複雑・ファジー小説

Re: ハートのJは挫けない ( No.42 )
日時: 2018/07/01 06:51
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 午前5時。僕のいつもの起床時刻。ゆっくりと目を覚まして、目覚まし時計のスイッチを切る。
 いつもなら勉強机に向かうところだが、今日は少しだけ予定があった。土曜日なので二度寝をしても構わないはずなのだが、この予定はどうしても外せない。
 下に降りてテレビの電源を付けると、いつもとは違った番組が映し出される。時間帯が違う事を再確認しつつも、パンをトースターにセット。適当な私服に着替えつつも時間を潰す。その後焼けたパンを食べて荷物を取りに自室へ向かう。と、言っても持っていくものは財布と携帯電話くらいしかない。一応ハンカチもポケットに入れておく。顔を洗い歯を磨き、まだ寝ているであろう両親を起こさないよう、小声で行ってきますと家を出た。

 自転車に乗ってもいいが、待ち合わせ場所は滝水公園だ。そう考えると別に徒歩でもいいかという気分になったので、自分の足で歩く事に決めた。朝にしては早すぎるためか、道はいつもより活気がないようにも思える。

 滝水公園の入り口から、複雑な道を歩いて噴水のある広場に出る。少しだけ共也君との出会いを思い出しつつも、周囲を見渡す。すると、噴水の向こう側に誰かがいるのが見えた。シルエットからして、恐らくだが立っている。
 共也君かと思いぐるりと回ってみると、僕の予想は裏切られた。僕が少しだけ詰まったような驚きの声を上げると、あちらは案の定僕の存在に気が付く。そして、彼女はパッとその美麗な雰囲気を纏う表情に、微笑みを付けた。

「おはようございます。貫太君」

 僕の顔は、少しだけ苦笑いを浮かべているかもしれない。

「お、おはよう……隣さん……」

 愛泥隣。僕と同じ学校に通う同学年の女の子で……まあ、端的に言えばデートしたり戦ったり一緒に屋上から身を投げた仲だ。と、自分で言っておきながら関係性のあまりの奇妙さに自分でも疑問符を浮かべたくなる。

「きょ、今日は早いね……!」

 話しかけようとして、言葉の頭が裏返ったことを若干恥じらいつつ、最後まで言葉を放つ。彼女は頬に片手を当てて嬉しそうな表情のままにこやかな表情で言う。

「だって……貫太君が誘ってくれたんですよ? もう一時間前から居ます」
「一時間前!? ずっとここで立ってたの!?」
「はい。それがどうか……?」
「い、いや。け、結構早起きなんだなーって……はは、ははは……」

 苦笑いで誤魔化そうとする。絶対に僕の為とかそういう訳では無いだろう。

「今日だけ特別に、です。いつもは六時起きですよ」
「……そ、そっかー……」

 これは彼女が真面目なだけだと思いたいが、『貫太君が』というワンフレーズが全ての邪魔をする。おのれ僕の名前め。お前のせいで僕は未だに隣さんからの感情が尽きていないことを再確認してしまったじゃないか。

「……しかし、共也君はまだかぁ……」

 分かっていたことだが、共也君は待ち合わせをすると大体時間一分前位に来ることが多い。彼曰く「兄さんは時間ぴったりに来るからそれはワリィかと思ってよ」だそうだ。単純に見也さんはかなり真面目なだけだと思う。多分。

「おや、もう来ていまシタか」
「結構早い時間だと……思ったんだけどね」

 片方の声の特徴的なイントネーションから、僕の頭の中で特定の人物が導き出される。振り返ると、予想通りの人物が居た。そしてその隣には、少し意外な人物。

「観幸に浮辺君、おはよう」
「おはよう」

 僕の挨拶に最初に返した彼。名は浮辺縁。僕と同じ学校で同学年で、演劇部に所属している。彼も諸事情により、刺し合ったり言い合ったりした仲だ。明らかに前者が不穏すぎる。

「おはようなのデス。貫太クン。そして……愛泥サン」
「……おはようございます」

 遅れて返したのは、僕のクラスメイトの深探観幸。自称探偵で昔からの友人だ。身長は僕よりも低く、多分女装してもそんなにバレなさそうな見た目をしている。本人はそこそこ気にしているらしいが。
 そして隣さんにも挨拶をする彼。隣さんは表情こそ変わっていないものの、眉や口元が少しだけ動いている辺り、何かの感情を抑えているらしい。そう言えば彼女と観幸は色々あって、犬猿の仲なのを、今ようやく思い出した。
 観幸は観幸でそこにいたから仕方なく挨拶した、といった感じであり、隣さんは隣さんで話し掛けてくるなよオーラ全開である。
 2人の雰囲気に疑問符を浮かべている浮辺君。まあ彼は何も知らないから仕方ないだろう。

「なんで2人は一緒に?」

 話題を変えるために適当な疑問を持ち出す。彼らは特に仲の良い印象は無かったが……。

「僕が滝水公園の位置が分からないって言ったら……深探君が案内してくれるって」
「ああ、なるほどね」

 観幸の方を見ると自慢げな顔で今日もパイプを蒸すような仕草をしている。名付けてエアパイプ。彼のエアパイプは大体ドヤ顔の代わりに使われることがよくある。お前そんなにドヤ顔する事じゃないだろと言ってやりたい。

「うぃーす。揃いも揃ってんなぁお前ら」

 そんな所に急に遠くから投げられた軽い口調の声。僕は反射的に彼の名前を呼んでいた。

「共也君」
「おう貫太。ワリィな頼み事しちまって」

 頼み事、というのは今日の事だ。彼は僕に隣さんを誘うように頼んできた。まあ共也君も隣さんに好かれてはいないだろうし、僕がやるのは仕方の無い事なのだろう。そうやって自分を無理矢理納得させておく。

「兄さんはまだ……か。まあもうすぐ来るだろ」

 公園の時計で時間を確認する共也君。まあ彼が来たということは、もうすぐ見也さんが来るということでもあるだろう。

「おお、そういや浮辺と愛泥にききてぇことがあったんだ」
「……貴方が私に?」
「え? 僕?」

 2人が何故という視線を共也君に向ける。彼は何気ない口調でこう問うた。

「お前らのハートってよ……もしかして他人から与えられたものだったりしねぇか?」

 少しだけ、2人の表情が変わったのを、確かに僕は確認した。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.43 )
日時: 2018/06/10 15:09
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 先に口を開いたのは、浮辺君だった。

「確かに、そうだよ」

 そう言った時、共也君の顔が強ばったのを感じた。

「……出来れば誰とか何処とか何時とか色々聞いておきてぇが……先に愛泥、お前の答えも聞きたい」
「……私も、渡されました」

 隣さんが少しだけ嫌そうに口を開く。やはり共也君の事がそこまで好きではないのかもしれない。

「そうか。……ところで愛泥、お前、何か変な事とか無かったか?」
「渡された日に、少し悪い夢を見た気がする程度ですけど……次の日にはスッキリしていましたし……」
「……どんな?」
「悪い夢は赤い怪物に襲われる夢で、その後潰す夢を見てスッキリしました」
「……そうか」

 今の会話を聞いている限り、隣さんは自分で精神寄生体を捻り潰してしまっちらしい。流石の精神力と言わざるを得ない。

「急にこんなことを聞いたのには訳があって」
「すまない。少し手間取った」

 遠くから共也君の声に重なるようにして掛けられた、低い声。共也君は咄嗟に振り返って彼のことを呼ぶ。

「兄さんおせぇよ」
「すまない。少々、時間が合わなくてな」

 そう言う彼の背後に、誰かの人影が見えた。誰だろうか。少なくとも、この場にはもう全員揃っていると思うが、他に誰かいるのかと頭の中で思考を巡らせる。

「……君達がハート持ちか。確か、浮辺縁君に愛泥隣さん。初めまして、だな。俺の名前は友松見也という。そこの共也の兄だ。紛らわしいから下の名前で呼んでくれ」

 簡潔な自己紹介にそれぞれの反応を示す2人。見也さんは休むこと無く、今度は後ろにいた人の紹介を始める。
 後ろから出てきたのは、スラリとした男性だった。男性にしては髪が長く、後ろで一本で結われたそれが、風で少しなびいている。
 堅苦しいスーツのような服装で着込んだこの男性は、腰を折りつつも口を開いた。

「皆様方初めまして。青海静(あおみ/しずか)と申します」

 青海と名乗ったその男性は、堅苦しく着込んでいるようにもみえるが、それが自然であることに気付かされる。普段からあのような格好をしているということは、もしかして執事のようなものだったりするのだろうか。

「そしてこちらが私めがお仕え致しております、心音様にございます」

 大仰な言葉ですっと自分の横を指す彼。
 その隣には、小さな女の子が居た。お嬢様チックな雰囲気を纏っている。目付きは少しキツそうだが、見也さんに比べればどうということは無い。身長は僕や観幸よりも低い。……小学生程度の小柄な少女だ。

「初めまして。私は心音ここね。友松心音。そこにいる見也の妹で、そっちの共也の姉よ」

 ……何かの聞き間違いだろうか。
 彼女は今、共也君の姉と名乗った。いやおかしいだろう。明らかに小学生並みだ。145あるかどうかも怪しいレベルだ。
 ここで、ふと見也さんに出会った時のことを思い出した。

『妹はかなりのチビだ』

 確か、彼はこのような事を言っていた気がする。彼の発言と一致するが……いや流石に小さ過ぎるだろう。僕や観幸より小さいんだぞ。

「そこのチビ、さっきからチビチビうるさいわよ!」

 僕の方に指をさしてきて、一瞬ギクリとした。あと君の方がチビじゃないか。

「な、何も言ってないのに……」
「さっきからガンガン聞こえてるわよ! これでもヒールを履けば150に届くんだからね!」

 それ、ヒールが無ければ届かないという意味合いで良いのだろうか。

「違うっての!」

 先程までの雰囲気は何処に行ったのか、怒りを顕にする彼女。
 というか、僕、何も言ってないよな?

「茶番はそこまでにしておけ。心音。高校生組が困惑している」

 振り返ると、共也君を除く高校生達が困惑していた。いけないと思い、少し黙っておく事にした。






 それからは、共也君と見也さんによって今の状況、《心を殺す力》というハートを持つムカワという人物について。そしてハートを作り出せる力を持つ存在がいることについてが説明された。今回はハート持ちがそれぞれ顔を把握して貰いたいという意思で集められたという。

『ハート持ちは、何故かは分からないが惹かれ合う時がある。君達にも、いつ新手のハート持ちが接触してくるから分からんからな。コネクションを作っておきたかった』

 これは見也さんの発言だ。そして彼が全員に連絡先を渡したところで解散となったわけだが。


 僕は今、病室のような場所にいた。
 あの集まりの後、僕は見也さんに連れられて、今ここにいる。他には共也君と見也さん。更に心音さんがいる。青海さんは、外で待っているらしい。僕がここにいる理由は、ムカワを目撃した1人でもあるからだろう。

 ここは正確には病室ではない。友松家の管理する施設の一つらしい。これは先程知った事だが、友松家は結構大きな財閥の分家の1つらしい。家業はあまり公にできるものでは無いらしいが。
 この部屋は真っ白だったりベットがあったり謎の機器が点々と置いてあったりと、如何にも病院といった感じの部屋だ。そして、大きなベットには、1人の男性が横たわっている。それは僕らの知っている人物だ。

「八取さん……」

 八取仁太郎。一月程前に連続誘拐事件を起こした張本人で、『ムカワ』によって心を殺された被害者。彼は今も一度たりとも目を開いていないらしい。

「……今、八取は体だけが生きている状態だ。正直、いつ死んでもおかしくない。妹さんに関しては、生きている事が奇跡と言えるほどだ。……解決を急がねばならない」

 見也さんのその言葉に、空気が一層重苦しくなる。が、そんな空気を打ち消すかのように、高い声音が響いた。

「そのために私を連れてきたんでしょー? ほら、落ち込んでる暇あったら手を動かしましょう? で、私はその男の声を聞けばいいのね?」

 心音さんは見也さんにそう尋ねる。見也さんが頷くと、彼女はこちらを向いて一言。

「今から暫く、何も考えないで。聞こえなくなるから」

 彼女が何を言っているのかはよくわからないが、取り敢えず何も考えないように意識する。……が、人間そんな簡単に思考停止のできる生き物ではない。僕はどうやったら思考停止出来るのかを考え始めてしまった。

「ちょっとそこのチビ! 何も考えるなって言ってんでしょ!」
「ち、チビって……」

 そっちの方がチビなのに。

「うるさい! ちょっと出てて!」

 結局僕は病室のようなものから追い出されてしまう。うう……酷い。
 僕がすぐ近くの椅子のようなものに座ると、すぐ横に誰かが立っている事に気が付いた。

「おや、針音君。どうされましたか?」

 青海さんだ。彼は直立不動のまま、顔だけをこちらに向けて尋ねてくる。

「いえ……ちょっと、彼女の邪魔をしちゃうとかで、追い出されたんです」
「ああなるほど」

 納得いったような彼の表情に、理由を尋ねると、彼は答えた。

「お嬢様のハート、《心を聴く力》にございます。お嬢様には、周囲の人間の考えが聞こえるのです」

 その力を聞いて、少し納得しつつも、ふと思ったことを聞いてみる。

「心の声が? それは見也さんのとは違うんですか?」
「見也様のハートは視覚的に感情を読み取りますが、お嬢様の場合は聴覚的に感じ取るのです。見也様は文章で、お嬢様は音で感情を読むのです」
「……制御できないんですか?」

 先ほどの僕の考えあまり大きくなかったはずだ。そう考えると、制御できているのか怪しい。

「いえ、普段は限界まで感情の読み取りを抑えていらっしゃいます。それでも強い考えは聞こえてきますが。……ですが、今回の案件ですと、心を殺された人間の声を聞き取るのです。当然、読み取りを限界まで拡張しなければなりません。しかしながら、それでは周囲の人間の考えも伝わってきてしまいます。ですので、お嬢様は針音君を追い出されたのでしょう」
「……なるほど」

 彼女の事についてよく知っているんだな、と思いつつも、彼との会話を続ける。

「青海さんはどうしてここに?」
「お恥ずかしい限りの話でございますが、私、先程お嬢様に煩いから出ていてと言われまして、こうして外で廊下に立たされているのでございます」
「考え事でも?」
「と、言うよりは、私めは常日頃からお嬢様の事を考えております。それ故、少々恥ずかしいと日頃から申されておりますが、何分これが職業ですので止められず、お嬢様も妥協してくれたのでございますが、今回ばかりは流石に邪魔だったようで……おっと、扉が開きましたよ。もう入って宜しいのでは無いでしょうか」
「あ、本当ですね。ありがとうございます」

 執事も大変なんだなぁと軽く考えつつも、会釈をしてから再び部屋に入る。
 部屋の中では、見也さんと心音さんが何かを話していた。断片的な内容しか聞こえない。

「ダメね」
「……聞こえなかったか?」
「ノイズ程度よ。ほんとに虫の息って感じの音だわ」
「……なら、もう1つの方で頼む」

 見也さんがそう言うと、彼女は再び八取さんの方へ向かい、その手を握った。
 すると、彼女の手から、唐突に何か閃光のようなものが飛び出した。それは数秒間ほどで束を作り、一つの方向を指す。そしてまた数秒程度で、それが消えた。

「今の方向、メモした?」
「ああ、大丈夫だ」

 今のも心音さんの力だろうか。心を聴く力というのにはあまり結び付いていない気もするが、僕は深く考えない事にした。

「共也君、今の光って何?」
「ああ、多分だが……ムカワのいる方角だ」
「へ?」
「姉さんのハートの力だよ。一瞬だけ、だが、その人物が考えている人間の方向を知れる力。八取は最後にムカワの事を考えてこうなっちまった訳だから、多分そん時の意思の残りカス見てぇなモンが反応したんだろうな」
「じゃあムカワが見つかるの?」
「いや、そういうことでもねぇ。アレが指すのは普段ムカワのいる場所じゃなくて現在地だ。アイツが今どっかに旅行に行ってたりしたら、ちげぇところが指されてる。なにより、1本じゃ線上ということしか分からない。特定にゃ最低でも2本必要だな」

 その言葉に少し落胆するが、まあ希望が見えただけマシだろう。そう思って、僕は光の方向を見た。
 ──僕らの学校の方だけど、気のせいだよな。
 小さな、かなり小さな不安を抱えて。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.44 )
日時: 2018/06/10 16:59
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 照明が照らす、舞台の上。
 そこにいるのは2人の男女。
 そして僕は、それを下から眺めるだけ。

 演技中、僕はただそれを見ているだけ。舞台の上に、僕の姿はもう無い。そこには別の男子生徒と、雪原先輩がいる。僕の居場所は、もう舞台の上ではなかった。

 僕こと浮辺縁は、ハートの力を使わないようになってから、一気に部活内での評価は落ちた。なまじ以前は上手い演技をしていただけあって、今の演技が下手くそに見えるのは仕方ないだろう。
 それでもいいのだ。大切なのは下手な自分を突き放す事ではない。そんな自分を受け入れ、育てていく事なのだから。僕は確かに、それを彼らから学んだのだから。
 僕はあの後、午後3時から部活動の練習に来ていた。解散時刻は7時で、残すところあと30分といった所だ。丁度練習も終わり、後は片付けて、顧問の先生からの今日の反省を聞くだけ。
 僕は少数派の男子部員ということもあり、片付けではしょっちゅう重いものを持たされたりする。実際のところ雪原先輩は僕よりも腕力が強いのだが、僕に仕事が集中するのはやはり男子というところが大きいだろう。

「大丈夫? 手伝おうか?」
「大丈夫ですよ。先輩」

 噂をすれば、といったところか、雪原先輩が隣にいて僕の荷物を持ち始める。大丈夫と言ったんだけど……。

「まーまー、2人で持った方が軽いでしょ」

 その言葉には一理あるので、まあ特に文句は言わない事にした。機材を運び終えたところで、雪原先輩が話し始める。

「そう言えばね、この前久々に小学校の頃を思い出したの」
「小学校……?」
「そう。私達、小学校の低学年の時に1回すーごい喧嘩したの覚えてる? あの時は縁君も中々譲らなくてさー、でも私が泣いたらコロッと毒が抜かれたみたいに縁君がオロオロし始めてってちょっと待ってよ!?」

 あまり思い出したくない頃の話だったので、できるだけ耳に入らないようにしながら、僕は片付けに戻った。






 着替えを済ませて、僕が玄関から出た。時間は七時を少し過ぎた頃。周囲はもう、そこそこ暗い。学校指定の光を反射して光るタスキのようなものを付けておく。放課後というか、下校時のルール的なものだ。
 校門の所に、誰かが同じように反射タスキを付けているのが見えた。近付いていくと、段々白い肌が鮮明に映し出されていく。

「お、やっときた。遅いよー」
「雪原先輩……」
「久しぶりに、一緒に帰りたいなって。誰もいないから、いいでしょ?」
「……分かりましたよ」

 最近、妙に雪原先輩が絡んでくる気がする。前の1件で、以前のような息苦しさは感じないものの、僕はまだ彼女に負い目を感じていた。

「いやー、浮辺君下手になったねー!」
「それ、嬉しそうに言うことじゃないですよ……」
「ああごめん。そういう意味じゃないの。下手でも一生懸命やる姿、私は好きだよって意味」

 本当に、雪原先輩は人の心が分かっていない。そんな事、普通は言うべきじゃないのに。ましてや僕は男だ。そんな発言ばかりしていると、雪原先輩は誰かを勘違いさせてしまいそうでたまらない。凄く心配である。

「……そうですか」
「んー? 元気ないね」
「いつもこうですよ、雪原先輩」

 雪原先輩は突然、こちらにビシッと指を指した。

「なんで雪原先輩って呼ぶの!」
「ごめんなさい意味がわかりません」

 あまりの唐突さに軽く混乱しつつも、状況説明を求める僕。彼女はこう言う。

「私は縁君って他の子がいない時には呼んでるのに、どうして縁君は昔みたいにユキねぇとかユキちゃんって呼んでくれないの!?」
「高校生でその呼び方はハードル高いんですって……」
「じゃあユキでいいよ?」

 そう言われて、思わず押し黙る。いや待て。確かにそれはまあ、高校生的には大丈夫かも知れないが……少しだけ、小っ恥ずかしい。まるで付き合ってるみたいじゃないか。

「……雪原先ぱ」
「ユキ」

 名前を呼ぼうとすると、短い一言でぶった斬られた。
 仕方なく、僕は呼ぼうとする。ええい、たかが二文字だ。いつもより短いじゃないか。ほら、僕、頑張れ。

「…………ユキ先輩」

 僕の妥協に妥協を重ねた呼び方に、暫くユキ先輩は目を瞑って唸るような声を上げる。

「75点」
「つまり?」
「及第点」
「……良かった」

 これで許してくれた事に感謝しつつも、どうして自分が感謝しているのかは分からなかった。
 そんなこんなで暫くユキ先輩と雑談しながら歩いていると、自分の頭の上に冷たいものが当たる感覚がした。そして、それが連続し始め、周囲にパラパラと音がし始める。

「あ、雨だ」
「傘あります?」
「持ってないなぁ。……あちゃー」

 仕方ないので、バッグから折り畳み式の傘を取り出す。正直かなり小さい。僕1人のならまだ収まる程度の大きさである。仕方ないので、ユキ先輩に見えないように、僕は一度折り畳み傘を背後に隠して、僕のハートである《心を偽る力》を使い、少しだけサイズを大きくした。このハート、重さは変えられないが密度や体積は変えることが出来る。僕はユキ先輩に近付いて、その傘を差した。

「ありがとね」
「いや、別に。持ってただけですし」
「素直じゃないなぁ、縁君は」
「……濡れますよ」
「じゃあ寄るね」

 ユキ先輩が、肩を僕の体に付けた。……ほんと、天然でやっているから恐ろしい。誰にでもやっているだろうが、流石に勘違いしそうになるので止めて欲しいものだ。顔が赤くならないよう、必死になって注意を逸らす。が、チラリとユキ先輩を見てしまう。すると目が合い、先輩がニコリと笑うものだから、僕は更に目を逸らしてしまった。熱くて熱くて、見ていられない。
 必死に意識を逸らしていても、まあ当然すぐ近くにいるのだから存在があることは分かるし、接している部分があるからついそちらに意識が向く。それに釣られないように意識を逸らすという無限ループを繰り返している僕。何をやっているんだと自分でも思う。

「ねぇ、縁君」

 そうやって、またユキ先輩が声を掛けてきた時だ。
 後ろから、パラパラという音が聞こえた。それは僕らを覆う傘から発せられるような音と似ているが、少し違う。丁度カーブミラーがあったので確認すると、どうやらレインコートを着た人が後ろを歩いているようだ。真っ黒のレインコート。一瞬、目視すら出来なかった。

「何ですか?」

 特に気にせず、ユキ先輩に返した。頼むから僕の体に肩をくっつけながら歩くのを止めてもらいたい。

「……縁君ってさ」

 少しだけボソボソという彼女の言葉が、雨に打ち消されてよく聞こえない。何を言おうとしているのか、顔を逸らしている今、彼女の表情を窺い知る事は出来なかった。
 後ろのパラパラという音はまだ続いている。たまたま進行方向が同じなのだろうが、もしかして後ろから見てニヤついているとか、そういう人だろうか。なんと性格の悪い。などと勝手に被害妄想を繰り広げる僕に、ユキ先輩が言う。

「私のこと、嫌い?」
「……なんでですか」

 そんなことあるはずない。そう言いたかった。だけど、僕にそんな度胸はなくて、理由を尋ねる事しか出来ない。

「だってさ……昔はあんなに親しく接してくれたのに……今はもう私にあんまり構ってくれないから……うんうん、分かってるの。私、結構面倒よね」
「……そんなこと」

 あるはずない。と言いたかった。
 しかし、僕は目を逸らした方向で見てしまったのだ。
 それはカーブミラーだ。何の変哲もないただのカーブミラーだ。

 ──背後の黒いレインコートの人間がいるだけだ。

 だがその姿勢は明らかに不自然だ。何かを、まるで何かを突き出そうとしているような姿勢なのに、その手には何も握られていない。
 咄嗟に背後を振り返る。
 その手には、長い何かが握られていた。

 ──ソレは、その長い刃物でユキ先輩を刺そうとしていた。

「……縁君?」

 彼女のあどけない疑問の声。だがそれと同時に、長い刃物は突き出された。

「危ない!」

 咄嗟に、傘でその人間を突き飛ばした。が、刃物はそれをすり抜ける。このままではいけないと判断して、ユキ先輩を抱き寄せた。ギリギリ間一髪、刃物は彼女に触れることなく持ち主に引きずられるかのように、背後に下がっていく。

「……ど、どうしたの? そ、そんな急に……」

 ユキ先輩が何かを言っているが、そんなのを気にしては居られない。折りたたみ傘を畳みつつ、背後の倒れているレインコートの人物にを睨む。

「そこのあなた、先輩に何をしようとしたんだ」
「……ふふふ、貴方、コレが見えるのですねぇ」

 丁寧な言葉遣いに、謎の怪奇を孕んだその声と共に、レインコートを被った人間が、右手を持ち上げる。そして……その手に握られた長い刃物──刀が姿を現す。
 ユキ先輩の方をチラリと見ると、疑問符を浮かべているだけ。つまりアレは、ハートの力によるものなのだろう。

「……だからどうした」
「そんなに睨まないで下さいな……昂ってしまいます」

 ねっとりとした口調でそう発した、女性らしき黒いレインコートの人物が立ち上がる。

「ふふふ、美味しく頂かせて貰いますわぁ……ネ、ズ、ミ、さん」

 その黒いレインコートの中に、一瞬だけ、炯々とした血色の眼光が姿を見せた。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.45 )
日時: 2018/06/10 20:22
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 ポケットから数枚の一円玉を取り出し、ハートの力でカッターナイフに変化させて投げ付ける。が、それらは全て刀によって弾き落とされた。いや、弾き落とされたというより、全て切断された。そして、地面にカッターナイフではなく一円玉の死骸が転がる。
 その光景に少し違和感を覚えつつも、ユキ先輩を庇いつつ距離を置く。が、相手も黙っている訳ではない。

「生ぬるいですわねぇ!」

 一気に跳躍して、距離を詰めてきた。突き出された刀を、咄嗟に折りたたみ傘を鉄の棒に変えて弾いた。
 瞬間、弾いただけのはずなのに、鉄の棒が折りたたみ傘に戻り、折りたたみ傘がバラバラに分解される。

「なッ!?」
「うふふ、油断大敵ですよぉ!」
「クソッ!」

 ならばと折りたたみ傘の布の部分だけを持ち、投げつけた。それをハートの力でできるだけ大きな布に変える。相手に纏わり付いたそれが時間を稼いでいるスキに、呆然としているユキ先輩に声を掛ける。

「ユキ先輩、逃げて下さい。お願いします。僕は先輩を守れない」
「ま、待ってよ! ねぇ縁君、何が起こってるの?」
「詳しく説明している暇は無いんです!」

 ユキ先輩を離し、彼女に背を向ける。視界には、布が十字に切り裂かれ、中から黒いレインコートの女性が姿を表す。実物を切った辺り、あのハートは既に具現化していると見て間違いない。ユキ先輩の驚き具合が増したのも、刀が見えたせいだろう。

「アハハッ! 中々切りがいのあるハートですねぇ! ネズミさぁん!」
「僕の名前は浮辺縁だッ!」
「自己紹介ありがとうございますネズミさん。お礼に殺して差し上げましょう!」
「それはお断り願いたい!」

 反射タスキを外し、僕は目の前の相手が持つ刀をイメージする。目の前にあるものは真似しやすい。僕はそれを、刀に変化させることに成功した。
 僕のハートの変化範囲は、僕の想像力にかかっている。複雑な銃は作れないし、僕が想像できそうなのは、せいぜいカッターやハサミのような親しみのある刃物だけ。このように刀などは、目の前に実物が無ければ作り出せない。
 僕の作り出した刀に、拍手のような動作をする彼女。だがレインコートのバサバサという音のせいか、それとも雨のせいか、全く音は聞こえない。

「面白いハートですこと! 嗚呼! 切りたくて溜まりませんわぁ! 昂りますわ! 昂りますわぁ!」
「少しは大人しくしてくれないかなぁ!」

 その刀が、上から強く撃ち込まれる。なんとかそれを真似た刀で受けるが、かなりの強い衝撃が手首に伝わってきて、痺れたのを感じた。
 が、敵の容赦は無い。更に今度は横からの一撃。無理やり刀を上から合わせると、また強い衝撃が伝わってきた。

「ぐっ……!」
「ほら! ほら! ほら!」

 愉しむような声を上げて連撃を放つ彼女。どうやら僕は遊ばれているようだ。だが今は黙って耐えるしかない。手首が限界に達そうとしているが、歯を食いしばって無理矢理動かす。

「フフ、ではこれで」

 そう言い、彼女か連撃を止める。
 次の瞬間、僕の手の中にあった刀が消え、代わりに木っ端微塵となった反射タスキが姿を表す。思わず息を呑み込むと、目の前の相手のレインコートから、再び赤い眼光が覗く。

「……どうして、僕のハートが解けるのかな」
「知りませんわぁ!」

 恐らく、彼女のハートは何らかの手段で僕のハートの力を解除している。そして、同時にものを壊す性質がある。先ほどの折りたたみ傘や一円玉。そして今の反射タスキなどを見れば、その程度の察しはついた。

「ハッ!」

 再び切り付けられるかと思い、咄嗟に左手を巨大なカッターナイフの刃に変化させた。そしてそれで、刀を受ける。

「へぇ……自分の体も変えれるのですねぇ」

 彼女がそう呟き、一際声に歓喜が孕んだその時だ。
 不意に、僕の左手が、元に戻った。
 そして、僕の意図に反して、ぶらりと重力に即してぶら下がる。
 段々と制服が赤く染まっていく。僕はそれを見て、状況が理解出来ないままだった。

「あ……あ?」

 左腕が、外れていた。そして、左腕は、どうやったのか分からないほど、大量のアザができている。手に関しては、もはや感覚が無い。
 しまったと思った頃には、もう遅かった。

 ──視界が、白に焼かれた。

 凄まじい激痛が、頭の中を駆け巡り、思考が停止しかける。声を出しているのか出していないのかも分からない。僕の体が跳ねているのか止まっているのかも分からない。ただただ、激痛のみが僕の体を支配する。
 誰の声も聞こえない。近くで叫び声が聞こえた気がするが、それが誰のものかも分からない。

「──ッ! ァッ──ッ!」

 不意に姿勢が崩れ、背中に強い衝撃を感じた。水で服がじわじわと濡れていく感覚もする。どうやら倒れてしまったようだ。先ほどの衝撃がアスファルトと激突したことによって発生したもので、水たまりに突っ込んだのだと理解した頃には、視界が徐々に戻ってくる。すると、レインコートの女性が、僕を見下ろしていた。
 顔が見えた。女性だった。だが影が強くて未だにハッキリと見えない。その赤い両目だけがギラギラと輝いている。

「お立ちになって?」

 彼女の靴が左腕に勢いよく乗せられ、再び、激痛が駆け巡る。

「ぎッ──!」
「早くしろよ」

 冷たい底冷えするような口調でそういう彼女。踏み付けられた僕の左手から流れる電流に、体が上手く動かない。
 嬲るように、僕の左腕が痛め付けられる。僕はその度に視界が点滅するが、目の前の彼女が気絶することを許さない。視界が消えそうな瞬間に、別の部位を痛め付けて目を覚まさせられる。

「チッ」

 軽く舌打ちの声が聞こえた。すると、足で腹部が蹴られた。そのまま体が仰向けからうつ伏せに転がされる。もう、立つ気力すら、僕には無かった。

「ほーら、見てください、ネズミさん」

 そう言われて、なんとか視界を地面から動かして前を向く。地面に這うような姿勢から眺める光景に、思わず目を見開いた。

「縁君! しっかりしてよ! ねぇ!」

 涙を流す、ユキ先輩が居た。
 彼女は僕を気遣っていた。
 首に刀を当てられている状況にも関わらず、だ。ユキ先輩の背後には、レインコートの女性がいる。

「ユ……キ……先ぱ……」

 僕が名前を呼ぼうとするが、もう声が出ない。ダメだ。叫び過ぎて、これがもう、出ない。

「これからぁ、この子を」

 レインコートの女性が、ユキ先輩の髪を引っ張った。痛そうな声を上げる彼女。そして、ユキ先輩の鳩尾に、刀の柄が食い込む。

「げほっ!」
「ぶっ殺して差し上げまぁす! アハッ!」

 艶のある声でそういう女性の声は、抑えきれない歓喜を孕んでいた。

「や……め……ろ……! ユ……キせ……に手を……!」

 声が、上手く出ない。

「これだからネズミ狩りは止められませんわぁ! 嗚呼! 心臓が飛び出して行きそうなほど胸が高鳴りますわぁ! 昂りますわぁ!」

 艶かしい声で叫び散らかす彼女を睨みつけるが、相手はむしろそれを見て楽しんでいた。僕は、玩具ということか。
 立ち上がろうと力を入れるが、体は全く動いてくれない。
 どうしてだよ。なんでだよ。目の前で、ユキ先輩が、殺されるんだぞ。ほら、動いてくれよ。動けよ。なんでだよ! なんで、なんで、なんで。
 なんで、こんな時に限って、1ミリも動いてくれないんだよ。本当に、空虚な笑いも出てこない。

