複雑・ファジー小説
- Re: ハートのJは挫けない ( No.31 )
- 日時: 2018/05/22 06:17
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕は共也君と一緒に、今ここに居る。僕が学校に着くなり頼み事をしてきた彼。僕は特に断る理由も無いので了承した。
そして、その後僕達は浮辺縁君のいる演劇部の部室までやって来たのだが──
「なぁ貫太。さっさと俺を信じようぜ」
僕から見て、右前方にいる共也君がそう言う。ボタンが掛けられておらず、羽織るだけの学ラン。大きな身体に筋肉質な体格。そして彼の顔。どこからどう見ても、彼自身である。
その見た目は間違いなく友松共也であろう。だが僕には、目の前の共也君が、本当に共也君であると断定することは出来なかった。
何故なら
「おいおい待てよ。俺が本物だっつーの」
もう一人、僕の左前方に瓜二つの顔に全く同じ服と体をした、友松共也がいるからだ。ドッペルゲンガーというか、最早本人が2人になったと言う程の再現度である。無論、2人が居るということは、どちらかが偽物なのだろう。
「どっちが本物なの?」
「俺だ」
「俺だ」
僕がそうやって問うと、彼らは全く同じ動作で自分を指さした後、隣の方を睨み付けるように見て、お互いに指を差し合う。
「テメェ! 真似なんかしてんじゃねぇぞ!」
「テメェ! 真似なんかしてんじゃねぇぞ!」
僕は目の前で繰り広げられる鏡写しの言い合いに頭を抱えるしかない。2人は同じような動作で全く違わないセリフを同時に言うのだ。
「どうしてこうなったんだ……」
僕は現実逃避気味に、意識を少し前の事が起こる前に向けた。そう、それは確か──。
○
「浮辺君? ごめんなさいね。今先生と買い出しに言ってていないの」
「買い出し?」
僕が演劇部を訪ねると、浮辺君は留守だった。買い出しという単語を聞いて、演劇部にそんな事が必要なのかと思い、聞き返してみる。
「ええ。昨日の公演でダメになったのがあってね。ほら、ウチの演劇部って男子が少ないからさ。浮辺君は男の子だし」
荷物持ち要員にされたのか、とそう解釈する。多分だが間違っていないだろう。
「いつぐらいに帰ってきます?」
「えーっと、あと1時間くらいしたら帰ってくるかしら。少し遠目の場所に行ったから」
その後、演劇部の先輩が逆に聞き返してくる。
「ところで、浮辺君に何か用事でも?」
「はい。少し話がしたくて……」
「うーん、なら待ってる? ちょうどいい場所があるし」
それは僕らにとっても良い提案だったので、僕らは付いていく事にした。案内されたのは、視聴覚室。教室の前には大きな白いスクリーンが掛けられており、すぐ近くにはプロジェクターが設置されている。適当な椅子にかけるように言われたので従うと、先輩が放送器具を弄り始めた。
数分後、少し後に映像が流れ始める。見覚えのある場所の映像。そう、ウチの学校の体育館のステージだ。先日、演劇部が公演をした場所。
「これは?」
「勧誘も兼ねた暇潰しね。あ、映像は去年のよ」
勧誘しているのか、と思わず身構えるが、実際内容は単純な劇だった。暫く映像を見ていると、物語の中に見覚えのある人物が出てくる。
「あれ、浮辺君?」
確かに浮辺君だった。配役としては、少なくとも序盤に出ては来るものの、完全に目立たないであろう、脇役のポジション。昨日の配役とは大違いだ。そして何より……下手だ。いや、下手なのかどうかはよくわからないが、少なくとも昨日のものとは全く違う事だけは分かる。共也君にこっそりそれを言うと、同意の言葉が返ってくる。
「……少し、違う気がする」
「……ああ。なんかまるで人自体が変わったみてぇだ」
その後も話は進んでいくが、特に彼の活躍のシーンもない。単純な脇役な上に、数少ない彼の演技には、何か違和感というものがある。昨日に比べると、精度も質もまるで違う。
「……浮辺君、去年と全然違う……」
「ええ。彼、少し変わったのよね」
気が付けば、無意識のうちに漏らしていた言葉に、演劇部の先輩が反応していた。
「彼、1年生の三学期辺りに、突然演技の質が変わったの。急に、役作りが上手くなって、なんだか……その人本人になったみたいに、全然、演技しているって感じじゃなくなったの」
「え……」
「それに演技もなんだか……演じている人そのものが変わったみたいなの。昔の一生懸命な演技、嫌いじゃなかったんだけど……」
その言葉に、浮辺君の演技を見てみる。確かに、今の彼のような精密さと本物感に溢れた演技ではないが、彼が熱意を持って、真剣に演じているということは分かる。見ていて、好感が抱ける演技というのだろうか。
「その……えっと……」
「私の名前は雪原優希乃(ゆきはら/ゆきの)よ」
「……雪原先輩は、やっぱり浮辺君が変わったと……思いますか?」
「そうね。彼なりに努力を積んだのかしら。かなり変わったわ。でも……昔の一生懸命さとか、必死さとか、そういうのが無くなっちゃったのは少し寂しいわ。……最も、最近は凄く幸せそうだけどね。彼」
「幸せそう?」
「ようやく努力が実ったんだもの。周囲から評価を受けたら誰だって喜ぶわ。彼の場合、最近急に先生から気に入られ始めてるし……」
雪原先輩は少しだけ寂しそうな顔をしている。が、すぐに表情が変わったと思えば、演劇が終わっていた。プロジェクターを弄りながら彼女が時計を確認する。
「もういい頃ね。部室にいるかしら」
その後視聴覚室から出て部室へ向かう。
彼女から外にいるよう言われた為、部室の前で待機していた。少し経った頃に浮辺君が現れた。僕らと同じ制服を着ている。多分、買い出しに行く時の服装のままで着替えていないのだろう。
「えっと……僕に用事があるの? かな?」
「ああ、ワリィな。浮辺」
「全然。それより、どうしたの? 貫太君までさ」
「何でもないけど、まあ、ほら、少しだけ見せたいものがあるんだよ」
そう言って、僕は観幸に言われた通りのセリフを言う。正直、芝居がかっているせいで演劇部にはバレるんじゃないかとヒヤヒヤする。が、彼は少しだけ訝しげな目線をぶつけてきたものの、なんだかんだで了承してくれた。……バレたのかと思った。
それから人気のない渡り廊下まで足を運んだ僕ら。
「こんな所まで来て、何するんだい?」
「いや、俺も知らねぇんだ。なんか貫太が見せたいものがあるっていうからよ」
そう話している浮辺君と共也君。そして、共也君は僕に背中を向けていて、浮辺君がその斜向かいにいる。余りに絶好すぎる位置関係。偶然にしては出来すぎている。
これから行うことを想像して、思わず息を飲み込んだ。2、3回、ほどバレないように深呼吸をする。
目の前で2人が会話していること。そして共也君に見えないように、また浮辺君に見えるようにやることが重要なのだ。
何故なら、共也君にバレたら、困るのだから。そう考えると、手に汗が吹き出てくる。暑いなと気温のせいにして、自分の動揺を誤魔化しつつも標的を見据える。
僕は1歩、共也君への距離を詰めた。心臓が飛んでいきそうな位、鼓動が大きくなる。胸が張り裂けそうなほど緊張する。もしこれが失敗したら後がない。そう考えるだけで、僕は死んでしまいそうだった。
まあおかしな話だろう。
これから人を刺すというのに、自分が死にそうとは冗談にも程がある。
そして僕は、隠し持っていたナイフを突き刺した。
しっかりと、ゆっくりと押し込む。
「────貫、太?」
共也君が、驚いたような声音を上げる。彼にしては珍しいな、なんて思いながら、振り返った彼の見開かれた目を見る。きっと彼も、本気を出せば僕なんてすぐに殴り飛ばせるはずなのに、そうしないのは、彼の優しさ故だろう。
ゆっくりとだが、彼の体が力なく倒れていく。膝をつき、手を付き、そして体を這いつくばる様に床に押し付ける。彼の背中に突き立つのは、1本のナイフ。
視線をゆっくりと、倒れた共也君から浮辺君に向ける。彼の表情が、僕への驚愕で埋め尽くされていた。まあ当然だろう。僕は彼に見せ付けるためにやったのだから。
「……僕が見せたかったものはこれだよ」
「き、君はなんて事を! そんなもので人を刺すなんて!」
浮辺君が、腰を抜かしながら、伏した共也君を指さす。彼の手は震えていた。だから、僕はここで追い打ちをかける。
倒れた共也君と浮辺君の間に入り込むようにして立つと、制服からもう1本、ナイフを取り出す。学ランは物を隠すのに都合が良い。そしてそれを彼に向けると、彼はガタガタと震え始めた。
「や、止めて……、止めてくれよ貫太君!」
そうやって、必死の表情で懇願する彼。
その必死さに、僕は思わず笑ってしまう。いや本当に、おかしくておかしくてたまらない。
どうして彼はそんなに恐怖しているのかさっぱりわからない。笑いを堪えきれなくなって、僕が笑い始める。
すると、彼の表情がさらに一層、僕を恐れるものになった。
不思議に思いつつ、僕は笑いながら、そのナイフを二、三回、手の中でクルクルとした。
次話>>32 前話>>28
- Re: ハートのJは挫けない ( No.32 )
- 日時: 2018/05/24 18:30
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
