不動のまま、顔だけをこちらに向けて尋ねてくる。
「いえ……ちょっと、彼女の邪魔をしちゃうとかで、追い出されたんです」
「ああなるほど」
納得いったような彼の表情に、理由を尋ねると、彼は答えた。
「お嬢様のハート、《心を聴く力》にございます。お嬢様には、周囲の人間の考えが聞こえるのです」
その力を聞いて、少し納得しつつも、ふと思ったことを聞いてみる。
「心の声が? それは見也さんのとは違うんですか?」
「見也様のハートは視覚的に感情を読み取りますが、お嬢様の場合は聴覚的に感じ取るのです。見也様は文章で、お嬢様は音で感情を読むのです」
「……制御できないんですか?」
先ほどの僕の考えあまり大きくなかったはずだ。そう考えると、制御できているのか怪しい。
「いえ、普段は限界まで感情の読み取りを抑えていらっしゃいます。それでも強い考えは聞こえてきますが。……ですが、今回の案件ですと、心を殺された人間の声を聞き取るのです。当然、読み取りを限界まで拡張しなければなりません。しかしながら、それでは周囲の人間の考えも伝わってきてしまいます。ですので、お嬢様は針音君を追い出されたのでしょう」
「……なるほど」
彼女の事についてよく知っているんだな、と思いつつも、彼との会話を続ける。
「青海さんはどうしてここに?」
「お恥ずかしい限りの話でございますが、私、先程お嬢様に煩いから出ていてと言われまして、こうして外で廊下に立たされているのでございます」
「考え事でも?」
「と、言うよりは、私めは常日頃からお嬢様の事を考えております。それ故、少々恥ずかしいと日頃から申されておりますが、何分これが職業ですので止められず、お嬢様も妥協してくれたのでございますが、今回ばかりは流石に邪魔だったようで……おっと、扉が開きましたよ。もう入って宜しいのでは無いでしょうか」
「あ、本当ですね。ありがとうございます」
執事も大変なんだなぁと軽く考えつつも、会釈をしてから再び部屋に入る。
部屋の中では、見也さんと心音さんが何かを話していた。断片的な内容しか聞こえない。
「ダメね」
「……聞こえなかったか?」
「ノイズ程度よ。ほんとに虫の息って感じの音だわ」
「……なら、もう1つの方で頼む」
見也さんがそう言うと、彼女は再び八取さんの方へ向かい、その手を握った。
すると、彼女の手から、唐突に何か閃光のようなものが飛び出した。それは数秒間ほどで束を作り、一つの方向を指す。そしてまた数秒程度で、それが消えた。
「今の方向、メモした?」
「ああ、大丈夫だ」
今のも心音さんの力だろうか。心を聴く力というのにはあまり結び付いていない気もするが、僕は深く考えない事にした。
「共也君、今の光って何?」
「ああ、多分だが……ムカワのいる方角だ」
「へ?」
「姉さんのハートの力だよ。一瞬だけ、だが、その人物が考えている人間の方向を知れる力。八取は最後にムカワの事を考えてこうなっちまった訳だから、多分そん時の意思の残りカス見てぇなモンが反応したんだろうな」
「じゃあムカワが見つかるの?」
「いや、そういうことでもねぇ。アレが指すのは普段ムカワのいる場所じゃなくて現在地だ。アイツが今どっかに旅行に行ってたりしたら、ちげぇところが指されてる。なにより、1本じゃ線上ということしか分からない。特定にゃ最低でも2本必要だな」
その言葉に少し落胆するが、まあ希望が見えただけマシだろう。そう思って、僕は光の方向を見た。
──僕らの学校の方だけど、気のせいだよな。
小さな、かなり小さな不安を抱えて。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.44 )
- 日時: 2018/06/10 16:59
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
照明が照らす、舞台の上。
そこにいるのは2人の男女。
そして僕は、それを下から眺めるだけ。
演技中、僕はただそれを見ているだけ。舞台の上に、僕の姿はもう無い。そこには別の男子生徒と、雪原先輩がいる。僕の居場所は、もう舞台の上ではなかった。
僕こと浮辺縁は、ハートの力を使わないようになってから、一気に部活内での評価は落ちた。なまじ以前は上手い演技をしていただけあって、今の演技が下手くそに見えるのは仕方ないだろう。
それでもいいのだ。大切なのは下手な自分を突き放す事ではない。そんな自分を受け入れ、育てていく事なのだから。僕は確かに、それを彼らから学んだのだから。
僕はあの後、午後3時から部活動の練習に来ていた。解散時刻は7時で、残すところあと30分といった所だ。丁度練習も終わり、後は片付けて、顧問の先生からの今日の反省を聞くだけ。
僕は少数派の男子部員ということもあり、片付けではしょっちゅう重いものを持たされたりする。実際のところ雪原先輩は僕よりも腕力が強いのだが、僕に仕事が集中するのはやはり男子というところが大きいだろう。
「大丈夫? 手伝おうか?」
「大丈夫ですよ。先輩」
噂をすれば、といったところか、雪原先輩が隣にいて僕の荷物を持ち始める。大丈夫と言ったんだけど……。
「まーまー、2人で持った方が軽いでしょ」
その言葉には一理あるので、まあ特に文句は言わない事にした。機材を運び終えたところで、雪原先輩が話し始める。
「そう言えばね、この前久々に小学校の頃を思い出したの」
「小学校……?」
「そう。私達、小学校の低学年の時に1回すーごい喧嘩したの覚えてる? あの時は縁君も中々譲らなくてさー、でも私が泣いたらコロッと毒が抜かれたみたいに縁君がオロオロし始めてってちょっと待ってよ!?」
あまり思い出したくない頃の話だったので、できるだけ耳に入らないようにしながら、僕は片付けに戻った。
○
着替えを済ませて、僕が玄関から出た。時間は七時を少し過ぎた頃。周囲はもう、そこそこ暗い。学校指定の光を反射して光るタスキのようなものを付けておく。放課後というか、下校時のルール的なものだ。
校門の所に、誰かが同じように反射タスキを付けているのが見えた。近付いていくと、段々白い肌が鮮明に映し出されていく。
「お、やっときた。遅いよー」
「雪原先輩……」
「久しぶりに、一緒に帰りたいなって。誰もいないから、いいでしょ?」
「……分かりましたよ」
最近、妙に雪原先輩が絡んでくる気がする。前の1件で、以前のような息苦しさは感じないものの、僕はまだ彼女に負い目を感じていた。
「いやー、浮辺君下手になったねー!」
「それ、嬉しそうに言うことじゃないですよ……」
「ああごめん。そういう意味じゃないの。下手でも一生懸命やる姿、私は好きだよって意味」
本当に、雪原先輩は人の心が分かっていない。そんな事、普通は言うべきじゃないのに。ましてや僕は男だ。そんな発言ばかりしていると、雪原先輩は誰かを勘違いさせてしまいそうでたまらない。凄く心配である。
「……そうですか」
「んー? 元気ないね」
「いつもこうですよ、雪原先輩」
雪原先輩は突然、こちらにビシッと指を指した。
「なんで雪原先輩って呼ぶの!」
「ごめんなさい意味がわかりません」
あまりの唐突さに軽く混乱しつつも、状況説明を求める僕。彼女はこう言う。
「私は縁君って他の子がいない時には呼んでるのに、どうして縁君は昔みたいにユキねぇとかユキちゃんって呼んでくれないの!?」
「高校生でその呼び方はハードル高いんですって……」
「じゃあユキでいいよ?」
そう言われて、思わず押し黙る。いや待て。確かにそれはまあ、高校生的には大丈夫かも知れないが……少しだけ、小っ恥ずかしい。まるで付き合ってるみたいじゃないか。
「……雪原先ぱ」
「ユキ」
名前を呼ぼうとすると、短い一言でぶった斬られた。
仕方なく、僕は呼ぼうとする。ええい、たかが二文字だ。いつもより短いじゃないか。ほら、僕、頑張れ。
「…………ユキ先輩」
僕の妥協に妥協を重ねた呼び方に、暫くユキ先輩は目を瞑って唸るような声を上げる。
「75点」
「つまり?」
「及第点」
「……良かった」
これで許してくれた事に感謝しつつも、どうして自分が感謝しているのかは分からなかった。
そんなこんなで暫くユキ先輩と雑談しながら歩いていると、自分の頭の上に冷たいものが当たる感覚がした。そして、それが連続し始め、周囲にパラパラと音がし始める。
「あ、雨だ」
「傘あります?」
「持ってないなぁ。……あちゃー」
仕方ないので、バッグから折り畳み式の傘を取り出す。正直かなり小さい。僕1人のならまだ収まる程度の大きさである。仕方ないので、ユキ先輩に見えないように、僕は一度折り畳み傘を背後に隠して、僕のハートである《心を偽る力》を使い、少しだけサイズを大きくした。このハート、重さは変えられないが密度や体積は変えることが出来る。僕はユキ先輩に近付いて、その傘を差した。
「ありがとね」
「いや、別に。持ってただけですし」
「素直じゃないなぁ、縁君は」
「……濡れますよ」
「じゃあ寄るね」
ユキ先輩が、肩を僕の体に付けた。……ほんと、天然でやっているから恐ろしい。誰にでもやっているだろうが、流石に勘違いしそうになるので止めて欲しいものだ。顔が赤くならないよう、必死になって注意を逸らす。が、チラリとユキ先輩を見てしまう。すると目が合い、先輩がニコリと笑うものだから、僕は更に目を逸らしてしまった。熱くて熱くて、見ていられない。
必死に意識を逸らしていても、まあ当然すぐ近くにいるのだから存在があることは分かるし、接している部分があるからついそちらに意識が向く。それに釣られないように意識を逸らすという無限ループを繰り返している僕。何をやっているんだと自分でも思う。
「ねぇ、縁君」
そうやって、またユキ先輩が声を掛けてきた時だ。
後ろから、パラパラという音が聞こえた。それは僕らを覆う傘から発せられるような音と似ているが、少し違う。丁度カーブミラーがあったので確認すると、どうやらレインコートを着た人が後ろを歩いているようだ。真っ黒のレインコート。一瞬、目視すら出来なかった。
「何ですか?」
特に気にせず、ユキ先輩に返した。頼むから僕の体に肩をくっつけながら歩くのを止めてもらいたい。
「……縁君ってさ」
少しだけボソボソという彼女の言葉が、雨に打ち消されてよく聞こえない。何を言おうとしているのか、顔を逸らしている今、彼女の表情を窺い知る事は出来なかった。
後ろのパラパラという音はまだ続いている。たまたま進行方向が同じなのだろうが、もしかして後ろから見てニヤついているとか、そういう人だろうか。なんと性格の悪い。などと勝手に被害妄想を繰り広げる僕に、ユキ先輩が言う。
「私のこと、嫌い?」
「……なんでですか」
そんなことあるはずない。そう言いたかった。だけど、僕にそんな度胸はなくて、理由を尋ねる事しか出来ない。
「だってさ……昔はあんなに親しく接してくれたのに……今はもう私にあんまり構ってくれないから……うんうん、分かってるの。私、結構面倒よね」
「……そんなこと」
あるはずない。と言いたかった。
しかし、僕は目を逸らした方向で見てしまったのだ。
それはカーブミラーだ。何の変哲もないただのカーブミラーだ。
──背後の黒いレインコートの人間がいるだけだ。
だがその姿勢は明らかに不自然だ。何かを、まるで何かを突き出そうとしているような姿勢なのに、その手には何も握られていない。
咄嗟に背後を振り返る。
その手には、長い何かが握られていた。
──ソレは、その長い刃物でユキ先輩を刺そうとしていた。
「……縁君?」
彼女のあどけない疑問の声。だがそれと同時に、長い刃物は突き出された。
「危ない!」
咄嗟に、傘でその人間を突き飛ばした。が、刃物はそれをすり抜ける。このままではいけないと判断して、ユキ先輩を抱き寄せた。ギリギリ間一髪、刃物は彼女に触れることなく持ち主に引きずられるかのように、背後に下がっていく。
「……ど、どうしたの? そ、そんな急に……」
ユキ先輩が何かを言っているが、そんなのを気にしては居られない。折りたたみ傘を畳みつつ、背後の倒れているレインコートの人物にを睨む。
「そこのあなた、先輩に何をしようとしたんだ」
「……ふふふ、貴方、コレが見えるのですねぇ」
丁寧な言葉遣いに、謎の怪奇を孕んだその声と共に、レインコートを被った人間が、右手を持ち上げる。そして……その手に握られた長い刃物──刀が姿を現す。
ユキ先輩の方をチラリと見ると、疑問符を浮かべているだけ。つまりアレは、ハートの力によるものなのだろう。
「……だからどうした」
「そんなに睨まないで下さいな……昂ってしまいます」
ねっとりとした口調でそう発した、女性らしき黒いレインコートの人物が立ち上がる。
「ふふふ、美味しく頂かせて貰いますわぁ……ネ、ズ、ミ、さん」
その黒いレインコートの中に、一瞬だけ、炯々とした血色の眼光が姿を見せた。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.45 )
- 日時: 2018/06/10 20:22
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
ポケットから数枚の一円玉を取り出し、ハートの力でカッターナイフに変化させて投げ付ける。が、それらは全て刀によって弾き落とされた。いや、弾き落とされたというより、全て切断された。そして、地面にカッターナイフではなく一円玉の死骸が転がる。
その光景に少し違和感を覚えつつも、ユキ先輩を庇いつつ距離を置く。が、相手も黙っている訳ではない。
「生ぬるいですわねぇ!」
一気に跳躍して、距離を詰めてきた。突き出された刀を、咄嗟に折りたたみ傘を鉄の棒に変えて弾いた。
瞬間、弾いただけのはずなのに、鉄の棒が折りたたみ傘に戻り、折りたたみ傘がバラバラに分解される。
「なッ!?」
「うふふ、油断大敵ですよぉ!」
「クソッ!」
ならばと折りたたみ傘の布の部分だけを持ち、投げつけた。それをハートの力でできるだけ大きな布に変える。相手に纏わり付いたそれが時間を稼いでいるスキに、呆然としているユキ先輩に声を掛ける。
「ユキ先輩、逃げて下さい。お願いします。僕は先輩を守れない」
「ま、待ってよ! ねぇ縁君、何が起こってるの?」
「詳しく説明している暇は無いんです!」
ユキ先輩を離し、彼女に背を向ける。視界には、布が十字に切り裂かれ、中から黒いレインコートの女性が姿を表す。実物を切った辺り、あのハートは既に具現化していると見て間違いない。ユキ先輩の驚き具合が増したのも、刀が見えたせいだろう。
「アハハッ! 中々切りがいのあるハートですねぇ! ネズミさぁん!」
「僕の名前は浮辺縁だッ!」
「自己紹介ありがとうございますネズミさん。お礼に殺して差し上げましょう!」
「それはお断り願いたい!」
反射タスキを外し、僕は目の前の相手が持つ刀をイメージする。目の前にあるものは真似しやすい。僕はそれを、刀に変化させることに成功した。
僕のハートの変化範囲は、僕の想像力にかかっている。複雑な銃は作れないし、僕が想像できそうなのは、せいぜいカッターやハサミのような親しみのある刃物だけ。このように刀などは、目の前に実物が無ければ作り出せない。
僕の作り出した刀に、拍手のような動作をする彼女。だがレインコートのバサバサという音のせいか、それとも雨のせいか、全く音は聞こえない。
「面白いハートですこと! 嗚呼! 切りたくて溜まりませんわぁ! 昂りますわ! 昂りますわぁ!」
「少しは大人しくしてくれないかなぁ!」
その刀が、上から強く撃ち込まれる。なんとかそれを真似た刀で受けるが、かなりの強い衝撃が手首に伝わってきて、痺れたのを感じた。
が、敵の容赦は無い。更に今度は横からの一撃。無理やり刀を上から合わせると、また強い衝撃が伝わってきた。
「ぐっ……!」
「ほら! ほら! ほら!」
愉しむような声を上げて連撃を放つ彼女。どうやら僕は遊ばれているようだ。だが今は黙って耐えるしかない。手首が限界に達そうとしているが、歯を食いしばって無理矢理動かす。
「フフ、ではこれで」
そう言い、彼女か連撃を止める。
次の瞬間、僕の手の中にあった刀が消え、代わりに木っ端微塵となった反射タスキが姿を表す。思わず息を呑み込むと、目の前の相手のレインコートから、再び赤い眼光が覗く。
「……どうして、僕のハートが解けるのかな」
「知りませんわぁ!」
恐らく、彼女のハートは何らかの手段で僕のハートの力を解除している。そして、同時にものを壊す性質がある。先ほどの折りたたみ傘や一円玉。そして今の反射タスキなどを見れば、その程度の察しはついた。
「ハッ!」
再び切り付けられるかと思い、咄嗟に左手を巨大なカッターナイフの刃に変化させた。そしてそれで、刀を受ける。
「へぇ……自分の体も変えれるのですねぇ」
彼女がそう呟き、一際声に歓喜が孕んだその時だ。
不意に、僕の左手が、元に戻った。
そして、僕の意図に反して、ぶらりと重力に即してぶら下がる。
段々と制服が赤く染まっていく。僕はそれを見て、状況が理解出来ないままだった。
「あ……あ?」
左腕が、外れていた。そして、左腕は、どうやったのか分からないほど、大量のアザができている。手に関しては、もはや感覚が無い。
しまったと思った頃には、もう遅かった。
──視界が、白に焼かれた。
凄まじい激痛が、頭の中を駆け巡り、思考が停止しかける。声を出しているのか出していないのかも分からない。僕の体が跳ねているのか止まっているのかも分からない。ただただ、激痛のみが僕の体を支配する。
誰の声も聞こえない。近くで叫び声が聞こえた気がするが、それが誰のものかも分からない。
「──ッ! ァッ──ッ!」
不意に姿勢が崩れ、背中に強い衝撃を感じた。水で服がじわじわと濡れていく感覚もする。どうやら倒れてしまったようだ。先ほどの衝撃がアスファルトと激突したことによって発生したもので、水たまりに突っ込んだのだと理解した頃には、視界が徐々に戻ってくる。すると、レインコートの女性が、僕を見下ろしていた。
顔が見えた。女性だった。だが影が強くて未だにハッキリと見えない。その赤い両目だけがギラギラと輝いている。
「お立ちになって?」
彼女の靴が左腕に勢いよく乗せられ、再び、激痛が駆け巡る。
「ぎッ──!」
「早くしろよ」
冷たい底冷えするような口調でそういう彼女。踏み付けられた僕の左手から流れる電流に、体が上手く動かない。
嬲るように、僕の左腕が痛め付けられる。僕はその度に視界が点滅するが、目の前の彼女が気絶することを許さない。視界が消えそうな瞬間に、別の部位を痛め付けて目を覚まさせられる。
「チッ」
軽く舌打ちの声が聞こえた。すると、足で腹部が蹴られた。そのまま体が仰向けからうつ伏せに転がされる。もう、立つ気力すら、僕には無かった。
「ほーら、見てください、ネズミさん」
そう言われて、なんとか視界を地面から動かして前を向く。地面に這うような姿勢から眺める光景に、思わず目を見開いた。
「縁君! しっかりしてよ! ねぇ!」
涙を流す、ユキ先輩が居た。
彼女は僕を気遣っていた。
首に刀を当てられている状況にも関わらず、だ。ユキ先輩の背後には、レインコートの女性がいる。
「ユ……キ……先ぱ……」
僕が名前を呼ぼうとするが、もう声が出ない。ダメだ。叫び過ぎて、これがもう、出ない。
「これからぁ、この子を」
レインコートの女性が、ユキ先輩の髪を引っ張った。痛そうな声を上げる彼女。そして、ユキ先輩の鳩尾に、刀の柄が食い込む。
「げほっ!」
「ぶっ殺して差し上げまぁす! アハッ!」
艶のある声でそういう女性の声は、抑えきれない歓喜を孕んでいた。
「や……め……ろ……! ユ……キせ……に手を……!」
声が、上手く出ない。
「これだからネズミ狩りは止められませんわぁ! 嗚呼! 心臓が飛び出して行きそうなほど胸が高鳴りますわぁ! 昂りますわぁ!」
艶かしい声で叫び散らかす彼女を睨みつけるが、相手はむしろそれを見て楽しんでいた。僕は、玩具ということか。
立ち上がろうと力を入れるが、体は全く動いてくれない。
どうしてだよ。なんでだよ。目の前で、ユキ先輩が、殺されるんだぞ。ほら、動いてくれよ。動けよ。なんでだよ! なんで、なんで、なんで。
なんで、こんな時に限って、1ミリも動いてくれないんだよ。本当に、空虚な笑いも出てこない。
「ちく……しょう……!」
右手を力一杯に握って、地面に叩き付ける。でもそれすら力無くて、自分の無力さに打ちのめされる。
「僕は……! なんで……! なんで……!こんなに何にもないんだ……!」
僕は何にもない。それを受け入れた。だけど、それのせいで、僕はユキ先輩を守れない。悔しい。悔しい。悔しい。目の前の奴を殺してやりたい。ユキ先輩を泣かせたあいつを、ぶっ殺してやれる程の力が欲しい。そんな力や才能が、僕にあればいいのに。
でも、この手には、もう何も残っちゃいないんだ。手を開いても、握っても、何も掴めなければ、何も零れてもこないんだ。元々何にもなかったんだから、当たり前といえば当たり前。これが惨めな僕の末路だ。
「僕の馬鹿野郎……! なんで! なんで……なんでなんだよ……!」
いつの間にか、自分の声がしゃがれている事に気が付いた。目からは、涙が溢れていた。雨で気が付かなかったが、僕の顔は、きっと屈辱と惨めさでぐちゃぐちゃだ。
「泣かないで! 縁君!」
突如として、心の奥底に響いたその言葉が、僕の心を揺さぶった。
「…………ユ……キ……先……輩……!」
「貴方は確かに目立ったものは無いかもしれない! 尖ったものは無いかもしれない! でも!」
彼女は、必死だった。
自分よりも、僕の事で必死だった。
何故、彼女は、そこまで。
「それでも! 私は知っている! 誰よりも貴方を知っている! だから! だから自分を嫌いにならないで! 自分を否定しないで! 貴方は自分が思っているよりも、ずっとずっと凄いんだ!」
ユキ先輩は、どこまで、そうやって。
どうして、そんなに、何にもないこの僕を、見つけてくれるんだ。
そんな事を言われたら。
骨が軋む。肉が千切れる。全身が悲鳴を上げる。体が壊れそうになる。視界が弾ける。電流が駆け巡る。頭の中が爆発する。
だが、それでも、立つしかないじゃないか。
命を燃やせ。心を削れ。
膝をついた。変な音がした。構わない。腕を付いた。異常なほど痛い。問題ない。立ち上がろうとした。転倒した。また無様に水溜まりに突っ込む。関係無い。再度膝を付く。何度だって、僕はやってやる。
「立つんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
遂に、僕の足が、しっかりと、地面を捉えた。
膝が、壊れそうだ。
体が、砕けそうだ。
頭が、割れそうだ。
重力が苦しくて、自分の体が重くて、立っているだけで死にそうだ。
だけど、それでも、僕は立ち上がるんだ。
じゃなきゃ、僕は本当に何もなくなってしまう。
「……ユキ……を……放せ!」
僕は、何にもないこの僕に、たった一つだけ残された、何よりも大切なものを、今ここで、守らなくちゃならないんだ。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.46 )
- 日時: 2018/06/12 06:51
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「……フフフ」
その女性の笑い声が、レインコートの内側から漏れる。
「フフフフフ……ハハハハ! 愉快! 実に愉快ですわ! 一体その体で、どうやって私を倒すというのでしょうねぇ!」
体を一際くねらせたまま彼女は僕にはこう言う。
「空っぽの嘘吐きさん?」
彼女は既に、僕の性質を見抜いていたようだ。思わず、皮肉な笑いが零れてしまう。
「貴方は何にもない! ハリボテ空っぽ大空洞! 嘘で固められた貴方は正しく偽物でしょうねぇ!」
「違う! 縁君は偽物なんかじゃ──」
煽りに対して反論したユキの首が、刀を持つ手とは反対の手で握られた。細い首が圧迫され、言葉が途中で止まる。
「偽物の貴方に! 偽りの貴方に! 私は止められませんわぁ! ええ絶対に! だって貴方は何にもないんですもの!」
嬉々とした口調でとてつもなく恐ろしい言葉を連ねる彼女。僕はその言葉に、ただただ頷く事しか出来ない。
だけど、
「放せよ」
そんなことは、どうでもいいんだ。
「ユキを、放せって言ってるんだよ、ネズミ女」
僕が空っぽだとか、偽物だとか、偽りだとか、そんな当たり前の事実はもう、どうだっていい事だ。
目の前で、ユキが苦しめられている。それこそが、僕にとっての大問題だ。それだけは見逃せないし、許せる気もしない。
「……フフフ、少しは煽られ慣れているようですねぇ?」
あまり面白くなさそうにユキの首を絞める野を止めた彼女。
「弱ぇクセに粋がってんじゃねーよ」
そして、再び底冷えするような声がレインコートから発せられる。後ずさりしそうになるが、そんな余力は無い。なんとか足が動かないように、気を強く保つ。
「ネズミはテメーだろうがよぉッ!」
そして、彼女が踏み込み、こちらとの距離を一気に詰める。突き出された刀の狙いは、僕の首。
間一髪、触れないように横に体ごと回避。だがそれだけでは安心できない。突き出された刀が僕を追うように横にスライドを始める。慌ててポケットから一円玉を取り出し、カッターナイフを作り出す。
カッターナイフに、刀が強く打ち込まれた。勿論それは派手な音を立てて破砕するが、攻撃を逸らすことには成功した。手の中からズタズタの一円玉が零れ落ちる。
「それで防いだつもりかよ! ハッ!」
「──ッ!」
が、上に逸らした刀が、無理矢理軌道を変えて冗談から振り下ろされる。しまったと思いつつも、ポケットの中からありったけの一円玉を掴みとり、それらを全て、振り下ろされる刀と同じものに変化させる。
上から振り下ろされるそれに、僕の作ったコピー品は一瞬だけ耐えて見せた。だがそれも一瞬だ。そのまま異様な音を立てて、くの字に曲がってしまう。そして数秒後、派手な音を立てて十数枚以上の一円玉の死骸が弾け飛んだ。
「足元がお留守だなぁ!? ネズミさんよぉ!」
直後、視界が90度回転する。左腕をアスファルトに強打し、再び激痛が走った所で、ようやく自分が柔道技のように足を刈られた事に気がつく。
「がぁッ!」
だがボーッとしている暇はない。上から刀が振り下ろされようとしている。地面を転がって身体中を水たまりに浸しつつも、それを回避。立ち上がろうと足に力を入れる。
直後、電撃が走った。
「──ぁ」
間抜けな声が、自分の口から出た頃には、既に姿勢を崩して、再び倒れていた。
右足の感覚は、もう無い。限界、という奴だ。
「無様、無様だなぁ! 嘘吐きネズミ!」
彼女の足が、僕の頬を踏み付けた。顔の向きが動かせなくなる代わりに、視線だけずらして睨み付ける。レインコートの下から赤い光がまた覗く。
「テメーみてーなクソザコはよぉッ! 一生そうやってッ! ドブネズミ見てぇにッ! 汚なく這ってればッ! 良いんだよッ!」
彼女が言葉を区切る度に、何度も何度も頬を踏み付けられる。痛いなんて話ではない。彼女の蹴りには何の容赦も含まれていない。相手の体重がそこまで重くないことが、不幸中の幸いだった。
「止めて! もう止めてよ! 縁君が! 縁君が!」
「いーや止めねぇ! つかテメーはネズミに慈悲でも掛けんのかよ!」
ユキの言葉にそう返した彼女が、一際強く、僕の顔面を踏み付けて、そのまま圧力を加え続ける。先程とは違った痛みで、それこそ脳が潰されていくような感覚に陥る。
「……なせ……」
「テメー……今何っつった?」
「放せって、言ったんだ」
「……まだ口のきき方が分からねぇみてーだなぁッ!」
鳩尾に、蹴りが打ち込まれた。
胃の中から何かがせり上がってくるような感覚。咄嗟に飲み込もうとするが、堪えきれずに、少しだけ、胃液のようなものが口の中に溢れ、口内を酸味で満たす。
「がッ!」
「テメー見てぇなハリボテは! 無様に醜く情けなく! なんにも守れやしねぇんだよ!」
何度も何度も、数えるのが億劫になるほど、腹部につま先がくい込む。その度に胃液を吐き出して、遂に口から漏らしてしまう。水たまりに溶けたそれが、自然と周囲に広がるが、相手は気にした様子は無い。むしろ、それ見て加虐心がそそられたか、一際攻撃が強くなる。
「止めて……もう……嫌だよ……なんで……縁君を……」
すすり泣く声が聞こえた。
朧気に揺らぐ景色の中で、確かに僕は見た。
ユキの涙が、頬を撫でて落ちるのを。
「……悪いのかよ」
「……あ?」
瞬間、視界が定まるのを感じた。
「僕が偽物で、偽りで、何が悪いんだよ」
僕を踏み付ける足を、掴む。
「コイツ……!」
「答えてみろよ、なぁ、なんで偽物が悪いんだよ、なぁ」
それをどかそうと、力を込める。
だがそれはびくともしない。
「偽物の何が悪いって言うんだ! 偽りの、何が悪いって、言うんだよ! なぁ!」
だがそれでも、それでも尚、僕の心の中で、燃え盛る感情がある。
それがある限り、僕は止まれない。
諦めきれる、訳が無い。
そして遂に、その足が、少しだけ、持ち上げた。
「な──」
「答えてみろ! ネズミ女!」
女性が驚いたような声を上げた気がした。そのままそれを投げるようにして外す。
僕は地面に膝を付いた。
彼のように、僕にナイフは出せないけど、でも、彼のように、叫ぶことは出来るはずだ。
さぁ、立ち上がれ、偽物。
「偽物だって良いじゃないか! 偽りだって良いじゃないか!」
偽物なりのプライドを、今ここで見せてやる。
「偽物が勝っちゃいけないのかよ! 偽りが守っちゃいけないのかよ! 偽物だって誰かに勝ちたいんだ! 偽りだって誰かを守りたいんだ!」
突如として、全身から、飛び出しそうなほど、何かが湧き出る感覚がした。
「そんな事が許されないのが世界の理だって言うなら──」
その衝動に、身を任せる。
「──僕は! そんな世界を偽りに変えてやる!」
自分の体の奥底から湧き上がる力で、僕は思い切り相手に向かって跳躍した。
視界があわやホワイトアウトするかと思う程の猛スピードで接近し、自分でも、驚かずにはいられないが、今はそんなことを考えている暇は無い。
目前に近付いた時、覗いた相手の顔が、やけに鮮明に映った。見開かれた赤み瞳は、紛れもない驚きを表していた。
気が付けば、僕の腕は、レインコートの女性に伸びていた。自分でも反応できない速度だった。が、拳には硬いものを殴った感覚。それでも構わないと、拳を振り抜く。
女性は驚きのあまりユキを離してしまったらしい。そして吹っ飛んで行き、壁を打ち付けるように激突した。刀を構えていた辺り、こちらの攻撃は受けられていたようだが──パワーだけは、想定外だったようだ。
自分がどうして、こんな力を出せているのかは分からない。
そのまま起き上がり、放り出されアスファルトに放り出されたユキに近付く。すると彼女は、少しだけ挙動不審な動作をしつつも、僕の方をじっと見つめて、こう言った。
「ゆかり……くん?」
彼女の発言の意図は分からなかった。だから黙って彼女の背中と膝裏に手を伸ばして、抱え上げる。そして、レインコートの人間の方を一瞥した。
刀を支えにして立ち上がる彼女。2、3回ほど首を右左に動かした後、こう言った。
「テメー……遂に存在にすら嘘吐きやがったのかよ……」
言っている理由がイマイチ分からなかったが、ユキが僕に何かを伝えたいことがありげに、ある方向を指さした。僕がチラリとそちらを──カーブミラーの方を見る。すると、彼女の言いたいこと。そして、ユキの不審な挙動の理由が、一瞬で理解出来た。
何故なら、そこに僕の姿は無かったからだ。
そこに居たのは、ユキを抱える、怪物だ。
狼のように全身から真っ白な毛を生やした、人間の形をした怪物が、そこにはいたのだから。
「……ははっ」
僕の口から漏れたのは、空虚な笑い。
鏡の中の狼男は、疲れたように、皮肉に笑った。
次話>>47 前話>>45
- Re: ハートのJは挫けない ( No.47 )
- 日時: 2018/06/15 06:08
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「ねぇ、あなた、縁君なんでしょ?」
「……」
自分のものとは思えない、白い毛に包まれた腕に抱えられたユキは、こちらを見つめてそう言う。
「……ユキ」
少しだけノイズの入った僕の声。
カーブミラーには、相変わらず狼の頭を持つ人型の怪物がいる。腕や足は白い毛に包まれ、体のサイズこそあまり変化が無いものの、体はかなり強靭なものとなっている。
《心を偽る力》が僕の最後の意地に答えたのかもしれない。この姿は……イマイチ、どうしてなったのか良く分からない。
「この……クソ犬がぁッ!」
突如として、レインコートの女性が、刀を突き出して飛び込んできた。何とか刀を回避しつつも、カウンター気味に蹴りを放つ。動きが単調になった女性に、人狼の足が突き刺さる。だがそれもまだ浅い。彼女はそのまま刀を無理やりこちらに向けてきた。
咄嗟に、右足で足元の水溜まりの水をかきあげ女性にぶつける。一瞬だけ止まったスキを利用して、跳躍して後退。
「ユキ、掴まってて」
彼女の返事を待たずに、僕はその場から思い切り跳んだ。景色が一瞬にして変わる。そのまま近所の家の屋根に乗る。そして電柱や屋根などを経由し、ショートカットしつつも、目的地へと向かう。その間にカバンをアレと同じ刀に変化させておいた。
何度か跳躍を繰り返して、目的地へと舞い降りた僕。そこは、ベンチや噴水のある広場だった。
「……ユキ……ここに……居てくれ……」
「ゆ、ゆかりくん? ねぇ、なんで」
僕が腕の中からユキを下ろすと、彼女は寂しそうな顔で言う。
「なんで、そんな、顔してるの。満足した顔、してるの」
そんな彼女に、僕は左手に持っていたものを渡した。それは、僕の携帯電話。
「……預かっていて欲しい」
「待ってよ! ねぇ! 縁君ってば!」
後ろ髪が引っ張られる気分を感じつつも、無理矢理言葉を飲み込み、背後から追ってきていたレインコートの女性に相対する。
「逃げ足もここまでだな、クソ犬」
「それはどうだろうね!」
再び、僕と彼女が接近する。あちらの出した刀をこちらの刀で弾き、右足で腹部を蹴り上げる。が、あちらは特に反応もせず、更に刀を振るってくる。刀を打ち合わせて防ぎつつも、振り払って一旦後退。手の中の刀がバラバラと砕ける。
彼女は自分の肩に二、三回ほど刀を当てながら、つまらなさそうに呟く。
「犬コロ……テメー、もう立てねぇんだろ?」
「……はは、良くわかったね?」
彼女は、僕の演技を見抜いていたようだ。呼応するかのように、僕が膝を地面に付く。
「蹴りが鈍すぎんだよ。止まって見えるぜ」
「……そうだ……ね!」
今度は僕から仕掛けた。立ち上がった瞬間に距離を詰めて、拳を突き出す。しかし、それはあっさりと刀によって受けられた。
「拳まで終わりか?」
「……まだまだッ!」
僕の力は、偽りでしかない。
偽りの力は、僅かしか持たない。すぐにこうやって無くなってしまう。僕は素の体が満身創痍だった為、偽りの体さえ限界が近づいている。それでも常人以上の運動能力はあるのだが……この女性には叶わないらしい。
僕が刀に拳を打ち付けた数秒後に、鳩尾に何かくい込む感覚。見れば、彼女の蹴りが突き立っている。
「テメーは何も、守れやしねーんだよ」
だがそれでも倒れない。咆哮を上げて、右拳を再び放つ。
全身全霊を込めた一撃。そしてそれは、女性の鳩尾に沈み込んだ。100%のクリーンヒット。これ以上の無い、最大威力だ。
しかし──
「もう、テメーは燃えカスでしかねぇんだ」
彼女には、ダメージを受けている様子は無かった。これは彼女が頑丈な訳では無いだろう。それでは先程まででダメージを負っていた理由が説明出来ない。だとするならば、
「……そう……か……」
僕の、活動限界と言うことか。
自分がそう知覚した瞬間、今までの疲労が一気にのしかかってくるのを感じた。足に力を入れて踏ん張ろうとするが、その足も、人間としての浮辺縁のものに戻っている。
もう、僕は狼では無くなっていた。メッキが剥がれた偽物が、無様に地面に倒れる。
「もう、疲れたろ。偽物」
彼女は、刀を僕の首に合わせて言う。少しだけ、慈悲のあるような口ぶりで。
「殺してやるよ」
それが、お前にとっての救いだと言わんばかりの様子で。
そして、彼女が刀を上にかざすようにして持ち上げる。これが振り下ろされたら、僕は何も出来ずに死んでいくんだろうな。なんて考えしか、今はできない。思考速度があまりに低下している。
ただ、最後に思うのは。
「……誰か……ユキを……」
ユキを、この場に残すことだけだった。
「じゃあな」
そして、刀が、僕の首に振り下ろされた。
僕の体が、切り裂かれた訳では無い。
だが、その刃が体に侵入した途端に、唐突に意識が揺らぎ始める。視界の済がぼやけてきたと思えば、たちまちの内に少しずつ暗くなっていく。
「……誰か……」
その視界の中で、僕は最後の力で、虚空に手を伸ばして、何かを掴むように手を閉じる。中には、雨粒しか入っていないだろう。
「誰か……」
僕は最後に願う。誰か、どうかこの哀れな偽物の代わりに、僕の最後のものを、僕が命を賭して守りたかったものを、誰でもいい。代わりに守ってくれないだろうか。
「……誰か……ユキを……」
そこで、僕の意識は、途絶えた。
と思ったその瞬間だ。
ふと、視界の隅にいたレインコートの女性の、唐突に鳩尾が凹んだ。いや違う。何も無いところからから手が伸びて、彼女を攻撃したのだ。
「……はは」
まさかと思ってたら、こうなるとは。
先ほどのことだが、僕がユキに携帯電話を渡していたのは、先程まで連絡していたからだ。屋根を映っている間だけ。
これは賭けでしかなかった。場所だけ言って、助けてなんて言って。普通の人なら来ないはずだ。
だけど、彼は来た。
僕の体が、誰かに持ち上げられたような感覚がした。
「浮辺……テメーよぉ……」
男らしい低い声で、僕の呼んだ彼は、僕の名前を呼ぶ。
「……カッコイイじゃねぇか」
そして、僕の意識はそこで途絶える。
「最ッ高に、ピカイチじゃねぇか」
彼の、
「後は俺に任せろ。テメーのその心意気。無駄にはしねぇ」
友松共也の言葉を、最後に聞いて。
次話>>48 前話>>46
- Re: ハートのJは挫けない ( No.48 )
- 日時: 2018/07/07 20:10
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
浮辺は、そう言ってその瞼をゆっくりと下ろした。
「……」
彼はもう、起きることは無いだろう。目の前の女が、打ち倒されない限り。それは彼だけの話ではない。八取兄妹もだ。そして、他の俺達の知らない被害者達もだ。
全ての原因は今、俺の視界の中にいる。
「……ムカワ……!」
少し離れた場所に居るレインコートを、俺はそう呼んだ。顔が分からなくても、そのハートは一度見たら忘れるものではない。刀で切り裂いたものの命を仮死させる恐ろしいハートの《心を殺す力》。
「御機嫌よう」
帰ってきたのは、雰囲気に相反する様な柔らかい口調。先程の会話は、ほんの少し耳に挟んだ程度だが、それでも相手の様子が変会している事は分かる。
「ネズミさん?」
「……ハッ、人違いじゃあねぇ見てぇだな」
相変わらずのネズミ呼び。コイツは他人の事を、人間とすら認めていないのかもしれない。
俺は視線を逸らさないように、後ろ向きに数歩歩く。そして、その場で浮辺を、呆然とした様子で座り込んでいる雪原優希乃の前に横たわらせた。
「浮辺を頼む」
瞳を閉じた浮辺を見て、彼女がどのようにどの程度の感情を抱いたのかは分からない。俺に分かるのは、彼女が涙を流して浮辺の胸に顔を押し当てていることだけだ。
浮辺縁。変幻自在の演者であり、嘘吐き、偽り、偽物、そして凡人。何も無いというコンプレックスと、大きな承認欲求を持った人間。
彼は確かに嘘吐きで、偽りで、偽物で、凡人だ。それは十二分に俺だって知っている。彼の心を覗いた俺は良く知っている。
だが、それは前までの話だ。
「……テメェの心はよ、決して偽りなんかじゃあねぇ」
彼は、自分の心だけは偽ろうとしなかった。最後まで全力で、自分の体さえも犠牲に払い、自分の心に従おうとした。歯を食いしばって立ち上がり、守りたい人を守ろうとした。彼が最後に偽ったのは、自分の限界だったのかもしれない。彼のボロボロの体が、それを物語っている。
「浮辺。お前はもう、立派な本物だ」
この言葉が彼に聞こえているなら、どれだけ良かった事だろうか。
もう一度、レインコートの女に向き直る。雨はまだ、止む気配は無い。
「……俺は許さねぇよ」
「ふふ、怖い怖い、ですわぁ」
「俺はよ、多くの人間を見てきた。色んな人間性を見てきた。沢山の心を見てきた」
俺の言葉程度で、こいつが意識を改めるとは思わない。ただ、俺は目の前のソレに、言ってやらねば気が済まなかった。
「人間の善悪なんざ定義するだけ馬鹿らしいなんてこたぁ、もうとっくに知ってんだ」
気が付けば、自分の拳を強く握っていたことに気が付く。
そして、自分の中で静かに、しかし激しく燃え盛る感情にも気が付いた。
「だが、吐き気がするほどのド腐れ野郎は分かる!」
俺はソレに向かって拳を突き出し、人差し指をそれに向けて反り返るほど力強く立てた。指さしたまま、行ってやる。
「それは! テメェのような他人を苦しめる事でしか幸せになれねぇ人間の事だ!」
「……ふふ」
ソイツは、俺の言葉に、一言しか返さなかった。
「こんなこと、腐らずにやってられっかよ」
次の瞬間、それは予想外の行動に出る。
それはこちらに向かって、右腕をしならせ刀を投擲してきた。一瞬驚いて反応が遅れたが、落ち着いて適当な場所に移動させようと、空間をハートで繋げて移動させようとする。
しかし、刀が繋げた場所に触れた瞬間、空間の接続が切れた。俺のハートが、無効化されたのだ。
「っぶねぇ!」
咄嗟に仰向けに倒れ込んだお陰か、なんとかそれを回避する事に成功した。
今、俺のハートが打ち消されたのか。そんな疑問を抱いて少しだけぼーっとしてしまう。数秒後、はっとして起き上がると、遠くの方にレインコートの女の後ろ姿が見えた。
「待ちやがれ!」
咄嗟にハートの力で、空間を繋げて彼女の後ろに移動しようとした。が、彼女が新しく刀を取り出し、俺が繋げようとした場所を切りつける。
またしても、接続が切れた。結局ハートの力が不発し、俺は一歩しか移動する事が出来ていない。
そうこうしている内に、彼女の姿は、雨の中に消えていった。
「……畜生が!」
大声でそう叫ぶが、何も起こらない。ただただ雨の音が、その後に虚しく響くだけ。
「……クソ……」
俺は結局、何もすることが出来なかった。助けを求められたにも関わらず、アイツを倒して浮辺や他の皆を取り戻すことが、出来なかった。
いけないと頭を振る。これからのことを考えろ。振り返るのは後だ。そう自分に言い聞かせて、俺は携帯電話を取り出す。電話帳からその名前を選び出し、コールする。
救急車では無い。俺が最も連絡すべき人物は。
「兄さん、不味い事になった」
○
有り体に言ってしまえば、殺せた。
あのネズミのハートは知らないが、あちらは私のハートの全てを知り尽くしていない。こちらのハートには、人を殺す以外にも性質があるのだから。
殺さなかった理由と言えば、率直に言えば、つまらなかったからだ。
殺しは娯楽であるべきだ。快楽を得るための手段であるべきだ。だから私はつまらない殺しはしないし、殺す気が失せた相手は殺さない。
私が相手に求めているものは、反応だ。
それが、嘆きであろうが叫びであろうが喚きであろうが関係無い。特に何も出来ずに地を這い蹲るネズミを虐げるのは最高だ。立ち上がって吠えてくるなら、それはそれで面白い。その希望を粉々に粉砕してからじっくりと殺すのは、興が乗る。
だが、どうにも、あの野郎だけは気に食わない。何が気に食わないのかは分からないが、とにかく奴を殺す気は起きないのだ。
舌打ちしつつも、足元の小石を蹴っ飛ばす。壁に激突したそれが、跳ね返って水たまりに突っ込む。
「……ああ、もうそんな時間かよ」
それを見た時、水面に映る自分の目の赤い光が、少し弱っている事に気が付く。やれやれ。こんな消化不良では、また近日中に呼び出される羽目になりそうだ。
「……じゃ、また来るぜ」
ハートの力で、刀を取り出す。少しだけ赤みを帯びて輝くそれは、人の魂を切る度に、日に日に輝きを増していく。まるで、成長しているかのように。
「私」
私はその凶器を、自分の胸に突き立てた。
次話>>49 前話>>47
- Re: ハートのJは挫けない ( No.49 )
- 日時: 2018/06/17 15:47
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
月曜日の放課後。週末の後の登校日。誰もが早く帰りたいと願う今日。当然、いつもなら俺も早々に帰宅している。
だが、俺達は滝水公園の広場に集まっていた。そしてその誰もが皆、沈黙している。ただただ、噴水から水が流れ落ちる音や親子連れの声が聞こえるのみ。
「浮辺君が殺られた」
そんな中で真っ先に口を開いたのは、兄さんだった。
「先日の件の、《心を殺す力》というハートを持った奴にな」
「……そんな!」
学校では気を動転させることを防ぐ為に、敢えて貫太や観幸には伝えていなかった。当然愛泥にも伝えていない。
「……浮辺君は生きているのデスか?」
くるりと手のひらでルーペを回しつつも、それをパイプのように咥える観幸。数秒後自分の間違いに気が付き、どこからともなくパイプを取り出して咥え直す。どうやらあの観幸でさえ、唐突な事件に動揺を隠せないほど衝撃を受けているらしい。
「ああ。なんとか一命は取り留めた。体こそボロボロだが……彼もまた、心を殺されている」
「……フム、では心音サンのハートは試したのデスか?」
観幸が視線を姉さんにずらす。全員の視線がそちらに集中すると、彼女は少しだけため息混じりにこう言う。
「ええ、試したわよ。だけど……彼の声も聞こえなかったし、彼が最後に思っていたのは、同じ現場にいた雪原優希乃の事だったわ」
目を伏せてやるせない表情を見せる姉さん。状況が掴めていない貫太が、一人困惑している。
「……つまり……?」
「特定には至らない、という事デス」
観幸がそう言うと、貫太は沈んだ顔で生返事を返す。
「……ところで、雪原先輩とやらに話は聞いたのデスか?」
「……ああ。だが……」
今でも彼女の様子を思い出す。
俺が今日、彼女の様子を見に行った時だ。
彼女は普段通りに学校に来ていた。クラスが分からなかったために三年のクラスの辺りを彷徨いていたら、彼女が廊下を歩いているのを見かけた。その後、少しだけ彼女と言葉を交わした。
彼女と話している最中に、彼女の白い肌が、病的なまでに白くなっていて、血の気が完全に失せていたのを覚えている。今にも倒れそうなほどに、疲れ切った表情だった。
そんな彼女に、浮辺の事を聞くなんて、俺には到底出来ない行為だった。
「……ダメだったよ。ありゃ、精神がやられちまってる」
「……そうデスか……」
観幸が少しだけ顔を顰めた。本来なら容赦なく聞き込みに行く彼だろうが、相手が気を病んでいるとなれば、無理に聞こうとは思わないだろう。
結局、その後も特に生産的な会話は生まれず、皆が心にモヤを抱えたまま、その場を後にした。
その帰り道の事だ。俺は方角の関係で、必然的に貫太と同じ道で帰っていた。そして、兄さんは俺の横を歩いている。
「……共也君、実はさ……」
貫太が俯き気味に、俺を呼ぶ。
「どうしたんだよ貫太。んなシケたツラしてよ」
「この前さ、剣道部の人がさ、部長の事をこう呼んでたんだ……」
次の瞬間、彼から想定外の言葉が吐かれる。
「ムカワ先輩って」
「……なんだと?」
「もしかしたら人違いかもしれないし、全くの偶然なのかもしれない。でも、確かにその人は、そう呼ばれていたんだよ」
彼自身の困惑した表情を見る限りでは、彼の言葉に嘘偽りは無いだろう。彼がここで嘘を吐くようなメリットは、一つもない。兄さんの方を確認しても、首を縦に振るだけで、どうやら嘘ではないらしい。
「剣道部なぁ……」
確かに、あの刀を器用に使いこなしているのを見れば、剣道部かもしれない。これはあくまで偏見でしかないが。
「……でも、あの人が同じ学校にいるなんて……そんなの信じられないよ……」
「にわかには信じられねぇが……」
何せ、俺達の学校は魔窟だ。ただでさえ希少なハート持ちが四人も集まっている。ムカワを足せば五人。どうにも多過ぎる。しかし、ここまでくれば最早十人いたところで何ら不思議では無いだろう。
「……浮辺や愛泥のように、作られたハートかも知れねぇ……」
「……やれやれ、単純な誘拐事件が、とんでもなく複雑な事件に絡まっていたとはな」
そう零したのは兄さんだ。
「……その剣道部の人物、接触してみる必要があるな」
兄さんがそう呟いた事で、俺達の明日の行動は決まった。
次話>>50 前話>>48
- Re: ハートのJは挫けない ( No.50 )
- 日時: 2018/06/19 23:43
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「……アレがムカワか?」
火曜日の放課後、僕と共也君と観幸は剣道部が練習している武道場に来ていた。とは言っても、入っているわけではなく、武道場の壁の下にある幾つもの隙間の間から覗いていた。外から見たら不審者にしか見えないが、背に腹は変えられない。
「……確かそうだよ」
頭の中の記憶を整理しつつも、とある人物を指差す。大声で素振りをしている剣道部員の中から、ショートカットの女子生徒を指差す。
「武川小町(むかわ/こまち)という名前らしいデスよ」
「なんで知ってるんだよ」
「フッ、これが僕の探偵力デス」
ドヤ顔でパイプを咥える彼にため息を付きつつも、改めて観幸曰く武川という名前の人物を見る。彼の造語に関しては突っ込まない事にした。
「なんかよ、こう……イメージとちげぇな」
「凄い凛とした人だよね」
「ボクには良く分かりまセンが、ムカワとはどのような人物なのデスか?」
「人の事は大体ネズミ呼び。基本お嬢様口調混じり。ドスを効かせた声はチンピラみてぇな口調」
「……とても似つかないデスねぇ……」
共也君の少し酷い説明に、顎に手を当てつつ、顔を顰めながら武川さんを見る観幸。
「ま、演技ってこともあるかもだしな」
共也君のその言葉に、思わず浮辺君の事を思い出す。観幸は相変わらずの表情だが、彼は表ではなく裏で感情を動かすタイプだ。表情に出ることはめったに無い。が、彼も恐らくだが思い出していることだろう。
「……浮辺君はさ、どんな状況で襲われたのかな」
「……そういえばだな。俺が行った時には、既に浮辺は満身創痍って感じだったぜ」
「じゃあその前はどうだったんだろう」
「……確かにな。場合によっちゃ、何かの証拠になるかもしれねぇ。剣道部の終了時刻にもまだ余裕がある。調べるとするか」
「デスが、何処へ行くのデスか? 流石にこの地域を周回するのは無理があるのデス」
観幸のその言葉に僕らは納得せざるを得ない。目的地から絞り出そうとするのは、あまり効率的とは言えないだろう。
「大丈夫よ」
だが、その声に僕と共也君は驚かされる事になる。今にも消えそうな、か細く透明な声に。観幸だけは、彼女の事を知らないためか、困惑しつつも振り向いた。そして僕らも振り向く。案の定、そこには1人の女子生徒がいた。
唯一、この学校でムカワを除いて1人だけ、確かにあの事を知っている人間だった。
「私が、覚えてるから」
彼女は、雪原優希乃はそう言って、少し生気のない笑みを浮かべた。
○
自分が意外と弱い事を、ここ数日で痛いほど思い知らされた。
日曜、私は気が付けば自分の家のベッドの上にいた。親に聞くには、自分が顔も見せずに部屋に行ってしまったと言う。私の寝ていたシーツは雨のせいで少々臭った。制服のまま寝ていたせいで、それもしわくちゃだった。
そして、昨日のことが嘘なんじゃないかと思って、彼の電話番号に掛けてみた。私が電話をかけると、遅れて振動したのは、私の机の上。見れば、彼の携帯電話が置かれていた。
彼が私に預けたんだっけ、とその事実を確認した拍子に、昨日の見たくもない事実達が頭の中に溢れ返るのを感じた。堪らず気持ち悪くなって、ロクに何も入っていない胃から何かを吐き出したのを覚えている。
そしてその後は何もする気が起きなかった。ただただ、あの件を振り返っては、超常現象達に疑問を抱きつつも、彼が最後に浮かべた表情を思い出すだけ。
気が付けば月曜となった。世間ではあの事件が不審者の暴行によるものと解釈され、現在犯人は逃亡中となっている事を知った。私はそれを違うと言えるのだが、気力が湧かなかった。大体、あんな摩訶不思議すぎる出来事達、大人達は信じないだろう。
その為か私が学校に行っても、教師たちは何かを察したように私に何も言わなかった。課題の未提出に関しても、気遣いか否か未だにお咎めはない。
私が廊下を歩いていたところで、友松君に出会った。壁伝いにしか歩けない私を見て、彼がどう思ったかは分からない。ただ、友松君は一切彼の話題に触れようとしなかった。いや、若しかしたら出来なかったのかもしれない。
昨日、鏡を見れば血の気のない肌が映っていた。笑顔を無理に作ろうとしても、上手く笑えない。引き攣った笑みが、見ていて自分で痛々しいと思った程だ。
ただただ、何もする気力が無かった。
これが夢であることを願い、朝が来て絶望する。それだけを繰り返している気がした。以前の彩のある日常など、もう帰ってこないのかもしれない。そうとさえ思えた。
彼を事故で失ったり、自分の知らないところでなら、ここまで深く傷つく事も無かったのかもしれない。
だが、彼は私の為にああなった。その事実が、私の心を引き裂き続ける。今でも、それは止まろうとしない。
そして私は、どうしようもなく、悔しかった。
彼は私の為に命を投げたのに、私は彼の為に何も出来ない。この事実が、何よりも私の心を押し潰した。
だけど、私は何かしたかった。私にはあの女を殺すことは出来ないし、彼を取り戻すことは出来ない。無力さがどうしようもなく、憎かった。
ならせめて、出来る者達に託そうと考えた。例え、この精神を削る事になっても。それが、彼が残した私の役割だろうと。
「大丈夫よ」
だから、私は声を掛けたのだ。
「私が、覚えてるから」
彼の為に出来る事を果たす為に。
次話>>51 前話>>49
- Re: ハートのJは挫けない ( No.51 )
- 日時: 2018/06/23 17:47
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「だ、大丈夫ですか……?」
「うん……平気、大丈夫よ、全然」
僕らの前を少し危ない足取りで歩く彼女が、力無さげに振り向いては、乾いた笑いをこちらに向ける。見ていて胸が締め付けられるが、それを口には出さずに何もしないでおく。隣にいる共也君も、黙って雪原先輩について来ている。
彼女は間違いなく無理をしている。それは僕にすら一目瞭然だった。だが、どうしても彼女の無理を止めることは出来ない。
なぜなら僕は知っているからだ。何も出来ないという事実ほど、自分の情けなさを叩き付けるものは無いと、知っている。
それを痛いほどこの身で味わってきた僕は、彼女を制止することなど出来なかった。
「観幸は図書委員だっけか?」
「うん、なんだか新聞作りで忙しいみたいだよ」
観幸は図書委員の方で少し忙しいようなので、今回の同行は諦めたようだ。なんでも図書新聞とかいう、図書委員が出す新聞の作成があるらしい。
「……そう、このカーブミラーの場所。ここよ」
話していた僕らは雪原先輩の声に釣られてそちらを向く。言う通り、カーブミラーが曲がり角に設置されていた。交通量は、とても多いとは言えない。
「間違いねぇ」
共也君が、地面から何かを拾い上げた。確認すると、真っ二つに切り裂かれたようにして分断された一円玉の片割れだった。
「アイツは一円玉を結構な数持ってたしよ。十中八九、戦闘があったみてぇだ」
「これ、学校の反射タスキの一部かな?」
僕もその辺に転がっていた何かの破片のようなものを拾い上げる。回転させてみるとキラキラと光を反射しており、色や材質から考えても学校指定の反射タスキの一部と見て間違いないだろう。
「……貴方達、何が起こったのか分かるの……?」
「まあ大体は。……そろそろ、教えてくれませんか。雪原先輩。ここで、何があったのかを」
僕の問い掛けに、彼女はコクリと頷き、話を始めた。
○
彼女から事件についての一連の出来事を聞いた僕達。その後彼女を家に送り届けて、今は学校に戻っているところだった。流石に荷物を置いて帰る訳にもいかない。
「……先輩、ほんとに大丈夫かな……」
「……嘘だろうな。十中八九」
共也君の発言には心の底から同意せざるを得ない。話している最中にも、何度か辛そうな顔をしていたり涙ぐんでいたし、最後には彼女は泣き出してしまった。そして途中から会話が困難な程に情緒が不安定となり、落ち着いた所で共也君が彼女に帰るように伝えた、というのが、僕達が彼女を家に送るまでの経緯だ。
「ずっと謝ってたよね」
「目の前で誰かが自分の為に傷付けられたんだ。ましてや親しい仲の人間。それで心が傷付かねぇ奴なんていねぇよ」
彼女が泣きながらひたすらに、浮辺君の下の名前とごめんなさいという謝罪の言葉を繰り返し始めた時、僕の心までが引き裂かれそうな気がした。
そうこうしている内に、景色の中に僕らの学校が映り込む。結構長い時間が経過していた事を、沈んできた夕陽で確認する。これはもうすぐ暗くなるだろうな、と思考を巡らせる。
何気ない雑談で、沈んだ雰囲気を誤魔化しながら学校に戻った僕達。上履きを履いて廊下に出た。
「お、あれ観幸か?」
共也君が指さした方向には図書室のスライド式の扉があった。窓から観幸が頭を掻きながら何かの作業しているのが分かる。
「うん、観幸だね」
「よし、冷やかすか」
「なんでそうなるの?」
「まーまー、ほら、気分転換」
「なんて悪趣味な……」
僕の発言を聞かずに、共也君は図書室の方へ向かって行く。軽く溜め息をつきつつ、それに従うように後を追った。
「よう観幸。作業はどうだ?」
「ああ、共也クンデスか。もう少し掛かりそうデス」
観幸は新聞の構図のようなものを考えていた。どうして時間がかかっているのか尋ねると、なんでも入れる記事の数と紙の広さが釣り合っておらず、大きさのまばらなパズルを解かされているらしい。
観幸が椅子から立ち上がり、図書室の別のところに座っていた人に声を掛けた。そして彼が作成していた図面を見せて、何やら相談をしている。他の図書委員の人だろうか。
「乾梨サン、このままではどうして入らないのデスが……」
「……えっと……じゃあ……何処か削りましょうか……」
丸い淵のメガネを掛けた、大人しそうな女子生徒。制服に付いている学年章は二年生のものだ。茶色が混じった髪をかなり伸ばしている。
少し話した後、観幸がこちらに戻って来た。そして新しい紙に定規を使って器用に線を引いていく。
「観幸、あの人は?」
「乾梨透子(かんなし/とうこ)サン、平たく言えば僕と同じ図書委員デス」
大人しそうな見た目から何となく察していたが、彼女は図書委員長だったらしい。今は原稿用紙にペンを走らせている。新聞に載せる原稿でも書いているのだろうか。
「ああ、ボクはまだ少し残ることになりそうデスので、先に帰っておくべきデスよ」
「観幸大丈夫?」
「これでも高校生デスから」
ここで彼より身長が高い僕が先日不審者に襲われた話をしてやろうかとも思ったが、彼なりの気遣いを無駄にするのも気が引けたので黙っておく。共也君の方をチラリと見ると、彼も頷いていた。
「じゃあな観幸。気ぃ付けて帰れよ」
「また明日ね」
「では、また明日デス」
そうして僕らは図書室から出て自分達の荷物を置いている場所に向かう。荷物を取っている途中で、共也君が思い出したかのように話した。
「ところで貫太、一つ分かった事があんだよ」
「どうしたの?」
荷物をかるいながら聞き返すと、共也君はポケットから何かを取り出した。近くに行って見てみると、細かい金属のパーツのようだ。
「これ、折り畳み傘の一部みてぇだ」
確かに、パーツの一つ一つが折り畳み傘の折れる部分だったりに良く似ている気もする。しかし……僕には分からなかった。彼が何を伝えたいのかが。
「……つまり?」
「考えてみろよ。奴の武器は刀だ。だけど刀でぶった斬られたぐらいじゃあ、ここまで……それこそ分解レベルでバラバラになりはしねぇ筈だ。布の部分はどっかに風で飛ばされちまったのかもしれねぇが、それがくっ付いてねぇのも気になる」
「……確かに」
「つまりよ、奴の力……どうやら、心を殺すだけじゃあ無さそうだぜ」
それに、と彼は言葉を続ける。
「アイツと会った時、俺のハートが何故か使えなかった」
「どういうこと?」
「どうもこうも、空間と空間が繋がらなかったんだよ。アイツの背中をぶん殴ってやろうとしたら、接続が切れて距離が短縮できなかった」
「調子が悪かっただけじゃない?」
「俺は浮辺の呼び出しに素早く答えるために、出来るだけハートの力を使って移動したんだぞ? それこそ駆け付けるのに三分かからない程度でだ。調子は万全だったぜ」
「それって、つまり」
「ああ、そういうことだ」
「ムカワのハートは、『人の心』だけじゃなくて『人のハート』すら殺しちまうって訳だ。俺達のハートは、奴のハートでいつでも解除可能、ってな」
共也君の言葉は、何処か嫌々言っているようにも思えた。まるで、そんな事実を認めたくないと彼が思っているかのように。
少しだけ話し込んでしまい、結局帰る頃には周囲は真っ暗になっていた。剣道部は今も尚続いており、現在最も『ムカワ』である可能性が高い武川小町さんもまた、学校に居る事になる。
それを考えると、少しだけ背後の首元がヒヤリとした。少しでも落ち着こうと深呼吸をする。
その瞬間、何かが振動するような音と、聞き覚えのあるメロディが聞こえて、一瞬飛び上がるように驚いてしまう。それが自分の携帯電話が着信を伝える音だという事に気がついたのは、数秒後の話である。
「自分のケータイに驚かされてどうすんだよ」
「……うるさい」
「はは、冗談だから拗ねんなよ」
「拗ねてないし」
軽口を飛ばし合いつつも、ケータイの中身を確認する。どうやら電話が掛かっているようだった。だが少し驚きが手に残っていたのか、ぎこちない操作で応答ボタンを押そうとして、間違えて地面に携帯電話を通してしまう。
「ああっ!」
「おいおい、落ち着けって」
共也君がひょいと拾い上げて渡してくれたのに礼を言いつつも、着信元を確認する。
そこには深探観幸という文字があった。観幸の奴、もしかしたら僕らが話し込んでいる間に帰ったのかな、などと思いつつも、応答する。
「もしもし」
だが、既にコールの音はなり止んでいた。つまり、僕が反応するのが遅くて電話が切れてしまったのだろう。
掛け直す事も考えたが、重要な用事なら掛け直して来るだろうと思い、今度は取り落とさないぞと心に決めつつもそれをポケットに仕舞う。
「で、どうだった?」
「観幸からだった。でも切れちゃった」
それから暫く歩いていると、特に何事も無くいつもの滝水公園まで辿り着いた。普通ならここで共也君と道は別れる。当然、今日もそうするつもりだった。
だが、その着信音が僕をここに繋ぎ止める。
それは共也君の携帯電話から鳴り響いていた。彼が僕のような失敗はせずに応答する。
「どうしたんだよ兄さん。こんな時間によ」
口調からして、相手はどうやら兄である見也さんらしい。
「ああ? 俺が心配で? なんだよ気味ワリィ…………冗談だ。え? 貫太? そこにいるぜ?」
その後も何回かやり取りをした後、彼らの通話は終わった。
「兄さんから、俺達が襲われてねぇか心配だったらしいぜ。ま、俺的には襲ってきてくれる方が願ったり叶ったりだけどな」
「そんな物騒な……」
見也さんという人物が頭に思い浮かんだ事によって、少し前に思っていた疑問がふと浮かび上がった。
「そう言えばさ、なんでこの前、八取さんの場所に僕を連れて行って観幸は連れていかなかったの?」
「ああ、お前だけだからな。実際に関わってたのはよ。今の電話も、ムカワに顔を知られてんのが俺達だけだからかも知れねぇな」
共也君のその言葉が、頭の奥の何かに引っかかるのを感じた。
待て。本当にそうか?