「ちく……しょう……!」

 右手を力一杯に握って、地面に叩き付ける。でもそれすら力無くて、自分の無力さに打ちのめされる。

「僕は……! なんで……! なんで……!こんなに何にもないんだ……!」

 僕は何にもない。それを受け入れた。だけど、それのせいで、僕はユキ先輩を守れない。悔しい。悔しい。悔しい。目の前の奴を殺してやりたい。ユキ先輩を泣かせたあいつを、ぶっ殺してやれる程の力が欲しい。そんな力や才能が、僕にあればいいのに。
 でも、この手には、もう何も残っちゃいないんだ。手を開いても、握っても、何も掴めなければ、何も零れてもこないんだ。元々何にもなかったんだから、当たり前といえば当たり前。これが惨めな僕の末路だ。

「僕の馬鹿野郎……! なんで! なんで……なんでなんだよ……!」

 いつの間にか、自分の声がしゃがれている事に気が付いた。目からは、涙が溢れていた。雨で気が付かなかったが、僕の顔は、きっと屈辱と惨めさでぐちゃぐちゃだ。


「泣かないで! 縁君!」

 突如として、心の奥底に響いたその言葉が、僕の心を揺さぶった。

「…………ユ……キ……先……輩……!」
「貴方は確かに目立ったものは無いかもしれない! 尖ったものは無いかもしれない! でも!」

 彼女は、必死だった。
 自分よりも、僕の事で必死だった。
 何故、彼女は、そこまで。

「それでも! 私は知っている! 誰よりも貴方を知っている! だから! だから自分を嫌いにならないで! 自分を否定しないで! 貴方は自分が思っているよりも、ずっとずっと凄いんだ!」

 ユキ先輩は、どこまで、そうやって。

 どうして、そんなに、何にもないこの僕を、見つけてくれるんだ。


 そんな事を言われたら。


 骨が軋む。肉が千切れる。全身が悲鳴を上げる。体が壊れそうになる。視界が弾ける。電流が駆け巡る。頭の中が爆発する。

 だが、それでも、立つしかないじゃないか。

 命を燃やせ。心を削れ。

 膝をついた。変な音がした。構わない。腕を付いた。異常なほど痛い。問題ない。立ち上がろうとした。転倒した。また無様に水溜まりに突っ込む。関係無い。再度膝を付く。何度だって、僕はやってやる。

「立つんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」

 遂に、僕の足が、しっかりと、地面を捉えた。
 膝が、壊れそうだ。
 体が、砕けそうだ。
 頭が、割れそうだ。
 重力が苦しくて、自分の体が重くて、立っているだけで死にそうだ。
 だけど、それでも、僕は立ち上がるんだ。
 じゃなきゃ、僕は本当に何もなくなってしまう。

「……ユキ……を……放せ!」


 僕は、何にもないこの僕に、たった一つだけ残された、何よりも大切なものを、今ここで、守らなくちゃならないんだ。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.46 )
日時: 2018/06/12 06:51
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「……フフフ」

 その女性の笑い声が、レインコートの内側から漏れる。

「フフフフフ……ハハハハ! 愉快! 実に愉快ですわ! 一体その体で、どうやって私を倒すというのでしょうねぇ!」

 体を一際くねらせたまま彼女は僕にはこう言う。

「空っぽの嘘吐きさん?」

 彼女は既に、僕の性質を見抜いていたようだ。思わず、皮肉な笑いが零れてしまう。

「貴方は何にもない! ハリボテ空っぽ大空洞! 嘘で固められた貴方は正しく偽物でしょうねぇ!」
「違う! 縁君は偽物なんかじゃ──」

 煽りに対して反論したユキの首が、刀を持つ手とは反対の手で握られた。細い首が圧迫され、言葉が途中で止まる。

「偽物の貴方に! 偽りの貴方に! 私は止められませんわぁ! ええ絶対に! だって貴方は何にもないんですもの!」

 嬉々とした口調でとてつもなく恐ろしい言葉を連ねる彼女。僕はその言葉に、ただただ頷く事しか出来ない。

 だけど、

「放せよ」

 そんなことは、どうでもいいんだ。

「ユキを、放せって言ってるんだよ、ネズミ女」

 僕が空っぽだとか、偽物だとか、偽りだとか、そんな当たり前の事実はもう、どうだっていい事だ。
 目の前で、ユキが苦しめられている。それこそが、僕にとっての大問題だ。それだけは見逃せないし、許せる気もしない。

「……フフフ、少しは煽られ慣れているようですねぇ?」

 あまり面白くなさそうにユキの首を絞める野を止めた彼女。

「弱ぇクセに粋がってんじゃねーよ」

 そして、再び底冷えするような声がレインコートから発せられる。後ずさりしそうになるが、そんな余力は無い。なんとか足が動かないように、気を強く保つ。

「ネズミはテメーだろうがよぉッ!」

 そして、彼女が踏み込み、こちらとの距離を一気に詰める。突き出された刀の狙いは、僕の首。
 間一髪、触れないように横に体ごと回避。だがそれだけでは安心できない。突き出された刀が僕を追うように横にスライドを始める。慌ててポケットから一円玉を取り出し、カッターナイフを作り出す。
 カッターナイフに、刀が強く打ち込まれた。勿論それは派手な音を立てて破砕するが、攻撃を逸らすことには成功した。手の中からズタズタの一円玉が零れ落ちる。

「それで防いだつもりかよ! ハッ!」
「──ッ!」

 が、上に逸らした刀が、無理矢理軌道を変えて冗談から振り下ろされる。しまったと思いつつも、ポケットの中からありったけの一円玉を掴みとり、それらを全て、振り下ろされる刀と同じものに変化させる。
 上から振り下ろされるそれに、僕の作ったコピー品は一瞬だけ耐えて見せた。だがそれも一瞬だ。そのまま異様な音を立てて、くの字に曲がってしまう。そして数秒後、派手な音を立てて十数枚以上の一円玉の死骸が弾け飛んだ。

「足元がお留守だなぁ!? ネズミさんよぉ!」

 直後、視界が90度回転する。左腕をアスファルトに強打し、再び激痛が走った所で、ようやく自分が柔道技のように足を刈られた事に気がつく。

「がぁッ!」

 だがボーッとしている暇はない。上から刀が振り下ろされようとしている。地面を転がって身体中を水たまりに浸しつつも、それを回避。立ち上がろうと足に力を入れる。

 直後、電撃が走った。

「──ぁ」

 間抜けな声が、自分の口から出た頃には、既に姿勢を崩して、再び倒れていた。
 右足の感覚は、もう無い。限界、という奴だ。

「無様、無様だなぁ! 嘘吐きネズミ!」

 彼女の足が、僕の頬を踏み付けた。顔の向きが動かせなくなる代わりに、視線だけずらして睨み付ける。レインコートの下から赤い光がまた覗く。

「テメーみてーなクソザコはよぉッ! 一生そうやってッ! ドブネズミ見てぇにッ! 汚なく這ってればッ! 良いんだよッ!」

 彼女が言葉を区切る度に、何度も何度も頬を踏み付けられる。痛いなんて話ではない。彼女の蹴りには何の容赦も含まれていない。相手の体重がそこまで重くないことが、不幸中の幸いだった。

「止めて! もう止めてよ! 縁君が! 縁君が!」
「いーや止めねぇ! つかテメーはネズミに慈悲でも掛けんのかよ!」

 ユキの言葉にそう返した彼女が、一際強く、僕の顔面を踏み付けて、そのまま圧力を加え続ける。先程とは違った痛みで、それこそ脳が潰されていくような感覚に陥る。

「……なせ……」
「テメー……今何っつった?」
「放せって、言ったんだ」
「……まだ口のきき方が分からねぇみてーだなぁッ!」

 鳩尾に、蹴りが打ち込まれた。
 胃の中から何かがせり上がってくるような感覚。咄嗟に飲み込もうとするが、堪えきれずに、少しだけ、胃液のようなものが口の中に溢れ、口内を酸味で満たす。

「がッ!」
「テメー見てぇなハリボテは! 無様に醜く情けなく! なんにも守れやしねぇんだよ!」

 何度も何度も、数えるのが億劫になるほど、腹部につま先がくい込む。その度に胃液を吐き出して、遂に口から漏らしてしまう。水たまりに溶けたそれが、自然と周囲に広がるが、相手は気にした様子は無い。むしろ、それ見て加虐心がそそられたか、一際攻撃が強くなる。

「止めて……もう……嫌だよ……なんで……縁君を……」

 すすり泣く声が聞こえた。
 朧気に揺らぐ景色の中で、確かに僕は見た。
 ユキの涙が、頬を撫でて落ちるのを。

「……悪いのかよ」
「……あ?」

 瞬間、視界が定まるのを感じた。

「僕が偽物で、偽りで、何が悪いんだよ」

 僕を踏み付ける足を、掴む。

「コイツ……!」
「答えてみろよ、なぁ、なんで偽物が悪いんだよ、なぁ」

 それをどかそうと、力を込める。
 だがそれはびくともしない。

「偽物の何が悪いって言うんだ! 偽りの、何が悪いって、言うんだよ! なぁ!」

 だがそれでも、それでも尚、僕の心の中で、燃え盛る感情がある。
 それがある限り、僕は止まれない。
 諦めきれる、訳が無い。
 そして遂に、その足が、少しだけ、持ち上げた。

「な──」
「答えてみろ! ネズミ女!」

 女性が驚いたような声を上げた気がした。そのままそれを投げるようにして外す。

 僕は地面に膝を付いた。
 彼のように、僕にナイフは出せないけど、でも、彼のように、叫ぶことは出来るはずだ。
 さぁ、立ち上がれ、偽物。

「偽物だって良いじゃないか! 偽りだって良いじゃないか!」

 偽物なりのプライドを、今ここで見せてやる。

「偽物が勝っちゃいけないのかよ! 偽りが守っちゃいけないのかよ! 偽物だって誰かに勝ちたいんだ! 偽りだって誰かを守りたいんだ!」

 突如として、全身から、飛び出しそうなほど、何かが湧き出る感覚がした。

「そんな事が許されないのが世界の理だって言うなら──」

 その衝動に、身を任せる。

「──僕は! そんな世界を偽りに変えてやる!」

 自分の体の奥底から湧き上がる力で、僕は思い切り相手に向かって跳躍した。
 視界があわやホワイトアウトするかと思う程の猛スピードで接近し、自分でも、驚かずにはいられないが、今はそんなことを考えている暇は無い。
 目前に近付いた時、覗いた相手の顔が、やけに鮮明に映った。見開かれた赤み瞳は、紛れもない驚きを表していた。
 気が付けば、僕の腕は、レインコートの女性に伸びていた。自分でも反応できない速度だった。が、拳には硬いものを殴った感覚。それでも構わないと、拳を振り抜く。
 女性は驚きのあまりユキを離してしまったらしい。そして吹っ飛んで行き、壁を打ち付けるように激突した。刀を構えていた辺り、こちらの攻撃は受けられていたようだが──パワーだけは、想定外だったようだ。
 自分がどうして、こんな力を出せているのかは分からない。
 そのまま起き上がり、放り出されアスファルトに放り出されたユキに近付く。すると彼女は、少しだけ挙動不審な動作をしつつも、僕の方をじっと見つめて、こう言った。

「ゆかり……くん?」

 彼女の発言の意図は分からなかった。だから黙って彼女の背中と膝裏に手を伸ばして、抱え上げる。そして、レインコートの人間の方を一瞥した。
 刀を支えにして立ち上がる彼女。2、3回ほど首を右左に動かした後、こう言った。

「テメー……遂に存在にすら嘘吐きやがったのかよ……」

 言っている理由がイマイチ分からなかったが、ユキが僕に何かを伝えたいことがありげに、ある方向を指さした。僕がチラリとそちらを──カーブミラーの方を見る。すると、彼女の言いたいこと。そして、ユキの不審な挙動の理由が、一瞬で理解出来た。


 何故なら、そこに僕の姿は無かったからだ。
 そこに居たのは、ユキを抱える、怪物だ。
 狼のように全身から真っ白な毛を生やした、人間の形をした怪物が、そこにはいたのだから。

「……ははっ」

 僕の口から漏れたのは、空虚な笑い。
 鏡の中の狼男は、疲れたように、皮肉に笑った。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.47 )
日時: 2018/06/15 06:08
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「ねぇ、あなた、縁君なんでしょ?」
「……」

 自分のものとは思えない、白い毛に包まれた腕に抱えられたユキは、こちらを見つめてそう言う。

「……ユキ」

 少しだけノイズの入った僕の声。
 カーブミラーには、相変わらず狼の頭を持つ人型の怪物がいる。腕や足は白い毛に包まれ、体のサイズこそあまり変化が無いものの、体はかなり強靭なものとなっている。
 《心を偽る力》が僕の最後の意地に答えたのかもしれない。この姿は……イマイチ、どうしてなったのか良く分からない。

「この……クソ犬がぁッ!」

 突如として、レインコートの女性が、刀を突き出して飛び込んできた。何とか刀を回避しつつも、カウンター気味に蹴りを放つ。動きが単調になった女性に、人狼の足が突き刺さる。だがそれもまだ浅い。彼女はそのまま刀を無理やりこちらに向けてきた。
 咄嗟に、右足で足元の水溜まりの水をかきあげ女性にぶつける。一瞬だけ止まったスキを利用して、跳躍して後退。

「ユキ、掴まってて」

 彼女の返事を待たずに、僕はその場から思い切り跳んだ。景色が一瞬にして変わる。そのまま近所の家の屋根に乗る。そして電柱や屋根などを経由し、ショートカットしつつも、目的地へと向かう。その間にカバンをアレと同じ刀に変化させておいた。
 何度か跳躍を繰り返して、目的地へと舞い降りた僕。そこは、ベンチや噴水のある広場だった。

「……ユキ……ここに……居てくれ……」
「ゆ、ゆかりくん? ねぇ、なんで」

 僕が腕の中からユキを下ろすと、彼女は寂しそうな顔で言う。

「なんで、そんな、顔してるの。満足した顔、してるの」

 そんな彼女に、僕は左手に持っていたものを渡した。それは、僕の携帯電話。

「……預かっていて欲しい」
「待ってよ! ねぇ! 縁君ってば!」

 後ろ髪が引っ張られる気分を感じつつも、無理矢理言葉を飲み込み、背後から追ってきていたレインコートの女性に相対する。

「逃げ足もここまでだな、クソ犬」
「それはどうだろうね!」

 再び、僕と彼女が接近する。あちらの出した刀をこちらの刀で弾き、右足で腹部を蹴り上げる。が、あちらは特に反応もせず、更に刀を振るってくる。刀を打ち合わせて防ぎつつも、振り払って一旦後退。手の中の刀がバラバラと砕ける。
 彼女は自分の肩に二、三回ほど刀を当てながら、つまらなさそうに呟く。

「犬コロ……テメー、もう立てねぇんだろ?」
「……はは、良くわかったね?」

 彼女は、僕の演技を見抜いていたようだ。呼応するかのように、僕が膝を地面に付く。

「蹴りが鈍すぎんだよ。止まって見えるぜ」
「……そうだ……ね!」

 今度は僕から仕掛けた。立ち上がった瞬間に距離を詰めて、拳を突き出す。しかし、それはあっさりと刀によって受けられた。

「拳まで終わりか?」
「……まだまだッ!」

 僕の力は、偽りでしかない。
 偽りの力は、僅かしか持たない。すぐにこうやって無くなってしまう。僕は素の体が満身創痍だった為、偽りの体さえ限界が近づいている。それでも常人以上の運動能力はあるのだが……この女性には叶わないらしい。
 僕が刀に拳を打ち付けた数秒後に、鳩尾に何かくい込む感覚。見れば、彼女の蹴りが突き立っている。

「テメーは何も、守れやしねーんだよ」

 だがそれでも倒れない。咆哮を上げて、右拳を再び放つ。
 全身全霊を込めた一撃。そしてそれは、女性の鳩尾に沈み込んだ。100%のクリーンヒット。これ以上の無い、最大威力だ。
 しかし──

「もう、テメーは燃えカスでしかねぇんだ」

 彼女には、ダメージを受けている様子は無かった。これは彼女が頑丈な訳では無いだろう。それでは先程まででダメージを負っていた理由が説明出来ない。だとするならば、

「……そう……か……」

 僕の、活動限界と言うことか。
 自分がそう知覚した瞬間、今までの疲労が一気にのしかかってくるのを感じた。足に力を入れて踏ん張ろうとするが、その足も、人間としての浮辺縁のものに戻っている。
 もう、僕は狼では無くなっていた。メッキが剥がれた偽物が、無様に地面に倒れる。

「もう、疲れたろ。偽物」

 彼女は、刀を僕の首に合わせて言う。少しだけ、慈悲のあるような口ぶりで。

「殺してやるよ」

 それが、お前にとっての救いだと言わんばかりの様子で。
 そして、彼女が刀を上にかざすようにして持ち上げる。これが振り下ろされたら、僕は何も出来ずに死んでいくんだろうな。なんて考えしか、今はできない。思考速度があまりに低下している。
 ただ、最後に思うのは。

「……誰か……ユキを……」

 ユキを、この場に残すことだけだった。

「じゃあな」

 そして、刀が、僕の首に振り下ろされた。

 僕の体が、切り裂かれた訳では無い。
 だが、その刃が体に侵入した途端に、唐突に意識が揺らぎ始める。視界の済がぼやけてきたと思えば、たちまちの内に少しずつ暗くなっていく。

「……誰か……」

 その視界の中で、僕は最後の力で、虚空に手を伸ばして、何かを掴むように手を閉じる。中には、雨粒しか入っていないだろう。

「誰か……」

 僕は最後に願う。誰か、どうかこの哀れな偽物の代わりに、僕の最後のものを、僕が命を賭して守りたかったものを、誰でもいい。代わりに守ってくれないだろうか。

「……誰か……ユキを……」

 そこで、僕の意識は、途絶えた。
 と思ったその瞬間だ。
 ふと、視界の隅にいたレインコートの女性の、唐突に鳩尾が凹んだ。いや違う。何も無いところからから手が伸びて、彼女を攻撃したのだ。

「……はは」

 まさかと思ってたら、こうなるとは。

 先ほどのことだが、僕がユキに携帯電話を渡していたのは、先程まで連絡していたからだ。屋根を映っている間だけ。
 これは賭けでしかなかった。場所だけ言って、助けてなんて言って。普通の人なら来ないはずだ。

 だけど、彼は来た。

 僕の体が、誰かに持ち上げられたような感覚がした。

「浮辺……テメーよぉ……」

 男らしい低い声で、僕の呼んだ彼は、僕の名前を呼ぶ。

「……カッコイイじゃねぇか」

 そして、僕の意識はそこで途絶える。

「最ッ高に、ピカイチじゃねぇか」

 彼の、

「後は俺に任せろ。テメーのその心意気。無駄にはしねぇ」

 友松共也の言葉を、最後に聞いて。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.48 )
日時: 2018/07/07 20:10
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 浮辺は、そう言ってその瞼をゆっくりと下ろした。

「……」

 彼はもう、起きることは無いだろう。目の前の女が、打ち倒されない限り。それは彼だけの話ではない。八取兄妹もだ。そして、他の俺達の知らない被害者達もだ。
 全ての原因は今、俺の視界の中にいる。

「……ムカワ……!」

 少し離れた場所に居るレインコートを、俺はそう呼んだ。顔が分からなくても、そのハートは一度見たら忘れるものではない。刀で切り裂いたものの命を仮死させる恐ろしいハートの《心を殺す力》。

「御機嫌よう」

 帰ってきたのは、雰囲気に相反する様な柔らかい口調。先程の会話は、ほんの少し耳に挟んだ程度だが、それでも相手の様子が変会している事は分かる。

「ネズミさん?」
「……ハッ、人違いじゃあねぇ見てぇだな」

 相変わらずのネズミ呼び。コイツは他人の事を、人間とすら認めていないのかもしれない。
 俺は視線を逸らさないように、後ろ向きに数歩歩く。そして、その場で浮辺を、呆然とした様子で座り込んでいる雪原優希乃の前に横たわらせた。

「浮辺を頼む」

 瞳を閉じた浮辺を見て、彼女がどのようにどの程度の感情を抱いたのかは分からない。俺に分かるのは、彼女が涙を流して浮辺の胸に顔を押し当てていることだけだ。
 浮辺縁。変幻自在の演者であり、嘘吐き、偽り、偽物、そして凡人。何も無いというコンプレックスと、大きな承認欲求を持った人間。
 彼は確かに嘘吐きで、偽りで、偽物で、凡人だ。それは十二分に俺だって知っている。彼の心を覗いた俺は良く知っている。
 だが、それは前までの話だ。

「……テメェの心はよ、決して偽りなんかじゃあねぇ」

 彼は、自分の心だけは偽ろうとしなかった。最後まで全力で、自分の体さえも犠牲に払い、自分の心に従おうとした。歯を食いしばって立ち上がり、守りたい人を守ろうとした。彼が最後に偽ったのは、自分の限界だったのかもしれない。彼のボロボロの体が、それを物語っている。

「浮辺。お前はもう、立派な本物だ」

 この言葉が彼に聞こえているなら、どれだけ良かった事だろうか。

 もう一度、レインコートの女に向き直る。雨はまだ、止む気配は無い。

「……俺は許さねぇよ」
「ふふ、怖い怖い、ですわぁ」
「俺はよ、多くの人間を見てきた。色んな人間性を見てきた。沢山の心を見てきた」

 俺の言葉程度で、こいつが意識を改めるとは思わない。ただ、俺は目の前のソレに、言ってやらねば気が済まなかった。

「人間の善悪なんざ定義するだけ馬鹿らしいなんてこたぁ、もうとっくに知ってんだ」

 気が付けば、自分の拳を強く握っていたことに気が付く。
 そして、自分の中で静かに、しかし激しく燃え盛る感情にも気が付いた。

「だが、吐き気がするほどのド腐れ野郎は分かる!」

 俺はソレに向かって拳を突き出し、人差し指をそれに向けて反り返るほど力強く立てた。指さしたまま、行ってやる。

「それは! テメェのような他人を苦しめる事でしか幸せになれねぇ人間の事だ!」



「……ふふ」

 ソイツは、俺の言葉に、一言しか返さなかった。

「こんなこと、腐らずにやってられっかよ」

 次の瞬間、それは予想外の行動に出る。
 それはこちらに向かって、右腕をしならせ刀を投擲してきた。一瞬驚いて反応が遅れたが、落ち着いて適当な場所に移動させようと、空間をハートで繋げて移動させようとする。
 しかし、刀が繋げた場所に触れた瞬間、空間の接続が切れた。俺のハートが、無効化されたのだ。

「っぶねぇ!」

 咄嗟に仰向けに倒れ込んだお陰か、なんとかそれを回避する事に成功した。
 今、俺のハートが打ち消されたのか。そんな疑問を抱いて少しだけぼーっとしてしまう。数秒後、はっとして起き上がると、遠くの方にレインコートの女の後ろ姿が見えた。

「待ちやがれ!」

 咄嗟にハートの力で、空間を繋げて彼女の後ろに移動しようとした。が、彼女が新しく刀を取り出し、俺が繋げようとした場所を切りつける。
 またしても、接続が切れた。結局ハートの力が不発し、俺は一歩しか移動する事が出来ていない。
 そうこうしている内に、彼女の姿は、雨の中に消えていった。

「……畜生が!」

 大声でそう叫ぶが、何も起こらない。ただただ雨の音が、その後に虚しく響くだけ。

「……クソ……」

 俺は結局、何もすることが出来なかった。助けを求められたにも関わらず、アイツを倒して浮辺や他の皆を取り戻すことが、出来なかった。
 いけないと頭を振る。これからのことを考えろ。振り返るのは後だ。そう自分に言い聞かせて、俺は携帯電話を取り出す。電話帳からその名前を選び出し、コールする。
 救急車では無い。俺が最も連絡すべき人物は。

「兄さん、不味い事になった」






 有り体に言ってしまえば、殺せた。
 あのネズミのハートは知らないが、あちらは私のハートの全てを知り尽くしていない。こちらのハートには、人を殺す以外にも性質があるのだから。
 殺さなかった理由と言えば、率直に言えば、つまらなかったからだ。
 殺しは娯楽であるべきだ。快楽を得るための手段であるべきだ。だから私はつまらない殺しはしないし、殺す気が失せた相手は殺さない。
 私が相手に求めているものは、反応だ。
 それが、嘆きであろうが叫びであろうが喚きであろうが関係無い。特に何も出来ずに地を這い蹲るネズミを虐げるのは最高だ。立ち上がって吠えてくるなら、それはそれで面白い。その希望を粉々に粉砕してからじっくりと殺すのは、興が乗る。
 だが、どうにも、あの野郎だけは気に食わない。何が気に食わないのかは分からないが、とにかく奴を殺す気は起きないのだ。
 舌打ちしつつも、足元の小石を蹴っ飛ばす。壁に激突したそれが、跳ね返って水たまりに突っ込む。

「……ああ、もうそんな時間かよ」

 それを見た時、水面に映る自分の目の赤い光が、少し弱っている事に気が付く。やれやれ。こんな消化不良では、また近日中に呼び出される羽目になりそうだ。

「……じゃ、また来るぜ」

 ハートの力で、刀を取り出す。少しだけ赤みを帯びて輝くそれは、人の魂を切る度に、日に日に輝きを増していく。まるで、成長しているかのように。

「私」

 私はその凶器を、自分の胸に突き立てた。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.49 )
日時: 2018/06/17 15:47
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 月曜日の放課後。週末の後の登校日。誰もが早く帰りたいと願う今日。当然、いつもなら俺も早々に帰宅している。
 だが、俺達は滝水公園の広場に集まっていた。そしてその誰もが皆、沈黙している。ただただ、噴水から水が流れ落ちる音や親子連れの声が聞こえるのみ。

「浮辺君が殺られた」

 そんな中で真っ先に口を開いたのは、兄さんだった。

「先日の件の、《心を殺す力》というハートを持った奴にな」
「……そんな!」

 学校では気を動転させることを防ぐ為に、敢えて貫太や観幸には伝えていなかった。当然愛泥にも伝えていない。

「……浮辺君は生きているのデスか?」

 くるりと手のひらでルーペを回しつつも、それをパイプのように咥える観幸。数秒後自分の間違いに気が付き、どこからともなくパイプを取り出して咥え直す。どうやらあの観幸でさえ、唐突な事件に動揺を隠せないほど衝撃を受けているらしい。

「ああ。なんとか一命は取り留めた。体こそボロボロだが……彼もまた、心を殺されている」
「……フム、では心音サンのハートは試したのデスか?」

 観幸が視線を姉さんにずらす。全員の視線がそちらに集中すると、彼女は少しだけため息混じりにこう言う。

「ええ、試したわよ。だけど……彼の声も聞こえなかったし、彼が最後に思っていたのは、同じ現場にいた雪原優希乃の事だったわ」

 目を伏せてやるせない表情を見せる姉さん。状況が掴めていない貫太が、一人困惑している。

「……つまり……?」
「特定には至らない、という事デス」

 観幸がそう言うと、貫太は沈んだ顔で生返事を返す。

「……ところで、雪原先輩とやらに話は聞いたのデスか?」
「……ああ。だが……」

 今でも彼女の様子を思い出す。
 俺が今日、彼女の様子を見に行った時だ。
 彼女は普段通りに学校に来ていた。クラスが分からなかったために三年のクラスの辺りを彷徨いていたら、彼女が廊下を歩いているのを見かけた。その後、少しだけ彼女と言葉を交わした。
 彼女と話している最中に、彼女の白い肌が、病的なまでに白くなっていて、血の気が完全に失せていたのを覚えている。今にも倒れそうなほどに、疲れ切った表情だった。
 そんな彼女に、浮辺の事を聞くなんて、俺には到底出来ない行為だった。

「……ダメだったよ。ありゃ、精神がやられちまってる」
「……そうデスか……」

 観幸が少しだけ顔を顰めた。本来なら容赦なく聞き込みに行く彼だろうが、相手が気を病んでいるとなれば、無理に聞こうとは思わないだろう。
 結局、その後も特に生産的な会話は生まれず、皆が心にモヤを抱えたまま、その場を後にした。

 その帰り道の事だ。俺は方角の関係で、必然的に貫太と同じ道で帰っていた。そして、兄さんは俺の横を歩いている。

「……共也君、実はさ……」

 貫太が俯き気味に、俺を呼ぶ。

「どうしたんだよ貫太。んなシケたツラしてよ」
「この前さ、剣道部の人がさ、部長の事をこう呼んでたんだ……」

 次の瞬間、彼から想定外の言葉が吐かれる。

「ムカワ先輩って」
「……なんだと?」
「もしかしたら人違いかもしれないし、全くの偶然なのかもしれない。でも、確かにその人は、そう呼ばれていたんだよ」

 彼自身の困惑した表情を見る限りでは、彼の言葉に嘘偽りは無いだろう。彼がここで嘘を吐くようなメリットは、一つもない。兄さんの方を確認しても、首を縦に振るだけで、どうやら嘘ではないらしい。

「剣道部なぁ……」

 確かに、あの刀を器用に使いこなしているのを見れば、剣道部かもしれない。これはあくまで偏見でしかないが。

「……でも、あの人が同じ学校にいるなんて……そんなの信じられないよ……」
「にわかには信じられねぇが……」

 何せ、俺達の学校は魔窟だ。ただでさえ希少なハート持ちが四人も集まっている。ムカワを足せば五人。どうにも多過ぎる。しかし、ここまでくれば最早十人いたところで何ら不思議では無いだろう。

「……浮辺や愛泥のように、作られたハートかも知れねぇ……」
「……やれやれ、単純な誘拐事件が、とんでもなく複雑な事件に絡まっていたとはな」

 そう零したのは兄さんだ。

「……その剣道部の人物、接触してみる必要があるな」

 兄さんがそう呟いた事で、俺達の明日の行動は決まった。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.50 )
日時: 2018/06/19 23:43
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「……アレがムカワか?」

 火曜日の放課後、僕と共也君と観幸は剣道部が練習している武道場に来ていた。とは言っても、入っているわけではなく、武道場の壁の下にある幾つもの隙間の間から覗いていた。外から見たら不審者にしか見えないが、背に腹は変えられない。

「……確かそうだよ」

 頭の中の記憶を整理しつつも、とある人物を指差す。大声で素振りをしている剣道部員の中から、ショートカットの女子生徒を指差す。

「武川小町(むかわ/こまち)という名前らしいデスよ」
「なんで知ってるんだよ」
「フッ、これが僕の探偵力デス」

 ドヤ顔でパイプを咥える彼にため息を付きつつも、改めて観幸曰く武川という名前の人物を見る。彼の造語に関しては突っ込まない事にした。

「なんかよ、こう……イメージとちげぇな」
「凄い凛とした人だよね」
「ボクには良く分かりまセンが、ムカワとはどのような人物なのデスか?」
「人の事は大体ネズミ呼び。基本お嬢様口調混じり。ドスを効かせた声はチンピラみてぇな口調」
「……とても似つかないデスねぇ……」

 共也君の少し酷い説明に、顎に手を当てつつ、顔を顰めながら武川さんを見る観幸。

「ま、演技ってこともあるかもだしな」

 共也君のその言葉に、思わず浮辺君の事を思い出す。観幸は相変わらずの表情だが、彼は表ではなく裏で感情を動かすタイプだ。表情に出ることはめったに無い。が、彼も恐らくだが思い出していることだろう。

「……浮辺君はさ、どんな状況で襲われたのかな」
「……そういえばだな。俺が行った時には、既に浮辺は満身創痍って感じだったぜ」
「じゃあその前はどうだったんだろう」
「……確かにな。場合によっちゃ、何かの証拠になるかもしれねぇ。剣道部の終了時刻にもまだ余裕がある。調べるとするか」
「デスが、何処へ行くのデスか? 流石にこの地域を周回するのは無理があるのデス」