僕はゆっくりと、一歩一歩、しっかり、ゆっくりと、焦らすようにして、浮辺君に近づく。すると彼は細かい震えを刻みながら、手と足を駆使して後ずさりする。しかしそれも束の間。5秒もしない内に壁に背中が付いて、もう彼は逃れることが出来なくなる。それを見て少しだけ笑みを深めると、彼の怯えが強くなるのを感じた。
「どうしたのさ。そんな怖がって」
「こ、来ないでッ!」
そんな言い方酷いなぁ、なんて思いつつも、じわりじわりと、先程よりもより遅く、床をじっくりと踏みしめながら、彼に近付く。
「ひ、ひぃ! く、くくく来るなぁ!」
大げさな程、殺されまいと必死になっている彼。そんな彼に、ナイフを首に近付けてから一言、少しだけ声音を変えて、脅しかけるように言ってみる。
「じゃあ白状しなよ……君、ハート持ちなんでしょ?」
彼は訳が分からないと言いたげな表情と視線でナイフと僕をじっと見つめつつも、正常に動きもしない首を、廃工場で何年も眠っていたゴミ同然の機械を回すようにぎこちない動作で、そのガタガタと震える顔と共に首を横に振る。……もう少しだけ、カマをかけてみる。
「ほんとにぃ? 君はハート持ちじゃないかな? あ、嘘ついたらこのナイフで刺すから」
「は、ハート持ちって何なんだよ! や、止めてくれぇ!」
そんな情けない声を上げるものだから、なんだかおかしくなってクスリと笑ってしまう。
いや、本当に凄いものだ。ここまで演技ができるなんて、流石は演劇部といったところだろうか。
「お願いだから……! 僕を殺さないでくれ……!」
彼がそうやって、懇願するかのように、いや実際に必死で懇願してくるものだから、僕はついついおかしくなって、また笑ってしまう。
でもまあ、取り敢えず彼のお願いにはこう返答しておく。
「いや、殺す気なんてないけど?」
僕がわざと何気ない、いつものキョトンとした口調でいえば、一気に緊張感が無くなったのを感じた。ぱちくりと何回か瞬きをして固まっている浮辺君を傍目に、倒れたままの共也君の元へと向かう。
「ど、どういうこと……?」
彼は相変わらず腰の抜けた様子で、壁に背を預けながらこちらに問う。もう、演技なんて止めればいいのに。そんな、ハート持ちじゃありませんなんて演技は。
その言葉と、僕の様子が急に冷めた事に、彼が疑問符を浮かべる。
「僕が笑ってた理由は単純だよ」
僕はそう言って、自分にナイフを突き立てる。彼がまたもや驚きを見せるが、数秒後、違和感に気が付いたようだ。
そう、1滴足りとも、血が流れていないことに。
これは特に難しい話ではない。
なぜなら、このナイフは僕のハート、《心を刺す力》によって作り出されたナイフであり、物理的な効力が無いからだ。人には刺さるものの、人に物理的なダメージを負わせることはできない。今回はその性質を利用しただけだ。
「僕は自分の役目が果たせて、嬉しかっただけだから」
そして接近した共也君からナイフを引き抜く。勿論、血なんて付いていないし、僕はそれを引き抜くとそれを自分の意思で消し去った。
そうすると、共也君が難無く起き上がる。先程の様子が嘘のように、特に目立った外傷も無ければ、不調という様子も無い。僕らは2人で、壁に背をつけて座り込む浮辺君に相対する。
「共也君、彼はさっき、このナイフに驚いたよね? 僕の持ってたナイフを恐れたよね?」
「ああそうだな。コイツは確かに見えていた。……貫太がハートの力で作った、ハート持ちにしか見えないはずのナイフがなぁ!」
共也君がそうやって、力強く浮辺君を指さした。
しまった。その表情を浮かべた直後、彼はそれを恥じるかのように片手で顔面を隠した。そのまま項垂れるように、頭を下げて、深い、深い溜息をつく。
そして彼の指の隙間から、声が漏れる。彼のくぐもった声が、先程の恐れた様子とは打って変わった声音が、廊下に響いた。
「……ぁあーあー、バレちゃったか」
顔を覆ったまま、彼がふらりと立つ。その足に先程のような震えも情けなさも一切無い。強いて言うなら、今までとは違った雰囲気を纏っている。
「中々の演技だったぜ?」
「バレるとは思わなかったなぁ……いつから気付いてたの?」
「いや、正直オレは騙されてた。ま、こっちにゃ名探偵モドキがいるからな」
「……ああ、深探君ね。彼、今じゃちょっとした有名人だよ。僕からしたら、彼が一番ミステリアスだ」
2人が軽口を叩き合うが、その間やけに空気が張り詰めている。何気ない日常会話というシートに包まれた、いつ爆発するか分からない不発弾のようなものが、近くにあることだけを実感する。
「ま、アイツが一番の謎だよな」
「そうだね……ところで、何がしたいの?」
その文には、きっと『ハート持ちだと暴いて』という言葉達が省略されていたのだろう。その意図を汲み取ったのか、共也君がこう返す。
「何かしたいっつーか……まあなんだ。ちょいと俺の仕事? って奴だ。別に害を加えるつもりはねーさ」
緊張感を和らげる為か、軽い口調で返す。
そのお陰か、少しだけ緊張感で汚染された空気が幾らか改善された。
と思いきや、突如として後ろから引っ張られるのを感じた。そのまま思いっ切り後ろに倒れ込むと、誰かに受け止められる。そして気が付けば、共也君は僕の隣から背後へと移動していた。
そして、僕が先程まで立っていた場所のすぐ後ろの壁に、カッターナイフが突き立っている。
この場において、ハートの力で瞬間移動して僕の背後に回り込み、僕を助けた共也君と、危うくカッターナイフが刺さる所だった僕。僕らを除けば、ここにいる人物はあと1人しかいない。
「……浮辺、テメェ……」
共也君が少しだけ声音を落として、怒りを滲ませた声で名前を呼ぶと、彼は今まで顔を隠していた左手を取り払った。すると、突如として鋭い眼光が姿を現す。
「ほら、よく言うだろう?」
彼はポケットに右手を突っ込むと、何かを握って取り出す。何を握ったのかは分からないが、彼の片手に包まれて見えなくなるレベルのものである。
「先手必勝、ってさ」
彼がその右手を横に振った。すると、彼の振るった右手からカッターナイフが投げられる。驚くのも束の間、共也君によって僕は後ろに投げ出された。彼自身は瞬間移動で避けている。
「おいまて浮辺! 何してんだお前!」
「……仕方ないじゃないか」
彼が溜息を付いて目を伏せる。そしてもう1度目を開けた時、それは姿を現した。
そう──彼の黒目の部分が痛々しい程真っ赤に染まった右目が。
「──嘘だろ、おい」
共也君が、酷く動揺しているのが分かった。その見開かれた目は彼の赤目を一直線に捉えている。口は開かれており、完全に放心状態だった。
「なんだか、自分が抑えられないんだ」
彼はそう言って、再びカッターナイフをどこからとも無く取り出す。狙いは、共也君。
「よく分からないけど、君達を殺さなきゃって」
今更カッターナイフに気がついた彼。だがしかしもう遅い。飛来したその鋭い刃が、彼の右腕、二の腕の部分に突き刺さった。
次話>>33 前話>>31
- Re: ハートのJは挫けない ( No.33 )
- 日時: 2018/05/26 19:42
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
「クソ……野郎がッ!」
カッターナイフを無理矢理力づくで引き抜き、苦しそうな表情を浮かべる共也君。ゆかに投げ捨てられたそれが、カシャンと音を出して少しの血を撒き散らしたところで、彼の反撃が始まる。
その場で虚空に向かって左拳を突き出す彼。勿論それだけでは何も起きないが、彼の力を使えば別の話だ。彼の肘から先が消え、それが浮辺君の前に現れる。案の定、彼はそれに全く反応することができずに、胸に拳が突き立つ。彼はそれに後ろに突き飛ばされたようにして後退するが、全く痛がる様子を見せない。
「全然拳に力が無い。右腕を庇ってるからそうなるんだよ」
「気ィ遣ってんだよ! どうやらモヤシの割には力はあるみてーだなぁ!」
「演劇部だって筋トレもするしね。……早く諦めればいいのに」
「生憎諦められるような往生際の良さはねぇんだよ、俺にはな!」
図星であることを悟られまいとしたか、共也君は浮辺君の言葉を豪快に笑い飛ばす。その笑みも、少しだけいつもより曇って見える。
フン、と鼻で笑うように返した浮辺君は、再び右腕を振るった。彼の右手から、握られていないはずのカッターナイフが、再び共也君に飛んで来る。
「なんて手品だよ!?」
「さぁね? 君が死ぬ事には関係無いよ」
共也君の胸めがけて投擲されたそれを、ハートを使いつつ避ける共也君。今はまだハートの力で避けることが出来るが、これ以上彼の得意な接近戦に持ち込もうとすると、恐らく躱す事が出来なくなるだろう。
などと考えている間にも、再び浮辺君が右手を構える。彼の手は、何かが握られていることしか分からない。
「止めろ! その右手を振るな!」
次の瞬間、僕の前にナイフが飛び出した。そのまま高速で浮辺君に、呆気なく突き刺さる。刻まれた言葉は『止めろ』の3文字。直後、彼が振ろうとしていた右手が唐突に停止する。そして、手の中から何かが零れ落ちる。
金属音を出して、銀色に光るそれが床に転がった。そのまま転がって僕の元まで来るそれ。慌てて拾い、その姿を見る。
銀色の薄くひらべったい円形のもの。そして中央には大きく『1』という数字が刻まれている。僕の頭の中は、視界にそれを入れた瞬間、それを示す一つの固有名詞を思い浮かべた。