ムカワが顔を知っているのは、僕と、共也君と、見也さんと……。
「観幸だ」
「あ?」
「観幸もいる。あの日、八取さんの事件があったあの日、観幸は教会の外で僕らを待ってた。つまり、ムカワが観幸を見ていてもおかしくない」
頭の中で、どんどん言葉が繋がっていく。そしてそれを、思考のままに吐き出していく。
「あそこは立ち入り禁止の場所だ。あそこに立っているのは明らかにおかしい。僕らの仲間だって思ったって不思議じゃない」
嫌な予感がした。
嘘であってくれと、携帯電話を取り出して、着信履歴から観幸にコールバックする。出てくれ、頼む。
電話のコールが、一回、二回、三回、四回、ダメだ、まだ出ない。その後も、観幸が電話に出る事は無い。気が付けば相当な手汗をかいている事に気が付いた。
ふとそこで、観幸から留守電が入っている事が分かった。急いでそれを押し、内容を聞き取ろうと耳元に当てる。
『貫太クン……ムカワは……違うのデス……ムカワでは……』
ブツリ、と残酷な音が成り、留守電が終了した。
親友の声だ。それは変わりない。
まるでマラソンを走り切った後のような、疲れ切って死にそうな声ということを除けば、いつもの親友の声だった。
気が付けば、僕は走り出していた。
「お、おい! 貫太! 待てよ!」
「観幸が! 観幸が!」
「落ち着け! 何がどうなってんだ!」
「離してよ共也君! 僕は、僕は行かなくちゃ!」
共也君が肩を掴む。彼の力は強くて、僕の力では到底取れそうにもない。
彼は少しだけ悩むような素振りを見せた後、首を縦に振った。
「分かった。俺も行く」
そして、僕らは走り出した。
共也君のハートによって、距離を省略し、少しでも早く移動する。視界が次々と移り変わり、酔いそうな気分になるが、今はそんなことを気にしている場合では無かった。
「こっちだ! あの信号まで飛んで!」
「おう!」
観幸の家は僕が知っている。だから僕がナビゲートをして、彼らしき人物がいないかを確認する。
「何処だ……観幸……!」
そして、観幸の家までのルートで、丁度三回目のジャンプを行った時だった。
僕は、ようやく親友の姿を見つけた。
路上で倒れた、その姿を。
「嘘だ」
そんな馬鹿な。
観幸だぞ? ミステリアスで、胡散臭くて、小柄で、滅茶苦茶で、誰よりも弱い癖に、誰よりも強いあの彼だぞ?
近くまで力なく駆け寄ると、その姿がより鮮明に映し出される。彼の手に持ったルーペは、まるで金魚すくいの破れたポイのように、ガラスの部分がぶち抜かれていた。
「起きろよ」
体を揺さぶりたくなるのを堪え、彼の頭上で言葉を繋ぐ。
「なぁ! こら! 置きろよ観幸! ホントは、ホントはお前は意識があって、僕を驚かせるつもりなんだろ!」
ほら、ネタバラシしろよ。
いつもみたいに、ルーペかざしながら、ドヤ顔でパイプを咥えてくれよ。自慢げな様子で、噂話を聞かせてくれよ。
「分かってるんだよ! なぁ! いい加減僕も怒るぞ! なぁ、観幸! 頼むから、起きて、起きてよ! お願いだからさぁ!」
彼が起き上がって、自慢げな顔を見せることは、無かった。
「お前が居なきゃ……ダメなんだよ……!」
僕の水で濡れた頬を、夜の風が冷たく撫でた。
そして、僕の親友は、起き上がらなかった。
次話>>52 前話>>50
- Re: ハートのJは挫けない ( No.52 )
- 日時: 2019/03/23 14:39
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「……ダメだ」
共也君が観幸の体に触れ、首を横に振ってからそう言った。
「心が繋げねぇ。……十中八九、ムカワの仕業だな」
「…………」
体中から、血液が抜けていくような、そんな感覚がした。体の内側からじわじわと熱が奪われていく。
「……なんで、観幸なんだ」
気がつけば、頭の中の言葉を発していた。それは止まることを知らず、僕の意思に反して飛び出し続ける。
「僕や共也君なら分かるんだ。ハート持ちだ。でも……なんで真っ先に観幸を狙ったんだ。狙う必要なんて、何処にもないのに」
その問いは、誰に向けたものでも無かった。
当然誰も答えないまま、声は透けていった。
○
次の日。
僕はずっと、屋上で空を眺めていた。
フェンスに壁を預けて、力を抜いて座っている。こうしているのが、一番楽だった。
どうしてここに来たのかと言えば、観幸がいない教室が怖かったのかもしれない。一日二日、1週間程度なら分かるのだが、これがずっと続くと考えると、どうしようなく恐ろしくなって、気が付いたら教室を出ていた。行く宛もなくフラフラするのも何なので、屋上に来たのだ。
共也君は居ない。彼は今日、学校を休んでいる。メールで連絡が来ていた。曰く、昼に心音さんのハートを試すらしい。もしそれがムカワの方角を指していれば、八取さんの線と観幸の線が重なる場所にムカワがいる。と言っていた。皮肉な話だ。友人を失ったからこそ、犯人の位置が特定できるのだから。
「はぁ……」
「貫太君」
その声に、僕は空から顔を逸らして音源の方を向いた。
「……隣さん」
「どうしたんですか。そんな、溜め息なんてついて」
そこには彼女──愛泥隣がいた。
思えば彼女との騒動はこの屋上であったんだなと思い返す。壊れた後に共也君がハートの力で付けたらしいが、今では見分けがつかない。
「……何でもないよ」
「嘘ですね?」
「なんで、そう思うのさ」
「分かりますよ。貫太君の考えていることくらい。だって、私は貫太君の事が好きですから」
「……面と向かって言われると恥ずかしいんだけど……」
「もう知ってるから、いいじゃないですか」
そう言って、彼女は僕の隣に座る。隣から少しだけいい匂いがするのを感じた。使ってるシャンプーに違いでもあるのだろうか。
「…………」
「…………」
2人で黙って、その場にいる。不思議な話だ。お互い貶し合って、否定し合って、傷付け合ったのに、今はこうして2人きりで争う訳でもなくここに居る。
「貫太君」
「……何?」
「私の事、好きですか」
その問いかけを耳にするのは、何度目だろうか。その問いに、僕は1度だって好きと答えた記憶は無い。そして、僕の回答は決まっている。
「嫌いだよ。君のことなんて」
僕がそう返すと、彼女はにこやかな笑みを浮かべる。
「そうですか。ふふ、ありがとうございます」
その言葉に、疑問しか持てないのは僕だけだろうか。
「どうして、お礼なんて言うの? 僕は、君が嫌いなんだよ?」
彼女は僕の問いに、考える間もなく、キョトンとした表情で、まるで何当たり前のことを聞いているんだと言わんばかりに、こう返した。
「だって、貫太君が嫌ってくれるのは私だけでしょう?」
彼女は、嬉々とした表情で言う。
「それって、私が特別って事ですよね?」
その笑みに、不覚にも魅力を感じてしまった。
「狂ってる」
自分を誤魔化すために、否定の言葉を述べる。
「はい、そうですよ」
だが、彼女はそれを受け止める。どこまでも純粋で、綺麗で、濁った微笑みを崩さずに。
おかしいのに、狂ってるのに、変なのに、どうして彼女は魅力的に見えるんだ。こんな風に、僕の胸を締め付けてくるんだ。
「なんで」
どうしてそんなに、僕を苦しめて来るんだ。君は。
「なんでそんなに、君は僕に、有りもしない僕を求めるの」
彼女は間違った幻想を抱いている。
彼女がどんな僕に惹かれたのかは分からない。ただ彼女はどう考えても勘違いをしている。
「僕は、針音貫太は、そんな魅力的な人物じゃないんだよ」
ああ。この際だから言ってしまえ。彼女に、僕の思うままをぶつけてしまえ。そしたら、きっと彼女も間違った事を言わなくなる。きっと、彼女の歪みも消えるだろう。そう思って、その場で立ち上がる。彼女も遅れて立つ。
「ホントは弱いんだ。意気地無して、ビビリで、弱虫で、泣き虫で、大切な友人の一人だって守れない。どうしようもないくらいの、負け犬なんだよ」
みんなみんな、僕のことを強いなんて言う。だけど、それは間違いなんだ。
結局、僕は無力だ。どうしようも無いくらい、弱いんだ。
「君が僕にどんなイメージを持ってるのか知らない。けど、隣さん。君は、僕に勝手な幻想を抱いてるよ」
「僕に、力なんて無いんだ」
僕がそう言う。
場に静寂が訪れる。風が吹いて、隣さんの髪がふわりと大きく揺れ、それが元の位置に戻った直後、ニッコリと一際大きな笑顔を浮かべて、隣さんはこう言った。
「殺しますよ?」
瞬間、息をするのを忘れていた。
慌てて息を吸い込む前に、首元に彼女の細腕が絡み付く。彼女は僕の後ろに回り込み、僕の右肩に頭を乗せた。じんわりと、嫌な汗が吹き出す。
「私は間違いはそんなに気にしないタイプですけど……今のは見逃せませんよ……ふふ」
不敵な笑みの彼女によって耳元に息が吹きかけられ、変な声が出る。彼女の声は艶やかで、何処か心の底で怒っているような雰囲気があった。
「私は貫太君の事が好きです。だから貫太君の弱い所なんて全部知ってます。勿論貫太君の弱い所を指摘されたところで、私は怒ったりしません。ですけど……」
彼女が一呼吸置いてから、言葉を繋げた。
「強い所まで弱い、なんて言うのは許しません。全否定なんて認めませんよ? そんなことを言う人は殺してあげます」
「例えそれが、貴方自身でも」
きっと何の嘘偽りも無いであろう彼女の言葉が、心の奥底まで響いていく。殺す、という単語にすら、決して不純物は含まれていない。
「今回は許して上げますね。ふふ……次は、無いですよ?」
「……あ、ありがと……う」
「もっと自信を持って下さいね? 私の好きな貫太君」
そう言って、彼女は僕を放して屋上から出て行った。今思えば、あれは彼女なりの励ましだったのかもしれない。正直、死ぬかと思った。
「……頑張らなきゃ」
だが、熱は入った。両頬を自分で叩いて目を覚ます。そうだ。今は落ち込んでいる場合じゃない。2人を取り戻す為にも、なんとかムカワの正体を突き止めなきゃいけないんだ。
丁度そこで、ポケットが振動するのを感じた。取り出すと、一件のメールが入っている。着信元は共也君のようだ。
『ムカワは間違い無く俺達の学校にいる。
詳しくは明日話す。今日は気をつけろよ』
そのメールを読んで、僕はフェンスから校舎を見つめた。
──この何処かに、ムカワがいる。
気がつけば、フェンスの金網を強く握り締めていた。
次話>>53 前話>>51
- Re: ハートのJは挫けない ( No.53 )
- 日時: 2018/06/28 22:34
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕が行動の先として選んだのは図書室だった。彼女がいるかどうかは賭けのようなものだが、行かないよりはマシだ。
一階に降りて図書室の扉に手を掛ける。その時、窓から貸し出しカウンターに座る彼女を見つけることが出来た。入って一直線に、彼女の方へと向かう。
「あの、乾梨さん」
「……ああ……昨日の……えっと……」
「僕の名前は針音貫太。観幸のクラスメイトだ」
「その……あの……わ、私に……何か用事ですか……」
相変わらず消えそうなくぐもった声で、目を合わさずにそう言う彼女。後ろめたいとかそういう訳ではなく、単純に性格の問題だろう。もっとも、知らない人から声を掛けられて挙動不審になるのも当たり前とも言えるが。
「昨日の事について、聞かせて欲しいんだ」
「……?」
「実はさ」
適当に、深探観幸が夜に電話を掛けても出てくれなかった。今日学校にも来なかった。昨日の夜何かあったのかもしれない。と若干の虚偽を含んだ話をする。
「……え……?」
「多分君しかいないんだよ。観幸が昨日、いつごろ帰ったのかを知ってる人はさ」
「その……あ……」
しかし、僕が食い気味だったせいか、彼女は俯いて黙り込んでしまう。もしかしたら、間違えられないという心理を働かせてしまっているのかもしれない。それで間違いを恐れて黙り込んでいるとか。
少しだけ、自分を落ち着かせる。いけない。僕が焦ってどうするんだと言い聞かせる。
「ああ、僕達が来てからどの位して帰ったのかとかでもいいから」
そう言うと、彼女は俯きがちにこう答えた。
「確か……あの後すぐに……思ったよりも簡単に出来たので……」
「……僕達より先か」
観幸は僕達の後ではなく先に帰っていた。つまり、僕達が学校を出る頃に、まだ居残りしていた生徒がムカワである可能性が高い、という事だ。無論、観幸をどこかで待ち構えていた可能性もあるが。
そっか、と言って、カウンターから一歩引いた時、彼女の右手が目に入った。何か白い包帯のようなものに軽く包まれている。
「右手どうしたの?」
「……あ、右手、ですか……」
彼女は自分の右手首を左手で持ち上げつつ答える。
「これは……昨日……転んで痛めたんです……鈍臭いんです……私」
「ああごめん、そういう事じゃないから!」
少しだけ落ち込んでしまったのか、どんよりとした声で話すものだから、慌てて弁解する。思考がネガティブに向かいやすいのだろうか。
「あっ……すみません……すぐに謝っちゃって……」
「いやいやいやいや、言ってるそばから謝ってるってば」
「……わ、私が……こんな性格だから、深探君にも、迷惑が……」
彼女が僕の言葉を聞いているのかどうか怪しい。一度自己嫌悪に陥ると中々抜け出せないのだろうか。何にしろ良い傾向とは言えないだろう。
「落ち着いてって。誰も責めたりなんてしてないから」
「土曜日も……無駄に使わせちゃったし……うう……」
土曜日、とはあの日、丁度心音さんや青海さんと出会った日の事だろうか。と、するなら、観幸は浮辺君が襲われたあの日に登校していた事になる。まあ割とどうでもいい情報だったので気にしないことにする。
「他に何かない? 観幸の事とかで」
「……あ、そう言えば……これ……」
彼女がカウンターの下に置いていた何かを片手で持ち上げた。どうやらビニール袋らしく、中には何かしらの固形物が入っている。大きさは手のひらサイズかそれより少し大きい程度だ。
「……今日、深探君が来たら……えっと……渡そうと思ってたんです……」
それを僕の方に遠慮がちに差し出してくる彼女。受け取れ、ということだろうか。黙ってビニール袋を受け取り、中身を覗く。
「これ……観幸のパイプじゃないか……」
ビニール袋から取り出して見てみる。形や色からして、普段彼が持ち歩いていた空っぽのパイプだ。どこぞの探偵に憧れて持ち始めたのか、探偵っぽさを求めて持ち始めたのかは知らないが、彼のトレードマークの一つであることには違いない。
「どうしてこれが……?」
「えっと……多分……昨日……深探君が忘れていったので……持ち帰っておいたんです……」
観幸も物忘れをしたりするんだな。なんて思いつつも、パイプを改めてじっくりと眺めてみる。
「ほ、他は……あんまり……深探君については……」
「いや、ありがとね。ごめん、急に押しかけちゃって」
「……あっ、その、迷惑とかじゃ……」
慌てた様子となり、挙動がおかしくなった彼女。制止すると、彼女はカタカタと震える指でメガネの位置を直そうとした。当然直るはずもなく、むしろ思いっきり落としてしまう。
「落ちたよ」
それを膝をついて拾おうとする。手に取ってみると、地味で何処にでもありそうなメガネだった。が、レンズにはかなりキツイ度が入っていることが分かった。逆に見えないんじゃないかと思うレベルで。
「ご、ごめんなさい」
「だから大丈夫だよ。……目、悪いの?」
「へ?」
「ああいや、メガネの度がかなり大きかったから……」
「……はい。目、悪いんです。メガネがないと人の顔とかイマイチ判別出来なくなって」
その会話を最後に、特に目立ったこともなく、休み時間終了のチャイムによって、僕は図書室を後にした。そして、少しだけ重たい足を引きずって、教室へと向かう。僕の親友の姿が、抜け落ちた場所へ。
次話>>54 前話>>52
- Re: ハートのJは挫けない ( No.54 )
- 日時: 2018/06/30 18:48
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
その後特筆すべきことは無く、そのまま放課後になる。共也君が居ない今、遅くまで残っていても殺されるだけだと考え、早いうちに帰宅する事にした僕。リュックサックをかるって校門を出る。
「貫太君」
が、すぐそこで声を掛けられた。聞き覚えのある声だ。低く、重たい男性の声。名前を呼びつつ、振り返る。
「見也さん?」
そこに居たのは友松見也、共也のお兄さんだった。季節の変わり目を感じさせない相変わらずの灰色スーツ姿。出会った時から何も変わっていないような気がする。無論、毎日洗濯はしているだろうが。
「話がある。来てくれないか?」
「……えっと……はい」
真剣な眼差しに、一瞬だけ怯まされた。そして曖昧な返事を返す。鋭い目付きは健在のようだ。
彼の背後についていく僕。その背中はどこまでも大きく感じ、これについて行けば取り敢えず安心だと思わせる雰囲気があった。それ程までに、それは確信に寄った自信のようなものに満ち溢れていた。
「……そのビニール袋、どうした?」
「ああ、実は──」
彼に今日、乾梨さんから聞いた事を説明する。そして観幸のパイプを渡しておいた。もしかしたら、彼が何か調べてくれるかもしれない。
「話がある、と言ったな」
彼が突如として、その歩みを止めた。そして振り返り、僕を見下ろすような姿勢になる。彼の身長と僕の身長では、約40センチも差があるのだから当たり前といえば当たり前だ。
「君に、まだハートに付いて詳しく説明して居なかった事に気が付いてな」
「……そういえば」
「共也は今、とある事情で居ない。従って俺が説明に来た、という訳だ」
とある事情、というのも若干気にはなったものの、僕は見也さんが直接出向いてきた事に驚きを感じてた。
なぜなら、今日出てくる必要は無いからだ。明日共也君から説明してもらえばいい。なのに彼は、わざわざ僕の帰りを待って居たのだ。これは重要な話なのだと、今更悟る。
「……歩きながら話そう。こんな所で立ち話していては、俺の腕に手錠が嵌りかねん」
今どきは厳しいからな、と愚痴るように零す彼。そういう経験でもあったのかと邪推したが、聞くのは止めておく。見也さんの地雷だけは踏みたくない。
「では、君はハートについてどこまで知っている?」
「えっと……人の心が外に出てきたもの、でしたっけ」
「間違いではない。ただ、少し定義不足だ」
僕の言葉を受けつつも、彼は返す。
「ハートの力は人間の心を媒介とした異能だ。不思議な力、と言い換えるのも間違いではないだろう。それは必ず自他の精神に影響を及ぼす力だ。そして、それは必ずハート持ちの性質によって力が決まる」
「性質……?」
「そうだ。例えば君のハート、《心を刺す力》に関しても、俺が持つのと君が持つのでは大きく性質が変わるだろう。そして、それは性質だけの話ではない。ハート持ちの意思の強さによって、ハートもまた強力なものとなる。丁度、君を絞め殺そうとした愛泥隣のようにな」
確かに、僕を鎖で縛り付けた時の隣さんのパワーは有り得ないほど強かった。それこそ金属製のフェンスを絞め切る程に。
「そして、ここからが本題だ」
彼の目が、こちらを値踏みするかのようにじっくりと見詰めてくる。
大男から見下された時の重圧と言ったら、言い表しようがない。無意識の内に呼吸が早くなっているのを、先程ようやく気が付いた。
「君は、まだ戻る事が出来る」
「戻る……?」
僕の復唱に、ああとだけ返す彼。戻る事が出来るとはどういう事だろうか。などと一人で頭を捻っていると、彼が僕に言い聞かせるように言った。
「君は、まだ俺達と出会う前に戻る事が出来る。ハートの力なんてものは知らない、一般的な生活に、だ」
僕はその言葉で理解した。つまり、僕に警告しているのだ。
これ以上深入りすれば、もう戻れなくなると。
「君は理由を持っているか。争い合う理由を」
「理由……?」
「そうだ。ハートの力は本人の意志によって強弱が決まる。そして意志を強化するのは理由だ。理由無しに頑張れる人間など居ない。ハート持ちでは、理由を持つ者と持たない者の差は大きいという事だ」
一呼吸おいた彼が、かつて無いほどの鋭い眼差しでこちらを睨み付けてきた。その目力に、思わず目を瞑りたくなるが、寸前で堪えてなんとか目を合わせる。
「もう一度聞く。君に、理由はあるか。他者と争う理由が。ハート持ちと、争う理由が、君にはあるか」
「……それは……」
喉の奥で、言いたい事がつっかえている感覚がした。何かを言わなければならない気がするのに、それが言葉という実体になって現れない。いつまでも雲のようにぼんやりと、頭の中を漂っている何かがあるだけだ。
「僕は…………」
「…………」
見也さんは何も言わない。ただじっと、僕の回答を待っている。
僕はと言うと、何も言うことが出来なかった。何故なら自分に理由などは無いからだ。他人に引きずられ、巻き込まれた結果が全てだ。僕からの自発的な行動など、ほとんど無い。無論、理由なんて大層なものは僕には無かった。
「理由は…………」
「…………」
彼の前では嘘を吐けない。僕はそう感じた。彼の前では嘘偽りが通用しない。上辺だけの理由なんて、言葉にするだけ無駄に思えた。
「…………無いです……」
だから僕は、飾らない答えを出した。そう、僕には理由が無い。彼が求めるような理由など、何一つ無かった。
「……なら、去るんだ」
「……え?」
「意志の無い人間が、あの殺人鬼に抵抗できるとは思えない。ハッキリ言おう。意志のない君が居ても、邪魔なだけだ。もう一度言うぞ」
彼は僕に背を向けた。まるで、こちらを見る価値は無いと言わんばかりに。僕の存在に、意味は無いと言わんばかりに。
いや、もしかしたらそれは、彼なりの別れ方だったのかもしれない。綺麗さっぱり、僕が諦められるように。
「君は、まだ戻る事が出来る」
どこまでも冷たい声で、彼はその言葉を言い残した。
それは僕の心の深くに染み込んで、体の熱を奪っていった。
○
「貫太?」
僕はずっと考え込んでいた。
「おーい」
見也さんに言われた事を。彼の言葉が、僕の頭の中でフラッシュバックする。
『意志のない君が居ても、邪魔なだけだ』
そんな事は、薄々気が付いていた。僕は自分の意志で何かを行う事が少ない。それは今更の話かもしれないし、僕のこれまでの気質でもあるのだから、簡単に変えることは出来ないだろう。
しかし、僕は理由を見つけない限り、共也君の隣に立てない。親友の為に、動くことは出来ない。腹立たしくも、見也さんの言葉は何一つ間違っていない。そして否定出来ない僕が、ただただ悔しかった。
「おい、コラ」
肩を叩かれ、そこで漸く誰かに呼ばれていた事に気が付いた。慌てて背後を振り返ると、見慣れた友人の姿。
「きょ、共也君……」
「うす。今日は学校に行けなくてすまなかったな。それで、何かあったか?」
「……特に……」
見也さんに話したのだから、その内彼にも伝わるだろうと考え、敢えて話さない事にした。何より、今は目の前にいる友人と顔を合わせたくなかった。自分には無い意志を持っている彼が、羨ましくて、妬ましくて。
「そうか。こっちはよ、少しだけ、発見があったぜ」
そう言って共也君が僕に差し出したのは、1枚の写真だった。手に取って見てみると、破れた金魚すくいのポイのように真ん中が破れたルーペが写っていた。恐らく、御幸のものだろう。
「……これがどうしたの?」
「ここ、よく見てみろよ」
彼が指さした場所。金属製の淵の部分だ。模様ではない、何か小さな色が付いている。よく見てみると、赤っぽい。
「これ、血だ」
「血?」
「そうだ。そして、観幸の傷は打撃痕みてぇなもんだけ。切り傷とかの出血は一切ねぇ。つまり」
「この血はムカワのものってこと?」
「ああ。そして、このルーペの割れ方から察するにムカワのハートじゃねぇ。もしムカワのハートでぶっ壊したなら、跡形もなくバラバラの筈だぜ。つまり、これは観幸が壊したって事だ。ムカワをぶん殴ってな」
まさか観幸は抵抗していたのだろうか。あの凶悪な殺人犯に。彼もまた、それだけの強い意志があった訳だ。ハート持ちでも、何でもないのに。
なんで、皆そんなに強い意志を持ってるんだ。
羨ましいさ。妬ましいさ。悔しくて歯痒くて、自分が嫌いになりそうだ。
『意志のない君が居ても、邪魔なだけだ』
再び、あの言葉が脳内に響く。
「──てわけで、早いとこムカワをぶっ飛ばして、皆を助けようぜ……おい、貫太?」
「ごめん、共也君」
気がつけば、僕は彼の言葉も聞かずに走り出していた。
「お、おい待てよ!」
「来ないで!」
無我夢中で放ったその言葉は、いつの間にかハートの力を纏っていた。僕の言葉がそのまま刻まれたナイフが、共也君の胸に突き刺さる。
「ぐッ! お、おい! どうしたんだよ! 貫太ァ!」
彼の言葉が聞こえないように、耳を塞いで僕は彼から逃げるように、来た道を引き返した。ただ逃げたかった。自分という存在から、彼という存在から。このどうしようもない苦しみから。
この気持ちを彼に話せば、少しは楽になれたのかもしれない。吐き出せば、落ち着いたかもしれない。だが、彼には絶対に分からない。強い意志を持つ彼は、弱い意志しか持たない僕の、この気持ちがわかる訳が無いのだ。
景色がグルグルと回るような気分だった。ひたすらに走り続けた。汗で服がへばりつくのを感じたが、余計に涼しさを求めて走り続けた。ただずっと、この胸の痛みで心の痛みを誤魔化したかった。
だが当然、限界は来る。
「はぁ、はぁ、はぁ」
気が付けば、僕はあの場所に居た。観幸が倒れていた、あの場所に。家と思いっ切り反対方向に突っ走っていたことを、今更認識する。既に日は落ちて、真っ暗になっていた。余計、あの日と同じ情景だ。
「なぁ、観幸」
僕は昨日、親友が倒れていたであろう場所に顔を向ける。そこに誰か居る気がして。友人が居座っている気がして。
「教えてくれよ。いつもみたいに」
やけに視界がぼやけると思ったら、涙を流していた。いつの間にか何粒も何粒も、僕の頬を伝っては、その場に落ちていくだけ。
「どうして」
僕は、親友に聞きたかった。
前みたいに、自慢げな声で、自信満々の回答をして欲しかっただけだった。
「僕は、こんなに弱いんだ」
涙混じりのその声は、正しく負け犬と呼ぶに相応しかった。
「教えてあげますわ」
だが、返ってきたのは。
この世で最も聞きたくない声での、回答だった。
「それは貴方がぁ」
咄嗟に音源の方を振り向いた。その声が、聞き違いであることを信じて。
だが──生憎、それだけは真実だった。
「ネ、ズ、ミ、だからですわぁ」
黒ローブ姿の殺人鬼が、刀を構えて楽しそうに笑っていた。
僕は同じように、笑い返す。
僕史上、最も乾いた笑いを。
次話>>55 前話>>53
- Re: ハートのJは挫けない ( No.55 )
- 日時: 2018/07/01 13:32
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: O/vit.nk)
目の前にいるそれ。どうしてここに居るのかは知らない。何故ここに居るのかも知らない。
ただ、今彼女がここに居て、僕を狙っている。それだけが確かな事実だった。
「ふふふ……」
左手で刀をぶら下げている彼女。フードに包まれた頭からは、口角が釣り上げられた口元が覗く。
「随分と……コソコソコソコソ……ネズミのように、嗅ぎ回ってくれましたわねぇ?」
「……」
「あら? あらあら? あらあらあらあらあら?」
彼女が顔を90度傾ける。途中で嫌な感じの音がしたのも、きっと彼女の首からの音だろう。倒れた首のまま、言葉を続ける。
「何も、言わないのですねぇ?」
彼女の煽るかのような口調。普段なら、怒ったり、叫んだり、嘆いたりしたんだろう。
「……さっさと殺せよ」
だが、今の僕では彼女の言葉にリアクションすることが出来なかった。
「……あら?」
「もう、殺せよ」
「へぇー……ふむふむ……そうですかぁ」
彼女はそのまま数十秒間停止していた。直後、顔を元の角度に戻しつつもこう言った。
「つまんねぇ奴だな」
どうして、お前がそう言うんだ。
僕は内心期待していたのかもしれない。喜々として僕を殺しにかかってくるであろうムカワに、期待していたのかもしれない。いや、きっとそうだ。僕は誰かに必要とされたくて、ムカワにすら求められたかったのかもしれない。
だがどうだ。目の前の殺人鬼は、僕をつまらないと評した。フードの下の口元は、打って変わって口角が下がっていた。
「……」
「こちとら木偶の坊斬る趣味はねぇんだよ。さっさと抵抗しな」
ムカワが左手に持った刀の先端をこちらに真っ直ぐと伸ばしてくる。が、僕は何もしない。今回は何もしないわけでも、出来ないわけでもない。
しようとすら、思わなかった。
「どうせ僕なんか、誰も必要としちゃいないんだ」
ああそうだ。なら一層の事、ここで殺されてしまった方が、皆の助けになるに違いない。
「……イライラさせんじゃねぇよ」
ムカワの怒りの声と共に、僕に刀が振り下ろされた。僕はそれを見つめるだけで、避けようとも、防ごうともしなかった。ただこれで楽になれるのかと、少しだけ気持ちが軽くなった。
「ネズミ未満だな、テメー」
その言葉と共に、僕の意識は黒の底に沈んだ。
筈だった。
「止まりなさい」
声が響いたと思えば、突然ムカワの刀が停止した。それどころか、僕もロクに身動きすることが出来ない。息などは出来るが、体そのものがその場に固定されているような感覚を覚えた。
「クソチビ、私の嫌いな3つ言葉を教えてあげる」
その声の持ち主は、小さなシルエットと共に、この場に姿を表した。電灯の光で、その姿がはっきりと映し出される。
「どうせ、無理だ、不可能だ。この3つは人間を縛る言葉。自らの心を縛る言葉よ」
2つに結われた黒い髪が、風でふわりと揺れる。そのキツイ目つきの彼女は、心底呆れたような表情でこう言った。そこには、以前であった時のキンキン騒ぐ女の子といった印象はどこにも無い。むしろ、冷たく尖った雰囲気を纏う女性といった感じだ。
「アンタ、ホントにチビね」
「な……なんだよ。急に。君の方がチビじゃないか」
「敬語に関してはとやかく言わないわ。そっちの方が気楽だしね。それと、私が言ったのは外面的な意味では無いわ」
漸く体の痺れのようなものが取れたので、ムカワからゆっくりと距離を取った。向こうはこちらを見ているだけ。僕達の話に、少し興味があるのか。それとも僕が抵抗の意志を示すまで、まち続けるつもりか。
「外面的じゃない……?」
「そう。私が言ったのは、アンタの中身の事を言ってんのよ」
彼女は僕の胸ぐらを掴んで引き寄せる。そして睨み付けられた時、容姿と威圧感のギャップもあって、怯んでしまう。その瞳の中に、一瞬だけ見也さんを思い出す。やはり、彼女は友松家の人間なんだと改めて実感する。
「私はアンタのことなんて全く知らない。ええ知らないわ。だけどね」
彼女の手の平が、僕の頬をひっぱたいた。
それは対して痛いものではなかった。物理的には、何回もそれ以上の痛みを受けたはずだった。
だが、その手は他の誰よりも痛かった。僕の心に直接響く痛みだった。
「悩みの一つや二つでクヨクヨしてんじゃないわよ。壁の一つや二つくらい、ぶち壊してみなさいよ。だからアンタはチビなのよ」
彼女の言葉は、僕の心によく響く。何故かは分からないが、彼女の言葉には感情そのものが詰まっているような気がした。だから分かる。突き放すような言葉であろうと、それは僕を傷付けるためのものでは無いのだと。
「心音さん」
「何よ」
無意識の内に、僕はこう言っていた。
「ありがとう」
「……フン」
彼女は僕の胸ぐらを乱暴に突き飛ばすかのように離した。そしてムカワに向き直り、こう言った。
「少しは、マシな面構えになったじゃない」
彼女の言葉に、思わず頬が緩むのを感じた。
確かに僕には理由が無い。意志が無い。強さが無い。ハート持ちとしても弱い。これらは否定のしようがない事実だ。
でも、だからと言って、何も出来ない訳じゃない。例えちっぽけな小さな負け犬でも、噛み付くくらいは出来るはずだ。
「……ムカワ」
僕の声音の変化に気が付いたのか、彼女は再び口元を吊り上げた。
「皆を返してもらうぞ」
僕の言葉の後に静寂が訪れる。ムカワは自分の体を抱きしめるように、腕を交差させて右手で左肩を、左手で右肩を掴んで体をわなわなと震わせている。多分、これは怒りとか恐怖とかそういう類ではなく。
「ふふふ…………感謝しますわぁ。メスネズミさん。これで心置き無く……ネズミ駆除が出来ますわぁ!」
抑えきれない、興奮から来るものだろう。
「あら、人がネズミにしか見えないなんて、大層目が悪いのね。良い眼科を紹介するわ。もっとも、貴女の目はそこでも治せないと思うけどね」
「ふふ、口がお達者な事。でも私はぁ」
ムカワが左手を掲げると、そこに刀が出現した。やはりハートの力で作られたものだったのだ。
「こちらの方が得意ですわぁ!」
そして刀で切りかからんと踏み込み、猛スピードで突進してきた。狙いは僕ではない。心音さんだ。
「くッ! 止まれ!」
ハートの力でナイフを射出。文字は僕の言葉通りだ。間違いなくムカワに当たるコース。これで防げるかは相手に僕のハートが通じるかどうかにかかっている。
「邪魔ァ!」
ムカワの刀が、僕のナイフを軽く切り捨てる。いや、切り捨てるというよりは、刃と刃が衝突した瞬間、バラバラの粒子となって僕のナイフが消え失せた。やはり、彼女の刀はハートすら殺してしまうようだ。
「止まりなさい」
心音さんの声が、不思議とその場によく響く。先程と同じようにムカワが停止するのと同時に、僕も停止してしまう。
が、今度の停止時間は短かった。ムカワから心音さんが距離を取った所で、停止が解ける。ムカワの突撃は失敗に終わった。
「貴女のハート、声で命令する力ですわね?」
「さぁ?」
ムカワの発言に興味なさげに返す心音さん。確かに、それなら先ほどの不可解な停止にも納得が行く。
「チビ、耳を塞ぎなさい」
僕にしか聞こえないくらいに、小さな声で彼女はそう言った。それに逆らう事も出来ず、耳を塞いだ僕。
何が起こるんだと彼女を見ていると、深呼吸するかのように、肺の中に気体を詰め込んでいく。そして耳を塞いで、彼女が顔を勢い良く地面に向けて、何かを叫んだ。
瞬間、音が消えた。
いや違う。限りなく高い音が聞こえる。
普段の高いなんてものじゃない。人間の聞き取れる限界の高い音。それも大音量で。思わず手を離しそうになるが、ここで離したら一巻の終わりだと歯を食いしばって音に耐え、手を頑なに耳に押し当て続ける。
それから数十秒が経過し、漸く音が鳴り止んだ。耳を塞いでいても死にそうな程に辛かった。まだ余韻のように、耳の奥であの音が響いているような錯覚に陥っている。
「……うっ……」
地面に顔を向けたままの心音さんが、そのまま頭を押さえて膝を付いた。慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか」
「平気よ。少し頭が痛いだけ」
ハートを使い過ぎたわ、と何気なく呟き、再び瞳に強い色を灯して立ち上がる彼女。見据える先には、ムカワがいる。地面に大の字で倒れ付したムカワが。あの大音量を聞いたのだ。気絶どころか死んでしまっていても不思議ではないと思えた。
「……終わったのかな……?」
「──チビ! しゃがみなさい!」
僕が呆然と突っ立っていると、彼女の声が再び響いた。強制的にしゃがまされる僕。なんだと思っていると、丁度僕の首があった高さを、刀が超高速で通り過ぎていった。
「ひっ……!」
「……ふふ……危なかったですわぁ……」
ユラリとローブ姿の殺人鬼が立ち上がる。
「そんな……!」
彼女は耳を塞いでいなかった筈だ。間違いなく、心音さんのハートによって、間違いなくあの大音量の超音波を食らったはずだ。
「私のハートの具現化が……通じていない……」
驚いたような表情を初めて見せた心音さん。それを見て満足げな表情を浮かべるムカワ。手元には先程投げた筈の刀が再び出現している。
刀を見て、まさかと思った。
「あと一瞬だけ遅れていたら」
あの刀の性質は、確か。
刃に触れたものを、無差別に殺す。
「『音』を殺すのが、あと一瞬だけ遅れていたら、私はどうなっていたんでしょうかねぇ! フフフ、ハハハハハ!」
心底愉快そうな笑い声を垂れ流す彼女。音を殺すなんて、そんな馬鹿けたことが出来るのか。彼女のハートは。
ハートの力は意志の力だ。つまり、彼女の意志はそれだけ強いということ。音なんていう非生物すら殺してしまうなんて、余程意志が強くなければ、不可能なんじゃないか。
「なんで」
僕には分からなかった。
「なんで、貴女の意志はそんなに強いのに、殺人鬼になんてなったんだ」
こんなに強い意志を持つ人が人を殺めるのか。
「それは単純な理由ですわぁ。だってぇ」
彼女はゆっくりとこちらに歩み寄る。
「いたぶるのか、最高に昂るからですわぁ!」
そして、こちらを切るぞと宣言するかのように、刀を左手で構えた。
「さ、させるか!」
『止まれ』と刻まれたナイフを放つ。だがそれでは、すぐにムカワの手によって弾き返されてバラバラに玉砕される。
「あたりませんわぁ」
そう言っている間にも、彼女はどんどん近付いてくる。やばい。背中に冷や汗が噴き出すのを感じた。
「チビ、30秒だけ、持ちこたえられるかしら」
「な、なんで!?」
「頼むわよ」
心音さんが、僕の数歩後ろに下がった。そして、地面に手を当てて何かをしている。ちょっと待ってくれ。僕のハートでは、ムカワを止めることが出来ないんだぞ。
「う、うわぁぁぁぁ!」
ヤケクソになってもう1度ナイフを放つが、やはり簡単に弾かれる。これじゃあダメだ。こうしている間にも、僕とムカワの距離は着々と狭まっていく。
「ネズミ未満の貴方はぁ、アリンコのように踏み潰されるのですねぇ! アハッ!」
僕がアリだと宣う彼女に、僕は何も出来ない。何か、何かしなくてはと考える度に、どんどん思考が回らなくなるのを感じる。
「あと20秒!」
「そんなぁ!」
既に距離は近い。20秒なんて時間では、幾らムカワがゆっくり歩いているとは言えど、簡単に入られてしまうだろう。ここは何とか、僕が持ちこたえるしかない。
「チビ! アンタにはアンタなりの、アリにはアリの戦い方があるわ!」
アドバイスか何かは知らないが、心音さんの声が後ろから飛んでくる。そんな事言われても、分からない。大体アリの戦い方ってなんだ。アリ1匹じゃ、どうしようもないだろう。
「……待てよ。1匹じゃどうしようもない……」
待て。そもそもアリは1匹で戦う生き物か?