 観幸のその言葉に僕らは納得せざるを得ない。目的地から絞り出そうとするのは、あまり効率的とは言えないだろう。

「大丈夫よ」

 だが、その声に僕と共也君は驚かされる事になる。今にも消えそうな、か細く透明な声に。観幸だけは、彼女の事を知らないためか、困惑しつつも振り向いた。そして僕らも振り向く。案の定、そこには1人の女子生徒がいた。
 唯一、この学校でムカワを除いて1人だけ、確かにあの事を知っている人間だった。

「私が、覚えてるから」

 彼女は、雪原優希乃はそう言って、少し生気のない笑みを浮かべた。







 自分が意外と弱い事を、ここ数日で痛いほど思い知らされた。
 日曜、私は気が付けば自分の家のベッドの上にいた。親に聞くには、自分が顔も見せずに部屋に行ってしまったと言う。私の寝ていたシーツは雨のせいで少々臭った。制服のまま寝ていたせいで、それもしわくちゃだった。
 そして、昨日のことが嘘なんじゃないかと思って、彼の電話番号に掛けてみた。私が電話をかけると、遅れて振動したのは、私の机の上。見れば、彼の携帯電話が置かれていた。
 彼が私に預けたんだっけ、とその事実を確認した拍子に、昨日の見たくもない事実達が頭の中に溢れ返るのを感じた。堪らず気持ち悪くなって、ロクに何も入っていない胃から何かを吐き出したのを覚えている。
 そしてその後は何もする気が起きなかった。ただただ、あの件を振り返っては、超常現象達に疑問を抱きつつも、彼が最後に浮かべた表情を思い出すだけ。
 気が付けば月曜となった。世間ではあの事件が不審者の暴行によるものと解釈され、現在犯人は逃亡中となっている事を知った。私はそれを違うと言えるのだが、気力が湧かなかった。大体、あんな摩訶不思議すぎる出来事達、大人達は信じないだろう。
 その為か私が学校に行っても、教師たちは何かを察したように私に何も言わなかった。課題の未提出に関しても、気遣いか否か未だにお咎めはない。

 私が廊下を歩いていたところで、友松君に出会った。壁伝いにしか歩けない私を見て、彼がどう思ったかは分からない。ただ、友松君は一切彼の話題に触れようとしなかった。いや、若しかしたら出来なかったのかもしれない。
 昨日、鏡を見れば血の気のない肌が映っていた。笑顔を無理に作ろうとしても、上手く笑えない。引き攣った笑みが、見ていて自分で痛々しいと思った程だ。

 ただただ、何もする気力が無かった。
 これが夢であることを願い、朝が来て絶望する。それだけを繰り返している気がした。以前の彩のある日常など、もう帰ってこないのかもしれない。そうとさえ思えた。
 彼を事故で失ったり、自分の知らないところでなら、ここまで深く傷つく事も無かったのかもしれない。
 だが、彼は私の為にああなった。その事実が、私の心を引き裂き続ける。今でも、それは止まろうとしない。

 そして私は、どうしようもなく、悔しかった。
 彼は私の為に命を投げたのに、私は彼の為に何も出来ない。この事実が、何よりも私の心を押し潰した。

 だけど、私は何かしたかった。私にはあの女を殺すことは出来ないし、彼を取り戻すことは出来ない。無力さがどうしようもなく、憎かった。
 ならせめて、出来る者達に託そうと考えた。例え、この精神を削る事になっても。それが、彼が残した私の役割だろうと。

「大丈夫よ」

 だから、私は声を掛けたのだ。

「私が、覚えてるから」

 彼の為に出来る事を果たす為に。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.51 )
日時: 2018/06/23 17:47
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「だ、大丈夫ですか……?」
「うん……平気、大丈夫よ、全然」

 僕らの前を少し危ない足取りで歩く彼女が、力無さげに振り向いては、乾いた笑いをこちらに向ける。見ていて胸が締め付けられるが、それを口には出さずに何もしないでおく。隣にいる共也君も、黙って雪原先輩について来ている。
 彼女は間違いなく無理をしている。それは僕にすら一目瞭然だった。だが、どうしても彼女の無理を止めることは出来ない。
 なぜなら僕は知っているからだ。何も出来ないという事実ほど、自分の情けなさを叩き付けるものは無いと、知っている。
 それを痛いほどこの身で味わってきた僕は、彼女を制止することなど出来なかった。

「観幸は図書委員だっけか?」
「うん、なんだか新聞作りで忙しいみたいだよ」

 観幸は図書委員の方で少し忙しいようなので、今回の同行は諦めたようだ。なんでも図書新聞とかいう、図書委員が出す新聞の作成があるらしい。

「……そう、このカーブミラーの場所。ここよ」

 話していた僕らは雪原先輩の声に釣られてそちらを向く。言う通り、カーブミラーが曲がり角に設置されていた。交通量は、とても多いとは言えない。

「間違いねぇ」

 共也君が、地面から何かを拾い上げた。確認すると、真っ二つに切り裂かれたようにして分断された一円玉の片割れだった。

「アイツは一円玉を結構な数持ってたしよ。十中八九、戦闘があったみてぇだ」
「これ、学校の反射タスキの一部かな?」

 僕もその辺に転がっていた何かの破片のようなものを拾い上げる。回転させてみるとキラキラと光を反射しており、色や材質から考えても学校指定の反射タスキの一部と見て間違いないだろう。

「……貴方達、何が起こったのか分かるの……?」
「まあ大体は。……そろそろ、教えてくれませんか。雪原先輩。ここで、何があったのかを」

 僕の問い掛けに、彼女はコクリと頷き、話を始めた。





 彼女から事件についての一連の出来事を聞いた僕達。その後彼女を家に送り届けて、今は学校に戻っているところだった。流石に荷物を置いて帰る訳にもいかない。

「……先輩、ほんとに大丈夫かな……」
「……嘘だろうな。十中八九」

 共也君の発言には心の底から同意せざるを得ない。話している最中にも、何度か辛そうな顔をしていたり涙ぐんでいたし、最後には彼女は泣き出してしまった。そして途中から会話が困難な程に情緒が不安定となり、落ち着いた所で共也君が彼女に帰るように伝えた、というのが、僕達が彼女を家に送るまでの経緯だ。

「ずっと謝ってたよね」
「目の前で誰かが自分の為に傷付けられたんだ。ましてや親しい仲の人間。それで心が傷付かねぇ奴なんていねぇよ」

 彼女が泣きながらひたすらに、浮辺君の下の名前とごめんなさいという謝罪の言葉を繰り返し始めた時、僕の心までが引き裂かれそうな気がした。

 そうこうしている内に、景色の中に僕らの学校が映り込む。結構長い時間が経過していた事を、沈んできた夕陽で確認する。これはもうすぐ暗くなるだろうな、と思考を巡らせる。
 何気ない雑談で、沈んだ雰囲気を誤魔化しながら学校に戻った僕達。上履きを履いて廊下に出た。

「お、あれ観幸か?」

 共也君が指さした方向には図書室のスライド式の扉があった。窓から観幸が頭を掻きながら何かの作業しているのが分かる。

「うん、観幸だね」
「よし、冷やかすか」
「なんでそうなるの?」
「まーまー、ほら、気分転換」
「なんて悪趣味な……」

 僕の発言を聞かずに、共也君は図書室の方へ向かって行く。軽く溜め息をつきつつ、それに従うように後を追った。

「よう観幸。作業はどうだ?」
「ああ、共也クンデスか。もう少し掛かりそうデス」

 観幸は新聞の構図のようなものを考えていた。どうして時間がかかっているのか尋ねると、なんでも入れる記事の数と紙の広さが釣り合っておらず、大きさのまばらなパズルを解かされているらしい。
 観幸が椅子から立ち上がり、図書室の別のところに座っていた人に声を掛けた。そして彼が作成していた図面を見せて、何やら相談をしている。他の図書委員の人だろうか。

乾梨かんなしサン、このままではどうして入らないのデスが……」
「……えっと……じゃあ……何処か削りましょうか……」

 丸い淵のメガネを掛けた、大人しそうな女子生徒。制服に付いている学年章は二年生のものだ。茶色が混じった髪をかなり伸ばしている。
 少し話した後、観幸がこちらに戻って来た。そして新しい紙に定規を使って器用に線を引いていく。

「観幸、あの人は?」
「乾梨透子(かんなし/とうこ)サン、平たく言えば僕と同じ図書委員デス」

 大人しそうな見た目から何となく察していたが、彼女は図書委員長だったらしい。今は原稿用紙にペンを走らせている。新聞に載せる原稿でも書いているのだろうか。

「ああ、ボクはまだ少し残ることになりそうデスので、先に帰っておくべきデスよ」
「観幸大丈夫?」
「これでも高校生デスから」

 ここで彼より身長が高い僕が先日不審者に襲われた話をしてやろうかとも思ったが、彼なりの気遣いを無駄にするのも気が引けたので黙っておく。共也君の方をチラリと見ると、彼も頷いていた。

「じゃあな観幸。気ぃ付けて帰れよ」
「また明日ね」
「では、また明日デス」

 そうして僕らは図書室から出て自分達の荷物を置いている場所に向かう。荷物を取っている途中で、共也君が思い出したかのように話した。

「ところで貫太、一つ分かった事があんだよ」
「どうしたの?」

 荷物をかるいながら聞き返すと、共也君はポケットから何かを取り出した。近くに行って見てみると、細かい金属のパーツのようだ。

「これ、折り畳み傘の一部みてぇだ」

 確かに、パーツの一つ一つが折り畳み傘の折れる部分だったりに良く似ている気もする。しかし……僕には分からなかった。彼が何を伝えたいのかが。

「……つまり?」
「考えてみろよ。奴の武器は刀だ。だけど刀でぶった斬られたぐらいじゃあ、ここまで……それこそ分解レベルでバラバラになりはしねぇ筈だ。布の部分はどっかに風で飛ばされちまったのかもしれねぇが、それがくっ付いてねぇのも気になる」
「……確かに」
「つまりよ、奴の力……どうやら、心を殺すだけじゃあ無さそうだぜ」

 それに、と彼は言葉を続ける。

「アイツと会った時、俺のハートが何故か使えなかった」
「どういうこと?」
「どうもこうも、空間と空間が繋がらなかったんだよ。アイツの背中をぶん殴ってやろうとしたら、接続が切れて距離が短縮できなかった」
「調子が悪かっただけじゃない?」
「俺は浮辺の呼び出しに素早く答えるために、出来るだけハートの力を使って移動したんだぞ? それこそ駆け付けるのに三分かからない程度でだ。調子は万全だったぜ」
「それって、つまり」
「ああ、そういうことだ」


「ムカワのハートは、『人の心』だけじゃなくて『人のハート』すら殺しちまうって訳だ。俺達のハートは、奴のハートでいつでも解除可能、ってな」

 共也君の言葉は、何処か嫌々言っているようにも思えた。まるで、そんな事実を認めたくないと彼が思っているかのように。

 少しだけ話し込んでしまい、結局帰る頃には周囲は真っ暗になっていた。剣道部は今も尚続いており、現在最も『ムカワ』である可能性が高い武川小町さんもまた、学校に居る事になる。
 それを考えると、少しだけ背後の首元がヒヤリとした。少しでも落ち着こうと深呼吸をする。
 その瞬間、何かが振動するような音と、聞き覚えのあるメロディが聞こえて、一瞬飛び上がるように驚いてしまう。それが自分の携帯電話が着信を伝える音だという事に気がついたのは、数秒後の話である。

「自分のケータイに驚かされてどうすんだよ」
「……うるさい」
「はは、冗談だから拗ねんなよ」
「拗ねてないし」

 軽口を飛ばし合いつつも、ケータイの中身を確認する。どうやら電話が掛かっているようだった。だが少し驚きが手に残っていたのか、ぎこちない操作で応答ボタンを押そうとして、間違えて地面に携帯電話を通してしまう。

「ああっ!」
「おいおい、落ち着けって」

 共也君がひょいと拾い上げて渡してくれたのに礼を言いつつも、着信元を確認する。
 そこには深探観幸という文字があった。観幸の奴、もしかしたら僕らが話し込んでいる間に帰ったのかな、などと思いつつも、応答する。

「もしもし」

 だが、既にコールの音はなり止んでいた。つまり、僕が反応するのが遅くて電話が切れてしまったのだろう。
 掛け直す事も考えたが、重要な用事なら掛け直して来るだろうと思い、今度は取り落とさないぞと心に決めつつもそれをポケットに仕舞う。

「で、どうだった?」
「観幸からだった。でも切れちゃった」

 それから暫く歩いていると、特に何事も無くいつもの滝水公園まで辿り着いた。普通ならここで共也君と道は別れる。当然、今日もそうするつもりだった。
 だが、その着信音が僕をここに繋ぎ止める。
 それは共也君の携帯電話から鳴り響いていた。彼が僕のような失敗はせずに応答する。

「どうしたんだよ兄さん。こんな時間によ」

 口調からして、相手はどうやら兄である見也さんらしい。

「ああ? 俺が心配で? なんだよ気味ワリィ…………冗談だ。え? 貫太? そこにいるぜ?」

 その後も何回かやり取りをした後、彼らの通話は終わった。

「兄さんから、俺達が襲われてねぇか心配だったらしいぜ。ま、俺的には襲ってきてくれる方が願ったり叶ったりだけどな」
「そんな物騒な……」

 見也さんという人物が頭に思い浮かんだ事によって、少し前に思っていた疑問がふと浮かび上がった。

「そう言えばさ、なんでこの前、八取さんの場所に僕を連れて行って観幸は連れていかなかったの?」
「ああ、お前だけだからな。実際に関わってたのはよ。今の電話も、ムカワに顔を知られてんのが俺達だけだからかも知れねぇな」

 共也君のその言葉が、頭の奥の何かに引っかかるのを感じた。

 待て。本当にそうか?
 ムカワが顔を知っているのは、僕と、共也君と、見也さんと……。

「観幸だ」
「あ?」
「観幸もいる。あの日、八取さんの事件があったあの日、観幸は教会の外で僕らを待ってた。つまり、ムカワが観幸を見ていてもおかしくない」

 頭の中で、どんどん言葉が繋がっていく。そしてそれを、思考のままに吐き出していく。

「あそこは立ち入り禁止の場所だ。あそこに立っているのは明らかにおかしい。僕らの仲間だって思ったって不思議じゃない」

 嫌な予感がした。
 嘘であってくれと、携帯電話を取り出して、着信履歴から観幸にコールバックする。出てくれ、頼む。
 電話のコールが、一回、二回、三回、四回、ダメだ、まだ出ない。その後も、観幸が電話に出る事は無い。気が付けば相当な手汗をかいている事に気が付いた。
 ふとそこで、観幸から留守電が入っている事が分かった。急いでそれを押し、内容を聞き取ろうと耳元に当てる。

『貫太クン……ムカワは……違うのデス……ムカワでは……』

 ブツリ、と残酷な音が成り、留守電が終了した。
 親友の声だ。それは変わりない。
 まるでマラソンを走り切った後のような、疲れ切って死にそうな声ということを除けば、いつもの親友の声だった。

 気が付けば、僕は走り出していた。

「お、おい! 貫太! 待てよ!」
「観幸が! 観幸が!」
「落ち着け! 何がどうなってんだ!」
「離してよ共也君! 僕は、僕は行かなくちゃ!」

 共也君が肩を掴む。彼の力は強くて、僕の力では到底取れそうにもない。
 彼は少しだけ悩むような素振りを見せた後、首を縦に振った。

「分かった。俺も行く」

 そして、僕らは走り出した。
 共也君のハートによって、距離を省略し、少しでも早く移動する。視界が次々と移り変わり、酔いそうな気分になるが、今はそんなことを気にしている場合では無かった。

「こっちだ! あの信号まで飛んで!」
「おう!」

 観幸の家は僕が知っている。だから僕がナビゲートをして、彼らしき人物がいないかを確認する。

「何処だ……観幸……!」

 そして、観幸の家までのルートで、丁度三回目のジャンプを行った時だった。
 僕は、ようやく親友の姿を見つけた。

 路上で倒れた、その姿を。

「嘘だ」

 そんな馬鹿な。
 観幸だぞ? ミステリアスで、胡散臭くて、小柄で、滅茶苦茶で、誰よりも弱い癖に、誰よりも強いあの彼だぞ?
 近くまで力なく駆け寄ると、その姿がより鮮明に映し出される。彼の手に持ったルーペは、まるで金魚すくいの破れたポイのように、ガラスの部分がぶち抜かれていた。

「起きろよ」

 体を揺さぶりたくなるのを堪え、彼の頭上で言葉を繋ぐ。

「なぁ! こら! 置きろよ観幸! ホントは、ホントはお前は意識があって、僕を驚かせるつもりなんだろ!」

 ほら、ネタバラシしろよ。
 いつもみたいに、ルーペかざしながら、ドヤ顔でパイプを咥えてくれよ。自慢げな様子で、噂話を聞かせてくれよ。

「分かってるんだよ! なぁ! いい加減僕も怒るぞ! なぁ、観幸! 頼むから、起きて、起きてよ! お願いだからさぁ!」

 彼が起き上がって、自慢げな顔を見せることは、無かった。

「お前が居なきゃ……ダメなんだよ……!」

 僕の水で濡れた頬を、夜の風が冷たく撫でた。
 そして、僕の親友は、起き上がらなかった。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.52 )
日時: 2019/03/23 14:39
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「……ダメだ」

 共也君が観幸の体に触れ、首を横に振ってからそう言った。

「心が繋げねぇ。……十中八九、ムカワの仕業だな」
「…………」

 体中から、血液が抜けていくような、そんな感覚がした。体の内側からじわじわと熱が奪われていく。

「……なんで、観幸なんだ」

 気がつけば、頭の中の言葉を発していた。それは止まることを知らず、僕の意思に反して飛び出し続ける。

「僕や共也君なら分かるんだ。ハート持ちだ。でも……なんで真っ先に観幸を狙ったんだ。狙う必要なんて、何処にもないのに」

 その問いは、誰に向けたものでも無かった。
 当然誰も答えないまま、声は透けていった。



 次の日。
 僕はずっと、屋上で空を眺めていた。
 フェンスに壁を預けて、力を抜いて座っている。こうしているのが、一番楽だった。
 どうしてここに来たのかと言えば、観幸がいない教室が怖かったのかもしれない。一日二日、1週間程度なら分かるのだが、これがずっと続くと考えると、どうしようなく恐ろしくなって、気が付いたら教室を出ていた。行く宛もなくフラフラするのも何なので、屋上に来たのだ。
 共也君は居ない。彼は今日、学校を休んでいる。メールで連絡が来ていた。曰く、昼に心音さんのハートを試すらしい。もしそれがムカワの方角を指していれば、八取さんの線と観幸の線が重なる場所にムカワがいる。と言っていた。皮肉な話だ。友人を失ったからこそ、犯人の位置が特定できるのだから。

「はぁ……」
「貫太君」

 その声に、僕は空から顔を逸らして音源の方を向いた。

「……隣さん」
「どうしたんですか。そんな、溜め息なんてついて」

 そこには彼女──愛泥隣がいた。
 思えば彼女との騒動はこの屋上であったんだなと思い返す。壊れた後に共也君がハートの力で付けたらしいが、今では見分けがつかない。

「……何でもないよ」
「嘘ですね?」
「なんで、そう思うのさ」
「分かりますよ。貫太君の考えていることくらい。だって、私は貫太君の事が好きですから」
「……面と向かって言われると恥ずかしいんだけど……」
「もう知ってるから、いいじゃないですか」

 そう言って、彼女は僕の隣に座る。隣から少しだけいい匂いがするのを感じた。使ってるシャンプーに違いでもあるのだろうか。

「…………」
「…………」

 2人で黙って、その場にいる。不思議な話だ。お互い貶し合って、否定し合って、傷付け合ったのに、今はこうして2人きりで争う訳でもなくここに居る。

「貫太君」
「……何?」
「私の事、好きですか」

 その問いかけを耳にするのは、何度目だろうか。その問いに、僕は1度だって好きと答えた記憶は無い。そして、僕の回答は決まっている。

「嫌いだよ。君のことなんて」

 僕がそう返すと、彼女はにこやかな笑みを浮かべる。

「そうですか。ふふ、ありがとうございます」

 その言葉に、疑問しか持てないのは僕だけだろうか。

「どうして、お礼なんて言うの? 僕は、君が嫌いなんだよ?」

 彼女は僕の問いに、考える間もなく、キョトンとした表情で、まるで何当たり前のことを聞いているんだと言わんばかりに、こう返した。

「だって、貫太君が嫌ってくれるのは私だけでしょう?」

 彼女は、嬉々とした表情で言う。

「それって、私が特別って事ですよね?」

 その笑みに、不覚にも魅力を感じてしまった。

「狂ってる」

 自分を誤魔化すために、否定の言葉を述べる。

「はい、そうですよ」

 だが、彼女はそれを受け止める。どこまでも純粋で、綺麗で、濁った微笑みを崩さずに。
 おかしいのに、狂ってるのに、変なのに、どうして彼女は魅力的に見えるんだ。こんな風に、僕の胸を締め付けてくるんだ。

「なんで」

 どうしてそんなに、僕を苦しめて来るんだ。君は。

「なんでそんなに、君は僕に、有りもしない僕を求めるの」

 彼女は間違った幻想を抱いている。
 彼女がどんな僕に惹かれたのかは分からない。ただ彼女はどう考えても勘違いをしている。

「僕は、針音貫太は、そんな魅力的な人物じゃないんだよ」

 ああ。この際だから言ってしまえ。彼女に、僕の思うままをぶつけてしまえ。そしたら、きっと彼女も間違った事を言わなくなる。きっと、彼女の歪みも消えるだろう。そう思って、その場で立ち上がる。彼女も遅れて立つ。

「ホントは弱いんだ。意気地無して、ビビリで、弱虫で、泣き虫で、大切な友人の一人だって守れない。どうしようもないくらいの、負け犬なんだよ」

 みんなみんな、僕のことを強いなんて言う。だけど、それは間違いなんだ。
 結局、僕は無力だ。どうしようも無いくらい、弱いんだ。

「君が僕にどんなイメージを持ってるのか知らない。けど、隣さん。君は、僕に勝手な幻想を抱いてるよ」

「僕に、力なんて無いんだ」


 僕がそう言う。
 場に静寂が訪れる。風が吹いて、隣さんの髪がふわりと大きく揺れ、それが元の位置に戻った直後、ニッコリと一際大きな笑顔を浮かべて、隣さんはこう言った。


「殺しますよ?」


 瞬間、息をするのを忘れていた。
 慌てて息を吸い込む前に、首元に彼女の細腕が絡み付く。彼女は僕の後ろに回り込み、僕の右肩に頭を乗せた。じんわりと、嫌な汗が吹き出す。

「私は間違いはそんなに気にしないタイプですけど……今のは見逃せませんよ……ふふ」

 不敵な笑みの彼女によって耳元に息が吹きかけられ、変な声が出る。彼女の声は艶やかで、何処か心の底で怒っているような雰囲気があった。

「私は貫太君の事が好きです。だから貫太君の弱い所なんて全部知ってます。勿論貫太君の弱い所を指摘されたところで、私は怒ったりしません。ですけど……」

 彼女が一呼吸置いてから、言葉を繋げた。

「強い所まで弱い、なんて言うのは許しません。全否定なんて認めませんよ? そんなことを言う人は殺してあげます」


「例えそれが、貴方自身でも」

 きっと何の嘘偽りも無いであろう彼女の言葉が、心の奥底まで響いていく。殺す、という単語にすら、決して不純物は含まれていない。

「今回は許して上げますね。ふふ……次は、無いですよ?」
「……あ、ありがと……う」
「もっと自信を持って下さいね? 私の好きな貫太君」

 そう言って、彼女は僕を放して屋上から出て行った。今思えば、あれは彼女なりの励ましだったのかもしれない。正直、死ぬかと思った。

「……頑張らなきゃ」

 だが、熱は入った。両頬を自分で叩いて目を覚ます。そうだ。今は落ち込んでいる場合じゃない。2人を取り戻す為にも、なんとかムカワの正体を突き止めなきゃいけないんだ。
 丁度そこで、ポケットが振動するのを感じた。取り出すと、一件のメールが入っている。着信元は共也君のようだ。

『ムカワは間違い無く俺達の学校にいる。
 詳しくは明日話す。今日は気をつけろよ』

 そのメールを読んで、僕はフェンスから校舎を見つめた。

 ──この何処かに、ムカワがいる。

 気がつけば、フェンスの金網を強く握り締めていた。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.53 )
日時: 2018/06/28 22:34
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 僕が行動の先として選んだのは図書室だった。彼女がいるかどうかは賭けのようなものだが、行かないよりはマシだ。
 一階に降りて図書室の扉に手を掛ける。その時、窓から貸し出しカウンターに座る彼女を見つけることが出来た。入って一直線に、彼女の方へと向かう。

「あの、乾梨さん」
「……ああ……昨日の……えっと……」
「僕の名前は針音貫太。観幸のクラスメイトだ」
「その……あの……わ、私に……何か用事ですか……」

 相変わらず消えそうなくぐもった声で、目を合わさずにそう言う彼女。後ろめたいとかそういう訳ではなく、単純に性格の問題だろう。もっとも、知らない人から声を掛けられて挙動不審になるのも当たり前とも言えるが。

「昨日の事について、聞かせて欲しいんだ」
「……?」
「実はさ」

 適当に、深探観幸が夜に電話を掛けても出てくれなかった。今日学校にも来なかった。昨日の夜何かあったのかもしれない。と若干の虚偽を含んだ話をする。

「……え……?」
「多分君しかいないんだよ。観幸が昨日、いつごろ帰ったのかを知ってる人はさ」
「その……あ……」

 しかし、僕が食い気味だったせいか、彼女は俯いて黙り込んでしまう。もしかしたら、間違えられないという心理を働かせてしまっているのかもしれない。それで間違いを恐れて黙り込んでいるとか。
 少しだけ、自分を落ち着かせる。いけない。僕が焦ってどうするんだと言い聞かせる。

「ああ、僕達が来てからどの位して帰ったのかとかでもいいから」

 そう言うと、彼女は俯きがちにこう答えた。

「確か……あの後すぐに……思ったよりも簡単に出来たので……」
「……僕達より先か」

 観幸は僕達の後ではなく先に帰っていた。つまり、僕達が学校を出る頃に、まだ居残りしていた生徒がムカワである可能性が高い、という事だ。無論、観幸をどこかで待ち構えていた可能性もあるが。
 そっか、と言って、カウンターから一歩引いた時、彼女の右手が目に入った。何か白い包帯のようなものに軽く包まれている。

「右手どうしたの?」
「……あ、右手、ですか……」

 彼女は自分の右手首を左手で持ち上げつつ答える。

「これは……昨日……転んで痛めたんです……鈍臭いんです……私」
「ああごめん、そういう事じゃないから!」

 少しだけ落ち込んでしまったのか、どんよりとした声で話すものだから、慌てて弁解する。思考がネガティブに向かいやすいのだろうか。

「あっ……すみません……すぐに謝っちゃって……」
「いやいやいやいや、言ってるそばから謝ってるってば」
「……わ、私が……こんな性格だから、深探君にも、迷惑が……」

 彼女が僕の言葉を聞いているのかどうか怪しい。一度自己嫌悪に陥ると中々抜け出せないのだろうか。何にしろ良い傾向とは言えないだろう。

「落ち着いてって。誰も責めたりなんてしてないから」
「土曜日も……無駄に使わせちゃったし……うう……」

 土曜日、とはあの日、丁度心音さんや青海さんと出会った日の事だろうか。と、するなら、観幸は浮辺君が襲われたあの日に登校していた事になる。まあ割とどうでもいい情報だったので気にしないことにする。

「他に何かない? 観幸の事とかで」
「……あ、そう言えば……これ……」

 彼女がカウンターの下に置いていた何かを片手で持ち上げた。どうやらビニール袋らしく、中には何かしらの固形物が入っている。大きさは手のひらサイズかそれより少し大きい程度だ。

「……今日、深探君が来たら……えっと……渡そうと思ってたんです……」

 それを僕の方に遠慮がちに差し出してくる彼女。受け取れ、ということだろうか。黙ってビニール袋を受け取り、中身を覗く。

「これ……観幸のパイプじゃないか……」

 ビニール袋から取り出して見てみる。形や色からして、普段彼が持ち歩いていた空っぽのパイプだ。どこぞの探偵に憧れて持ち始めたのか、探偵っぽさを求めて持ち始めたのかは知らないが、彼のトレードマークの一つであることには違いない。

「どうしてこれが……?」
「えっと……多分……昨日……深探君が忘れていったので……持ち帰っておいたんです……」

 観幸も物忘れをしたりするんだな。なんて思いつつも、パイプを改めてじっくりと眺めてみる。

「ほ、他は……あんまり……深探君については……」
「いや、ありがとね。ごめん、急に押しかけちゃって」
「……あっ、その、迷惑とかじゃ……」

 慌てた様子となり、挙動がおかしくなった彼女。制止すると、彼女はカタカタと震える指でメガネの位置を直そうとした。当然直るはずもなく、むしろ思いっきり落としてしまう。

「落ちたよ」

 それを膝をついて拾おうとする。手に取ってみると、地味で何処にでもありそうなメガネだった。が、レンズにはかなりキツイ度が入っていることが分かった。逆に見えないんじゃないかと思うレベルで。

「ご、ごめんなさい」
「だから大丈夫だよ。……目、悪いの?」
「へ?」
「ああいや、メガネの度がかなり大きかったから……」
「……はい。目、悪いんです。メガネがないと人の顔とかイマイチ判別出来なくなって」

 その会話を最後に、特に目立ったこともなく、休み時間終了のチャイムによって、僕は図書室を後にした。そして、少しだけ重たい足を引きずって、教室へと向かう。僕の親友の姿が、抜け落ちた場所へ。

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Re: ハートのJは挫けない ( No.54 )
日時: 2018/06/30 18:48
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 その後特筆すべきことは無く、そのまま放課後になる。共也君が居ない今、遅くまで残っていても殺されるだけだと考え、早いうちに帰宅する事にした僕。リュックサックをかるって校門を出る。

「貫太君」

 が、すぐそこで声を掛けられた。聞き覚えのある声だ。低く、重たい男性の声。名前を呼びつつ、振り返る。

「見也さん?」

 そこに居たのは友松見也、共也のお兄さんだった。季節の変わり目を感じさせない相変わらずの灰色スーツ姿。出会った時から何も変わっていないような気がする。無論、毎日洗濯はしているだろうが。

「話がある。来てくれないか?」
「……えっと……はい」

 真剣な眼差しに、一瞬だけ怯まされた。そして曖昧な返事を返す。鋭い目付きは健在のようだ。
 彼の背後についていく僕。その背中はどこまでも大きく感じ、これについて行けば取り敢えず安心だと思わせる雰囲気があった。それ程までに、それは確信に寄った自信のようなものに満ち溢れていた。

「……そのビニール袋、どうした?」
「ああ、実は──」

 彼に今日、乾梨さんから聞いた事を説明する。そして観幸のパイプを渡しておいた。もしかしたら、彼が何か調べてくれるかもしれない。

「話がある、と言ったな」

 彼が突如として、その歩みを止めた。そして振り返り、僕を見下ろすような姿勢になる。彼の身長と僕の身長では、約40センチも差があるのだから当たり前といえば当たり前だ。

「君に、まだハートに付いて詳しく説明して居なかった事に気が付いてな」
「……そういえば」
「共也は今、とある事情で居ない。従って俺が説明に来た、という訳だ」

 とある事情、というのも若干気にはなったものの、僕は見也さんが直接出向いてきた事に驚きを感じてた。
 なぜなら、今日出てくる必要は無いからだ。明日共也君から説明してもらえばいい。なのに彼は、わざわざ僕の帰りを待って居たのだ。これは重要な話なのだと、今更悟る。

「……歩きながら話そう。こんな所で立ち話していては、俺の腕に手錠が嵌りかねん」

 今どきは厳しいからな、と愚痴るように零す彼。そういう経験でもあったのかと邪推したが、聞くのは止めておく。見也さんの地雷だけは踏みたくない。

「では、君はハートについてどこまで知っている?」
「えっと……人の心が外に出てきたもの、でしたっけ」
「間違いではない。ただ、少し定義不足だ」

 僕の言葉を受けつつも、彼は返す。

「ハートの力は人間の心を媒介とした異能だ。不思議な力、と言い換えるのも間違いではないだろう。それは必ず自他の精神に影響を及ぼす力だ。そして、それは必ずハート持ちの性質によって力が決まる」
「性質……?」
「そうだ。例えば君のハート、《心を刺す力》に関しても、俺が持つのと君が持つのでは大きく性質が変わるだろう。そして、それは性質だけの話ではない。ハート持ちの意思の強さによって、ハートもまた強力なものとなる。丁度、君を絞め殺そうとした愛泥隣のようにな」