「い、一円玉だ! お金の一円玉じゃないか!」
「一円玉、だぁ?」
共也君が僕の声に何を阿呆なことをと言わんばかりの口調で反応した。そんな彼に、この硬貨を見せると、彼が驚きの顔を浮かべ、浮辺君の方を見る。
「……ま、もうネタバラシしてもいいかな。……僕のハートの、ね」
そう言って彼は、ポケットに手を突っ込み、何かを人差し指と親指で摘んで僕らに見せつけるようにして押し出した。僕が持っているものと同じ、一円玉だ。
「僕のハートの《心を偽る力》」
彼がそういった瞬間、一円玉が見る見るうち朧気になり、姿が殆ど見えなくなる。そしてすぐに、何か細いものが代わりに姿を現す。そしてそれは、カッターナイフに姿を変えた。
「でも、これだけの陳腐なハートじゃない」
彼はそう言って、膝を付いて床に手を触れた。僕らがなんだなんだと見ている内に、共也君が変な声を上げた。
「うおっ!? な、なんだこれ!?」
そちらを振り向くと、彼の周辺の床が姿を変えていた。全体的に青っぽい模様が付いており、彼が足を持ち上げると、何かが床から伸びて靴の裏にへばりついている。
「ね、粘着シートだ! まるで家の害虫を駆除する罠のように俺の足にくっつきやがる!」
あの床は今、踏んだら中々足が離れないようになっているのだろう。共也君が力づくで歩こうとしても、中々強力な力でそれを封じ込めようとする粘着物。
「君のハート、ちょっとでも動かないと瞬間移動出来ないんでしょ? ……というか、ワープゲートみたいなものを作る力なのかな?」
共也君のハートは《心を繋ぐ力》だ。瞬間移動は空間と空間を繋げ、距離を省略しているだけで、場所から場所へとワープしている訳ではない。だとするならば、動けなくなれば、彼は省略することが出来ない。彼は自分の移動距離を幾らでも引き伸ばせるが、そもそも1ミリも移動できなければ引き伸ばすも何も無いだろう。
「共也君!」
「来るんじゃねぇ貫太! お前までこのゴキ罠モドキの餌食になるぞ!」
そう言って、共也君が僕を制止しながら見せつけるように右足を上げる。しかし少し上がったところで、強烈な粘着力によって引き戻される。彼の全力を用いても、ほんと数十センチしか進むことが出来ないようだ。それどころか、共也君の顔には明らかな疲れが滲み出ている。
「それじゃあ、さよなら」
共也君が驚いたような表情と共に声を上げると、浮辺君が返事に添えるように、カッターナイフを投げ付けた。
だが僕は、何もしなかった。
何故なら、見てしまったからだ。
──共也君が、笑ったのを。
「浮辺、思い込みってものは怖ぇよなぁ」
「何を言っているんだい?」
共也君は、唐突にその言葉を発した。彼が浮かべるのは不敵な笑み。不気味がるように浮辺君が疑問で返すと、共也君は飛んでくるカッターナイフに手を向ける。その行動に、僕と浮辺君が目を見開いた。
「『一度効いたものは二回以降も効く』『一度効いた攻撃は何回でも効く』……なんてのは、結構ありがちな思い込みだよなぁ?」
そして、カッターナイフの銀色に輝く刃が、彼の手に突き刺さる。
いや、違う。カッターナイフが彼の手に吸い込まれるようにして、消えた。
そう、共也君は自分の前とどこかの空間を繋げて、そこにカッターナイフを逃がしたのだ。では、彼はどこに繋げたのか。
その答えは、浮辺君の後ろにあった。
「ハッ! テメェの自業自得だ!」
直後、浮辺君がくぐもった声を上げた。彼が何が起こったのか分からず、背後を振り向く。
「そうか……カッターナイフを僕の背後に移動させたのか……」
彼の顔が苦悶に歪んだ。そして、彼の背中からまたチャリンとお金の落ちる音がした。一円玉だ。彼のハートは恐らく、物を一時的に別の物に変える力なのだろう。そしてそれが解かれて、一円玉が落ちてきたのだ。
すると、連鎖的に周囲に転がっていたカッターナイフが、一円玉に姿を変えてく。そして、粘着質の床も、普段通りの床に姿を戻した。
瞬間、共也君が走り出す。浮辺君にスキが出来た今がチャンスと見たのだろう。
「……甘い!」
が、浮辺君が手にはカッターナイフが握られていた。まさか、隠し持っていたのだろうか。
だから僕は、安堵の息を吐いた。
「なっ……!?」
彼がしまったと言いたげな声を漏らす。彼は、カッターナイフを落としてしまっていた。これは彼のケアレスミスではない。何故なら、彼の胸にはナイフが突き立っているからだ。
──僕が作った、『止めろ』と刻まれたナイフが、だ。
「本当に……ピカイチな奴だぜ、貫太ァ!」
共也君のその言葉の直後、彼の左拳が、浮辺君の呆然とした顔を撃ち抜き、背後の壁まで吹き飛ばした。
次話>>34 前話>>32
- Re: ハートのJは挫けない ( No.34 )
- 日時: 2018/05/29 04:44
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
殴り飛ばされた浮辺君は、背後の壁面に激突して、そのまま人形が崩れるかのように壁に背を預けて倒れた。彼は、もう動かない。
「……はぁ……はぁ……クソ、厄介なハートだったぜ……」
汗を制服の裾で拭いながら共也君が言い、軽い足取りで浮辺君に近付く。思わず、愛泥さんの時のことを思い出した。
そう、倒れているフリをして、実は意識があった時の事だ。
「待って! まだ油断しないで!」
僕の声が廊下に反響すると、共也君がハッとしたような顔を浮かべて、慌てて足を止めた。すると、倒れた筈の浮辺君が目を開け、体を起こす。
「これもバレるとはなぁ……」
「生憎、こっちはそれでトラウマレベルの体験してるからね」
「そっか……じゃあ」
そう言って、彼はまた、その右手に一円玉硬貨を握り締める。
「これはどうかな?」
そう言って、その一円玉硬貨を、床に叩き付けるようにして投げ付けた。
次の瞬間、僕の視界を染めたのは、白、白、白。圧倒的なまでの白い色。これが煙だと気が付いたのは、僕が吸い込んでむせ返った時だった。
共也君の方からも、むせ返る音がする。どうやら、彼もこれを吸い込んでしまったらしい。これは不味い。浮辺君がこの後、何をするのか、僕には想像すらできなかった。
そして、視界が晴れた時。
僕は再び、驚かされる事になる。
僕の目の前の、右にいる共也君は、その顔を驚愕に塗り潰して叫んだ。
「だ、誰だテメェは!」
一方、左にいる共也君は、その顔を驚きに染めて叫んだ。
「お、俺がもう一人だと!?」
そう、僕の目の前には──瓜二つの、何から何まで全く同じ、友松共也が存在していた。
○
今までの回想を終えた僕は改めて2人をじっくりと観察してみる。が……残念ながら違いらしき違いが見受けられない。
「オイ、俺は本物だ。信じていい。間違いねぇ」
「ちょっと待ちな。本物は俺だ。偽物風情が嘘ついてんじゃねぇ」
そしてそれは、目の前の2人に聞いたって何もわからない。
ため息を付いて、僕は2人に、ハートの力で作ったナイフを飛ばした。2人の胸に突き刺さったそれに刻まれた言葉は、『ウソを付くな』の六文字。
「本物はどっち?」
流石にこうしてしまえば分かるだろう。そうやって、高を括っていた。だからそこ、その数秒後、驚かされる事になるとは、この瞬間は知らなかった。
2人の共也君は、同じ動作で自分を指差しながら、同じタイミングでこう言った。
「俺が友松共也だ」
「俺が友松共也だ」
2人の重なった声が、こんなにも憂いを招くとは想像もしなかった僕。目の前では、また鏡合わせの喧嘩が巻き起こる。それによって、また僕は頭を抱えるしかない。
恐らく、彼の《心を偽る力》は自分の本心すらも偽るのだろう。最早偽るとかそういう次元ではない気がするが、少なくとも僕のハートのより彼のハートの方が効力が強いと見て間違いない。
「じゃあ、僕と最初に出会ったシチュエーションは?」
「滝水公園で不良に絡まれた時」
「滝水公園で不良に絡まれた時」
再び重なるセリフ。今度はお互いに拳を突き出し合い、お互いそれを顔面にくらって吹っ飛び合う。なんだかシュールな光景を見ているが、これは少しだけ不味いのではないだろうか。
どうやら、理屈は分からないが彼の力は情報すら仕入れるらしい。どうやってかは知らない。ただ、今はそういう力であると認識するしかない。
「君の人を褒める時に使う口癖は?」
「ピカイチ」
「ピカイチ」
「君の兄の名前は?」
「友松見也」
「友松見也」
ダメだ。どの方向から責めても返ってくる質問は同じ。記憶などでは、この謎は解けないらしい。
何か無いのか。そうやって周囲を見回したところで、ふと、あるものが目に入る。
それは、血にまみれた一円玉硬貨だった。何があったのさ先程までのことを思い返してみる。そのうち、共也君が血を出すようなことは一回だけ。
そう、最初に、右腕にナイフが刺さった時の、あの一回だけだ。
ハートの力は、精神と物理に二極化する。精神の場合は精神にしか働きかけられないし、物理の場合は物理にしか働きかけられない。ちょうど、愛泥さんの具現化した鎖が人を操れずものを縛ることしかできないように。
と、するならば、彼は記憶や心に干渉した。これは精神の真似だ。精神を偽っている。動作の真似も、予想しているだけなら精神的なものだろう。そしてその状態なら──不意に外部的要因から、物理的な要因で発生する、バグのようなものに対処できるだろうか?