いや違う。彼らは軍団で戦う生き物だ。軍団として初めて脅威となる生物だ。彼らの戦い方は、数で押す事だ。
「……これなら!」
僕はハートの力でナイフを作り出す。刃に刻まれているのは『止まれ』。またかとムカワが刀を構える。
アリは1匹で戦えない。ナイフは1本では通じない。
「まだだ! もっとだ!」
ならば、アリは数で押すべきだ。
ナイフの数も、増やすべきだ。
僕の周囲に次々とナイフが現れる。
「もっとだ! もっともっと!」
頭の中が焼き切れそうな感覚がする。だがまだ増やせる。少しずつだが、ナイフを増やす。そうして限界と感じたところで、僕は改めて周囲を確認した。
「なっ──」
ムカワが驚いたような声を上げた。無理もない。僕の周囲には、20本程のナイフが浮かんでいるのだから。
「これが──」
そのうちの1本を掴み、丁度目の前にいるムカワに投げ付ける。
「アリの戦い方だぁぁぁぁッ!」
それに釣られるようにして、全てのナイフが、ムカワに発射された。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.56 )
- 日時: 2018/07/03 16:46
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
数々のナイフ。およそ数は20。一斉にムカワ目掛けて走り出していく。
初めて、ムカワの口元が焦燥を見せた。
「……ぐッ!」
左手で刀を振り、次々とナイフを殺していく。粒子と消える大量のナイフ達。だが、幾ら彼女とは言えそこまで高速で刀を振れるものか。ましてや片手だけで。
水に濡れた彼女の手から、刀の柄がすり抜けた。
「しまっ──」
残りの数本のナイフが、ムカワに突き立つ。刻まれた文字は『止まれ』。その言葉通り彼女は一歩も動かなくなった。
のも一瞬だけの事であった。整備されていない錆び付いた年代物のオンボロ機械のように、彼女の腕がギリギリと音でも立てそうなくらい歪に動き、再び彼女の手元に出現した刀で、一つのナイフを殺した。
「結構……効くじゃねぇか……ネズミィ!」
「な、なんて意志の力だ! 僕のハートの力を精神力だけでねじ伏せるなんて!」
このままでは全てのナイフが殺されて、彼女は鎖から解かれた狂犬のようにこちらに突撃してくるに違いない。
「もっとナイフを飛ばす!」
殺されるならナイフを作ればいい。消される度に追加すればいい。それに気がついた僕は名案だと手元にナイフを作ろうとした。
だが、何度作ろうとしても、その場には何も現れない。
「な……なんで……?」
何故か知らないがナイフが作り出せない。
もしかして、これが限界というものだろうか。僕は今までナイフをせいぜい数本生成する程度だった。だから自分の限界は知らなかった。つまり、僕が一度に作り出せるナイフの数は20。そして、リセットされる時間を僕は知らない。
「しまった!」
だが後悔しても遅い。着々と、ムカワがナイフを処理し、遂に刀が最後の1本に触れた。バラバラに砕け夜に消えるナイフ。
「ハッ、これで終いだァッ!」
一瞬にして距離が詰められ、刀が横に薙がれる。その軌道上には、僕の体。
刀が、通り抜けた。
「良くやったわ。チビ」
僕の目の前を。
「後は任せなさい」
後ろから、心音さんが僕の服を引っ張ったのだ。そのまま受け止められる僕。彼女は僕をゆっくりと座らせると、ムカワと相対する。その小さな背中が、とても大きく逞しく見えた。
「また音か? もうテメーのハートは見切った」
「これだから早とちり女は嫌いなのよ」
やれやれとため息を、わざわざジェスチャーまで加えて行う彼女。明らかに煽っている。
「まあ、ホントはアンタみたいなアバズレに使うのは嫌なんだけど……とっておきを見せてあげるわ」
彼女がそう言って、自分の胸に片手を当てた。瞬間、そこが緑の光を放つ。前のように束状の光ではなく、放射状に広がる一瞬のものだった。
「今度は目眩しかよ! 効かねぇなぁ!」
「どこまでも哀れだわ。アンタ」
「避けて下さい! 心音さん!」
刀を投げたムカワ。それが心音さんに向かって空を駆けるが、彼女は一歩も引かないし、避けようともしない。
代わりに、彼女は指をパチンと鳴らして一言、こう言った。
「来るのよ。テディ」
次の瞬間、彼女の目の前に、地面から何かがせり出てきた。それは地面と同じような色をしていて、まるで……人の腕のようだった。しかしそのサイズは以上で、今出ている腕だけでも縦は心音さんと同じくらい大きい。横は二倍以上ある。
地面から突き出たそれに刀が突き刺さる。心音さんは守られたが、案の定手はバラバラとなりその場に崩れ去った。その一つが僕の目の前に転がる。拾ってみると、感触に覚えがあった。
「つ、土だ! さっきの巨大な手は土で出来ていたんだ!」
だがそれでは訳が分からない。彼女のハートは《心を聴く力》のはず。音の増幅や音を心に響かせるならまだ関連性を見いだせるが、土人形とは流石におかしすぎる。
「土細工……?」
「アンタは勘違いしてるようだから、教えて上げる」
彼女がそういった瞬間、僕の手の土が勝手に動き、心音さんの目の前に戻っていく。そして周囲から集められた土が形を成していく。
「私のハートは《心を聴く力》。他人の心の声を聴き、具現化することで他人に音を聞かせるようになる。音の増幅とか命令はその一部」
「……オイ、これはちげぇだろ。具現化とか、そういうレベルの変化じゃねぇ。完全に別のモンだ」
そして、土が形成を終えた。
そこには、全長5mもある、歪な人形の土人形が出来ていた。歴史で習った土偶や埴輪のようなものを思い出してしまう。そして、それらと一つ確かに違いが分かる点は、
「そうよ。だって、私は自分のハートが一つなんて一言も言ってないわ」
それが、動くという事だ。
「テディ、潰しなさい」
テディというのはあの土人形の名前だろうか。何れにせよ、心音さんがムカワを指差しながら命令する。するとその大きな手が、ムカワに掴みかからんと迫る。
「図体がデケェだけだろうがァ!」
だがムカワはお構い無しにその手を刀でぶった斬った。正面から切り裂かれた手が、一瞬で崩壊。
「ええ、だからこんな事も出来るのよ」
が、全身が崩壊する前に、土人形から手から肘に掛けてが分離された。そこだけがバラバラになり、全身は無傷だ。
そして土塊達が切り離された腕の部分に集まり、再び再生。数秒後には新しい腕が作られていた。
「殺されるなら直せばいいのよ」
「……ハハハ」
ムカワの突如として始まる笑いに、心音さんが不快感を表しにした表情で睨み付ける。が、それでもムカワは笑いを止めない。
「ハハハハハ! 最高だ! 切っても切っても殺されねぇ! こんな奴を求めてたんだよ!」
瞬間、ムカワが土人形に飛び込んで行く。
「……狂ってる」
心音さんがそう呟き、土人形に腕を振るわせた。それをムカワが切り落とし、心音さんを狙おうと接近する。
が、心音さんがその場で跳躍。すると土人形が頭を下げ、その上に乗る心音さん。これでムカワは土人形を倒さない限り心音さんに手を出せない。
ムカワが構わないと土人形の足を切り裂く。もう片方を切り裂こうとしして、先程切り落とした腕が再生し、ムカワを殴り付けて吹き飛ばした。
流石にあの質量だけあって力もかなりあるらしい。ムカワは高速で壁に激突。普通なら気を失うレベルかもしれない。だが彼女は立ち上がり殺そうとするのを止めない。
「もう止めろ! こんなこと、誰も幸せにならないじゃないか! どうして、どうして君は人殺しなんてするんだ!」
何回もしたはずの質問。だけど僕はこれをせずにはいられない。殺人の快楽だけがこんな精神力を生み出すとは、到底思えなかったこらだ。
だが彼女は、予想通りに僕の期待を裏切る。いや、予想していたのだから、ある意味は期待通りなのだろうか。
「アハッ! んなもん快楽の為に決まってんだろうがァ! テメーも一度始めた娯楽は中々やめらんねぇよなぁ? オレの場合はたまたま娯楽が殺しだった! それだけなんだよネズミ共がァ!」
「……コイツ……救いようが無いわ……ッ!」
再び、彼女の体に土人形の拳がめり込む。吹き飛ばされ、木に背中を打ち付ける彼女。軌道が逸れて地面を転がり、道端に身を投げ出す。しかし、彼女は諦めを知らない。
それから何度も何度も彼女は吹き飛ばされる。満身創痍を通り越したはずの体で、幾度も立ち上がり続ける。
「もっとオレを追い込め! もっとオレを傷付けろ! その分、テメーを殺した時の快楽は増して行くんだからよォ! 嗚呼、堪んねェ! 想像するだけでゾクゾクが止まらねぇじゃねぇかァ! アハハハハハハハハハハハハハハハ!」
叫び声が響く。どこまでも歪で錆びた壊れかけの声が。
耳を塞ぎたくなる。だが耳を塞ぐことが出来ない。腕が、恐怖で動かないのだ。やられているのは向こうなのに、僕は彼女が恐ろしくて堪らなかった。
「……終わらせてあげる。それが、アンタへのせめてもの手向けよ」
心音さんの小さな呟きと共に、土人形の手が、ムカワに振り下ろされた。
そして、ムカワに大量の土塊が降り注ぐ。
「え?」
「ぐッ! こ……こんな……時に……ッ!」
それは腕を成していない。攻撃力の無い土塊が、ムカワの上から降り注いだだけ。見れば、土人形の腕が消失していた。
「……ッ!」
心音さんが、頭を抑えた。瞬間的に、土人形が分解され土塊と化していく。数秒後、土の山の上に彼女が頭を抑えて倒れていた。表情は苦悶を浮かべている。
「心音さん! しっかりして下さい!」
呼び掛けても彼女からの応答はない。その代わり、息が荒くなり顔色がどんどん悪くなっていく。
「な、何が起こって──」
その時、先程心音さんが頭を抱えていたのを思い出した。あの時も彼女は軽くだが苦しんでいた。確か『ハートを使い過ぎた』と言っていた気がする。
もしかして、彼女のハートの限界が来てしまったのかもしれない。
迂闊だった。
どうして僕は、彼女がまだ生きている事を考慮しなかったのか。
僕の背中が、蹴り飛ばされた。土の山の上を転がる。顔を上げると、そこに居た。
「ハハハハハ! やっとだァ! やっと殺せる! 滾るじゃねぇかァ! こんなにワクワクするのは初めてだァ!」
心音さんの頭が踏み付けられる。ボロボロのローブを被った彼女の口元は、かつて無いほど猟奇的な笑みを浮かべていた。
「止めろ!」
僕の耳の隣を、刀が過ぎ去る。
「邪魔したら殺す」
その冷たく鋭い言葉の刀は、僕の縛り付けるには十分すぎた。
「あばよ! メスネズミィ!」
刀を上に上げたムカワ。それを振り下ろせば、心音さんは殺される。
僕を救ってくれた人が殺されようとしている。だが、僕は悔しくも何も出来ない。行っても殺されるだけ。ハートも使えない。この場でずっと、自分が殺されるのを待ち続ける。これ以上ないほど、心が痛かった。
「……チビ、逃げ……」
うわ言のように呟く彼女。朦朧とする意識の中で、まだ彼女は僕を守ることを考えているのか。なんて人だ。そして僕はなんて情けないんだ。
「兄さん……から……頼まれた……んだ……か……ら……青海……ごめん……私……もう……」
言葉の一つ一つを言うことすら、今の彼女には難しい。当然ハートの力も使えないだろう。
「あの世で達者でなァ!」
ムカワの最後の一撃に、に待ったをかける人間は、誰一人としていなかった。
次話>>57 前話>>55
- Re: ハートのJは挫けない ( No.57 )
- 日時: 2018/07/03 22:45
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
きっと、自分という存在は呪いなのだろう。
どうしてもコレが止められない。内側から溢れ出る衝動が抑えられない。自分という存在はそのために存在していると言っても過言では無いが、正体がバレるようなことはあってはならない。その為、今回のような綱渡りはするべきでないだろう。
今この瞬間も、刀を振り下ろせば、このツインテールのメスネズミは殺せる。近くでガタガタ怯えているアリンコだって簡単に殺せる。自分はこの事実に堪らなく興奮していた。今まで散々抵抗してきた女を、足蹴にして殺そうとしていることに。
さぁ後は刀を振り下ろすだけだ。それで全ては終わりオレの心は満たされる。そうすれば暫く出張ることは無いだろう。そもそも数日連続でこっちに来ることになったのは、あの嘘吐きネズミとチビネズミのせいでしかない。特にあのチビネズミ、オレの右手をルーペで殴って来たのだ。お陰でこちらは右手の甲を切った上に腫れている。
だがまあそれでも、無事にこのメスネズミを殺せばオレの仕事は終わる。役目は果たされる。再びこの心の奥のマグマが活性化するまでは、のんびりと眠っていられる。
そう考えながら、思いのままにこのメスネズミの首に刀を振り下ろした。
瞬間、オレの刀が何かに包まれるかのような感覚がした。良く見れば、透明の何かが纏わりついている。よく見ると、水だった。
「水だァ!?」
その瞬間、確かにオレは動揺した。だからこそ、水に手首が絞め付けられ、思わず刀を落としてしまった。拾おうにも、上手く手を動かすことが出来ない。
「邪魔だァ!」
ハートの力で刀を直接水のある場所に出現させる。すると水がバシャッと弾けた。拘束から開放された手で刀を掴むが、視界に驚きの光景が広がる。
オレとネズミ共を分断するかのように、水しぶきが地面から噴射された。視界が潰されるが水柱をハートで殺し、一瞬で払う。
「……居ねぇ」
その頃には、既にネズミ共の姿は無く、代わりに地面に大穴が開いていた。そして水が凄い勢いで流れていく音もする。さしずめ誰かが水で穴の中に流し込み、連れ去ったのだろう。
「待ちやがれ!」
そう言って穴を覗き込んだ瞬間だった。
中から再び、大量の水がせり上がってくるのが見えたのは。反射的に刀を自分の前に構えていた。直後、水圧がオレを襲う。刀で何とか水を殺した為にダメージは無かったものの、防いでなければ吹き飛ばされていただろう。その水が無くなった頃には、既に穴の中からの音は消えていた。
「…………」
つまり、獲物を逃した。
「クソがァッ!」
地面に刀を投げ付けると、それは綺麗に地面に突き刺さった。
「またかよ……まだかよ……!」
最近、オレはこの胸の疼きを抑えることが出来ない。暫くの間、オレは殺しの快楽を得ていない。何奴も此奴も、殺す時にオレを苛立たせる野郎共だった。
「はぁ、はぁ、……クソ、もう時間がねぇ」
刀に映る自分の赤い瞳を見て、光が弱々しくなっている事に気が付く。もう持たないだろう。だがこの様子では、それこそ明日にでも意識が戻ってくるだろう。
「クソ……全身がズタボロだ……こりゃひでぇ」
当たり前といえば当たり前だ。あんなデカブツから10発程度も食らったのだから、むしろ立っている自分がおかしいのだろう。だが、この体では間違いなく、明日は普段通りにはいかないのは明白だ。
「……明日の事は、私に任せるしかねぇ」
私は土の山から降りてその場を離れる。暫く離れたところで、周囲を確認。誰もいないと分かった上で、刀を取り出す。
そして、その刀で、自分の心臓を突き刺した。
○
僕が目を覚ました時、視界を埋め尽くしたのは白い天井だった。
あれ、どうしてここにいるんだろう。記憶を手繰るようにして掘り返していく。
僕の記憶は、地面から水飛沫が上がったところで途切れている。そこから先は、上手く思い出せない。
「気が付いたみてぇだな、貫太」
聞き覚えのある声に、そちらを向く。
「大した傷はねぇらしい。立てるか?」
共也君の姿を見て、先程のことを思い出す。正確にはどのくらい時間が経過しているのかは分からないが、あの時、共也君から離れてしまった時のことを。今思えば、共也君は僕が襲われないように来てくれていたのかもしれない。
「……ごめん」
「……あー、なんか叱る気失せるなぁ……」
困ったような表情を浮かべる彼。しまった。少し待てばよかったとまた後悔を重ねる。
「ま、なんつーかよ。次からは気ぃ付けろよ」
共也君がそう言ったところで、丁度扉が開いた。その時、この部屋の構造を見て、八取さんが眠っていたあの施設だと言うことに気が付く。
「……」
現れたのは見也さんだ。思わず、顔を背けてしまう。あの真っ直ぐな鋭い瞳で見詰められると、今度こそ自分が追い詰められそうで。
「兄さん。どうしたんだよ」
「……付いてきてくれ。貫太君、君もだ」
それから見也さんに誘導されるがままに、部屋を移動した。彼がある部屋をノックし扉を開ける。そこは僕がいた部屋と同じ構造のものだった。当然、ベッドには誰かが寝ているだろう。
「青海、心音はどうだ」
「現在もまだ……」
「……そうか…………」
会話を聞いて、まさかと思う。思わず、2人の間を潜って部屋の中に入っていた。
「心音……さん……」
そこには心音さんがいた。髪は下ろされ、服は違うものの、間違いなく彼女だった。そして、目を瞑ったままでいる。
「心音は今も目を覚ましていない」
「まさか……ムカワのハートで……」
「いや違う。心音の心は今も生きている。単にオーバーヒートを起こしただけだ」
聞き慣れない単語に、疑問符を浮かべる僕。それを察知したのか見也さんが言葉を繋ぐ。
「心音のハートの特徴を知っているか?」
「えっと……一つじゃない、事ですか?」
彼女の言葉を思い出しながら述べる。確か、彼女は言っていた。誰も私のハートが一つとは言っていないと。ならば、彼女は複数のハートを有しているのだろうか。
「そうだ。心音は諸事情により、二つのハートを所持している。一つは《心を聴く力》。もう一つは《心を結ぶ力》だ」
そこで一度言葉を切り、心音さんの元へと移動した見也さん。
「先程、心音の記憶を直接俺のハートで視た。まさか、テディを持ち出しても捕まらないとはな」
その固有名詞は、あの土人形の事だろうか。確かに、あんなものを引っ張り出しても勝てなかったムカワのハートは強力過ぎる。
「正確には、心音が《心を結ぶ力》の方のハートで一つ一つの物質の連結を作り、それによって何度でも再構築を可能とした寄せ集めの人形の事だ。サイズは自由に操作可能。そして心音はその人形を、《心を聴く力》によって動かす。最大サイズとなると構築に1分程度は要するだろう。その力は絶大だ。ムカワすら簡単に捻り潰せるだろうな」
「で、でも、彼女は現にこうして」
「君は彼女が本気であのゴーレムを動かしているように思えたか?」
記憶を辿っていくと、彼女が自ら土人形で攻撃した記憶は無い。全て、飛びかかってきたムカワを迎撃していただけだ。
「……自ら動いてない……なんで……」
「テディはその力が強すぎる故に、周囲を気遣う事が出来ない。さしずめ、近くにいた君を害さないための配慮だったんだろう」
その言葉に、力が抜けていく感覚がした。
僕はあの場でも足でまといだったのか? そして心音さんは、そんな足でまといを切り捨てることを考えなかったのか?
「何より……心音にはリミットがある」
「リミット?」
「俺達ハート持ちは、基本的に一つしかハートを持たない。何故なら、人間の魂の容量と処理速度が一つで限界だからだ。一つのモーターを動かすか、二つのモーターを動かすかでは、後者の負担が大きい事は明白だろう」
「つまり、心音さんは二つハートを持っているから、ハートを使い過ぎると」
「オーバーヒートを起こして倒れる。という事だ。心音にとっては、テディを出す事は、最強の一手であると共に諸刃の剣でもある」
気が付けば、膝を付いていた。
「お、おい貫太。だ、大丈夫かよ」
どうしてなんだろうか。
八取さんの鎌から僕を庇った見也さんも、僕を守るために諸刃の剣を使った心音さんも、僕を庇って両腕を切り飛ばされた共也君も、何故そんなに易々と、他人の為に自分を投げ捨てる事が出来るのだろうか。
どうしても、僕との人間としての格の違いを思い知らされる気がした。きっと3人は人に格など無いと否定するだろうか、僕は確かに、3人より人間的に劣っていることを自覚した。
「針音君、少し、いいでしょうか」
僕に声をかけたのは、青海さんだった。
「どうか一つ、この青海の頼みを聞いて欲しいのでございます」
彼は、爽やかすぎる表情で、まるで裏に見え隠れする本心を抑え込むかのような表情で、言った。
「一発、殴らせて下さい」
「──え?」
「この青海、一生の不覚でした。この施設の水周りが詰まったとか、そのような細事に気を取られ、心音様が一人で外出していたのを見逃してしまいました。ええ、それはこの私めが悪いことにございます。しかしながら、貴方が迂闊な行動を取らなければ、心音様にこのような事は起こらなかったのでございます。決して貴方の行いが悪いとは申しません。ただ、友松心音に仕える身としてではなく、青海静個人として、貴方が許せそうにないのです。これでは、若しかしたら貴方の寝首をかき、殺してしまうかもしれないのでございます」
そう言っている最中にも、彼の手がガタガタと震えているのが分かった。それは恐怖ではない。怒りだ。彼の奥底で、どこへ向けていいか分からない怒りが燃えている。そして彼はそれを、僕へと向けた。
彼の言うことは道理だ。反論のやりようがない。寧ろ、僕も一発殴って貰った方が、スッキリするだろう。そう考えて、頷いた。
「──では、失礼します」
瞬間、青海さんの白い手袋に包まれたしなやかな腕が、僕に伸びてきた。これを受ける事への恐怖が強かったが、僕はこれを受け止めるしかない。
そして、拳が振り抜かれる。
僕は──無傷だった。
代わりに、僕の目の前に、拳を受けた人がいる。
「……これはどういう事でございましょうか。見也様」
僕の代わりに、滑り込んできた見也さんが、その拳を顔面で受けたのだ。唐突な出来事に、驚きが隠せない。
「……コイツらがもしもの時は、頼む」
ボソッとそう言った見也さんが、跪いていた姿勢から立ち上がる。
「俺が、心音がこの街に来た時に言った言葉だ。アイツがここまで本気で貫太君を守ろうとしたのも、俺のせいだ」
「だから、貴方が代わりに受けたと仰るのですか?」
「……そうだ。まだ足りないなら、俺が受けよう。今は関係を気にしないでいい。目の前にいるのは、喋るサンドバッグと思え」
「……そのような事、私めには恐れ多いことにございます。貴方に免じて、今はこの拳を収めましょう」
「助かる」
口から僅かに流れる血を拭きながら、見也さんは出ていく。気まずい雰囲気の中で、僕はただただ、モヤモヤとした心情だけで埋め尽くされていた。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.58 )
- 日時: 2018/07/05 18:19
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕って、なんなんだ。
名前は針音貫太。普通の高校二年生。成績も中の中の上といった所で、特徴というものも、あまりない。強いて言うなら身長が小柄で154cmしか無い事。そんな事は知っている。僕が言いたいのはこのようなものでは無い。自分という存在の根底が分からない。
僕が普通と言うなら、この力はなんだ。隠された力なんて急に言われたって、僕には分からない。何となく使ってきたこの力のことを、僕は殆ど知らない。
なぁ、神様。どうしてこの僕に、わざわざこの僕に、こんな力を与えたのさ? 僕の身近には、あんなにも特別な力に憧れた奴がいたじゃあないか。なのに、なんで彼じゃなくて僕なんだよ。なぁ、おい。
「おい、貫太?」
その声に、ハッとしてグルグルと無駄に回転していた思考がシャットアウトされた。意識が現実に引き戻されると、僕は横長い青いシーツの上に座っていて、共也君はその隣からこちらに呼びかけていた。
「あ……共也君……」
「呼び掛けても反応がねぇからよ。ったく、何考えてんだよ」
「……ごめん」
「なぁ、どうしたんだよ、お前」
「……え?」
共也君が真剣な目で問うので、思わず不意をつかれた。僕に変な所でもあったのだろうか。
「今日、すげぇ変だ。いつもより動きとか表情が硬ぇし、なんかあったのかよ……って、あるにはあったけどよ。どうにも……なんつーか……それだけじゃねぇ気がすんだ」
「…………」
彼に打ち明けたら、少しは楽になるんだろうか。
「実は、さ」
今日、見也さんに言われたことを、そのまま伝えた。そして、僕の答えも伝えた。思い出すだけで心が締め付けられる気がした。締め付けられる度に、心音さんの言葉も思い出す。勿論彼女のその後の事もだ。
「兄さんが、ねぇ」
「……僕には、理由なんて無いんだよ。みんなみたいに、強い意志なんてこれっぽっちも無いんだ」
無いものは仕方無い。なんて割り切れたら、どれほど楽だろうか。
「俺はよ、貫太。そんな事はねぇと思うぜ」
「……え?」
「俺は忘れちゃいねぇさ。お前が初めてハートを出した時、お前が本気で怒った時、そしてお前が歯ぁ食い縛って立ち上がった時。皆、お前のココの強さが起こしたモンじゃねぇのか?」
ドン、と心臓の辺りを叩いた彼。
「……そんなの、下らない一時の感情に身を任せただけだよ」
「ハッ、まあ言っちまえばそうだな。だけど、それでも良いじゃねぇか」
「……それでも?」
「俺の知ってる針音貫太はよ、普段は頼りなくて、自信なさげで、弱気で、チキンな奴だ」
唐突な罵倒に、少しだけ驚きを隠せない。そして、その後の彼の発言にも、もっと驚かされることになる。
「だけど、ここぞって時には、とんでもねぇ爆発力を見せる男だ。やれ友達だ、やれ友人だって、そんな事で必死になれる。ピカイチな奴だよ」
そして、僕の肩に手を置いて、彼は一言だけ置いて行った。
「お前はお前のままでいい。いつもみてぇに、お前が言うくっだらねぇ感情を、真正面から叩き付けて、クソ野郎をぶっ飛ばせば良いんだよ」
彼の背中が、施設の廊下の向こう側に消えて行く。やはりその背中は、大きかった。
「……共也君、僕、頑張るよ」
正直、モヤモヤは、消えていない。悩みが完全に解消したとは言えない。
でも、それでも、僕は頑張ってみる事にした。この胸に秘めた、下らない感情を、あの殺人鬼に叩き付ける為に。
○
貫太と話した後、もう夜も遅いので帰宅しようかと考えていた頃、廊下で兄さんとすれ違った。
相変わらず鋭い目付きだ。クールとは言えばクールだが、姉さんの件もあってかかなり悪い方向に向かっている気がする。
「……目付き、どうにかした方がいいぜ」
「青海からも言われた。が、収まる気がしないんでな」
やはり、姉さんと過ごした時間の違いだろうか。確かに俺も、多少はムカついているが、兄さんのように表に滲み出る程ではない。いつもは無表情でクソ真面目で冷静沈着な兄さんがここまで表情に表すとは、内心はマグマの嵐だろう。
「何をしていたんだ?」
「友人の相談に乗ってたんだよ」
「……言葉足らずだったか。まさか、あんなに悩んでいるとはな」
「やっぱりかよ。アンタ、その癖直した方がいいぜ」
昔から、兄さんは発言に言葉足らずな事が多かった。恐らく今回も、一部端折ってしまったのだろう。かなり重要な場所を。
「ホントはなんかいうつもりだったんだろ? 最後に」
「……君は君なりの理由を見つけるんだ。それは君の強い味方になる。という事を、言ったつもりでいた」
「あーあー、いい台詞がぶち壊しだ」
「…………」
「……なんか喋りなよ。俺が悪かった」
「いや、お前とこんな風に喋れている事が少し嬉しくて、な」
僅かに口の端を上げてそう言う兄さん。彼のそういった顔を見たのは、片手で数える程しかない。つまり、本気で言っているのだろう。
「……そうだな」
一瞬、返答に詰まった。喉の奥に、少し苦いものが引っかかっている。
その間に、兄さんがこう言う。
「共也、お前が本当に俺や心音に心を開いていないことは知っている。だが、俺も心音も本気でお前の事を兄弟だと思って」
自分の思考が切り替わったのを感じた。穏和なものから、攻撃的なものへと。
気が付けば、兄さんの声を遮っていた。喉の苦いものを、相手に吐き捨てるように。
「それ以上言うんじゃねぇ」
その先を聞きたく無かった。昔の記憶に引き裂かれそうになるのが、恐ろしかった。
「……共也」
もう必要無いと分かっているのに、俺の口は止まってくれない。俺の理性に反した感情が、兄さんを拒絶する言葉を生み出していく。
「俺は忘れねぇよ。例えアンタ達が、忘れていようが、あの日、アンタ達に言われた言葉をな」
止めろ。俺はこんな事を言いたい訳じゃない。だが、この奥底からの本気の感情を理性で抑え切れるほど、俺は大人では無かった。
「……俺達は幼かった。親の言う事の重要さも、意味も、残酷さも、全く理解していなかった」
止めろ兄さん。俺はアンタの謝罪なんて聞きたくないんだ。それ以上、俺に言葉をかけないでくれ。言い訳がましく、言葉を繋がないでくれ。下手な同情なんて、しないでくれ。
「お前の気持ちを、理解してやれなかった」
その言葉で、自分の中の糸が切れた気がした。
「当たり前だろうが。テメェなんぞに理解されてたまるかよ」
「……ッ」
「テメェらが幼かったからなんだよ。それで幼い俺に付いた傷が癒えんのかよ。今更兄貴面してんじゃねぇ」
ダメだ。今コイツと向き合っていても、時間の無駄にしかならない。そうやって思考を切り、早歩きで兄さんを通り過ぎた。
「これ以上、俺に踏み込んでくれるなよ。次はねぇ」
そうやって、カツカツと床を鳴らしながら歩いていると頭が少しだけ冷えた。そして、思う。
自分は最低だと。
自己嫌悪に浸りかけていた自分に、唐突な、後ろから耳を刺す声。
「共也、俺は諦めない」
その一言しか言わない自分の兄に、再び苛立ちを覚えた。
──これだけ拒絶しているのに、まだ自分を拒絶しようとしないアイツに。
自分よりも遥かに広大な心を持ったアイツが、心底憎く羨ましかった。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.59 )
- 日時: 2018/07/07 16:58
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
それから、何気ない日々が数日ほど過ぎて行った。僕らは未だにムカワを見つけられていない。とは言うものの、ムカワである可能性が一番高い、三年の剣道部の武川小町先輩が、ここ最近欠席しているからだ。
彼女のことを調べようにも、来てくれなければ進みようがない。早くムカワの力を解か無ければ、皆はいつ本当に殺されてしまうか分からないというのに。そんな焦りだけが溜まっていく日々だった。
「よう貫太」
「おはよ、共也君」
それでも、今日も今日とて何気ない月曜日の朝が僕らを出迎える。あんな事件達なんて無かったみたいに、ずっと変わらない日常の一部。
「おお、そういやこれ。兄さんから」
「見也さんから? なんだろ」
共也君から差し出されたのはビニール袋だった。受け取って中身を確認すると、見覚えのあるパイプがあった。そして、メモらしき2枚の紙も同封されている。
「あ、調べてくれたんだ……」
「てか、なんで観幸のパイプなんて持ってんだ?」
「図書室に行った時に乾梨さん……観幸と一緒にいた図書委員の子から貰ったんだ。彼の忘れ物だって」
メモを見ると、そこまで長い内容では無かった。しかし歩きながら読むのも危ないと思うので、開かない方が良いだろう。
「おはようございます、貫太君」
「うわぁっ! ……り、隣さんか……おはよう」
僕に唐突に声を掛けたのは隣さんだ。心臓に悪いからよして欲しい。いやまあ、僕がボーッと考え事をしながら歩いていたのも悪いんだけど。
暫く二人で(共也君は多分ハートで先に行った)歩いていると、赤信号に当たった。僕が黙って待っている間に、隣さんが口を開く。
「……貫太君、大丈夫ですか?」
「え?」
思わず、聞き返してしまった。
「なんだかとっても……思い詰めてるみたいです」
「……そんなに出てるかな、あはは……」
誤魔化し笑いもあまり上手く行かなかった。僕がそれほど思い詰めているのだろうか。それとも、隣さんに嘘を吐きたく無かったからだろうか。何れにせよ、悩みのようなものがあるのは事実でしかない。
「私には、話してくれないんですか?」
うん、と短く返事をしそうになって、気が付いた。
どうして僕は、隣さんには話したくないと考えているんだ?
彼女はハート持ちだし、ムカワの事についても知っている。浮辺君や観幸が行方不明になったことも知っている。なのに、どうして僕は隠そうとしていたんだ? 彼女のことを巻き込みたくない、なんて思っているんだ?
「貫太君?」
「ご、ごめん。実はさ」
それから一連の事について話した。内心では、今すぐこの話を止めたいという感情が、原因も分からないまま渦巻いている。
「……小町さんがその殺人鬼である可能性が高い……ですか」
「え、知ってるの?」
「小町さんも生徒会役員ですから……その繋がりで、一応」
それは知らなかった。彼女は生徒会に入っていたのか。
「じゃあ、小町さんがどうして休んだのか知ってる?」
「体調を崩したみたいです。藤倉先輩が荷物届けに行くとか言ってましたし」
藤倉先輩の名前を聞いて、少しだけ隣さんとの出来事を思い出した。改めて、今彼女と何気なく会話していることが不思議で堪らない。
「……所で貫太君、ムカワの利き手が分かりますか?」
「へ? 利き手?」
急な質問に、少しだけ驚いた。隣さんが続ける。
「小町先輩、利き手は左なんです。左の人って少ないイメージありますし、もしかしたらと」
理由に納得しつつも、記憶の中を掘り返していく。刀を持つ手は向かい合う僕らから見て右側にあった。つまり、
「左手……だった。確か、左で刀を持っていたよ」
確かに彼女は左手で刀を振るっていた。わざわざ理由も無く利き手ではない方で刀を持つ理由も無い。つまり彼女は左手ということだ。
「そうですか……」
隣さんが少しだけ悲しそうな顔をした。多分、彼女は武川先輩への疑いを晴らしたかったのだろう。それが逆に、より強固なものにしてしまうとは思わずに。
その後、気まずい雰囲気で歩く事になる。こんな時、気の利いたセリフの一つや二つでも思い浮かべばいいのに、僕は彼女に声を掛けてやることも出来ない。そのまま校門まで着いてしまった。当然クラスが違うので、靴箱で別れる。
「……じゃあね」
「……あっ……」
隣さんの元から離れて自分の靴箱へと向かい、そのまま早歩きで教室へと向かう。
隣さんといると、慣れない胸のざわつきが襲ってきて、自分が自分じゃなくなる感覚がした、少しでも早く、離れたかった。
「……貫太君が落とした紙、渡しそびれました……」
○
教室に着いて、課題を提出してから自分の席でメモを読んだ。内容はパイプの指紋についてだった。なんでも、観幸の指紋が無い代わりに一人の指紋があるらしい。多分乾梨さんが持ち帰った際に洗ったりしたのだろう。
メモ用紙に多少の違和感を覚えつつも、まあいいかと気にしない事にした僕。今は共也君と教室で話している。
先程武川先輩とムカワの利き手が同じだったことを伝えると、彼は少しだけ驚いたような表情を見せた。
「……やっぱり武川先輩なのかな」
「……利き手とは盲点だったな。だが……いよいよ確信が持ててきたな」
確かに、武川先輩はムカワである要素が余りに多過ぎた。名前に関しては無視するとしても、それ以外でも十分な共通点があった。
「恐らくだが……数日間休んだのは体の問題だろうな」
ムカワは心音さんとの争いでかなりダメージを負っていた。それなら数日間の欠席にも合点が行く。というか、都合が良すぎるほどに噛み合っている。時間帯に関してもそう。彼女は部活で遅くまで残り、被害者が襲われたのは夜。彼女は剣道部で、ムカワの使う武器は刀。
「今日、もし武川先輩が来てたら、部活終わりに先輩を尾行する。兄さんも呼んでおくぜ」
「分かった」
時間が無い。僕らは一刻も早く事件を解決する事だけを考えていた。
そして時間は流れ、昼休みの事。
「今日は乾梨さん当番かな……」
廊下を歩きながらそう呟いた。僕は今、図書室へ乾梨さんに会いに向かっている。
僕が観幸のパイプを持っているのもどうかと思ったのだ。一応彼女が拾ったのだし、彼女から渡した方がいいのではないかと思ったのだ。
──と、まあこれは実際は建前でしかない。本音は、観幸のあの姿を思い出してしまって、胸が絞め付けられるから、他の誰かに渡してしまいたかった。
図書室の扉が見えてきたところで、ちょうど向かい側に、偶然見覚えのある人物が居た。
「貫太君、図書室ですか?」
「うん。ちょっと用があって」
隣さんだった。片手に文庫本を持っている辺り、彼女も図書室に用事があったのだろう。
「あ、貫太君、朝にこれ、落としてましたよ」
「え? ……あ、そう言えば1枚しか無かった」
隣さんからメモのようなものを渡された。どうやら、朝僕が落とした、見也さんから送られてきたメモらしい。道理で違和感があった。受け取ってポケットに仕舞う。
ガラガラと音を立てて開く図書室のスライド式のドアを開けた。もし彼女がいないなら、全くの無駄骨だと考えながら、祈りつつもカウンターを覗く。
そこには、少しだけビクビクしながらも貸し出し作業をしている乾梨さんの姿があった。安堵の息を漏らしつつも、彼女の方へと向かう。
「あっ、そのっ、……は、針音さん……ど、どうしました……?」
「いや、これ、乾梨さんが持ってた方が良いかなって……」
僕がビニール袋を差し出すと、彼女は一瞬だけフリーズした。その後、十数秒かけて何のことかを理解した彼女が、慌てて立ち上がってそれを右手で受け取る。
「右手、もう治ったんだね」
「あっ……いえ……はい……もう何とも無い……です」
僕が話し掛けると答えるが、その後彼女は俯いてしまう。やはり人と話すのが得意では無いんだなぁと思いつつ、図書室を後にしようとした。
「ま、待って……下さい……」
彼女から、そう言われるまでは。
「え? どうしたの?」
「……じ、実は私……」
彼女は、深呼吸するかのように大きく肩を上下させ、胸に手を当てながら、心底苦しそうにこう言った。
「あ、貴方に……嘘を……い、言いました……」
次話>>60 前話>>58
- Re: ハートのJは挫けない ( No.60 )
- 日時: 2018/07/07 21:10
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
一瞬、何が言いたいのかよく分からなかった。嘘、とはどういう事で、どの発言が嘘だったのか。
「ホントは、ホントは嘘なんです、この傷も、このパイプの事も、あの日のことも、ホントは、ホントは嘘でしかなくて」
「お、落ち着こう? ね?」
まくし立てるように、息を荒くしながら喋る乾梨さんを諌める。急にテンションが変わったので、少し驚かされた。
椅子に座った彼女は呼吸を整えている。紅潮した顔が、息苦しさを表していた。
「今落ち着かないなら、放課後でもいいよ」
そう言いつつ、内心ではしまった、と感じていた。放課後の予定は、既にあるというのに。
「……じゃあ、部活が終わった後でも、良いですか?」
反射的に、頷いてしまった。本当は、今日の放課後は予定があったのに。共也君と武川先輩を尾行するという、重要な用事が。だが、彼女の様子を見ているとつい、断ることができなかった。
しかし、裏では安堵している僕もいた。見也さんとは、少しだけ顔を合わせ辛くもある。その点から言えば、彼女との約束は都合が良いものでもあった。
○
「ったくよー、流石は断れねぇ男だな?」
放課後、共也君に例のことを打ち明けると、このような言葉が彼のニヤニヤとした笑い付きで返ってきた。
「なっ……ぼ、僕だって断れない訳じゃないから!」
「じゃあ最近の断った事言ってみろよ。あ、愛泥の件はナシな」
「あるに決まってるじゃないか。えっと……………………」
ちょっと待て僕。何かあるだろ。確か、えーと、……何も無いな。僕。クラスメイトの頼みとか大体安請け合いしてるし、家族の頼みも特に断った覚えが無い。
「…………い」
「え? なんて?」
「……………無いんだよ」
苦渋の思いでそう言った。
それに対し、彼は少しだけ口から息を吹き出した。
「っはははははははは!」
そして直後に、まるで風船の空気が抜けるかのように、口から息を吐き出しながら笑い出した。
「嘘だろお前まさか自分で言っておいて無いとか! あっはははは! 笑っちまうぜ貫太ァ!」
「わ、笑わないでよ!」
笑い過ぎて空気不足になったのか、ヒーヒー言いながらお腹を抱えて笑い続ける彼に、こっちが恥ずかしくなってくる。そんな笑うことないじゃないか……。
「ははは、いやワリーワリー。最近おかしな事がなくてつい」
「ついって……」
「まあ分かったよ。武川先輩は俺と兄さんに任せとけ」
笑った際に生じた涙を目に溜めつつ、彼はこちらにオーケーのサインを出してきた。
不満は多少はあるものの、彼のおかげで多少はスッキリした気がした。
○
「……そろそろだな」
俺こと友松共也は、教室で遅くまで残っていた。何もクソ真面目に予習する為ではない。剣道部が終わるのを待っていたのだ。そして、予定では練習がそろそろ終わる頃。一度家に返って鞄を置いて来た俺は手ぶらで教室を出た。
「……貫太の奴、どうせ兄さんに会いたくなかったんだろうな」
兄さんが不器用過ぎて笑えてくる。あの人はいつも言葉足らずで他人を傷付ける事が多い。その後謝る誠実さを持ち合わせてはいるが、貫太のようにいつでも会える訳では無い人間にやらかしてしまった時のダメージは大きいだろう。
「……ま、あの人が何しようが知ったこっちゃねぇな」
後者の窓から武道場を見下ろすと、既に数人が帰宅を始めていた。そして、その中には見覚えのあるショートカットの凛とした雰囲気の生徒もいる。
「……居た」
速やかに階段を降りて靴箱へと向かう。そして武川先輩とすれ違わないように校門へと向かった。
「よう兄さん。もうすぐだぜ」
「……やっとか」
校門の近くの壁に背を預けていた兄さんは、俺の言葉で壁から離れた。そして、俺の隣まで来ると、少しだけ顔を顰める。
「貫太君はどうした?」
「女子と待ち合わせだってよ」
「……そうか」
誤解を招くような発言をしても、まあ多分バレるだろう。兄さんのハートから考えて。
「……ところで、ムカワらしき人物とは何処にいる?」
「もうすぐ出てくるはずだぜ……って、来た来た。あのショートカットの女子生徒だよ」
「……武川小町か。なるほどな。確かに、名前だけで言えば最も怪しいな」
「今日電話で伝えたろ? 武川先輩を疑ってる理由ってヤツ」
あれだけの根拠が揃っているのだ。殆ど間違い無いだろう。そう思いつつも、彼女を追って道を歩く俺達。向こうはこちらの事なんか一切気にしない様子でイヤホンを付けて歩いている。音楽でも聞いているのだろう。
「……そう言えば利き手に関してだが………ムカワはどちらが利き手だ?」
「何言ってんだ? 右手だろ」
俺が浮辺の連絡で駆け付けた時、アイツは確かに右手で俺に刀を投げてきた。左手で投げれる奴なんかそうそういないだろう。だが、俺の言葉に兄さんは難色を示す。
「……おかしいな。心音の心を視た時、奴は左で刀を振るっていたぞ」
「……見間違いだろ」
「聞き手の情報を知った後、もう1度確認した。共也、お前はその情報、誰から仕入れた?」
「貫太だ」
「ではどちらが確認したか?」
そう言われて、ハッとする。
「……確認してねぇ」
「……一つ、証拠が潰れたな」
自分の不注意がこんな所で出てくるとは思わなかった。歯噛みしつつも、武川先輩の尾行を続ける。
「まあ……俺が触れば、すぐに分かることだがな」
「アンタ犯罪者になりてぇのか」
「最適解と言え」
「女子高生の体まさぐるのが最適解とか世も末だな」
「…………最適解だ」
彼女の体に兄さんが触れば、兄さんは奴の記憶を読める。だがそれは兄さんの社会的地位の死亡に繋がりかねない。黙って尾行するのが最良だろう。
黙って尾行していると、ふと思い出したかのように、兄さんが呟く。
「……そう言えば……貫太君は俺の入れたメモを読んだのだろうか……」
「あ? 教室で読んでたぜ?」
「そうか。いやしかし驚きだった。まさか、ムカワが見逃す人間が居たとはな」
その発言に、耳を奪われた。
「どういう事だ?」
「……聞いていないのか?」
「ああ。サッパリだぜ」
「深探君のパイプ。アレには一人の指紋が付着していた。恐らくはその逃げた見逃された一人のものだ」
「待てよ。それは聞いたが指紋に何の関係があるんだ?」
指紋云々に関しては、貫太から聞かされていた。乾梨とかいう生徒のものだろうと。
「最後まで聞け、共也。そのパイプには、ほんの僅かな血の跡が検出された。血は拭き取られても、調べれば跡が出てくるからな」
「……血だと?」
「血液型は深探君のルーペに着いていたのと同じもの。つまり、ムカワの血という事だ。そして、貫太君はそれをある女子生徒から譲り受けたと言っていた。つまり、その女子生徒は見逃されたのだろうな。ムカワに」
「ちょっと待て。貫太はそんな事一言も言ってなかったぞ」
「……もしかして、1枚しか読んでないのか?」
貫太はそんな事を言っていなかった。
「読んでねぇみてぇだ」
「……なんだと」
「そんな話、聞いてねぇ」
場を沈黙が支配した。
まだ不透明なものがある。この事実だけで、確信は大きく揺らぐ。今まで感じてもいなかった心配が、胸の中で暴れ始めた。落ち着け。ここでムカワを捕まえればそれで終わるんだからな。
「……ところで共也、一つ提案がある」
焦燥に駆られていたところに、兄さんの言葉が飛び込んできた。そのまま小さな声で繋げる彼。
兄さんの提案を聞いて、なるほどと感じるのと同時に、とんでもない罪悪感を感じた。
「……大丈夫かそれ?」
「お前が上手くやればな」
「……ま、そうするのが手っ取り早いわな……」
正直言ってやりたくないが、背に腹は変えられない。取り敢えず、都合の良いロケーションになるまで待つ。
そのまま暫く歩いていると、曲がり角に当たった。そして武川先輩はそれを右に曲がる。塀でその姿が見えなくなった。
絶好のロケーションだ。ここでやるしかない。塀から顔を出すと、あと数メートルで武川先輩が俺のハートの射程外に出ようとしていた。
「今だ、共也」
「ああクソ、犯罪者かよ俺達」
そう言いつつも、俺はハートの力で俺の手の平の前と武川先輩の背中の空間を繋ぎ合わせた。
「うるさい、集中が途切れる」
そして、俺の手の平の前に、兄さんが手を突っ込む。それは俺の手の平には当たらず、そのまま突っ込んだ分が消え、代わりに武川先輩の背後に腕だけが出現した。そして、その腕が武川先輩の首を掴む。
「ひゃぁぁッ!」
黄色い叫び声が聞こえた。咄嗟に兄さんが手を接続空間から引っこ抜く。すると向こう側の手も消え去った。そして俺達は塀で武川先輩から見えないように隠れた。
「だ、誰よ!」
恐らく彼女は今、周囲を確認していることだろう。危ない。どうやらこちらの仕業とはバレなかったようだ。
「……兄さん、早いとここの場を離れようぜ」
「……同感だ」
正直、異能を使って女子高生の首を一瞬だけ掴むとかただの犯罪者だが、これも友人の為なのだと自分を誤魔化す。いや正直、罪悪感が大きすぎる。
「それで、読めたか?」
「……1週間程度だが、把握した」
兄さんは、ネクタイを締め直してから、言った。
「武川小町は、ムカワではない」
俺達にとって、ある種の絶望でもある言葉を。
○
放課後。音楽教室で待っていて欲しいと頼まれた僕はずっとそこで待っていた。ついでに課題しながら。因みに音楽教室は鍵がガバガバすぎてちょっと持ち上げるだけで簡単に入れるという何ともセキュリティの甘い教室のため、こういう待ち合わせに使われることが多いらしい。
「……もうすぐ部活終わるかなぁ」
なんて小さく呟いてみる。すると、噂をすればという奴か、扉が開いて光が射し込む。
「こんばんは。乾梨さん」
「こっ……こんばんわ……」
いつにも増してビクビクした彼女の様子に流石に違和感を覚えた。課題をしまいつつも、近くの椅子をとって彼女の方に動かす。
「それで、昼休みの事なんだけど……落ち着いた?」
「……はい」
「じゃあ、話してくれる?」
「……実はあのパイプ、図書室で拾ったものじゃないんです」
取り敢えず、今は黙って彼女の話を聞くことにした。質問ばかりしては、話が進まないと思ったからだ。
「ほ、ホントは、か、彼がもう遅いから私を送るって言って、途中まで道が一緒だったから2人で帰っていたんです。そ、そしたら、急に私の意識が朦朧として、なんだか凄く眠くなって、そしたら急に目が覚めて、気が付いたら深探君が倒れてて、幾ら揺さぶっても反応が無くて、それで、それで!」
「乾梨さん」
再び語調の速くなった彼女を、肩に手を乗せて落ち着かせる。幾らか落ち着いた彼女が、再び話を始める。
「その時私、もうなんにも分からなくなっちゃって、気が付いたら右手も切れたり腫れたりしてて、頭の中がぐちゃぐちゃになって、何していいか分からなくて、もう気が変になりそうで、そのままわけも分からず走ってたら家に着いてて、それで、気が付いたら、これを握ってて……」
「……そっか」
彼女に少しだけ同情した。確かに、急にあんな事件に巻き込まれたら、誰だって錯乱するに決まってる。ましてや、出会って数日の僕に話したいとは思わないだろう。でも誰かに相談したい。だから僕に話した。とまあこんな感じだろうか。
彼女があの場所にいたのは、ムカワが逃げてから僕が観幸の元へ駆け付けるまでの間、という事になるだろう。
「ほんとは言わなきゃって思ってて、でも間違いなんじゃないかって、心のどこかで思ってて、でも深探君は来なくて、ああアレは夢じゃなかったんだって、自分は1人だけ逃げたんだって、最低だって、どん臭くて他人の迷惑以外になれない私なんて、消えちゃえばいいのにって、っ……うっ……」
彼女の言葉はどんどんくぐもっていく。そして目から1粒の涙が零れるのと同時に、水道の蛇口を捻ったように涙が溢れ出した。
「わ、な、泣かないで?」
しかし僕は咄嗟に対処することが出来ない。取り敢えず何とかしなければと思い、ポケットからティッシュを引きずり出して彼女に持たせる。右手でギュッとそれを握り締める彼女。
「これで涙、拭いて」
「……は、はい……っ」
その時、ポケットティッシュと共に、何かが引きずり出された。何を入れてたんだっけと確認すると、メモ用紙が入っていた。
そう言えば、隣さんが図書室の辺りで届けてくれたんだっけ。なんて思い出しながら、軽い気持ちでメモを読む。
そこには、パイプに付いた血痕について書かれていた。拭き取られてはいるが、微量の血が着いたと思われる跡が見付かったらしい。特に役立つ情報ではないな、と思った。最後まで読まずに、その場で手放す。
その後、再び彼女と相対する。最も、彼女は両手で必死に目を拭っている為に話は出来ないが。
その時、ふと右手が目に止まった。右手の甲に、何か赤い跡があった。まるで、切り傷のようなものの跡が。
頭の中の端っこが、チカチカとした。
そう言えば、観幸は確か僕に留守電をしていた。内容を確認しようと、パカパカする携帯電話を取り出す。そして履歴から遡り、再生。
『貫太クン……ムカワは……違うのデス……ムカワでは……』
久々に聞く友人の声に涙を堪えつつ、その内容をゆっくりと噛み砕いていく。
彼が無意味なメッセージを残すとは思えない。ムカワから妨害されることを考慮しない訳が無い。つまり、このメッセージから何か得られるものがあるはずだ。
これは最後が欠けているから意味不明なんだ。文脈から判断する現代文の問題と一緒で、空欄に適する語を入れなければならない。
「ムカワは、違う、ムカワでは……」
口で数回ほど復唱した時、ふと閃く。
ムカワは違う、ムカワではない。
彼はこう言いたかったのではないか?