 確かに、僕を鎖で縛り付けた時の隣さんのパワーは有り得ないほど強かった。それこそ金属製のフェンスを絞め切る程に。

「そして、ここからが本題だ」

 彼の目が、こちらを値踏みするかのようにじっくりと見詰めてくる。
 大男から見下された時の重圧と言ったら、言い表しようがない。無意識の内に呼吸が早くなっているのを、先程ようやく気が付いた。

「君は、まだ戻る事が出来る」
「戻る……?」

 僕の復唱に、ああとだけ返す彼。戻る事が出来るとはどういう事だろうか。などと一人で頭を捻っていると、彼が僕に言い聞かせるように言った。

「君は、まだ俺達と出会う前に戻る事が出来る。ハートの力なんてものは知らない、一般的な生活に、だ」

 僕はその言葉で理解した。つまり、僕に警告しているのだ。
 これ以上深入りすれば、もう戻れなくなると。

「君は理由を持っているか。争い合う理由を」
「理由……?」
「そうだ。ハートの力は本人の意志によって強弱が決まる。そして意志を強化するのは理由だ。理由無しに頑張れる人間など居ない。ハート持ちでは、理由を持つ者と持たない者の差は大きいという事だ」

 一呼吸おいた彼が、かつて無いほどの鋭い眼差しでこちらを睨み付けてきた。その目力に、思わず目を瞑りたくなるが、寸前で堪えてなんとか目を合わせる。

「もう一度聞く。君に、理由はあるか。他者と争う理由が。ハート持ちと、争う理由が、君にはあるか」
「……それは……」

 喉の奥で、言いたい事がつっかえている感覚がした。何かを言わなければならない気がするのに、それが言葉という実体になって現れない。いつまでも雲のようにぼんやりと、頭の中を漂っている何かがあるだけだ。

「僕は…………」
「…………」

 見也さんは何も言わない。ただじっと、僕の回答を待っている。
 僕はと言うと、何も言うことが出来なかった。何故なら自分に理由などは無いからだ。他人に引きずられ、巻き込まれた結果が全てだ。僕からの自発的な行動など、ほとんど無い。無論、理由なんて大層なものは僕には無かった。

「理由は…………」
「…………」

 彼の前では嘘を吐けない。僕はそう感じた。彼の前では嘘偽りが通用しない。上辺だけの理由なんて、言葉にするだけ無駄に思えた。

「…………無いです……」

 だから僕は、飾らない答えを出した。そう、僕には理由が無い。彼が求めるような理由など、何一つ無かった。

「……なら、去るんだ」
「……え?」
「意志の無い人間が、あの殺人鬼に抵抗できるとは思えない。ハッキリ言おう。意志のない君が居ても、邪魔なだけだ。もう一度言うぞ」

 彼は僕に背を向けた。まるで、こちらを見る価値は無いと言わんばかりに。僕の存在に、意味は無いと言わんばかりに。
 いや、もしかしたらそれは、彼なりの別れ方だったのかもしれない。綺麗さっぱり、僕が諦められるように。

「君は、まだ戻る事が出来る」

 どこまでも冷たい声で、彼はその言葉を言い残した。
 それは僕の心の深くに染み込んで、体の熱を奪っていった。





「貫太?」

 僕はずっと考え込んでいた。

「おーい」

 見也さんに言われた事を。彼の言葉が、僕の頭の中でフラッシュバックする。

『意志のない君が居ても、邪魔なだけだ』

 そんな事は、薄々気が付いていた。僕は自分の意志で何かを行う事が少ない。それは今更の話かもしれないし、僕のこれまでの気質でもあるのだから、簡単に変えることは出来ないだろう。
 しかし、僕は理由を見つけない限り、共也君の隣に立てない。親友の為に、動くことは出来ない。腹立たしくも、見也さんの言葉は何一つ間違っていない。そして否定出来ない僕が、ただただ悔しかった。

「おい、コラ」

 肩を叩かれ、そこで漸く誰かに呼ばれていた事に気が付いた。慌てて背後を振り返ると、見慣れた友人の姿。

「きょ、共也君……」
「うす。今日は学校に行けなくてすまなかったな。それで、何かあったか?」
「……特に……」

 見也さんに話したのだから、その内彼にも伝わるだろうと考え、敢えて話さない事にした。何より、今は目の前にいる友人と顔を合わせたくなかった。自分には無い意志を持っている彼が、羨ましくて、妬ましくて。

「そうか。こっちはよ、少しだけ、発見があったぜ」

 そう言って共也君が僕に差し出したのは、1枚の写真だった。手に取って見てみると、破れた金魚すくいのポイのように真ん中が破れたルーペが写っていた。恐らく、御幸のものだろう。

「……これがどうしたの?」
「ここ、よく見てみろよ」

 彼が指さした場所。金属製の淵の部分だ。模様ではない、何か小さな色が付いている。よく見てみると、赤っぽい。

「これ、血だ」
「血?」
「そうだ。そして、観幸の傷は打撃痕みてぇなもんだけ。切り傷とかの出血は一切ねぇ。つまり」
「この血はムカワのものってこと?」
「ああ。そして、このルーペの割れ方から察するにムカワのハートじゃねぇ。もしムカワのハートでぶっ壊したなら、跡形もなくバラバラの筈だぜ。つまり、これは観幸が壊したって事だ。ムカワをぶん殴ってな」

 まさか観幸は抵抗していたのだろうか。あの凶悪な殺人犯に。彼もまた、それだけの強い意志があった訳だ。ハート持ちでも、何でもないのに。
 なんで、皆そんなに強い意志を持ってるんだ。
 羨ましいさ。妬ましいさ。悔しくて歯痒くて、自分が嫌いになりそうだ。

『意志のない君が居ても、邪魔なだけだ』

 再び、あの言葉が脳内に響く。

「──てわけで、早いとこムカワをぶっ飛ばして、皆を助けようぜ……おい、貫太?」
「ごめん、共也君」

 気がつけば、僕は彼の言葉も聞かずに走り出していた。

「お、おい待てよ!」
「来ないで!」

 無我夢中で放ったその言葉は、いつの間にかハートの力を纏っていた。僕の言葉がそのまま刻まれたナイフが、共也君の胸に突き刺さる。

「ぐッ! お、おい! どうしたんだよ! 貫太ァ!」

 彼の言葉が聞こえないように、耳を塞いで僕は彼から逃げるように、来た道を引き返した。ただ逃げたかった。自分という存在から、彼という存在から。このどうしようもない苦しみから。
 この気持ちを彼に話せば、少しは楽になれたのかもしれない。吐き出せば、落ち着いたかもしれない。だが、彼には絶対に分からない。強い意志を持つ彼は、弱い意志しか持たない僕の、この気持ちがわかる訳が無いのだ。
 景色がグルグルと回るような気分だった。ひたすらに走り続けた。汗で服がへばりつくのを感じたが、余計に涼しさを求めて走り続けた。ただずっと、この胸の痛みで心の痛みを誤魔化したかった。

 だが当然、限界は来る。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 気が付けば、僕はあの場所に居た。観幸が倒れていた、あの場所に。家と思いっ切り反対方向に突っ走っていたことを、今更認識する。既に日は落ちて、真っ暗になっていた。余計、あの日と同じ情景だ。

「なぁ、観幸」

 僕は昨日、親友が倒れていたであろう場所に顔を向ける。そこに誰か居る気がして。友人が居座っている気がして。

「教えてくれよ。いつもみたいに」

 やけに視界がぼやけると思ったら、涙を流していた。いつの間にか何粒も何粒も、僕の頬を伝っては、その場に落ちていくだけ。

「どうして」

 僕は、親友に聞きたかった。
 前みたいに、自慢げな声で、自信満々の回答をして欲しかっただけだった。

「僕は、こんなに弱いんだ」

 涙混じりのその声は、正しく負け犬と呼ぶに相応しかった。




「教えてあげますわ」

 だが、返ってきたのは。
 この世で最も聞きたくない声での、回答だった。

「それは貴方がぁ」

 咄嗟に音源の方を振り向いた。その声が、聞き違いであることを信じて。
 だが──生憎、それだけは真実だった。

「ネ、ズ、ミ、だからですわぁ」

 黒ローブ姿の殺人鬼が、刀を構えて楽しそうに笑っていた。
 僕は同じように、笑い返す。
 僕史上、最も乾いた笑いを。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.55 )
日時: 2018/07/01 13:32
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: O/vit.nk)

 目の前にいるそれ。どうしてここに居るのかは知らない。何故ここに居るのかも知らない。
 ただ、今彼女がここに居て、僕を狙っている。それだけが確かな事実だった。

「ふふふ……」

 左手で刀をぶら下げている彼女。フードに包まれた頭からは、口角が釣り上げられた口元が覗く。

「随分と……コソコソコソコソ……ネズミのように、嗅ぎ回ってくれましたわねぇ?」
「……」
「あら? あらあら? あらあらあらあらあら?」

 彼女が顔を90度傾ける。途中で嫌な感じの音がしたのも、きっと彼女の首からの音だろう。倒れた首のまま、言葉を続ける。

「何も、言わないのですねぇ?」

 彼女の煽るかのような口調。普段なら、怒ったり、叫んだり、嘆いたりしたんだろう。

「……さっさと殺せよ」

 だが、今の僕では彼女の言葉にリアクションすることが出来なかった。

「……あら?」
「もう、殺せよ」
「へぇー……ふむふむ……そうですかぁ」

 彼女はそのまま数十秒間停止していた。直後、顔を元の角度に戻しつつもこう言った。

「つまんねぇ奴だな」

 どうして、お前がそう言うんだ。
 僕は内心期待していたのかもしれない。喜々として僕を殺しにかかってくるであろうムカワに、期待していたのかもしれない。いや、きっとそうだ。僕は誰かに必要とされたくて、ムカワにすら求められたかったのかもしれない。
 だがどうだ。目の前の殺人鬼は、僕をつまらないと評した。フードの下の口元は、打って変わって口角が下がっていた。

「……」
「こちとら木偶の坊斬る趣味はねぇんだよ。さっさと抵抗しな」

 ムカワが左手に持った刀の先端をこちらに真っ直ぐと伸ばしてくる。が、僕は何もしない。今回は何もしないわけでも、出来ないわけでもない。
 しようとすら、思わなかった。

「どうせ僕なんか、誰も必要としちゃいないんだ」

 ああそうだ。なら一層の事、ここで殺されてしまった方が、皆の助けになるに違いない。

「……イライラさせんじゃねぇよ」

 ムカワの怒りの声と共に、僕に刀が振り下ろされた。僕はそれを見つめるだけで、避けようとも、防ごうともしなかった。ただこれで楽になれるのかと、少しだけ気持ちが軽くなった。

「ネズミ未満だな、テメー」

 その言葉と共に、僕の意識は黒の底に沈んだ。


 筈だった。

「止まりなさい」

 声が響いたと思えば、突然ムカワの刀が停止した。それどころか、僕もロクに身動きすることが出来ない。息などは出来るが、体そのものがその場に固定されているような感覚を覚えた。

「クソチビ、私の嫌いな3つ言葉を教えてあげる」

 その声の持ち主は、小さなシルエットと共に、この場に姿を表した。電灯の光で、その姿がはっきりと映し出される。

「どうせ、無理だ、不可能だ。この3つは人間を縛る言葉。自らの心を縛る言葉よ」

 2つに結われた黒い髪が、風でふわりと揺れる。そのキツイ目つきの彼女は、心底呆れたような表情でこう言った。そこには、以前であった時のキンキン騒ぐ女の子といった印象はどこにも無い。むしろ、冷たく尖った雰囲気を纏う女性といった感じだ。

「アンタ、ホントにチビね」
「な……なんだよ。急に。君の方がチビじゃないか」
「敬語に関してはとやかく言わないわ。そっちの方が気楽だしね。それと、私が言ったのは外面的な意味では無いわ」

 漸く体の痺れのようなものが取れたので、ムカワからゆっくりと距離を取った。向こうはこちらを見ているだけ。僕達の話に、少し興味があるのか。それとも僕が抵抗の意志を示すまで、まち続けるつもりか。

「外面的じゃない……?」
「そう。私が言ったのは、アンタの中身の事を言ってんのよ」

 彼女は僕の胸ぐらを掴んで引き寄せる。そして睨み付けられた時、容姿と威圧感のギャップもあって、怯んでしまう。その瞳の中に、一瞬だけ見也さんを思い出す。やはり、彼女は友松家の人間なんだと改めて実感する。

「私はアンタのことなんて全く知らない。ええ知らないわ。だけどね」

 彼女の手の平が、僕の頬をひっぱたいた。
 それは対して痛いものではなかった。物理的には、何回もそれ以上の痛みを受けたはずだった。
 だが、その手は他の誰よりも痛かった。僕の心に直接響く痛みだった。

「悩みの一つや二つでクヨクヨしてんじゃないわよ。壁の一つや二つくらい、ぶち壊してみなさいよ。だからアンタはチビなのよ」

 彼女の言葉は、僕の心によく響く。何故かは分からないが、彼女の言葉には感情そのものが詰まっているような気がした。だから分かる。突き放すような言葉であろうと、それは僕を傷付けるためのものでは無いのだと。

「心音さん」
「何よ」

 無意識の内に、僕はこう言っていた。

「ありがとう」
「……フン」

 彼女は僕の胸ぐらを乱暴に突き飛ばすかのように離した。そしてムカワに向き直り、こう言った。

「少しは、マシな面構えになったじゃない」

 彼女の言葉に、思わず頬が緩むのを感じた。

 確かに僕には理由が無い。意志が無い。強さが無い。ハート持ちとしても弱い。これらは否定のしようがない事実だ。
 でも、だからと言って、何も出来ない訳じゃない。例えちっぽけな小さな負け犬でも、噛み付くくらいは出来るはずだ。

「……ムカワ」

 僕の声音の変化に気が付いたのか、彼女は再び口元を吊り上げた。

「皆を返してもらうぞ」

 僕の言葉の後に静寂が訪れる。ムカワは自分の体を抱きしめるように、腕を交差させて右手で左肩を、左手で右肩を掴んで体をわなわなと震わせている。多分、これは怒りとか恐怖とかそういう類ではなく。

「ふふふ…………感謝しますわぁ。メスネズミさん。これで心置き無く……ネズミ駆除が出来ますわぁ!」

 抑えきれない、興奮から来るものだろう。

「あら、人がネズミにしか見えないなんて、大層目が悪いのね。良い眼科を紹介するわ。もっとも、貴女の目はそこでも治せないと思うけどね」
「ふふ、口がお達者な事。でも私はぁ」

 ムカワが左手を掲げると、そこに刀が出現した。やはりハートの力で作られたものだったのだ。

「こちらの方が得意ですわぁ!」

 そして刀で切りかからんと踏み込み、猛スピードで突進してきた。狙いは僕ではない。心音さんだ。

「くッ! 止まれ!」

 ハートの力でナイフを射出。文字は僕の言葉通りだ。間違いなくムカワに当たるコース。これで防げるかは相手に僕のハートが通じるかどうかにかかっている。

「邪魔ァ!」

 ムカワの刀が、僕のナイフを軽く切り捨てる。いや、切り捨てるというよりは、刃と刃が衝突した瞬間、バラバラの粒子となって僕のナイフが消え失せた。やはり、彼女の刀はハートすら殺してしまうようだ。

「止まりなさい」

 心音さんの声が、不思議とその場によく響く。先程と同じようにムカワが停止するのと同時に、僕も停止してしまう。
 が、今度の停止時間は短かった。ムカワから心音さんが距離を取った所で、停止が解ける。ムカワの突撃は失敗に終わった。

「貴女のハート、声で命令する力ですわね?」
「さぁ?」

 ムカワの発言に興味なさげに返す心音さん。確かに、それなら先ほどの不可解な停止にも納得が行く。

「チビ、耳を塞ぎなさい」

 僕にしか聞こえないくらいに、小さな声で彼女はそう言った。それに逆らう事も出来ず、耳を塞いだ僕。
 何が起こるんだと彼女を見ていると、深呼吸するかのように、肺の中に気体を詰め込んでいく。そして耳を塞いで、彼女が顔を勢い良く地面に向けて、何かを叫んだ。

 瞬間、音が消えた。
 いや違う。限りなく高い音が聞こえる。
 普段の高いなんてものじゃない。人間の聞き取れる限界の高い音。それも大音量で。思わず手を離しそうになるが、ここで離したら一巻の終わりだと歯を食いしばって音に耐え、手を頑なに耳に押し当て続ける。
 それから数十秒が経過し、漸く音が鳴り止んだ。耳を塞いでいても死にそうな程に辛かった。まだ余韻のように、耳の奥であの音が響いているような錯覚に陥っている。

「……うっ……」

 地面に顔を向けたままの心音さんが、そのまま頭を押さえて膝を付いた。慌てて駆け寄る。

「だ、大丈夫ですか」
「平気よ。少し頭が痛いだけ」

 ハートを使い過ぎたわ、と何気なく呟き、再び瞳に強い色を灯して立ち上がる彼女。見据える先には、ムカワがいる。地面に大の字で倒れ付したムカワが。あの大音量を聞いたのだ。気絶どころか死んでしまっていても不思議ではないと思えた。

「……終わったのかな……?」
「──チビ! しゃがみなさい!」

 僕が呆然と突っ立っていると、彼女の声が再び響いた。強制的にしゃがまされる僕。なんだと思っていると、丁度僕の首があった高さを、刀が超高速で通り過ぎていった。

「ひっ……!」
「……ふふ……危なかったですわぁ……」

 ユラリとローブ姿の殺人鬼が立ち上がる。

「そんな……!」

 彼女は耳を塞いでいなかった筈だ。間違いなく、心音さんのハートによって、間違いなくあの大音量の超音波を食らったはずだ。

「私のハートの具現化が……通じていない……」

 驚いたような表情を初めて見せた心音さん。それを見て満足げな表情を浮かべるムカワ。手元には先程投げた筈の刀が再び出現している。
 刀を見て、まさかと思った。

「あと一瞬だけ遅れていたら」

 あの刀の性質は、確か。
 刃に触れたものを、無差別に殺す。

「『音』を殺すのが、あと一瞬だけ遅れていたら、私はどうなっていたんでしょうかねぇ! フフフ、ハハハハハ!」

 心底愉快そうな笑い声を垂れ流す彼女。音を殺すなんて、そんな馬鹿けたことが出来るのか。彼女のハートは。
 ハートの力は意志の力だ。つまり、彼女の意志はそれだけ強いということ。音なんていう非生物すら殺してしまうなんて、余程意志が強くなければ、不可能なんじゃないか。

「なんで」

 僕には分からなかった。

「なんで、貴女の意志はそんなに強いのに、殺人鬼になんてなったんだ」

 こんなに強い意志を持つ人が人を殺めるのか。

「それは単純な理由ですわぁ。だってぇ」

 彼女はゆっくりとこちらに歩み寄る。

「いたぶるのか、最高に昂るからですわぁ!」

 そして、こちらを切るぞと宣言するかのように、刀を左手で構えた。

「さ、させるか!」

 『止まれ』と刻まれたナイフを放つ。だがそれでは、すぐにムカワの手によって弾き返されてバラバラに玉砕される。

「あたりませんわぁ」

 そう言っている間にも、彼女はどんどん近付いてくる。やばい。背中に冷や汗が噴き出すのを感じた。

「チビ、30秒だけ、持ちこたえられるかしら」
「な、なんで!?」
「頼むわよ」

 心音さんが、僕の数歩後ろに下がった。そして、地面に手を当てて何かをしている。ちょっと待ってくれ。僕のハートでは、ムカワを止めることが出来ないんだぞ。

「う、うわぁぁぁぁ!」

 ヤケクソになってもう1度ナイフを放つが、やはり簡単に弾かれる。これじゃあダメだ。こうしている間にも、僕とムカワの距離は着々と狭まっていく。

「ネズミ未満の貴方はぁ、アリンコのように踏み潰されるのですねぇ! アハッ!」

 僕がアリだと宣う彼女に、僕は何も出来ない。何か、何かしなくてはと考える度に、どんどん思考が回らなくなるのを感じる。

「あと20秒!」
「そんなぁ!」

 既に距離は近い。20秒なんて時間では、幾らムカワがゆっくり歩いているとは言えど、簡単に入られてしまうだろう。ここは何とか、僕が持ちこたえるしかない。

「チビ! アンタにはアンタなりの、アリにはアリの戦い方があるわ!」

 アドバイスか何かは知らないが、心音さんの声が後ろから飛んでくる。そんな事言われても、分からない。大体アリの戦い方ってなんだ。アリ1匹じゃ、どうしようもないだろう。

「……待てよ。1匹じゃどうしようもない……」

 待て。そもそもアリは1匹で戦う生き物か?
 いや違う。彼らは軍団で戦う生き物だ。軍団として初めて脅威となる生物だ。彼らの戦い方は、数で押す事だ。

「……これなら!」

 僕はハートの力でナイフを作り出す。刃に刻まれているのは『止まれ』。またかとムカワが刀を構える。
 アリは1匹で戦えない。ナイフは1本では通じない。

「まだだ! もっとだ!」

 ならば、アリは数で押すべきだ。
 ナイフの数も、増やすべきだ。
 僕の周囲に次々とナイフが現れる。

「もっとだ! もっともっと!」

 頭の中が焼き切れそうな感覚がする。だがまだ増やせる。少しずつだが、ナイフを増やす。そうして限界と感じたところで、僕は改めて周囲を確認した。

「なっ──」

 ムカワが驚いたような声を上げた。無理もない。僕の周囲には、20本程のナイフが浮かんでいるのだから。

「これが──」

 そのうちの1本を掴み、丁度目の前にいるムカワに投げ付ける。

「アリの戦い方だぁぁぁぁッ!」

 それに釣られるようにして、全てのナイフが、ムカワに発射された。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.56 )
日時: 2018/07/03 16:46
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 数々のナイフ。およそ数は20。一斉にムカワ目掛けて走り出していく。
 初めて、ムカワの口元が焦燥を見せた。

「……ぐッ!」

 左手で刀を振り、次々とナイフを殺していく。粒子と消える大量のナイフ達。だが、幾ら彼女とは言えそこまで高速で刀を振れるものか。ましてや片手だけで。
 水に濡れた彼女の手から、刀の柄がすり抜けた。

「しまっ──」

 残りの数本のナイフが、ムカワに突き立つ。刻まれた文字は『止まれ』。その言葉通り彼女は一歩も動かなくなった。

 のも一瞬だけの事であった。整備されていない錆び付いた年代物のオンボロ機械のように、彼女の腕がギリギリと音でも立てそうなくらい歪に動き、再び彼女の手元に出現した刀で、一つのナイフを殺した。

「結構……効くじゃねぇか……ネズミィ!」
「な、なんて意志の力だ! 僕のハートの力を精神力だけでねじ伏せるなんて!」

 このままでは全てのナイフが殺されて、彼女は鎖から解かれた狂犬のようにこちらに突撃してくるに違いない。

「もっとナイフを飛ばす!」

 殺されるならナイフを作ればいい。消される度に追加すればいい。それに気がついた僕は名案だと手元にナイフを作ろうとした。
 だが、何度作ろうとしても、その場には何も現れない。

「な……なんで……?」

 何故か知らないがナイフが作り出せない。
 もしかして、これが限界というものだろうか。僕は今までナイフをせいぜい数本生成する程度だった。だから自分の限界は知らなかった。つまり、僕が一度に作り出せるナイフの数は20。そして、リセットされる時間を僕は知らない。

「しまった!」

 だが後悔しても遅い。着々と、ムカワがナイフを処理し、遂に刀が最後の1本に触れた。バラバラに砕け夜に消えるナイフ。

「ハッ、これで終いだァッ!」

 一瞬にして距離が詰められ、刀が横に薙がれる。その軌道上には、僕の体。
 刀が、通り抜けた。

「良くやったわ。チビ」

 僕の目の前を。

「後は任せなさい」

 後ろから、心音さんが僕の服を引っ張ったのだ。そのまま受け止められる僕。彼女は僕をゆっくりと座らせると、ムカワと相対する。その小さな背中が、とても大きく逞しく見えた。

「また音か? もうテメーのハートは見切った」
「これだから早とちり女は嫌いなのよ」

 やれやれとため息を、わざわざジェスチャーまで加えて行う彼女。明らかに煽っている。

「まあ、ホントはアンタみたいなアバズレに使うのは嫌なんだけど……とっておきを見せてあげるわ」

 彼女がそう言って、自分の胸に片手を当てた。瞬間、そこが緑の光を放つ。前のように束状の光ではなく、放射状に広がる一瞬のものだった。

「今度は目眩しかよ! 効かねぇなぁ!」
「どこまでも哀れだわ。アンタ」
「避けて下さい! 心音さん!」

 刀を投げたムカワ。それが心音さんに向かって空を駆けるが、彼女は一歩も引かないし、避けようともしない。
 代わりに、彼女は指をパチンと鳴らして一言、こう言った。

「来るのよ。テディ」

 次の瞬間、彼女の目の前に、地面から何かがせり出てきた。それは地面と同じような色をしていて、まるで……人の腕のようだった。しかしそのサイズは以上で、今出ている腕だけでも縦は心音さんと同じくらい大きい。横は二倍以上ある。
 地面から突き出たそれに刀が突き刺さる。心音さんは守られたが、案の定手はバラバラとなりその場に崩れ去った。その一つが僕の目の前に転がる。拾ってみると、感触に覚えがあった。

「つ、土だ! さっきの巨大な手は土で出来ていたんだ!」

 だがそれでは訳が分からない。彼女のハートは《心を聴く力》のはず。音の増幅や音を心に響かせるならまだ関連性を見いだせるが、土人形とは流石におかしすぎる。

「土細工……?」
「アンタは勘違いしてるようだから、教えて上げる」

 彼女がそういった瞬間、僕の手の土が勝手に動き、心音さんの目の前に戻っていく。そして周囲から集められた土が形を成していく。

「私のハートは《心を聴く力》。他人の心の声を聴き、具現化することで他人に音を聞かせるようになる。音の増幅とか命令はその一部」
「……オイ、これはちげぇだろ。具現化とか、そういうレベルの変化じゃねぇ。完全に別のモンだ」

 そして、土が形成を終えた。
 そこには、全長5mもある、歪な人形の土人形が出来ていた。歴史で習った土偶や埴輪のようなものを思い出してしまう。そして、それらと一つ確かに違いが分かる点は、

「そうよ。だって、私は自分のハートが一つなんて一言も言ってないわ」

 それが、動くという事だ。

「テディ、潰しなさい」

 テディというのはあの土人形の名前だろうか。何れにせよ、心音さんがムカワを指差しながら命令する。するとその大きな手が、ムカワに掴みかからんと迫る。

「図体がデケェだけだろうがァ!」

 だがムカワはお構い無しにその手を刀でぶった斬った。正面から切り裂かれた手が、一瞬で崩壊。

「ええ、だからこんな事も出来るのよ」

 が、全身が崩壊する前に、土人形から手から肘に掛けてが分離された。そこだけがバラバラになり、全身は無傷だ。
 そして土塊達が切り離された腕の部分に集まり、再び再生。数秒後には新しい腕が作られていた。

「殺されるなら直せばいいのよ」
「……ハハハ」

 ムカワの突如として始まる笑いに、心音さんが不快感を表しにした表情で睨み付ける。が、それでもムカワは笑いを止めない。

「ハハハハハ! 最高だ! 切っても切っても殺されねぇ! こんな奴を求めてたんだよ!」

 瞬間、ムカワが土人形に飛び込んで行く。

「……狂ってる」

 心音さんがそう呟き、土人形に腕を振るわせた。それをムカワが切り落とし、心音さんを狙おうと接近する。
 が、心音さんがその場で跳躍。すると土人形が頭を下げ、その上に乗る心音さん。これでムカワは土人形を倒さない限り心音さんに手を出せない。
 ムカワが構わないと土人形の足を切り裂く。もう片方を切り裂こうとしして、先程切り落とした腕が再生し、ムカワを殴り付けて吹き飛ばした。
 流石にあの質量だけあって力もかなりあるらしい。ムカワは高速で壁に激突。普通なら気を失うレベルかもしれない。だが彼女は立ち上がり殺そうとするのを止めない。

「もう止めろ! こんなこと、誰も幸せにならないじゃないか! どうして、どうして君は人殺しなんてするんだ!」

 何回もしたはずの質問。だけど僕はこれをせずにはいられない。殺人の快楽だけがこんな精神力を生み出すとは、到底思えなかったこらだ。
 だが彼女は、予想通りに僕の期待を裏切る。いや、予想していたのだから、ある意味は期待通りなのだろうか。

「アハッ! んなもん快楽の為に決まってんだろうがァ! テメーも一度始めた娯楽は中々やめらんねぇよなぁ? オレの場合はたまたま娯楽が殺しだった! それだけなんだよネズミ共がァ!」
「……コイツ……救いようが無いわ……ッ!」

 再び、彼女の体に土人形の拳がめり込む。吹き飛ばされ、木に背中を打ち付ける彼女。軌道が逸れて地面を転がり、道端に身を投げ出す。しかし、彼女は諦めを知らない。
 それから何度も何度も彼女は吹き飛ばされる。満身創痍を通り越したはずの体で、幾度も立ち上がり続ける。

「もっとオレを追い込め! もっとオレを傷付けろ! その分、テメーを殺した時の快楽は増して行くんだからよォ! 嗚呼、堪んねェ! 想像するだけでゾクゾクが止まらねぇじゃねぇかァ! アハハハハハハハハハハハハハハハ!」

 叫び声が響く。どこまでも歪で錆びた壊れかけの声が。
 耳を塞ぎたくなる。だが耳を塞ぐことが出来ない。腕が、恐怖で動かないのだ。やられているのは向こうなのに、僕は彼女が恐ろしくて堪らなかった。

「……終わらせてあげる。それが、アンタへのせめてもの手向けよ」

 心音さんの小さな呟きと共に、土人形の手が、ムカワに振り下ろされた。
 そして、ムカワに大量の土塊が降り注ぐ。

「え?」
「ぐッ! こ……こんな……時に……ッ!」

 それは腕を成していない。攻撃力の無い土塊が、ムカワの上から降り注いだだけ。見れば、土人形の腕が消失していた。

「……ッ!」

 心音さんが、頭を抑えた。瞬間的に、土人形が分解され土塊と化していく。数秒後、土の山の上に彼女が頭を抑えて倒れていた。表情は苦悶を浮かべている。

「心音さん! しっかりして下さい!」

 呼び掛けても彼女からの応答はない。その代わり、息が荒くなり顔色がどんどん悪くなっていく。

「な、何が起こって──」

 その時、先程心音さんが頭を抱えていたのを思い出した。あの時も彼女は軽くだが苦しんでいた。確か『ハートを使い過ぎた』と言っていた気がする。
 もしかして、彼女のハートの限界が来てしまったのかもしれない。


 迂闊だった。
 どうして僕は、彼女がまだ生きている事を考慮しなかったのか。
 僕の背中が、蹴り飛ばされた。土の山の上を転がる。顔を上げると、そこに居た。

「ハハハハハ! やっとだァ! やっと殺せる! 滾るじゃねぇかァ! こんなにワクワクするのは初めてだァ!」

 心音さんの頭が踏み付けられる。ボロボロのローブを被った彼女の口元は、かつて無いほど猟奇的な笑みを浮かべていた。

「止めろ!」

 僕の耳の隣を、刀が過ぎ去る。

「邪魔したら殺す」

 その冷たく鋭い言葉の刀は、僕の縛り付けるには十分すぎた。

「あばよ! メスネズミィ!」

 刀を上に上げたムカワ。それを振り下ろせば、心音さんは殺される。
 僕を救ってくれた人が殺されようとしている。だが、僕は悔しくも何も出来ない。行っても殺されるだけ。ハートも使えない。この場でずっと、自分が殺されるのを待ち続ける。これ以上ないほど、心が痛かった。