バクというのは、例えば、小さなキズ、とか。
「……左手上げて」
そう言うと、2人は同じ動作で手を挙げた。
「右手も上げて」
そう言うと、2人は同じ動作で上げる──のではない。左の方の共也君が、若干、痛がるような素振りを見せて、手を挙げるのが遅れた。
右の方の共也君が、しまったと言わんばかりの顔を浮かべるが、こちらをちらりと見た後にすぐに誤魔化すような表情を浮かべる。
それを見落とすほど、僕はマヌケじゃない。
「何もするな!」
僕の胸からナイフが発射。それは右の方の共也君に突き刺さる。彼が動き出そうとしていたのが、一瞬、止まる。
「人の真似ばっかしてんじゃねぇぜ!」
今度は共也君の蹴りが、反対側の共也君──もとい浮辺君に炸裂。
「そん……な……!」
打撃点から霧が晴れるように、皮が剥けるようにして、浮辺君がその姿を現した。炸裂した蹴りは、彼の右腕を破壊する勢いで放たれた。実際、彼が右腕を抱えている辺り、あれはもう折れているのかもしれない。
だが、それでも。
「まだだ……!」
彼は左手でポケットに手を突っ込み、一円玉硬貨を取り出す。彼の貯蓄量が気にならないでもないが、そんな考えは彼の剣幕な雰囲気に一瞬で掻き消される。
「待てよ浮辺! 俺達はお前を殺したい訳じゃねぇんだよ!」
共也君のその言葉も、彼の表情を変えることはできなかった。それどころか、彼は恐れるような表情に、その顔面を変形させていく。
「嫌だ……! この力を失うのは嫌だ……! そんなことしたら、僕は、もう、誰からも……」
彼の体はふらついている。もう立つことだって難しいはずだ。それでも、彼の中で燃える執念のような何かが、彼をどうにか突き動かしている。
涙を流してまで、何かを恐れる彼。演技にしては、大袈裟すぎるが、本心から来たものだと考えると、妙なリアリティがある。
「な、何言ってんだよ!?」
「嫌だ……この力が無いと……僕は……必要じゃない……必要とされない……それだけは嫌なんだ!」
そう叫び散らす彼の右目は相変わらず、いやむしろ更に一層、赤く爛々と光り始めるそれ。共也君が、それを見て眉を顰めた。
「……オイ浮辺、オメーの右目、ソイツはどうした?」
共也君が、いつに無く真剣な眼差しを以て問う。
浮辺君が少しだけ間を置いた後、先程よりはマシな様子で返す。
だが返ってくるのは、キョトンとした声。
「何を言っているんだい……? 僕の右目?」
もしかしたら、これは彼の演技かもしれない。何かを悟られまいと、演技をしているかもしれない。
だが僕の目には、彼のその発言が、どうにも本気に思えてならなかった。
「て、テメェ……自分の右目の色に気がついちゃいねぇのか?」
「僕の両目は生まれた頃から黒だ。……何を言っているのかなぁ!」
「……ほら、見せてやんよ」
共也君が、浮辺君に右手をかざす。するとそこから、何処かへ繋げたのか、異質な壁のようなものが出てきた。最も、共也君の背後からでは何が出ているのか分からないが。
「……鏡の前と空間を繋げたの……は?」
どうやら、トイレかどこかの鏡の前と壁を繋げて、浮辺君に見せているらしい。そして彼は──酷く、動揺した表情を見せた。
「──なに、これ」
彼が、自分の顔面を掴む。形を確かめるように、何度も何度も、様々な部位を掴んで、まるでそこにあるか疑っているように。
「これが──僕?」
「違う」
「こんなの僕じゃない」
「そんな、僕は、僕は」
「僕は、誰?」
そう呟いて、まるで棒が倒れるように、彼が背後に倒れ始める迄に、数秒とかからなかった。
○
ずっと昔から、僕は無色だった。
僕はまるで平坦のような、平面のような、平凡な人間。特に目立ったものが無く、誤差程度の得意不得意はあるが、逆にそれが平凡さをより際立たせている。そんな存在。
目立った個性も、キャラクター性も、特徴も、僕は欲しいとは思わなかった。この思考こそが、僕を平坦人間たらしめるものの源泉なのだろう。
だか、そういった考えは、認められたい、構ってもらいたい、などの承認欲求が無いこととは繋がらない。そして僕は幸か不幸か、人一倍強い承認欲求があった。いや、むしろ小さな頃に人から認められなかった分、今頃になって求めるようになったのかもしれない。
だが僕には他人から認められるものは何も持ち合わせていない。平凡ということは、良くも悪くもないということ。良ければ、それは長所だ。他人から認められる個性だ。悪ければ、それは短所だ。他人から構われる個性だ。では平凡は?
平凡は、認められなければ構われすらしない。皮肉にも、認められたい構われたいと嘆く僕は、認められず構われない平凡というもので埋め尽くされていた。
そんなある日、あの人から、この力を貰った。
《心を偽る力》。彼女はこの力をハート、と呼んでいた。そして、この力を持つ人間をハート持ちというとも言っていた。
彼女の素性は知らない。
だが彼女は僕に、何も色のない透明の僕に、個性という色を与えてくれた。
僕は昔から演劇というものが好きだった。というより、何かを演じることが好きだった。自分ではない、何も無い自分ではない別のものになれるから。演じる自分は、誰かに見られる力があるから。
そしてこのハートの力は、僕の演技をより一層強めた。心を偽り、僕の性格をねじ曲げ、キャラクターに合わせることで、僕の演技は飛躍的に向上した。するとどうだ。今まで見向きもしなかった同輩や先輩、顧問の先生まで、みんな僕の方を見てくれた。僕を賞賛して、ずっと欲しかった役もくれた。それも、一番目立つ主役だ。僕は嬉しかった。
そして、気が付いた。
本当の僕なんて、もう誰も求めちゃいないんだ。
そして、唯一自分を自分たらしめていた、見た目すら変容してしまった今。
僕は、誰?
本当の僕は、何処?
