複雑・ファジー小説
- 愛泥隣【恋する乙女】 ( No.41 )
- 日時: 2018/06/07 03:40
- 名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)
今日、彼と話した。
その内容は、とてもシンプルで普遍的。何気ない日常の中の、登校中のワンシーン。きっと彼は記憶に留めてすらいないだろうし、他の人だってそんなことは全く気にせず、記憶から消していることだろう。
でも私は、今日の事を忘れないだろう。世界の人間達が忘れるなら、私だけが覚えてやろう。世界は知らないのだ。私と彼が話したという、何気ない幸福があったことを。それを可哀想だと憐れんでやる。そんなことで、少しだけ優越感を抱く私。
勇気を振り絞って、メールアドレスを渡してみた。どうなるか不安で不安で仕方無かったが、彼は私の期待通りに受け取ってくれた。そんな彼の優しさを再確認しつつも、今日来たメールを見返す。件名は無題で内容は『夜分遅くにごめん。これであってるかな?』だけ。それでも、私はそれを返信するのにさえ、軽く20分はかかった。それほどまでに、彼とのやり取りとは私にとって重要なものなのだ。
彼に対して申し訳ないという負い目が無い訳では無い。しかし私とて、どうして自分が悪かったのかわからないし、どうして自分が彼から嫌われているのかも分からない。
彼が怒るなんて、嫌うなんて、きっと私は悪い事をしたのだろう。だけど私はそれが悪いとは思わない。ただ、彼が悪いと言うから、私は無意味に力を使うのを止めた。実力行使をするのも止めることにした。
それと同時に、私はどうして悪かったのだろう? と考えることも少なくない。しかしまあ、私が考えたところで分かるわけもないのだ。分かる扱いされないまま、私は育ってきたのから。本当は何も分からないくせに。今から教えてくれる人は、もう誰もいないだろう。そんな私にとって、彼の価値観は私が基準と定めるものとなった。彼と同じ視点、というのは中々出来ないが、日々の会話の中で少しでも彼の見ている世界に近付けていきたいと思う。
彼から嫌われている、という事実は、確かに私にとっては衝撃的なものがあった。彼の言葉に、私の心がどれほど折られたかは、正直、軽いトラウマレベルである。
しかし、私はその事実に対し、今ではどちらかと言うと言い表せない満足感のようなものを感じていた。
何故なら、温和な彼が嫌うのは、きっと世界で私1人だけなのだから。彼に嫌われるのは、私1人だけ。私は彼の、特別な1人なのだと考えると、少しだけ表情筋が緩むのを感じる。いけないいけないとこれ以上無いほど幸せそうな顔をする鏡の向こうを睨もうとするが、未だにその表情は緩みっぱなしのままだ。
嫌われるのを喜ぶなんて自分でもどうかしているとは思うが、それを押し潰すほどの歓喜や優越感が込み上げてくるのだから、仕方ない事だろう。嫌われるというのは、相手から意識される事でもある。一番悲しいのは、意識されない事だ。そして、相手に思われるのは嬉しい事だろう。実際に、私は今こうやって、嬉しがっているのだ。
手に握っていたキーホルダーをもう1度見る。古びてしまって、少し色も悪くなっているが、それでも醜いレベルではない。
中学時代の数少ない友人から貰った宝物であり、彼と初めて出会う切っ掛けともなったこれ。今ではお守りとして、毎日持ち歩いている。これがあるだけで、なんだか1日が幸せになる気分がする。これも、彼のお陰だろうか。なんて考えると、一層胸が苦しくなるのは、きっと気のせいだろう。
などと考えていると、ふと、カレンダーが目に入った。まだ前の月のものから変えていないことに気が付き、更新しようとそちらに向かう。ビリビリと破いていると、ふと、ある日付が目に入った。
そう、私が、《心を縛る力》というハートの力を手に入れた日の事だ。思い返せば、今でも信じられない様な事ばかりではある。だがまあ、この力があったお陰で、今の状況がある。それを考えると、あの人にも少しは感謝するべきだろう。そう、あの人は確か──
唐突に、着信音が響いた。
ハッとして携帯電話を手に取ってみると、そこにあった名前に、思わず二、三回ほど見直した。
そこには、あった。
私の想い焦がれる、彼の名前が。
今すぐ出てしまえば、声が裏返ってしまう。咄嗟にそう判断して、二、三回ほど深呼吸をした。自分の鼓動を抑えようと必死になりながらも、私は携帯電話のボタンを押した。
「はい、愛泥です」
彼がどんな用事で掛けてきたのかは、想像すら出来ない。
しかし、彼が掛けてきたという事実は、例えこれが間違い電話であったとしても、私にはこれ以上の無い幸福だった。
愛泥隣【恋する乙女】
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