「……チビ、逃げ……」

 うわ言のように呟く彼女。朦朧とする意識の中で、まだ彼女は僕を守ることを考えているのか。なんて人だ。そして僕はなんて情けないんだ。

「兄さん……から……頼まれた……んだ……か……ら……青海……ごめん……私……もう……」

 言葉の一つ一つを言うことすら、今の彼女には難しい。当然ハートの力も使えないだろう。

「あの世で達者でなァ!」

 ムカワの最後の一撃に、に待ったをかける人間は、誰一人としていなかった。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.57 )
日時: 2018/07/03 22:45
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 きっと、自分という存在は呪いなのだろう。
 どうしてもコレが止められない。内側から溢れ出る衝動が抑えられない。自分という存在はそのために存在していると言っても過言では無いが、正体がバレるようなことはあってはならない。その為、今回のような綱渡りはするべきでないだろう。
 今この瞬間も、刀を振り下ろせば、このツインテールのメスネズミは殺せる。近くでガタガタ怯えているアリンコだって簡単に殺せる。自分はこの事実に堪らなく興奮していた。今まで散々抵抗してきた女を、足蹴にして殺そうとしていることに。

 さぁ後は刀を振り下ろすだけだ。それで全ては終わりオレの心は満たされる。そうすれば暫く出張ることは無いだろう。そもそも数日連続でこっちに来ることになったのは、あの嘘吐きネズミとチビネズミのせいでしかない。特にあのチビネズミ、オレの右手をルーペで殴って来たのだ。お陰でこちらは右手の甲を切った上に腫れている。
 だがまあそれでも、無事にこのメスネズミを殺せばオレの仕事は終わる。役目は果たされる。再びこの心の奥のマグマが活性化するまでは、のんびりと眠っていられる。
 そう考えながら、思いのままにこのメスネズミの首に刀を振り下ろした。


 瞬間、オレの刀が何かに包まれるかのような感覚がした。良く見れば、透明の何かが纏わりついている。よく見ると、水だった。

「水だァ!?」

 その瞬間、確かにオレは動揺した。だからこそ、水に手首が絞め付けられ、思わず刀を落としてしまった。拾おうにも、上手く手を動かすことが出来ない。

「邪魔だァ!」

 ハートの力で刀を直接水のある場所に出現させる。すると水がバシャッと弾けた。拘束から開放された手で刀を掴むが、視界に驚きの光景が広がる。
 オレとネズミ共を分断するかのように、水しぶきが地面から噴射された。視界が潰されるが水柱をハートで殺し、一瞬で払う。

「……居ねぇ」

 その頃には、既にネズミ共の姿は無く、代わりに地面に大穴が開いていた。そして水が凄い勢いで流れていく音もする。さしずめ誰かが水で穴の中に流し込み、連れ去ったのだろう。

「待ちやがれ!」

 そう言って穴を覗き込んだ瞬間だった。
 中から再び、大量の水がせり上がってくるのが見えたのは。反射的に刀を自分の前に構えていた。直後、水圧がオレを襲う。刀で何とか水を殺した為にダメージは無かったものの、防いでなければ吹き飛ばされていただろう。その水が無くなった頃には、既に穴の中からの音は消えていた。

「…………」

 つまり、獲物を逃した。

「クソがァッ!」

 地面に刀を投げ付けると、それは綺麗に地面に突き刺さった。

「またかよ……まだかよ……!」

 最近、オレはこの胸の疼きを抑えることが出来ない。暫くの間、オレは殺しの快楽を得ていない。何奴も此奴も、殺す時にオレを苛立たせる野郎共だった。

「はぁ、はぁ、……クソ、もう時間がねぇ」

 刀に映る自分の赤い瞳を見て、光が弱々しくなっている事に気が付く。もう持たないだろう。だがこの様子では、それこそ明日にでも意識が戻ってくるだろう。

「クソ……全身がズタボロだ……こりゃひでぇ」

 当たり前といえば当たり前だ。あんなデカブツから10発程度も食らったのだから、むしろ立っている自分がおかしいのだろう。だが、この体では間違いなく、明日は普段通りにはいかないのは明白だ。

「……明日の事は、私に任せるしかねぇ」

 私は土の山から降りてその場を離れる。暫く離れたところで、周囲を確認。誰もいないと分かった上で、刀を取り出す。
 そして、その刀で、自分の心臓を突き刺した。





 僕が目を覚ました時、視界を埋め尽くしたのは白い天井だった。
 あれ、どうしてここにいるんだろう。記憶を手繰るようにして掘り返していく。
 僕の記憶は、地面から水飛沫が上がったところで途切れている。そこから先は、上手く思い出せない。

「気が付いたみてぇだな、貫太」

 聞き覚えのある声に、そちらを向く。

「大した傷はねぇらしい。立てるか?」

 共也君の姿を見て、先程のことを思い出す。正確にはどのくらい時間が経過しているのかは分からないが、あの時、共也君から離れてしまった時のことを。今思えば、共也君は僕が襲われないように来てくれていたのかもしれない。

「……ごめん」
「……あー、なんか叱る気失せるなぁ……」

 困ったような表情を浮かべる彼。しまった。少し待てばよかったとまた後悔を重ねる。

「ま、なんつーかよ。次からは気ぃ付けろよ」

 共也君がそう言ったところで、丁度扉が開いた。その時、この部屋の構造を見て、八取さんが眠っていたあの施設だと言うことに気が付く。

「……」

 現れたのは見也さんだ。思わず、顔を背けてしまう。あの真っ直ぐな鋭い瞳で見詰められると、今度こそ自分が追い詰められそうで。

「兄さん。どうしたんだよ」
「……付いてきてくれ。貫太君、君もだ」

 それから見也さんに誘導されるがままに、部屋を移動した。彼がある部屋をノックし扉を開ける。そこは僕がいた部屋と同じ構造のものだった。当然、ベッドには誰かが寝ているだろう。

「青海、心音はどうだ」
「現在もまだ……」
「……そうか…………」

 会話を聞いて、まさかと思う。思わず、2人の間を潜って部屋の中に入っていた。

「心音……さん……」

 そこには心音さんがいた。髪は下ろされ、服は違うものの、間違いなく彼女だった。そして、目を瞑ったままでいる。

「心音は今も目を覚ましていない」
「まさか……ムカワのハートで……」
「いや違う。心音の心は今も生きている。単にオーバーヒートを起こしただけだ」

 聞き慣れない単語に、疑問符を浮かべる僕。それを察知したのか見也さんが言葉を繋ぐ。

「心音のハートの特徴を知っているか?」
「えっと……一つじゃない、事ですか?」

 彼女の言葉を思い出しながら述べる。確か、彼女は言っていた。誰も私のハートが一つとは言っていないと。ならば、彼女は複数のハートを有しているのだろうか。

「そうだ。心音は諸事情により、二つのハートを所持している。一つは《心を聴く力》。もう一つは《心を結ぶ力》だ」

 そこで一度言葉を切り、心音さんの元へと移動した見也さん。

「先程、心音の記憶を直接俺のハートで視た。まさか、テディを持ち出しても捕まらないとはな」

 その固有名詞は、あの土人形の事だろうか。確かに、あんなものを引っ張り出しても勝てなかったムカワのハートは強力過ぎる。

「正確には、心音が《心を結ぶ力》の方のハートで一つ一つの物質の連結を作り、それによって何度でも再構築を可能とした寄せ集めの人形の事だ。サイズは自由に操作可能。そして心音はその人形を、《心を聴く力》によって動かす。最大サイズとなると構築に1分程度は要するだろう。その力は絶大だ。ムカワすら簡単に捻り潰せるだろうな」
「で、でも、彼女は現にこうして」
「君は彼女が本気であのゴーレムを動かしているように思えたか?」

 記憶を辿っていくと、彼女が自ら土人形で攻撃した記憶は無い。全て、飛びかかってきたムカワを迎撃していただけだ。

「……自ら動いてない……なんで……」
「テディはその力が強すぎる故に、周囲を気遣う事が出来ない。さしずめ、近くにいた君を害さないための配慮だったんだろう」

 その言葉に、力が抜けていく感覚がした。
 僕はあの場でも足でまといだったのか? そして心音さんは、そんな足でまといを切り捨てることを考えなかったのか?

「何より……心音にはリミットがある」
「リミット?」
「俺達ハート持ちは、基本的に一つしかハートを持たない。何故なら、人間の魂の容量と処理速度が一つで限界だからだ。一つのモーターを動かすか、二つのモーターを動かすかでは、後者の負担が大きい事は明白だろう」
「つまり、心音さんは二つハートを持っているから、ハートを使い過ぎると」
「オーバーヒートを起こして倒れる。という事だ。心音にとっては、テディを出す事は、最強の一手であると共に諸刃の剣でもある」

 気が付けば、膝を付いていた。

「お、おい貫太。だ、大丈夫かよ」

 どうしてなんだろうか。
 八取さんの鎌から僕を庇った見也さんも、僕を守るために諸刃の剣を使った心音さんも、僕を庇って両腕を切り飛ばされた共也君も、何故そんなに易々と、他人の為に自分を投げ捨てる事が出来るのだろうか。
 どうしても、僕との人間としての格の違いを思い知らされる気がした。きっと3人は人に格など無いと否定するだろうか、僕は確かに、3人より人間的に劣っていることを自覚した。

「針音君、少し、いいでしょうか」

 僕に声をかけたのは、青海さんだった。

「どうか一つ、この青海の頼みを聞いて欲しいのでございます」

 彼は、爽やかすぎる表情で、まるで裏に見え隠れする本心を抑え込むかのような表情で、言った。

「一発、殴らせて下さい」
「──え?」
「この青海、一生の不覚でした。この施設の水周りが詰まったとか、そのような細事に気を取られ、心音様が一人で外出していたのを見逃してしまいました。ええ、それはこの私めが悪いことにございます。しかしながら、貴方が迂闊な行動を取らなければ、心音様にこのような事は起こらなかったのでございます。決して貴方の行いが悪いとは申しません。ただ、友松心音に仕える身としてではなく、青海静個人として、貴方が許せそうにないのです。これでは、若しかしたら貴方の寝首をかき、殺してしまうかもしれないのでございます」

 そう言っている最中にも、彼の手がガタガタと震えているのが分かった。それは恐怖ではない。怒りだ。彼の奥底で、どこへ向けていいか分からない怒りが燃えている。そして彼はそれを、僕へと向けた。
 彼の言うことは道理だ。反論のやりようがない。寧ろ、僕も一発殴って貰った方が、スッキリするだろう。そう考えて、頷いた。

「──では、失礼します」

 瞬間、青海さんの白い手袋に包まれたしなやかな腕が、僕に伸びてきた。これを受ける事への恐怖が強かったが、僕はこれを受け止めるしかない。
 そして、拳が振り抜かれる。
 僕は──無傷だった。
 代わりに、僕の目の前に、拳を受けた人がいる。

「……これはどういう事でございましょうか。見也様」

 僕の代わりに、滑り込んできた見也さんが、その拳を顔面で受けたのだ。唐突な出来事に、驚きが隠せない。

「……コイツらがもしもの時は、頼む」

 ボソッとそう言った見也さんが、跪いていた姿勢から立ち上がる。

「俺が、心音がこの街に来た時に言った言葉だ。アイツがここまで本気で貫太君を守ろうとしたのも、俺のせいだ」
「だから、貴方が代わりに受けたと仰るのですか?」
「……そうだ。まだ足りないなら、俺が受けよう。今は関係を気にしないでいい。目の前にいるのは、喋るサンドバッグと思え」
「……そのような事、私めには恐れ多いことにございます。貴方に免じて、今はこの拳を収めましょう」
「助かる」

 口から僅かに流れる血を拭きながら、見也さんは出ていく。気まずい雰囲気の中で、僕はただただ、モヤモヤとした心情だけで埋め尽くされていた。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.58 )
日時: 2018/07/05 18:19
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 僕って、なんなんだ。
 名前は針音貫太。普通の高校二年生。成績も中の中の上といった所で、特徴というものも、あまりない。強いて言うなら身長が小柄で154cmしか無い事。そんな事は知っている。僕が言いたいのはこのようなものでは無い。自分という存在の根底が分からない。
 僕が普通と言うなら、この力はなんだ。隠された力なんて急に言われたって、僕には分からない。何となく使ってきたこの力のことを、僕は殆ど知らない。
 なぁ、神様。どうしてこの僕に、わざわざこの僕に、こんな力を与えたのさ? 僕の身近には、あんなにも特別な力に憧れた奴がいたじゃあないか。なのに、なんで彼じゃなくて僕なんだよ。なぁ、おい。

「おい、貫太?」

 その声に、ハッとしてグルグルと無駄に回転していた思考がシャットアウトされた。意識が現実に引き戻されると、僕は横長い青いシーツの上に座っていて、共也君はその隣からこちらに呼びかけていた。

「あ……共也君……」
「呼び掛けても反応がねぇからよ。ったく、何考えてんだよ」
「……ごめん」
「なぁ、どうしたんだよ、お前」
「……え?」

 共也君が真剣な目で問うので、思わず不意をつかれた。僕に変な所でもあったのだろうか。

「今日、すげぇ変だ。いつもより動きとか表情が硬ぇし、なんかあったのかよ……って、あるにはあったけどよ。どうにも……なんつーか……それだけじゃねぇ気がすんだ」
「…………」

 彼に打ち明けたら、少しは楽になるんだろうか。

「実は、さ」

 今日、見也さんに言われたことを、そのまま伝えた。そして、僕の答えも伝えた。思い出すだけで心が締め付けられる気がした。締め付けられる度に、心音さんの言葉も思い出す。勿論彼女のその後の事もだ。

「兄さんが、ねぇ」
「……僕には、理由なんて無いんだよ。みんなみたいに、強い意志なんてこれっぽっちも無いんだ」

 無いものは仕方無い。なんて割り切れたら、どれほど楽だろうか。

「俺はよ、貫太。そんな事はねぇと思うぜ」
「……え?」
「俺は忘れちゃいねぇさ。お前が初めてハートを出した時、お前が本気で怒った時、そしてお前が歯ぁ食い縛って立ち上がった時。皆、お前のココの強さが起こしたモンじゃねぇのか?」

 ドン、と心臓の辺りを叩いた彼。

「……そんなの、下らない一時の感情に身を任せただけだよ」
「ハッ、まあ言っちまえばそうだな。だけど、それでも良いじゃねぇか」
「……それでも?」
「俺の知ってる針音貫太はよ、普段は頼りなくて、自信なさげで、弱気で、チキンな奴だ」

 唐突な罵倒に、少しだけ驚きを隠せない。そして、その後の彼の発言にも、もっと驚かされることになる。

「だけど、ここぞって時には、とんでもねぇ爆発力を見せる男だ。やれ友達だ、やれ友人だって、そんな事で必死になれる。ピカイチな奴だよ」

 そして、僕の肩に手を置いて、彼は一言だけ置いて行った。

「お前はお前のままでいい。いつもみてぇに、お前が言うくっだらねぇ感情を、真正面から叩き付けて、クソ野郎をぶっ飛ばせば良いんだよ」

 彼の背中が、施設の廊下の向こう側に消えて行く。やはりその背中は、大きかった。

「……共也君、僕、頑張るよ」

 正直、モヤモヤは、消えていない。悩みが完全に解消したとは言えない。
 でも、それでも、僕は頑張ってみる事にした。この胸に秘めた、下らない感情を、あの殺人鬼に叩き付ける為に。





 貫太と話した後、もう夜も遅いので帰宅しようかと考えていた頃、廊下で兄さんとすれ違った。
 相変わらず鋭い目付きだ。クールとは言えばクールだが、姉さんの件もあってかかなり悪い方向に向かっている気がする。

「……目付き、どうにかした方がいいぜ」
「青海からも言われた。が、収まる気がしないんでな」

 やはり、姉さんと過ごした時間の違いだろうか。確かに俺も、多少はムカついているが、兄さんのように表に滲み出る程ではない。いつもは無表情でクソ真面目で冷静沈着な兄さんがここまで表情に表すとは、内心はマグマの嵐だろう。

「何をしていたんだ?」
「友人の相談に乗ってたんだよ」
「……言葉足らずだったか。まさか、あんなに悩んでいるとはな」
「やっぱりかよ。アンタ、その癖直した方がいいぜ」

 昔から、兄さんは発言に言葉足らずな事が多かった。恐らく今回も、一部端折ってしまったのだろう。かなり重要な場所を。

「ホントはなんかいうつもりだったんだろ? 最後に」
「……君は君なりの理由を見つけるんだ。それは君の強い味方になる。という事を、言ったつもりでいた」
「あーあー、いい台詞がぶち壊しだ」
「…………」
「……なんか喋りなよ。俺が悪かった」
「いや、お前とこんな風に喋れている事が少し嬉しくて、な」

 僅かに口の端を上げてそう言う兄さん。彼のそういった顔を見たのは、片手で数える程しかない。つまり、本気で言っているのだろう。

「……そうだな」

 一瞬、返答に詰まった。喉の奥に、少し苦いものが引っかかっている。
 その間に、兄さんがこう言う。

「共也、お前が本当に俺や心音に心を開いていないことは知っている。だが、俺も心音も本気でお前の事を兄弟だと思って」

 自分の思考が切り替わったのを感じた。穏和なものから、攻撃的なものへと。
 気が付けば、兄さんの声を遮っていた。喉の苦いものを、相手に吐き捨てるように。

「それ以上言うんじゃねぇ」

 その先を聞きたく無かった。昔の記憶に引き裂かれそうになるのが、恐ろしかった。

「……共也」

 もう必要無いと分かっているのに、俺の口は止まってくれない。俺の理性に反した感情が、兄さんを拒絶する言葉を生み出していく。

「俺は忘れねぇよ。例えアンタ達が、忘れていようが、あの日、アンタ達に言われた言葉をな」

 止めろ。俺はこんな事を言いたい訳じゃない。だが、この奥底からの本気の感情を理性で抑え切れるほど、俺は大人では無かった。

「……俺達は幼かった。親の言う事の重要さも、意味も、残酷さも、全く理解していなかった」

 止めろ兄さん。俺はアンタの謝罪なんて聞きたくないんだ。それ以上、俺に言葉をかけないでくれ。言い訳がましく、言葉を繋がないでくれ。下手な同情なんて、しないでくれ。

「お前の気持ちを、理解してやれなかった」

 その言葉で、自分の中の糸が切れた気がした。

「当たり前だろうが。テメェなんぞに理解されてたまるかよ」
「……ッ」
「テメェらが幼かったからなんだよ。それで幼い俺に付いた傷が癒えんのかよ。今更兄貴面してんじゃねぇ」

 ダメだ。今コイツと向き合っていても、時間の無駄にしかならない。そうやって思考を切り、早歩きで兄さんを通り過ぎた。

「これ以上、俺に踏み込んでくれるなよ。次はねぇ」

 そうやって、カツカツと床を鳴らしながら歩いていると頭が少しだけ冷えた。そして、思う。
 自分は最低だと。
 自己嫌悪に浸りかけていた自分に、唐突な、後ろから耳を刺す声。

「共也、俺は諦めない」

 その一言しか言わない自分の兄に、再び苛立ちを覚えた。
 ──これだけ拒絶しているのに、まだ自分を拒絶しようとしないアイツに。
 自分よりも遥かに広大な心を持ったアイツが、心底憎く羨ましかった。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.59 )
日時: 2018/07/07 16:58
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 それから、何気ない日々が数日ほど過ぎて行った。僕らは未だにムカワを見つけられていない。とは言うものの、ムカワである可能性が一番高い、三年の剣道部の武川小町先輩が、ここ最近欠席しているからだ。
 彼女のことを調べようにも、来てくれなければ進みようがない。早くムカワの力を解か無ければ、皆はいつ本当に殺されてしまうか分からないというのに。そんな焦りだけが溜まっていく日々だった。

「よう貫太」
「おはよ、共也君」

 それでも、今日も今日とて何気ない月曜日の朝が僕らを出迎える。あんな事件達なんて無かったみたいに、ずっと変わらない日常の一部。

「おお、そういやこれ。兄さんから」
「見也さんから? なんだろ」

 共也君から差し出されたのはビニール袋だった。受け取って中身を確認すると、見覚えのあるパイプがあった。そして、メモらしき2枚の紙も同封されている。

「あ、調べてくれたんだ……」
「てか、なんで観幸のパイプなんて持ってんだ?」
「図書室に行った時に乾梨さん……観幸と一緒にいた図書委員の子から貰ったんだ。彼の忘れ物だって」

 メモを見ると、そこまで長い内容では無かった。しかし歩きながら読むのも危ないと思うので、開かない方が良いだろう。

「おはようございます、貫太君」
「うわぁっ! ……り、隣さんか……おはよう」

 僕に唐突に声を掛けたのは隣さんだ。心臓に悪いからよして欲しい。いやまあ、僕がボーッと考え事をしながら歩いていたのも悪いんだけど。
 暫く二人で(共也君は多分ハートで先に行った)歩いていると、赤信号に当たった。僕が黙って待っている間に、隣さんが口を開く。

「……貫太君、大丈夫ですか?」
「え?」

 思わず、聞き返してしまった。

「なんだかとっても……思い詰めてるみたいです」
「……そんなに出てるかな、あはは……」

 誤魔化し笑いもあまり上手く行かなかった。僕がそれほど思い詰めているのだろうか。それとも、隣さんに嘘を吐きたく無かったからだろうか。何れにせよ、悩みのようなものがあるのは事実でしかない。

「私には、話してくれないんですか?」

 うん、と短く返事をしそうになって、気が付いた。
 どうして僕は、隣さんには話したくないと考えているんだ?
 彼女はハート持ちだし、ムカワの事についても知っている。浮辺君や観幸が行方不明になったことも知っている。なのに、どうして僕は隠そうとしていたんだ? 彼女のことを巻き込みたくない、なんて思っているんだ?

「貫太君?」
「ご、ごめん。実はさ」

 それから一連の事について話した。内心では、今すぐこの話を止めたいという感情が、原因も分からないまま渦巻いている。

「……小町さんがその殺人鬼である可能性が高い……ですか」
「え、知ってるの?」
「小町さんも生徒会役員ですから……その繋がりで、一応」

 それは知らなかった。彼女は生徒会に入っていたのか。

「じゃあ、小町さんがどうして休んだのか知ってる?」
「体調を崩したみたいです。藤倉先輩が荷物届けに行くとか言ってましたし」

 藤倉先輩の名前を聞いて、少しだけ隣さんとの出来事を思い出した。改めて、今彼女と何気なく会話していることが不思議で堪らない。

「……所で貫太君、ムカワの利き手が分かりますか?」
「へ? 利き手?」

 急な質問に、少しだけ驚いた。隣さんが続ける。

「小町先輩、利き手は左なんです。左の人って少ないイメージありますし、もしかしたらと」

 理由に納得しつつも、記憶の中を掘り返していく。刀を持つ手は向かい合う僕らから見て右側にあった。つまり、

「左手……だった。確か、左で刀を持っていたよ」

 確かに彼女は左手で刀を振るっていた。わざわざ理由も無く利き手ではない方で刀を持つ理由も無い。つまり彼女は左手ということだ。

「そうですか……」

 隣さんが少しだけ悲しそうな顔をした。多分、彼女は武川先輩への疑いを晴らしたかったのだろう。それが逆に、より強固なものにしてしまうとは思わずに。
 その後、気まずい雰囲気で歩く事になる。こんな時、気の利いたセリフの一つや二つでも思い浮かべばいいのに、僕は彼女に声を掛けてやることも出来ない。そのまま校門まで着いてしまった。当然クラスが違うので、靴箱で別れる。

「……じゃあね」
「……あっ……」

 隣さんの元から離れて自分の靴箱へと向かい、そのまま早歩きで教室へと向かう。
 隣さんといると、慣れない胸のざわつきが襲ってきて、自分が自分じゃなくなる感覚がした、少しでも早く、離れたかった。

「……貫太君が落とした紙、渡しそびれました……」





 教室に着いて、課題を提出してから自分の席でメモを読んだ。内容はパイプの指紋についてだった。なんでも、観幸の指紋が無い代わりに一人の指紋があるらしい。多分乾梨さんが持ち帰った際に洗ったりしたのだろう。
 メモ用紙に多少の違和感を覚えつつも、まあいいかと気にしない事にした僕。今は共也君と教室で話している。
 先程武川先輩とムカワの利き手が同じだったことを伝えると、彼は少しだけ驚いたような表情を見せた。

「……やっぱり武川先輩なのかな」
「……利き手とは盲点だったな。だが……いよいよ確信が持ててきたな」

 確かに、武川先輩はムカワである要素が余りに多過ぎた。名前に関しては無視するとしても、それ以外でも十分な共通点があった。

「恐らくだが……数日間休んだのは体の問題だろうな」

 ムカワは心音さんとの争いでかなりダメージを負っていた。それなら数日間の欠席にも合点が行く。というか、都合が良すぎるほどに噛み合っている。時間帯に関してもそう。彼女は部活で遅くまで残り、被害者が襲われたのは夜。彼女は剣道部で、ムカワの使う武器は刀。

「今日、もし武川先輩が来てたら、部活終わりに先輩を尾行する。兄さんも呼んでおくぜ」
「分かった」

 時間が無い。僕らは一刻も早く事件を解決する事だけを考えていた。
 そして時間は流れ、昼休みの事。

「今日は乾梨さん当番かな……」

 廊下を歩きながらそう呟いた。僕は今、図書室へ乾梨さんに会いに向かっている。
 僕が観幸のパイプを持っているのもどうかと思ったのだ。一応彼女が拾ったのだし、彼女から渡した方がいいのではないかと思ったのだ。

 ──と、まあこれは実際は建前でしかない。本音は、観幸のあの姿を思い出してしまって、胸が絞め付けられるから、他の誰かに渡してしまいたかった。

 図書室の扉が見えてきたところで、ちょうど向かい側に、偶然見覚えのある人物が居た。

「貫太君、図書室ですか?」
「うん。ちょっと用があって」

 隣さんだった。片手に文庫本を持っている辺り、彼女も図書室に用事があったのだろう。

「あ、貫太君、朝にこれ、落としてましたよ」
「え? ……あ、そう言えば1枚しか無かった」

 隣さんからメモのようなものを渡された。どうやら、朝僕が落とした、見也さんから送られてきたメモらしい。道理で違和感があった。受け取ってポケットに仕舞う。
 ガラガラと音を立てて開く図書室のスライド式のドアを開けた。もし彼女がいないなら、全くの無駄骨だと考えながら、祈りつつもカウンターを覗く。
 そこには、少しだけビクビクしながらも貸し出し作業をしている乾梨さんの姿があった。安堵の息を漏らしつつも、彼女の方へと向かう。

「あっ、そのっ、……は、針音さん……ど、どうしました……?」
「いや、これ、乾梨さんが持ってた方が良いかなって……」

 僕がビニール袋を差し出すと、彼女は一瞬だけフリーズした。その後、十数秒かけて何のことかを理解した彼女が、慌てて立ち上がってそれを右手で受け取る。

「右手、もう治ったんだね」
「あっ……いえ……はい……もう何とも無い……です」

 僕が話し掛けると答えるが、その後彼女は俯いてしまう。やはり人と話すのが得意では無いんだなぁと思いつつ、図書室を後にしようとした。

「ま、待って……下さい……」

 彼女から、そう言われるまでは。

「え? どうしたの?」
「……じ、実は私……」

 彼女は、深呼吸するかのように大きく肩を上下させ、胸に手を当てながら、心底苦しそうにこう言った。

「あ、貴方に……嘘を……い、言いました……」


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Re: ハートのJは挫けない ( No.60 )
日時: 2018/07/07 21:10
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 一瞬、何が言いたいのかよく分からなかった。嘘、とはどういう事で、どの発言が嘘だったのか。

「ホントは、ホントは嘘なんです、この傷も、このパイプの事も、あの日のことも、ホントは、ホントは嘘でしかなくて」
「お、落ち着こう? ね?」

 まくし立てるように、息を荒くしながら喋る乾梨さんを諌める。急にテンションが変わったので、少し驚かされた。
 椅子に座った彼女は呼吸を整えている。紅潮した顔が、息苦しさを表していた。

「今落ち着かないなら、放課後でもいいよ」

 そう言いつつ、内心ではしまった、と感じていた。放課後の予定は、既にあるというのに。

「……じゃあ、部活が終わった後でも、良いですか?」

 反射的に、頷いてしまった。本当は、今日の放課後は予定があったのに。共也君と武川先輩を尾行するという、重要な用事が。だが、彼女の様子を見ているとつい、断ることができなかった。
 しかし、裏では安堵している僕もいた。見也さんとは、少しだけ顔を合わせ辛くもある。その点から言えば、彼女との約束は都合が良いものでもあった。





「ったくよー、流石は断れねぇ男だな?」

 放課後、共也君に例のことを打ち明けると、このような言葉が彼のニヤニヤとした笑い付きで返ってきた。

「なっ……ぼ、僕だって断れない訳じゃないから!」
「じゃあ最近の断った事言ってみろよ。あ、愛泥の件はナシな」
「あるに決まってるじゃないか。えっと……………………」

 ちょっと待て僕。何かあるだろ。確か、えーと、……何も無いな。僕。クラスメイトの頼みとか大体安請け合いしてるし、家族の頼みも特に断った覚えが無い。

「…………い」
「え? なんて?」
「……………無いんだよ」

 苦渋の思いでそう言った。
 それに対し、彼は少しだけ口から息を吹き出した。

「っはははははははは!」

 そして直後に、まるで風船の空気が抜けるかのように、口から息を吐き出しながら笑い出した。

「嘘だろお前まさか自分で言っておいて無いとか! あっはははは! 笑っちまうぜ貫太ァ!」
「わ、笑わないでよ!」

 笑い過ぎて空気不足になったのか、ヒーヒー言いながらお腹を抱えて笑い続ける彼に、こっちが恥ずかしくなってくる。そんな笑うことないじゃないか……。

「ははは、いやワリーワリー。最近おかしな事がなくてつい」
「ついって……」
「まあ分かったよ。武川先輩は俺と兄さんに任せとけ」

 笑った際に生じた涙を目に溜めつつ、彼はこちらにオーケーのサインを出してきた。
 不満は多少はあるものの、彼のおかげで多少はスッキリした気がした。





「……そろそろだな」

 俺こと友松共也は、教室で遅くまで残っていた。何もクソ真面目に予習する為ではない。剣道部が終わるのを待っていたのだ。そして、予定では練習がそろそろ終わる頃。一度家に返って鞄を置いて来た俺は手ぶらで教室を出た。

「……貫太の奴、どうせ兄さんに会いたくなかったんだろうな」

 兄さんが不器用過ぎて笑えてくる。あの人はいつも言葉足らずで他人を傷付ける事が多い。その後謝る誠実さを持ち合わせてはいるが、貫太のようにいつでも会える訳では無い人間にやらかしてしまった時のダメージは大きいだろう。

「……ま、あの人が何しようが知ったこっちゃねぇな」

 後者の窓から武道場を見下ろすと、既に数人が帰宅を始めていた。そして、その中には見覚えのあるショートカットの凛とした雰囲気の生徒もいる。

「……居た」

 速やかに階段を降りて靴箱へと向かう。そして武川先輩とすれ違わないように校門へと向かった。

「よう兄さん。もうすぐだぜ」
「……やっとか」

 校門の近くの壁に背を預けていた兄さんは、俺の言葉で壁から離れた。そして、俺の隣まで来ると、少しだけ顔を顰める。

「貫太君はどうした?」
「女子と待ち合わせだってよ」
「……そうか」

 誤解を招くような発言をしても、まあ多分バレるだろう。兄さんのハートから考えて。

「……ところで、ムカワらしき人物とは何処にいる?」
「もうすぐ出てくるはずだぜ……って、来た来た。あのショートカットの女子生徒だよ」
「……武川小町か。なるほどな。確かに、名前だけで言えば最も怪しいな」
「今日電話で伝えたろ? 武川先輩を疑ってる理由ってヤツ」

 あれだけの根拠が揃っているのだ。殆ど間違い無いだろう。そう思いつつも、彼女を追って道を歩く俺達。向こうはこちらの事なんか一切気にしない様子でイヤホンを付けて歩いている。音楽でも聞いているのだろう。

「……そう言えば利き手に関してだが………ムカワはどちらが利き手だ?」
「何言ってんだ? 右手だろ」

 俺が浮辺の連絡で駆け付けた時、アイツは確かに右手で俺に刀を投げてきた。左手で投げれる奴なんかそうそういないだろう。だが、俺の言葉に兄さんは難色を示す。

「……おかしいな。心音の心を視た時、奴は左で刀を振るっていたぞ」
「……見間違いだろ」
「聞き手の情報を知った後、もう1度確認した。共也、お前はその情報、誰から仕入れた?」
「貫太だ」
「ではどちらが確認したか?」