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- Re: ハートのJは挫けない ( No.35 )
- 日時: 2018/06/01 04:02
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
浮辺君がそのまま、背後に吸い込まれるように、直立したまま棒のように倒れる。危ない、そう言いかけた時、隣の共也君が、ハートの力を使って、間一髪、浮辺君が頭を壁に打ちつけようとしていた所を、滑り込みで受け止めた。彼の意識は戻っているのか否か、うわ言のように何かを宣っている。
「……嫌だ…………僕……は……」
その様子は、悪夢にうなされている子供のようだ。何か悪いものでも見ているのだろうか。それとも、悪い現実から逃避するためのものなのだろうか。
「……不味いぜ貫太。浮辺の奴、下手したらヤベーことになっちまう」
そう言う共也君が、彼の右手を指さす。それを見て、思わず息を飲み込んだ。
そこにあるはずの浮辺君の右手は、まるでノイズが掛かっているかのように、黒いモヤに包まれている。そして、それは数秒後、タコのような軟体動物の触手に変わった。思わず悲鳴を上げて、また数秒後、今度は普通の手に戻る。目の前で繰り広げられる冒涜的な恐怖に、僕は目を背けずには居られない。
「な、何これ」
「恐らくだが……こいつのハート、《心を偽る力》が暴走してやがんだ。このままだと、こいつは何を何に変えるのか全く分かんねぇ……言わば装置みてぇなモンになっちまう」
「は、ハートの力が暴走するなんてある事なの!?」
そんな事、僕は一度も聞いたことがなかった。ハート持ちとなって、一ヶ月と経たない僕だが、見也さんからも共也君からも、一度もそんな話は聞いていない。
「……あの赤目だよ」
「……え?」
「浮辺の右目、赤かったろ」
そう言われて、先程の爛々と輝いていた右目を思い出す。普段は黒かったのに、急に赤くなったあの目。不自然といえば、不自然過ぎる。
「昔、アレと同じ症状のハート持ちに会った事がある」
そう言えば、共也君が初めてそれを見た時、僕と同じ……いや、それ以上に動揺していた。何があったのかは僕の知る由もないが、きっと彼の過去に何かあったのだろう。
「…………」
「ソイツはな……理性が吹っ飛んだ様子で暴れ始めたんだよ。それで結構な人数を…………殺した」
「ひっ……!」
共也君の言い方や声音も相まって、思わず口から変な声が漏れる。
「だから分かる。コイツを放置していたら、ぜってぇに、何か良くねぇ事が起こりやがる。コイツは俺の勘だが、外れはしねぇよ」
「で、でもどうするのさ! 僕達に出来ることなんて……もう……」
浮辺君を殺すことだけじゃないか。そう言おうとして、セリフを無理やり喉から出てこないように押し込んだ。ダメだ。そんなこと、共也君が出来るはずがない。どうにもならない感情は、歯を食い縛り手を握るエネルギーに変わるだけ。
「あるんだよ」
共也君が、僕に向かって手を差し伸べる。逆の手では、浮辺君にそれを置いた。
「これから、浮辺の心に乗り込む。俺のハート……《心を繋ぐ力》の本来の使い方だ」
本来の使い方。その言葉に、そう言えばと思わず彼の力の使った場面がフラッシュバックする。どれもこれも、ハートの具現化によって引き起こされたものばかりで、本来のハートの非物理的な力は全く見たことがなかった。
「……さぁ、どうする、貫太」
「……え?」
共也君は、少しだけ苦そうな顔をしつつも、僕に出来る限り淡々と伝えようとしていた。それでも、感情が滲み出てしまうのは、きっと彼の性のようなもの故だろう。
「心の中で、もし、もしもの話だ。……なんかあって、俺達が倒れたら……俺達は戻ってこれるかすら分からねぇ。最悪体がもぬけの殻になって死んじまう」
死んでしまう。その今の今まで身近にあったはずの言葉を聞いて、思わずゾワッとした。自分が先程までやっていたこと。そしてこれから起こる事に対する恐怖が、急にこみ上げてきた。思わず息がつまり、足が竦む。
「俺がやろうとしてんのはよ……言わば、火に包まれちまった火災現場の中に、生きてるかすらも怪しい一人の人間救うために、中身もわからねぇまま無防備で突っ込む見てぇなモンだ。無謀なのは百も承知だ。だから……お前が来ない選択をしても、俺は何も言わねぇさ」
彼はどうして、そこまで他人にこだわれるのだろうか。
おかしいだろう。彼は、何故友人や家族だけではなく、言ってしまえば数回程度言葉を交わしただけの相手に、ここまで必死になれるんだ。
──いや、きっとそれが、彼の強さなんだろう。
誰にでも分け隔てなく接する訳では無い。聖人君子を気取っている訳でもない。平等主義でも博愛主義でも無い。ただただ、目の前の人間が困っている時、それを解決する術を自分が持っている時、最善を尽くさずしてそれを見捨てられないだけ。恐らく、友松共也という人間の言動はそこが根幹なのだろう。彼の行動は、複雑に見えて実は最も人間らしいのかもしれない。
では、僕はどうするべきなのだろうか?
僕ははっきり言って臆病だ。誰にだって何事にだって常に一歩引いては、何らかの理由を付けては逃げている。強さなんてありはしない。小柄で力も体力も無い。腹を括れる度胸も無い。
それでも。
一つだけ、僕には動かなければならない理由がある。それは単純で、明快で、稚拙なものかもしれない。
「行くよ。だって……」
だけれど、この世には、理由が浅はかで悪いなんて道理は何処にも無い。ならいいじゃないかと、幼稚な言葉を叩き付ける。
「友達だから」
浮辺君も、共也君も、大切な友達だからだ。
そして、それ以上でもそれ以下でもそれ以外の答えが、必要であるとは、僕は全く思わない。
僕の言葉を聞いた共也君は、少しだけ顔をうつ向け、何故か数回ほど目を擦るような動作をした。
その後、顔を上げた彼の表情は、いつもの不敵な笑みに戻っていた。
彼は言う。
「貫太……もうピカイチじゃあ足りねぇよ」
彼が、僕の手を力強く握る。
「行こう。浮辺君を助けに」
すると、僕の意識は、少しずつだが真っ黒にフェードアウトしていった。
次話>>36 前話>>34
- Re: ハートのJは挫けない ( No.36 )
- 日時: 2018/06/01 04:02
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
目を覚ました時、僕の視界は朧気で、白以外何も分からなかった。
「おう、起きたか?」
「ここは……?」
「浮辺の心の中だ」
床に背を向けて寝ていた僕は、共也君の手を借りて立ち上がる。周囲を見渡しても、景色は妙にぼやけていてフワフワとしている。ただ、やたらと僕の周辺だけはハッキリとしているので、これまたおかしな気分だ。
「人間の心っつーのは不安定なんだよ。むしろ、安定しちまった方がやべぇんだよ」
共也君はそんな風に言いつつ、僕らの右手側を指した。そちらを向くと、白の中に、少しだけ違う色が見えた。
それは、大きな木──のようなものだった。形そのものは全長5m以上もの大木であるが、枝や幹などの茶色い部分は、全て真っ白だった。そして、その白い枝の先には、赤青緑黄紫白黒と様々な色の付いた葉達がこれでもかと言うほどに生えている。それらは全てがランダムに配置されているわけではなく、区画を分けるように、同じ色が集まるようにして生えていた。
「アレが言わば心の核って奴だな」
「……凄く……カラフルだね……」
「ああ。綺麗だろ? ただまあ……少しばかり浮辺の奴は寒色が多めな気もするがな……」
「違いがあるの?」
「ああ。一応色によって違いがあ──あ?」
共也君が、何を思ったのか血相を変えて駆け出す。僕も慌てて共也君に付いていく。普段より体が軽い気がしたが、それでも疲れるものは疲れる。ましてや共也君は足が速いので、小走りでも付いていくのが結構きつかった。案の定、僕は途中で共也君から引き離されてしまう。
共也君が木の前で立ち止まっていた所に、ようやく追い付いた。膝を付いて息を必死に吸い込んでいると、共也君が何も言わずにいるのに、少し違和感を覚えた。雰囲気的には、無言というよりは、絶句。
何があるんだと、僕の視界を木に向けると、思わず、吸ったばかりの息を、吐き出してしまった。余りの驚きに、吐いた息を吸うことすら忘れ、それをずっと見つめてしまう。
そこには、浮辺君が居た。
そう、確かにそれは浮辺君だ。その左目や左手からは彼の面影が浮かんでくる。顔だって、一応彼の姿は残している。
だが、それでも、
それでも、半身が赤いソレに覆われるかのようにして取り憑かれた彼の光景は、余りに、余りに惨すぎた。赤いソレは、まるでスライムのようにべとりと浮辺君にへばりつき、取り憑いた半身からギョロリと何個もの目玉を出している。
「うっ……」
思わず、その光景に胃の中を吐き出しそうになる。が、寸で抑え込んだ。口の中に若干酸っぱい味が広がると、共也君が唐突に叫ぶ。
「オイ浮辺! しっかりしやがれ!」
浮辺君は、半身をその赤い怪物に取り憑かれた状態で、白い大木に赤い怪物から伸びる触手で括り付けられていた。少し見た感じだが、接着部分は同化している。触手にはまるで生きているかのように、血管のような管が浮かび上がっていたりする。