ムカワではない。そしてムカワがムカワではない、は文的に不自然だ。どちらのムカワは『武川』という事になる。
つまり、武川先輩はムカワではない?
では誰だ?
その時、自分が捨てたメモが視界に入った。もう1度拾い上げて確認する。
最後の文を読んでいないのだ。何かあるかもしれない。そう思って、読み返す。
『またこの血はルーペに付着していたムカワの血液と同じ血液である』
同じ血液。
ルーペに付着していた血液は、それで殴ったにも関わらず微量だった。つまり、血はそこまで出ていない。派手に出ていたら、観幸の体はもう少し汚れていた筈だ。
つまり、余程の奇跡で血液がパイプに振りかからなかったとすると、ムカワは一度血のついた手でパイプを握ったということだ。
そして、着いた血液はムカワのものだけ。同じようにパイプを持ったものは居らず、1人だけという事になる。
頭の中で、着々と方程式が組み立っていく。これまでの事件達から得たピースが、ようやく正解の場所へと嵌り込んでいく。
まさか、いや待て。彼女は明らかに右利きだ。荷物を受け取る時も、先程のテッシュだって右手で受け取っていた。ムカワは左利きだ。そこは一致しない。
そこで再び、傷が視界に映る。
僕は右利きだが、右手を一度怪我した事がある。その時、僕は右手を使うのを避けた。そう、利き手であるにも関わらず、使用を避けた。つまり、人間は利き手であろうが負傷していれば代わりに反対の手を使うのだ。例え不便であろうとも、背に腹は変えられないからだ。
あの日、ムカワが僕の元に現れたあの日、彼女の右手は、痛々しい怪我をしていた。それこそ、使用を控えてもなんら不思議ではないほどの傷を。
そしてそれが、観幸のルーペによって傷付けられたものなら?
そこから出た血が、観幸の所有物達に着いたものなら?
時刻に関しても、なんら不都合は無い。浮辺君の事件の日、彼女は図書委員で学校に居た。観幸の事件の日、彼女は観幸と同じ時間に学校を出た。そして僕の日、彼女にはアリバイは何も無い。
僕が思考を巡らせている間に、彼女は目を擦るのを止めていた。メガネの奥に覗く泣き腫らした目元が、見ていていたたまれない。そして、これから僕が、こんな言葉を吐き付けなければならないなんて思うと、更に胸が苦しかった。
僕が彼女の肩に手を置いて、目を見つめる。どこまでも透き通った、茶色のかかった綺麗な目だった。キョトンとした様子で見つめてくる彼女。
でも、それでも、言わなきゃダメなんだ。僕は、僕は、皆を、知人を、友人を、親友を、救わなきゃならないんだ。
「乾梨さん」
さぁ、言うんだ。針音貫太。
「キミが、ムカワなのかい?」
僕史上、最悪最低の台詞を。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.61 )
- 日時: 2018/07/08 11:07
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
瞬間、彼女の澄んだ目が、一瞬にしてその透明感を失った。
「……嫌、違う、違う」
彼女は頭を抱え、誰へ向けてでもなく、下へ拒絶の言葉を吐き続ける。
「違う、違う、違う! 違う違う違う違う違う! 私は、私はムカワなんかじゃない! 違う! 違うの!」
動揺しているのかと思ったが、どうやら少し違うらしい。この狂い方は、どこか浮辺君を思い出させる。
まさかと思って、彼女の瞳を見ていると、僕の予想が的中し、その色が徐々に赤く染まっていく。
「嫌、嫌、止めて、来ないで。違うの。私は、私は人殺しなんかじゃない! 止めて、止めてよ! 嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ぁッ! 私は、私は──」
カクン、と呆気なく彼女の首が俯いた。
「まさか……」
脳内で、予想が組み上がっていく。
そしてそれは、僕の期待を裏切り、予想は裏切らなかった。
そして次の瞬間、彼女から独特の粘着質のある威圧感が放たれた。嫌な汗が、全身から吹き出るのを感じた。
異様に身体中が蒸し暑い。なんだこれ。どうしてこんなに汗をかいているんだ。落ち着け僕。
「…………ふふ」
「……ッ!」
声は乾梨さんのそれと全く同一だ。だが、確かに分かる。声音が、耳にへばりついた奴の声が、その微かな音と共鳴したのだ。
「……ふふふ、はははははは!」
おかしくておかしくて堪らない。そう言わんばかりに、笑い飛ばし、頭に付けていたカチューシャを無理矢理毟りとった。これまで揃えられていた髪たちが、バラバラと宙で何回か旋回する。
「……さっきの貴方の回答……」
急に変わったテンション。そして聞き覚えのあるアクセント。
間違いない。
「80点、と言ったところですわぁ」
彼女はそのまま、狂気を内包したにこやかな笑みのまま、こう続けた。
「ネズミさん?」
やはり、間違いない。
彼女は、乾梨透子は、ハート持ちだったのだ。しかも、ムカワという最悪のハート持ち。
「……80点、ってどういう事かな」
少しでも長く生きるため、雑談で意識を逸らす。彼女もこちらの意図が分かっていて、敢えて便乗するかのように返答する。まるでそれすらも楽しんでいるかのように。
「ふふ、折角だから教えて差し上げますわ。満点は付けてあげられないとはいえ、貴方は初めて私の正体を暴いたんですもの」
彼女は脚を組みながらそう言う。その動作一つ一つは艶やかさと色気のようなものがあり、先程までの乾梨さんの様子とは全く毛色の違うものだ。
「私の名前は、乾梨透子ではありませんの。それは私の名前であって、私の名前ではありませんの」
「……何が言いたい」
「乾梨透子という人格と、私は別人格、という事ですわ」
つまり、二重人格という事か。なるほど、それなら普段の日常生活でボロが出ない訳だ。普段は弱気な乾梨透子という皮を被り、ここぞという時だけ人格を切り替えムカワになる。これが彼女の見つからない原因の一つでもあるのだろう。
「じゃあ、君は一体誰なの?」
「私は私の心から生まれた別人格」
彼女はメガネを外して、その赤い裸眼を妖しく赤く光らせる。
「無川刀子(むかわ/とうこ)と申しますわ。虚無に川に刀に子供。ふふ、これで私の名前を知る人は貴方と私、そして一人のネズミだけですわ」
どこか芝居がかった動作でスカートの端をちょこんと持ち上げて挨拶をする彼女。
その可愛らしさの裏側には、隠しきれないほど鋭い刀が見え隠れしていた。
「……ネズミって、八取さんの事か」
「分かりませんわぁ。だって、人の違いなんて声と背丈と性別だけですもの」
そう言えば、乾梨さんは目が悪くてメガネが無ければ人の顔の判別すらつかないと言っていた。ムカワ──無川は、乾梨さんと同じ体だ。同じように、彼女も裸眼では視界が不安定なのだろう。
彼女は、本来であれば見せることも無いであろう、煌めくような笑顔でこう言った。
「そして、私の名前を教えたからには、貴方は生かして帰しませんわぁ」
彼女が虚空で手を握るような動作をする。すると、その場に刀が現れた。
「う、動くなッ!」
「遅いですわよ」
僕がナイフを飛ばすが、それは無川の刀によってバラバラに消された。そうこうしていると、首に手が伸ばされた。
「ッ!」
「ふふ、このままじっくり、ゆっくり絞め落として差し上げますわ」
「な、……なんだっ、て」
そんなことされてたまるか。僕は右手にハートの力でナイフを生成。『放せ』と刻まれたナイフを突き立てようと、その手を振るった。
「大人しく、していて下さいねぇ?」
直後、鳩尾に膝がめり込むのを感じた。口から変な声が漏れると共に、ナイフが手から溢れ落ちた。
「がはッ!」
「ネズミさんは、しっかりと殺して差し上げますわぁ。ふふ、ふふふ、ははは! 愉快ですわ! ああ、なんて素敵なんでしょう!」
「い、息がッ……!」
ダメだ。ハートの力が使えるほど、意識がハッキリとしていない。手先の感覚が、無くなってきた。彼女の首の絞め方が上手いのか、意識が消えるか消えないかのスレスレをさ迷っている。ただただ苦しく、無念だ。
「ふふ、貴方の行動は無駄だった。だって心理に辿り着いた貴方は殺されてしまうんですもの。そして残るハート持ちはあの高身長のメスネズミと気に入らない大ネズミだけですわ」
「…………ッ!」
「おおっと、それどころではありませんのね。では少しだけ息を吸わせてあげますわ」
瞬間、刀の柄で頬が殴られた。そのまま音楽教室の机が集まっている部分に放りだされ、それらに激突しつつも床に這いつくばる。
足りなくなっていた酸素を肺の中に詰め込む。今はそれで必死だった。
まさか、彼女が後ろから攻撃してきているなんて知らずに。
「ほら! 抵抗して下さいな! ネズミさん!」
彼女の足裏が、僕の鳩尾に叩き付けるように下ろされた。直後、凄まじい激痛が脳内を駆け巡った。
「っがはぁッ!」
「どんな気分ですか! 何も出来ず! 床を這って! 無様に! 虫けらのように! 踏み付けられる! 気分は!」
言葉を区切る度に、彼女が足を持ち上げ、僕の鳩尾を踏み付ける。それが何回も何回も続き、呼吸すら出来ない。僕が絶叫を上げると、彼女はその足を止めた。
「簡単には殺しませんわよ。存分に、痛ぶって差し上げますわ!」
ああ、なんて嬉しそうな表情なんだろうか。
でも、ちょっとだけ、何か違和感があった。
彼女の笑顔の裏に、殺意の裏に。
何か、何が覗いた気がした。
「ほら! 立ち上がって下さいまし!」
胸倉を掴まれ、無理やり持ち上げられる。そして、再び体が投げられた。今度は硬く大きなものに体を打ち付けた。多分、ピアノだろう。再び、体が悲鳴を上げた。
「……ぐっ……はぁ、はぁ……」
だが何とか立ち上がり、無川に相対する。彼女は再び手に刀を握り、愉悦に満ちた表情を浮かべている。
「ふふ、思えば本当に貴方は役立たずですわ。周囲から最も情報を与えられているにも関わらず、今の今まで気が付かなかった無能さ。誰よりも臆病な癖に、誰よりも偽善を行うその態度」
彼女が言葉のナイフで、僕の心を切り刻んでくる。何も反論できない。僕は無能で、臆病で、偽善者だ。それはどうしようもない事実だからだ。
「心底、吐き気がしますわ」
気が付けば、彼女が僕に刀を振るおうとしていた。多分、数秒後には僕の体は斬られているだろう。
「─────ごめん」
最後に漏れた言葉は、謝罪だった。
どこまでも負け犬な僕には、相応しい最後の言葉だった。
「ごめんな、観幸」
そして、その刀が、一閃。
直後、彼女の刀が空振った。
そう、体を捉えずに、ギリギリで当たらなかったのだ。彼女がズラしたのではない。誰かが、僕の体を後ろに引っ張ったのだ。
体に、何が巻きついているような感覚を覚えた。それを、視界をずらして確認する。
「……これは、どういう事だ? ネズミ」
「これは……鎖……?」
鎖だった。僕の命を救った鋼鉄の命綱の出元を、目線で追う。
すると、その先には彼女が居た。
「一つ、良い事を教えてあげましょう」
ジャラジャラと背中から生えた鎖達が音を鳴らす。それらは一斉に飛び出し、無川の手足にグルグルと巻き付いていく。
鎖の持ち主の彼女は、僕を鎖で引き寄せて、僕の首に腕を巻き付けてこう言った。
心底愛おしそうな声で。
「私は今、貴女にとても怒っています」
心底、憤ろしい声で。
「貫太君の事を、理不尽にバカにして、傷付けるなんて」
彼女は、言う。
「私に殺されたいって、言ってるんですよね?」
《心を縛る力》を持つハート持ちの彼女こと、愛泥隣さんは、異様な程に鋭い言葉を吐き出した。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.62 )
- 日時: 2018/07/09 18:11
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: 69bzu.rx)
きっとこの世で一番不要な人間なんだ。
そう思い始めたのは、引き取られてからの事だろうか。私の苗字が、──から乾梨に変わった、丁度あの頃。
今の両親は本当に良い人達だ。血の繋がりの無い私を、本当に大切に思ってくれている。
だが、それでも時折思い出すのだ。昔の自分の両親のことを。血の繋がった、両親のことを。
ああ、思えばどうしてあんな結末になってしまったのだろうか。あの時──が、私が、あんな事をしなければ、結末は変わっていただろうか?
──が、父親を斬り殺さなければ、運命は変わっていたのだろうか?
勿論、そんな問いに、答えなんて返って来る筈が無かった。
○
「り、隣さん」
気が付けば、名前を呼んでいた。突如として現れた彼女に、困惑を隠せない。どうして彼女がここに居るのか。
「貫太君が女子生徒と2人っきりなんて……とっても心配でしたから」
そう言えば、彼女はあの時図書室にいた。盗み聞きをすることは決して不可能ではないだろう。
「……さて貴女、覚悟は出来ていますか?」
その問いに、無川はニヤリとした笑みで答える。
「出来てるも何も、覚悟する必要などありませんわぁ」
彼女が右手に持っていた刀を、右腕を縛る鎖に軽く当てた。すると一瞬にして鎖達がバラバラに分解され、彼女の四肢に纒わり付くそれらも次々と同じ道を辿っていく。
「だって! 貴女も私の餌でしか無いのですもの! アハハハハッ!」
彼女が刀を構え、隣さんの元へと突撃を仕掛ける。槍のように突き出された刀が、隣さんへと向かう。
「気を付けて隣さん! 彼女の刀の刃は触れたものを何でも殺してしまうんだ!」
「あら、それなら大丈夫ですね」
彼女は背中から天井に鎖を伸ばした。それは電灯に巻き付いた後に、無川に向かって伸び、彼女の刀を持つ手首を絡め取った。
「っ!?」
無川の顔に、動揺が走った。まさか手首というピンポイントで縛られるとは思わなかったのか。隣さんがその鎖を引っ張ると、滑車のように無川の腕が上に持ち上げられた。刀はまだ握っているが、当然の如く減速。
「今です、貫太君」
「わ、分かった!」
『動くな』と刻まれたナイフを生成し、投げ付ける。無川は持ち上げられた右手に気を取られ、こちらのナイフを防ぐ事をしなかった。
僕のナイフは真っ直ぐに彼女の体を貫いた。
いつもなら、彼女は動きたくないという漢書に囚われ、活動が困難になるだろう。
「──ハッ」
だが、彼女が浮かべたのはネジの飛んだ笑いだった。
嫌な予感が僕の頭に駆け巡った数秒後、彼女が何の苦もなく刀を器用に回転させ、鎖を破壊。そのまま僕のナイフも刀で消し去る。
「な、なんでだ! なんでそんな簡単に動けるんだ! 僕のハートは確かに君の心臓を刺したはずだ!」
動揺に駆られるままに言葉を紡ぐ。裏返りそうになるのを必死に抑えるが、情けない声である事に変わりは無かった。
不気味に笑う彼女は、答える。
「私は何にもしてませんわぁ。貴方のハートの力が弱過ぎるだけ。いえ……前より弱くなっていますわぁ。意志が篭ってませんわよ。貴方のハート」
意志の強さ。それがハートの力の強さに直結する。つまり、僕の意志が、弱いという事だ。
「こんな意志で私に挑もうなんて……十年早いですわよ!」
彼女の刀が、再び迫る。
ああ、避けなきゃ。この速さならまだ避けられる。脳内を回転させているところに、こんなセリフが飛び込んでくる。
「テメー、足でまといだな」
無川の冷えた言葉が、僕の心に突き刺さる。
そしてそこから、あの言葉がフラッシュバックする。
『意志の無い人間が、あの殺人鬼に抵抗できるとは思えない。ハッキリ言おう。意志のない君が居ても、邪魔なだけだ』
それは、僕の体を硬直させるには、十分過ぎる言葉だった。そして、刀が目前に迫る。
「危ない!」
何かが、腰に巻き付いた。そして、後ろに引っ張られる感覚。そのまま減速するどころか加速し、無川の姿がどんどん遠くなっていく。
「あ──」
スライド式の窓が開く音がした。そして、開かれた窓を通り抜け、そのまま外へと躍り出る。窓には鎖が這っており、これが窓を開けたんだなと理解した。
それと同時に、自分が外に放り出され、これから落下する事もまた、容易に想像出来た。ここは三階。下手すれば地面までは15m程ある。落ちて無事では居られまい。
だが、それでも、
「逃げて! 貫太君!」
窓枠の向こうに居る彼女へ、手を伸ばさずには居られなかった。
僕を外へと放り出した張本人の名を、呼ばずには居られなかった。
「……り……ん……さん?」
そして、視界が一気に動き始める。
どちらにせよ、大怪我はするだろう。だが、殺されるよりはマシと判断したのかもしれない。
どうして、僕を外に放り出したのか。彼女が一人だけでも無川に勝てるなら、こんな事をする必要は無い。僕の心が殺された後に、アイツを倒せばいいのだから。
だがそうしなかった。つまり、彼女は分かっているのだ。自分一人では、僕とでは、無川を倒す事は出来ないと。
「そん、な」
また、失ってしまう。
だが無情にも、僕には地面が迫っていた。
そして、激突。
思ったよりも柔らかい感触ののち、体が少しだけ浮く。それを何回か繰り返した後、僕は完全に停止した。
体には、何一つ傷を負わずに。流石に違和感を覚え、目を開けて周囲を見回す。
僕は蜘蛛の巣のように鎖が張り巡らされた場所に横たわっていた。それはまるでトランポリンのように、僕を何回かバウンドさせ、衝撃を軽減したのだ。そして、こんな鎖が生み出せるのは、一人しか居ない。
「隣、さん」
彼女の名前を呼んだ瞬間、編み込まれた鎖が消滅。そのまま地べたに落下。背中を思いっ切り打ち付けるが、三階から直接ダイブするよりはかなりマシだろう。
「僕を気遣う余裕なんて、無かったのに」
口の中に入った土を吐き出しながら、フラリと立ち上がる。音楽教室は防音設備に優れている為か、一切の音は流れてこない。つまり、彼女が今どうなっているかも、分からない。
もしかしたら、今の鎖の消滅で、心が殺されたのかもしれない。
「……きょ共也君は……」
自分ではどうにもならない。連絡しようと思い、ポケットを漁る。
「無い」
制服の様々なポケットを漁り、探り、引っくり返す。だがそのどれにも、携帯電話は入っていない。
「音楽教室の荷物だ」
そうだ。確か課題を入れる際に、話している途中に鳴っても困るなと、マナーモードにしてカバンに入れたのだ。まさか、こんな所で裏目に出るとは思わなかった。
彼は今、武川小町を尾行している。
行き先を知らない今、僕は彼を呼びに行く事も出来ない。
「ど、どうしよう……」
ダメだ。違う。これじゃない。何回も脳内を間違いが飛び回り、思考をオーバーヒートさせていく。
行動しよう。そうだ。立ち止まっていても意味が無い。共也君を探すんだ。きっと近くにいる。この周辺を探せば、見つかるかもしれない。見付からなくても、仕方ないんだ。でも、やらないよりは、マシなんだ。
なんて考え、近くの壁をぶん殴った。
「ふざけんなよ僕!」
自分の手から、嫌な音が聞こえた。だがそれでも、構わずに自らの手を壁に打ち付ける。
「お前は現実逃避がしたいだけだ! 責任から逃れたいだけだ! 無駄な行動をして、でも頑張ったんだって、自分を慰めたいだけじゃないか! 最低だ! 僕は最低なクズ野郎だ!」
幾ら壁を殴っても、僕は強くなれないし、この事態は解決しない。どう転んでも、意味の無い行動。だが僕はただただ感情をぶつける何かが欲しかった。
「なんで! どうして! 僕には意志が無いんだ! 理由が無いんだ! 強さが無いんだ! なんで、なんで!」
壁に向かって、頭突きをかます。当然痛め付けられるのは、僕の額。そのままズルズルと膝を付く僕。
「僕は、何にも出来ないんだよ」
気が付けば、声が裏返っていた。
鼻をすする、音がした。誰でもない、この僕から。
「何が出来るんだよ」
視界がぼやけて、頬が濡れた。
「嫌だ。傷付くのは、もう嫌だ」
このまま僕はこうしていたい。
こんな風に、ずっと何もしないでここに居たい。逃げもしないし、抵抗もしないまま、殺されて消えてなくなりたい。
「理由なんて、無いんだよ」
手から、何かが、零れ落ちた。
次話>>63 前話>>61
- Re: ハートのJは挫けない ( No.63 )
- 日時: 2018/07/11 20:50
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「兄さん、貫太と連絡が付かねぇ」
「……思ったよりも、事態は深刻らしいな」
三回目のコールも虚しく空振り、大人しく諦めて携帯電話をしまう。武川小町がムカワでないということは、他の場所にムカワがいるということ。そして、貫太と連絡が付かないということは、恐らくそういう事なのだろう。
具体的に言えば、ムカワと貫太が相対している。最悪の事態も想定される。
「共也、目星はついているか?」
「全く。ただ、学校に戻った方がいいってのは分かる」
「……急ぐぞ」
兄さんの声を聞いて、返事をしつつ彼の肩に手を乗せる。ハートの力で距離を省略しつつ、学校へと向かう俺達。
「……貫太、生きてろよ……!」
○
僕な手から零れ落ちたもの。それは、1枚のメモ用紙だった。
愛泥さんが昼休みに届けてくれたもの。これを落としていなければ、僕はもっと早く結論に達していたかもしれない。だがそれはもしもの話でしかなく、現実は現在進行形で最悪の方向へと向かっている。
だが僕はこんな風に、額を壁に擦り付けて、涙を流し鼻をすすり、自分の無力を嘆くしかできない。
「もう嫌だ。どうして、どうして僕がこんなに傷付かなくちゃならないんだ。おかしいじゃないか」
行動するのは、辛い。
刃向かうことは、苦しい。
何もしないのは、何も無い。
マイナスかゼロかで問われたら、誰だってゼロを選ぶ筈だ。
「もういいんだ。これが一番、僕に、負け犬のこの僕にお似合いの結末なんだ」
最後の最後には失敗をする。よくある事だ。気にするな。凡人の僕にしては、今まで上手くやってきた方じゃないか。そう考えて、自分を正当化するのが止められなかった。分かっていても、止めたくなかった。
『おかしいんじゃないのか』
だけど。
それでもまだ、耳に何かが響く。胸の中から、遠く遠く声がする。
『僕は何もやってない。悪い事なんて一つもやってない。なのに、なのに、理不尽に蹴られたり殴られたりして、友達を……傷付けられて……!』
それは、僕の言葉だった。
僕の過去からの、記憶の節々から蘇った声だった。
止めてくれ。
こんなその場の勢いで口にした下らない感情達を、僕に聞かせないでくれ。もう僕を、休ませてくれ。
『出来ないなんか知らない。力があるとか無いとか関係無い』
『そうだ。僕はこのままじゃ殺される。だから僕は超えるんだ』
『自分だ! 僕はこれから、自分自身を! 最も弱いこの僕を! 今ここで乗り越える!』
なぁ僕、お前はまだ、この僕に戦えって、最後の一欠片を振り絞るって言うのかい?
そんな有りもしない一欠片を、絞り尽くせって言うのかい?
それがどれだけ残酷な事か、分かっているのかい?
お前は僕に、何の為に動けっていうんだい?
『友達だから』
夜の風でメモ用紙が飛ばされて、僕の視界をふわりと舞った。
○
「ふふ、自分を犠牲に逃がしたようですが……賢い選択とは言えませんわぁ」
「……ッ!」
ああ、彼は無事でいられただろうか。幾ら咄嗟にとは言え、窓から外へと投げてしまうのは悪かったとは思っている。でも、彼には傷付いて欲しく無かった。
「あのネズミ、携帯電話も置いて行っていますのに……これではお仲間ネズミを呼びに行く事も出来ないでしょうに……ふふ、貴女に勝ち目はありませんわぁ」
「……別に、いいんですよ。私はここで、貴女に殺されようと」
今、私は教室の隅に追い込まれている。私のハート《心を縛る力》は、向こうのトランポリンを編むのに鎖を使い過ぎて限界を超えたのか、今では上手く出すことが出来ない。
一方向こうはニヤニヤとした顔でこちらを見ている。それこそ、ネズミを追い込んだ猫のように。
「だって、彼が生きていれば貴女は倒されるから、……といったところでしょうか。ふふ、健気ですわぁ。嗚呼、昂ってしまいます」
「……ええ、そうですよ。どちらにしろ、貴女が倒される事に変わりはない」
内心を読まれた事は焦ったが、それでも事実は変わらない。彼が逃げて、後日にでもいい。あの友松共也に伝えてくれれば、きっと事態は終わりを迎える筈だ。
だが、向こうは笑みを絶やさない。寧ろもっと濁った笑いを浮かべる始末だ。
「それは困りましたわねぇ……ふふっ」
心底嬉しそうに笑った後に、彼女は言う。
「ではぁ、貴女にそれを防いでもらいますわぁ」
「……何ですって?」
その時、鎖が数本程度だが、生み出せる事が感覚的に分かった。だがそれでも数本。本来私の力は数で押すものだ。迂闊に使うことは出来ない。仕方なく、相手の話を引き延ばそうと相槌を打つ。
「私のハート、《心を殺す力》は切り裂いた人間の心を仮死状態にし、意識不明にする力ですわ。そして、発動のタイミングは自由。切り裂いている最中は勿論の事、切り裂いた後に間を置いてから殺すことも出来ますわぁ」
「……何が言いたいんですか」
「つまりぃ、私はあのチビネズミにこう言うのですわぁ。『他の人間に喋ったら、このメスネズミを殺す』と」
なんて悪質な人間だ。心の底からそう思った。私を人質にして、貫太君を口止めする気だ。それだけではない。きっと、彼女は貫太君を殺した後に、私も殺すのだろう。
「……最低ですね」
「ええ、でも気分は最高ですわよ」
「貫太君が私を人質にした程度で止まると思ってるの?」
「ええ思いますわぁ。あのチビネズミに、人を踏み台にする度胸なんてあるはずがありませんもの。ふふっ、それは貴女が一番良く分かっているでしょうに」
「……どうして、そう思うんですか」
「だって、あのチビネズミを外に飛ばしたのは、アレがビビって此処に戻って来ないという確信があるからでしょう?」
ここまで内心を見抜かれているとは、思わなかった。
「……確かにそうよ。彼がここに、戻って来るはずがないもの」
「だったら気兼ねなく殺せますわね。安心してくださいまし。チビネズミが黙っている限り、メスネズミさんには何も異常はありませんわぁ」
「さっさとして下さいよ」
「あらあら、被虐癖でもあるのでしょうか。意外とそちら側でして?」
「……しないんですか?」
「はぁ、冗談の通じない方ですわぁ。もっと私は、楽しんで殺しをしたいというのに」
彼女が、右手に持った刀を真上に掲げる。そしてゆっくりとこちらに歩み寄る。
自然と息が上がるのを感じる。落ち着け。まずはあの刀をどうにかするんだ。アレを弾いて、その後もう一本で足を縛る。
そうやって足止めしてる間に、貫太君の携帯電話で連絡を取る。多分友松共也の電話番号くらい、入っている筈だ。そこから相手が再始動する前に、場所と名前くらいは言えるはずだ。
「では失礼しますわ」
「そんなのお断りです」
刀を振り下ろそうとした瞬間に、鎖を飛ばして手首を叩く。そしてそのまま刀の刃に鎖を巻き付けて、こちらに引っ張る。すんなりと刀が彼女の手からすっぽ抜けた。
「なッ!」
「油断しましたね!」
更に近くの机と彼女の足を鎖で結ぶ。動けなくなった瞬間、左に移動し貫太君の荷物へ向かう。バックの比較的浅い部分に置かれていた携帯電話を取り出して、驚く。
「これ……私のと違う」
私のものと機種が違ったのだ。いや、機種というか、形状そのものだろうか。私は液晶端末型のものを使用しているが、貫太君のそれは一世代前のもの、ガラパゴス携帯だった。何となく開いてみるが、使用方法こそ訳が分からない。
それでも戸惑いつつ、なんとか電話帳へと漕ぎ着ける。そして、友松共也の名前を見つけた。
「はいそこまで」
瞬間、手首が握られて手の甲に強い衝撃が加えられた。刀の柄で殴られたと悟るのに、十秒ほど要した。その間に、私は足を刈られて転ばされる。その時手から零れ落ちた貫太君の携帯電話が、ドアの方へと蹴飛ばされた。
「ったく、大人しくしときゃいいのによぉ。めんどくせぇ奴」
「な、なんで……」
「オレの刀は弾き飛ばそうがテメーの鎖なんかと同じで何個でも出せるんだよ。射出は出来ねぇがな」
「そんな……」
「大体、テメーがなんか企んでたことなんざお見通しなんだよ」
「……ポーカーフェイスには自信があったんですけどね」
「ああ? テメーの顔なんざ分からねぇよ。オレに分かるのはテメーの息する音。流石に呼吸のペース上げ過ぎ。嫌でもわかる」
そう言えば、彼女はメガネをかけていない。視覚が不明瞭な分、他の感覚が鋭いのだろうか。何れにせよ、私の作戦は失敗した。
「……ま、どうでもいいか。テメーが人質として使えれば……なッ!」
「ぐうッ!」
鳩尾に、靴がめり込んだ。唐突な衝撃に、体の中の空気を外に吐き出す。
「まあオレの精神衛生上の都合で嬲らせて貰うけどな!」
「……貴女……」
「最高だそのカオ。その綺麗な顔面が涙と屈辱でぐちゃぐちゃになるって考えると堪らねぇなぁ!」
「……ッ!」
今度は左手を踏み付けられた。すり潰すかのように足をグリグリと動かす度に、床と骨が擦れて激痛が走る。だがそれでも顔だけは崩さないように表情筋に力を込める。せめてもの、抵抗だった。
「……へぇ。やるなお前。さっきの鎖の力といい、あのチビネズミとは比べもんにならねぇ強い意志がある。ほんとにあんなゴミを庇っちまって馬鹿らしい」
ゴミとは、誰の事だろうか。聞き間違いでなければ、恐らく貫太君の事だろう。
「次言ったら殺す」
気が付けば、抑える前に、敬語を付ける前に、言葉が飛び出していた。恐らく、理由もなく彼を罵倒するのが、許せなかったのだろう。
「…………ハッ、そうかよ」
一瞬だけ怖じ気付いたような表情を見せたのも束の間、彼女は刀を構える。
「まあ、人質になりゃいいか」
そして、私に刀を振り下ろした。
迫る刀が、スローモーションに見える。アレを防がなくては、貫太君は殺されてしまう。だが、背中が床に密着している状態の今、私は鎖を放つ事が出来ない。幾ら意志があろうと、鎖は床が壊せない。
「ごめんなさい」
だからせめて、こう言う。目を瞑って、彼の姿を思い浮かべながら。
「ごめんなさい貫太君。私は、貴方を守れなかった」
彼に謝る。今の私に出来ることは、それだけだった。
「それは違う」
ふと、その言葉が、一本のナイフと共に飛んできた。耳を刺す声。ドアの方から響く、その声。
目を開くと、刀が私の目前で停止していた。そして彼女は、必死の形相で刀を動かそうとしているが、それはその場でカタカタと震えるだけだ。
「どうして」
「どうして、貴方が、此処に居るの」
口にせずには、居られなかった。
だって、彼はここにはいないはずだ。恐れて、怖じ気付いて、此処に戻って来ないはずだった。だから落とした。逃げてくれるように、そう仕向けた。私は彼の事を、信じていた。
だが、彼は裏切った。
「テ、テメーは……!」
彼女がそう叫んで、ハッとした。横に転がって、刀の軌道から逃れる。少し距離を置いて、ムカワを挟んで反対側にいる彼の姿を、改めて見る。
酷く涙を流したのだろう。目元を真っ赤に泣き腫らしている。目も少し赤い。というかまだ、若干涙を目に浮かべている。瞬きをしきりに繰り返す彼は、何とも格好が付かない。
その手は何故か赤く腫れていて、右手を左手で抑えていた。何があったのだろうか。何れにせよ、格好良いとはとても言えない。
ガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうな、その貧弱な足は、見ているこちらが情けなくなりそうな程に弱々しい。
ああ。なんて無様で、惨めで、弱々しくて、情けなくて、格好悪いのだろうか。
「隣さんから離れろ! その子に手を出したら、ただじゃおかない! 僕は君に本気で怒るからな!」
所々、鼻をすするせいで変な声音になったり、裏返ったり、涙でしゃがれていたりする、不安定で綺麗さも欠けらも無いそのセリフ。中学生だって、もう少し気の利いた事を言えるだろう。
本当に、ヒーローとはとても言えない。穴だらけの欠陥だらけ。
だけど。
私は、そんな彼が。
無様でも、惨めでも、弱々しくても、情けなくても、格好悪くても、それでも尚、勇気を振り絞って、必死になって立ち上がる。
そんな彼が、大好きだ。
「貫太君……!」
世界一格好悪くて、世界一格好良い彼の名前を、私は気が付けば、呼んでいた。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.64 )
- 日時: 2018/07/13 06:21
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
ギギギと整備の行き届いていない工業器具のように、ぎこちない動作で体を動かす無川。その刀の刃が、僕の放ったナイフに当たる。瞬く間に塵と化すナイフ。
「……どういう事だ」
「な、何がだよ」
「何故戻って来やがった。テメーがここに居ても、足でまといなんだよ」
その言葉でさえ、今の僕にはズシンと重く心に響く。足が崩れそうになるが、必死になって立ち続ける。倒れるな僕。ここで倒れたら、お前は本当に最低だ。
「状況判断能力まで狂っちまったか? テメーは俺に殺される。このメスネズミも殺される。それに何の変わりもねぇ」
何一つとして、間違いでは無い。
「テメー見てぇな、ゴミクズが来た所で状況は何も変わりやしねぇ。単にメスネズミとテメーの寿命が縮まっただけ」
何一つだって、的を外していない。
「テメー見てぇな理由もなく偽善を振りかざす奴なんざのハート、痛くも痒くもねぇんだよ。負け犬野郎」
だが、この言葉だけは、どうしても見過ごせなかった。
「違う」
「……あ?」
睨まれただけで、膝を付きそうな程の寒気が背中に走った。それでも、身体中に力を込めて、意地でも足裏を床から離さない。
「確かに僕は負け犬だよ。チビで、ビビりで、人の頼みを断るのが怖くて、どうしようもないくらい、弱い。そんなことは百も承知だ」
僕が負け犬なんて知ってる。僕が弱いなんて知ってる。何回再確認させられたと思っているんだ。
「今だって、怖くて怖くて堪らない。足だって震えてる。逃げ出したいって、傷付きたくないって、そう思ってるんだ」
「でも、それ以上に、逃げ出したくない理由がある。傷付いて欲しくない人がいる」
僕には、理由がある。
共也君や見也さん、無川等などとは、比べものにならないくらいに、幼稚でチンケな理由だ。きっと、誰もが失笑するだろう。
なら、笑えばいい。
僕の理由を聞いて、笑いたいだけ笑えばいいさ。僕には生憎こんな理由しかない。
だけど、絶対にこの理由は曲げない。例え世界中の人から笑われたって、晒ものになったって、この理由だけは曲げられない。
吐き出せ。その理由を。
「君は、誰かの大切な人を傷付けた」
彼女は、八取さんを、心音さんを傷付けた。
「君は、僕の友達を傷付けた」
彼女は、浮辺君を、観幸を傷付けた。
「そして今、君は」
一瞬だけ躊躇ったが、構うなと勢いのままに言い切る。
「僕の、大切な人を傷付けようとしている」
愛泥さんの顔が、驚きに染まった。
今は生憎、それを気にしている時じゃない。無川の顔を見つめて、言葉を続ける。
「僕は、それを見過ごせるほど、大人じゃないんだよ……!」
おい神様。もし僕のこの声が聞こえているなら、一つだけ頼み事を聞いてくれ。
どんな結果でもいい。例え僕が死んだって構わない。
「だから、僕は君を勝たせる訳にはいかないんだ! 何としてでも! 友人の為に! 大切な人の為に! 今ここで! 君を倒さなくちゃあならないんだ! 例えこの身を投げ出しても! 守りたい人が、守らなきゃあならない人が! 今確かにここにいるんだ!」
どうかこの僕に、この殺人鬼から彼女を救わせてくれ。守らせてくれ。負け犬に、たった一つのおこぼれを勝ち取る為の、ほんの僅かな力をおくれ。
「……そうかよ」
無川は短くそう行ってから、僕の方に跳躍。刀を上に構え、縦に切り裂くつもりだ。
「じゃあテメーは、何も守れないまま死ぬんだなぁ!」
その刀を、僕は防げない。僕のハートでは、直接ぶつけ合わせたって、相殺はできない。
だから、無川本体にハートを放つ。
「止まれ」
その言葉を乗せたナイフが、空を走った。それは彼女の心臓を射抜く。
瞬間、だった。彼女が、ピタリと停止した。
「なっ……!」
「……一つだけ、いい事を教えてあげるよ。無川刀子」
僕は停止したまま動かない彼女に接近し、そのガラ空きの腹部に、全力を振り絞って拳を打ち込んだ。
「ぐあッ!」
「今の僕と、さっきの僕が同じ『僕』だとは思わない方がいい」
僕の拳は弱い。それこそ、共也君の拳には遠く及ばない。ましてや相手は無川だ。あの心音さんの作った巨大な土人形の攻撃でさえ、何発も耐えた人間だ。一撃で倒せるなんて思っていない。
「君がどうして殺しをしてるかなんて、僕は知らない! だけど君は僕の大切な人たちに手を出した!」
「テ、メェ……!」
「許さないからな! 僕は絶対に許さない! 例え君が謝っても、もう遅いんだ!」
何度も何度も、鳩尾を殴る。その度に無川の顔がどんどん憎悪で染まっていく。
「図に……乗るんじゃあねぇ! チビネズミ如きがぁ!」
彼女が叫んだ瞬間、弾かれるようにして僕のナイフが抜けた。そして、殴ることに必死だった僕の顔面に、彼女の鋭い右ストレート。顔面に直撃し、僕を数メートル吹き飛ばす。浮遊感の後に強い衝撃が背中を襲った。
なんて意志が強いんだ。心に刺さったナイフを、心だけで弾き飛ばすなんて。
「か、貫太君!」
「だい……丈夫だから……! 君は……来ちゃダメだ……!」
壁まで吹っ飛ばされた僕。丁度愛泥さんがいる近くだった。僕には駆け寄り座り込んだ彼女。こんな情けない姿は見せられないと、意地を張って立ち、彼女の前に、無川から彼女が見えないようにする。
「……なんだ、そのハートの強制力はよぉ! テメーのハート、効力が段違いじゃねぇか! 前よりも遥かに強ぇじゃねぇか! 今まで手抜きだったのかよクソネズミがぁ!」
「違う! これは僕の意志の変化だ! 僕の決意の証だ! 僕を怒らせた君を、何としてでもぶっ倒してやるっていう決意のね! 例え君は泣いたって、僕は君を殴るのを止めない!」
「オレが泣くだぁ!? 寝言は寝て言いやがれクソネズミがぁ! そのムカつく喉元から掻っ切ってやるよぉ!」
無川の刀が、再び迫る。当然のように、僕もナイフを飛ばした。
「甘ぇんだよクソが!」
ナイフが刀で切り飛ばされる。粒子と化したそれを傍目に、僕は目を瞑る。
思い浮かべる数は、十本。
「これならどうだぁ!」
僕が無川に向かって指さすと、その腕を取り巻くかのようにしてナイフが十本出現した。それぞれに『止まれ』と刻まれている。
そして、ガトリングのようにナイフが射出。それらは一つ一つにほんの僅かな時間差を付けて無川に飛んでいく。
「ハッ! 同じ手が二度も通用するかよ!」
無川が飛んでくるナイフに向かって手をかざす。一瞬の後に、無川の手の周りに何本も刀が出現した。それら自体は動くことは無いが、ナイフが何本もそれらによって弾かれる。だが、隙間を通り抜けるナイフもある。
しかし、数の減ったそれらでは無川に容易に弾かれてしまう。
「なら……もっとだ!」
出し惜しみするな。ありったけの数を用意する。その数、二十。先程の二倍だ。これなら無川に一つくらい当たってもおかしくない。今の僕のハートなら、ナイフ一つさえ刺してしまえば、動きを止められる。
「いっけぇぇぇぇぇ!」
僕の叫びと共に、一斉放射。
「効かねぇなぁぁぁぁぁ! 三下野郎がぁぁぁぁぁ!」
だが無川も黙って受ける訳では無い。彼女は更に左手にも刀を召喚。二刀流だ。刀の壁を抜けたナイフ達を、一つ残らず正確に殺していく。
「……くっ!」
「それで終いかぁ!? クソネズミにしちゃあ上出来だったぜ!」
「……まだ、まだぁ!」
脳を焼き切れ。限界を越せ。ここで無茶しなくていつ無茶をする。視界が少しだけ白く霞むが、それでもハートの力を使うのを止めない
「ぐぅっ……!」
頭がパンクしそうな程に痛い。今にも蒸気が飛び出しそうな程に、熱い。
「ぐぅぅぅぅぅ……ぁぁぁぁああああああああ!」
「貫太君! しっかりして下さい!」
真っ白な視界の中に、彼女言葉だけが響く。焼き切れそうな感覚の中に、彼女の手の感触を覚える。
その行動は、僕が歯を食いしばって堪えるには十分過ぎる力を持っていた。僕が無茶を重ねる度に、また一つ、また一つとナイフが現れていく。
「あああああああああああ! これが僕の! 全力だぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
何本かは分からない。たた間違いなく先程よりも多い数のナイフが無川目掛けて飛んでいく。
「この……ネズミ野郎がああぁぁぁぁ! こんなチンケなモンでオレが倒せると思ってんのかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
視界が、段々と戻ってくる。目前では、次々と発射される僕のナイフが、次々と無川に弾かれていく。
こちらはもうナイフを作り出すなんてできない。だが、向こうも疲れが見えてくる。ここでナイフを防げなければ無川の負け。ナイフを防ぎ切れば、無川の勝ちだ。
「しまった──」
遂に疲れが見え始めた無川が、一本のナイフを弾くつもりが、空振った。そのまま、心臓に突き刺さるそれ。
「あぁぁぁぁぁぁっ! 何故動かねぇオレの体ぁ! こんな奴のハート如きで! こんな奴の意志如きで!」
「ああそうだ! 君はこんな奴の、チビネズミのハートに負けるんだよ!」
停止した彼女に向かって、走り出す。その距離は5mと無い。あと数秒すれば僕は彼女に到達するだろう。
「ふざけんじゃぁぁぁぁねぇぇぇぇぇぇぇ! クソネズミぃぃぃぃぃ!」
だが彼女はそれでも体を動かそうとするのを止めない。僕のハートは感情に働き掛ける。人は理性で考えて感情で動く生き物だ。だが、彼女の理性は、狂気に染められたそれは、感情すら超えそうな勢いだった。
「もう解除はさせない!」
彼女が手に生成した刀を蹴り飛ばす。吹っ飛んでいくそれを傍目に、無川の顔面に一撃。クリーンヒットするが、彼女はそこから自分の意思で動くことが出来ないままでいる。
「謝るなら今のうちだ! 今なら僕はまだ! 君を許せるんだ! 君を殴るこの手を! 止めることが出来るんだ!」
何回も何回も、無川の顔面を殴りながら言う。本当はこんなことをやりたくない。拳を当てる度に、胸の中がズキズキと痛む。それは数を重ねる毎に、痛みを増していく。人を殴ることがこんなにも辛い事なんて、知らなかった。
「お願いだ! 僕はこんなことを望んじゃない! 今ならまだ、僕は君を許しはしないけど、君を助ける事は出来るんだ!」
数回ほど拳を打ち込み、もう一撃放とうとした時だった。
「……テメェ……! ふざけんな……! このクソネズミ野郎が……! テメェは、オレの最後の矜持まで踏み躙る気か……! 許さねぇ……! 殺す! テメェだけは必ずぶっ殺す! 殺してやらぁ!」
その迫真のセリフたちに、思わず気圧された。殺すという単語が出る度に、手に汗が滲む。
「この……! クソがぁぁぁぁぁ! さっきから変な感情撒き散らしてんじゃあねぇぇぇぇぇ!」
無川の絶叫と共に、彼女の上に刀が何本も出現。それらは全て無川の肩やら腕やらに突き刺さる。
「なっ……!」
唐突な自傷行為に驚く事しかできない僕。自爆か? などと思っていると、その光景に驚かされた。
彼女の体がフラリと傾く。無川の目は閉じられていた。
「まさか自分を殺したのか!? で、でもなんの意味が……!」
すると、彼女の心臓に刺さっていたナイフが、まるで拠り所を無くしたかのように抜けて消えた。
驚きに囚われていた一瞬。完全に油断していた。そして、それを逃すほど無川は甘くなかった。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
その突き出された刀は、僕がナイフを作って飛ばすよりも一瞬早く、僕の体を突き刺した。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.65 )
- 日時: 2018/07/14 09:22
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「乾梨さ……なん、で」
自分の肩に突き刺さる刀を呆然と見つめながら、そう呟く。血は出ていないし痛くもないが、ただ冷たいという感覚だけがそこから広がる。
「オレは無川だ。……テメェのハートは心に言葉を突き刺すハート。だろ?」
「なぜそれを……!」
「んなもん何回か食らったら分かるだろうがよ」
僕はこの時、やっと理解した。この無川刀子という敵は、力は勿論のこと、恐れるだけの価値はあるほどの洞察力も有しているのだと。それこそ、数回ハートを受ければ簡単に看破してしまうような。
冷たい言葉と共に、鳩尾に靴底が食いこんだ。圧迫された腹から空気が飛び出す。力が刀にどんどん吸われていくような感覚を覚え、遂に膝を付いて倒れた。僕の体は、もう動きそうにない。もしかして、僕の体の力を殺したのだろうか。
でも、どうして僕の心を殺さないんだ? それだけが疑問だ。さっさと殺せばいいのに。
「貫太君! しっかりして下さい! 貫太君!」
僕の視界の隅に映るのは、僕の大切な人の泣いた顔。なんてらしくないんだろう。そんな表情、全然似合ってない。だけど、彼女がこっちに近付かないように、必死になって、こっちに来るなとジェスチャーをする。
「次はテメーだよ、メスネズミ」
無川が隣さんに刀を向けるが、彼女は無川の方を一切見ない。ずっと、僕だけを見ている。ダメだ。君まで殺されてしまう。
今は彼女に逃げて欲しかった。だけど、彼女がここで逃げない事も、既に僕は理解していた。
「逃……げて……隣さん……」
「貴方を置いて、逃げるなんてできないに決まってるでしょう! まだ分からないんですか!」
分かっていても、そう言わずにはいられなかったんだよ。
彼女はこうなったらどこまでも頑固だ。多分、僕の言葉程度ではそこから動きもしないだろう。
「まあそこで見てろよ。テメーの目の前で今に殺してやっからなぁ」
無川がそう言って、刀をゆっくりと上に掲げる。
無川は、僕に隣さんを殺すところを見せたいらしい。それ自体は、彼女の趣味のようなものだ。だが、僕をこうやって倒す必要が何処にある? 僕なんて放っておいて、彼女を殺せばよかったじゃないか。
つまり、彼女は僕を止めておきたかった?