 そう言われて、ハッとする。

「……確認してねぇ」
「……一つ、証拠が潰れたな」

 自分の不注意がこんな所で出てくるとは思わなかった。歯噛みしつつも、武川先輩の尾行を続ける。

「まあ……俺が触れば、すぐに分かることだがな」
「アンタ犯罪者になりてぇのか」
「最適解と言え」
「女子高生の体まさぐるのが最適解とか世も末だな」
「…………最適解だ」

 彼女の体に兄さんが触れば、兄さんは奴の記憶を読める。だがそれは兄さんの社会的地位の死亡に繋がりかねない。黙って尾行するのが最良だろう。
 黙って尾行していると、ふと思い出したかのように、兄さんが呟く。

「……そう言えば……貫太君は俺の入れたメモを読んだのだろうか……」
「あ? 教室で読んでたぜ?」
「そうか。いやしかし驚きだった。まさか、ムカワが見逃す人間が居たとはな」

 その発言に、耳を奪われた。

「どういう事だ?」
「……聞いていないのか?」
「ああ。サッパリだぜ」
「深探君のパイプ。アレには一人の指紋が付着していた。恐らくはその逃げた見逃された一人のものだ」
「待てよ。それは聞いたが指紋に何の関係があるんだ?」

 指紋云々に関しては、貫太から聞かされていた。乾梨とかいう生徒のものだろうと。

「最後まで聞け、共也。そのパイプには、ほんの僅かな血の跡が検出された。血は拭き取られても、調べれば跡が出てくるからな」
「……血だと?」
「血液型は深探君のルーペに着いていたのと同じもの。つまり、ムカワの血という事だ。そして、貫太君はそれをある女子生徒から譲り受けたと言っていた。つまり、その女子生徒は見逃されたのだろうな。ムカワに」
「ちょっと待て。貫太はそんな事一言も言ってなかったぞ」
「……もしかして、1枚しか読んでないのか?」

 貫太はそんな事を言っていなかった。

「読んでねぇみてぇだ」
「……なんだと」
「そんな話、聞いてねぇ」

 場を沈黙が支配した。
 まだ不透明なものがある。この事実だけで、確信は大きく揺らぐ。今まで感じてもいなかった心配が、胸の中で暴れ始めた。落ち着け。ここでムカワを捕まえればそれで終わるんだからな。

「……ところで共也、一つ提案がある」

 焦燥に駆られていたところに、兄さんの言葉が飛び込んできた。そのまま小さな声で繋げる彼。
 兄さんの提案を聞いて、なるほどと感じるのと同時に、とんでもない罪悪感を感じた。

「……大丈夫かそれ?」
「お前が上手くやればな」
「……ま、そうするのが手っ取り早いわな……」

 正直言ってやりたくないが、背に腹は変えられない。取り敢えず、都合の良いロケーションになるまで待つ。
 そのまま暫く歩いていると、曲がり角に当たった。そして武川先輩はそれを右に曲がる。塀でその姿が見えなくなった。
 絶好のロケーションだ。ここでやるしかない。塀から顔を出すと、あと数メートルで武川先輩が俺のハートの射程外に出ようとしていた。

「今だ、共也」
「ああクソ、犯罪者かよ俺達」

 そう言いつつも、俺はハートの力で俺の手の平の前と武川先輩の背中の空間を繋ぎ合わせた。

「うるさい、集中が途切れる」

 そして、俺の手の平の前に、兄さんが手を突っ込む。それは俺の手の平には当たらず、そのまま突っ込んだ分が消え、代わりに武川先輩の背後に腕だけが出現した。そして、その腕が武川先輩の首を掴む。

「ひゃぁぁッ!」

 黄色い叫び声が聞こえた。咄嗟に兄さんが手を接続空間から引っこ抜く。すると向こう側の手も消え去った。そして俺達は塀で武川先輩から見えないように隠れた。

「だ、誰よ!」

 恐らく彼女は今、周囲を確認していることだろう。危ない。どうやらこちらの仕業とはバレなかったようだ。

「……兄さん、早いとここの場を離れようぜ」
「……同感だ」

 正直、異能を使って女子高生の首を一瞬だけ掴むとかただの犯罪者だが、これも友人の為なのだと自分を誤魔化す。いや正直、罪悪感が大きすぎる。

「それで、読めたか?」
「……1週間程度だが、把握した」

 兄さんは、ネクタイを締め直してから、言った。

「武川小町は、ムカワではない」

 俺達にとって、ある種の絶望でもある言葉を。






 放課後。音楽教室で待っていて欲しいと頼まれた僕はずっとそこで待っていた。ついでに課題しながら。因みに音楽教室は鍵がガバガバすぎてちょっと持ち上げるだけで簡単に入れるという何ともセキュリティの甘い教室のため、こういう待ち合わせに使われることが多いらしい。

「……もうすぐ部活終わるかなぁ」

 なんて小さく呟いてみる。すると、噂をすればという奴か、扉が開いて光が射し込む。

「こんばんは。乾梨さん」
「こっ……こんばんわ……」

 いつにも増してビクビクした彼女の様子に流石に違和感を覚えた。課題をしまいつつも、近くの椅子をとって彼女の方に動かす。

「それで、昼休みの事なんだけど……落ち着いた?」
「……はい」
「じゃあ、話してくれる?」
「……実はあのパイプ、図書室で拾ったものじゃないんです」

 取り敢えず、今は黙って彼女の話を聞くことにした。質問ばかりしては、話が進まないと思ったからだ。

「ほ、ホントは、か、彼がもう遅いから私を送るって言って、途中まで道が一緒だったから2人で帰っていたんです。そ、そしたら、急に私の意識が朦朧として、なんだか凄く眠くなって、そしたら急に目が覚めて、気が付いたら深探君が倒れてて、幾ら揺さぶっても反応が無くて、それで、それで!」
「乾梨さん」

 再び語調の速くなった彼女を、肩に手を乗せて落ち着かせる。幾らか落ち着いた彼女が、再び話を始める。

「その時私、もうなんにも分からなくなっちゃって、気が付いたら右手も切れたり腫れたりしてて、頭の中がぐちゃぐちゃになって、何していいか分からなくて、もう気が変になりそうで、そのままわけも分からず走ってたら家に着いてて、それで、気が付いたら、これを握ってて……」
「……そっか」

 彼女に少しだけ同情した。確かに、急にあんな事件に巻き込まれたら、誰だって錯乱するに決まってる。ましてや、出会って数日の僕に話したいとは思わないだろう。でも誰かに相談したい。だから僕に話した。とまあこんな感じだろうか。
 彼女があの場所にいたのは、ムカワが逃げてから僕が観幸の元へ駆け付けるまでの間、という事になるだろう。

「ほんとは言わなきゃって思ってて、でも間違いなんじゃないかって、心のどこかで思ってて、でも深探君は来なくて、ああアレは夢じゃなかったんだって、自分は1人だけ逃げたんだって、最低だって、どん臭くて他人の迷惑以外になれない私なんて、消えちゃえばいいのにって、っ……うっ……」

 彼女の言葉はどんどんくぐもっていく。そして目から1粒の涙が零れるのと同時に、水道の蛇口を捻ったように涙が溢れ出した。

「わ、な、泣かないで?」

 しかし僕は咄嗟に対処することが出来ない。取り敢えず何とかしなければと思い、ポケットからティッシュを引きずり出して彼女に持たせる。右手でギュッとそれを握り締める彼女。

「これで涙、拭いて」
「……は、はい……っ」

 その時、ポケットティッシュと共に、何かが引きずり出された。何を入れてたんだっけと確認すると、メモ用紙が入っていた。
 そう言えば、隣さんが図書室の辺りで届けてくれたんだっけ。なんて思い出しながら、軽い気持ちでメモを読む。

 そこには、パイプに付いた血痕について書かれていた。拭き取られてはいるが、微量の血が着いたと思われる跡が見付かったらしい。特に役立つ情報ではないな、と思った。最後まで読まずに、その場で手放す。

 その後、再び彼女と相対する。最も、彼女は両手で必死に目を拭っている為に話は出来ないが。
 その時、ふと右手が目に止まった。右手の甲に、何か赤い跡があった。まるで、切り傷のようなものの跡が。

 頭の中の端っこが、チカチカとした。

 そう言えば、観幸は確か僕に留守電をしていた。内容を確認しようと、パカパカする携帯電話を取り出す。そして履歴から遡り、再生。

『貫太クン……ムカワは……違うのデス……ムカワでは……』

 久々に聞く友人の声に涙を堪えつつ、その内容をゆっくりと噛み砕いていく。
 彼が無意味なメッセージを残すとは思えない。ムカワから妨害されることを考慮しない訳が無い。つまり、このメッセージから何か得られるものがあるはずだ。
 これは最後が欠けているから意味不明なんだ。文脈から判断する現代文の問題と一緒で、空欄に適する語を入れなければならない。

「ムカワは、違う、ムカワでは……」

 口で数回ほど復唱した時、ふと閃く。

 ムカワは違う、ムカワではない。
 彼はこう言いたかったのではないか?
 ムカワではない。そしてムカワがムカワではない、は文的に不自然だ。どちらのムカワは『武川』という事になる。
 つまり、武川先輩はムカワではない?
 では誰だ?
 その時、自分が捨てたメモが視界に入った。もう1度拾い上げて確認する。
 最後の文を読んでいないのだ。何かあるかもしれない。そう思って、読み返す。

『またこの血はルーペに付着していたムカワの血液と同じ血液である』

 同じ血液。
 ルーペに付着していた血液は、それで殴ったにも関わらず微量だった。つまり、血はそこまで出ていない。派手に出ていたら、観幸の体はもう少し汚れていた筈だ。
 つまり、余程の奇跡で血液がパイプに振りかからなかったとすると、ムカワは一度血のついた手でパイプを握ったということだ。
 そして、着いた血液はムカワのものだけ。同じようにパイプを持ったものは居らず、1人だけという事になる。

 頭の中で、着々と方程式が組み立っていく。これまでの事件達から得たピースが、ようやく正解の場所へと嵌り込んでいく。

 まさか、いや待て。彼女は明らかに右利きだ。荷物を受け取る時も、先程のテッシュだって右手で受け取っていた。ムカワは左利きだ。そこは一致しない。
 そこで再び、傷が視界に映る。

 僕は右利きだが、右手を一度怪我した事がある。その時、僕は右手を使うのを避けた。そう、利き手であるにも関わらず、使用を避けた。つまり、人間は利き手であろうが負傷していれば代わりに反対の手を使うのだ。例え不便であろうとも、背に腹は変えられないからだ。

 あの日、ムカワが僕の元に現れたあの日、彼女の右手は、痛々しい怪我をしていた。それこそ、使用を控えてもなんら不思議ではないほどの傷を。
 そしてそれが、観幸のルーペによって傷付けられたものなら?
 そこから出た血が、観幸の所有物達に着いたものなら?

 時刻に関しても、なんら不都合は無い。浮辺君の事件の日、彼女は図書委員で学校に居た。観幸の事件の日、彼女は観幸と同じ時間に学校を出た。そして僕の日、彼女にはアリバイは何も無い。

 僕が思考を巡らせている間に、彼女は目を擦るのを止めていた。メガネの奥に覗く泣き腫らした目元が、見ていていたたまれない。そして、これから僕が、こんな言葉を吐き付けなければならないなんて思うと、更に胸が苦しかった。
 僕が彼女の肩に手を置いて、目を見つめる。どこまでも透き通った、茶色のかかった綺麗な目だった。キョトンとした様子で見つめてくる彼女。
 でも、それでも、言わなきゃダメなんだ。僕は、僕は、皆を、知人を、友人を、親友を、救わなきゃならないんだ。

「乾梨さん」


 さぁ、言うんだ。針音貫太。




「キミが、ムカワなのかい?」


 僕史上、最悪最低の台詞を。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.61 )
日時: 2018/07/08 11:07
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 瞬間、彼女の澄んだ目が、一瞬にしてその透明感を失った。

「……嫌、違う、違う」

 彼女は頭を抱え、誰へ向けてでもなく、下へ拒絶の言葉を吐き続ける。

「違う、違う、違う! 違う違う違う違う違う! 私は、私はムカワなんかじゃない! 違う! 違うの!」

 動揺しているのかと思ったが、どうやら少し違うらしい。この狂い方は、どこか浮辺君を思い出させる。
 まさかと思って、彼女の瞳を見ていると、僕の予想が的中し、その色が徐々に赤く染まっていく。

「嫌、嫌、止めて、来ないで。違うの。私は、私は人殺しなんかじゃない! 止めて、止めてよ! 嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ぁッ! 私は、私は──」

 カクン、と呆気なく彼女の首が俯いた。

「まさか……」

 脳内で、予想が組み上がっていく。

 そしてそれは、僕の期待を裏切り、予想は裏切らなかった。

 そして次の瞬間、彼女から独特の粘着質のある威圧感が放たれた。嫌な汗が、全身から吹き出るのを感じた。
 異様に身体中が蒸し暑い。なんだこれ。どうしてこんなに汗をかいているんだ。落ち着け僕。

「…………ふふ」
「……ッ!」

 声は乾梨さんのそれと全く同一だ。だが、確かに分かる。声音が、耳にへばりついた奴の声が、その微かな音と共鳴したのだ。

「……ふふふ、はははははは!」

 おかしくておかしくて堪らない。そう言わんばかりに、笑い飛ばし、頭に付けていたカチューシャを無理矢理毟りとった。これまで揃えられていた髪たちが、バラバラと宙で何回か旋回する。

「……さっきの貴方の回答……」

 急に変わったテンション。そして聞き覚えのあるアクセント。
 間違いない。

「80点、と言ったところですわぁ」

 彼女はそのまま、狂気を内包したにこやかな笑みのまま、こう続けた。

「ネズミさん?」

 やはり、間違いない。
 彼女は、乾梨透子は、ハート持ちだったのだ。しかも、ムカワという最悪のハート持ち。

「……80点、ってどういう事かな」

 少しでも長く生きるため、雑談で意識を逸らす。彼女もこちらの意図が分かっていて、敢えて便乗するかのように返答する。まるでそれすらも楽しんでいるかのように。

「ふふ、折角だから教えて差し上げますわ。満点は付けてあげられないとはいえ、貴方は初めて私の正体を暴いたんですもの」

 彼女は脚を組みながらそう言う。その動作一つ一つは艶やかさと色気のようなものがあり、先程までの乾梨さんの様子とは全く毛色の違うものだ。

わたくしの名前は、乾梨透子ではありませんの。それはわたしの名前であって、わたくしの名前ではありませんの」
「……何が言いたい」
「乾梨透子という人格と、わたくしは別人格、という事ですわ」

 つまり、二重人格という事か。なるほど、それなら普段の日常生活でボロが出ない訳だ。普段は弱気な乾梨透子という皮を被り、ここぞという時だけ人格を切り替えムカワになる。これが彼女の見つからない原因の一つでもあるのだろう。

「じゃあ、君は一体誰なの?」
わたくしわたしの心から生まれた別人格」

 彼女はメガネを外して、その赤い裸眼を妖しく赤く光らせる。

「無川刀子(むかわ/とうこ)と申しますわ。虚無に川に刀に子供。ふふ、これで私の名前を知る人は貴方と私、そして一人のネズミだけですわ」

 どこか芝居がかった動作でスカートの端をちょこんと持ち上げて挨拶をする彼女。
 その可愛らしさの裏側には、隠しきれないほど鋭い刀が見え隠れしていた。

「……ネズミって、八取さんの事か」
「分かりませんわぁ。だって、人の違いなんて声と背丈と性別だけですもの」

 そう言えば、乾梨さんは目が悪くてメガネが無ければ人の顔の判別すらつかないと言っていた。ムカワ──無川は、乾梨さんと同じ体だ。同じように、彼女も裸眼では視界が不安定なのだろう。

 彼女は、本来であれば見せることも無いであろう、煌めくような笑顔でこう言った。

「そして、わたくしの名前を教えたからには、貴方は生かして帰しませんわぁ」

 彼女が虚空で手を握るような動作をする。すると、その場に刀が現れた。

「う、動くなッ!」
「遅いですわよ」

 僕がナイフを飛ばすが、それは無川の刀によってバラバラに消された。そうこうしていると、首に手が伸ばされた。

「ッ!」
「ふふ、このままじっくり、ゆっくり絞め落として差し上げますわ」
「な、……なんだっ、て」

 そんなことされてたまるか。僕は右手にハートの力でナイフを生成。『放せ』と刻まれたナイフを突き立てようと、その手を振るった。

「大人しく、していて下さいねぇ?」

 直後、鳩尾に膝がめり込むのを感じた。口から変な声が漏れると共に、ナイフが手から溢れ落ちた。

「がはッ!」
「ネズミさんは、しっかりと殺して差し上げますわぁ。ふふ、ふふふ、ははは! 愉快ですわ! ああ、なんて素敵なんでしょう!」
「い、息がッ……!」

 ダメだ。ハートの力が使えるほど、意識がハッキリとしていない。手先の感覚が、無くなってきた。彼女の首の絞め方が上手いのか、意識が消えるか消えないかのスレスレをさ迷っている。ただただ苦しく、無念だ。

「ふふ、貴方の行動は無駄だった。だって心理に辿り着いた貴方は殺されてしまうんですもの。そして残るハート持ちはあの高身長のメスネズミと気に入らない大ネズミだけですわ」
「…………ッ!」
「おおっと、それどころではありませんのね。では少しだけ息を吸わせてあげますわ」

 瞬間、刀の柄で頬が殴られた。そのまま音楽教室の机が集まっている部分に放りだされ、それらに激突しつつも床に這いつくばる。
 足りなくなっていた酸素を肺の中に詰め込む。今はそれで必死だった。
 まさか、彼女が後ろから攻撃してきているなんて知らずに。

「ほら! 抵抗して下さいな! ネズミさん!」

 彼女の足裏が、僕の鳩尾に叩き付けるように下ろされた。直後、凄まじい激痛が脳内を駆け巡った。

「っがはぁッ!」
「どんな気分ですか! 何も出来ず! 床を這って! 無様に! 虫けらのように! 踏み付けられる! 気分は!」

 言葉を区切る度に、彼女が足を持ち上げ、僕の鳩尾を踏み付ける。それが何回も何回も続き、呼吸すら出来ない。僕が絶叫を上げると、彼女はその足を止めた。

「簡単には殺しませんわよ。存分に、痛ぶって差し上げますわ!」

 ああ、なんて嬉しそうな表情なんだろうか。
 でも、ちょっとだけ、何か違和感があった。
 彼女の笑顔の裏に、殺意の裏に。
 何か、何が覗いた気がした。

「ほら! 立ち上がって下さいまし!」

 胸倉を掴まれ、無理やり持ち上げられる。そして、再び体が投げられた。今度は硬く大きなものに体を打ち付けた。多分、ピアノだろう。再び、体が悲鳴を上げた。

「……ぐっ……はぁ、はぁ……」

 だが何とか立ち上がり、無川に相対する。彼女は再び手に刀を握り、愉悦に満ちた表情を浮かべている。

「ふふ、思えば本当に貴方は役立たずですわ。周囲から最も情報を与えられているにも関わらず、今の今まで気が付かなかった無能さ。誰よりも臆病な癖に、誰よりも偽善を行うその態度」

 彼女が言葉のナイフで、僕の心を切り刻んでくる。何も反論できない。僕は無能で、臆病で、偽善者だ。それはどうしようもない事実だからだ。

「心底、吐き気がしますわ」

 気が付けば、彼女が僕に刀を振るおうとしていた。多分、数秒後には僕の体は斬られているだろう。

「─────ごめん」

 最後に漏れた言葉は、謝罪だった。
 どこまでも負け犬な僕には、相応しい最後の言葉だった。

「ごめんな、観幸」

 そして、その刀が、一閃。

 直後、彼女の刀が空振った。
 そう、体を捉えずに、ギリギリで当たらなかったのだ。彼女がズラしたのではない。誰かが、僕の体を後ろに引っ張ったのだ。
 体に、何が巻きついているような感覚を覚えた。それを、視界をずらして確認する。

「……これは、どういう事だ? ネズミ」
「これは……鎖……?」

 鎖だった。僕の命を救った鋼鉄の命綱の出元を、目線で追う。
 すると、その先には彼女が居た。

「一つ、良い事を教えてあげましょう」

 ジャラジャラと背中から生えた鎖達が音を鳴らす。それらは一斉に飛び出し、無川の手足にグルグルと巻き付いていく。
 鎖の持ち主の彼女は、僕を鎖で引き寄せて、僕の首に腕を巻き付けてこう言った。
 心底愛おしそうな声で。

「私は今、貴女にとても怒っています」

 心底、憤ろしい声で。

「貫太君の事を、理不尽にバカにして、傷付けるなんて」

 彼女は、言う。

「私に殺されたいって、言ってるんですよね?」

 《心を縛る力》を持つハート持ちの彼女こと、愛泥隣さんは、異様な程に鋭い言葉を吐き出した。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.62 )
日時: 2018/07/09 18:11
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: 69bzu.rx)

 きっとこの世で一番不要な人間なんだ。
 そう思い始めたのは、引き取られてからの事だろうか。私の苗字が、──から乾梨に変わった、丁度あの頃。
 今の両親は本当に良い人達だ。血の繋がりの無い私を、本当に大切に思ってくれている。

 だが、それでも時折思い出すのだ。昔の自分の両親のことを。血の繋がった、両親のことを。

 ああ、思えばどうしてあんな結末になってしまったのだろうか。あの時──が、私が、あんな事をしなければ、結末は変わっていただろうか?
 ──が、父親を斬り殺さなければ、運命は変わっていたのだろうか?

 勿論、そんな問いに、答えなんて返って来る筈が無かった。





「り、隣さん」

 気が付けば、名前を呼んでいた。突如として現れた彼女に、困惑を隠せない。どうして彼女がここに居るのか。

「貫太君が女子生徒と2人っきりなんて……とっても心配でしたから」

 そう言えば、彼女はあの時図書室にいた。盗み聞きをすることは決して不可能ではないだろう。

「……さて貴女、覚悟は出来ていますか?」

 その問いに、無川はニヤリとした笑みで答える。

「出来てるも何も、覚悟する必要などありませんわぁ」

 彼女が右手に持っていた刀を、右腕を縛る鎖に軽く当てた。すると一瞬にして鎖達がバラバラに分解され、彼女の四肢に纒わり付くそれらも次々と同じ道を辿っていく。

「だって! 貴女も私の餌でしか無いのですもの! アハハハハッ!」

 彼女が刀を構え、隣さんの元へと突撃を仕掛ける。槍のように突き出された刀が、隣さんへと向かう。

「気を付けて隣さん! 彼女の刀の刃は触れたものを何でも殺してしまうんだ!」
「あら、それなら大丈夫ですね」

 彼女は背中から天井に鎖を伸ばした。それは電灯に巻き付いた後に、無川に向かって伸び、彼女の刀を持つ手首を絡め取った。

「っ!?」

 無川の顔に、動揺が走った。まさか手首というピンポイントで縛られるとは思わなかったのか。隣さんがその鎖を引っ張ると、滑車のように無川の腕が上に持ち上げられた。刀はまだ握っているが、当然の如く減速。

「今です、貫太君」
「わ、分かった!」

 『動くな』と刻まれたナイフを生成し、投げ付ける。無川は持ち上げられた右手に気を取られ、こちらのナイフを防ぐ事をしなかった。
 僕のナイフは真っ直ぐに彼女の体を貫いた。
 いつもなら、彼女は動きたくないという漢書に囚われ、活動が困難になるだろう。

「──ハッ」

 だが、彼女が浮かべたのはネジの飛んだ笑いだった。
 嫌な予感が僕の頭に駆け巡った数秒後、彼女が何の苦もなく刀を器用に回転させ、鎖を破壊。そのまま僕のナイフも刀で消し去る。

「な、なんでだ! なんでそんな簡単に動けるんだ! 僕のハートは確かに君の心臓を刺したはずだ!」

 動揺に駆られるままに言葉を紡ぐ。裏返りそうになるのを必死に抑えるが、情けない声である事に変わりは無かった。
 不気味に笑う彼女は、答える。

「私は何にもしてませんわぁ。貴方のハートの力が弱過ぎるだけ。いえ……前より弱くなっていますわぁ。意志が篭ってませんわよ。貴方のハート」

 意志の強さ。それがハートの力の強さに直結する。つまり、僕の意志が、弱いという事だ。

「こんな意志で私に挑もうなんて……十年早いですわよ!」

 彼女の刀が、再び迫る。
 ああ、避けなきゃ。この速さならまだ避けられる。脳内を回転させているところに、こんなセリフが飛び込んでくる。

「テメー、足でまといだな」

 無川の冷えた言葉が、僕の心に突き刺さる。
 そしてそこから、あの言葉がフラッシュバックする。

『意志の無い人間が、あの殺人鬼に抵抗できるとは思えない。ハッキリ言おう。意志のない君が居ても、邪魔なだけだ』

 それは、僕の体を硬直させるには、十分過ぎる言葉だった。そして、刀が目前に迫る。

「危ない!」

 何かが、腰に巻き付いた。そして、後ろに引っ張られる感覚。そのまま減速するどころか加速し、無川の姿がどんどん遠くなっていく。

「あ──」

 スライド式の窓が開く音がした。そして、開かれた窓を通り抜け、そのまま外へと躍り出る。窓には鎖が這っており、これが窓を開けたんだなと理解した。
 それと同時に、自分が外に放り出され、これから落下する事もまた、容易に想像出来た。ここは三階。下手すれば地面までは15m程ある。落ちて無事では居られまい。

 だが、それでも、

「逃げて! 貫太君!」

 窓枠の向こうに居る彼女へ、手を伸ばさずには居られなかった。
 僕を外へと放り出した張本人の名を、呼ばずには居られなかった。

「……り……ん……さん?」

 そして、視界が一気に動き始める。
 どちらにせよ、大怪我はするだろう。だが、殺されるよりはマシと判断したのかもしれない。
 どうして、僕を外に放り出したのか。彼女が一人だけでも無川に勝てるなら、こんな事をする必要は無い。僕の心が殺された後に、アイツを倒せばいいのだから。
 だがそうしなかった。つまり、彼女は分かっているのだ。自分一人では、僕とでは、無川を倒す事は出来ないと。

「そん、な」

 また、失ってしまう。
 だが無情にも、僕には地面が迫っていた。
 そして、激突。
 思ったよりも柔らかい感触ののち、体が少しだけ浮く。それを何回か繰り返した後、僕は完全に停止した。
 体には、何一つ傷を負わずに。流石に違和感を覚え、目を開けて周囲を見回す。
 僕は蜘蛛の巣のように鎖が張り巡らされた場所に横たわっていた。それはまるでトランポリンのように、僕を何回かバウンドさせ、衝撃を軽減したのだ。そして、こんな鎖が生み出せるのは、一人しか居ない。

「隣、さん」

 彼女の名前を呼んだ瞬間、編み込まれた鎖が消滅。そのまま地べたに落下。背中を思いっ切り打ち付けるが、三階から直接ダイブするよりはかなりマシだろう。

「僕を気遣う余裕なんて、無かったのに」

 口の中に入った土を吐き出しながら、フラリと立ち上がる。音楽教室は防音設備に優れている為か、一切の音は流れてこない。つまり、彼女が今どうなっているかも、分からない。
 もしかしたら、今の鎖の消滅で、心が殺されたのかもしれない。

「……きょ共也君は……」

 自分ではどうにもならない。連絡しようと思い、ポケットを漁る。

「無い」

 制服の様々なポケットを漁り、探り、引っくり返す。だがそのどれにも、携帯電話は入っていない。

「音楽教室の荷物だ」

 そうだ。確か課題を入れる際に、話している途中に鳴っても困るなと、マナーモードにしてカバンに入れたのだ。まさか、こんな所で裏目に出るとは思わなかった。
 彼は今、武川小町を尾行している。
 行き先を知らない今、僕は彼を呼びに行く事も出来ない。

「ど、どうしよう……」

 ダメだ。違う。これじゃない。何回も脳内を間違いが飛び回り、思考をオーバーヒートさせていく。
 行動しよう。そうだ。立ち止まっていても意味が無い。共也君を探すんだ。きっと近くにいる。この周辺を探せば、見つかるかもしれない。見付からなくても、仕方ないんだ。でも、やらないよりは、マシなんだ。

 なんて考え、近くの壁をぶん殴った。

「ふざけんなよ僕!」

 自分の手から、嫌な音が聞こえた。だがそれでも、構わずに自らの手を壁に打ち付ける。

「お前は現実逃避がしたいだけだ! 責任から逃れたいだけだ! 無駄な行動をして、でも頑張ったんだって、自分を慰めたいだけじゃないか! 最低だ! 僕は最低なクズ野郎だ!」

 幾ら壁を殴っても、僕は強くなれないし、この事態は解決しない。どう転んでも、意味の無い行動。だが僕はただただ感情をぶつける何かが欲しかった。

「なんで! どうして! 僕には意志が無いんだ! 理由が無いんだ! 強さが無いんだ! なんで、なんで!」

 壁に向かって、頭突きをかます。当然痛め付けられるのは、僕の額。そのままズルズルと膝を付く僕。

「僕は、何にも出来ないんだよ」

 気が付けば、声が裏返っていた。
 鼻をすする、音がした。誰でもない、この僕から。

「何が出来るんだよ」

 視界がぼやけて、頬が濡れた。

「嫌だ。傷付くのは、もう嫌だ」

 このまま僕はこうしていたい。
 こんな風に、ずっと何もしないでここに居たい。逃げもしないし、抵抗もしないまま、殺されて消えてなくなりたい。

「理由なんて、無いんだよ」

 
 手から、何かが、零れ落ちた。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.63 )
日時: 2018/07/11 20:50
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「兄さん、貫太と連絡が付かねぇ」
「……思ったよりも、事態は深刻らしいな」

 三回目のコールも虚しく空振り、大人しく諦めて携帯電話をしまう。武川小町がムカワでないということは、他の場所にムカワがいるということ。そして、貫太と連絡が付かないということは、恐らくそういう事なのだろう。
 具体的に言えば、ムカワと貫太が相対している。最悪の事態も想定される。

「共也、目星はついているか?」
「全く。ただ、学校に戻った方がいいってのは分かる」
「……急ぐぞ」

 兄さんの声を聞いて、返事をしつつ彼の肩に手を乗せる。ハートの力で距離を省略しつつ、学校へと向かう俺達。

「……貫太、生きてろよ……!」





 僕な手から零れ落ちたもの。それは、1枚のメモ用紙だった。
 愛泥さんが昼休みに届けてくれたもの。これを落としていなければ、僕はもっと早く結論に達していたかもしれない。だがそれはもしもの話でしかなく、現実は現在進行形で最悪の方向へと向かっている。
 だが僕はこんな風に、額を壁に擦り付けて、涙を流し鼻をすすり、自分の無力を嘆くしかできない。

「もう嫌だ。どうして、どうして僕がこんなに傷付かなくちゃならないんだ。おかしいじゃないか」

 行動するのは、辛い。
 刃向かうことは、苦しい。
 何もしないのは、何も無い。
 マイナスかゼロかで問われたら、誰だってゼロを選ぶ筈だ。

「もういいんだ。これが一番、僕に、負け犬のこの僕にお似合いの結末なんだ」

 最後の最後には失敗をする。よくある事だ。気にするな。凡人の僕にしては、今まで上手くやってきた方じゃないか。そう考えて、自分を正当化するのが止められなかった。分かっていても、止めたくなかった。


『おかしいんじゃないのか』


 だけど。
 それでもまだ、耳に何かが響く。胸の中から、遠く遠く声がする。



『僕は何もやってない。悪い事なんて一つもやってない。なのに、なのに、理不尽に蹴られたり殴られたりして、友達を……傷付けられて……!』



 それは、僕の言葉だった。
 僕の過去からの、記憶の節々から蘇った声だった。
 止めてくれ。
 こんなその場の勢いで口にした下らない感情達を、僕に聞かせないでくれ。もう僕を、休ませてくれ。



『出来ないなんか知らない。力があるとか無いとか関係無い』
『そうだ。僕はこのままじゃ殺される。だから僕は超えるんだ』
『自分だ! 僕はこれから、自分自身を! 最も弱いこの僕を! 今ここで乗り越える!』



 なぁ僕、お前はまだ、この僕に戦えって、最後の一欠片を振り絞るって言うのかい?
 そんな有りもしない一欠片を、絞り尽くせって言うのかい?
 それがどれだけ残酷な事か、分かっているのかい?
 お前は僕に、何の為に動けっていうんだい?