共也君のその呼び掛けに、代わりに浮辺君に取り憑いた怪物の何個もの目玉が、一斉に彼の方を凝視した。共也君もその様子に、少しだけ顔を顰めた。
直後、赤い怪物の一部が分離した。なんだと思って身構えていると、それは見る見るうちに姿形を変えていく。凄惨な光景に再び胃液が掻き立てられるが、変身が終わると、その感覚は消えた。何故なら、変身した後の姿は、見慣れたものだったからだ。
「……ふう」
その彼は、浮辺君とソックリな姿形をしたソレから漏れた声は、ノイズがかかったように掠れている。
「浮辺……?」
「私は浮辺縁ではない」
落ち着いた様子で淡々と述べる浮辺君の偽物。いや、彼が本物なのか、怪物に呑まれている彼が本物なのかは定かではない。しかし、僕には呑まれている方が本物であるという、妙に確信めいた何かがあった。何より、彼は自身を浮辺縁ではないと否定している。
「誰だテメーは」
「私に名前などない。強いて言うなら、彼の心に取り憑いた寄生体だ」
「寄生体、だぁ?」
浮辺君の形をしたそれは、どこまでも業務的な口調だ。完成された物品のように変調が無い。人間らしさと言うか……生物らしさを感じられない。
「そうだ。私はある力によって作り出された、心に取り憑く寄生体だ。今は、彼を取り込む事で君達との対話が成し得ている。本来ならば、私に思考する力はあれど、それを君達に伝える術はない」
「んなぁこたぁどうでもいいんだよ! さっさと浮辺を離しやがれ! 事情は知ったこっちゃねぇがテメェのせいで浮辺は廃人に成りかけてやがんだ!」
共也君の糾弾にも、一切顔色を変えない。と言うよりは、目の前のソレは、きっと顔色を変えるという機能が無いのだろう。
「それはできない」
「何故だ」
「私とて、精神に一方的に寄生することは出来ても、取り憑くことなどは出来ない。まして一体化など、とても私の力だけでは成し得ない」
その言葉に、共也君がまさかと言ったように、口を開けて浮辺君の方を軽く指さす。
「まさか……」
彼が、唾を飲み込んだ音が、こちらまで伝わってきた。
「浮辺が……浮辺自身がテメェを求めているのか……?」
ソレは、再び貼り付けたような表情で答えた。
「そうだ。彼は寄生した私を、拒むどころか逆に受け入れたのだ。そして……これは私からの提案だ」
直後、ソレの腕そのものが、巨大なカッターナイフの刃に変容した。
「ここで、消えてくれはしないだろうか」
そして、それが共也君目掛けて超高速で発射された。高速で打ち出された凶器に、瞬間移動で回避しようとする。
だが、それは共也君が移動するほんと少しだけ前に、彼の右腕に突き刺さった。彼のちょうど肘辺りに、銀の刃が喰い込む光景は、中々刺激的なものがある。
「ぐッ! ……油断した!」
「共也君!」
しかしそれだけでは終わらなかった。その刃は喰い込んだ後にも尚肉を裂こうと直進し続けるのだ。次第にその刃は共也君の右腕を抉っていく。
「クソ! なんつー力だ!」
共也君がその刃を掴んで無理矢理自分の腕から外そうとするが、その刃が食い込むスピードには勝てない。そのまま段々と、刃が進んでいく。
不意に、手が滑ったのか、刃から共也君の手が離れた。
直後、共也君の右腕が宙に舞い、僕の目の前に転がった。
そして、それが僕の目の前で、大気に透けるかのように消え去る。僕はそれ見つめて、呆然とするしかなかった。
次話>>37 前話>>35
- Re: ハートのJは挫けない ( No.37 )
- 日時: 2018/06/03 10:16
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
共也君の吹き飛ばされた腕が消え去ると、彼が苦しそうな声を上げた。当然だ。腕を吹き飛ばされたのだから。痛いとか苦しいとか、そういう次元のレベルではないだろう。
「ぁ……ッ……ぐぁ……ぁ……」
呻き声を上げる共也君の前には、右腕の肘から先が消えた浮辺君──の姿をした怪物。彼は何の感情も移さない瞳で、苦しむ共也君を傍観している。
彼をずっと見つめていると、彼の肘の断面辺りが唐突に暴れるかのようにぐにゃぐにゃと動き始めた。制服の中で何が起こっているのかは知らないが、数十秒後、彼の制服の裾から、先ほどと同じ右手が姿を現す。
「さ、再生してる……! 彼の右手、いや体はトカゲの尻尾みたいに何度でも、何度でも生えてくるんだ……!」
そう言っている内に、その手が再びカッターの刃に姿を変えた。不味い。このままだとさっきと同じ事が起こる。共也君は今それどころじゃない。
「止まれ!」
僕の全力を否定の意思を込めて、ハートの力でナイフを打ち出す。それに刻まれた言葉は『嫌だ』。
それは一直線に飛んで行き、怪物に突き刺さる。怪物は、カッターナイフの刃を共也君にかざしたまま、停止した。ほっと、安堵のため息を着く、
暇など無かった。怪物は直後こちらを向くなり、その右手を発射した。超高速で打ち出されたそれに、当然反応する術などない。反射的に横に飛んだは言いものの、凶悪な刃が僕の右腹部を通り抜けた。
「っぁ──ッ!」
声に成らないその振動が、喉の奥から飛び出した。尋常ではない激痛が、僕の体を駆け巡った。僕の視界がかき混ぜられるような感覚に陥る。平衡感覚も崩れ、そのまま右腕を打ち付けるような形で転倒。
頭が痛覚で汚染されているが、それでも揺れる意識の中で、血が出ていない事がわかる。今ここにいる僕は精神だけ。実際の体は無いので、再現されているのは外見だけで、血液や内臓といったものは再現されていないのかもしれない。
「ど……う、して……僕の、ハー……トが」
「先程妙なものを飛ばしていたが、生憎私は君達の感情が理解できない。君なりの感情を込めたのだろうが、私は動かされる心を持ち合わせていない」
淡々とした声が、僕の質問に答える。つまり、僕のハートは完全に無力ということだ。
頭の上に、何かが乗る感覚がした。それはこちらを押し潰したいのか、痛くなるほど圧力を掛けてくる。
「ぅああ……ッ!」
形状から察するに、それは靴のようなものだ。頭を踏み付けられているのだろう。その力は徐々に強くなっており、僕の頭が変形するほどに痛い。
「退きやがれクソ野郎!」
が、その言葉の直後に圧力が消え去る。上から何か鈍い音がしたかと思えば、カエルの鳴き声のようなくぐもった声が聞こえた。
上体を起こすと、喉を抑える怪物が膝を付いているのと、共也君がこちらに駆け寄るのがわかった。恐らくだが、彼のハートで遠くから首を殴り付けたのだろう。
「大丈夫か! 貫太!」
「うん…………、共也君、ごめん」
「何がだよ」
「僕のハート、アレには通じないんだ」
「……なんだと?」
「アイツには心が無いんだ。だから……僕のハートは……」
「危ねぇ!」
僕が俯きながら彼に言葉を吐いていると、突如として突き飛ばされた。そして、何かが突き刺さるような音がする。
「ぐぁっ……!」
共也君の苦しそうな呻き声が耳に聞こえた。だが僕は何が起こっているのか、察しはつくが見えはしない。
そして、共也君の左腕が目の前に落ちたところで、想像が正しかった事を改めて自覚した。
「そ、そんな……!」
「貫太ァ……はぁ、はぁ……大丈夫だよ、なぁ? ワリィ、ちっとばっかし、視界が安定しなくて……よ」
そして、彼が横向きに倒れた。僕の視界に、共也君の左腕と本体が並ぶようにして倒れる。両腕の無くなった彼はまるで、
「芋虫のようだ」
僕の思った通りの事を口にしたのは、左腕を無くした怪物。僕は彼に、何もすることが出来ない。今回ばかりは、何もしないんじゃなくて、出来ない。こうなってくると、自分の無力さを叩き付けられたような気分になる。
「無様だ。無様。何が君をそこまでさせた? その人間を見捨てれば、君はまだ私と戦えた筈だ」
怪物が左腕を生やしながら言う。その通りだ。僕なんか庇いさえしなければ、共也君はまだまだ抵抗することが出来た。きっと片腕が無いくらいで、共也君はアイツになんか負けはしない。なのに──彼は僕を庇って、こんな事に。
「──ああ、無様だな、俺」
それでも、
「そうだよな。こんな風にみっともねぇ姿晒しちまってよ」
それでも、彼は、友松共也は、
「だがそれでもいい」
顔面を手のかわりにして地面に固定し、何とか膝をつくような姿勢にし、そして無理矢理起き上がる。彼は、両手なんて要らないと言わんばかりに、足と頭を使って立ち上がって見せた。
「人を救えりゃ、俺の勝ちだ」
そして、いつものように、豪快な笑みで笑って見せた。
「……フン、今の君には何も出来ない。僕を倒すことも、あの人間を救うことも、な」
「誰が、俺が救うなんて言った?」
共也君がその言葉と同時に、一瞬で近付き回し蹴りを叩き込む。が、全く力が篭っていないのか、片手だけで簡単に受け止められてしまう。怪物の拳が、共也君の鳩尾に突き刺さる。両腕が無ければ防御は出来ない。完全フリーとなった彼の腹部に、これでもかと言うほど連打。
空気を吐き出す共也君。だが彼は止まらない。雄叫びを上げるようにして、彼はそのまま怪物に飛び付いた。
そして、その大きく開けた口で、怪物の肩に見ている方が痛くなる程力強く噛み付いた。そう、彼は両手の無い状態で出せる最大の力で、怪物に文字通り食ってかかったのだ。