僕が動かれては、困る理由があった?
ではそれは、なんだ?
「……はは。そっか。そういう事なんだ」
思考がスッキリした事による安心感から、つい独り言を口走ってしまう。
「……あ?」
それに無川が釣られ、僕の方向を向いてくれたので、むしろ好都合だった。
「無川刀子。君は」
そういう事なんだ。彼女が僕をわざわざ動けなくした理由。それは単純明快なものだった。
僕は彼女に言う。きっと、彼女が抱いている感情の事を。
「僕が、怖いんでしょ?」
瞬間、彼女の笑みが軽く引き攣ったのがハッキリと分かった。
「君は僕のハートに動揺してた。力が強くなったからかは知らないけど、君は僕のハートを受けて思ったんだ。恐ろしいって」
「違ぇ」
「受けたくないって、あんな恐ろしいものを使う奴が居たら安心できないって」
「違ぇっつってんだろ!」
彼女が声を荒らげるが、僕は構わずに続ける。この言葉、絶対に最後まで言ってやるんだ。
「いいや違わないね! 君は怖かったんだよ! 僕みたいなチビネズミのハートが! たかがこの位のちっぽけな理由しか持ってない奴の意志が! 僕の決意に、君は精神的に負けたんだ!」
「……テメェ……!」
無川がこちらに接近し、腹部に何度も何度も靴底がめり込ませる。苦しい。息ができない。死にそうだ。
だけど、最後の維持で、捨て台詞だけは吐かせてもらう。歯を食いしばって、腹部の痛みを我慢して、腹の底から声を出す。
「いいか……もう一度言ってやる……! お前のその耳が節穴じゃないと思って……もう一度だけ言ってやるぞ……!」
無川が心の底からの怒りを爆発させそうな表情で、僕の事を睨み付ける。だから僕は、その顔に吐きつけてやった。負け犬の遠吠えを。
「お前はこんなチビネズミが怖いんだ! お前が嘲る相手に心で負けたんだ! お前の意志は僕のワガママに負ける程度のものなんだ! 僕より何倍も強い共也君に!お前なんか勝てるわけ無いんだ! 彼に倒されたお前が三途の川にやって来るのをあの世で楽しみにしておいてやるよ!」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! 黙りやがれクソチビネズミ野郎がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
彼女の刀が、何度も何度も僕を切り付ける。具現化されていないそれは、僕の心に冷たさを刻みつける。それが触れる度に、体温が奪われる感覚がする。
僕を彼女が切り付け始めて少しした所で、彼女が息を切らして刀を振るうのを止めた。少しの汗が、顎の先から零れ落ちた。
そして、彼女のハートの力が発動したのだろうか。意識が朦朧とし始め、視界が徐々に虫食いになっていく。自分の意識が、どんどん遠のいていく。
「……無川刀子。君は一つ、間違えたんだ」
「……はぁ…………はぁ…………」
息を切らしながら、僕を怒りの熱線で射抜く彼女。
「……僕は……君との小競り合いに勝ちたかった訳じゃあない……限りなく引き伸ばしたかっただけだ」
「……はぁ……はぁ…………なんだと……?」
「……勘違いしている……何も……僕は最初から勝ちたかった訳じゃあない」
僕は、ポケットに隠していたものを、最後の力を振り絞って、隣さんの方に投げ出した。
「これは……!」
無川が驚いたように、隣さんが恐る恐る持ち上げたそれを見る。
それは、僕の携帯電話だ。
通話中になっている、僕の携帯電話だ。
「……君は僕に勝とうとした。……そして君は僕を負かせた。……だけど……僕も元からそのつもりだったんだよ」
それは既に、僕が音楽教室に入って、足元に転がっていた携帯電話を拾った瞬間から始まっている。今もまだ、続いている。
「……彼には君との約束も伝えてある。話場所の、スポットなんて、限られてる……君の名前さえ出せば……ここが容易に特定できる」
視界が完全に真っ暗になった。まだ耳が聞こえるうちに、僕は最後に言い残す。
「……いいか……僕は……喜んで負け犬になる……!」
最後の力を振り絞って、必死になって言ってやる。負け犬なりの、最後のプライドを見せてやる。
「君は僕との小競り合いに勝てばいいさ! そして! 彼との勝負に負けるんだよ!」
僕は最後に、きっと彼が居る方を向きながら言った。
「後は頼むよ……共……や……く……」
そして、全ての感覚が消えた。
「確かに受け取ったぜ。貫太」
その一言を、最後に。
次話>>66 前話>>64
- Re: ハートのJは挫けない ( No.66 )
- 日時: 2018/07/15 19:44
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「乾梨……いや……」
携帯電話から流れてきた情報を頼りに、本当の名前を呼ぶ。
「無川刀子。か」
それに対し、相手はイライラした様子でこちらに相対する。いつも余裕のある印象が深かった彼女と比べると、その姿は何倍も恐ろしさが薄れている。
「……このチビネズミ……! 最初から最後まで害虫みてぇに……!」
「観念しねぇか。無川。もうテメェにはねぇんだよ」
足元に転がる意識不明の貫太を睨み続ける彼女に、言う。
「ここから逃れる手段も、俺達から逃げる手段も、お前を助けてくれる奴もな」
「テメェらなんざ……! すぐに殺してやらぁ……!」
「落ち着けよ。いつものエセお嬢様口調はどうした? 脅し声にも迫力ってもんが欠けちまってんじゃあねぇか?」
「黙りやがれ! 何なんだよテメェらは!」
怒り狂ったように、言葉を撒き散らす彼女。ここまで人は崩れるのかと思うと同時に、ここまで彼女を追い詰めた友には軽く敬意を抱きそうだった。
「……俺はダチだ」
「……あ?」
「テメェが今まで殺してきた奴らの、ダチだ。俺はダチ公共が殴られて、黙っていられるようなおりこうちゃんじゃあねぇ! 覚悟しやがれ無川ァ!」
俺がそう言って、一歩踏み出そうとした時だった。
誰かが、俺の肩に手を乗せた。俺の背後に立っていた人物といえば、一人しかいない。
「……なんだよ、兄さん」
そう、兄さんだ。わざわざ止めたということは、何かあるのだろう。彼の表情もまた、そう物語っている。
「共也、下がってくれないか」
「……なんだと?」
この場でこう言った発言をする兄を珍しく思った。だがそれは俺の苛立ちとは関係ない。コイツには、キッチリと落とし前を付けさせなければならない。
「お前の感情も分かる。だが、お前の役目はもう少し後だ。ここで万が一、倒されてしまっては困る」
相変わらず言葉足らずもいい所なセリフだ。だが、言わんとすることは分かる。
「……俺のハートで精神への干渉でもする気か?」
「その通りだ。奴の目、完全に暴走している」
彼女の目は紅に光っている。が、以前に比べて若干だが弱くなっているようにも思えた。
「ここでお前に、退場してもらう訳にはいかない」
「だけど」
「何より、だ」
兄さんは、ネクタイを勢い良く外し、その辺りに放り投げて言った。
「俺はまだ奴に、一度も引導を渡してないんでな」
「……そういう事かよ。いいぜ。譲ってやる」
「感謝する」
そして灰色のスーツの上着を脱ぎ捨てた兄さんは、ワイシャツ姿になり、無川の前に立つ。その距離、およそ5m。
「……誰だテメェ」
「俺の名は友松見也。そこにいる友松共也と、お前と相対した友松心音の兄だ」
「……じゃあ、期待出来んだろうなぁ!」
無川の奇襲にも、兄さんは全く動じない。冷静に刀をかわして、逆に距離を詰めた。刀を振るうには近過ぎ、拳を届かせるには十分過ぎるその距離まで。
「いいだろう。期待に答えてやる。ただし」
その拳が、無川の鳩尾に叩き込まれる。空気を吐き出す音と共に、軽く痙攣を起こす無川の体。
「キレた俺は、手加減出来ないが、許せ」
瞬間、彼女が咄嗟に飛び退く。咳き込む彼女が再び刀を向けるが、その姿は余りに弱々しい。
「……その程度、か」
「……この野郎ッ……!」
瞬間、無川と兄さんの距離を詰められる。縦横斜めと刀を振るわれたが、兄さんは余裕で回避。攻撃されるどころか逆に無川の懐に潜り込んだ。彼女の表情が、驚愕に染まる。
「な、なんだテメェ! 何故攻撃が当たらねぇ!」
「見え見えだ。そんな太刀筋。欠伸が出るな」
兄さんが、無川の胸倉を左手で掴み上げる。難無く彼女の体を持ち上げた彼は、右拳を握りつつ、言った。
「この一発は、俺の分だ」
そして、この拳が無川の顔面に捩じ込まれる。捻りを加えたその一撃が、無川の顔面を作り替える勢いで変形させた。だが、兄さんはまだその胸倉を離さない。
「そしてこれは、青海の分の一発」
再び、兄さんの拳が無川を襲う。今度は防御しようとした彼女右手に直撃。軽快な音が響くと共に、無川が悲鳴を上げた。恐らく、折れたのだろう。
「そして、この一発は心音の分だ」
三回目の拳が、放たれた。それは無川が顔面を庇う前に、最高速度でそれを撃ち抜いた。全力で放たれたそれが無川を引き剥がす。彼女はそのまま壁に激突。彼女の目が見開かれ、その口から声として成立していない悲鳴が放出される。
余りに、一方的だった。
俺は初めて見たのかもしれない。
自分の兄の、本気の怒りと言う奴を。
「無川刀子。お前は俺に火を付けた。それが、お前が俺に手も足も出ない理由だ」
「クソ……が……!」
「……大人しくしているんだな」
兄さんが、放り投げた上着とネクタイを拾い上げる。壁に背を預けるボロボロの彼女に、もう手出しは不要と判断したのだ。
「ナメてんじゃあねぇ! 死ねぇ!」
無川がふらふらと立ち上がり、兄さんに向かって走り出す。その目は怨嗟だけを映し出していた。
そんなんだから、周りが見えないのだ。自分の背後に立っていた人間のことすら、忘れているのだ。
「死ぬのは、貴女ですよ」
彼女の手に、鎖が巻き付く。そして刀が引き剥がされた。このハート、一度見たら忘れもしない。無川の背後に立つ彼女──愛泥隣は、無川の首に鎖を二重三重と巻き付けた。
「メスネズミ……! 黙って見てると思ってりゃテメェ……!」
「貫太君を返しなさい。じゃないと、本気で殺しますよ」
「誰が……テメェ……なん……ぞ……に……!」
愛泥は容赦なく鎖の両端を引っ張り、無川の細首を圧迫していく。無川は両手が床から伸びる鎖に引っ張られているため、ロクに抵抗することすら許されていない。
「……クソ……! こん……な……所……で……! この…………オ…………レ……が……」
その言葉を置いて、彼女はカクンと首を傾けた。
「……意識が消えた」
兄さんがボソリとそう呟く。彼が言うのならば、間違いは無いのだろう。
思えば、かなり呆気のないものだった。あれほどまでの脅威だったものが、来てみれば追い詰められており、兄さんがあまり苦労もせずに倒した。それまでの過程で何があったか知らない俺からしてみれば、拍子抜けとしか言いようがない。
そう思った、矢先だった。
何が、視界の端っこで煌めいた。
「……あ……れ……?」
愛泥がこのように、唐突に疑問を持ったような声を出した。
そちらを見て、驚いた。
無川の身体中から、刀が生え始めている。それは真っ先に近くにいた愛泥を突き刺したのだ。そして、ハートの力とは違い、彼女の刺された場所からは、赤い何かがシミ出している。
それが血液だと理解するのに、一秒も掛からなかった。
「愛泥! しっかりしろ!」
「……私の……意識が……?」
愛泥がそのまま仰向けに倒れ込む。血を撒き散らしながら、彼女は目を閉じた。
「オイ! 愛泥! 何があったんだよ! オイ!」
だが、その目は開かれない。
いくら何でも、意識を失うのが早すぎる。明らかに自然ではない現象。つまり、ハートの力だ。無川の《心を殺す力》だ。
「……その女子生徒、心が殺されている。……どうやら、物理的作用がありながら、ハートの力も付随しているらしいな。この怪物」
怪物とは、まるでハリネズミのように全身から刀を生やす無川の事を指しているのだろう。これは最早、怪物としか呼びようがなかった。
「な、なんだってそんな無茶苦茶が……!」
「分からん。ただ言えるのは、何にでも例外はつきものであることだ」
そう言っている間にも、無川の身体からどんどん刀は溢れ出す。それどころか、彼女は自分の足元に血の池を作っていた。みれば、身体中から少しずつ血が垂れているのだ。服にも、所々血が滲み始めている。
「共也! コイツ、ハートの力の反動に肉体が耐え切れてねぇぜ! 五分も持たずに出血死してしまうぞ!」
「……暴走……!」
浮辺の件を思い出す。彼は周囲を無差別に偽るものと化していた。ならば、無川が周囲を無差別に殺す存在になったとしても、なんら不思議ではない。そして、彼女の対象が自分自身を含んでいたとしても、なんら不思議ではない。
「……兄さん、離れててくれ」
「共也? お前まさか」
「……まだ一回も、俺は何にもしてねぇ」
俺は文字通り刀まみれとなった無川に近付きながら、言う。
「俺だって何かしなくちゃあならねぇんだ」
無川の刀にそっと触れた。そして繋げる。その奥にある心と、俺自身の心を。
「待ってろよダチ公共! 今この俺が! この友松共也が! 引き摺ってでも連れ戻してやっからなぁ!」
そして、俺の意識は真っ暗に落ちた。
次話>>67 前話>>65
- Re: ハートのJは挫けない ( No.67 )
- 日時: 2018/07/16 17:14
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
あの感触。今でも覚えている。
柄は握ってみると簡単には滑らないような装飾が施されていた。刀というのは見た目以上に重いものだった。鞘から刀を抜く時、意外と力が要ると気がついた。そして魅入られた。その刃の美しさに。
抜いた途端、目の前の奴が急に大声で叫び出すから、パニックになってめちゃくちゃに振るった。今思えば、あんな振り方で人を殺めたのか本当に疑わしい。
だが事実は変わらない。相手がたまたま酒に溺れていた事もあってか、刀は簡単にアイツの腹を切り裂いた。
今でも覚えている。肉に差し込む感覚。動きにくくも少し力を入れると布を切るようにスッと刀が流れていく感覚。そして放たれる、血の雨。
私は魅入られた。その血を纏った、刀の輝きに。
私は取り憑かれた。その時点からの過去の自分に。
「……違う……私は乾梨透子……殺人鬼なんか……じゃない……」
そうして今日も、『私』が笑う。
「いーや違うね」
私が『私』を、嗤う。
「テメェはオレと同じ、殺人鬼の無川刀子だ」
○
目を開けると、真っ先に視界に映ったのは、真っ白な地面だった。うつ伏せで倒れているらしい。膝を付いて顔を上げる。
「ここが……無川の心……か?」
ただ、それは明らかに、俺が今まて見てきたものとは違うものだった。
世界が、分かれている。赤い領域と、白い領域に。白と赤の比率が三対七といった所か。その境界線は、空にまで伸びており、白い空と赤い空の二つがあった。
「……なんだって、こんな二つに分かれてやがる……」
確かに、人によって風景の色が違うのはよくある事だ。だが、ここまで対照的に違う色なのは、珍しいの域を超えて、異常だ。
「……アレが、核だな」
遠くに見えた一本の木。それは境界線のちょうど真ん中に配置されている。それに駆け寄る俺。数m程まで近付くと、その木もまた、赤と白の真っ二つの色に分かれている事に気が付く。
そして、白い幹の方には寒色の葉ばかりが付いており、赤い幹には暖色、しかもドギツイ赤などばかりだ。オレンジや黄色のような、所謂幸せの色は全く無い。あるのは怨嗟とか、そういった感情を示す葉ばかりだ。
「……あ……その……えと……?」
困惑したような声が、木の向こう側から聞こえた。その声は確かに無川と同じものではあるが、何処か本質的に違うものを感じた。声音の雰囲気というものだろうか。
木の向こう側から出てきたのは、無川刀子──いや、乾梨透子だ。アイツとは顔や身長そこ同じなものの、メガネやカチューシャといったものを付けており、その手には物騒な刀などは握られていない。
そして、その瞳の色は濁りきった血液のような紅色ではない。透き通るような茶色だ
「……どうして……と言うか…………ここは……?」
思えば、心を繋げた経験が無くて当たり前だ。相手こそ、ここがどこかわからないのも道理だ。最も、高確率で人間は気が付くのだが。直感というもので、ここが自分の心の中であることに。
「……テメェ……俺の言いたいこと、分かってんだろうな」
コイツにはどのみち恨みがある。今更演技を戻そうが関係無い。この拳をこの顔面にぶち込み、ダチ共を連れ戻さなければならない。
だがそんな俺の怒りなど知らないで、乾梨はビクビクしながら俺の言葉に恐れるだけ。
「ひえぇッ!? な、……わ、私が……な、……何を……したって……」
「とぼけるんじゃあねぇぜ! もう演技だってのはバレてんだ! とっとと正体を表しやがれ!」
「な、何言ってるんですかぁ! わ、私……演技なんて……し、て……無い…………の…………に」
だが無川──乾梨は全く身に纏う雰囲気を揺らがせない。どこまでも弱く、張りのないそれ。俺の言葉に泣き出してしまった彼女は、あの殺人鬼とはどうしても結び付かない。
「お、おい! そんな演技するんじゃねぇ……気が滅入るだろうが……」
「……ひどい……こんな……酷すぎます……うぅ」
内心では、俺は困惑していた。何が起こっている? この態度、とても演技とは思えない。
困り果てて乾梨を眺めていると、少しだけ違和感があった。
乾梨の向こう側が、透けて見えた気がした。確かに、彼女を通して向こう側の木の模様が、一瞬だけ見えた気がした。
「……存在が……薄い……?」
心の中での存在が薄い、つまり、魂の密度が薄い。それは、100%純粋な魂ではなく、何者かによって部分的に搾取されていることにほかならない。
「お、おい乾梨、お前一体」
俺が乾梨に声をかけようとした瞬間だった。
「それ以上、『オレ』に近づくんじゃあねぇよ。デカネズミ」
背後からのその声に、耳がざわついた。咄嗟に振り向く。が、ふと違和感を覚えた。今聞いた声は、確かに乾梨そっくりのものだ。だが……若干、高いような気がした。根本的に、声質そのものが。
そして振り返ると、その疑念の原因が分かる。
「……テメェは……?」
そこに居たのは乾梨──ではない、無川だ。メガネもなければカチューシャも無い。その鋭い目付きと赤い瞳は正しく彼女のそれだ。
だが違和感も同時にあった。彼女に比べ、体が幼い。背丈は彼女よりさらに低い。
「見りゃあ分かるだろ。テメェの目は節穴か?」
「だが……」
「魂の容量的に、この体くらいが限界なんだ。大半の魂は、そこの『オレ』が食っちまってっからな」
彼女が指差す先にいるのは、乾梨。
どういう事だ?
何故乾梨と無川がここにいる? 何故、同一の存在の二人が、同時にここにいる?
「テメェがどうやってここに来たか、オレは何となく分かる。直感てやつだがな。テメー、オレを切除しにでも来たか?」
「……ああ。そうだ。お前に取り憑いている精神寄生体を引き剥がして、正気に戻してや……おい、何笑ってんだ。お前」
突如として、無川が腹に手回して笑い始める。心底おかしそうに。救いようのない馬鹿を見つけたと言わんばかりに。
「……くく……アッハハハハハハハハ! テメェなんつーおめでたい頭してんだよデカネズミ!」
「な、何がおかしい!」
腹を抱えて馬鹿にしてくる幼い無川に、腹の底からイライラが湧く。クソ、こんな気分にさせられるとは。
彼女は腹に手を当てつつも、もう片方でこちらを指さす。その顔は、いつに無く笑顔だ。面白くてたまらないといった様子だ。
「あのなぁ、精神寄生体なんざ、とっくの前にオレが殺してんだよ!」
「な……ッ!」
確かに、彼女のハートを考えればそれは容易いことかもしれない。
「それにも気が付かずに……クク……まさかテメェ、オレが精神寄生体とでも勘違いしてたのかぁ?」
「な、ならお前は何なんだよ! 無川ぁ!」
「教えてやるよ」
無川は俺の横を通り過ぎて、乾梨の隣に行く。そして、泣いている彼女の肩に手を乗せて、一言。
「オレは『オレ』の一部。つまり、一つの人格。切り離しようのないコイツの心の一部なんだよ。表の暴走も、オレが起こしてる訳じゃねぇ。根はコイツだ」
「なんだと……!?」
「な、何の話……? あ、貴女誰……? 私みたいな顔して……」
乾梨のその声は、か細くも疑念を抱いていた。まさか、彼女は無川の存在を知らないのか?
無川は乾梨の首に両腕を回し、左手で乾梨の頬を撫でながら言う。それに対し、乾梨は無川とは真逆の表情をしていた。
「そしてコイツは逃げてんのさ。コイツは『オレ』であるという意識から目を背けている。ホントは内心じゃあ理解しているくせに、見て見ぬ振りをしてるって訳さ」
「い、いや、私は」
「お前は『オレ』だ。テメェはただ、昔の自分から逃げてるに過ぎねぇ。ああ構わねぇよ。そうやって逃げてりゃいい。その分オレは見つかりにくくなる。お前の逃避がオレを隠蔽してくれるんだからなぁ」
俺の目には、悪魔にしか見えなかった。幼いとは言え、彼女は依然としてその悪性を秘めている。
「──例えテメェが乾梨の一部だろうが」
だが、そんなことは知ったことではない。
「俺は、テメェを倒して、ダチ公共を引っ張り上げなきゃならねぇんだ」
無川を手招きする。すると彼女はニヤリと口を歪めた後に、乾梨から離れ、その手に刀を出現させる。
「……覚悟しろ」
「おう、やれるもんならやってみろよ。さぁ、早く」
無川はどういう事か、ノーガードだ。その鞘から刀を抜こうともしない。その顔は笑っている。瞳の奥に、包み隠せない狂気があることが、はっきりと分かった。
「……馬鹿か!」
俺は容赦せずに、自分の目の前と無川までの距離をハートの力で省略し、目の前に拳を突き出す。それは無川の鳩尾の前に現れ、そのままそこを撃ち抜く。拳にも確かに、はっきりと、人間の肉の感触があった。
「かはッ!」
そして、確かに息を吐き出す音がした。苦しそうに、呻く声がした。
その光景に、心の底から、驚く事しかできない。
「どういう、事だ」
「どうしたもこうしたもねぇよ。見た通りだ」
だが、殴られたハズの無川は、全く痛がる様子はない。反応はしたものの、その表情は変わらない。代わりに苦しそうに咳き込むのは──乾梨だ。
「何でだ! どうしてお前へのダメージが乾梨に行く!」
「だから言ってんだろうがよ。オレと『オレ』は一心同体って奴。オレの魂のリソースは三割。アイツは七割。オレへのダメージの七割はあっちに行くんだよ! 分かったかこのデカネズミが!」
瞬間、無川の刀が一瞬で煌めく。油断していた、そう後悔した瞬間、肩に激痛。
血が宙に迸った。
「ぐぁッ!」
「チッ、やっぱ三割のリソースじゃあハートの力までは付かねぇな。せいぜい普通の刀レベルだ」
確かに肩が切り裂かれたが、相手のハートが発動する予兆はない。どういう訳か、敵はこちらの心を殺さないらしい。それが、不幸中の幸いだった。
だが、状況は好転していない。
「俺に……選べってのか……!」
無川は、迫る気だ。俺に選択を。残酷過ぎる選択を。
恐らく、乾梨を倒せば無川は倒れる。アイツらは一心同体。消える時は両方消える。
「乾梨とダチ公共を天秤にかけろってのか! テメェは!」
それはつまり、無川を殺す事は乾梨を殺す事に繋がる。無害の乾梨を殺める事なんて、できない。
だが、それらを生かすことは、浮辺や観幸、貫太や愛泥を見殺しにすることになる。そんなことはできない。何のために、俺は今ここに居るんだ。
俺に出来るのは、目の前のせせら笑う小さな悪魔を、睨み付ける事だけだ。
「ああその通りだ! テメェに殺せんのかよ! なんにも罪のねぇ哀れな子羊ちゃんがよぉ!」
最悪だ。
この目の前の嗤う狂気を、俺は舐めていた。
俺は今初めて、目の前の無川という壁の大きさを痛感した。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.68 )
- 日時: 2018/07/19 06:47
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「どうしたさっきまでの威勢はよぉ! ネズミらしく無様に這い蹲って足掻いてみやがれ!」
無川の鋭い太刀筋を回避するのに精一杯だった。いや、それも余裕が無い。徐々に、少しずつだが、俺の体は切り付けられる。彼女の動きが、俺に追い付いてきている。先程までのスピードとは大違いだ。
貫太達の苦労があってこそ、兄さんの圧勝があったのだ。万全の無川の相手は、かなり危険なものだと思い知らされる。今は幸運にも《心を殺す力》が何故か発動されていない。それだけでもまだマシだ。そう思うしか無い。
「うるっせぇなぁ! 生憎こちとら人間なんでなぁ! 考え無しには動けねぇのが人情ってもんだ!」
「考えてどうにかなる問題とほざくたぁ、随分と脳天気な野郎だなぁ! デカネズミ! テメェに残された選択肢は三つだ!」
無川がそれと同時に、刀を振り下ろす。それを躱した瞬間、無川がそのまま胴体を軸に回転。俺に迫る左手に刀が作り出され、俺の肩を斬り裂いた。
コイツ、二刀流とか出来んのかよ!
「ぐぁぁぁぁッ!」
「A! ここでテメェがオレに殺される! B! ここでテメェがオレを『オレ』ごと殺す! C! 『オレ』を殺してオレを殺す! さぁどれだ! どっちにしろテメェは全員なんて救えねぇ! さぁ切れよ! 切り捨てられねぇなら、オレがテメェのその首斬り捨ててやっからなぁ!」
無川の刀が右斜めと左斜めから同時に迫る。後ろに大きく飛ぶと、無川はそのままこちらに二本の刀を投擲。両手で庇うと、右腕には柄が当たったが、左腕には深々と刃がくい込んだ。激痛が腕から脳へと駆け巡る。
「ぐぁぁぁぁッ!」
「だが、もう選択の余地もなくテメェは死ぬみてぇだなぁ! 残念ながらテメェの末路は選択肢A! テメェはここでオレに殺される!」
自分の腕から、刀を引き抜く。ダバダバと血液が溢れるが、あくまで見掛けのもの。これは精神体だ。心が折れるか、致命傷を受けない限りは死なない。
せめてもの抵抗で、俺はそれを笑い飛ばす。強引にニヤケ顔を作り、無川に相対する。
「いや違ぇな! 俺が選ぶのは選択肢D! 誰も殺さずに全員を救うだ!」
「ハッ、んなモンがまかり通る訳ゃねぇだろうがよぉぉぉ! そのまま理想っつー泥沼に溺れて死んじまえ!」
再び刀が作り出され、俺に向かって無川が接近してくる。
「クソ!」
ヤケクソになって、ハートの力で距離を省略し、近付く前にその鳩尾に拳を撃ち込む。少しだけ動きが止まったスキに、一度手を引き抜いて接続先を変える。その先は、無川の首の前。俺はその細い首を、ガッシリと両手で掴んだ。
「……チッ……これは少々効くみてぇだなぁ……」
無川が、苦しそうに顔を歪めた。これならいける。そう思った時だった。
「ただ、アイツは死ぬなぁ? 間違い無く」
意識を逸らそうとしていたのに、その一言で、俺の意識は乾梨の方に向く。心底辛そうな表情で、息を吸おうと必死な、彼女の方へと。
「苦し……誰……か…………す……け……て」
その顔が、俺の心に迷いを生む。こちらに伸ばされた手が、俺の手を弛緩させる。そして、それを無川は見逃さない。無川は一瞬のスキを付いてするりと俺の両手からすり抜けた。
「ククク、中途半端な奴だ。さっさと腹ぁ括れよ。なぁに、コイツが死ぬだけの話だろ? テメェは『オレ』っつー無実の民を殺したその手でダチ公共と握手すんだろ? 人を殺した汚ぇ汚ぇハートで、これからも人を救っていくんだろ?」
「テメェ……!」
「いいじゃねぇか。人を食い物にするなんて当たり前。オレを食らって幸せに生きればいいじゃねぇか! オレのように食らってなぁ!」
その物言いに、俺は言葉を荒げずにはいられない。
「言わせておけば無川ァ! テメェと同じにするんじゃあねぇぜ! テメェのような人情もクソもねぇような! まるで畑に捨てられた野菜みてぇに腐り切った奴と! 他人を比べようってのがまるで間違いなんだよ!」
「ハッ、当たり前だ! オレはテメェと正反対。だからこそ、テメェが気に食わねぇ! テメェのようなただそこにいる人間を理由無しに見捨てられない人間がよぉ! 普通は逆! 全くの逆! 人は理由無しに人を助けなんてしねぇ。だからテメェは立派な狂人だ!」
「俺が狂人なんざどうだっていい事じゃあねぇか! それを言うなら、人は理由無しに人なんか殺さねぇ。理由があっても殺さねぇ奴は殺さねぇんだ! だがテメェは殺す! 理由があろうとなかろうとなぁ!」
その言葉に、一瞬だけ無川の動きが止まった。
そして、彼女は言う。
「ああそうだよ。誰だって、理由無しに殺したりなんかしねぇんだ」
彼女の予想外の発言に、思わず言葉を奪われた。
何故だ。何故そんな事を言う。お前は、お前は無差別殺人犯じゃないのか。
まるで殺人には愉悦以外の理由があると言わんばかりの言い回しに、困惑するしかない。
「だからオレは殺す! 誰だろうが、何だろうが、殺すんだよ! そうしなきゃ、オレの存在意義はねぇ!」
「なんだって、テメェは人殺しなんてしてんだよ! 人を殺さなきゃならねぇ理由でもあんのかよ!」
「うるせぇデカネズミ! オレには、オレにはコレしかねぇんだ! コレだけしかやりようもねぇんだ!」
やはりそういう事だ。
無川は、何か理由がある。
ここは心の中。そして人の形をしているものは皆、精神体でしかない。体という器が無い分、ここでは人は幾らか正直になるのだ。つまり、無川が表では隠していた事が、ここで露呈しているのか?
「だがよぉ……! このままじゃあ不味いんだなこれが……!」
無川に防戦一方どころか、こちらには無視出来ないダメージが着々と積み重なっていく。そろそろ防御も限界だ。だが、無川を消す訳にはいかない。しかし、無川を消さずに止める方法など、何も無い。
「しつけぇネズミだな、テメェは何がしたい?」
「……俺は人を救いたいだけ。それだけ、だ」
「ならオレを救うと思って死んでくれ」
その言葉と同時に突き出された刀が、右腹を貫いた。そして、それを右にスライドさせて腹を裂かれる。
瞬間、視界にノイズがかかったような感覚を覚えた。遅れて、激痛が身体中を駆け巡る。
「ぐぁぁぁぁぁッ!」
ダメだ。埒が明かない。少なくとも、無川は手加減の出来る相手ではない。何か、何かを考えなければ。この絶望的な状況を打開するための、何かを。
「……気に食わねぇなぁ」
「……何がだ」
無川がこちらを見て、つまらなさそうに、と言うよりは、憎たらしくてしょうがないといった表情でこちらを見てくる。
「テメェ、今考えてるよなぁ? どうやったらこの状況を打開できるか、とか」
「……読心術でもあんのかよ」
「知るか。……テメェ、バカか? そんなん、最適解がすぐそこに転がってんだろ」
「……どこにだよ。俺の視点からじゃンなもん見えねぇ」
無川の顔が、変わる。イライラが頂点に達した、怒りの顔へと。
「オレを殺せばいい話だろうが。……いい加減にしろよ……!」
彼女の示した解答は、俺にとって論外なものだった。確かに俺とは違った視点で見た時の最適解ではあるが、俺にとってその解答は最悪解だ。
「それはダメだ。テメェも乾梨も死んじまう」
俺が何気なくそう言った瞬間、彼女がこちらに刀を投擲。それは俺の頭の右スレスレを通って、視界の外へと消えて行った。
「もうそんな状況じゃねぇってのが分かんねぇのか。テメェはオレを殺さなきゃ死ぬ。オレはテメェを殺さなきゃ死ぬ。そういう状況だってのが、分かんねぇのかよ!」
彼女の物言いは、幾つか違和感があった。ただそれは硬いの無いもので、俺の頭の中をフワフワと漂うだけ。
「うるせぇ。無川刀子」
だが、反論はさせてもらう。彼女の言葉には、許せない箇所がある。
「乾梨には何の罪もねぇ。ンな奴、俺が死のうが殺せるか」
「……狂ってやがる」
無川が、汚物を見るような目で吐き捨てる。彼女は俺が気に入らないようだ。だが特に気にはならない。別に俺は、受け入れられたい訳では無い。
「そいつは結構。ところでだ、無川」
違和感の一つが分かった気がした。それを無川にぶつけて見る。彼女の、矛盾点を。
「何故俺に警告する?」
「……は?」
「おかしいんだよ。お前は俺を殺したいはずだ。なのに、何故そんな警告をするんだ。まるで、俺に自分を殺すように言ってるようなもんだぞ?」
無川の平静が、明らかに崩れた。やはり、精神体であるが故に、彼女の本音が現れやすくやっているのだ。
「な、何言ってやがる! オレはテメェを殺したくて堪らねぇに決まってんだろうが!」
「じゃあ、殺せよ」
俺は両手を広げて、無川にガラ空きの胴体を見せる。間違い無く、俺を殺せるように。彼女なら、一瞬で殺せるはずだ。
「……遂に思考回路まで狂いやがったか……デカネズミ……!」
「それはお前だよ。無川。ほら、俺はノーガードだ。思うままに殺せよ」
表では狂ったように殺しを楽しんでいた彼女の表情が、こちらでは全く見えない。完全に、まるで何かに強いられているかの様子。つまり、表のアレは演技なのか。
それが、ここに来て剥がれている。無川の身体が表に比べて幼いのもあるかもしれない。自分の本音を隠す力が、外見に引っ張られて退化している可能性もある。
無川は全く防御をしない俺を、ずっと驚いたような顔で見つめるだけだ。その刀は、震えている。
「あ、ああああああああああ!」
彼女の喉から、絞り出されるような、悲鳴とも取れる叫び声が放たれた。それが示す感情は、どう考えても、愉悦では無い。
俺の右肩から左脇に掛けてが、深々と斬り付けられる。激痛が駆け巡るが、歯を食いしばり手を握り、踏ん張って何とか悲鳴を上げないように堪える。
無川と言えば、その一撃では止まらず、何度も何度も俺に攻撃を放つ。斬って斬って斬りまくる。ただし、致命傷にならない部分を。
そして、無川の攻撃が、やんだ。息を切らして、肩を上下させる彼女。いつの間にか、手からは刀が消えている。
「お前がさっきまで躊躇なく攻撃できていたのは、俺に避ける意志があったからだ。簡単には殺されないから、これ位なら振るっても大丈夫。そう思っていたんだろ。違うか?」
無川は、何も言わない。ただただ、こちらを親の仇でも見るかのような、憎そうな目を向けてくるだけ。
「お前は怖いんだよ。俺を殺す事が」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! オレを誰だと思ってやがる! オレは殺人鬼の無川刀子。決して殺しを恐れちゃいねぇ! 勝手な事抜かしてると、その心臓掻っ捌くぞデカネズミがぁ!」
「じゃあさっさとやってみやがれ! オラ、ここにあんだよ!」
自分の胸を拳で叩く。無川にここにあるぞと言わんばかりに。
だが彼女は動かない。微塵も。その手に、刀すら出現させずに。
「何故だ」
無川は信じられないといった表情で、こちらを見つめてくる。そして、口から不意に漏れたように、問いが発せられる。
「何故テメェは、動かねぇ。オレを殴らねぇんだよ」
その問いに、答えるのは簡単だった。
「そんなの決まってんだろ」
俺は、無川を指さして言う。正確には、その緋色に染まった目を指して、言う。
「お前が、泣いてるからだ」
「……は?」
無川が、何のことを言っているか分からないと表情を歪めた後、自分の手で目元を拭い始める。すると、確かにそこに流れていた涙が、彼女の手を濡らした。
「な、なんだってオレは……違う……! 違う! こんなの、こんなのオレじゃねぇ! オレの涙なんかじゃあねぇ!」
「確かにそれはお前の涙だ! テメェは本当は楽しんじゃあいねぇ。そう思い込んでるだけなんだよ! その涙が、証拠なんじゃあねぇのか!」
「うるせぇ! うるせぇんだよ! 死ね! オレの中をめちゃくちゃにするテメェなんか殺してやる!」
彼女がいっそう涙を溢れさせながら、刀を取り出して、それをこちらに向かって一閃。
俺はそれを避けない。避けようとしない。
「俺はお前と向き合うと決めた。だから、お前の攻撃を避けたりなんかしねぇ。遠慮無く、斬ればいい」
「あああああああああああああああああああああああああああ!」
そして、刀が煌めく。
俺の首は、飛ばなかった。
代わりに、カランと、刀が手から零れ落ちた。
次話>>69 前話>>67
- Re: ハートのJは挫けない ( No.69 )
- 日時: 2018/07/21 08:29
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: NtGSvE4l)
無川は、その場で刀を落とした。それを握っていた手は、ガタガタと目視できるほど震えている。
「なんでだよ……」
呟くように、嘆くように、彼女は言う。目から溢れ出るのは、大粒の涙。悔しそうに歯を食いしばって、彼女は言った。
「なんでだ! なんでオレはテメェが殺せねぇ! 刀を握る事ができねぇ! オレは、オレは無川刀子なんだ! 人を殺さないオレに意味はねぇんだ! なのに、なのになんでなんだよ! ふざけるんじゃねぇ!」
嗚咽の混じったその声が、酷く脆く聞こえた。まさかあの無川が、こんな声を出すなんて思ってもみなかった。
「……無川。お前」
「うるせぇ! オレに、オレにそんな目を向けるな、そんな目で見るな! テメェのような奴には分からねぇんだよ! 下手な同情や憐れみを浴びせる側の人間には、浴びせられる側の思いなんて分かりやしねぇ。こっちの泣きたくなっちまうような、情けなさだって知りやしねぇ!」
彼女は勢いのまま、こう言う。
「お前らなんかに! お前みたいな奴に!