『友達だから』



 夜の風でメモ用紙が飛ばされて、僕の視界をふわりと舞った。





「ふふ、自分を犠牲に逃がしたようですが……賢い選択とは言えませんわぁ」
「……ッ!」

 ああ、彼は無事でいられただろうか。幾ら咄嗟にとは言え、窓から外へと投げてしまうのは悪かったとは思っている。でも、彼には傷付いて欲しく無かった。

「あのネズミ、携帯電話も置いて行っていますのに……これではお仲間ネズミを呼びに行く事も出来ないでしょうに……ふふ、貴女に勝ち目はありませんわぁ」
「……別に、いいんですよ。私はここで、貴女に殺されようと」

 今、私は教室の隅に追い込まれている。私のハート《心を縛る力》は、向こうのトランポリンを編むのに鎖を使い過ぎて限界を超えたのか、今では上手く出すことが出来ない。
 一方向こうはニヤニヤとした顔でこちらを見ている。それこそ、ネズミを追い込んだ猫のように。

「だって、彼が生きていれば貴女は倒されるから、……といったところでしょうか。ふふ、健気ですわぁ。嗚呼、昂ってしまいます」
「……ええ、そうですよ。どちらにしろ、貴女が倒される事に変わりはない」

 内心を読まれた事は焦ったが、それでも事実は変わらない。彼が逃げて、後日にでもいい。あの友松共也に伝えてくれれば、きっと事態は終わりを迎える筈だ。
 だが、向こうは笑みを絶やさない。寧ろもっと濁った笑いを浮かべる始末だ。

「それは困りましたわねぇ……ふふっ」

 心底嬉しそうに笑った後に、彼女は言う。

「ではぁ、貴女にそれを防いでもらいますわぁ」
「……何ですって?」

 その時、鎖が数本程度だが、生み出せる事が感覚的に分かった。だがそれでも数本。本来私の力は数で押すものだ。迂闊に使うことは出来ない。仕方なく、相手の話を引き延ばそうと相槌を打つ。

「私のハート、《心を殺す力》は切り裂いた人間の心を仮死状態にし、意識不明にする力ですわ。そして、発動のタイミングは自由。切り裂いている最中は勿論の事、切り裂いた後に間を置いてから殺すことも出来ますわぁ」
「……何が言いたいんですか」
「つまりぃ、私はあのチビネズミにこう言うのですわぁ。『他の人間に喋ったら、このメスネズミを殺す』と」

 なんて悪質な人間だ。心の底からそう思った。私を人質にして、貫太君を口止めする気だ。それだけではない。きっと、彼女は貫太君を殺した後に、私も殺すのだろう。

「……最低ですね」
「ええ、でも気分は最高ですわよ」
「貫太君が私を人質にした程度で止まると思ってるの?」
「ええ思いますわぁ。あのチビネズミに、人を踏み台にする度胸なんてあるはずがありませんもの。ふふっ、それは貴女が一番良く分かっているでしょうに」
「……どうして、そう思うんですか」
「だって、あのチビネズミを外に飛ばしたのは、アレがビビって此処に戻って来ないという確信があるからでしょう?」

 ここまで内心を見抜かれているとは、思わなかった。

「……確かにそうよ。彼がここに、戻って来るはずがないもの」
「だったら気兼ねなく殺せますわね。安心してくださいまし。チビネズミが黙っている限り、メスネズミさんには何も異常はありませんわぁ」
「さっさとして下さいよ」
「あらあら、被虐癖でもあるのでしょうか。意外とそちら側でして?」
「……しないんですか?」
「はぁ、冗談の通じない方ですわぁ。もっと私は、楽しんで殺しをしたいというのに」

 彼女が、右手に持った刀を真上に掲げる。そしてゆっくりとこちらに歩み寄る。
 自然と息が上がるのを感じる。落ち着け。まずはあの刀をどうにかするんだ。アレを弾いて、その後もう一本で足を縛る。
 そうやって足止めしてる間に、貫太君の携帯電話で連絡を取る。多分友松共也の電話番号くらい、入っている筈だ。そこから相手が再始動する前に、場所と名前くらいは言えるはずだ。

「では失礼しますわ」
「そんなのお断りです」

 刀を振り下ろそうとした瞬間に、鎖を飛ばして手首を叩く。そしてそのまま刀の刃に鎖を巻き付けて、こちらに引っ張る。すんなりと刀が彼女の手からすっぽ抜けた。

「なッ!」
「油断しましたね!」

 更に近くの机と彼女の足を鎖で結ぶ。動けなくなった瞬間、左に移動し貫太君の荷物へ向かう。バックの比較的浅い部分に置かれていた携帯電話を取り出して、驚く。

「これ……私のと違う」

 私のものと機種が違ったのだ。いや、機種というか、形状そのものだろうか。私は液晶端末型のものを使用しているが、貫太君のそれは一世代前のもの、ガラパゴス携帯だった。何となく開いてみるが、使用方法こそ訳が分からない。
 それでも戸惑いつつ、なんとか電話帳へと漕ぎ着ける。そして、友松共也の名前を見つけた。

「はいそこまで」

 瞬間、手首が握られて手の甲に強い衝撃が加えられた。刀の柄で殴られたと悟るのに、十秒ほど要した。その間に、私は足を刈られて転ばされる。その時手から零れ落ちた貫太君の携帯電話が、ドアの方へと蹴飛ばされた。

「ったく、大人しくしときゃいいのによぉ。めんどくせぇ奴」
「な、なんで……」
「オレの刀は弾き飛ばそうがテメーの鎖なんかと同じで何個でも出せるんだよ。射出は出来ねぇがな」
「そんな……」
「大体、テメーがなんか企んでたことなんざお見通しなんだよ」
「……ポーカーフェイスには自信があったんですけどね」
「ああ? テメーの顔なんざ分からねぇよ。オレに分かるのはテメーの息する音。流石に呼吸のペース上げ過ぎ。嫌でもわかる」

 そう言えば、彼女はメガネをかけていない。視覚が不明瞭な分、他の感覚が鋭いのだろうか。何れにせよ、私の作戦は失敗した。

「……ま、どうでもいいか。テメーが人質として使えれば……なッ!」
「ぐうッ!」

 鳩尾に、靴がめり込んだ。唐突な衝撃に、体の中の空気を外に吐き出す。

「まあオレの精神衛生上の都合で嬲らせて貰うけどな!」
「……貴女……」
「最高だそのカオ。その綺麗な顔面が涙と屈辱でぐちゃぐちゃになるって考えると堪らねぇなぁ!」
「……ッ!」

 今度は左手を踏み付けられた。すり潰すかのように足をグリグリと動かす度に、床と骨が擦れて激痛が走る。だがそれでも顔だけは崩さないように表情筋に力を込める。せめてもの、抵抗だった。

「……へぇ。やるなお前。さっきの鎖の力といい、あのチビネズミとは比べもんにならねぇ強い意志がある。ほんとにあんなゴミを庇っちまって馬鹿らしい」

 ゴミとは、誰の事だろうか。聞き間違いでなければ、恐らく貫太君の事だろう。

「次言ったら殺す」

 気が付けば、抑える前に、敬語を付ける前に、言葉が飛び出していた。恐らく、理由もなく彼を罵倒するのが、許せなかったのだろう。

「…………ハッ、そうかよ」

 一瞬だけ怖じ気付いたような表情を見せたのも束の間、彼女は刀を構える。

「まあ、人質になりゃいいか」

 そして、私に刀を振り下ろした。
 迫る刀が、スローモーションに見える。アレを防がなくては、貫太君は殺されてしまう。だが、背中が床に密着している状態の今、私は鎖を放つ事が出来ない。幾ら意志があろうと、鎖は床が壊せない。

「ごめんなさい」

 だからせめて、こう言う。目を瞑って、彼の姿を思い浮かべながら。

「ごめんなさい貫太君。私は、貴方を守れなかった」

 彼に謝る。今の私に出来ることは、それだけだった。



「それは違う」


 ふと、その言葉が、一本のナイフと共に飛んできた。耳を刺す声。ドアの方から響く、その声。
 目を開くと、刀が私の目前で停止していた。そして彼女は、必死の形相で刀を動かそうとしているが、それはその場でカタカタと震えるだけだ。

「どうして」



「どうして、貴方が、此処に居るの」


 口にせずには、居られなかった。
 だって、彼はここにはいないはずだ。恐れて、怖じ気付いて、此処に戻って来ないはずだった。だから落とした。逃げてくれるように、そう仕向けた。私は彼の事を、信じていた。

 だが、彼は裏切った。



「テ、テメーは……!」

 彼女がそう叫んで、ハッとした。横に転がって、刀の軌道から逃れる。少し距離を置いて、ムカワを挟んで反対側にいる彼の姿を、改めて見る。

 酷く涙を流したのだろう。目元を真っ赤に泣き腫らしている。目も少し赤い。というかまだ、若干涙を目に浮かべている。瞬きをしきりに繰り返す彼は、何とも格好が付かない。
 その手は何故か赤く腫れていて、右手を左手で抑えていた。何があったのだろうか。何れにせよ、格好良いとはとても言えない。
 ガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうな、その貧弱な足は、見ているこちらが情けなくなりそうな程に弱々しい。
 ああ。なんて無様で、惨めで、弱々しくて、情けなくて、格好悪いのだろうか。

「隣さんから離れろ! その子に手を出したら、ただじゃおかない! 僕は君に本気で怒るからな!」

 所々、鼻をすするせいで変な声音になったり、裏返ったり、涙でしゃがれていたりする、不安定で綺麗さも欠けらも無いそのセリフ。中学生だって、もう少し気の利いた事を言えるだろう。
 本当に、ヒーローとはとても言えない。穴だらけの欠陥だらけ。

 だけど。

 私は、そんな彼が。

 無様でも、惨めでも、弱々しくても、情けなくても、格好悪くても、それでも尚、勇気を振り絞って、必死になって立ち上がる。
 そんな彼が、大好きだ。


「貫太君……!」


 世界一格好悪くて、世界一格好良い彼の名前を、私は気が付けば、呼んでいた。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.64 )
日時: 2018/07/13 06:21
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 ギギギと整備の行き届いていない工業器具のように、ぎこちない動作で体を動かす無川。その刀の刃が、僕の放ったナイフに当たる。瞬く間に塵と化すナイフ。

「……どういう事だ」
「な、何がだよ」
「何故戻って来やがった。テメーがここに居ても、足でまといなんだよ」

 その言葉でさえ、今の僕にはズシンと重く心に響く。足が崩れそうになるが、必死になって立ち続ける。倒れるな僕。ここで倒れたら、お前は本当に最低だ。

「状況判断能力まで狂っちまったか? テメーは俺に殺される。このメスネズミも殺される。それに何の変わりもねぇ」

 何一つとして、間違いでは無い。

「テメー見てぇな、ゴミクズが来た所で状況は何も変わりやしねぇ。単にメスネズミとテメーの寿命が縮まっただけ」

 何一つだって、的を外していない。

「テメー見てぇな理由もなく偽善を振りかざす奴なんざのハート、痛くも痒くもねぇんだよ。負け犬野郎」

 だが、この言葉だけは、どうしても見過ごせなかった。

「違う」
「……あ?」

 睨まれただけで、膝を付きそうな程の寒気が背中に走った。それでも、身体中に力を込めて、意地でも足裏を床から離さない。

「確かに僕は負け犬だよ。チビで、ビビりで、人の頼みを断るのが怖くて、どうしようもないくらい、弱い。そんなことは百も承知だ」

 僕が負け犬なんて知ってる。僕が弱いなんて知ってる。何回再確認させられたと思っているんだ。

「今だって、怖くて怖くて堪らない。足だって震えてる。逃げ出したいって、傷付きたくないって、そう思ってるんだ」

 

「でも、それ以上に、逃げ出したくない理由がある。傷付いて欲しくない人がいる」

 
 僕には、理由がある。
 共也君や見也さん、無川等などとは、比べものにならないくらいに、幼稚でチンケな理由だ。きっと、誰もが失笑するだろう。
 なら、笑えばいい。
 僕の理由を聞いて、笑いたいだけ笑えばいいさ。僕には生憎こんな理由しかない。
 だけど、絶対にこの理由は曲げない。例え世界中の人から笑われたって、晒ものになったって、この理由だけは曲げられない。

 吐き出せ。その理由を。



「君は、誰かの大切な人を傷付けた」

 彼女は、八取さんを、心音さんを傷付けた。

「君は、僕の友達を傷付けた」

 彼女は、浮辺君を、観幸を傷付けた。

「そして今、君は」

 一瞬だけ躊躇ったが、構うなと勢いのままに言い切る。

「僕の、大切な人を傷付けようとしている」

 愛泥さんの顔が、驚きに染まった。
 今は生憎、それを気にしている時じゃない。無川の顔を見つめて、言葉を続ける。


「僕は、それを見過ごせるほど、大人じゃないんだよ……!」

 おい神様。もし僕のこの声が聞こえているなら、一つだけ頼み事を聞いてくれ。
 どんな結果でもいい。例え僕が死んだって構わない。

「だから、僕は君を勝たせる訳にはいかないんだ! 何としてでも! 友人の為に! 大切な人の為に! 今ここで! 君を倒さなくちゃあならないんだ! 例えこの身を投げ出しても! 守りたい人が、守らなきゃあならない人が! 今確かにここにいるんだ!」

 どうかこの僕に、この殺人鬼から彼女を救わせてくれ。守らせてくれ。負け犬に、たった一つのおこぼれを勝ち取る為の、ほんの僅かな力をおくれ。



「……そうかよ」

 無川は短くそう行ってから、僕の方に跳躍。刀を上に構え、縦に切り裂くつもりだ。

「じゃあテメーは、何も守れないまま死ぬんだなぁ!」

 その刀を、僕は防げない。僕のハートでは、直接ぶつけ合わせたって、相殺はできない。
 だから、無川本体にハートを放つ。

「止まれ」

 その言葉を乗せたナイフが、空を走った。それは彼女の心臓を射抜く。
 瞬間、だった。彼女が、ピタリと停止した。

「なっ……!」
「……一つだけ、いい事を教えてあげるよ。無川刀子」

 僕は停止したまま動かない彼女に接近し、そのガラ空きの腹部に、全力を振り絞って拳を打ち込んだ。

「ぐあッ!」
「今の僕と、さっきの僕が同じ『僕』だとは思わない方がいい」

 僕の拳は弱い。それこそ、共也君の拳には遠く及ばない。ましてや相手は無川だ。あの心音さんの作った巨大な土人形の攻撃でさえ、何発も耐えた人間だ。一撃で倒せるなんて思っていない。

「君がどうして殺しをしてるかなんて、僕は知らない! だけど君は僕の大切な人たちに手を出した!」
「テ、メェ……!」
「許さないからな! 僕は絶対に許さない! 例え君が謝っても、もう遅いんだ!」

 何度も何度も、鳩尾を殴る。その度に無川の顔がどんどん憎悪で染まっていく。

「図に……乗るんじゃあねぇ! チビネズミ如きがぁ!」

 彼女が叫んだ瞬間、弾かれるようにして僕のナイフが抜けた。そして、殴ることに必死だった僕の顔面に、彼女の鋭い右ストレート。顔面に直撃し、僕を数メートル吹き飛ばす。浮遊感の後に強い衝撃が背中を襲った。
 なんて意志が強いんだ。心に刺さったナイフを、心だけで弾き飛ばすなんて。
 
「か、貫太君!」
「だい……丈夫だから……! 君は……来ちゃダメだ……!」

 壁まで吹っ飛ばされた僕。丁度愛泥さんがいる近くだった。僕には駆け寄り座り込んだ彼女。こんな情けない姿は見せられないと、意地を張って立ち、彼女の前に、無川から彼女が見えないようにする。

「……なんだ、そのハートの強制力はよぉ! テメーのハート、効力が段違いじゃねぇか! 前よりも遥かに強ぇじゃねぇか! 今まで手抜きだったのかよクソネズミがぁ!」
「違う! これは僕の意志の変化だ! 僕の決意の証だ! 僕を怒らせた君を、何としてでもぶっ倒してやるっていう決意のね! 例え君は泣いたって、僕は君を殴るのを止めない!」
「オレが泣くだぁ!? 寝言は寝て言いやがれクソネズミがぁ! そのムカつく喉元から掻っ切ってやるよぉ!」

 無川の刀が、再び迫る。当然のように、僕もナイフを飛ばした。

「甘ぇんだよクソが!」

 ナイフが刀で切り飛ばされる。粒子と化したそれを傍目に、僕は目を瞑る。
 思い浮かべる数は、十本。

「これならどうだぁ!」

 僕が無川に向かって指さすと、その腕を取り巻くかのようにしてナイフが十本出現した。それぞれに『止まれ』と刻まれている。
 そして、ガトリングのようにナイフが射出。それらは一つ一つにほんの僅かな時間差を付けて無川に飛んでいく。

「ハッ! 同じ手が二度も通用するかよ!」

 無川が飛んでくるナイフに向かって手をかざす。一瞬の後に、無川の手の周りに何本も刀が出現した。それら自体は動くことは無いが、ナイフが何本もそれらによって弾かれる。だが、隙間を通り抜けるナイフもある。
 しかし、数の減ったそれらでは無川に容易に弾かれてしまう。

「なら……もっとだ!」

 出し惜しみするな。ありったけの数を用意する。その数、二十。先程の二倍だ。これなら無川に一つくらい当たってもおかしくない。今の僕のハートなら、ナイフ一つさえ刺してしまえば、動きを止められる。

「いっけぇぇぇぇぇ!」

 僕の叫びと共に、一斉放射。

「効かねぇなぁぁぁぁぁ! 三下野郎がぁぁぁぁぁ!」

 だが無川も黙って受ける訳では無い。彼女は更に左手にも刀を召喚。二刀流だ。刀の壁を抜けたナイフ達を、一つ残らず正確に殺していく。

「……くっ!」
「それで終いかぁ!? クソネズミにしちゃあ上出来だったぜ!」
「……まだ、まだぁ!」

 脳を焼き切れ。限界を越せ。ここで無茶しなくていつ無茶をする。視界が少しだけ白く霞むが、それでもハートの力を使うのを止めない

「ぐぅっ……!」

 頭がパンクしそうな程に痛い。今にも蒸気が飛び出しそうな程に、熱い。

「ぐぅぅぅぅぅ……ぁぁぁぁああああああああ!」
「貫太君! しっかりして下さい!」

 真っ白な視界の中に、彼女言葉だけが響く。焼き切れそうな感覚の中に、彼女の手の感触を覚える。
 その行動は、僕が歯を食いしばって堪えるには十分過ぎる力を持っていた。僕が無茶を重ねる度に、また一つ、また一つとナイフが現れていく。

「あああああああああああ! これが僕の! 全力だぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 何本かは分からない。たた間違いなく先程よりも多い数のナイフが無川目掛けて飛んでいく。

「この……ネズミ野郎がああぁぁぁぁ! こんなチンケなモンでオレが倒せると思ってんのかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 視界が、段々と戻ってくる。目前では、次々と発射される僕のナイフが、次々と無川に弾かれていく。
 こちらはもうナイフを作り出すなんてできない。だが、向こうも疲れが見えてくる。ここでナイフを防げなければ無川の負け。ナイフを防ぎ切れば、無川の勝ちだ。

「しまった──」

 遂に疲れが見え始めた無川が、一本のナイフを弾くつもりが、空振った。そのまま、心臓に突き刺さるそれ。

「あぁぁぁぁぁぁっ! 何故動かねぇオレの体ぁ! こんな奴のハート如きで! こんな奴の意志如きで!」
「ああそうだ! 君はこんな奴の、チビネズミのハートに負けるんだよ!」

 停止した彼女に向かって、走り出す。その距離は5mと無い。あと数秒すれば僕は彼女に到達するだろう。

「ふざけんじゃぁぁぁぁねぇぇぇぇぇぇぇ! クソネズミぃぃぃぃぃ!」

 だが彼女はそれでも体を動かそうとするのを止めない。僕のハートは感情に働き掛ける。人は理性で考えて感情で動く生き物だ。だが、彼女の理性は、狂気に染められたそれは、感情すら超えそうな勢いだった。

「もう解除はさせない!」

 彼女が手に生成した刀を蹴り飛ばす。吹っ飛んでいくそれを傍目に、無川の顔面に一撃。クリーンヒットするが、彼女はそこから自分の意思で動くことが出来ないままでいる。

「謝るなら今のうちだ! 今なら僕はまだ! 君を許せるんだ! 君を殴るこの手を! 止めることが出来るんだ!」

 何回も何回も、無川の顔面を殴りながら言う。本当はこんなことをやりたくない。拳を当てる度に、胸の中がズキズキと痛む。それは数を重ねる毎に、痛みを増していく。人を殴ることがこんなにも辛い事なんて、知らなかった。

「お願いだ! 僕はこんなことを望んじゃない! 今ならまだ、僕は君を許しはしないけど、君を助ける事は出来るんだ!」

 数回ほど拳を打ち込み、もう一撃放とうとした時だった。

「……テメェ……! ふざけんな……! このクソネズミ野郎が……! テメェは、オレの最後の矜持まで踏み躙る気か……! 許さねぇ……! 殺す! テメェだけは必ずぶっ殺す! 殺してやらぁ!」

 その迫真のセリフたちに、思わず気圧された。殺すという単語が出る度に、手に汗が滲む。

「この……! クソがぁぁぁぁぁ! さっきから変な感情撒き散らしてんじゃあねぇぇぇぇぇ!」

 無川の絶叫と共に、彼女の上に刀が何本も出現。それらは全て無川の肩やら腕やらに突き刺さる。

「なっ……!」

 唐突な自傷行為に驚く事しかできない僕。自爆か? などと思っていると、その光景に驚かされた。
 彼女の体がフラリと傾く。無川の目は閉じられていた。

「まさか自分を殺したのか!? で、でもなんの意味が……!」

 すると、彼女の心臓に刺さっていたナイフが、まるで拠り所を無くしたかのように抜けて消えた。
 驚きに囚われていた一瞬。完全に油断していた。そして、それを逃すほど無川は甘くなかった。

「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 その突き出された刀は、僕がナイフを作って飛ばすよりも一瞬早く、僕の体を突き刺した。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.65 )
日時: 2018/07/14 09:22
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「乾梨さ……なん、で」

 自分の肩に突き刺さる刀を呆然と見つめながら、そう呟く。血は出ていないし痛くもないが、ただ冷たいという感覚だけがそこから広がる。

「オレは無川だ。……テメェのハートは心に言葉を突き刺すハート。だろ?」
「なぜそれを……!」
「んなもん何回か食らったら分かるだろうがよ」

 僕はこの時、やっと理解した。この無川刀子という敵は、力は勿論のこと、恐れるだけの価値はあるほどの洞察力も有しているのだと。それこそ、数回ハートを受ければ簡単に看破してしまうような。
 冷たい言葉と共に、鳩尾に靴底が食いこんだ。圧迫された腹から空気が飛び出す。力が刀にどんどん吸われていくような感覚を覚え、遂に膝を付いて倒れた。僕の体は、もう動きそうにない。もしかして、僕の体の力を殺したのだろうか。
 でも、どうして僕の心を殺さないんだ? それだけが疑問だ。さっさと殺せばいいのに。

「貫太君! しっかりして下さい! 貫太君!」

 僕の視界の隅に映るのは、僕の大切な人の泣いた顔。なんてらしくないんだろう。そんな表情、全然似合ってない。だけど、彼女がこっちに近付かないように、必死になって、こっちに来るなとジェスチャーをする。

「次はテメーだよ、メスネズミ」

 無川が隣さんに刀を向けるが、彼女は無川の方を一切見ない。ずっと、僕だけを見ている。ダメだ。君まで殺されてしまう。
 今は彼女に逃げて欲しかった。だけど、彼女がここで逃げない事も、既に僕は理解していた。

「逃……げて……隣さん……」
「貴方を置いて、逃げるなんてできないに決まってるでしょう! まだ分からないんですか!」

 分かっていても、そう言わずにはいられなかったんだよ。
 彼女はこうなったらどこまでも頑固だ。多分、僕の言葉程度ではそこから動きもしないだろう。

「まあそこで見てろよ。テメーの目の前で今に殺してやっからなぁ」

 無川がそう言って、刀をゆっくりと上に掲げる。
 無川は、僕に隣さんを殺すところを見せたいらしい。それ自体は、彼女の趣味のようなものだ。だが、僕をこうやって倒す必要が何処にある? 僕なんて放っておいて、彼女を殺せばよかったじゃないか。
 つまり、彼女は僕を止めておきたかった?
 僕が動かれては、困る理由があった?
 ではそれは、なんだ?

「……はは。そっか。そういう事なんだ」

 思考がスッキリした事による安心感から、つい独り言を口走ってしまう。

「……あ?」

 それに無川が釣られ、僕の方向を向いてくれたので、むしろ好都合だった。

「無川刀子。君は」

 そういう事なんだ。彼女が僕をわざわざ動けなくした理由。それは単純明快なものだった。
 僕は彼女に言う。きっと、彼女が抱いている感情の事を。

「僕が、怖いんでしょ?」

 瞬間、彼女の笑みが軽く引き攣ったのがハッキリと分かった。

「君は僕のハートに動揺してた。力が強くなったからかは知らないけど、君は僕のハートを受けて思ったんだ。恐ろしいって」
「違ぇ」
「受けたくないって、あんな恐ろしいものを使う奴が居たら安心できないって」
「違ぇっつってんだろ!」

 彼女が声を荒らげるが、僕は構わずに続ける。この言葉、絶対に最後まで言ってやるんだ。

「いいや違わないね! 君は怖かったんだよ! 僕みたいなチビネズミのハートが! たかがこの位のちっぽけな理由しか持ってない奴の意志が! 僕の決意に、君は精神的に負けたんだ!」
「……テメェ……!」

 無川がこちらに接近し、腹部に何度も何度も靴底がめり込ませる。苦しい。息ができない。死にそうだ。
 だけど、最後の維持で、捨て台詞だけは吐かせてもらう。歯を食いしばって、腹部の痛みを我慢して、腹の底から声を出す。

「いいか……もう一度言ってやる……! お前のその耳が節穴じゃないと思って……もう一度だけ言ってやるぞ……!」

 無川が心の底からの怒りを爆発させそうな表情で、僕の事を睨み付ける。だから僕は、その顔に吐きつけてやった。負け犬の遠吠えを。


「お前はこんなチビネズミが怖いんだ! お前が嘲る相手に心で負けたんだ! お前の意志は僕のワガママに負ける程度のものなんだ! 僕より何倍も強い共也君に!お前なんか勝てるわけ無いんだ! 彼に倒されたお前が三途の川にやって来るのをあの世で楽しみにしておいてやるよ!」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! 黙りやがれクソチビネズミ野郎がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 彼女の刀が、何度も何度も僕を切り付ける。具現化されていないそれは、僕の心に冷たさを刻みつける。それが触れる度に、体温が奪われる感覚がする。
 僕を彼女が切り付け始めて少しした所で、彼女が息を切らして刀を振るうのを止めた。少しの汗が、顎の先から零れ落ちた。

 そして、彼女のハートの力が発動したのだろうか。意識が朦朧とし始め、視界が徐々に虫食いになっていく。自分の意識が、どんどん遠のいていく。

「……無川刀子。君は一つ、間違えたんだ」
「……はぁ…………はぁ…………」

 息を切らしながら、僕を怒りの熱線で射抜く彼女。

「……僕は……君との小競り合いに勝ちたかった訳じゃあない……限りなく引き伸ばしたかっただけだ」
「……はぁ……はぁ…………なんだと……?」
「……勘違いしている……何も……僕は最初から勝ちたかった訳じゃあない」

 僕は、ポケットに隠していたものを、最後の力を振り絞って、隣さんの方に投げ出した。

「これは……!」

 無川が驚いたように、隣さんが恐る恐る持ち上げたそれを見る。
 それは、僕の携帯電話だ。
 通話中になっている、僕の携帯電話だ。

「……君は僕に勝とうとした。……そして君は僕を負かせた。……だけど……僕も元からそのつもりだったんだよ」

 それは既に、僕が音楽教室に入って、足元に転がっていた携帯電話を拾った瞬間から始まっている。今もまだ、続いている。

「……彼には君との約束も伝えてある。話場所の、スポットなんて、限られてる……君の名前さえ出せば……ここが容易に特定できる」

 視界が完全に真っ暗になった。まだ耳が聞こえるうちに、僕は最後に言い残す。

「……いいか……僕は……喜んで負け犬になる……!」

 最後の力を振り絞って、必死になって言ってやる。負け犬なりの、最後のプライドを見せてやる。

「君は僕との小競り合いに勝てばいいさ! そして! 彼との勝負に負けるんだよ!」

 僕は最後に、きっと彼が居る方を向きながら言った。

「後は頼むよ……共……や……く……」


 そして、全ての感覚が消えた。



「確かに受け取ったぜ。貫太」


 その一言を、最後に。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.66 )
日時: 2018/07/15 19:44
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「乾梨……いや……」

 携帯電話から流れてきた情報を頼りに、本当の名前を呼ぶ。

「無川刀子。か」

 それに対し、相手はイライラした様子でこちらに相対する。いつも余裕のある印象が深かった彼女と比べると、その姿は何倍も恐ろしさが薄れている。

「……このチビネズミ……! 最初から最後まで害虫みてぇに……!」
「観念しねぇか。無川。もうテメェにはねぇんだよ」

 足元に転がる意識不明の貫太を睨み続ける彼女に、言う。

「ここから逃れる手段も、俺達から逃げる手段も、お前を助けてくれる奴もな」
「テメェらなんざ……! すぐに殺してやらぁ……!」
「落ち着けよ。いつものエセお嬢様口調はどうした? 脅し声にも迫力ってもんが欠けちまってんじゃあねぇか?」
「黙りやがれ! 何なんだよテメェらは!」

 怒り狂ったように、言葉を撒き散らす彼女。ここまで人は崩れるのかと思うと同時に、ここまで彼女を追い詰めた友には軽く敬意を抱きそうだった。

「……俺はダチだ」
「……あ?」
「テメェが今まで殺してきた奴らの、ダチだ。俺はダチ公共が殴られて、黙っていられるようなおりこうちゃんじゃあねぇ! 覚悟しやがれ無川ァ!」

 俺がそう言って、一歩踏み出そうとした時だった。
 誰かが、俺の肩に手を乗せた。俺の背後に立っていた人物といえば、一人しかいない。

「……なんだよ、兄さん」

 そう、兄さんだ。わざわざ止めたということは、何かあるのだろう。彼の表情もまた、そう物語っている。

「共也、下がってくれないか」
「……なんだと?」

 この場でこう言った発言をする兄を珍しく思った。だがそれは俺の苛立ちとは関係ない。コイツには、キッチリと落とし前を付けさせなければならない。

「お前の感情も分かる。だが、お前の役目はもう少し後だ。ここで万が一、倒されてしまっては困る」

 相変わらず言葉足らずもいい所なセリフだ。だが、言わんとすることは分かる。

「……俺のハートで精神への干渉でもする気か?」
「その通りだ。奴の目、完全に暴走している」

 彼女の目は紅に光っている。が、以前に比べて若干だが弱くなっているようにも思えた。

「ここでお前に、退場してもらう訳にはいかない」
「だけど」
「何より、だ」

 兄さんは、ネクタイを勢い良く外し、その辺りに放り投げて言った。

「俺はまだ奴に、一度も引導を渡してないんでな」
「……そういう事かよ。いいぜ。譲ってやる」
「感謝する」

 そして灰色のスーツの上着を脱ぎ捨てた兄さんは、ワイシャツ姿になり、無川の前に立つ。その距離、およそ5m。

「……誰だテメェ」
「俺の名は友松見也。そこにいる友松共也と、お前と相対した友松心音の兄だ」
「……じゃあ、期待出来んだろうなぁ!」

 無川の奇襲にも、兄さんは全く動じない。冷静に刀をかわして、逆に距離を詰めた。刀を振るうには近過ぎ、拳を届かせるには十分過ぎるその距離まで。

「いいだろう。期待に答えてやる。ただし」

 その拳が、無川の鳩尾に叩き込まれる。空気を吐き出す音と共に、軽く痙攣を起こす無川の体。

「キレた俺は、手加減出来ないが、許せ」

 瞬間、彼女が咄嗟に飛び退く。咳き込む彼女が再び刀を向けるが、その姿は余りに弱々しい。

「……その程度、か」
「……この野郎ッ……!」

 瞬間、無川と兄さんの距離を詰められる。縦横斜めと刀を振るわれたが、兄さんは余裕で回避。攻撃されるどころか逆に無川の懐に潜り込んだ。彼女の表情が、驚愕に染まる。

「な、なんだテメェ! 何故攻撃が当たらねぇ!」
「見え見えだ。そんな太刀筋。欠伸が出るな」

 兄さんが、無川の胸倉を左手で掴み上げる。難無く彼女の体を持ち上げた彼は、右拳を握りつつ、言った。

「この一発は、俺の分だ」

 そして、この拳が無川の顔面に捩じ込まれる。捻りを加えたその一撃が、無川の顔面を作り替える勢いで変形させた。だが、兄さんはまだその胸倉を離さない。

「そしてこれは、青海の分の一発」

 再び、兄さんの拳が無川を襲う。今度は防御しようとした彼女右手に直撃。軽快な音が響くと共に、無川が悲鳴を上げた。恐らく、折れたのだろう。

「そして、この一発は心音の分だ」

 三回目の拳が、放たれた。それは無川が顔面を庇う前に、最高速度でそれを撃ち抜いた。全力で放たれたそれが無川を引き剥がす。彼女はそのまま壁に激突。彼女の目が見開かれ、その口から声として成立していない悲鳴が放出される。
 余りに、一方的だった。
 俺は初めて見たのかもしれない。
 自分の兄の、本気の怒りと言う奴を。