「……離せ、鬱陶しい」
だが共也君の鬼気迫る表情を伴う噛みつきは、簡単な力では剥がれない。尚も肉に食い込みそのまま喰いちぎるのではないかという勢いだ。
彼の目には確かな意思があった。何が燃えているのかは分からない。きっと僕には分からない、彼の矜持やプライドがあるのだろう。だがその最後まで諦めない、往生際の悪過ぎる心意気に、見ているこちらが熱くなる。
そうだ。僕は何をしている。
共也君はどうだ。彼には何も出来なかった。両腕無しで、起き上がることも、抵抗することも、ましてや飛びかかるなんて出来るはずもなかった。でも彼はそれをやった。
僕は何も出来ないと言った。ああそうだ。僕は何だって出来やしない。今この状況をひっくり返す事も、共也君を助ける事も、浮辺君を救うことも出来ない。
だからどうした。そんな事は知ったことじゃない。出来ないなんか知らない。力があるとか無いとか関係無い。今ここで、僕は変わる。いや、変わらなければならないんだ。
「死ね」
共也君の体が、遂に剥がれた。彼は身体中をハサミのようなもので貫かれていた。そして、右足はいつの間にか吹き飛ばされている。あと一回攻撃されたら、いくら精神体と言えど死んでしまうかもしれない。
だから僕は叫ぶんだ。弱い犬ほど良く吠える。
──なら僕は、世界一吠える人間だ。
「止めろッ! 僕の友達に手を出すなッ!」
その言葉に、ハートの力は使わない。僕のハートが通じないなら、僕の言葉で伝えるまでだ。
「……ビックリさせるんじゃない。そんな大声を出して」
怪物の意識がこちらに向いた。これで共也君の一命を取り留めた。だが、これではまだ不十分だ。このままでは、皆殺しにされるだけ。現実問題は何も変わっちゃいない。
「僕は変わるんだ」
自己暗示をするように、自分に言い聞かせるように、僕はそう呟く。
「諦めろ。私に君達は殺される」
そう言う怪物の言葉には、説得力以外の何も無い。
「そうだ。僕はこのままじゃ殺される。だから僕は超えるんだ」
そう、僕は壁を超えなければならない。いや、超えなくてもいい。ただ目の前の壁をぶち壊してでも、前に進まなきゃならないんだ。
「私を超える? それは無理だ。少なくとも、君では」
その言葉にも、僕は賛同する他ない。
「お前を超える? お前は何を言っているんだ?」
なぜなら、僕が超えるのは目の前の怪物ではないからだ。
僕が超えるべきなのは、
僕が超えるべきなのは、
「いいか、僕がこれから乗り超えるのは、お前なんてちっちゃな壁じゃない」
そうだ。僕が超えるべきなのは──
「自分だ! 僕はこれから、自分自身を! 最も弱いこの僕を! 今ここで乗り超える!」
世界で最も弱い、世界一の負け犬だ。
次話>>38 前話>>36
- Re: ハートのJは挫けない ( No.38 )
- 日時: 2018/06/06 21:54
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
暗い暗い、闇の中で、僕はずっとうずくまっていた。
「違う……僕は……僕は……」
もう僕は、自分が何なのか分からない。自分に何があるのかも分からない。なんでこんなに、こんなに自分のことがわからないんだ。
今まで体に貼り付けた嘘が、体から零れ落ちていく感覚がする。徐々に体が空虚になり、自分の中身が無くなっていく。このままでは、僕は何も無くなってしまう。だからまた、嘘を吐いては体を虚像で満たしていく。そしてまた失い、再び幻想を注入する。それを繰り返した僕の体は、きっと嘘で出来ている。
僕に真実なんてものは無い。全てが幻想で、偽りで、虚無で、空っぽで。
「僕は……僕は……」
この目から零れる涙だって、きっといつかの嘘がもたらしたのものだ。拭えば拭うほど、今までの嘘が溢れ出てくる。
「違う……! 僕は僕なんだ……!」
頭を掻き毟っても、髪を引っ張っても、それでも自分が嘘に溶けて薄まっていく感覚が拭えない。
「嫌だ」
僕の体が、嘘に紛れて流れていく。次第に、僕が透明になっていく。
「消えたくない」
それでも、僕の意思は消えていく。
「誰か」
僕は大気に溶けて、虚空に透けていく。
「僕の事を見つけてよ」
透明になってからでは、きっとこの願いは叶わない。
その時だった。
ふと、声が聞こえた。
大きな、負け犬の大きな遠吠えが。
○
「それで、話は終わりか」
「ああ。もう僕の言いたいことは全部言った。後はやるだけだ」
ナイフを数本、ハートの力で取り出す。すると、目の前の怪物は嘲るような口調で言った。
「馬鹿の一つ覚えとやらか。それは私には効かないぞ?」
そうだろう。怪物にこのハート、《心を刺す力》は使えない。だから、僕は使う。
「別にお前に使う気なんか無い……よ!」
僕はそのナイフ達を、自分の体に突き刺した。ナイフに刻まれた文字は全て『負けるな』の四文字。
「……負けないぞ」
これはただの自己暗示のようなものだ。あくまで自分の一つの感情を増幅させる効果しかない。だが、足の震えは無くなった。
深呼吸するように息を吸って、吐き出す。その直後、僕はすぐに怪物に向かって走り出した。近付いた所で、ロクに使った事も無い拳を握り、共也君の姿を思い出しながら見様見真似で右手を放つ。
「弱いな」
だがそれは、いとも容易く、簡単に受け止められた。直後、腹部に鋭い痛みが、電撃のように駆け抜けるのを感じた。視界を一瞬ずらすと、ハサミのようなものが、腹部に突き刺さっている。
「ぐっ……ぁぁ!」
負けじと今度は左手を突き出した。だがそれも簡単に防がれ、直後、激しい蹴りが僕の鳩尾を貫いた。それはハサミを蹴るようにして放たれた為、更にハサミが僕の体に沈み込む。視界の中でスパークが弾けるが、歯を砕く勢いで食い縛り、今度は額を怪物の鳩尾に叩き込んでやる。頭突きだ。人間の部位の中で最も硬い頭蓋骨は、その怪物を少しだけよろけさせた。
「……少しだけ、見直したぞ」
その言葉を怪物が呟いた直後、彼の右手が巨大な刃に変わる。またアレを飛ばしてくる気だろうか。だが、それなら僕にも抵抗する術がある。そう考えて、怪物がこちらに照準を合わせる前に、僕は駆け寄った。
直後、超高速の刃が大気を走る。真っ直ぐに僕に向かうそれが、僕の胸に吸い込まれた。
のではなくて、僕の胸に突き刺さる直前で、まるで瞬間移動するかのように、怪物の背後に姿を現した。
怪物の体を後ろから貫いた刃が、上半身と下半身を分断した。初めて顔を顰めた怪物が、僕の足元を見つめて少しだけ納得したような表情を浮かべる。
「そうか……お前の力か……」
「……ありがとう」
僕は、足元にいる彼に礼を言う。正直、彼が起きているかどうかは賭けでしか無かった。だが、僕の友達は、僕の信頼を裏切らなかった。
「へっ、俺がくたばるかよ」
そう言って──ボロボロの友松共也は、ハートの力で巨大な刃を怪物の背後に移動させた彼は、口の端を釣り上げて笑って見せた。
「……後は頼むぜ、貫太」
「……うん、分かった」
そして僕は立ち上がる。
目の前には、上半身と下半身がお互いに引き合うかのようにして繋がっていく怪物の姿。このままでは、少しすれば再生してしまうだろう。
「ねぇ、起きてるんでしょ?」
だから僕は、再生していない今のうちに、大樹に括りつけられた彼に話し掛ける。
「浮辺君」
僕に名を呼ばれた彼は、怪物に飲まれていない左半身だけの彼は、その左目を開けた。
「どうして分かったの?」
「……たまたまだよ」
「そっか」
本当は、最初から気が付いていたなんて言えない。
共也君が吹き飛ばされていた時に、苦しそうな表情を浮かべていたなんて、言いたくない。
だって、彼は今でもきっと、演技をしているつもりなのだから。
「ねぇ、浮辺君。どうして? どうして君はあんなものを受け入れたの?」
僕がそう問うても、彼は沈黙するだけ。
「……雪原先輩に頼んでさ、前の君の演技、見せてもらったよ」
雪原先輩の単語を出すと、彼は少しだけ表情を変えた。神妙で複雑な顔に。
「確かに、今の君よりは下手だった。演技力も、台詞の言い方も、今の君の方がずっと上だ。演劇を知らない僕でも分かるくらいにだ」
「でも、必死に頑張る君は格好良かった」
「……何を言っているんだい?」
「何、じゃないよ。格好良かったって、そう言ってるんだよ」
キョトンとした彼に、僕は言葉を続ける。
「雪原先輩も言ってたよ。君の一生懸命な演技が好きだったって。今の君は上手いけど、それが無くなったって、凄く……悲しそうに言ってたよ」
「嘘だ!」
僕の言葉を遮るように、彼が叫ぶ。
「雪原先輩は……! 雪原先輩は僕が上手くなって喜んでくれたんだ! 主役も出来るようになって、凄いねって、おめでとうって、そう言ってくれたんだ!」
「初めてハートを使って舞台に立った時、自分が自分じゃないみたいな感覚がした。演技が終わったら、みんなが褒めてくれた。雪原先輩だって! 先生だって! みんな僕を必要としてくれた! 見てくれた! 認めてくれた! この力のおかげで、皆『僕』を必要としてくれるんだ!」
彼が言い終えるのを待ってから、僕は言葉を返す。
「嘘を吐いたのは、君だろう?」
「……ッ!」
僕の言葉が、喉の奥につっかえたのか、飲み込むような動作をする彼。