捨てられた側の気持ちが分かってたまるかよ!」
その言葉が、俺の心に響く。
そして、今の今まで遠かった無川の存在が、すぐそこまで近付いて来るような、そんな錯覚をした。
だから、彼女にはこう言う。
仕方ないのだ。これは、言わなければ分からないこと。彼女には、この事実を認識してもらう必要があった。
声を張り上げて、無川に言葉を叩き付けた。
「分かんねぇに決まってんだろ! だって、テメェ自身が言葉にしてねぇんだからな!」
きっと、予想すらしていなかった言葉に。
「……な……に……?」
表情が一瞬で、訳が分からないと言いたげな顔に転換した。
「テメェがどんな気持ちか俺には分からねぇ。……だけどなぁ、テメェは分かって貰おうともしねぇんだ! 言葉にすらしない癖に分かってもらおうなんざ、都合が良すぎるんだよこのバカが! 思ってるだけじゃ伝わらねぇんだよ!」
だが無川も声を張り上げる。こちらの声を押し返す勢いで。
「誰が……! 誰がオレの話を聞くってんだよ! 血にまみれたこのオレの、誰だって殺しちまうこのオレの話を! オレの周りに誰が居るってんだよ!」
だが負けない。意地でも食い下がらない。更に、声を押し返す。こうなればもう、武器もハートも要らない。
ただの意志と意志のぶつけ合いでしかない。だが、そうしなければ分かり合えない。理解など、出来るはずもない。
「俺が居る! 今ここに、確かに、目の前に俺が居るじゃあねぇか! それがテメェにはわっかんねぇのかよ! テメェの言葉を聞かせてみろ! 分かる分からねぇの話はそれからだ!」
俺の言葉に、無川はこちらを、いっそう怪訝に、不可解なものを見つめるように言う。お前は異常だという彼女の思考が、目線でハッキリと伝わってくる。
「だったら聞かせてやるよクソネズミ」
疲れたような笑いを浮かべて、彼女は言う。
「オレはな、正真正銘の人殺しだ。ハート持ちになる前に、人を一人斬り殺したんだ」
「ハート持ちになる前から?」
「ああ。オレはハートを持つ前。『オレ』とオレが別れてなかった頃、乾梨透子なんて名前じゃあ無かった。『オレ』には無川透子って名前が付いていた。ただしトウコのトウの字は刀じゃねぇ。透き通るの方だ」
無川というのは乾梨の旧姓だったらしい。
そして無川は語り出す。自嘲するかのように、自らの過去を。
「『オレ』はクズとその愛人の間に生まれた子供だ。父親はとても表で言えるような職じゃねぇ。母親はいつもオレより男に構っていた。当たり前だ。『オレ』は予想外の子供。生活を圧迫させる以外の役割を何も果たしちゃいなかったからな」
彼女が語り始めると、頭の中にノイズ混じりの映像のようなものが流れてくる。
今、俺は乾梨と心を繋げている。同じく心の繋がっている無川の脳内の映像が、こちらに流れ込んできているのだ。つまり、無川にもこちらとコミュニケーションを取ろうとする感情が芽生えたと言うことだ。
情景は、狭いマンションの一室のような場所。辺りには空き缶や吸い殻が転がっており、今の幼い容姿となった無川とちょうど同じ位の少女が膝を抱えている。あの少女は、乾梨、いや無川だろうか。
他の誰かも眠っている。机のすぐ側で。机の上にはやはり空き缶などが陳列していた。長い髪や体型から察するに、女性だろう。
「だが、『オレ』はその状況になんにも感じちゃいなかった。ただ自分が生きてりゃそれでいい。そう思っていた」
すると、脳内映像に変化が起こる。誰かが部屋の中に入ってきて、その女性の近くまで行き、その髪を引っ張って頭を持ち上げた。それは、小太りの男性だった。
「そしたら突然ある日、父親が何かの理由で暴行を始めた。酒に酔ってたのもあってか、母親が動かなくなった。標的にされた『オレ』は抗おうと必死になった」
何回も何回も、女性が殴られる。次第に女性は動かなくなり、やがて男性の攻撃は無川へと向かう。彼女は必死に逃げ回るが、部屋は狭い。空き缶を踏んずけて、彼女は転んでしまう。
「そして、オレは親を殺した」
彼女が転んだところに、丁度何か細い板のようなものがあった。彼女がそれを手に取って、鞘らしきものを外すと、煌めく刃が姿を現す。
その刀は、無川のハートによって作り出されるものと酷似していた。
そして映像の中で、無川がそれを目を瞑ってめちゃくちゃに振るう。それは幸か不幸か男性の腹を切り裂き、それはそのまま音を立てて倒れた。血の海の中で、無川だけがガタガタと刀を見つめ、肩を上下させて震えている。
「斬り殺したんだよ。『オレ』は自分の父親を。アイツが持っていた刀でな」
すると、今度は場面が入れ替わる。場所は幼稚園のような雰囲気に似ている。そしてその中に、無表情で佇んでいる無川が見えた。
「『オレ』はその後施設に入った。だが、殺人鬼だ、人殺しだと受け入れられなかった」
小さな男の子達が、無川に暴言を浴びせる。小さな女の子達が、無川を遠巻きから見てコソコソ話をしている。どれも、友好的とは思えなかった。
無川は無表情でそこにいるだけ。でも彼女が一度トイレのような閉鎖空間に入ると、その顔が一気に悲しみに歪んで、涙がこぼれ落ちる。
「そして、『オレ』はその現実と過去に耐え切れなくなって、遂に自分の記憶を切り離した。そして記憶を封印したんだよ。逃げるためにな」
なるほど。それで無川刀子と乾梨透子という二つの人格があるのか。俺はやっと納得することが出来た。しかし、幾つか引っかかる事がある。
それは、封印したはずの無川が、何故こうして表に出てきているのか、ということだ。
「そしてある家庭に引き取られたオレは、姓を変えた。乾梨ってのは義理の親の苗字だ。だが、『オレ』はそれから無意識のうちに目を逸らしていた。だからオレの事を認識すらしちゃいねぇ」
新しい家庭で、乾梨が平穏に暮らしている。まるで、昔のことなど無かったように。いや実際そうなのだろう。彼女の中で、アレは無かったことになっているのだろう。
「だが、あのクソ女のせいで、どういう訳かオレという人格が、ハートの力を持って、切り捨てた記憶と共に目覚めた」
再び場面が移る。乾梨は既に高校生となっていた。その制服は俺達の学校のものである。
そしてそんな彼女の胸に腕を、文字通り差し込んでいる女性がいる。血は出ていない。後ろ姿のため、顔は見えない。ただ、その銀色の髪がやけに印象的だった。
「そしてある日から、一定周期でオレという人格が、乾梨透子の体の表面に出るようになった」
夜、乾梨が歩いていると、突然立ち止まり、メガネとカチューシャを外した。その目は緋色に染まっており、目付きは異様なほど鋭くなっている。これが無川が表面化した時の様子だろう。
「オレは毎回、胸の奥底で燃える怒りのような、そんな覚えの無い感情に突き動かされた。それは殺意に変換され、オレは人を切って、切って、切って」
無川が人を切り付けているシーンが映し出される。そこには、楽しんでなどいない。業務的に、作業的に人を殺している無川の姿が映っていた。
「テメェに分かるか? 目が覚めたら突然殺人衝動に駆られて、訳もわからず人を殺して、それに苛まれるだけの毎日がよ」
そして、彼女は映像の中で、人を殺す度に頭を抱えて悩み、苦しんでいた。
彼女なりの、様々な葛藤があったのだろう。
「だからオレは、それを楽しむ事にした。オレが楽しめば楽しむほど、オレが現れる頻度も減った。つまり、オレは『オレ』のストレス発散の代役でしかねぇ。その為だけの存在なんだよ」
だがある日を境に、無川は殺しを楽しむようになった。これが、今の殺人鬼としての無川の根幹にあるものなのだろう。
「笑えよ」
彼女がガクンと膝を付いた。立っていることも、辛いような過去だったのかもしれない。いやそうだろう。そんな記憶、苦しみ無しでは引っ張り出せない。
皮肉めいた笑みを浮かべて、彼女は言う。枯れきった表情は、彼女の自己嫌悪を表していた。
「オレは自分の行為に目を背けて、自分のやったことを悔いて、それに耐え切れなくなって、殺しを娯楽にした。自分を誤魔化した。そして、それがそのうち自分になった。最初は貼り付けただけの嘘だったのに、それがだんだん染み込んで、何が嘘で何が本当すら、分からなくなっちまった」
そういう間も、ずっと、頭の中では映像が流れる。人を殺し、それを笑い、楽しみ、最後にはやるせない表情を浮かべる彼女が。何度も何度も、繰り返される。
「こんなオレ、笑っちまうだろ。反吐が出る程のクズだろ? 笑えよ。思う存分嘲ろよ! オレは、その程度のクズなんだからなぁ!」
その大声は、俺への怒りとは思えない。むしろ、自分に対しての苛立ちを放っているようにも見えた。
俺には、分からない。彼女自身が味わった苦しみとか、体験とか、困難とか。そんなものを簡単に他人が『分かる』なんて言うのは、彼女への冒涜以外の何でもない。
だが俺は向き合うと決めた。この殺人鬼も、根からのクズではない。どうしようもないくらい、環境が悪かっただけなのだ。
「俺はお前を笑わない。嘲ったりなんか、しない」
返ってくるのは、鋭い眼差しと、激しい感情。
「下手な同意なんざ求めてねぇ! テメェには分からねぇんだよ! どれだけ弁解しようが、例えオレの言うことが真実だろうが! 一言だって信じてもらえやしねぇ辛さが! 他人から認識すらされずに、人の眼中の外で暮らす痛みが! 訳もわからず人を殺したくなって、気が付いたらこんなになっちまったオレの苦しみが! テメェに分かんのかよ!」
ああその通りだ無川。俺にお前の苦しみは分からない。
だが、俺にも同意できる事はある。同じような体験はある。分かってやることはできないが、似たような感覚なら、俺は知っている。
「施設にさえ受け入れられなかった時、希望から絶望に突き落とされた感覚になる」
俺が呟くように言うと、無川の顔が固まった。
「似た境遇の仲間がいると考えて入った環境で、噂話だけで決め付けられて、大人達は話を聞こうとすらしない。来る日も来る日も存在すら無いように扱われ、気が付けば話す友人どころか目を合わせる人さえいなくなる」
段々と、無川の顔が驚きに変わっていく。
「一番辛いのは、話してくれていた優しい子まで離れていく事だ。信じてと言っても、向こうはどんどん離れていく。そして、最後に一人ぼっち。誰も正面から向き合ってくれない。言い尽くせない孤独を感じる」
胸が苦しくてたまらない。自分の思い出さないようにしている暗い過去を引きずり出すのは、内蔵が焼かれるように苦しい。
だけど、これなしでは無川とは分かり合えない。お互いに自分というものを示さなければ、俺と無川は絶対に理解などできない。
「……ネズミ……テメェ……」
「引き取られた時、天国に行けると期待して、結局は周囲に馴染めずに同じような閉塞感。段々と周囲が自分を必要としていないことが露呈してくる。自分と真正面に向き合ってくれるのは、鏡だけ」
思い出しただけでも、心臓がバクバクするのが分かった。胃の中がせり上がってきそうになる。精神体のくせに、全身から汗が吹き出てくる。
「俺にはお前の苦しみは分からない。わかってやれない。だけど、俺達は立ち上がらなきゃいけねぇ。俺の苦しみにもし、お前の苦しみと共通する部分があるなら」
無川にそっと、手を伸ばす。
「この手を、取ってくれないか。俺に、お前を救わせてくれ。お前はまだ、やり直せるんだ」
「…………オレが……?」
「ああ。そうだ」
無川は目を見開いて、俺の手の平をじっと見つめる。
彼女の手が、その場でこちらに、そっと伸ばされた。
次話>>70 前話>>68
- Re: ハートのJは挫けない ( No.70 )
- 日時: 2018/07/21 18:31
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: nWfEVdwx)
その虚空をさ迷う、地獄から伸ばされたその手に、一歩踏みよる。するとその手も、こちらに更に伸ばされる。
また一歩、踏み込む。その手もまた、少しだけ、こちらに向かう。
そして、二人の手の距離が、一メートル未満になる。俺はまた、一歩、歩み寄った。
そして、その手が、俺の手に、届く。後少しで、その二つは結ばれる。
そして、その手は空振った。結ぶこと無く、空を切った。
「すまねぇ」
その手は、俺を拒絶するように、引き戻された。
「すまねぇ。本当にすまねぇ。こんなに心が痛てぇのは初めてだ」
「な、何言ってやがるんだ。無川」
彼女があまりに、あまりに申し訳なさそうな声を出すものだから、思わず狼狽してしまう。
「オレは、オレなんかが、簡単に救われちゃいけねぇんだよ」
「待てよ! テメェは変われる! テメェは救われる! なのにどうしてそこから一歩踏み出せない! どうしてテメェが信じられない! この手を取れ! お前は絶対に変われる! だから、無川!」
だが、無川は動かない。その手は、彼女の顔を覆うために使われる。彼女の涙を、受け止めるために使われる。
両手の内側から聞こえる、無川の声。その声は、震えていた。何かを恐れているように。
「オレは、オレは無川刀子なんだ。テメェが心の底から信じられねぇんだ。九割はテメェを信用しても、残りのオレの一割が、テメェは裏切るって叫ぶんだ」
「俺はお前を裏切らない! たった一度、今の一瞬だけでいい! 俺を信じてくれ! 無川!」
「ああ、テメェは裏切らねぇだろうさ。お前は約束を守るだろうさ。……でも、でもオレは、オレは怖いんだ。そんなテメェからも裏切られるのが、ただただ怖くて、腕が震えちまうんだ」
これは彼女に打ち込まれた心の楔のようなものだ。彼女の深層心理に刻まれた根深い他人への不信感。それが、彼女を最後の最後でつなぎ止めている。
「笑ってくれ。笑ってくれよ。オレはもう、ここから動けない。オレはもう、他人を信じる事なんてできない。だから、どれだけテメェがオレを分かろうと、オレがどれだけテメェを分かろうと、この一線を、オレは超えられねぇんだ」
「お前なら超えられる! ちょっとでもいい! その一線に手を突っ込むだけでも構わない! 俺がその一線ごとぶち壊して、テメェを引きずり出してやる! だから手を握れ! 無川ぁ!」
俺の必死の言葉も虚しく、無川はその手を付いて、立ち上がり、その手に刀を作り出す。
そして、俺の方を向いて、笑った。
彼女が作ったとは思えないほど、清々しい笑い方で。
「ありがとよ。オレを信じてくれたのは、テメェが初めてだ」
そして、彼女はその刀の先を、俺──ではなく、自分に向ける。
思わず目を見開いて、叫んでしまった。
「お、おい待て! 何しようとしてやがる!」
「もうオレは、疲れたんだ。きっと、殺人衝動が戻れば、テメェを殺したくなる。だから、そうなる前に」
「だからってお前が死ななくてもいい! お前はまだ生きたいんじゃないのか! 俺はお前と普通の人間同士の関係になりたいんだよ! 友達から始めたいんだよ! こんな腐った関係性じゃなくて! もっと明るい、笑い合える関係になりたいんだ!」
「ああ、そうだなぁ」
「オレも、共也と友達になりたかった」
そして、無川が自分の首に、刀を突き刺した。
「……あ……」
無川の目は閉じられている。それはビクビクと、死を恐れていた。当たり前だ。死が怖くない人間なんか、居ない。
そして、彼女の首には──刀が、刺さっていなかった。
「…………あ?」
彼女が不思議そうな声を出して、目を開く。そして首元を見た。そして、それが驚いたように一気に開かれる。
無川の刀を受け止めていたのは、横から突き出た、形がそっくりの刀だった。そして、それは無川のものとは対照的に、白く輝いている。
「もう、止めようよ」
その声は、無川のすぐ右から発せられた。彼女がそちらを向く。
「『私』」
そこに居たのは、乾梨透子。無川の本体の彼女が、ハートを使って、無川の自殺を防いだのだ。
「『オレ』……何してんだよ」
「見て分からないの?」
「そんなことを聞いてるんじゃねぇんだ! 何故止めた! オレは、オレはあれで救われたのに! オレ以外の誰かも、きっと救われたはずなのに!」
鏡写のような二人、若干容姿に年齢差こそあれど、瓜二つと言っても過言では無かった。
「じゃあ、その人はどうなるの?」
「その人……だぁ?」
「そう。その人。貴女が死んでしまったら、その人は救われない。貴女は、その人を救いたくないの?」
乾梨の堂々とした態度が、少しだけ違和感だった。彼女は、ここまでハッキリと人と話せる人間だっただろうか。
「……まさか」
無川が、訝しげな目を向けた後に、閃いたような顔になる。決して、良い表情ではない。
「うん、多分そう」
乾梨は、その手に握る刀を消して、こう言った。
「思い出した……というか、私はもう、逃げるのは止めたの」
「……オレの記憶からか?」
「ええ。人格が分かれた後は分からない。だけど、分かれる前の記憶は、ちゃんと思い出した。私は、その人の言葉を聞いていて、思った。私だけ逃げていちゃダメなんだ。私も戦わなきゃダメなんだって。そしたら、自然と体が動いてて、いつの間にか思い出していた」
その人、俺の事だろうか。
乾梨にも、俺の言葉は聞こえていた。それが、彼女を動かした。少々むず痒いが、気にしないことにする。
「私は、貴女を今まで拒絶してきた。見て見ぬ振りをしてきた。それは自分でも許されないって、分かってる」
「……」
無川は何も言わない。目を逸らして、不貞腐れた子供のように黙っているだけだ。
「ごめんなさい。それは謝る」
「…………」
だが乾梨は言葉を続ける。一つ一つに誠意の詰まった言葉で。
「今更許してもらおうなんて思わない」
「…………いいよ、別に」
遂に、無川が折れたように、言葉を返した。
「……え?」
「いいんだよ。もう、どうでも」
やはり、無川の対応は子供っぽかった。謝られて、困惑している様子だった。
無川自体は、乾梨にそこまで嫌悪感を抱いて居ないらしい。
だが、乾梨は構わず言葉を続ける。
「どうでも良くない。私は、私は自分のせいで、貴女にあんな事を……」
きっとそれは、他人への配慮ができるというか、他人の事ばかり気にしていた彼女だからこそできる事なのだろう。
「あんな……無意味な事を……させてしまった……から」
彼女は、そう何気なく言い放った。
俺も彼女も、その場の誰も、そんな何気ない発言を、気には止めなかった。
──一人を除いて。
「……アハハ」
無川が、笑い出す。急に笑い出した彼女に、困惑を隠せない俺達。
だがその笑いは止まらない。次第に、大きさと勢いを増していく。
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
遂に、彼女の笑いが、戻った。良くない方へと、おかしな方へと。
「そうかよ。『オレ』も、オレの行動を無意味と言うんだな」
彼女は、笑う。
「『オレ』だけは、分かってくれると思ってた」
苦しみながら、笑う。
「『オレ』だけは、受け止めてくれると願ってた」
嘆きながら、笑う。
「苦しくても、『オレ』の為に頑張ろうと思っていた」
泣きながら、笑う。
「だけど、そんな『オレ』すら否定するんだ。このオレの行為を、我慢を、努力を、思考を、無意味だ無駄だと、切り捨てるんだ」
彼女はそうやって、苦しみながら、嘆きながら、泣きながら、笑いながら、確かに怒っていた。
「ち、違う。そんな意味で言った訳じゃ……」
乾梨が慌ててフォローするが、無川が鋭い眼光を向けると、竦み上がる彼女。
無川が手の中に、刀を出現させた。
いつもよりどす黒く、黒の中の黒といった、そんな真っ黒の刀を掲げ、地面に突き刺す。
彼女は怒る。彼女は叫ぶ。彼女は泣く。
たった一言が、乾梨の何気ない一言が、無川の導火線に火を付けた。短く、無川自身が爆発してしまうであろう、爆弾の導火線に。
「うるせぇよ! もういい! オレになんて価値はねぇ! オレなんて存在は要らねぇ! そんな事実はもううんざりするほど分かってんだよ! だから、お願だから、そんな申し訳なさそうな目を向けるのを止めろ! テメェの目を見るとムシャクシャして仕方ねぇんだよ!」
嗄れた声を主に、彼女が刀を地面に押し込む。そこはちょうど、赤と白の境目だった。
瞬間、その二つが、唐突に分かれた。直後、地響きのような轟音が周囲を駆け巡る。
赤色の世界と、白色の世界に分かれ、どんどん二つの世界は離れていく。俺が立っているのは、乾梨の方の白い側。離れていくのは、無川の方の赤い側。
「無川ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
だが、彼女の姿は、赤い世界と共に、俺の視界から姿を消した。この世界には、白い空間だけが残った。
次話>>71 前話>>69
- Re: ハートのJは挫けない ( No.71 )
- 日時: 2018/07/30 22:44
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
乾梨の心から出ると、既に乾梨の暴走は止まっていた。目を覚まして、今は傷口の手当をしている。愛泥は相変わらずそこに倒れているが、兄さんが適切な処置を施してくれたようだ。
「『私』……何処へ行ったの?」
彼女がポツリと呟く。
無川が、彼女の心の中から消えたのだ。行方は不明。兄さん曰く、暴走が止まるのと同時に、一人の無川に似た小さな少女が現れ、何処かへ逃げたと言っていた。彼は追い掛けるべきか悩んだが、愛泥の処置を優先したらしい。
「……なんか、心当たりねぇのか、乾梨」
「……分からないです。ただ、近くにいる事だけは……学校の中にいる事は分かります。感じるんです」
「分かった」
俺はその言葉を聞いて、駆け出す。音楽教室から飛び出ると、真っ先にすぐ横の二年生教室の周辺を探した。
「無川……」
俺はあいつの事を誤解していた。確かに、あいつは他人からそう誤解されるように演技をしていた。俺が勘違いをしたのも当たり前のことかもしれない。
あいつが人を殺してきたのは事実だ。それは消しようもない、消えるはずもない罪だ。
だけど、彼女は誰一人として殺してはいない。彼女のハートさえ解除すれば、皆は仮死状態から解かれる。彼女が頑なに人を刺す時、必ず具現化を解いていたのは、この為だったのだ。
探し回って十分程度の事だろうか。廊下を走っていると、ふと、向こう側の屋上のフェンスに、誰かが寄りかかっているのが見えた。
長い焦げ茶色の髪が、風に揺られて浮いている。その後ろ姿は、間違えようがなかった。
「居た……!」
全速力で渡り廊下を突っ走り、向こう側の後者へと移動。階段を二段飛ばしで駆け上がる。
最上階に付いたところで、階段の辺りは真っ暗になる。それでも感覚だけを頼りに進み、屋上の扉に手を掛けた。ガチャリ、と音を立てて開くそれ。
そこに広がるのは、夜の世界。そして、一人の少女の姿。
「……無川」
その少女の名前を呼ぶ。彼女は俺を認識すると、俯いて目を逸らした。
彼女に少しずつ歩み寄って、気が付く。彼女の立つ場所に。こちら側ではなく、フェンスの向こう側──一歩間違えば、三階建ての校舎から転落してしまうような、そんな場所に。
「お、おい! なんて所に立ってんだよ!」
「……共也、か」
「危ねぇって。さ、こっちに戻って来い」
俺が手を伸ばすが、彼女はそれを振り払った。冷たく、あしらうように。
「来るな、共也」
「な、なんでだよ」
彼女の冷たい表情と声に、驚きを隠せない。
その赤い瞳の光は、炯々と輝いている。まるで、彼女の抑え込んでいる内心を、代弁しているように。
彼女の顔をずっと見つめていると、ほんの一瞬だけ、その向こう側の景色が見えた。透けたのだ。半透明になっているのだ。
「な……?」
「オレは今、実体がない。正確には、ハートの具現化によって現れた武器やらと同じようなもんだ。確かに見えるし触れるが、本当にそこにあるものじゃない」
彼女はあくまで魂の一部。だがそれでもこうやって単独で具現化できているのは、一重に彼女の意志の強さ故だろう。
「共也、オレは今、自分が恐ろしいんだ」
「恐ろしい……?」
彼女の声は、震えていた。
「オレは今、共也の事を殺したくてたまらない。この身体が、お前の事を切り裂きたいって叫ぶんだ。それを抑えるのに必死で、これでも今、話せているのが奇跡なんだ」
「……お前は今、自分を抑えてるじゃねぇか。お前はやっぱり、自分に勝てるんだよ。変われるんだ。今からでも遅く無い。戻ってくれよ、無川」
「ダメなんだ。今戻ったら、間違いなくお前を殺してしまう。オレの事を信じてくれた共也を、オレは殺したくないんだ」
「だからって……! だからって、お前が死ぬなんて間違ってる! 違うだろ! もっと別の何か、別の方法が、別の結末があるはずなんだ! 誰かが死んでハッピーエンドなんてのは有り得ねぇんだ! お前だって、お前だけ救われないなんて、そんなのあんまりじゃねぇか!」
俺の嘆きに、彼女は何を思ったのだろうか。泣きながら、俺に微笑みかけた。やめろ。そんな、そんな満足したような表情をしないでくれ。
「……ホント、共也は良い奴だよな。オレは、オレは沢山のテメェの友人を傷付けて、関係の無い人間ばかりを殺して、それでも、お前はオレを、最後までそんな風に見てくれる。オレの事を、信じてくれる」
彼女はゆっくりと、俺に背を向けて、下を見た。
「だからこそ、だ。そんなお前の為だから、オレは死ねる。死ぬ勇気を、持つことが出来る」
「違う。それは違う。そんなの勇気じゃない、勇気であっちゃダメなんだ! 怖がれよ、恐れろよ。お前は今、確かに死に近付いているんだ! 死ぬのが怖いっていう感覚を強く持つんだ!」
「怖いよ。ああ怖いな、共也。死ぬって、こんなに怖くて恐ろしくて、手先が震えて血が冷めていくような、こんな感覚になるんだな。分かるよ。今なら、殺してきた人間たちが、最後にあんな恐怖の表情を浮かべていた理由も、ハッキリと」
彼女の、フェンスを握る手がガタガタと震えている。腕も足も、同じように恐怖を叫んでいる。だけど、それから彼女は目を逸らさない。
「お前はそうなっちゃいけない。簡単な話だろ。こっちに戻って来ればいい。オレの手を握ってくれればいい。後は二人で何とかしよう。お前一人だけ悩ませるなんて、しない」
「ああ。それは簡単だ。死の恐怖はそれで避けられる。でも、そしたらオレは、別の恐怖に襲われる。お前を殺してしまうかもしれない。そんな、オレにとって死よりも恐ろしい恐怖が、そこには、居るんだ」
「俺はお前に殺されない。絶対にだ。意地でもお前を止める。そこには恐怖なんてものはない。自分を信じろ。お前なら、きっとそれを抑え込める」
彼女が、再び振り返る。
その目は、更にいっそう、赤い光を増していた。
「お前がそうやって、オレに優しい言葉をかける度に、オレの中の殺意が勢いを増していくんだ。オレはもう、抑えられない」
「オレと共也は違う。共也は良い奴だ。だから、そんな共也はオレみたいな無価値な奴の為に犠牲になっちゃ、いけないんだ」
「違う! お前は無価値なんかじゃない! お前は今確かに、ここに居るじゃあねぇか!」
「そう、だから今から居なくなるんだ」
彼女は、そう言って、遂に、フェンスから手を離した。
そして、そのまま彼女の身体が、向こう側に傾く。
「じゃあな」
その言葉を言って、彼女は視界の外へと消えた。
気が付けば俺は、何かを叫びながら、フェンスの上を飛び越え、そのうちの一つの棒を掴んだ。
「待てぇぇぇぇぇぇぇ!」
下の方で、無川が驚いたような顔を浮かべていた。俺は無川の所まで空間を繋げる。そして空間の境目に手を突っ込み、遠くの彼女の手を掴む。そして、力を入れて引っ張り上げる。すると、何も無い空間から、無川がテレポートしたかのように、すぐ側に現れた。
「はぁ、はぁ、はぁ……危なかった……ぐッ……!」
無川こそ助けられたものの、状況は絶体絶命だ。今俺は、フェンスの一つの棒に捕まり、そのまま宙にぶら下がっている状態だ。そして、反対の手には無川がいる。
かなりキツイ。無川は通常よりもかなり軽いのだろうが、それでも結構な負荷になる。それほど長く、その状況を保てるとは思わなかった。
冷や汗が吹き出すせいか、棒が手汗によって湿ってくる。少しだけ、滑り始めたそれ。僅かだが、俺の寿命が縮む。
「ぐッ……!」
「……離せよ」
「嫌だ! やっと掴んだお前の手だ、離すわけにはいかない! 例えお前が拒もうとな!」
無川の言葉は、俺に呆れ返ったような口調だった。構わない。俺は決めたのだから。一度救うと。
「共也、テメェだけなら、まだ助かる。だからお前は生きるんだ」
「断る!」
「……何故、テメェはオレに固執する? テメェがそこまで、オレを救おうとする訳が分からねぇ」
彼女はそう叫ぶ。なぜなぜなぜと、俺に理由を尋ねる。
「捨てられねぇんだ」
俺は言う。彼女の求める答えを。
「一度捨てられた人間だからこそ、一度救われた人間だからこそ、お前を捨てられない。捨てられた側の人間だから、他人を捨てられない。その辛さを、知っているから」
俺は一度捨てられた。ばあちゃんが居なければ、俺は今でも地獄のような日々をさ迷っていたかもしれない。だから、まだ救われていない無川を、俺は見捨てることが出来ない。
「共也……」
「だから……! 俺はお前を見捨てなんかしない! 無川、頼む、お願いだ!」
無川の目を真っ直ぐ見て、伝える。
「俺を信じろ」
無川の目に、再び涙が浮かぶ。やるせない表情や悲しみの表情と共に。
「……信じられない。全部、ぜんぶ、しんじ、られないんだよ……オレは……」
「お前が他の誰も、お前自身すら信じられないって言うなら、俺を信じろ。お前を変えてやる。だから、俺を信じてくれ」
俺の言葉に、無川が泣き崩れた。見たことも無い泣き顔に、それが変わる。全然似合わない。お前は、もっとふてぶてしく笑うべきだ。
「……きょう、やぁ……オレ、は……」
その時、俺の手が滑った。
「──しまった!」
俺の体が、重力に引きずられるのを感じた。だが咄嗟にハートの力でフェンスと自分の手の前の空間を接続。自分の手だけがフェンスを掴み、肘から先が消えた俺と無川が何故か空中に浮いているという、なんとも不思議な光景が出来上がる。
不味い。また滑る。クソ、手汗が止まらない。なんで、なんだってこんな時に。
「おれを……見捨てて……お願い……」
「うるせぇよ! そんな願いは聞かない! 俺を信じろっつったろ! 俺は絶対見捨てないし、絶対に救ってみせる!」
だが状況が不味いのは変わりない。また手が外れたら、今度こそ俺は死ぬ。なぜなら、感じるからだ。自分のハートの限界を。
学校に来るまでの数回のテレポート。戦闘での使用。乾梨との心の接続。それらの負担が、今ここで来ている。あと数分したら、今の空間の接続も切れ、俺のハートは使用出来なくなる。
もう、ダメなのか。
俺は、救えないのか。また、あんな事を、繰り返すのか。頭に過ぎるのは、ただひたすらの無念と後悔。
ちくしょう。そう思いながら、俺はゆっくりと、瞼を下ろす。諦めて、しまいそうになった。
「共也君! 諦めちゃダメだ!」
その、親友の声が、耳に届くまでは。
咄嗟に上を見上げる。すると、そこに居たのは、頼もしい男だった。
「……貫太……! お前……」
「君が今ここで諦めてどうする! 君は、無川を救いたいんじゃあ無いのか! それなのに、君が諦めてどうするのさ!」
彼が、その手にナイフを出現させた。そして、俺のフェンスを掴む右手に突き刺す。刻まれた言葉は『離すな』。
瞬間、フェンスと無川を握る手が、ガッチリと固定された気がした。これで、滑って転落なんてお粗末な自体は避けられる。
「……ああ! その通りだ! 俺が諦めてちゃあダメだよなぁ! 貫太ぁ!」
俺がそう返すと、返事をするかのように、上から鎖が垂れてくる。それは俺と無川を絡め取り、上へと少しずつだが引き上げる。そのハートは、一度見たら忘れられない。
「愛泥か!」
「貴方には一度助けられましたから。これで貸し借りは、無しですよ」
「……へっ、連れねぇ奴だ」
だがありがたい。鎖の補助を受けつつ、少しずつ、少しずつ上昇する。
「共也、無川を寄越せ」
兄さんがそういうので、無川を握る手を少し持ち上げた。すると、兄さんの手が伸ばされ、無川が上へと簡単に引っ張り上げられる。
俺もその後、貫太と愛泥のお陰で何とか戻ることが出来た。足場に少し感動を覚える。
「良かった……本当に……」
安堵の息を漏らすのは、乾梨だ。きっと彼女も、責任感で押し潰されそうだったのだろう。
皆無事だ。きっと他の人達も目を覚まし始めている。俺達は、皆を救ったんだ。
だけど、まだ一人、救えていない人間がいる。
俺は、その一人と向き合う。
「皆、離れていてくれないか。これは、俺と無川の問題だ」
皆は大人しく俺の言う事を聞いて、数歩下がる。そして、俺と無川だけが、その場に残った。
「……無川」
「……きょう、や、ごめん。オレは……オレは……」
ギラギラと光りを放つ瞳を見れば、彼女が限界であることが良くわかった。きっと、今も抑えるのに必死で仕方ないはずだ。
「お前なら、変われる。お前が信じた俺が言うんだ。間違いない」
「オレ……は……!」
彼女が、その手に刀を持つ。どす黒い色の刀を、上に構え、俺に近付く。
「共也君!」
「共也!」
後ろから兄さんと貫太の声が聞こえた。だが俺は振り返らず、無川の目だけを見て、言う。
「大丈夫だ。無川は、俺を切ったりしない」
その言葉を発した瞬間、無川の口が、開いた。
「ああああああああああああああああああああ! 共也を殺したくなんか、ねぇんだぁぁぁぁぁぁぁ!」
そして彼女は、その刀で、自分の左腕を切り飛ばした。思わず驚くが、彼女は止まらない。
「黙れ! オレの心も体もオレのもの! オレに指図するんじゃあねぇ! 殺人なんかもう嫌だ! 殺しなんかもう嫌だ! オレの、オレの体から出てい来やがれぇぇぇぇぇ!」
そして、彼女は右腕だけで、自分の右肩に刀を突き刺した。すると、その手がブランと垂れ下がる。
空に風が走る。彼女の長い髪が一際大きく揺れたと同時に、その身体が倒れた。
「無川!」
慌てて駆け寄ると、彼女はこちらを見て、苦しさも混じった清々しい笑顔を浮かべた。
「オレ、やったよ。自分に、勝ったんだ。オレ、変われたのかな」
「ああ、お前は変われた。変われたんだ」
「……そっか。共也が言うなら、信じられる」
彼女がそう言った途端、身体が透けて行く。ハッキリと、屋上の床が見え始めた。
「……なんだよ、これ?」
「オレは魂だけ……こんなに傷付いたら……消えちまうんだよ……」
「なんで、そんな、嘘だろ?」
「ホントだよ……嘘なんか……つかねぇ……」
「嫌だ。待てよ。無川。お前は、やっと変われた。これからじゃないか。言ったじゃないか。友達になろうって、なぁ」
「……ごめん」
「謝るんじゃあねぇ! 謝ったりなんかするんじゃあねぇよ! 無川ぁ!」
彼女の身体を抱き起こそうとしても、俺の手は彼女の身体をすり抜ける。もう、触る事さえ出来ない。
「……ちくしょう、俺は、俺はぁ!」
俺が床を一際強く殴る。だが、じんわりと痛みが伝わるだけで、何も変化しない。広がるのは、途方もない無力感。
「あの、友松さん」
そんな中、俺に声をかけた奴がいる。乾梨だ。彼女はこちらに駆け寄って、無川のすぐ近くに座った。
「……なんだよ、乾梨」
「私から、提案があるんです。もしかしたら」
彼女は言った。
「『私』を、助けられるかもしれない」
「……なんだと!?」
「保障はないんです。でも、もうこれしかない」
彼女は言う。無川の消失は魂のエネルギーの様なもの不足が原因であると。つまり、誰かがそのエネルギーとやらを提供すればいい。
「だから、私と無川の心を繋げて下さい。切れないように、完全に」
「……それは……」
確かに、そうすれば無川は救われるかもしれない。だが、心を完全に繋げるなんて、出来るのか。
俺のハートで、俺の力だけで、出来るものなのか。
「違う。やるんだ」
そうだ。出来るとか出来ないとかの話ではない。やるのだ。やり遂げるのだ。
「無川、乾梨、俺は必ず繋げる。だから、二人はお互いを受け入れてくれ」
二人の手を握って、無川の場合は手を握るように触れて、俺は言う。
「無川、乾梨はお前の行動を否定したんじゃない。お前に自分の罪を着せてしまったのを悔いていただけなんだ」
「…………『オレ』……」
「……『私』、ごめん。でも、もう一度だけ、もう一度だけ私にチャンスを頂戴。必ず、私はあなたを受け止める。受け止めてみせるから」
乾梨の言葉に、無川は笑ってこう言った。
「ああ、オレも受け入れるよ。『オレ』の事を、な」
二人の言葉を聞いて、俺はハートの力を使う。無川の消えかけた心と、乾梨の心を、いつものように自分と他人を繋げる要領で、繋ぐ。それが終われば、後は、二人の心次第だ。そして、無事に接続が完了する。
直後、俺の視界が、一瞬だけ歪んだ。
「……やべ……限界……」
先程まで、ハートの力の使い過ぎで限界であったことを忘れていた。そんな状態でこんな風にハートを使えば、どうなるかはもうお察しの通りだ。
俺の視界が、倒れた。正確には、俺の体が倒れたのだろう。不思議な感覚と共に、俺は意識を失った。
その直前、無川の身体が、乾梨の心臓辺りに入っていくのが見えた。
「ありがとう。友松さん」
『ありがとな。共也』
そして最後の最後で、二人の声が、聞こえた気がした。
次話>>72 前話>>70
- Re: ハートのJは挫けない ( No.72 )
- 日時: 2022/05/11 05:29
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: ZTqYxzs4)
事件から、一週間が経った。
僕らはあの日の事が嘘だったように、平凡な日々を送っている。こんな風に、非日常は日常に呑まれ、その姿を少しずつ薄め、忘れた頃にやってくるのだろう。
あれから僕には、特に変化というものは訪れなかった。相変わらず僕は弱虫で、人の頼みを断れない。所詮はあの空気の熱に当てられただけなのだろう。
しかし僕の周囲は変わった。例えば共也君。彼は昼休みになると時々屋上に向かうようになった。観幸曰く乾梨さんと話しているらしい。共也君に尋ねると、彼は監視役になったそうだ。
詳しい事情は話せないらしいが、共也君の家はハート持ち云々の管理を請け負っているらしい。本来なら処罰が与えられる乾梨さんが放置されているのは、共也君や見也さんの交渉の結果らしく、共也君が乾梨さんの監視役になったからだそうだ。共也君曰く「責任くらい最後まで取るさ」との事だ。
乾梨さん、と言えば、事件から数日後に、僕に謝ってきた。と、言うか僕だけでない。少なくとも、無川さんの被害者全員の所に行っていた。
僕の時はすぐ近くに幼くなった無川さんもいた。乾梨さんが言うには、無川さんはあの日から乾梨さんのハートの一部となったらしい。乾梨さんが出そうと思えば出せるらしい。無川さんの意思で勝手に出入りできるらしいが。
そんなこんなで、彼女はもう一人の自分と向き合い始めたようだ。まだまだ分からないことや色々と苦労もあるらしいが、それでも前のような根暗な印象は受けなかった。彼女もまた、変わることが出来たのだろうか。
浮辺君はあの事件の後、すぐに目を覚ましたらしい。気が付いたらベッドの上で困惑したと言っていた。
その後雪原先輩と一悶着あったらしいが、まあそれも、何だかんだで丸く収まったそうだ。ただ気になるのは、浮辺君の雪原先輩への呼び方がユキ先輩に変わっている事だ。まあ気にするほどのことでもないのだろうが。
彼もまた、あの事件を折に少しだけ雰囲気が変わった気がする。自分という存在に、少しだけ自信がついたとか言っていた気がする。彼が自身を認められるようになるのは良い事だ。きっといつか、彼も本物の自分を見つけるのだろう。
八取さんも無事に目覚めたらしい。目覚めた瞬間に妹はどうしたと暴れたらしいが、あの人の妹愛には驚かされるばかりだ。
彼はようやく自分の平穏を取り戻したのだろう。とても満足そうな表情を浮かべていた。ただ心残りは、自分の手で解決出来なかったこと。それから僕達に貸しが出来たと言っていた。結構義理堅い人なのかもしれない。
観幸は……かなり落ち込んでいた。曰く「貫太クンや共也クンに事件を解決されてしまったのデス……ぐぬぬぬぬ」とかなんとか。正直こちらとしてはかなり心配だったため、そのセリフを聞いた瞬間に気苦労を返せと殴りたくなった。
彼の遺してくれた証拠のおかげで解決があった。そう言えるくらいに、彼は事件に貢献した。まあそれを伝えても、彼はこう言うんだろう。「解決したのはキミデスよ。それ以外、必要な事実があるのデスか?」なんて。
彼の変わったところと言えば、ルーペだろうか。バッキバキにガラスの割れたルーペは流石に使えないとのことで新調したらしい。ピカピカのルーペをドヤ顔で翳してきた彼はこう言った。
「フフ、ルーペはいいのデスが財布が軽いのデス」
多分目からこぼれるアレは悲しみと嬉しさの混ざった涙だったのだろう。後者に埋め尽くされている気もしなくはなかったが。
屋上で一人、空を眺めながら考え事をしていると、携帯電話から着信音が響いた。取り出して中を見ると、一通のメールが届いていた。差出人不明。誰だよ。
『元気かしら。チビ。
私は元気よ。体調も随分良くなったわ。だけど青海が安静にしてろってうるさいの。どうにかして欲しいわ。
まあそれは冗談として、お疲れ様。本当は会って話したいのだけれど、生憎私は出れそうにない。石頭にも困ったものね。
事件の内容は兄さんから聞いたわ。頑張ったわね。あんなのに正面から立ち向かうなんて、前のアンタからは想像もできないわ。
きっとアンタはいいハート持ちになれる。きっと、私や共也、もしかしたら、兄さんも超えられるかもね。
心音』
心音さんか。そう言えば、彼女は今もあの施設でベットに囚われているらしい。青海さんが離してくれないとか。
メールの内容に、ちょっとだけ照れつつも嬉しく感じた。もしかしたら、自分もちょっとだけ変われたのかもしれない。なんて思いつつも、最後の一文だけは信じられないでいる。
「……僕が……超える……?」
そんな訳ない。これは流石にお世辞だろうな。そう考えて、ポケットに携帯電話をしまう。その瞬間、屋上の扉が開いた。そして、彼女が姿を現す。
「こんにちは。貫太君」
「……隣さん」
隣さんは僕のすぐ横に座る。密着するほどすぐ側にだ。当然、身体が触れ合う。
「ねぇ、隣さん」
「何ですか?」
「肩、当たってるよ」
「わざとです」
あんまり嬉しそうに言うから、何も言わないことにした。そんな表情、卑怯だ。でも彼女の笑顔を見ると、そんな感情も消えてしまった。
そのまま彼女は首を傾けて、僕の肩に頭を乗せた。彼女の髪から、シャンプーの匂いが漂ってくる。こんなシーン、知らない人に見られたらどうする気だろう。
「貫太君。私の事……好きですか?」
何回目の質問だろうか。最近、彼女はこうやって二人きりの時に、いつもこんな風に聞いてくるようになった。僕が嫌いと答えても、彼女は嬉しそうに微笑むだけ。
それがなんだか、ちょっとだけ僕の心にチクリと刺さる。自分の心に嘘をついているから。それとも、単純にからかわれている気がするからか。
何はともあれ、この時僕は、彼女を驚かせたかったのだろう。だから、言った。自分の本音を、ありのままに。
「好きだよ」
彼女は微笑みそうになって、瞬間、バッと立ち上がり、こちらに驚きの視線を向けた。そんな、急に現れたゴキブリを見るような目で見ないで欲しい。悲しくなるじゃないか。
「か、かか貫太君!?」
なんでこんなに驚いているのか。向こうから聞いてくるくせに、どうしてこんな反応をするのか。向こうは、僕が好きだという可能性を考慮していなかったのだろうか。
「もしかしてさ、隣さんって予想外とかに弱い?」
「な、なにを、言って……」
彼女は口をモゴモゴさせて黙ってしまう。いつものクールな隣さんの印象から掛け離れていて、少しだけ新鮮だ。
「と、とにかく! 私は生徒会があるので!」
「あ、ちょっと待っ」
僕が呼び止める前に、彼女は屋上から出ていってしまった。
「……どうして、ハートの力を使わなかったんだろ」
今の僕なら防げるけど、彼女は好意を伝えてきた相手を操る力がある。なのに、彼女は今、それを使わなかった。
「……まあ、別に問題無いよね……?」
つまり、僕が彼女のハートの力を恐れる必要はもう無いと言う事だ。
彼女にも何かしら、心境の変化が訪れているのだろう。ちょうど、僕の隣さんに対する意識の変化のように。
「……いつか、本当に伝えたいな」
僕にはまだまだ足りてない。力とか、勇気とか、意志とか、理由とか。自分を誇るには、僕はあまりに足りなさ過ぎる。
だけど、僕がいつか、本当に変われて、いつか彼女に自信を持って、好意を伝えられたら。
結果はどうであれ、多分それは、良い事なのだろう。
「……頑張らなきゃ」
こんな僕も、一つだけ変わることが出来た。そうやって、自信を持って言うことが出来るものがある。
それは、頑張る理由が出来たことだ。とても単純な理由だけど、僕にはこれくらいチープな方が、お似合いだろう。そう思って、僕は屋上を後にした。
《スレイハート(終)》>>42-72
次話>>74 前話>>71
- Re: ハートのJは挫けない ( No.73 )
- 日時: 2022/05/11 06:13
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: ZTqYxzs4)
目次
一気読み用【>>1-100】 最新話>>74
第一章『それは、心を動かすもの』
0,ブレイクハート
【>>1-4】 >>1 >>2 >>3 >>4
1,スティールハート
【>>5-7 >>10-15】 >>5 >>6 >>7 >>10 >>11 >>12 >>13 >>14 >>15
2,バインドハート
【>>16-24】 >>16 >>17 >>18 >>19 >>20 >>21 >>22 >>23 >>24
3,トリックハート
【>>25-28 >>31-38】 >>25 >>26 >>27 >>28 >>31 >>32 >>33 >>34 >>35 >>36 >>37 >>38
4,スレイハート
【>>42-72】 >>42 >>43 >>44 >>45 >>46 >>47 >>48 >>49 >>50 >>51 >>52 >>53 >>54 >>55 >>56 >>57 >>58 >>59 >>60 >>61 >>62 >>63 >>64 >>65 >>66 >>67 >>68 >>69 >>70 >>71 >>72
5.ジャスティスハート
【>>74-85】>>74 >>75 >>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81 >>82 >>83 >>84 >>85
オザーハート No.1【>>41】
- Re: ハートのJは挫けない ( No.74 )
- 日時: 2018/07/29 21:09
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
朧気な映像が、俺の視界を埋め尽くしている。その中には俺の姿もあって、ホームビデオを観ているような感覚だ。
見たくなんか、無いのに。
『お前は友松家の人間ではない』
ああ、この声。懐かしい。
そして胸が痛くて、苦しくて、切なくて、冷たくて、潰れそうになる。
『何故お前は力が無い? お前の兄も姉も、お前の歳では既に芽生えていたのだぞ』
無力だった。ひたすらに、どうしようもなく、残酷なまでに。
『それでも私と同じ血を引いているのか』
信じられないだろう。俺も今でも信じられない。こんな奴と血が繋がっているなんか。
『お前は、要らない存在だ』
止めろ。その言葉を今すぐ取り消せ。
なんて向こう側に叫んでも、その男に伝わるわけもない。記憶が変わるわけでもない。
『無力なお前は、何もしなくていい。何もしない事が、お前の役だ』
その言葉を最後に、映像が揺れ動く。ノイズが画面を真っ黒に染め上げ、数十秒後、全く違う場所が映し出される。
そこにも、俺は映っていた。
『共也、お前は悪くないんだよ』
その声だけが、やたらと大きく響く。それは俺の記憶に根強く残っているせいか、他の声がどうでもよかったのか。どちらにせよ、聞こえる音は一種類だけ。
『共也、意志のある人になりなさい』
ああ、そういえばこんな声だった。長い間見ていなかったから忘れかけていたが、思いの他人の記憶力とは凄まじいものだ。
『いいかい、この力は、人を救う為に使うんだよ』
そうだ。この日からだ。
俺が、人を救いたいと思うようになったのは。
○
「……またか……」
目が覚めた。時刻は早朝。服は汗でかなり濡れていた。嫌な夢を見たことが気のせいではないことが、はっきり分かる。
いつもより少し早い時間だが気にする程でもない。起き上がって朝の支度を始める。
昔の事を夢に見るのは、珍しくもない。時々、こんな事があるのだ。頻繁にではないし、周期があるわけでもない。
ただ、俺が幸せを感じている時。確かに幸福を感じている時に、それは訪れる気がする。
「……見たいわけじゃねぇのによ…………」
ただ、最近は頻繁にこの夢を見る。もちろん思い当たる節もある。
「……あの時、引っ張り出しちまったからな」
無川の一件で、俺は過去の一部を引きずり出さざるを得なかった。あの時は、生半可な想像や作り話で話にならないと考え、ブラックボックスの中身を引き出した。
あの時、俺の中の何かが。悪い夢を抑えていた何かが抜けたのかもしれない。
それから暫くして、いつのように滝水公園の入口で貫太を待っていた。少し早過ぎたかなと画面を確認すると、貫太が来るまでにあと十数分ほど余裕があった。
何もすることが無い。取り敢えず携帯電話を開くが、特に着信などは無かった。携帯電話をしまいつつ、貫太がいつもくる方向を眺める。そこにはまだ誰も居ない。
「友松共也さん、ですか?」
唐突に背後から声を掛けられた。いきなりと言うのもあって少々驚いてしまう。慌てて振り返ると、背の低い男子生徒がいた。俺より20センチほど低い。
「……そうだが?」
「ああ良かった。僕、あなたを探してたんですよ」
「俺を? 何の用だ?」
「まあまあ、そう焦らないで下さいよ。時間はまだまだあるんですから」
今朝の夢のこともあってか、今の俺にあまり精神的な余裕は無かった。だからだろう。こんな奴の少しの物言いにイラッと来てしまうのも。
暴言を飲み込んで、目を向けるだけにしておく。だが向こうは相変わらずのニヤケ顔でこちらを眺めてくるだけ。見た目は至って平凡な黒髪黒目。顔立ちは童顔寄り。そんな彼は手を振りながら微笑みかける。
「やだなぁ、怖いですよ?」
「……今、ちょっと内心穏やかじゃないんでな」
「ああそうなんですね。てっきり──」
俺はコイツに対して『急に話しかけてきた変な奴』程度の認識しか持っていなかった。だが、コイツのこの一言でそれがひっくり返される。
「無川刀子の一件を終えて、スッキリしてたんじゃないかと思ってましたよ」
無川…………刀子?
こいつ今、間違いなく言った。誰も知らないはずの。俺達ハート持ちを除けば誰も知らないはずの事実を。
「……テメェ……!」
「あー、これはちょっと不味かったですかね。今のナシで」
「ナシになんかならねぇよ……!」
「いやー怖い怖い。このままじゃ交渉の前に捻り潰されること間違いなし。なんで端的にお話しますよ」
そいつは俺の方から顔を逸らし、滝水公園の方角を向く。そして、ちょうど噴水があるであろう角度を指さしてこう言った。
「あの噴水で、放課後待ってますよ。あ、勿論一人で」
「オイ、テメェが何者かは知らねぇが、テメェの言いなりになる理由なんざこれっぽっちもありゃしねぇんだよ。何なら今からそのムカつくニヤケ面を目も当てられないくらい粉々にしちまってもいいんだぜ。こっちはよ」
「ヒェーゴリラ丸出しじゃないですか。人間として生きましょうよ。友松先輩」
ソイツは顔を逸らしたまま、左目だけが見えるような状態のまま、こちらに目線をやる。
「それに、あなたは従わざるを得なくなる。いや、来なければならないハズだ。コレを見ればね」
ソイツが顔を俺に向けた。全貌が見える。
そして驚く。
「テメェ……! その右目は、その赤い目は……!」
先程まで真っ黒だったはずの右目が、赤くなっている事。これは以前見た浮辺と同じ症状。つまり、コイツもまたハート持ちであり、誰かに作られたハートということ。
「ではこの辺で失礼しますね」
「お、オイこら待ちやがれ! 誰だテメェ!」
踵を返して何処かへ去ろうとする彼の背中に、疑問を投げかける。
「一条正義(いちじょう/まさよし)。正義と書いてまさよしと読みます」
「そういう事が言いてぇ訳じゃねぇ!」
だがその背中は既に居なくなっていた。
誰だ彼は。何者だ。発言の節々や制服などから察するに、ウチの高校の一年生。後輩にあたる人間だ。
だが違う。それだけではない。彼はハート持ちだ。ただ他のハート持ちとは何か違う点がある。
まるで、ナイフを向けられているような感覚。あの瞳の奥に、ニヤケ面の裏側に、とてつもない敵意が潜んでいる気がした。
「一条正義……一体奴は……」
話した時、変だった。性質の話だ。癖があるとはちょっと違う。掴み所がないというか、次の瞬間何をするかがさっぱり変わらない。そんな得体の知れない何かがあった。
「共也君、遅れてごめん」
そこで貫太が到着したようだ。時刻を確認すると、既にそんな時間だった。
歩きだそうとして、少し冷たい感覚がした。気がつけば、俺の体には冷や汗が伝っていた。
次話>>75 前話>>72
- Re: ハートのJは挫けない ( No.75 )
- 日時: 2018/08/06 08:16
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕は、ヒーローになりたかった。
この夢が馬鹿らしいなんていうのは、今まで散々思い知らされた。何度笑われたか、数えるのすら億劫だ。皆、僕の言うことは冗談だって思っているだろう。
別にそれはおかしくない。所詮は現実を見るとほざいて夢を諦めた敗北者たち。むしろ、僕の夢が理解できないのは当然のことと言える。
そして僕は見付けた。ヒーローになるための、特別な力を。他の誰も真似出来ないような、不思議な力。そして、僕の為にある、僕の力。
そしてその力をくれた、僕のヒロイン。彼女は言った。私はもうすぐ、何かと争う事になる。だから助けが必要だ。と。
これは僕の物語だ。
僕が悪役を、友松共也という敵を倒し、彼女を救うという、僕の為の物語だ。
○
俺は朝学校についてから、真っ先にとある人物の元に向かった。二年四組を通り過ぎる辺りで、目当ての人物の背中を見つけた。
「おーい、乾梨」
声を掛けると彼女は振り向いた。その表情は疑問を帯びていた。
「友松さん? どうしたんですか?」
「ああいや、ちょっとな……」
まさか朝の出来事で乾梨の事が心配になったとは言えず、適当に監視の仕事などと言って誤魔化しておく。
『んだよ、朝から仕事かぁ?』
乾梨よりも少し高めの声でそう聞こえたかと思えば、彼女のすぐ後ろに背後霊のような形で無川が空中に立っていた。服装は近所の中学校の制服だ。あの日以来、無川の姿が中学生時代の姿で固定されてしまったらしく、服装も当時の記憶に残っているものになったのだろう。
「……見れば見るほど亡霊だな……」
『喧嘩売ってんのか。呪うぞ』
「お前が言うと冗談に思えねぇよ」
『冗談じゃねぇよ』
「尚更悪いわ」
ふよふよと浮かびながら俺と軽口を交わす彼女は、他の生徒には見えていない。というより、ハート持ち以外の人間には見えていないらしい。どうやら無川という存在そのものが乾梨のハートの一部になったそうだ。そのため、具現化しない限り無川は重力に囚われることもないし、ハート持ち以外から見られることもないとのこと。
『ここんとこオレは優等生ちゃんだったぜ。特に報告することなんざ、ありゃしねぇよ』
無川は例の事件以降、謎の殺人衝動に駆られることは無くなったらしい。おかげでこちらも後数ヶ月程度で監視の役目は終わりそうだ。
「おー、いい子いい子」
『ナメてんのかテメェ』
ムッとした様子で見てくる彼女だが、以前のように殺気が伴っている訳ではないため、威圧感というものが全くない。可愛らしいと形容できる表情に、ついつい煽りに歯止めが効かなくなる。
「はっはっはっ中学生から睨み付けられても怖くねぇよ」
『あ?』
瞬間、彼女の視線が冷たく煌めく。やばい。何かのスイッチが入ったようだ。
「ワリィ、普通に怖ぇから止めてくれ」
『……次言ったら髪の真ん中だけ殺す』
「割とリアルにできそうな脅しは止めろよ!?」
髪の毛の危機に思わず両手で頭皮を隠す。すると彼女は溜息をつきつつも目を伏せた。
『冗談だって。……二割くらい』
「ボソッと聞き捨てならねぇこと言うなよ!?」
『まあそれはどうでもいいんだよ』
「人の髪の毛事情をどうでもいいとか言うんじゃねぇ」
無川が俺の方に飛んできて、俺に鼻同士が触れそうな程に顔を近づけてから訊いてくる。
『で、なんで共也がここに?』
「仕事だって言って」
『オレに嘘が吐けると思ってんのかよ』
彼女の赤い瞳に、自分の内面が目を通して見透かされている気がした。彼女に嘘は付けない。直感的に、そう感じた。
「……心配だったんだ。乾梨と無川が」
『……は、はぁ?』
「本当だ。何か嫌な予感がした。2人に何かあったんじゃないかって」
『な、何アホな事、言ってやがる。お、オレがヘマするかっての』
「ま、それもそうだったな。ワリィ」
彼女が急に顔を話してそっぽを向いたのが少しだけ疑問だったが、深く気にしないことにした。
そこで丁度予鈴が廊下に鳴り響いた。2人に別れを告げ、俺は自分の教室へと戻った。
○
「……共也クンの様子デスか……」
「そう。なんか変なんだよ。今日」
僕は朝から観幸に相談していた。登校するなり姿を消してしまった彼。流石に不自然すぎて、賢い友人に相談している。因みに今日の朝は愛泥さんと出会うことは無かった。何かあったのだろうか。
「ま、ほっときゃいいのデス。彼が隠す事は、基本的に自分の事だけデスから。それも知られたくないタイプの」
僕の心配に反するかのように、観幸の返答は雑なものだった。
「でも……」
僕がなにか言おうとすると、机を挟んで向こう側にいる彼は、若干身を乗り出しつつ、僕には釘を刺すかのように言う。いや、実際はそのつもりなのかもしれない。
「いいデスか? 一概に相手のフィールドにズカズカ入り込むのは良い行為とは言えないのデス。誰にでも、踏み入られたくない領域はあるのデスから。特に理由もなくそれに侵入するのは、相手からしたら大迷惑なのデス」
真剣な眼差しに、何も返せなくなる。
「…………そっか」
それでも何か返そうと思ったが、口から出たのは小さな相槌だけだった。
「……まあ気を落とさないでいいのデスよ。事実、ボクも普段明るい彼の調子が変ならば、気になりマスし」
身を戻して彼が口にパイプを咥えながら、僕を励ますようにそう言った。
「……観幸って何だかんだ優しいよな」
「そうデショウ?」
「やっぱ撤回。そのドヤ顔ムカつく」
褒めた瞬間に調子に乗る彼。やはり迂闊に褒めてはいけない。その満足そうな表情を保ちつつ、彼はそのまま言葉を続ける。
「フッフッフ、恥ずかしがらずとも良いのデスよ」
「どこに恥じらう要素があった」
「ヒア」
「ここにはないからな?」
一呼吸おいて、彼は目つきを変えて話を戻した。切り替えの早いやつだ。
「ま、貫太クンの事デス。ボクがなんと言おうと、気になってしまうデショウ」
「……図星だよー。あーほんと読まれるなぁ」
「何年付き合ってると思っているのデスか」
「僕にはお前の思考が読み取れないけどな」
「フフ、探偵とはミステリアスなものなのデス」
「それ前も聞いた気がする」
なんとなくだが前のことを思い出した。
「そんなに気になるなら実際に聞いてみれば良いのデス。真剣に聞かれて黙るほど、彼は不親切ではないデス」
「うん、そうだな。ありがとう観幸」
「不甲斐ない友人の相談に付き合うのも探偵の仕事デスので」
それから何回か彼と軽口を飛ばし合っていた所にだ。
「すいませーん。針音貫太さんはいますか?」
聞いたこともない声が、耳に飛び込んできた。それも、僕の本名付きで。少しだけ驚きつつも、音源の方を向く。
そこに居たのは、至って平凡そうな男子生徒だった。黒髪黒目で身長も平均……僕より高いな……。制服の校章の色から察するに、恐らく一年生だろうか。少なくとも僕は、この学校で彼と一度も会ったことも話した事も無い、はずだ。
「えっと、僕が針音貫太ですけど……」
席から立ってドアの方へと向かう。すると彼はこちらを認識したようで、どうもと頭を下げた。
「初めまして。僕、ちょっとだけ用事があって」
「はぁ……えっと……君は誰かな?」
「ああ、申し遅れました」
彼は微笑みつつ自分の名前を言った。
「僕、一条正義って名前です。正義はせいぎって書きます」
正義……なんか名前からして真っ直ぐそうな人という印象を覚えた。今も話している感じ、爽やかな男子高校生といった雰囲気だ。
「それで、一条君が僕に何の用かな?」
「出来れば正義って呼んで下さい。えーと、ちょっと話しづらいのでこっちに」
彼は手招きをして僕を誘導する。暫く歩くと、そこは屋上へと続く階段。当然、人など来ない。
「……で、こんな所に連れ出して、何の用かな」
「ちょっと待って下さい。スグに分かりますよ」
彼は暗くて良く見えなかった方から何かを持ち上げるような動作をした。そして、それを僕が見える範囲まで持ってきて、床に乱暴に落とす。
それに、その人物に、僕は目を見開いた。
「……え……?」
「ほーら、見えますかー?」
彼が示した方向には、隣さんが居た。壁に背を預ける形で、意識があるようには思えない。
「な、なんで隣さんが、ここに」
「いやー、割とさっくり行けちゃったもんだから、折角だから見せちゃおっかなって」
彼がそう言いながら、愛泥さんの長い黒髪を弄ぶ。
瞬間、僕は無意識の内にナイフを取り出し、彼に突きつけていた。内側から、熱い何かが燃え始める。
「……その手を退けるんだ。今すぐに。僕は、そこまで気は長くないぞ」
「はっははー。この人の事情になると怒りやすい……いや、身内かな? どっちにしろ、この人は貴方にとって大切な人な訳だ」
だが彼は僕の脅しなんて無いように、しゃがみこんで隣さんの輪郭を指で沿うように撫でる。その光景が、より一層、僕の炎に油を注ぐ。
「分かったらさっさと隣さんから手を離せ」
「ははは。怖いなぁ先輩。そんな小学校に通っててもおかしくない体なのに、威圧感だけは物凄いや。小学生レベルで」
こちらに向かって不敵な笑みを浮かべる彼。そこには爽やかさなど微塵もない、ただの下衆が居た。
「……いい加減にしなよ」
「落ち着きましょ。血の気が多いんだから全く」
「落ち着いてられないから怒ってるってのが、君には分からないのかなぁ?」
だが彼は一切反省する気もないと言わんばかりにこう返す。
「いえいえ分かりますとも。むしろ分かるからこそこうやって焦らしてるんですよぉー。分かってないなぁー。これだから針音先輩は」
僕の中で、スイッチが入れ替わるような音がした。この人間だけは許せないと。
今まで会ったことのない人種だった。まるで、人の不幸を、苦しみを無条件に笑えるような、そんな人間とは、一度たりとも出会ったことは無かった。だが、一条正義とは明らかにそれに当たる人物だった。
「……」
「あー、無反応って結構傷付きますよー。僕みたいな人間は、相手の反応目当てに嫌がらせするんですから」
「……反応って、君を殴る事かい?」
「さぁ? この光景を見ても、そんな事が出来ますかね?」
彼が指を鳴らす。すると、隣さんが立ち上がる。だが、その目は何の光も映し出していない。感情豊かな彼女は、そこにはいない。あるのは、体だけ。心というものが、感じられなかった。
「ククク、僕のハートの力です。どうです? 中々面白いでしょう?」
「な、何をしているんだ」
「体を動かしているだけですよ。別に害はありません。まあ、彼女は一切体の自由が効きませんけど」
「今すぐ止めろ!」
僕の叫びに、彼はつまらなさそうな顔をする。コイツは、僕らのことを遊び道具としか捉えていないのだろう。
僕の事はどうだって良かった。ただ、その中に隣さんが含まれていると考えると、ムシャクシャして仕方なかった。
「ちぇーっ。連れないなぁ。まあいいや。人形遊びとかもう飽きたし。じゃあ交渉です」
「交渉……?」
彼はくるりと自分を回す。
「簡単なトレードですよ。僕のハートからこの人を解放する代わりに、今度は貴方に僕のハートを受けてもらう」
「……」
「おやぁ? おやおやおやおやぁ? だんまりですかそうですか。なら勢い余ってこの人形をぶっ壊しちゃうかも知れませんねぇ?」
彼が制服から取り出したのは、大きなハサミだ。殺傷能力は、十分にある。
「や、止めろ!」
「はぁ?」
「わ、分かった。……僕にハートを使え。だから……隣さんには何もするな」
彼は僕の言葉にそのハサミをしまい、笑ってこちらを向く。ニヤニヤと、楽しむような目付きを伴って。
「んー、まあいいでしょう。約束は守ります。じゃあ、避けないで下さいね?」
すると、彼の手の平に巨大な釘が現れた。いや、どちらかと言えばボルトのような、ネジのような、そんな形状だ。
「……その赤い釘が、君のハートなのかい?」
「運命の赤い糸ならぬ、運命の赤いネジってどうです?」
そして、彼がその杭を、僕の胸に突き刺した。痛くはないが、代わりに何か異様な気味の悪さのようなものが流れ込んでくる。
「打ち込むだけで、僕の傀儡の完成……ってね。期待してますよ。針音先輩」
その言葉を最後に、僕の意識が真っ黒に塗り潰された。
次話>>76 前話>>74
- Re: ハートのJは挫けない ( No.76 )
- 日時: 2018/08/13 22:05
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: zbxAunUZ)
僕の意識が、真っ黒に塗り潰されていく。視界から色が消え失せつつある中で、僕は最後に言う。
「……正義君、君のハートは解かない方がいい」
「へぇ、まだ意識があるんですね。針音先輩。で、どうしたんです? 僕のハートの虜になりましたか?」
表情筋だけでも動かして、精一杯の強がる笑みを作る。少しでも、彼の悔しがる声が聞きたかった。
「君のハートが解けた時、僕は君を後悔させる。僕達に手を出したことをね」
「へー。針音先輩が? いやいや無理でしょ」
僕を鼻で笑う彼に、言ってやる。
「……なら試しに解いてみなよ。きっと、君にごめんなさいって言わせて上げるからさ……!」
僕の最後の負け惜しみを。
○
気が付けば、僕はいつの間にか教室から別の場所へと移動していた。確か、正義君から頼みがあると連れ出されたのだったか。
「針音先輩? 大丈夫ですか?」
僕の前には、一人の男子生徒。確か……一条正義君、だっただろうか。
周囲を見回すと、屋上へと続く階段だと言うことが分かる。薄暗くて、壁の角やらが良く見えない。
「ああ、ぼーっとしてた」
「そうですか……ビックリしましたよ」
「ごめん」
イマイチ状況が整理できていない。気がついた時にはここにいたのだ。恐らくボーッとしていたのだろう。
「それで、頼みって何?」
僕がそう聞くと、彼はキョトンとした表情を浮かべた。え、僕何かまずいことでも言ったのだろうか。
彼は気まずそうに僕から目をそらしつつ、頬をかきながら僕に言った。非常に言いづらそうに。
「ええと……用事はもう終わったんですけど……覚えてません?」
そう言われて、こちらが驚いてしまう。僕の記憶には、彼から頼み事をされた記憶はない。だが、何故か意識を失っていて僕の記憶は抜け落ちている。彼の発言を信用するしか無かった。
「そ、そうだったね」
「はは、意外と針音先輩って抜けてるところあるんですね」
「実はね……そんなに意外でも無いと思うけど。じゃ、僕はこれで」
僕はそのまま彼から離れて、階段を駆け下りる。記憶が抜け落ちるなんていう、不思議というか怖い現象に遭ったのもあり、できるだけ薄暗いところに留まっておきたかったのだ。
それに、何か嫌な予感がした。あそこに居てはいけない。居たらダメになる。そんな感覚がしたのだ。
正義君と何をしたのかは分からないが、彼は特に悪い事とかしないタイプの人だろう。害がないなら、気にしないでもいいか。
なら、さっきの感覚はなんだろうか。あの変な感じ。
──こんな風に考え込んでいたものだから、正義君が最後、ポツリと何かを言ったのに、気が付く事が出来なかった。
「……ちゃんと記憶が抜け落ちたみたいで、安心しましたよ」
彼は、なんと言っていたのだろう。今となっては、それを知る術は無い。
○
約束の場所へ向かった俺を待っていたのは、ベンチに足を組んで座る一条だった。彼はこちらに気が付くと、ニヤリと笑みを浮かべる。
「随分、ゆっくりしてたんですね」
彼は公園に設置された、柱の頂点にある時計を見上げながら俺に言った。丁度時計は午後五時を示している。
「悪いな」
「まあいいですよ。ふふ、時間はたっぷりありますからね」
彼はベンチの右端に寄ってスペースを作る。俺に座れと言いたいのだろう。だがそれを無視して、俺は柱に背を預ける。彼の纏う雰囲気からか、あまり近付きたいとは思わない。
そんな彼はこちらを見た後、笑いつつも再び座る位置を戻す。そして口を開いた。
「端的に言うとですね」
彼は座ったまま、こちらに右手を伸ばして言う。ニヤリと笑った目線が、こちらの体に纏わり付くような感触を覚えた。
「僕の、お仲間になりませんか」
「断る」
反射的に、そう答えていた。
「やれやれ、話の詳細も聞かないうちに即答とか、僕も嫌われたものですね」
彼はやれやれと言わんばかりに両手を中途半端に上げ、わざとらしい大きな溜め息をつく。
「話はそれだけか」
「少しは余裕って奴を持ちましょうよ。どうです? 続きはあの辺りを右に曲がって真っ直ぐ行った所にある喫茶店で」
「いい加減にしろ!」
彼の回りくどい言い方に、思わず口調が強くなる。だが彼は俺の起こる様子をみて、一層そのふざけた笑いを深める。
「単刀直入に言え。お前は何がしたい」
「……対話を積極的に楽しもうとした僕がバカでしたね」
彼は不満そうに立ち上がり、俺に相対をする。水が流れる音だけが響き、それが20秒程続いた後、彼は言葉を繋ぎ始める。
「僕は貴方に協力して欲しいんですよ」
「…………目的は」
「正義の為、ですかね」
その言葉を聞いて、余りに彼のイメージに沿わないものだから、笑ってしまう。
「お前が正義? 笑わせんなよ」
俺が、そう言った。
瞬間、彼がフラリと立ち上がる。
そしてこちらを向いた。
それはもう、ゆっくりと。
「は?」
その目は──生きてはいなかった。
正気も生気も、そのレンズには映されていなかった。そこにあるのは、深い黒。どこまでも続くような、黒い黒。
口を開けた彼が、一歩、また一歩と俺に近づく。足音が一つ一つ近付いてくる。それは分かっている。当然理解している。
だが、動けない。
彼の目が、視線が、その瞳が、俺をこの場に縛り付ける。動くなと、訴えてくる。そして俺は、それに釘付けにされていた。
「僕はふざけてなんかいない」
彼が胸倉を掴み、俺の顔を引き寄せる。そして、その深い黒を、俺の目に見せ付けるように合わせてくる。
彼の目の底には、何も無い。一つの色で、満たされている。
「僕は今まで正義の味方を目指してきた」
彼の力が、強くなる。
その源は、俺への怒り。
「それに偽りなんて、何一つない」
彼の瞳を見つめていると、本当に自分の中が侵食される気がした。何か、何か見てはいけないものを見てしまった気がした。
だから、彼を思いっ切り突き飛ばした。体格差的に、当然彼は俺から離れる。だが、力がそこまで入っておらず、彼を地面に倒すには至らなかった。
「なんだテメェ! 急にこんなことしやがって!」
「……ククク……まあ良いですよ……」
唐突に、彼は両手を大きく広げ、天を仰いで、これ以上ないくらい、清々しい笑顔を浮かべた。
ネジが一つや二つくらい、吹き飛んでいそうなほどに、痛快な笑顔を。
「僕はあなたを打ち倒す! あなたを打ち倒し、あの化物を連れて『あの人』の元へ行く! 例え、貴方と化物を殺してでも!」
狂っている。
直感的に、そう感じた。
コイツは他の奴らとは違う。自分や他人に酔ってるとか、その次元じゃない。もはやこれは、信仰に近いものだ。彼は、『あの人』とやらに、異常なまでの盲信をしている。
「おい」
だが、そんなことはどうでもよかった。
「化物って、誰だよ」
俺にとっては、そんなことよりも、もっと重要な事があるからだ。
彼が姿勢を戻して、首だけを異様に傾けて疑問符を述べた。
「はい?」
「化物が誰かって聞いてんだよ!」
返答によっては、俺はコイツを殴らなくてはならない。
「やだなぁ、貴方が一番良く分かっているでしょう? でも貴方は目を背けている」
目の前のコイツは、俺の方に顔を寄せ、舌を伸ばしてニタニタとした笑みを浮かべる。
そして、耳元でこう囁いた。
「彼女が」
俺にとって、最悪の言葉を。
「無川刀子が、化物だって」
瞬間、視界が一瞬だけ紅く染まった。
『友─梨─が化物だとな』
そのセリフが、思い出したくもない過去と、重なる。
「無川刀子は、人間の皮を被った──」
また、視界が紅く染まる。
『友──花は、人間の皮を被った──』
止めろ。
その先を言うな。
『「怪物だ」』
聞きたくもない一言に、頭の中が振り切れた。
思い出したくもない一言に、過去の記憶が擦り切れた。
目の前の奴と、あの男が、重なって見える。
「殺すぞ」
その言葉が、余りに自然と、口から出た。
正義が、俺を見る。
俺は、正義を見る。
彼の瞳には、俺の瞳が映り込んでいた。
俺の瞳と、彼の瞳は、驚く程に、似通っていた。
次話>>77 前話>>75
- Re: ハートのJは挫けない ( No.77 )
- 日時: 2018/09/21 17:04
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
俺と正義が目を合わせる中、向かい合う彼は、ふっと軽く笑って雰囲気を弛めた。
「お互い、取り乱しちゃいましたね」
「…………」
「やだなぁ、そんなに睨まないで下さいよ」
何となくで張り詰めた雰囲気は、俺の中で消化不良のままとなった。だが正義はそんな事には構いもせずに、その口からペラペラと相変わらず掴み所のない言葉を吐く。
「ところで先輩。僕、一つだけ謝らなくちゃいけない事があって」
彼は俺に申し訳なさそうな半笑いを浮かべて頭を掻く。だがそれは本気で反省しているのではなく、むしろわざとらしく取り繕ってこちらを煽っているとも取れるものだった。
「朝、言ったじゃないですか。一人で待ってるって。でも、不安だったので一人付いてきて貰いました」
そういえば朝、彼は一人で待っていると言っていた気がする。
不安だった、というのは俺が彼に襲い掛かる想定でもあったのだろうか。何れにせよ、俺にその気は全く無かった訳だが。
「はっ、最初っからそのつもりだったんだろ。で、何処だよ。お前の伏兵ってやつ」
俺の言葉に、彼はその口の端を吊り上げた。
瞬間、嫌な予感が、俺の背後を通り過ぎた。
「いやいや、伏兵だなんてそんな大層なものじゃないですよ。それに──」
彼は右手をパチンと鳴らす。すると、彼の服の裾から赤い光のような、糸のようなそれが溢れ出した。咄嗟に身構えるが、それは俺の方に来る気配はなく、正義の右手首に巻き付き始める。
数秒後には、彼の右手には腕輪が作られていた。六角形のその赤い腕輪は、まるでボルトを固定する器具であるナットのような形状だった。
彼は少しだけ嬉しさ──というより、愉悦を含んだ声でこう言った。
「きっと、貴方の方が『彼』の事を知っているでしょう」
コツン、と。足音がした。
それは噴水の向こう側にいたようだった。今まで水の音で聞こえなかったようだが、それを回り込んで十分に接近した今、ようやく靴の音がしたのだろう。
振り返ると、それの顔が見えた。
見覚えのある、その顔が。
「お前……」
「………………」
俺が呼び掛けても、彼は一切反応しようとしない。ピクリとも動かず、何も感じていないのではないかと疑ってしまう。
「……なんでお前が、ここに居るんだよ」
よりによって、あいつの伏兵として。
「なんで、貫太が居るんだよ」
表情筋の死んだ針音貫太が、静かにそこに佇んでいた。
俺のすぐ横で、本性が覗いたかのように、正義は黒く笑った。
瞬間、俺は正義の胸ぐらを掴んで持ち上げていた。彼の体は軽かった。
「正義テメェ! 貫太に何しやがった!」
「ぐぅ……酷いなぁ、急にこんな事するなんて……」
「さっさと答えやがれ!」
俺の苛立ちとは真逆に向かうように、彼はヘラヘラとした笑みを崩さない。むしろ、俺の反応を楽しんでいるとも解釈できる。
「……忘れてるんですか?」
彼は目を細めて笑った。
「僕はハート持ちだ。ただの無害な一般モブキャラ男子生徒じゃあないんですよ」
そして彼は目を開け、それを見せた。
紅く輝くその右目を。
俺は油断していたのだろう。きっと、コイツが自らアクションを起こす事は無いだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。だが結果がこれ。危機感の無い自分に苛立ちを覚えるが、今はそれ以上に正義に対して憤りを感じていた。
「ふざけんじゃねぇ……!」
「おっと、手を離してもらえます?」
「このまま殴ってやってもいいんだぞ……?」
「はぁー、じゃあ仕方ないですね」
彼がそう言った瞬間、背後から何かが突き立つような感覚がした。咄嗟に首を回して後方を確認すると、俺の背中にはナイフが突き刺さっていた。
貫太が投げた、ハートの力で作られたナイフが。
「ッ……!」
いつの間にか、正義を掴む手の力が緩んでいた。彼は俺の右手を払うと、そのまま驚いて動けない俺を通り過ぎて、こちらに右手を向ける貫太の隣へと向かう。
「……何してんだよ……貫太……」
「…………」
貫太は何も喋らない。
いや、そこに貫太はきっと居ない。そこには心が無かった。彼から滲み出る雰囲気がいつものものとは違い、まるで人間性の欠片もない者が持つ冷徹なものと化していた。
「正義、まさかテメェ……」
俺の頭の中で、まさかと思い浮かぶものが一つあった。
それは、愛泥のハートだ。彼女のハートは人の心理を操り、動くように働きかけるというものだった。彼のハートも、似たようなものなのだろうか。あの右手に付いた赤い腕輪には、何か意味があるのだろうか。
「ま、多分大方予想は付くでしょうね」
俺が思考を巡らせる中、彼は解答を提示した。
「僕のハートは、人を操る力である、とだけ言っておきましょう。現在、愛泥隣と針音貫太は既に手中に収めました。後は……」
彼は左手に、先ほどの赤い腕輪と同じような材質の何かを、今度は左手に作り出した。それは、ネジのような形状をしており、先端は鋭利に尖っている。
「貴方と、無川先輩だけなんですよ」
そして、彼はそのネジの先端をこちらに向けて、言う。
「大人しくして下さい。友松先輩。僕にベッタベタな脅迫のセリフを言わせる前に、ね」
「……クソ野郎が……」
「フッ、中々いい顔してますよ。今。僕を殴りたくて仕方ないって顔です」
「その通りだからよォ。その顔面差し出してくれねぇか」
「お断り、です」
彼はそう言い切った後に、俺のすぐ前まで距離を詰めた。
ここで拳を動かせば、今ここでコイツの顔面を凹ませることが出来る。完膚なきまでに叩きのめすことも可能だ。
だが、万が一、俺が気絶させる前に、貫太に何かをされたら。
それは、ばあちゃんの言うことに反する。
俺には、できない行為だった。
「では、失礼しますね」
彼は俺に、一歩踏み込む。
俺はただ、その得体の知れない赤いネジを見ることしか出来ない。
そして、先端部分が俺の腹部にめり込んだ。
痛みこそは無いものの、それをされた瞬間に、俺の視界が、だが徐々に遠のいていくのを感じる。
「……後は、無川刀子だけですか……」
このままでは、多分俺は意識を失うだろう。その後、どうなるかも分からない。もしかしたら、貫太のように、コイツの言いなりになるかもしれない。
だが──それは、失策だろう。
「……俺を使って、無川を懐柔しようってか?」
俺の言葉に、彼はその笑みを少しだけ崩した。
「だとしたら、失敗だぜ。その策とやらはよ」
「……負け惜しみですか」
「いやちげぇ。本当の事だ」
こいつは何もわかっていないのだ。
「お前は知らねぇんだよ。無川が、俺なんか気にしてねぇって事をな。アイツは割り切って俺を殺すだろうよ」
無川は、一度や二度なら躊躇いなく仮死状態にするだろう。それが例え、知人であろうともだ。
つまり、俺という知り合いで責め立てようとしたコイツの策は、失敗という事だ。皮肉混じりの笑みで、力の限り笑ってやる。ざまみろと伝わるように。
「……そうですか。ありがとうございます」
だが彼は最後までその様子を崩さなかった。意地でもあるのだろう。最後まで弱った姿なんか見せないという、彼なりの。
「テメェは無川に勝てやしねぇんだよ」
「不可能、ですか」
「ああ、そうだ」
俺の返しに、彼はきっと悔しがるなり、残念がるなり、そんな反応を見せるだろうと、俺は思っていた。だが、彼が返してきたのは、その真逆。
「そうですか。それは……」
彼の口から、予想外の言葉が飛び出した。
「とても、燃えてきますね」
何を言っているのか、分からなかった。
「な、何言ってんだ?」
俺の問いに、彼はこう答える。
まるで、無垢な少年のような、彼のイメージとは真逆の笑顔で。
「だって、主人公って、不可能を可能に変えるものでしょう?」
俺は、正義の最後の言葉の意味を、十分に理解しないまま、意識を真っ暗な底へと落としてしまった。
次話>>78 前話>>76
- Re: ハートのJは挫けない ( No.78 )
- 日時: 2018/09/21 17:04
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
あれから約20時間が過ぎた頃。俺は屋上に居た。
すぐ隣には、あの正義がジュースを飲みながら隣の校舎を見下ろしている。他でもない、一条正義本人が。
「おい」
「どうしました?」
「どうしたじゃねぇよ」
昨日、俺は確かにコイツのハートの力で意識を奪われた筈なのだ。貫太のあの様子を見る限り、恐らく釘を打ち込んだ他人の精神に干渉する力だろう。
「なんで俺の記憶を奪わなかった」
俺の質問に、正義はストローから口を離して答える。
「さぁ?」
「答えろよ」
「特に理由なんて無いですし、僕には話す理由も無いです」
素っ気なくそう言った正義に、思わず声を荒らげてしまう。
「……ああそうかよ!」
クソが。今すぐにでもコイツを殴ってこんな茶番を終わりにしたいが、今の俺にはそれが出来ない。
何故なら、封じられているからだ。昨日の出来事を正義以外に話す事。正義の事を他人に伝える事。そして、正義を攻撃する事。俺は今、奴のハートによって奴に不利な行動はできないようになっている。
「……別に僕は貴方と敵対したい訳じゃないんですよ」
「昨日は散々だったがな」
「ほら、雨降って地固まるとかなんとか」
「雨じゃなくて火災だったろ」
「それに、奪わない方が面白いんですよ」
「……?」
その含みのある発言と共に、奴は再びストローに口を付けて視線を戻した。
きっと、その顔は愉悦を浮かべていたのだろう。
その心は、俺には分からない。
「……何、考えてんだよ」
「そういうのは言わないお約束ですよ。先輩」
「お前が何を企んでるのか知らねぇが、何もせずに黙っている程俺はお利口ちゃんじゃねぇぜ」
「へー。じゃあなんかしてみて下さいよ」
瞬間、一歩踏み込んで奴の顔面に拳を叩き込もうと腕を振るう。
「バカですか?」
だが拳は当たる直前で意志に逆らい、進行方向を変えて空を切った。正義は微動だにしていない。
「だから言ったじゃないですか。当たらないし当てられないって。今のちょっとイラッとしたんで、これ捨てといて下さい」
正義が紙パックを投げ捨てると、俺の体は勝手に動き出した。屈んだのも、紙パックを拾ったのも、俺の意思ではない。操られているのだ。
「それじゃ、僕はこれで」
背を向けたまま俺に言い残し、彼は屋上から立ち去った。紙パックでも投げつけてやろうかと思ったが、それは俺の手から離れそうにもなかった。無意識に動いてしまう右手によって。
「……分からねぇ」
どうしても、分からない。
こんなに完璧に俺を操れるなら、奴は何故俺に身投げなりなんなりさせて排除しない? 百歩譲って無川と乾梨を攻略する為に人質なりに使うとしても、俺に意思を残す必要なんてなかった筈だ。
今まで味わったことの無い、気味の悪い感覚に悪寒が走り、俺はさっさとその場を離れてごみ捨て場に向かった。
今まで昼休みだった為、掃除を挟んで五限目。当然、授業なんか集中できたものでは無い。だが安らかに眠ることも出来ず、苛立ちが積もるばかりだ。
シャーペンを握り、取り敢えず板書だけしておく事にした。後から振り返るかどうか分からないが、しないよりマシだろう。
黒板を写す中、教師の後ろが見えなくなった。良くあることだが、この教師は一度黒板に書き終えたら、その後は中々動かないのだ。その為、その場所を写し取るには授業後しか無い。
結局、授業中に教師は動くことなく、終わってから俺は前に移動し、教卓にノートを置いて不明だった場所を写そうとして、ふと気が付く。
文章の中に紛れた、『正義』の文字。
気が付けば、俺は既にその文字を書き写し終えていた。
それを見て、電撃が走った。
(文字に書くことは出来る。つまり、話せる)
俺はすぐさま、脳裏に閃いた考えを行動に移した。
○
ヒーロー、などというものは、特別な人間しか成れない。
そんな事は知っていた。だから、そうなろうと頑張ったつもりだった。
でもダメだった。何回も挑戦して、失敗して。でも逸材は悠々と飛び越えていく。僕が躓いた場所も、転んだ箇所も、飛び越えられないハードルも。涼しい顔で去っていくのだ。
悔しさをバネにしようとした。失敗から何か学ぼうとした。自分を変えようと、必死になった。でも、その間にも逸材は進む。僕がまだ知りもしない場所へ。
そしていつしか、諦めた。
僕が止まった時、皆はきっとこう思った。いや、間違いなく思っていた。
「ようやく夢から醒めたか」なんて。
内蔵を引きずり出したくなるくらい、腹の中がムカムカした。掻き毟っても収まりようのない、内側で暴れる感情で、どうかなってしまいそうだった。いっそ、この体ごと無くなってしまえと、本気で思う程に。
「あら」
そんな時だった。
彼女が、僕を見つけたのは。
「どうしたの? 貴方はそんな素敵な心を持っているのに、何をしているのかしら?」
僕が戻れなくなる寸前で、彼女はその手を僕に伸ばしてくれた。
「私? 私の名前は──」
その時、僕は決めた。
「──よ。貴方の名前を教えて頂戴」
この手を離したりなんてしないと。
「一条正義……」
僕はもう、他のものなんて要らない。
「一条の正義、良い名前ね」
彼女が名前を呼んでくれさえすれば。
「正義君、私と一緒に──」
彼女と共に、僕らの『正義』が守れたら。
「なにも、要らないんだよ」
○
「乾梨ぃー!」
教室の内に向かって呼ぶと、案外近くにいた乾梨が一瞬だけ肩を上下させた後、こちらを向いた。その目は不安に近い何かを映し出している。
「ひゃっ!? ……と、友松さん……?」
「ワリィ、声が大きかったか?」
「あ、いえ、急に呼ばれたのでビックリしただけです……」
手招きで教室の外に呼び、俺は軽く事情を説明した。
「スマン、急ぎの用があるんだ。屋上、来てくれないか?」
「でも……お仕事は……」
「仕事じゃねぇ。個人的な話だ」
『ふふふ、少しは落ち着いて下さる?』
唐突に無川が乾梨から飛び出てくる。口調が以前のエセお嬢様になっていた。無論、姿は中学生のまんまである。ハッキリ言って、似合わない。
「無川、その口調と姿の組み合わせ、違和感の権化だぞ」
『あぁ!? 言葉遣い汚ぇとか言ってたのテメェだろうが!』
「そういうとこだぞ」
いつもの無川に戻ったところで、2人に説明をする。
「悪いな無川。まあそんな事はとにかく」
『そんな事ってなんだ、コラ』
「ここじゃ話し辛いんだよ」
最初は何を言っているんだと言わんばかりの様子の2人だったが、どうやら俺の真剣さが伝わったらしい。2人は分かった、とだけ答え、俺についてきてくれた。
屋上に出てから、誰かに盗み聞きされないように扉から離れる。床の真ん中辺りに来たところで、俺は二人の方を見た。
「話ってのは……俺、今訳あってそれが出来ねぇんだよ」
『はぁ?』
無川の気の抜けた声が出るのは予想の範疇だ。俺はポケットから折り畳んだルーズリーフを取り出す。
ここには正義に関する一件の事が書かれている。アイツの詰めが甘かったのか、俺は奴に関することを言うことは出来ないが、書くことは出来たのだ。
「訳の分からんこと言って悪い。だがこれを読んでくれ。多分、全部分かる」
「えっと……それ、手渡してくれないと読めないんですけど……」
無川が宙に浮けるものだから、乾梨も高低差は関係無いと思い込んでしまっていた。慌てて、それを乾梨に差し出す。
突如として、腹の中から変な感触がした。慌てて左手で抑えると、そこが丁度、正義から釘を打ち込まれた場所だということに気が付く。
無意識の内に、俺は右手の中のルーズリーフをグシャグシャに丸めていた。
2人は驚きを隠せていない。そして、乾梨が目を見開いてこちらを見る中、俺は気が付けば、その細い首に両手を伸ばしていた。困惑しつつ解こうとするが、離れない。手が開かない。乾梨の首の感触だけが伝わってくる。
「まさか……!」
俺は、見た。
屋上の入り口に背を預けて、奴が立っているのを。
彼の左手首には、赤い六角の腕輪があった。
「ありがとうございます。友松先輩」
彼はとびきりの爽やかな笑顔でこう言った。
「僕の筋書き通りに泳いでくれて」
手の平で、乾梨が弱っていくのを、確かに感じた。
次話>>79 前話>>77
- Re: ハートのJは挫けない ( No.79 )
- 日時: 2018/09/29 12:08
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「僕の筋書き通りに泳いでくれて」
正義の声が、嫌な程耳に響いた。
それとは対象的に、手の中の乾梨の首から発せられる声は聞こえない程になっている。だが、外したくても外せない。自分の意識から離れたそれが、勝手に彼女を絞め上げる。
「貴方がこの結論に辿り着くのは予想通り。そしてどんな行動に出るかも、ね」
満足気な声音のまま、彼は言葉を続ける。
「僕が危惧していたのは無川刀子の観察力だ。彼女は何故かは分からないけど簡単に人の嘘を見抜く。そして嘘が嫌いだ。仮に僕が貴方に無川刀子を目立たない場所に連れ出すように命令しても、僕の操作ではどうしても実際の貴方とは少し離れてしまう」
だから、と彼は右腕を見せる。彼の手首には、赤い腕輪が輝いていた。どう考えても、通常の製品などではない、ハートの力で作られたものだ。
「わざと命令に隙を作った。貴方が自ら、無川刀子をここに誘い込むように、ね」
奴の名前を呼ぼうとした。怒りを込めて、名前を叫んでやりたかった。
だが、俺の口は動かない。俺の視界も、最早俺の支配下には無い。俺に出来るのは、自らの意思で動かせない体の内側から傍観する事。ただそれだけだ。
「一応僕もここで待ってましたけど……必要ないみたいですね。いやぁ」
正義は一層、笑って言った。
清々しさの欠けらも無い笑いは、不気味な程に楽しそうだった。
「『貴方の意志』で無川刀子を殺してくれるなんて」
この言葉の意味を、俺はすぐに理解した。
奴は、乾梨と無川に、俺自身の意志で乾梨を殺そうとしている。そう思い込ませようとしているのだ。
「ああ」
否定したかった。
「そうだ」
だが、俺の口から出たのは、真逆の言葉。
その直後の事だ。凄まじい衝撃が、俺の腕を体ごと吹っ飛ばした。当然、手のひらに掴んでいた乾梨の首も放していた。
「何やってんだこの馬鹿がぁ!」
勝手に動く視界は、いつの間にか幽霊状態ではなく、具現化した状態で屋上の床に立っている無川を映し出していた。今の蹴りは、無川が現れて放ったものだったのだろう。
いつもなら、俺はきっとありがとうだのと感謝の言葉を述べていたのだろう。
だが、俺の体は立ち上がり、華奢な体に拳を突き出していた。
「クソ! 正気に戻れ共也ァ!」
無川の手に黒い刀が生成される。彼女はその刀で俺の拳を受けると一旦跳躍して後ろに下がり、咳込む乾梨に手を貸して立ち上がらせる。
「おい『オレ』、ハートは使えるか?」
「……い、一応……でも……上手く使えるか……」
「十分だ。防御に専念してろ」
無川が俺の方を向いて刀を構える。一方、乾梨もその手に刀を作り出していた。黒ではなく、白い刀を。
「へぇ。分身なんて出来たんですね。無川先輩」
いつの間にかかなり近付いていた正義が、無川に言う。彼は無川達を挟んで俺の向かい側にいる。彼女は正義の方を向き俺に背後を見せつつ、怪訝な顔を向けて言葉を返した。
「誰だテメェ」
「ああ、すみません。でもこの目を見たら分かるんじゃないですか?」
彼は一度右目を伏せた。数秒後、再び開く。
それの色が、黒から赤へと変化した。その色は、無川の赤い目と同じような色をしている。
「……テメェ、あのクソ女の手下か」
「クソ女って言い方、止めてもらえます? まあいいでしょう。確かに、『彼女』の手下です」
「何しに来やがった」
「落ち着いて下さいよ。全く、貴方も友松先輩も、結論を急ぎたがるんですから」
「まどろっこしいんだよクソ赤目!」
「……はぁ。分かりました。説明します。説明しますから、その呼び方、少しは改善して下さいね?」
正義はため息をついた後、言った。
「僕は貴女を連れて来るように言われたんですよ。『彼女』からね」
「断る」
目の前では訳が分からない会話が繰り広げられている。だが、少なくとも正義の言う『彼女』とは、浮辺達が言っていた銀髪の女性を指すのではないかと感じた。他者にハートの力を発現させる、という謎の人物の事だ。
つまり、正義のバックにはその人物がいる。俺の知らない、誰かが。
「……一応言っておきますが、眠っていた貴女を呼び覚ましたのは『彼女』ですし、貴女達の手に握っているその刀を与えたのも『彼女』なんですよ?」
「あぁ!? だからなんだってんだ! オレ達はテメェらの玩具じゃねぇんだ! テメェらに好き勝手改造された挙句に利用されてやる筋合いなんざ何処にだってねぇんだよ!」
無川の声音は、怒りに満ちていた。例えその表情が分からずとも、確かにその声音には正義への明確な敵意が表れていた。
正義はその言葉をゆっくりと噛み締めるように、ゆっくりと息を吐き出し、静かに言った。
「勘違いしているようですが」
「貴女方に拒否権なんて無いんですよ?」
瞬間、正義の手に赤い杭が生成され、彼は無川に向かって踏み込んだ。その間合いは5メートル程度。武器が長い無川が有利ではあるが、彼女は乾梨の事もあってその場から迂闊に動くことは出来ないようだった。
そして俺の体もまた、勝手に無川の方へと走り出していた。不味い。無川は前に意識が向かっていて、背後から迫る俺の存在に気がついてはいない。
直後、正義が突き出した赤い杭が無川の刀と衝突して派手な音を撒き散らした。正義の右手が大きく後ろに弾き飛ばされるが、彼は笑っている。
「後ろ、ガラ空きですよ?」
その声に、無川が咄嗟に振り返るが、もう遅い。俺の拳は、既に避けられない程に近づいているのだから。
「共也ッ……!」
彼女の悲痛な呼び声は、白い刀で遮られた。
「……さ、させません……」
乾梨がぎこちない動きで俺の拳の前に立ち、刀で受け止めた。だが手に伝わった衝撃は彼女の腕を痺れさせるには十分過ぎた。白い刀が音を立てて乾梨の手からこぼれ落ちる。
「しっかりしやがれこの馬鹿野郎が!」
その間に無川が乾梨の後ろから、俺に向かって刀を投擲した。俺の体は咄嗟に横に転がってそれを回避。再び2人と間合いが開く。その間に彼女らは2人で正義と俺から離れるように、階段の方とは逆向きへ走った。
「あの立ち位置はマズイ。挟み撃ちじゃ勝ち目がねぇ」
無川はそう言い聞かせながら乾梨の手を取って走る。フェンスが近くなったところで彼女らは止まり、2人は再び手に刀を作り出す。
「友松先輩、無川先輩をお願いします」
「ああ」
正義は俺を無川にぶつけ、自分と乾梨の一対一を望んでいるようだ。正直、そうなってしまえば乾梨に勝ち目はない。
そう考えている間にも、俺の体は勝手に動き、無川と相対した。小柄ながらも相当な威圧感と剣呑な目線を飛ばす無川。この光景はまるで数週間前と同じだ。
「……どうしちまったんだよ、共也……」
「…………」
表情とは裏腹に、震える声で尋ねる無川に、俺は文字通り何も言えないし、何もしてやれない。ただ、心の中で謝ることしか出来ない。
「オレは……オレはお前を斬りたくないのに、なんで」
「うるさい」
俺の口から出た端的な否定文に、無川は目を見開いた。動揺をあらわにした無川の致命的な隙を、俺の体は見逃しはしない。ハートの力で一気に距離を詰め、少し屈み膝を曲げた足の靴底を彼女の腹部に合わせる。
「──あ」
腑抜けた無川の声と同時に、俺の足は無川の鳩尾を踏み抜いた。数メートル程度吹っ飛ばされた華奢な体が、フェンスに激突してガシャンと軽い音を立てる。
「どうでもいいんだよ。お前の言葉は」
俺の口を縫い合わせてしまいたいと思った。
今の言葉達が、攻撃以上に無川を傷付けている気がして。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.80 )
- 日時: 2018/10/19 20:48
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「どうでもいいんだよ。お前の言葉は」
無川はその言葉に、一体何を思ったのだろう。その心を推し量ることは、俺には出来ない。
ただ自分の無力さを感じる事しか、俺にはできないのだ。
「……共也…………」
彼女はフェンスを掴んで、膝を震わせながら立ち上がる。俺を呼ぶ声は、今までで一番小さく、弱いものだった。
「……なんで……」
信じられない。その目は異常な程に不安に満ちていた。強さなんてものは、何処にも見当たらない。その表情が、声音が、様子が、俺に衝撃を走らせる。
どこかで思っていた。無川は強いから、きっと何をされようが大丈夫だろうと。
だが目の前の少女はどうだ。たかが一言。たかが一撃。それでもう、立つのがやっとという程に傷付いているではないか。
俺の考えは間違いだった。無川は強いように思えて、心の底では弱かったのだ。それを言葉遣いや行動に出さないだけで、とても繊細な『人間』だった。
思い返せばそうだ。彼女は言葉や行動で周囲を排斥してきた。鋭いトゲ付きの硬い殻を被っていた。でもその中にいたのは、何処にでもいる、弱虫な少女だ。そんな彼女には、たった数個の言葉が致命傷なのだ。
何故俺はそんな彼女を理解してやれなかった? ずっと近くにいながら。
もしそれに気が付いていたなら、もっと別の結末があったかもしれない。
再び、俺の体が再び動き出す。一気に無川に肉薄し、拳を突き出す。彼女は危なっかしいステップで避けつつ、俺に刀を振るう。明らかに、向こうの動きは悪くなっていた。
しかし、それには力はこもっていない。速度の遅いそれは俺の右手に簡単に弾き飛ばされる。武器が無くなったところで、無川の鳩尾に拳が突き刺さる。
「ガッ──!」
「お前は弱い。弱いのに強いフリをしている」
更に俺の体は容赦なく無川に追撃を加える。腹部に膝を打ち込み、更に身体中を殴打していく。悲痛な無川の小さな呻き声が、俺の精神だけを蝕む。止めろ。今すぐ止めろ。なのに、俺の体は止まってくれない。
「その結果がこのザマだ。見ろよ。ハートの力さえ使えなければ、お前はただの雑魚だ」
その言葉を口から発していた頃には、無川への攻撃は終わっていた。俺に胸倉を掴まれ持ち上げられた無川は、抵抗の意を失っているようにも思えた。形だけは手を外そうとしているものの、力が全く篭っていない。
「結局、お前はなんにも変わっちゃいないんだな」
俺の身体は無川をフェンスに目掛けて叩き付ける。そのまま体を押さえ付け、無川と目を合わせる。彼女の目には、いつもの強気な光が消えていた。代わりに、その目を暗いものが満たしている。
「……そんな」
無川が何かを、絞り出すように呟いた。
「そんな、嘘、だろ。なぁ、共也」
彼女の目の端から、水玉が湧き出た。それは次第に、ボロボロと彼女の頬を濡らす。
「嫌だ。共也、お前言ったじゃないか。信じろって。なのに、なんで」
その目に、言葉に、彼女の様子に。俺は気が狂う程、自分の無力さを思い知った。俺は、俺はこんな少女一人すら満足に救えないのだ。
「俺が言ったことは、嘘だ」
俺の体は、俺の思い通りに動かない。当然、俺が思った言葉を吐かない。
「違う! お前は、言ったじゃないか! あの時、オレを裏切らないって! そう言ったじゃないか!」
無川の悲痛な破れた声が、彼女の喉から零れるように発せられる。涙混じりの声音は、既に彼女の心が折れている事を知らせていた。
だが俺は、何も出来ない。
その涙を拭ってやる事も、傍に立って支えてやることも。一つの言葉すら掛けてやれない。
「そうか。じゃあお前は、俺にも裏切られるんだな」
無川の目が見開かれた。絶えず溢れ続ける涙は実体が無いのか、落ちても虚空に透けていく。気が付けば、無川が俺の手をすり抜けて床に落ちた。
彼女の意思が折れ、具現化を保てなくなったのだろう。今の彼女を傷付ける術は、俺にはない。そう悟ったのか、俺の体は、無川から目を離し、もう一人を見詰める。
「……友松……さん……」
「次はお前だ。乾梨」
彼女は、乾梨は間違いなく怯えていた。身体の震えや硬直具合から、如何に彼女が緊張していたかを察した。
だがそれとは対照的に、彼女の目は死んではいなかった。無川よりも強気な目で、俺を睨み付ける。
俺は意外だった。彼女が、そんな目をするなんて思っていなかったから。
「乾梨。俺はお前は話が分かると思っている。一緒に来い」
「……あ……」
乾梨の手が、俺の手に掴まれた。彼女の震えが、直に伝わってくる。その細腕は、きっとなすがままにされていた事だろう。
以前の、彼女なら。
俺は勘違いしていた。無川だけではない。乾梨の事も。
俺は乾梨を弱く、脆い人間だと思っていた。無川の後ろでいつも怯えている、そんな風な臆病な人間だと、そう思っていた。
だから、
「……や、止めて下さい!」
彼女が俺の手を払ったという事実に、俺は理解が追い付かなかった。
その間、無川は正義に向かって言い放った。後ろ姿は、震えている。だが、彼女の背中は大きかった。
「……貴方に、言ったんですよ」
「なんの事です?」
正義が若干不機嫌そうに返すと、乾梨はいつものような絞り出す声ではなく、堂々とした声音で言った。
「貴方が、友松さんにこんな酷いことをしているんだ。だから止めて下さい。じゃないと」
彼女はその右手に、白い刀を作り出してそれを正義に向ける。
「私はもう、貴方の事が許せない」
確信に満ちた台詞に動揺をあらわにした正義は、何を言っているんだとジェスチャー付きでこう返す。
「僕は何もやっていません。全て友松先輩の意思で」
「じゃあ……何故……貴方は動かないんですか」
乾梨の上擦りつつある声音に、正義は苦しそうな顔をした。
「貴方は……動かなかったんじゃない。動けないんだ。人はラジコンを操りながら複雑な動きなんて出来ない。それと同じように、貴方は友松さんを動かしながら動くなんて出来なかったんです」
「……別に、僕がやる必要性を感じなかっただけですよ。それに、彼だって自分の言葉でちゃんと」
「……ふざけないで下さい!」
静かな乾梨の怒りが、ハッキリと彼女の体から、声音から滲み出る。その姿を、俺は初めて見た。その形相を背後から見ることは出来ないが、きっと見たこともない顔をしているのだろう。
「友松さんは、貴方が思っているより何倍も優しいんだ。そんな彼が、表情変えずに人を、ましてや『私』を殴れる訳がないんですよ!」
「……裏切られたって、分からないんですか?」
「絶対に彼は裏切らない。だって、『私』がそう言ってたんです。『私』に嘘なんて……吐けるわけがない!」
正義が、乾梨の頬を張った。彼は息を荒くしつつも、彼女の首元を掴んで睨み付ける。
俺は意外だった。彼が、そんな取り乱した様子を見せるなんて、思いもしなかった。正義は常に落ち着いた様子で舐め回すように獲物を仕留める奴だと思っていた。
だが目の前の彼はどうだ。痛い所を突かれて癇癪を起こした小さな子供のようではないか。
「イライラするんですよ……! 貴女みたいに、一途に人を信じている馬鹿を見ると……!」
「貴方みたいに、人形しか信じられない人よりは何倍もマシです……!」
「うるさい!」
乾梨を突き飛ばして、彼はその手に赤い釘を作り出した。床に尻餅をついて立ち上がれない彼女に、正義が迫る。
「……まあいい。貴女さえ操れば、こちらが勝ったも同然だ……!」
「やっぱり、操作していたんですね」
「そんな事は関係無いんです。貴方はもう、終わりだ」
そう言って、彼はその釘を振り下ろした。
「──ッ!」
そして、乾いた音を立てて。
彼の持っていた釘が砕け、彼の手は乾梨を空振った。
「…………あ?」
飛んでくるようにして急接近し、その釘を粉砕した彼女は、正義の気の抜けた声に対し、全力で刀を振り抜いた。
「『オレ』に……手を出してんじゃねぇ! このクソ赤目野郎がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その振りを、咄嗟に作り出した釘で受けた正義。だが姿勢の崩れた彼は、いとも簡単にフェンス際まで吹き飛ばされた。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.81 )
- 日時: 2018/10/15 20:13
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「『私』!? 大丈夫!?」
「ンなわけねぇだろう……が……」
刀を振り切った姿勢のまま、無川は力尽きるようにその場に倒れ込む。黒い刀は姿を消し、彼女の姿が徐々に薄くなっていく。乾梨の外で自分の姿を保つ力すら無くっているのだ。
「……フン、死に損ないの癖に……」
少しだけ切った口元を擦りつつ、正義は立ち上がってそう言葉を零した。内容とは対照的に、彼の表情はいつに無く余裕が無い。
「友松先輩、やって下さい」
瞬間、俺の体は一気に乾梨のすぐ側に移動した。ハートの力を使ったテレポートだ。俺の唐突な出現に動揺しつつ、乾梨は無川を庇うように立った。
「諦めて下さいよ。貴方に、出来ることなんか、何も無いんですから」
正義は俺に喋らせず、自分の言葉でそう言った。それに対し、乾梨は目線を俺に合わせつつ、彼の言葉に返す。
「……諦める事は、簡単です」
でも、と彼女は続けた。
いつに無く、決意に満ちた声で。
「友松さんは、私達を助ける為に、最後の最後まで諦めなかった。どんなに希望が見えなくても、絶望しか無くっても、友松さんは立ち上がったんです」
だから、と彼女は続けた。
いつに無く、覚悟に満ちた声で。
「私だって諦めない。諦めたくない。例え蜘蛛の糸みたいに、頼りなくて細い希望でも、それすら無くても、私は立ち続けなくちゃいけないんです」
その直後、彼女は小さく何かを呟いた。恐らく近くの無川に何か言ったのだろう。無川は少しだけ驚きつつも、頷いてその姿を消した。
「貴女の身代わりは消えちゃいましたね。どうです? 最後の希望すら無くなった気分は」
正義が顔面だけは取り繕いつつ愉快な様子でそう言った。だが、見るからに表情筋が硬い。無理しているのだろう。
「……貴方は一つ、間違えたんですよ」
乾梨はその手に刀を作り出す。雪のように真っ白な、白い刀。
「僕が間違い? へぇ、なら何かやって見せて下さいよ。僕が間違いしているんなら、まだ何か手品があるんでしょう?」
「……貴方の間違い、それは」
その刀を、彼女は喉仏に向けた。正義の表情が崩れ、驚愕が姿を表した。
「すぐに私を取り押さえなかった事です」
何故なら、彼女が刀を向けたのは、自分自身だったからだ。
そして、その刀は真っ直ぐに彼女の喉に突き刺さった。彼女の体から力が抜け、その場に膝を付く。
「……気でも、狂いましたか?」
正義の言葉に彼女は答えない。
一方、俺は変な感触を感じていた。彼女の刀に、確かな違和感を覚えていた。だがその正体は、未だに分からない。
「……ふざけないで下さいよ」
返答は、無い。
その時、俺はやっと違和感の正体を看破した。
「何が間違いですか。最後に出来ることが自殺? バカじゃないですか?」
ずっと喋り続ける彼はイライラが鬱積しているようにも見えた。きっと、乾梨の何かが彼に多大なストレスを与えたのだろう。
丁度、その時だ。
乾梨の口元が、普段の彼女から想像が出来ないほど、ニヤリと歪んだのは。
「バカはテメェだ。クソ赤目」
ゆっくりと、『彼女』は刀を──違和感の正体であった真っ黒い刀を──自分の首元から引き抜く。
そして彼女は乱暴に自分の髪の毛を纏めていたカチューシャを外した。髪の毛が風に吹かれて大きく揺れる。そのままカチューシャを床に投げ捨てた彼女は、続けて掛けなければ何も見えない筈なのに、邪魔の一言でメガネを外し床に投げようとする。が、思いとどまったのか、ポケットのメガネケースに入れて仕舞った。
焦げ茶色ではなく、真っ赤に染まった目を見て、正義は有り得ないと言わんばかりに口を開く。
「な、何故。お前が、お前が!」
「教えてやるよ赤目野郎」
彼女は、先程とは対照的な真っ黒な刀を構える。
「オレ達は、二人で一人だってな」
無川刀子は、愉快そうな顔でそう言った。
「……何故……」
正義は片手で顔を覆いつつも、もう片方の手で無川を指差して言う。心底、腹を立てた声音で。
「どうして、お前達はそうやって僕をコケにするんだ……! お前達みたいな奴らに……! この僕が……!」
「自分が特別とか思ってんのか? テメー、大分イテェ野郎だな。大体、被害妄想も大概にしやがれ。先に手ぇ出したのはテメェだろうが」
「ふざけるなよ……!」
「それはこっちのセリフだ。クソ野郎」
その冷えた鋭い声音に、一瞬だけ正義が硬直する。
「今まで散々好き勝手しやがって……! このクソ赤目野郎が……!」
「……友松先輩! 何しているんですか!」
正義の言葉に反応して、俺の体が無川に殴りかかる。だが無川はそれを軽い身のこなしで回避し、鳩尾に刀の柄を撃ち込んだ。腹部に強い衝撃が走る。
「やっぱ『オレ』の身体はちげぇな。段違いに使い易い」
無川は元々、乾梨の体を乗っ取って戦っていた。先程までの幽霊状態では、本領が発揮できていなかったのだろう。
俺の体は、一瞬怯まされるが、追撃で大きく横振りの蹴りを放つ。だがその大振りは当然当たらず、代わりに足を払われ、体勢を崩した。
操縦者に、正義に焦りが現れているのが見て取れた。恐らく、早く終わらせようと大きな一撃を入れようとしているのだろう。だが、それは愚行だ。無川相手にそれが当たるとは思えない。
「……動くな」
ふと、正義がそう言った。つまらなさそうな顔で彼を見る無川。
「あ? 何様だテメェ」
「……もし動いたら、友松先輩を飛び降りさせる」
「ああそうかよ」
すると無川はこちらに振り返って、俺の腹に刀を刺し込んだ。
「なっ……!」
刺された場所から熱を奪われる感触を覚えた。この感覚は、きっと彼女のハートの効力だろう。彼女のハートは、《心を殺す力》。刀で傷付けた対象の心を仮死状態に追い込む力だ。
「これで、共也は動けねぇな」
「お、お前……!」
「なんだテメェ。急にキョドキョドしやがって。チビネズミか?」
「み、味方を殺したのか!?」
正義が驚いたような声をあげる。確かに、今の行動をそうとれば、無川の行動は異常かもしれない。
だが、無川はニヤリとした笑みを浮かべて、彼にこう返す。
「オレが殺したのは、テメェのクソみてぇなハートだ」
彼女が笑いながら、正義の背後を指さす。
彼が、咄嗟に振り返る。
そして、俺と目が合った。
無川に斬られたあの瞬間、俺の体が急に動くようになった。だから、正義が無川に気を取られている間に、ハートの力で彼の後ろに回り込んだのだ。
「よう」
彼は口をあんぐりと開けていて、上手く返答できていない。だが数秒後には、その手に再び赤いネジを作り出して、俺に突き刺そうとする。
「遅せぇよ」
だがそれが届く前に、俺の拳が彼の顔面を射抜いた。彼は駒のように二、三回ほど回転して、俺から距離を置いた。
「……正義、お前……」
「と、友松……先輩……」
俺は怒りのままに拳を握り、彼に問うた。
「覚悟は出来てんだろうなぁ……! 人の体で好き勝手しやがって……!」
正義の顔が、苦虫を噛み潰したように、苦渋に染まった。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.82 )
- 日時: 2018/10/16 17:40
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: 1CRawldg)
「……まだだ」
正義は苦い表情のまま、両手に赤い釘を作り出す。まだ、抵抗の意志はあるらしい。それはある意味、俺にとっても好都合だった。無抵抗の相手を一方的に殴るより、殴り合いの方が気分が乗る。
「……無川、下がってろ」
「あ?」
俺の言葉に、無川は一言だけで素っ気なく答える。
「……お前、今消耗してんだろ。間違いなく」
無川が乾梨の体に移ったからと言って、幽霊状態の時のダメージが消える訳では無い。しかも今の無川の目は輝きを失いつつある。限界が近いという証拠だ。
「問題ねぇ」
だが彼女は強気にそう答えた。無論、彼女のそれが虚勢であることくらいは俺にでもわかる。
「俺は奴と、ケジメを付けなきゃいけねぇんだ。頼む。俺の為に、少しだけ見といてくれ」
こうでも言わなければ、彼女は引かないだろう。俺の頼みに、彼女は予想通りに適当な返事をし、数歩だけ下がって刀を消した。頭を少し下げた後に、再び正義と向かい合う。
「……正義、決着を付けようじゃねぇか。水入らず、タイマン勝負でな」
「……馬鹿らしい。一対一なら、僕に勝てると思っているんですか?」
彼は右手の釘の先端を俺に向けて強気に言った。
「僕は『彼女』のヒーローになるんだ。こんな所で負けていられない。僕の正義の為に、負けられない」
彼女、という単語がやけに頭に残る。思えば彼はいつもその『彼女』とやらをセリフに含ませている。
恐らくだが他者のハートを発現させるという力を持った、『彼女』とやらの事を。
「オイ、正義」
そして何より、俺はもう一つ気になることがあった。
「お前の正義って、なんだよ」
俺は今まで、頻繁に現れるその単語の意味を、彼の口から聞いていなかった。彼が思い浮かべる正義も、全くをもって形がわからない。
「……僕の正義なんて聞いて、どうするんですか?」
「テメェがやけに拘ってるからよ。気になっちまった」
俺の言葉に、彼は少しだけ黙る。何か考え事でもするかのように。
「教える義理はない。……なんて言ってもいいんですけど、教えてあげますよ」
どんな奇天烈な思想がその口から吐き出されるのか、俺は少しだけ身構えた。
だからだろうか。俺がその内容を聞いて、驚愕したのは。
「全ての人を救う」
その内容は、余りに。
「それが、僕の正義です」
普通過ぎていた。
明らかに、異常だった。
「……は?」
「……貴方も、笑いますか。僕の正義を。幼稚だって、散々笑われたこの言葉を」
だが、彼はふざけた様子も何も無い。真剣そのものの顔に、思わず気圧される。
「僕はなると決めたんだ。ヒーローに。ヒーローにならなきゃ、英雄にやらなきゃ、僕の正義は笑い者のままなんだ」
「な、何言ってやがる」
おかしい。彼の思考回路は、どう考えても不自然な形に歪められている。
「否定され続けた僕を拾ってくれたのは、彼女なんだ。彼女のヒーローになれば、僕は変われる。ヒーローになるには、彼女を救わなきゃ。じゃなきゃ、僕には、存在する必要性なんかなくなってしまう」
ふと気が付く。彼の目が、赤く光り輝いている事に。
もしかしたら、彼は歪んでいるのではない。歪められているのか? 浮辺や無川のように。自分を無くしているだけではないか?