「君だって薄々感じていたはずだ。君がハートの力を使って性格をねじ曲げたって、評価されているのは『君』じゃない。『偽りの君』だ。そんなこと、もう分かっているんだろう?」
「違う! 評価されたのは! 皆が見ているのはこの僕だ! 偽りなんかじゃないこの僕なんだ!」
「それが嘘だって言ってるんだよ! この馬鹿野郎!」
彼は何分かっちゃいない。だから行ってやる。今こそ、彼に本当の事を伝えてやる。
「目を覚ませ浮辺縁! 君は知っているはずだ! 偽りで得た賞賛が、自分の心を苦しめるだけなんて事を! 君はもう知っていたはずだ! だけど君は恐れていたんだ! 止めたら、偽りの自分すら誰も見なくなるんじゃないかって、怖かっただけなんだ!」
「…………」
「だから君は自分自身を偽り始めた! 偽りの自分は自分だって、自分の本心すら偽ったんだ! この大嘘吐きが!」
気圧されたように彼は黙り込み、やがては俯いてしまう。
「だったら」
浮辺君は、うってかわってか細い声で嘆くように言う。
「僕は、どうすれば良かったんだよ」
彼の左目から、涙が零れては頬を伝い、やがては服に染み込んでいく。
「僕は何をすればよかったんだよ」
彼のその問いに、初めて素の彼が現れた気がした。
「何にもないこの僕は、どうすればよかったんだよ。ねぇ、答えてくれよ、貫太君」
彼は何をすれば良いのか分からない子供みたいな事を宣う。彼の気持ちは痛いほどわかる。だからこそ、僕は彼にこの気持ちを叩き付ける。
「そんなの自分で考えろ!」
この言葉は残酷かもしれない。突き放すようかもしれない。だけど、彼はまずこの言葉から始めなければならない。
「そんな……!」
「うるさい! そんなんだからこんな怪物に呑み込まれるんだ!」
何より、彼自身が自分の力で、この怪物を拒絶しない限り、この問題は解決しないのだから。
そして、僕の目の前の怪物は、再生を終えたようで、攻撃を始めようとしていた。
「済んだか?」
「いや全然。もう少し寝てもらいたいんだけど?」
「それは出来ない」
「それは残念だ」
さて、どうやらピンチのようだ。
○
彼は僕に、自分で考えろと言った。
だけど、何にもないこの僕は、何をしていいのかさえも分からない。
僕は、このままでいることしか出来ない。
偽ることすら出来ないまま、偽りの自分を引きずって、現状を維持していく事しか出来ない。
などと考えながら、僕が貫太君と僕そっくりの怪物が戦っているのを傍観していた時だ。
「オイ、浮辺」
そう声が聞こえたのは。
そちらを向くと、彼が居た。ボロボロの、死にかけの、友松共也君が。
「き、君は……」
「テメェ……ほんとにそれでいいのかよ?」
「……え?」
一瞬、彼の言っていることが分からなかった。
「テメェ、誰かから必要とされたいんだよなぁ?」
「…………」
「なのによ──テメェはそれを、こんな怪物に奪われちまってんだぜ?」
彼が目線で示すのは、僕の体にへばりつくものたち。
「おかしいとは思わねぇか?」
その言葉に、僕は少しだけ考えてみる。
僕は確かに認められたい。というか、僕は何故こんなふうになっているのか。そう、『偽りの僕』に全て奪われているからだ。では何故それすら僕は偽ったのか。『偽りの僕』が全てを奪っていることが認められなかったからだ。
では、悪いのは誰だ?
それは、『偽りの僕』ではないだろうか。それこそが、最も大きな原因ではないだろうか。
では、それの権化は何だ?
この赤い怪物だ。
「確かに、おかしい」
そうだ。確かに、考えてみればおかしすぎる。
そう考えた瞬間、僕の奥底から、何かユラユラと燃え盛るものを感じた。偽りではない、素の僕の怒りが、燃え盛るのを感じた。
「どうして僕が悩んだ?」
僕は、自分の顔面にへばりつく怪物を掴む。
「違うだろ。僕が悩む必要は無い」
そして、思いっ切り引っ張る。
「僕が苦しむ必要も無い」
僕は燃え盛る感情のままに、その怪物を引き剥がした。
「それこれも、全部全部この怪物のせいだ!」
次の瞬間、僕の体にへばりついていた怪物が、綺麗にペラリと剥がれ落ちた。そしてそれを、掴んで持ち上げる。
「僕の心から──」
八つ当たり気味に、僕は右手そのものをカッターナイフの巨大な刃に変えて、その怪物を切り裂いた
「僕の心から出ていけ!」
奇怪な液体を撒き散らすそれが、苦しそうに傷口を動かしたと思えば、突如として爆発した。いや、爆発というよりは破裂だろう。そして微塵になったそれが、大気に透ける。すると、木に巻き付いていた怪物達が、連鎖的に姿を消す。
「……本体は何処だ」
僕がキョロキョロ見回すと、少し離れた場所で、苦しむような声が聞こえた。見れば、貫太君が首を、僕にソックリな怪物に絞められていた。
許せない。底から湧き上がる、人生最大級の怒りを、僕は今コントロール出来ない。反射的に、僕はその怪物めがけて刃と化した右手を振り下ろした。
「なっ──!」
「くたばれ怪物! お前なんかもう要らない! 僕は、僕は『僕』なんだ!」
その怪物が、驚いたような顔でこちらを向く。だがその手を動かすには、もう遅い。
僕は全身全霊を持ってして、この怪物を拒絶する。もう僕は『僕』なんだ。皆から見られなくたっていい。評価されなくたっていい。認められなくたっていい。
だってこれからはこの僕が、『僕』を認めてやるのだから。
そして、自分の顔面に限りなく近いそれを、僕は思い切り縦に切り開いた。
「ば、馬鹿な──」
その言葉を最後に、その怪物は先ほどのものと同じように、木っ端微塵に破裂した。
○
目を覚ますと、白い天井。こんな経験あるんだな、なんて馬鹿らしいことを考えながら、僕は上体を起こした。
「……何があったんだっけ……」
酷く、記憶が曖昧だ。グチャグチャで整理されていない記憶たちを、頭の中で整理していく。
「あ、起きた?」
カーテンが開けられると、保健の先生が姿を現す。
「はい、えっと……僕は……」
「なんだか急に倒れちゃったみたいで。友松なんとか君? が連れてきてくれたの」
「……そうですか」
「見たところ傷もないし、大丈夫だとは思うんだけど……」
曖昧な記憶の中では、背中にカッターナイフが突き刺さったような気がしたが、傷はないらしい。もしかして、ハートの力で傷口を繋げたとか、そういったオチだろうか。右腕は……まあ、折れてはいないみたいだし、言わなければ大丈夫だろう。後で病院に行こうとは思うが。
「失礼します」
ガラガラと扉を開ける音がする。その声には、少しだけ聞き覚えがあった。
その声の主は保健の先生と少しだけ会話をすると、こちらへ寄ってきた。カーテンによって遮られていた姿が見えるようになる。やはりと言うべきか、僕の考えた通りの人物だった。
「大丈夫? 縁君」
「雪原先輩……」
雪原先輩、僕の初めての先輩であり。
「ユキとはもう呼んでくれないんだ……」
「……高校生ですし」
僕の、まあ、一つ年の離れた幼馴染みでもある。まあ、一度中学校で学校が離れたので、幼馴染みと呼べるのか怪しい節もあるが。
「敬語まで付けるようになってさ。最近、私のこと避けてるよね?」
「……別に、そんなことは」
正直に言ってしまえば、避けている。とは言うものの、僕は雪原先輩に少しだけ罪悪感を抱いているのだから。2人で同じ演劇部からスタートしたのに、彼女に黙って、こんな力を使っている罪悪感に、僕は押し潰されそうだった。
「あーあー、昔はユキねぇユキねぇ言ってきて可愛かったのになー」
「……止めてくださいよ。恥ずかしい」
「あー? 照れてる? ユキちゃん時代も可愛かったよ?」
「照れてません」
「連れないなぁ縁君は」
「……いつもは浮辺君呼びなのに。というか先生は?」
「先生は職員室に行くって。呼び方はなんかこっちの方がしっくり来るの」
彼女は僕の隣のベッドに腰をかける。そしてこちらを見詰める。
「……何ですか」
「いや? なんか憑き物が晴れたみたいな顔してるから、何かあったのかなって。あの2人のおかげかしら?」
「……そうですね」
少しだけ、僕は声音を帰る。
「先輩、もしかしたらの話です。……次、僕の演技は多分下手になってるんです」
「……どういうこと?」
「言えないんです。でも……一生懸命やります。……ごめんなさい」
詳しく言うつもりが、一方的に叩きつけるようにして終わってしまった。何をしているんだと自分を殴りたくなる。
「ん、分かった。楽しみにしてるね」
「へ?」
だからこそ、そのあまりに軽い返し方に、僕は驚かざるを得ない。
「な、なんで……」
「んー、縁君は悪い隠し事は出来ないって知ってるから? まあ何にせよ、君の一生懸命な演技が見られるのは嬉しいかな」
その、何気ない一言に。僕は大きく心を揺さぶられた。
「……て、ちょっと? なんで泣いてるの?」
「あ、あれ……おかしいな……」
無意識のうちに、涙が出ていたようだ。
そうだ。僕はなんて大馬鹿野郎なんだ。
こんな近くに、本当の僕を、見つけてくれる人が、認めてくれる人がいたじゃないか。僕は、何をずっと悩んでいたんだ。それを知らないで、僕はずっと下らない理由で避けていたなんて。
「ユキち……雪原先輩のせいですよ」
「あ! 今ユキちゃんって言いかけた!」
「言ってません!」
涙は僕の中を徐々に、少しずつだが、暖かく満たして行った。
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