もし彼が、利用されているだけに過ぎないとしたら?
俺は、何をするべきだ。
ここで正義を殴り倒して、兄さんに突き出すのは簡単だ。彼はその後施設に入れられてその後も狂わされたまま過ごすのだろう。
それは、ダメだ。直感的に、そう感じた。
彼はまだやり直せる。彼はまだ救える。彼はまだ、救われていない。そして彼はまだ、壊れていない。
「そうか。テメェの正義は、全ての人を救う事。その為に、『彼女』とやらのヒーローになる事。なんだな」
「そう。それが僕の正義だ。笑いたいなら、笑えばいい」
彼はニヒルな声音で言う。察するに、きっと彼は笑い者だったのだろう。
あまりに真っ直ぐすぎる正義が、逆に周囲から浮き彫りになった。そんなところだろうか。
「俺はお前の正義を笑わない」
俺は正義の目を見て、そう言う。赤い光を灯した目は、こちらを愚直に見据えている。
「ただ一つ、一つだけ言わせてもらう」
俺は言う。彼に向かって。最悪な言葉を。
「教えてやるよ。正義」
「なんだ。貴方に教えられる事なんか、何も無い」
「いいか、」
俺はこれから、彼を否定する。
歪んでいたのではない、歪められた彼を否定する。
いつか昔の日にかあった、真っ直ぐな正義に戻す為に。
怪訝な顔でこちらを睨む正義に、俺はハッキリとこう言った。
「『ヒーロー』なんて下らねぇ四文字は、何の意味もねぇんだよ」
彼は即座に俺の言葉に反応して、赤い釘の尖った先を俺に向かって突き出した。
次話>>83 前話>>81
- Re: ハートのJは挫けない ( No.83 )
- 日時: 2018/11/04 08:16
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「観幸、共也君見た?」
「今頃乾梨さんと仕事中デスよ」
僕と観幸は玄関で靴を履き替えながら喋っていた。道のり的に観幸はすぐに別れるから共也君とも帰ろうと思っていたが、最近彼とはあまり帰宅時間が合わない。乾梨さんの件があるからだ。
二人で校門を出て軽口を飛ばし合うが、少し行ったところで分かれ、今は一人で道を歩いている。
「ちょっといいかい?」
またか、と思った。こうやって声をかけられるときは、大体道を尋ねられる時なのだ。どうして僕にばかり尋ねられるのかは知らないが、早く答えてしまおうと振り返る。
僕の背後に居たのは、見た目的に30代の男性だった。
「実はこの学校に行きたいんだが、分かるかい?」
彼が写真を見せてくる……って僕が高校だ。簡単に道順を教える。
「ありがとうねぇ。相手にしてもらえて、おじさん嬉しいよ。君、なんて名前だい? おじさんは四宮秋光(しのみや/あきみつ)って言うんだけど」
「針音貫太(はりおと/かんた)です」
ずっと微笑みを浮かべている辺り、人当たりの良い人だな、と思いながら彼に興味本位で尋ねてみる。
「どうしてここに?」
一瞬だけ、彼の表情に影が差した、気がした。
「……ま、お迎えって奴だよ」
○
「『ヒーロー』なんて下らねぇ四文字は、何の意味もねぇんだよ」
俺のその言葉に、反応して、彼は赤い釘の先端を俺に向けて突撃してきた。その形相は殺意の二文字で満たされている。
そんな単調な攻撃に当たってやる程俺は間抜けではない。身体を横にずらしつつ、釘を持つ彼の手を掴んで捻ひあげる。
「──ッ!」
悲鳴のような声が絞り出されたと思えば、今度は逆の手で釘を作り出す。ゼロ距離で俺に突き刺そうとした所で、ハートの力で正義の腕の前の空間を壁の前に繋げた。突き出された彼の右腕が、境目に吸い込まれた後に壁に激突。苦しそうな顔をしつつ、彼はこちらを睨み付けた。
「……下らない……だと」
彼の赤い瞳は輝きを増す一方だ。あたかもそれは彼の怒りを示しているようにも思えた。
「貴方は……お前は……今、僕を否定したんだ……」
彼は再び釘を作り出し、それを俺に投げ付けた。身体を捻って躱すがその間に正義の腕を掴んでいた手の力が抜けたようで、彼に距離を取られてしまう。
「お前も、僕を、否定するのか。友松共也。お前も、お前も! 馬鹿らしいって嘲笑うのか!」
「ンなこと言ってねぇだろうが! 被害妄想も大概にしやがれ!」
「違わない! 今確かにお前は否定した! 僕の全てを否定した! 許せない、許せない許せない許せない!」
彼の声音に、もはや原型などない。子供のように喚き、怒り、感情を露わにする。冷静で底が見えない印象の彼とはまるで別人だ。
「もうお前なんかどうだっていい! 『彼女』がお前を欲しがっていても、きっとお前は害悪にしかならない! だから! 僕は!お前を殺す!」
「目を覚ましやがれこの馬鹿野郎がぁ!」
今度は俺から距離を詰めて、彼の頬に拳を叩き込む。彼はもろに喰らい大勢を大きく崩すが、倒れるあと一歩と言ったところで踏み止まり、そのまま飛び上がるように下から顎を殴り付けてきた。幾ら体格差やらがあるとはいえ、流石にアッパーの衝撃は堪える。それでもなんとか視界を戻し、再び拳を握る。
「よく聞け! テメェは『ヒーロー』って奴を勘違いしてんだ! お前が追い掛けてるのは、誰かに植え付けられた幻想でしかねぇ! 本来のお前の追い掛けるものじゃあねぇんだ!」
「お前に何が分かる! 誰かを救えばヒーローなのか! 遅れて駆け付けたらヒーローなのか! 悪をうち倒せばヒーローなのか! 願いを叶えたらヒーローなのか! 何をすればヒーローになれるんだ! 知っているなら教えてくれよ! 誰もが納得するような、たった一つの答えをさぁ!」
彼の言葉を乗せた拳が、俺の鳩尾に直撃する。その衝撃にたたらを踏みそうになるが、無理やり自分の足を地につけ、彼の顔面に頭突きをかます。派手な音を立てると同時に、俺と正義が倒れ込んだ。
「共也!」
無川の叫び声に手だけで大丈夫だとアピールして立ち上がる。
手をついてなんとか立ち上がると、正義も同じように再起し、俺と視線をぶつける。どちらも若干ふらついているが、闘士は未だ互いに燃えている。
「どれもこれも違う! テメェは全く分かってねぇ!」
お互いに放った拳が激突。単純な力勝負で負ける道理はない。そのまま彼の拳を弾き返し、彼の肩を拳で撃ち抜く。
「いいか、正義! 誰かを救ったからって、遅れてきたからって、それは決してヒーローなんかじゃあねぇ! ヒーローって奴は、英雄って奴はなぁ!」
肩を抑えて倒れ込みそうになった彼の胸倉を、逆の腕で掴み、目と目が5センチほどの距離になるまで顔を近づけ、彼に言う。
「『なるもの』じゃねぇ! 『呼ばれるもの』なんだよ!」
正義が力を失いつつある目で、怪訝な様子で俺を睨む。
「……『なるもの』じゃない……『呼ばれるもの』……?」
「ああそうだ! ヒーローだの、英雄だの、救世主だのと呼ばれてきた連中は、誰だって自らヒーローになりてぇ、英雄になりてぇなんか考えちゃいねぇ! 周囲がそいつをそう呼んだから、ただ『ヒーロー』って呼ばれたから! だからそいつはヒーローなんだ!」
俺の言葉に気圧されているのか、彼は黙って聞いている。
「目を覚ませ! 正義ぃ! お前が目指しているのは、お前が望む『ヒーロー』じゃねぇ! 彼女とやらの『操り人形』なんだよ!」
俺がこう言い切った後、暫くの間、静寂が周囲を包んだ。
無川も、俺も、何も喋らない。ずっと、正義の返しを待っている。
そして、彼が、口を開く。
「じゃあ」
また何か強気で言い返されるのかと身構えていた俺に、正義が浴びせた言葉は、余りにも勢いが無くて、
「僕は」
今にも崩れ落ちそうな程、酷く脆い声音をしていた。
「何の為に」
彼の赤い瞳から、一筋の滴が零れ落ちた。
「生きてるの」
正義は、ただただ虚しそうに。
「僕は、どうすればいい。何をすれば、いいんだよ」
「……正義」
彼の体は、動かず冷めたままだ。
「……俺はお前の事を知らねぇよ。どんな人間かも、どんなことをしたかも、何も知らねぇ」
正義自身、一番混乱しているのだろう。その体には力というものが無く、まるで動かない置物を持っているような感覚だった。
「だけど」
両手で胸倉を、掴み直し、だらんと力の抜けた正義の身体を無理やり引っ張り上げ、力の抜けた顔に言葉を放つ。
「自分の立てた目標くらい見失うんじゃねぇ! テメェには、確かになりてぇモンがあんだろうがぁ!」
正義は目を合わせないまま、俯きながら答える。
「……たった今、貴方が否定したじゃないか。僕の、たった一つの目標を。ヒーローは、なれるものじゃないって」
「それが間違いだってのが分からねぇのか! テメェの目標は『誰かを救う事』であって、『ヒーローになる』ってのは手段に過ぎねぇって事がよぉ!」
「……じゃあ、じゃあどうすればいいんだよ!」
正義が俺の胸倉を、掴んで心底苦しそうな表情で訴え掛けてくる。彼の心に、僅かだが熱が篭っていた。
「僕はヒーローになれないなら、どうやって人を救えばいいんだ! 皆から否定されて、まるで僕が悪みたいなのに!」
「甘ったれてんじゃねぇ!」
「……ッ……!」
正義に一喝すると、一瞬だけ彼が怯む。その隙に自分の言葉を挟む。
「いいか正義、『人を救う』事は『人を殺す』事よりも10倍難しい事なんだ! 10人殺すより10人救う事は、100倍難しい事なんだ!」
彼が黙っている所で、更に言葉を繋ぐ。
「人を救いたいなら覚悟を持て! 人を助けたいなら意志を持て! テメェはそれがねぇんだ! 誰にだって出来たら、今頃世の中にクソみたいな人間なんざ誰一人だって居ねぇんだよ!」
彼の俺を掴んでいる手を引き剥がし、そのまま投げる。数メートルほど投げ飛ばされた彼はこちらを力無く見つめている。
「普通じゃねぇんだ! 人を救う奴なんざ、異常なんだよ! 俺達みてぇな凡人が異常を貫く為にうるせぇ奴らがいるのは当たり前だ! そんな奴らに心が折られる程度の意志しかねぇなら、人を救おうなんざ考えてんじゃねぇよ!」
「うるさい! うるさいんだよ!」
俺の声をかき消すように、正義が叫ぶ。
「さっきから好き勝手言いやがって! 僕に向かって意志を持てだの覚悟を持てだのと、随分とまあ上から目線な物言いをしてくれるじゃないか!」
彼はフラリと立ち上がり、再び強い力を灯した視線をぶつけてくる。
「見せてあげますよ! 僕の意志ってものをね!」
彼のその挑戦的な言葉に、俺は思わず口角が上がるのを感じた。
「ああ来いよ正義! テメェの意志とやら、見せて見やがれ!」
正義は今までは手に持っていた赤い釘を今度は地面に生やし始めた。彼の周囲に次々と釘が生え、そのうちの数本がこちらに飛来。咄嗟にハートの力で釘達を別の場所に瞬間移動させ、その間に正義との距離を詰める。
が、彼もそれを読んでいたのか、俺が近付くや否や彼は片膝を着いて片手で思いっ切り地面を叩く。何かまずいと感じ、咄嗟に数メートル後ろに瞬間移動する。
直後、まるで俺の立っていたであろう場所に噴水のように地面から太く長い釘達が溢れる程に飛び出す。あのまま立っていたらと考えるとぞっとする。
「まだだ! まだ終わらない!」
噴水のように湧き出た釘達はそのまま上空へと進んで行き、空中で方向を180度変え、槍の雨と化して俺の周囲に降り注ぐ。咄嗟の事に一瞬だけハートの力で釘達を飛ばすのが遅れ、一本が足を掠めた。口から悲鳴が若干漏れてしまうほど、激痛を伴ったそれは、俺の足に小さくは無い傷を与えた。
「……へっ、ハートの具現化までしてくるとはなぁ!」
釘の雨が終わった直後、俺は正義の背後に瞬間移動し、彼の後頭部に拳を叩き込もうとする。
が、俺の手に伝わったのは、鈍い感触と、先程とは別ベクトルの、激痛。
「甘いんですよ!」
地面から釘が壁のように伸び、俺の拳をブロックしたのだ。堪らず一歩引こうとバックステップを取るが、殆ど移動出来ず、背中に硬いものがぶつかる。
いつの間にか、背後にも釘の壁が伸びている。それだけでない。左右にも、そして上も釘の壁が展開されつつある。急いで脱出を試みるが、既に俺が通れそうな隙間は全て塞がれていた。
周囲さえ見えない状態で瞬間移動するのは危険だが、閉じ込められてはハートの力ですら脱出できなくなる。背に腹はかえられない。釘の牢の外に瞬間移動。
そして瞬間移動直後の一瞬の隙をついて、ちょうど目の前にいた正義が手に持っていた釘を俺に突き出した。回避出来ない距離で放たれた攻撃。俺にはどうすることも出来ない。
「…………」
だが、正義の釘は俺の首を貫く寸前で停止していた。
「友松先輩、一つだけ、聞かせて下さい」
「ンだよ」
「どうして、僕を倒さなかったんですか。僕が気力を失ったあの時に、いや僕を倒す機会なんて、貴方には幾らでもあったはずだ」
「そんなこと、出来たらとっくにやって」
「とぼけないで下さいよ!」
正義の叫びに、場に静寂が訪れる。
少しの間を置いて、俺はそれを破った。
「……さっきテメェを見た時、違うって思ったんだよ。コイツはまだ救える。まだ壊れてない、ってな」
「その為に、どれほど自分を危険に晒したのか分かってるんですか? こうして殺されそうになっていることも、貴方は分かっていますか?」
「ああ、全部、知ってるし分かってる。その上で、俺はこの道を選んだ。それだけの話だ」
再び、場に静寂が訪れる。いや、正確には、カタカタと小さな音だけが聞こえる。
正義の釘が、小さく震えていた。まるで、彼の感情を代弁するかのように。
「友松先輩、もう一つ、教えてくれませんか」
「なんだ」
「僕は今、貴方を殺したくて仕方ない。僕の目標を完膚なきまでに否定した貴方を、彼女から連れてくるか処理しろと言われた貴方を、殺したいほど憎んでいるんだ」
だけど、と彼は続ける。
「それと同じくらい、僕は今、貴方を殺したくないって馬鹿けた事を考えている。貴方の言い分に納得している自分がいるし、貴方の行動を尊敬している自分がいる」
だから、と彼は続ける。
「僕は、どうすれば良いんですか。どっちの僕が、僕なんですか」
俺は、こう言った。
「好きに選べよ。テメェのお気に召すままに、な」
その言葉を聞いて、彼は息を吸い、吐いて、目を伏せる。
そして、手の釘を適当な所に投げ捨てた。
「勘違いしないで下さいよ」
彼は俺をじっと睨んで言う。
「別に貴方のために僕はこうした訳じゃない」
「……ああ」
「僕のやりたいことは、人殺しじゃない。それだけですよ」
いつの間にか、彼の右目の赤い光は、かなり存在感が薄れていた。
「いや、実に結構結構」
突如として、場違いな拍手がこの場に響いた。俺も、正義も、傍から見ていた無川も、そちらに向く。
「おじさん、久し振りの熱い友情に涙が出そうだよ。いや良いねぇ。青春って奴はさ」
そこに居たのは、30代程度の見た目をした男だ。ただし、身体は異様なまでに引き締まっている事がスーツの上からでも把握出来るし、微笑みによって細くなった目も常にこちらを見続けている。
「し、四宮さん……」
「いやー一条。お前は頑張ったとは思うよ。うん。お前なりに色々と悩んだり苦労したんだろうねぇ」
四宮と呼ばれた男性は正義に近付き、その手を彼の肩に労うように乗せる。知り合いなのは見て取れるが、俺は嫌な予感がしていた。
あの四宮と呼ばれる男性。表面からの雰囲気は人当たりの良さそうなものがだ、僅かに、異様な雰囲気を漂わせている。なにより、正義の悪戯がバレた子供のような表情で、彼は正義の上司のような存在なのだと分かった。
「だけどねぇ、一条」
彼は正義の耳元で、しかし俺達にも聞こえるように低い声で、はっきりと言う。
「頑張っても、成果って奴がなきゃ無意味なんだよ」
正義が目を見開くのと同時に、四宮はその手で正義の首を掴んで持ち上げ、彼の腹部に膝を入れる。
「分かってる? おじさんさぁ、無能な人間って好きじゃないの。成果が出せない癖に頑張ったとか言う人間とかねぇ」
「おい止めろ! 誰だか知らねぇが、正義を放しやがれ!」
「だめだめぇ。歳上には敬意ってモンを払わなきゃ。でっかいあんちゃん。じゃないと──」
彼は文字通り、その手に炎を灯す。紛れもない、燃え盛る炎を、人の手に宿らせている。
「火傷しちゃうからねぇ」
そして彼は、燃え盛る手を横に薙ぐ。
瞬間、炎をカマイタチのようなものが現れ、俺の直前で地面に着弾し、それが目の前を火の海に変えた。
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.84 )
- 日時: 2018/11/06 17:49
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: qRt8qnz/)
炎は一瞬だけ大規模に燃え上がったものの、瞬く間に姿を消す。正義を持ち上げるその男は未だに怪しい笑みを微動だにさせない。
「あんちゃん、幸運だね。いやー、おじさん手元が狂っちまったよ。へへっ」
その余裕の物言いからすぐに分かった。四宮と呼ばれた男は、わざと攻撃を外したのだと。威嚇射撃だ。これ以上関わったら、即座に攻撃すると。
今の炎を見る限り、とても害が無いとは思えない。温度変化が無い事から察するに、具現化してはいなかったようだが、それでも何かしらの効果があるのは明らかだろう。
「……分からねぇのかよ」
「ん?」
だが、それでも、引く訳にはいかない。
「正義を放せって言ったのが分からないのかって訊いてんだよ三下ぁ!」
四宮は、それを聞いても微笑みを崩さない。
「あんちゃん、おじさんね、どんな奴でも二回は許す事にしてやってんの。ほら、言うじゃない。仏の顔はなんとやらってさ。今のうちに黙って立ち去るっていうなら、おじさんは何もしないで済むんだけど」
「ハッ、どうやら何度も同じ事を言わせてぇ見てぇだなぁ」
四宮は少しだけ笑みを崩しつつもすぐに取り繕い、俺にこう言った。
「あんちゃん、一度心に焼きを入れた方が良いみたいだ」
今度は彼の周囲に炎が溢れるように発生し、それが一つに収束されて砲弾のようにこちらに発射された。ハートの力を使い瞬間移動で回避すると、相手がわざとらしい位に驚いてみせる。
「お、早い早い。じゃ、あんちゃんはこれならどうか」
再び彼が火球を発射するが、同じように回避。
「へっ、幾ら何でもネタ切れが早いんじゃねぇか?」
「自分の心配、した方がいいんじゃないかねぇ」
そう言われて気が付く。既に彼の周囲には十数個ほどの火球が生み出されており、それらのうちの数発がこちらに打ち出される。咄嗟に離れた所に移動するが、そこにも火球が打ち込まれる。数回移動を繰り返したところで、火球が俺の横を掠めていった。
「……っ」
「ほらほらおかわり!」
更に向こうから数十個の火球が放たれる。しかも今度は広域だ。これでは迂闊に瞬間移動出来ない。残された領域を縫うようにして移動するが、徐々に火球が掠り始める。
このままでは当たると思った矢先、移動した先に火球が出現した。新たに空間を接合するが、とても移動が間に合う間合いではなかった。
「伏せろ共也!」
その声と共に咄嗟にしゃがむと、俺の上を横回転しながら黒い棒状の何かが通り過ぎ、火球をまるごと消し去る。
「なぁ、オレも混ぜろよ。オッサン」
そう言って炎の弾幕の中を高速で移動しながら四宮に迫る影が現れる。その影が黒い刀を四宮に向かって振り下ろす。が、四宮は手に炎を集めて棒状の細い板。所謂炎の剣を作り出してそれを受ける。が、炎の剣は一瞬で消し飛び、そのまま黒い刀が四宮の頭に迫る。間一髪正義を盾にして黒い刀を防ごうとするが、その刀は正義を貫くこと無く一旦引いた。
その刀を操る人物──無川は凶悪そうな笑みで四宮に相対した。
「無川……!」
「手出しは無用とか言ってたが、こうなった以上はオレも介入する。オッサン、テメェが引けばオレはなんもしねぇよ」
黒い刀の先を向けて脅迫紛いの言葉を発する無川を見て、四宮はふと思い出したかのように言う。
「……嬢ちゃん、アンタ……まさか『無川刀子』だったするのかな?」
「ああ、そうだ」
「そっかそっか。……《心を殺す力》なんてとんでもないハートを相手なら……」
瞬間、一気に何故かじんわりと嫌な感触がした。
それの正体は、自分の体から吹き出る汗が証明していた。そう、温度だ。実際に温度が徐々に上がりつつある。
そしてこの現象を引き起こした張本人であろう四宮は、微笑みを邪悪なものに変形させて
「全力、出しても耐えられるかな?」
そう言って、彼はそっと左手から小さな玉のようなものを打ち出した。サイズも迫力も、先程の火球の方が何倍も大きい。勝っているのは、速度だけ。無川は流石の反応速度で、その火球を刀で受ける。
刹那、音が死んだ。
瞬間、視界が赤色に吹き飛ばされた。
爆発するかのような大量の炎が、全体が火球以上の密度を持つ爆炎が、巨大な轟音と共に一気にその場に上がった。今のは何だったのかと思っていると、前から謎の物体が飛来し俺の腹部に直撃した。痛がっている暇もなく、俺とそれは一体になってフェンス際まで吹き飛ばされる。腹部に走る激痛を堪えつつ、前を見る。
そこに広がるのは正しく地獄だった。ひたすらの赤。平和な屋上とは打って変わって世紀末。一体何が起こったのか理解できないまま、何故か前から飛来し俺の腹部に直撃した無川に尋ねる。
「お、オイ! 何が起こってんだよ!」
「……わっかんねぇ…………」
無川はフラつきながらも刀を杖にして何とか立ち上がり、目の前の地獄を見ながら思い出すように呟き始める。
「……アイツがオレに……超速度で火球を撃ってきた……コイツで受けたら……それが殺されねぇまま爆裂して……オレは吹っ飛ばされて……この有様だ……」
無川は自分の刀を俺に見せながらそう言う。俺も確かに見た。あのヘボそうな攻撃を、確かに無川が刀で受けたのを。
「何でだよ……無川のハートはなんでも殺すはずだ……」
「……共也、それはちげぇんだ」
無川の言葉に、少しだけ驚く。無川のハートは絶対ではなかったのか。
「アイツの……四宮とか言う野郎の意志が強過ぎたんだ。オレの意志を遥かに上回る位、アイツのハートの出力は異常だった。格ってやつがちげぇんだよ」
無川ですら遥かに上回る程の力を持っているのに、それを使いもしなかった。つまり俺は、最初から相手にされていなかったのだ。
そんな相手に、勝てる訳があるのだろうか。
恐らく正義は未だにこの分厚過ぎる炎のカーテンの向こう側にいる。まずこれを乗り越えることは絶望的だ。俺のハートは距離感がわからなければ使えない。ほんの僅かな隙間に一か八かで瞬間移動出来なければ、炎に焼かれるか、墜落死のどちらかが待っている。
「……チッ……」
無川が舌打ちをした。見れば、無川の刀に大量のヒビが入り、そのままバラバラに砕け散ったのだ。無川は使い物にならないそれを投げ捨て、新しいものを生成する。
無川のハートも、アイツには通用しない。俺達が正義を助けるには、どうすればいい。
「共也、恐らくだが、奴のハートは具現化してねぇ」
「……?」
だが無川は炎を見つめてそんな事を言っている。アレが具現化していない炎だというのか。
「こんだけ大爆発してんのに、誰も来ねぇのは異常だ。オレだって直撃とほぼ同じなのに焼け焦げてねぇ」
「……確かに」
言われてみればそうだ。先程の温度上昇は、この為の布石だったのだろうか。
なら、まだ希望はある。
「無川、ここに居てくれ」
「……あ?」
まだ、大丈夫だ。
「俺が、炎を突っ切る」
「……正気かよ」
炎が具現化していないなら、何かしらの害はあれど焼け死ぬことは無い。それなら、まだ希望はある。
「途中までハートの力でテレポートしていく。少しずつ詰めていくから対象はハートを食らうが……大丈夫なはずだ」
「共也」
無川に名前を呼ばれて、言葉を止めた瞬間、彼女に胸ぐらを掴まれフェンスに投げ付けられた。唐突な視点の変更に目が回りそうになるが、目の前に無川の顔が現れて変に酔いはすぐに覚めた。
「本気で、言ってんのかよ」
その目は、本気の眼差しだった。感情の色は分からない。ただ、ふざけていないことだけは分かる。
俺だって、ふざけている訳では無い。
「ああ」
そう答えた瞬間、無川は言った。
「テメェ……ホントに分かってんのかよ! あの中に突っ込んだら、テメェは丸焦げ間違いなしなんだぞ!」
「分かってんだよ! でもアレは具現化してる訳じゃねぇ! 精神的に害はあっても、身体は無事なんだよ!」
「テメェは精神的な害が深刻だって事が分かんねぇのか! オレのハートみてぇに触れたモン全部ぶち殺すみてぇなシロモノだったらどうすんだよ!」
思わず、無川の気迫に気圧された。
「だったら……」
「テメェは犬死! 一条とやらはどうなるか分からねぇ! オレだって一人じゃ太刀打ちできねぇ! テメェはなんも分かっちゃいねぇのかよ!」
その言葉に、流石にカチンと来た。
「黙って聞いてりゃ無川ァ! 俺だって考えたんだよ! でもこうするしかねぇんだ! お前のハートは通じねぇ! 誰だって無害で済む方法なんて今はねぇんだ! 仕方ねぇんだ!」
「どうしてお前の頭の計算機はいっつも自分を除外してんだよ! お前は、お前は自分のことが見えないのかよ!」
「じゃあどうすりゃいい! テメェにあの炎の幕が殺せるのか! あの分厚い中を切り抜けられんのか! 大体乗り越えた先でどうする! アイツには誰も勝てねぇんだ! だったら俺が一人で行ってハートで正義を何処か遠くに飛ばすのが一番だろうが!」
俺の言葉の後、限界まで目を見開いて怒りを表していた無川は一旦目を伏せて、一度呼吸を整え、もう一度目を開いた。
その目は、落ち着いていた。正確には、怒りが消えていた。
代わりに、彼女の目に灯っているのは、怒りではない。決意の炎だ。
「共也、オレは殺せるぞ」
無川は唐突に、そんな事を言い始めた。
「オレはあんな炎くらい殺せる。オレを誰だと思ってやがる」
「無理だ。実際、さっきお前の刀は壊れていたじゃねぇか」
だが無川は俺の静止を聞かず、そのまま俺から離れていく。そして、新たに刀を取り出し、言う。
「止めろ! なんでお前は俺の言う事を聞いてくれな」
「じゃあどうしてテメェはオレの事を信じてくねぇんだよ!」
無川の一喝に、俺の言葉が喉の奥に引っ込んだ。
振り返った彼女は、怒りの形相で、目には涙を浮かべていた。無茶苦茶な表情のまま、彼女は言う。
「テメェはいつもそうだ! テメェは誰だって信じねぇ! だからなんでも自分がやろうとするし、自分が犠牲になろうとする! テメェはなんで他人を信じねぇんだよ!」
無川の言葉に、息が詰まる感覚がした。
「テメェは言ったじゃねぇか! 俺を信じろって! オレにお前を信じさせたじゃねぇか! だったら、せめて、オレくらい信じてくれよ!」
そう言って無川は再び視線を戻し、炎のカーテンの前に立つ。そして刀を構える。
「止めろ!」
「うるせぇ! オレはテメェらを壊滅寸前まで追い込んだ無川刀子だ! こんな炎くらい、ぶち殺してやるよ!」
「お前は怪物じゃねぇだろ! 止めろ! お前は人間なんだ! 無理なものは無理なんだ!」
彼女は俺の方を向く。強い、光を帯びた目で。
「そうだ! オレは人間だ!」
「だったら!」
「オレは怪物じゃねぇ! 人間なんだ! だからこそ頑張れるんだ!」
無川は、叫んだ。
「人間だから、自分じゃねぇ、誰かの為に意志を持てる! だから! 一瞬だけでもいい! 今だけだって構わねぇ! お願いだ! どうか、どうか人間のオレを信じてくれ! テメェが人って言ってくれた、このオレをどうか信じてくれ!」
心の中が、撃ち抜かれたような気がした。
そこから堰を切ったように、色々なものが溢れ出す。
「……っぐ……っ……ぁっ……」
喉元から、無理やり言葉を絞り出そうとする。たった一言。長くもないその一言。今まで言いもしなかった一言を。
喉が痛い。心が擦り切れそうだ。頭の中に警告が鳴り響く。
「俺は……っ……俺は……!」
頭の中に駆け巡るのは、赤く塗り潰された記憶達。どれもこれも、痛いもの、苦しいもの、辛いもの。良いことなんて一つもない。
それらが俺に諭すように言う。『やめておけ』の五文字を。
手がガタガタと震える。全身から嫌な汗が吹き出す。頭の中が回らなくなるのを感じる。
『誰もお前を必要としていない』
『お前はなんでそんなに出来ないんだ?』
『お前、本当に俺の弟か?』
『アンタを弟なんて思っていない』
嫌な声。嫌な姿。嫌な景色。嫌な物。
それらは言うのだ。
『他人を信じるな』
そんなものは見たくもない。聞きたくもない。分かりたくもない。
だが、
その感情の100倍以上、こう感じた。
『信じてみたい』
俺はまだ、諦め切れていないようだった。
「……はぁ、……ぁぁぁぁぁああああああああああ!」
うるさい頭をぶん殴って黙らせて、俺は喉を引き絞る。錆び付いた歯車達を、力づくで動かすように。
「……無川は……! 違うんだ……!」
それでも叫び続ける頭の中を押さえ付けるように、自分の頭部を鷲掴みにして、朦朧とする中で言葉を繋ぐ。
「無川は違ぇ……あんな奴らとは……違う……俺を……俺を信じてくれた……! だから、俺は……!」
脳の制止を振り切って、言うまいと心に決めていたその言葉を、無理矢理口から発射した。
「俺は……お前を信じる……!」
心の中で、ガラスが砕け散るような音がした。
「怪物じゃねぇお前なら……人間のお前なら……! んな炎くらい……ぶっ殺せる……!」
「やっちまえぇぇぇぇぇぇぇ! 刀子ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
俺の言葉を聞いて、
彼女は小さく笑い。
「任せろ」
刀を、振った。
瞬間、炎が大きく揺らめいた。
一部の炎が、彼女を恐れるように姿を消した。
彼女の刀はいつの間にか、真っ黒な刀ではなくなっていた。長さは二倍ほどになっており、黒い刀と白い刀が混ざりあったような姿になっている。
まるで、誰かが無川に力を貸すように。
「行くぞ、『オレ』」
彼女は再び、その白黒の刀を横に薙いだ。
次話>>85 前話>>83
- Re: ハートのJは挫けない ( No.85 )
- 日時: 2022/05/11 06:14
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: ZTqYxzs4)
僕の父親は、ヒーローだった。
はっきり言って、彼は器用な人間ではなく、寧ろ馬鹿と形容される側であったことは間違いない。簡単に人の事を信じるというか、人を疑うという事を苦手としていた。
彼は欠点だらけだった。色々な所がなっていなくて、詰めが甘い。完全無欠なんて言葉をどう捻じ曲げても当てはまりそうにないタイプだった。
それでも、僕は自分の父親の事が好きだった。他人の為に全力で動ける父親が。常に人の事を考えていられる父親が。周囲から信頼を集めていた父親が。
彼が言っていたのだ。人を救う事が、一番の生き甲斐だと。自分の行動で人が少しでも幸福になれたら、それよりも嬉しいことは無いと。
そんな彼を、僕はヒーローだと思った。
でも、僕のヒーローは死んだ。
だから、思った。
僕が、ヒーローになろうって。
彼の代わりに、なろうって。
○
燃え盛る炎を背景にして、僕の身体を持ち上げる男。この四宮秋光という男が、僕の実質的な命令役だ。
それが、今こうして僕に敵対している。
「気分はどうかな? 一条」
「……ぐっ……」
「オイオイ返事くらいしてくれよ……なぁ!」
膝が鳩尾に激痛を伴って叩き込まれ、胃の中の空気が不自然な音と共に口から出た。口の中から流動物が出そうになるのを必死に堪える。
四宮は首を鳴らしながら僕をゴミを投げるみたいに適当に放り投げた。先程の戦闘で既に受け身を取れる程の体力は無くなっていた。床に派手に背中を打ち付ける。
「なぁ一条、おじさん確かこう教えたよなぁ。仕事は徹底的にって」
「……ぐぁっ……」
「……喘いでねぇでちったぁ返事してくれよな? おじさん、そんなに気ィ長くないんだからさぁ」
僕が立ち上がろうとした所に、容赦なく回し蹴りが襲い掛かる。防御する術も無く側頭部に直撃。視界がグラつき数秒後に視界が安定する。その時には既に僕の体は地にうつ伏せで倒れていた。
が、髪が引っ張られる感覚がした。そのまま頭皮が千切れそうな感覚に変わり、頭が宙に浮く。僕の頭を持ち上げる四宮は、顔だけは笑っていた。
でもその奥の瞳は、全く楽しそうではない。
「おじさんさぁ、暇じゃないのよ。ねぇ、わーってる?」
「……す、すみませ……」
「誠意を見せろよ誠意を、ほらねぇ」
不意に頭に下方向の力が掛けられ、地面と顔面が派手に正面衝突する。鼻が特にジンジンと痛むが、四宮はこちらの事などお構い無しに、玩具で遊ぶかのように、僕の頭を何度も地面に叩き付ける。その度に激痛が脳に響いて意識が飛びそうになる。
「おじさんも人を虐める趣味は無いんだけどねぇ。ほら、無能な奴って見てるとイライラする訳。それ自体は罪じゃないんだけどさぁ、身の程を弁えろって話。お宅、未だにヒーローになれるなんて思ってんの? ダメダメぇ。そういう絵空事が言えるのは極一部の限られた人間なんだから」
「…………い」
「なんて?」
「……うるさい……! 誰もお前の助言なんて……求めてないだろ……!」
「……かぁー…………折角人生の先輩として言ってやったのにこの始末か…………」
四宮は呆れた顔で腰を落とし、僕の顔を目が合うように持ち上げる。
「おじさんもさぁ、許してやろうかなくらいは思ってたのよ。ね? だけどねぇ。おじさん嫌いなの」
四宮の右手に、文字通り火が付いた。手をまるごと覆うほどの炎と呼ぶべきそれを僕に近付けて彼は言う。
「一条、お前みたいな勘違い野郎の事がさぁ」
「……止めろ……!」
「言葉遣いってもんはどうしたのよ。なんだ? 自分の本性見透かされてイラついたかい? それとも殴られて腹が立ったかい? 勘違い野郎って言葉が嫌だったかい?」
四宮は小さく、最大限の侮蔑を込めた舌打ちをして、僕に言葉を吐き捨てる。
「生憎、どれもこれもお前の失敗だの欠点だのが招いた事。おじさんは事実を言っただけ。違う? 薄々気が付いてんだろ?」
「一条、お前はヒーローになれないよ」
認めたくなかった。
僕がヒーローになれるって信じてるなら、僕がヒーローなら。今すぐこの場で反発しただろう。
その言葉が憎くて憎くて仕方ない。今すぐにでも撤回させてやりたい。そう思っている。
だけど、僕はそれを行動に示せなかった。
「……ぁ…………」
ただ、呆然としているだけ。それしか出来ない。
「もう知ってんじゃないの? 気が付いてんじゃないの? 一条自身が一番。自分がそんな器じゃないって」
「……違う! 違う! 違う違う違う!」
今更必死になって首を振った。必死になって、勢いで否定を続けた。何回も何回も何回も。まるで内側からせり上がってくる肯定から目を背けるように。
「……違う…………ちが…………う……」
でも、その勢いが失せた時、僕は言葉を失った。出てくるのは否定の言葉じゃないくて、情けない自分を嘆く、涙。
「……お前も随分面倒臭い野郎だねぇ」
溜め息をついた四宮は、炎を更に一層激しく燃やした。そして、その燃え盛る手を僕に近付けてくる。
「燃やしてやるよ。もう何も思い出せないくらい。お前も辛かったろ? そんなバカみたいなもの、追い続けるのはさぁ」
その手が僕の顔面を掴んだ時、感じたのは言い表せない程の熱だった。とにかく熱い。痛いのではない。熱いのだ。普通は痛覚に変わるはずなのに、その炎はただただ熱いだけ。
「おじさんのハートは《心を焼く力》。お前もじきに、何も知らない真っ白な灰になるだろうねぇ」
自分の中で何かが焼けていくのを感じた。
でも何が焼けたのかは思い出せない。不思議なくらい、全く。
このまま全部燃えるのだろうか。
いつかは僕という人格すら、燃えるのだろうか。
四宮が僕をこうしているのは、情報漏洩を防ぐ為だろう。つまり、僕はもう彼らとは居られない。要らないものという事だ。
つまり、彼女は僕を要らないと言ったのだ。唯一、僕の存在を見付けてくれた彼女が。認めてくれた彼女が。居場所を作ってくれた彼女が。必要ない。無価値だ。そう判断したのだ。
そんな僕に、生きる価値なんて無い。
いっそこのまま、灰になるなら、それはそれでいいと思った。彼女が必要としてくれないなら、この世界はもう要らない。
僕も、要らない。
そう思っていた次の瞬間、僕らの背後の炎の幕の一部が裂けるように開いた。驚いて四宮は振り返る。
咄嗟に背後を見た四宮の顔に、明らかな同様が走る。
炎の中から、一つの影が姿を表した。その片割れが、刀をこちらに、四宮に向ける。
束の間の静寂の後に、言葉を切り出したのは四宮だ。
「…………驚いた驚いた。おじさん、結構全力だったんだけど」
「心配すんなよオッサン。オレも大分削られたからよぉ」
軽口を飛ばし合っているが、彼らの雰囲気は剣呑だ。無川刀子は常に四宮を睨み、一瞬たりとも目を離さない。一方四宮は僕の事を一旦置いて無川刀子に対峙する。こちらを構っている暇が無いのだろう。
そして、無川の後ろから、炎の洞窟を通って大柄の男が一人。
「待ってろ正義。今助ける」
友松共也が、居た。
「……馬鹿じゃないんですか。貴方」
思わず、そう言葉が零れた。
どうしてここまで出来るのか。分からない。本当に分からない。
「そうだ。俺は馬鹿だ」
だけど、と彼は拳を握る。
「人を見捨てるのが賢明だって言うんだったら、俺は人を救いたい馬鹿になる」
彼はそう言って、馬鹿みたいにとびっきりの笑顔を浮かべた。
僕は悟った。
僕は、こんな風にはなれない。ヒーローには、なれないんだと。
○
正義を放ってこちらに相対する四宮には若干の動揺が見て取れた。恐らくあの炎の幕を突破してきた事を想定していなかったのだろう。今ならまだ、チャンスはある。
「……へぇ。あんちゃんたち、思ってたよりもデキる子みたいだねぇ」
「ハッ。余裕ぶっこいてる暇があるなら命乞いした方がいいんじゃねぇかオッサン」
「悪いねぇ嬢ちゃん。おじさん、簡単には引けないんだよねぇ」
四宮が冗談っぽくそう言うが、その笑顔さえ若干硬い。そして向こうが動く。
彼は再び超高速の光弾を無川に発射した。途方も無いハートが込められた一撃。無川のハートすら上回るほどの力を持ったそれが、無川に向かって行く。
「あまりオレを舐めるなよ」
無川はそれを真っ向から切り付けようと刀を上段から振り下ろした。
刀と光弾が接触した瞬間、無川の刀と光弾が拮抗。が、それもすぐに破られ無川の刀が光弾を真っ二つに切り裂く。切り裂かれたそれらは爆発もしなければ燃えることもなく虚空へ消え去る。
「もうテメェのハートは通用しねぇ」
「…………ハハハハハ……嘘でしょ。おじさん、こんな化けモンがいるだなんて聞いてないんだけどねぇ……」
「悪ィがこちとらテメェと同じ人間様だ。化けモンなんかそもそも居ねぇ」
無川はそう言ってから一気に横方向に跳躍して四宮との距離を詰め、長い刀を横から薙ぐように振るった。
「……しょうがないねぇ……おじさんもちょっと、頑張ってみようか……な!」
だが無川の刀は停止した。無川の目が驚きで見開かれる。
一方四宮が持っていたのは、炎だ。正確には、棒状に圧縮された炎。まるでそれは炎の剣とも呼ぶべき形を取っている。
「……ンなモンで防げるかよ!」
無川がそう言うと、徐々に炎剣が削られ始め、無川の刀が少しずつ四宮に迫る。
「共也ァ! 今の内に一条を!」
「分かった!」
四宮が何も手が出せないこの間に、俺は正義の回収を試みる。正義の倒れている地面と俺のすぐ側の空間を繋げればいい。
だがいつのように適当に場所を決めるわけにはいかない。少し狂えば正義の体が接続された空間に挟まれてその部分が削り取られてしまう。だから慎重になる。
「……お前は…………どこまで……」
正義は俺がハートを使おうとしていることを悟ったのか、俺に尋ねる。
「さっき言ったろ。俺は馬鹿だ」
照準が定まった所で、ハートを使う。すると正義の体が地面に飲み込まれるのと同時に、俺の上から落ちてくる。一度キャッチして、彼を地面に寝かせてから、俺は言う。
「馬鹿は損得の計算なんかしねぇんだよ」
その時、俺は確かに油断していた。
正義が必死な形相になるまで、俺は異常には気が付かなかった。
「……どけ……!」
瞬間、正義が立ち上がって俺を突き飛ばす。
その時、初めて気がついた。
俺が繋げた空間から、四宮から放たれた炎が飛んできていることに。俺のちょうど真上に降り注いでいることに。
その炎が、正義に直撃するまで、俺は気が付かなかった。
「……あ……え…………」
俺の喉は意味不明な音を発すだけ。驚き過ぎて声が出ないとは正しくこの事か。
正義は意識が無いのか、自分の体に炎が纏わりついているのに未だに微動だにしない。
「お、おい! しっかりしろ!」
正義に纏わりつく炎達をどこか適当な所に飛ばす。炎の大部分はそれで処理できた為に、炎はそこまで長く燃えることは無かった。
「……テメェ……」
「言ってるでしょ? 仕事だって。おじさん、一応正義の保護者なんだけど」
睨み付けた先の四宮は、無川と未だに鍔迫り合いを続けつつも俺に言った。その顔には汗が浮かんでおり、既に余裕がなくなっている事を表していた。
逆にそんな状態でも、彼は正義を狙ったのだ。つまり、彼にはどうしても正義を狙う理由があった。
「何故正義をここまで狙う」
「……犯人が正直に動機を言うのはドラマの中だけだよ。あんちゃん」
少しだけ強ばった口調でそう話すと、彼は一旦炎剣を手放して距離を取った。無川の刀が主が居なくなった炎剣を真っ二つに切り裂く。
「オッサン、もう終わりだろ」
「……ふぅ……おじさん、もう疲れちゃったよ」
四宮は表情に如実に疲れを表している。考えてみれば、あんな炎の幕を使ったのだから、精神的には既に限界の筈だ。
「だから、今日は引かせてもらおうかな」
「今更逃がすと思ってんのか?」
無川が再び切り込もうと、一歩踏み出した。
「ははは。ま、目的は果たせたし、今回は許してあげるよ」
そう言いながら、四宮はパチンと指を鳴らす。
瞬間、視界が白に染まった。直後の目を焼くような熱さに、これが閃光だと言うことに気が付いた。言わばフラッシュ。相手の視界を強い光で一時的に奪う道具。彼が行ったことはさながらそれに似ていた。
目の強いモヤが晴れた時、四宮はそこにはいなかった。
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