「無川刀子。お前は俺に火を付けた。それが、お前が俺に手も足も出ない理由だ」
「クソ……が……!」
「……大人しくしているんだな」

 兄さんが、放り投げた上着とネクタイを拾い上げる。壁に背を預けるボロボロの彼女に、もう手出しは不要と判断したのだ。

「ナメてんじゃあねぇ! 死ねぇ!」

 無川がふらふらと立ち上がり、兄さんに向かって走り出す。その目は怨嗟だけを映し出していた。
 そんなんだから、周りが見えないのだ。自分の背後に立っていた人間のことすら、忘れているのだ。

「死ぬのは、貴女ですよ」

 彼女の手に、鎖が巻き付く。そして刀が引き剥がされた。このハート、一度見たら忘れもしない。無川の背後に立つ彼女──愛泥隣は、無川の首に鎖を二重三重と巻き付けた。

「メスネズミ……! 黙って見てると思ってりゃテメェ……!」
「貫太君を返しなさい。じゃないと、本気で殺しますよ」
「誰が……テメェ……なん……ぞ……に……!」


 愛泥は容赦なく鎖の両端を引っ張り、無川の細首を圧迫していく。無川は両手が床から伸びる鎖に引っ張られているため、ロクに抵抗することすら許されていない。


「……クソ……! こん……な……所……で……! この…………オ…………レ……が……」


 その言葉を置いて、彼女はカクンと首を傾けた。



「……意識が消えた」



 兄さんがボソリとそう呟く。彼が言うのならば、間違いは無いのだろう。
 思えば、かなり呆気のないものだった。あれほどまでの脅威だったものが、来てみれば追い詰められており、兄さんがあまり苦労もせずに倒した。それまでの過程で何があったか知らない俺からしてみれば、拍子抜けとしか言いようがない。
 そう思った、矢先だった。
 何が、視界の端っこで煌めいた。

「……あ……れ……?」




 愛泥がこのように、唐突に疑問を持ったような声を出した。
 そちらを見て、驚いた。
 無川の身体中から、刀が生え始めている。それは真っ先に近くにいた愛泥を突き刺したのだ。そして、ハートの力とは違い、彼女の刺された場所からは、赤い何かがシミ出している。
 それが血液だと理解するのに、一秒も掛からなかった。 

「愛泥! しっかりしろ!」
「……私の……意識が……?」

 愛泥がそのまま仰向けに倒れ込む。血を撒き散らしながら、彼女は目を閉じた。

「オイ! 愛泥! 何があったんだよ! オイ!」

 だが、その目は開かれない。
 いくら何でも、意識を失うのが早すぎる。明らかに自然ではない現象。つまり、ハートの力だ。無川の《心を殺す力》だ。

「……その女子生徒、心が殺されている。……どうやら、物理的作用がありながら、ハートの力も付随しているらしいな。この怪物」

 怪物とは、まるでハリネズミのように全身から刀を生やす無川の事を指しているのだろう。これは最早、怪物としか呼びようがなかった。

「な、なんだってそんな無茶苦茶が……!」
「分からん。ただ言えるのは、何にでも例外はつきものであることだ」

 そう言っている間にも、無川の身体からどんどん刀は溢れ出す。それどころか、彼女は自分の足元に血の池を作っていた。みれば、身体中から少しずつ血が垂れているのだ。服にも、所々血が滲み始めている。

「共也! コイツ、ハートの力の反動に肉体が耐え切れてねぇぜ! 五分も持たずに出血死してしまうぞ!」
「……暴走……!」

 浮辺の件を思い出す。彼は周囲を無差別に偽るものと化していた。ならば、無川が周囲を無差別に殺す存在になったとしても、なんら不思議ではない。そして、彼女の対象が自分自身を含んでいたとしても、なんら不思議ではない。

「……兄さん、離れててくれ」
「共也? お前まさか」
「……まだ一回も、俺は何にもしてねぇ」

 俺は文字通り刀まみれとなった無川に近付きながら、言う。

「俺だって何かしなくちゃあならねぇんだ」

 無川の刀にそっと触れた。そして繋げる。その奥にある心と、俺自身の心を。



「待ってろよダチ公共! 今この俺が! この友松共也が! 引き摺ってでも連れ戻してやっからなぁ!」


 そして、俺の意識は真っ暗に落ちた。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.67 )
日時: 2018/07/16 17:14
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 あの感触。今でも覚えている。
 柄は握ってみると簡単には滑らないような装飾が施されていた。刀というのは見た目以上に重いものだった。鞘から刀を抜く時、意外と力が要ると気がついた。そして魅入られた。その刃の美しさに。
 抜いた途端、目の前の奴が急に大声で叫び出すから、パニックになってめちゃくちゃに振るった。今思えば、あんな振り方で人を殺めたのか本当に疑わしい。
 だが事実は変わらない。相手がたまたま酒に溺れていた事もあってか、刀は簡単にアイツの腹を切り裂いた。
 今でも覚えている。肉に差し込む感覚。動きにくくも少し力を入れると布を切るようにスッと刀が流れていく感覚。そして放たれる、血の雨。
 私は魅入られた。その血を纏った、刀の輝きに。
 私は取り憑かれた。その時点からの過去の自分に。

「……違う……私は乾梨透子……殺人鬼なんか……じゃない……」

 そうして今日も、『私』が笑う。

「いーや違うね」

 私が『私』を、嗤う。

「テメェはオレと同じ、殺人鬼の無川刀子だ」







 目を開けると、真っ先に視界に映ったのは、真っ白な地面だった。うつ伏せで倒れているらしい。膝を付いて顔を上げる。

「ここが……無川の心……か?」

 ただ、それは明らかに、俺が今まて見てきたものとは違うものだった。
 世界が、分かれている。赤い領域と、白い領域に。白と赤の比率が三対七といった所か。その境界線は、空にまで伸びており、白い空と赤い空の二つがあった。

「……なんだって、こんな二つに分かれてやがる……」

 確かに、人によって風景の色が違うのはよくある事だ。だが、ここまで対照的に違う色なのは、珍しいの域を超えて、異常だ。

「……アレが、核だな」

 遠くに見えた一本の木。それは境界線のちょうど真ん中に配置されている。それに駆け寄る俺。数m程まで近付くと、その木もまた、赤と白の真っ二つの色に分かれている事に気が付く。
 そして、白い幹の方には寒色の葉ばかりが付いており、赤い幹には暖色、しかもドギツイ赤などばかりだ。オレンジや黄色のような、所謂幸せの色は全く無い。あるのは怨嗟とか、そういった感情を示す葉ばかりだ。

「……あ……その……えと……?」

 困惑したような声が、木の向こう側から聞こえた。その声は確かに無川と同じものではあるが、何処か本質的に違うものを感じた。声音の雰囲気というものだろうか。
 木の向こう側から出てきたのは、無川刀子──いや、乾梨透子だ。アイツとは顔や身長そこ同じなものの、メガネやカチューシャといったものを付けており、その手には物騒な刀などは握られていない。
 そして、その瞳の色は濁りきった血液のような紅色ではない。透き通るような茶色だ

「……どうして……と言うか…………ここは……?」

 思えば、心を繋げた経験が無くて当たり前だ。相手こそ、ここがどこかわからないのも道理だ。最も、高確率で人間は気が付くのだが。直感というもので、ここが自分の心の中であることに。

「……テメェ……俺の言いたいこと、分かってんだろうな」

 コイツにはどのみち恨みがある。今更演技を戻そうが関係無い。この拳をこの顔面にぶち込み、ダチ共を連れ戻さなければならない。
 だがそんな俺の怒りなど知らないで、乾梨はビクビクしながら俺の言葉に恐れるだけ。

「ひえぇッ!? な、……わ、私が……な、……何を……したって……」
「とぼけるんじゃあねぇぜ! もう演技だってのはバレてんだ! とっとと正体を表しやがれ!」
「な、何言ってるんですかぁ! わ、私……演技なんて……し、て……無い…………の…………に」

 だが無川──乾梨は全く身に纏う雰囲気を揺らがせない。どこまでも弱く、張りのないそれ。俺の言葉に泣き出してしまった彼女は、あの殺人鬼とはどうしても結び付かない。

「お、おい! そんな演技するんじゃねぇ……気が滅入るだろうが……」
「……ひどい……こんな……酷すぎます……うぅ」

 内心では、俺は困惑していた。何が起こっている? この態度、とても演技とは思えない。
 困り果てて乾梨を眺めていると、少しだけ違和感があった。
 乾梨の向こう側が、透けて見えた気がした。確かに、彼女を通して向こう側の木の模様が、一瞬だけ見えた気がした。

「……存在が……薄い……?」

 心の中での存在が薄い、つまり、魂の密度が薄い。それは、100%純粋な魂ではなく、何者かによって部分的に搾取されていることにほかならない。

「お、おい乾梨、お前一体」

 俺が乾梨に声をかけようとした瞬間だった。

「それ以上、『オレ』に近づくんじゃあねぇよ。デカネズミ」

 背後からのその声に、耳がざわついた。咄嗟に振り向く。が、ふと違和感を覚えた。今聞いた声は、確かに乾梨そっくりのものだ。だが……若干、高いような気がした。根本的に、声質そのものが。
 そして振り返ると、その疑念の原因が分かる。

「……テメェは……?」

 そこに居たのは乾梨──ではない、無川だ。メガネもなければカチューシャも無い。その鋭い目付きと赤い瞳は正しく彼女のそれだ。
 だが違和感も同時にあった。彼女に比べ、体が幼い。背丈は彼女よりさらに低い。

「見りゃあ分かるだろ。テメェの目は節穴か?」
「だが……」
「魂の容量的に、この体くらいが限界なんだ。大半の魂は、そこの『オレ』が食っちまってっからな」

 彼女が指差す先にいるのは、乾梨。
 どういう事だ?
 何故乾梨と無川がここにいる? 何故、同一の存在の二人が、同時にここにいる?

「テメェがどうやってここに来たか、オレは何となく分かる。直感てやつだがな。テメー、オレを切除しにでも来たか?」
「……ああ。そうだ。お前に取り憑いている精神寄生体を引き剥がして、正気に戻してや……おい、何笑ってんだ。お前」

 突如として、無川が腹に手回して笑い始める。心底おかしそうに。救いようのない馬鹿を見つけたと言わんばかりに。

「……くく……アッハハハハハハハハ! テメェなんつーおめでたい頭してんだよデカネズミ!」
「な、何がおかしい!」

 腹を抱えて馬鹿にしてくる幼い無川に、腹の底からイライラが湧く。クソ、こんな気分にさせられるとは。
 彼女は腹に手を当てつつも、もう片方でこちらを指さす。その顔は、いつに無く笑顔だ。面白くてたまらないといった様子だ。

「あのなぁ、精神寄生体なんざ、とっくの前にオレが殺してんだよ!」
「な……ッ!」

 確かに、彼女のハートを考えればそれは容易いことかもしれない。

「それにも気が付かずに……クク……まさかテメェ、オレが精神寄生体とでも勘違いしてたのかぁ?」
「な、ならお前は何なんだよ! 無川ぁ!」
「教えてやるよ」

 無川は俺の横を通り過ぎて、乾梨の隣に行く。そして、泣いている彼女の肩に手を乗せて、一言。

「オレは『オレ』の一部。つまり、一つの人格。切り離しようのないコイツの心の一部なんだよ。表の暴走も、オレが起こしてる訳じゃねぇ。根はコイツだ」
「なんだと……!?」
「な、何の話……? あ、貴女誰……? 私みたいな顔して……」

 乾梨のその声は、か細くも疑念を抱いていた。まさか、彼女は無川の存在を知らないのか?
 無川は乾梨の首に両腕を回し、左手で乾梨の頬を撫でながら言う。それに対し、乾梨は無川とは真逆の表情をしていた。

「そしてコイツは逃げてんのさ。コイツは『オレ』であるという意識から目を背けている。ホントは内心じゃあ理解しているくせに、見て見ぬ振りをしてるって訳さ」
「い、いや、私は」
「お前は『オレ』だ。テメェはただ、昔の自分から逃げてるに過ぎねぇ。ああ構わねぇよ。そうやって逃げてりゃいい。その分オレは見つかりにくくなる。お前の逃避がオレを隠蔽してくれるんだからなぁ」

 俺の目には、悪魔にしか見えなかった。幼いとは言え、彼女は依然としてその悪性を秘めている。

「──例えテメェが乾梨の一部だろうが」

 だが、そんなことは知ったことではない。

「俺は、テメェを倒して、ダチ公共を引っ張り上げなきゃならねぇんだ」

 無川を手招きする。すると彼女はニヤリと口を歪めた後に、乾梨から離れ、その手に刀を出現させる。

「……覚悟しろ」
「おう、やれるもんならやってみろよ。さぁ、早く」

 無川はどういう事か、ノーガードだ。その鞘から刀を抜こうともしない。その顔は笑っている。瞳の奥に、包み隠せない狂気があることが、はっきりと分かった。

「……馬鹿か!」

 俺は容赦せずに、自分の目の前と無川までの距離をハートの力で省略し、目の前に拳を突き出す。それは無川の鳩尾の前に現れ、そのままそこを撃ち抜く。拳にも確かに、はっきりと、人間の肉の感触があった。

「かはッ!」

 そして、確かに息を吐き出す音がした。苦しそうに、呻く声がした。
 その光景に、心の底から、驚く事しかできない。

「どういう、事だ」
「どうしたもこうしたもねぇよ。見た通りだ」

 だが、殴られたハズの無川は、全く痛がる様子はない。反応はしたものの、その表情は変わらない。代わりに苦しそうに咳き込むのは──乾梨だ。

「何でだ! どうしてお前へのダメージが乾梨に行く!」
「だから言ってんだろうがよ。オレと『オレ』は一心同体って奴。オレの魂のリソースは三割。アイツは七割。オレへのダメージの七割はあっちに行くんだよ! 分かったかこのデカネズミが!」

 瞬間、無川の刀が一瞬で煌めく。油断していた、そう後悔した瞬間、肩に激痛。
 血が宙に迸った。

「ぐぁッ!」
「チッ、やっぱ三割のリソースじゃあハートの力までは付かねぇな。せいぜい普通の刀レベルだ」

 確かに肩が切り裂かれたが、相手のハートが発動する予兆はない。どういう訳か、敵はこちらの心を殺さないらしい。それが、不幸中の幸いだった。
 だが、状況は好転していない。

「俺に……選べってのか……!」

 無川は、迫る気だ。俺に選択を。残酷過ぎる選択を。
 恐らく、乾梨を倒せば無川は倒れる。アイツらは一心同体。消える時は両方消える。

「乾梨とダチ公共を天秤にかけろってのか! テメェは!」

 それはつまり、無川を殺す事は乾梨を殺す事に繋がる。無害の乾梨を殺める事なんて、できない。
 だが、それらを生かすことは、浮辺や観幸、貫太や愛泥を見殺しにすることになる。そんなことはできない。何のために、俺は今ここに居るんだ。
 俺に出来るのは、目の前のせせら笑う小さな悪魔を、睨み付ける事だけだ。

「ああその通りだ! テメェに殺せんのかよ! なんにも罪のねぇ哀れな子羊ちゃんがよぉ!」

 最悪だ。
 この目の前の嗤う狂気を、俺は舐めていた。
 俺は今初めて、目の前の無川という壁の大きさを痛感した。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.68 )
日時: 2018/07/19 06:47
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

「どうしたさっきまでの威勢はよぉ! ネズミらしく無様に這い蹲って足掻いてみやがれ!」

 無川の鋭い太刀筋を回避するのに精一杯だった。いや、それも余裕が無い。徐々に、少しずつだが、俺の体は切り付けられる。彼女の動きが、俺に追い付いてきている。先程までのスピードとは大違いだ。
 貫太達の苦労があってこそ、兄さんの圧勝があったのだ。万全の無川の相手は、かなり危険なものだと思い知らされる。今は幸運にも《心を殺す力》が何故か発動されていない。それだけでもまだマシだ。そう思うしか無い。

「うるっせぇなぁ! 生憎こちとら人間なんでなぁ! 考え無しには動けねぇのが人情ってもんだ!」
「考えてどうにかなる問題とほざくたぁ、随分と脳天気な野郎だなぁ! デカネズミ! テメェに残された選択肢は三つだ!」

 無川がそれと同時に、刀を振り下ろす。それを躱した瞬間、無川がそのまま胴体を軸に回転。俺に迫る左手に刀が作り出され、俺の肩を斬り裂いた。
 コイツ、二刀流とか出来んのかよ!

「ぐぁぁぁぁッ!」
「A! ここでテメェがオレに殺される! B! ここでテメェがオレを『オレ』ごと殺す! C! 『オレ』を殺してオレを殺す! さぁどれだ! どっちにしろテメェは全員なんて救えねぇ! さぁ切れよ! 切り捨てられねぇなら、オレがテメェのその首斬り捨ててやっからなぁ!」

 無川の刀が右斜めと左斜めから同時に迫る。後ろに大きく飛ぶと、無川はそのままこちらに二本の刀を投擲。両手で庇うと、右腕には柄が当たったが、左腕には深々と刃がくい込んだ。激痛が腕から脳へと駆け巡る。

「ぐぁぁぁぁッ!」
「だが、もう選択の余地もなくテメェは死ぬみてぇだなぁ! 残念ながらテメェの末路は選択肢A! テメェはここでオレに殺される!」

 自分の腕から、刀を引き抜く。ダバダバと血液が溢れるが、あくまで見掛けのもの。これは精神体だ。心が折れるか、致命傷を受けない限りは死なない。
 せめてもの抵抗で、俺はそれを笑い飛ばす。強引にニヤケ顔を作り、無川に相対する。

「いや違ぇな! 俺が選ぶのは選択肢D! 誰も殺さずに全員を救うだ!」
「ハッ、んなモンがまかり通る訳ゃねぇだろうがよぉぉぉ! そのまま理想っつー泥沼に溺れて死んじまえ!」

 再び刀が作り出され、俺に向かって無川が接近してくる。

「クソ!」

 ヤケクソになって、ハートの力で距離を省略し、近付く前にその鳩尾に拳を撃ち込む。少しだけ動きが止まったスキに、一度手を引き抜いて接続先を変える。その先は、無川の首の前。俺はその細い首を、ガッシリと両手で掴んだ。

「……チッ……これは少々効くみてぇだなぁ……」

 無川が、苦しそうに顔を歪めた。これならいける。そう思った時だった。

「ただ、アイツは死ぬなぁ? 間違い無く」

 意識を逸らそうとしていたのに、その一言で、俺の意識は乾梨の方に向く。心底辛そうな表情で、息を吸おうと必死な、彼女の方へと。

「苦し……誰……か…………す……け……て」

 その顔が、俺の心に迷いを生む。こちらに伸ばされた手が、俺の手を弛緩させる。そして、それを無川は見逃さない。無川は一瞬のスキを付いてするりと俺の両手からすり抜けた。

「ククク、中途半端な奴だ。さっさと腹ぁ括れよ。なぁに、コイツが死ぬだけの話だろ? テメェは『オレ』っつー無実の民を殺したその手でダチ公共と握手すんだろ? 人を殺した汚ぇ汚ぇハートで、これからも人を救っていくんだろ?」
「テメェ……!」
「いいじゃねぇか。人を食い物にするなんて当たり前。オレを食らって幸せに生きればいいじゃねぇか! オレのように食らってなぁ!」

 その物言いに、俺は言葉を荒げずにはいられない。

「言わせておけば無川ァ! テメェと同じにするんじゃあねぇぜ! テメェのような人情もクソもねぇような! まるで畑に捨てられた野菜みてぇに腐り切った奴と! 他人を比べようってのがまるで間違いなんだよ!」
「ハッ、当たり前だ! オレはテメェと正反対。だからこそ、テメェが気に食わねぇ! テメェのようなただそこにいる人間を理由無しに見捨てられない人間がよぉ! 普通は逆! 全くの逆! 人は理由無しに人を助けなんてしねぇ。だからテメェは立派な狂人だ!」
「俺が狂人なんざどうだっていい事じゃあねぇか! それを言うなら、人は理由無しに人なんか殺さねぇ。理由があっても殺さねぇ奴は殺さねぇんだ! だがテメェは殺す! 理由があろうとなかろうとなぁ!」
 
 その言葉に、一瞬だけ無川の動きが止まった。
 そして、彼女は言う。


「ああそうだよ。誰だって、理由無しに殺したりなんかしねぇんだ」


 彼女の予想外の発言に、思わず言葉を奪われた。
 何故だ。何故そんな事を言う。お前は、お前は無差別殺人犯じゃないのか。
 まるで殺人には愉悦以外の理由があると言わんばかりの言い回しに、困惑するしかない。

「だからオレは殺す! 誰だろうが、何だろうが、殺すんだよ! そうしなきゃ、オレの存在意義はねぇ!」
「なんだって、テメェは人殺しなんてしてんだよ! 人を殺さなきゃならねぇ理由でもあんのかよ!」
「うるせぇデカネズミ! オレには、オレにはコレしかねぇんだ! コレだけしかやりようもねぇんだ!」

 やはりそういう事だ。
 無川は、何か理由がある。
 ここは心の中。そして人の形をしているものは皆、精神体でしかない。体という器が無い分、ここでは人は幾らか正直になるのだ。つまり、無川が表では隠していた事が、ここで露呈しているのか?

「だがよぉ……! このままじゃあ不味いんだなこれが……!」

 無川に防戦一方どころか、こちらには無視出来ないダメージが着々と積み重なっていく。そろそろ防御も限界だ。だが、無川を消す訳にはいかない。しかし、無川を消さずに止める方法など、何も無い。

「しつけぇネズミだな、テメェは何がしたい?」
「……俺は人を救いたいだけ。それだけ、だ」
「ならオレを救うと思って死んでくれ」

 その言葉と同時に突き出された刀が、右腹を貫いた。そして、それを右にスライドさせて腹を裂かれる。
 瞬間、視界にノイズがかかったような感覚を覚えた。遅れて、激痛が身体中を駆け巡る。

「ぐぁぁぁぁぁッ!」

 ダメだ。埒が明かない。少なくとも、無川は手加減の出来る相手ではない。何か、何かを考えなければ。この絶望的な状況を打開するための、何かを。

「……気に食わねぇなぁ」
「……何がだ」

 無川がこちらを見て、つまらなさそうに、と言うよりは、憎たらしくてしょうがないといった表情でこちらを見てくる。

「テメェ、今考えてるよなぁ? どうやったらこの状況を打開できるか、とか」
「……読心術でもあんのかよ」
「知るか。……テメェ、バカか? そんなん、最適解がすぐそこに転がってんだろ」
「……どこにだよ。俺の視点からじゃンなもん見えねぇ」

 無川の顔が、変わる。イライラが頂点に達した、怒りの顔へと。

「オレを殺せばいい話だろうが。……いい加減にしろよ……!」

 彼女の示した解答は、俺にとって論外なものだった。確かに俺とは違った視点で見た時の最適解ではあるが、俺にとってその解答は最悪解だ。

「それはダメだ。テメェも乾梨も死んじまう」

 俺が何気なくそう言った瞬間、彼女がこちらに刀を投擲。それは俺の頭の右スレスレを通って、視界の外へと消えて行った。

「もうそんな状況じゃねぇってのが分かんねぇのか。テメェはオレを殺さなきゃ死ぬ。オレはテメェを殺さなきゃ死ぬ。そういう状況だってのが、分かんねぇのかよ!」

 彼女の物言いは、幾つか違和感があった。ただそれは硬いの無いもので、俺の頭の中をフワフワと漂うだけ。

「うるせぇ。無川刀子」

 だが、反論はさせてもらう。彼女の言葉には、許せない箇所がある。

「乾梨には何の罪もねぇ。ンな奴、俺が死のうが殺せるか」
「……狂ってやがる」

 無川が、汚物を見るような目で吐き捨てる。彼女は俺が気に入らないようだ。だが特に気にはならない。別に俺は、受け入れられたい訳では無い。

「そいつは結構。ところでだ、無川」

 違和感の一つが分かった気がした。それを無川にぶつけて見る。彼女の、矛盾点を。

「何故俺に警告する?」
「……は?」
「おかしいんだよ。お前は俺を殺したいはずだ。なのに、何故そんな警告をするんだ。まるで、俺に自分を殺すように言ってるようなもんだぞ?」

 無川の平静が、明らかに崩れた。やはり、精神体であるが故に、彼女の本音が現れやすくやっているのだ。

「な、何言ってやがる! オレはテメェを殺したくて堪らねぇに決まってんだろうが!」
「じゃあ、殺せよ」

 俺は両手を広げて、無川にガラ空きの胴体を見せる。間違い無く、俺を殺せるように。彼女なら、一瞬で殺せるはずだ。

「……遂に思考回路まで狂いやがったか……デカネズミ……!」
「それはお前だよ。無川。ほら、俺はノーガードだ。思うままに殺せよ」

 表では狂ったように殺しを楽しんでいた彼女の表情が、こちらでは全く見えない。完全に、まるで何かに強いられているかの様子。つまり、表のアレは演技なのか。
 それが、ここに来て剥がれている。無川の身体が表に比べて幼いのもあるかもしれない。自分の本音を隠す力が、外見に引っ張られて退化している可能性もある。

 無川は全く防御をしない俺を、ずっと驚いたような顔で見つめるだけだ。その刀は、震えている。

「あ、ああああああああああ!」

 彼女の喉から、絞り出されるような、悲鳴とも取れる叫び声が放たれた。それが示す感情は、どう考えても、愉悦では無い。
 俺の右肩から左脇に掛けてが、深々と斬り付けられる。激痛が駆け巡るが、歯を食いしばり手を握り、踏ん張って何とか悲鳴を上げないように堪える。
 無川と言えば、その一撃では止まらず、何度も何度も俺に攻撃を放つ。斬って斬って斬りまくる。ただし、致命傷にならない部分を。
 そして、無川の攻撃が、やんだ。息を切らして、肩を上下させる彼女。いつの間にか、手からは刀が消えている。

「お前がさっきまで躊躇なく攻撃できていたのは、俺に避ける意志があったからだ。簡単には殺されないから、これ位なら振るっても大丈夫。そう思っていたんだろ。違うか?」

 無川は、何も言わない。ただただ、こちらを親の仇でも見るかのような、憎そうな目を向けてくるだけ。

「お前は怖いんだよ。俺を殺す事が」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! オレを誰だと思ってやがる! オレは殺人鬼の無川刀子。決して殺しを恐れちゃいねぇ! 勝手な事抜かしてると、その心臓掻っ捌くぞデカネズミがぁ!」
「じゃあさっさとやってみやがれ! オラ、ここにあんだよ!」

 自分の胸を拳で叩く。無川にここにあるぞと言わんばかりに。
 だが彼女は動かない。微塵も。その手に、刀すら出現させずに。

「何故だ」

 無川は信じられないといった表情で、こちらを見つめてくる。そして、口から不意に漏れたように、問いが発せられる。

「何故テメェは、動かねぇ。オレを殴らねぇんだよ」

 その問いに、答えるのは簡単だった。

「そんなの決まってんだろ」

 俺は、無川を指さして言う。正確には、その緋色に染まった目を指して、言う。


「お前が、泣いてるからだ」


「……は?」

 無川が、何のことを言っているか分からないと表情を歪めた後、自分の手で目元を拭い始める。すると、確かにそこに流れていた涙が、彼女の手を濡らした。

「な、なんだってオレは……違う……! 違う! こんなの、こんなのオレじゃねぇ! オレの涙なんかじゃあねぇ!」
「確かにそれはお前の涙だ! テメェは本当は楽しんじゃあいねぇ。そう思い込んでるだけなんだよ! その涙が、証拠なんじゃあねぇのか!」
「うるせぇ! うるせぇんだよ! 死ね! オレの中をめちゃくちゃにするテメェなんか殺してやる!」

 彼女がいっそう涙を溢れさせながら、刀を取り出して、それをこちらに向かって一閃。
 俺はそれを避けない。避けようとしない。

「俺はお前と向き合うと決めた。だから、お前の攻撃を避けたりなんかしねぇ。遠慮無く、斬ればいい」
「あああああああああああああああああああああああああああ!」


 そして、刀が煌めく。
 俺の首は、飛ばなかった。


 代わりに、カランと、刀が手から零れ落ちた。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.69 )
日時: 2018/07/21 08:29
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: NtGSvE4l)

 無川は、その場で刀を落とした。それを握っていた手は、ガタガタと目視できるほど震えている。

「なんでだよ……」

 呟くように、嘆くように、彼女は言う。目から溢れ出るのは、大粒の涙。悔しそうに歯を食いしばって、彼女は言った。


「なんでだ! なんでオレはテメェが殺せねぇ! 刀を握る事ができねぇ! オレは、オレは無川刀子なんだ! 人を殺さないオレに意味はねぇんだ! なのに、なのになんでなんだよ! ふざけるんじゃねぇ!」

 嗚咽の混じったその声が、酷く脆く聞こえた。まさかあの無川が、こんな声を出すなんて思ってもみなかった。

「……無川。お前」
「うるせぇ! オレに、オレにそんな目を向けるな、そんな目で見るな! テメェのような奴には分からねぇんだよ! 下手な同情や憐れみを浴びせる側の人間には、浴びせられる側の思いなんて分かりやしねぇ。こっちの泣きたくなっちまうような、情けなさだって知りやしねぇ!」

 彼女は勢いのまま、こう言う。

「お前らなんかに! お前みたいな奴に!
捨てられた側の気持ちが分かってたまるかよ!」

 その言葉が、俺の心に響く。
 そして、今の今まで遠かった無川の存在が、すぐそこまで近付いて来るような、そんな錯覚をした。
 だから、彼女にはこう言う。
 仕方ないのだ。これは、言わなければ分からないこと。彼女には、この事実を認識してもらう必要があった。
 声を張り上げて、無川に言葉を叩き付けた。

「分かんねぇに決まってんだろ! だって、テメェ自身が言葉にしてねぇんだからな!」

 きっと、予想すらしていなかった言葉に。

「……な……に……?」

 表情が一瞬で、訳が分からないと言いたげな顔に転換した。

「テメェがどんな気持ちか俺には分からねぇ。……だけどなぁ、テメェは分かって貰おうともしねぇんだ! 言葉にすらしない癖に分かってもらおうなんざ、都合が良すぎるんだよこのバカが! 思ってるだけじゃ伝わらねぇんだよ!」

 だが無川も声を張り上げる。こちらの声を押し返す勢いで。


「誰が……! 誰がオレの話を聞くってんだよ! 血にまみれたこのオレの、誰だって殺しちまうこのオレの話を! オレの周りに誰が居るってんだよ!」

 だが負けない。意地でも食い下がらない。更に、声を押し返す。こうなればもう、武器もハートも要らない。
 ただの意志と意志のぶつけ合いでしかない。だが、そうしなければ分かり合えない。理解など、出来るはずもない。

「俺が居る! 今ここに、確かに、目の前に俺が居るじゃあねぇか! それがテメェにはわっかんねぇのかよ! テメェの言葉を聞かせてみろ! 分かる分からねぇの話はそれからだ!」

 俺の言葉に、無川はこちらを、いっそう怪訝に、不可解なものを見つめるように言う。お前は異常だという彼女の思考が、目線でハッキリと伝わってくる。


「だったら聞かせてやるよクソネズミ」

 疲れたような笑いを浮かべて、彼女は言う。

「オレはな、正真正銘の人殺しだ。ハート持ちになる前に、人を一人斬り殺したんだ」
「ハート持ちになる前から?」
「ああ。オレはハートを持つ前。『オレ』とオレが別れてなかった頃、乾梨透子なんて名前じゃあ無かった。『オレ』には無川透子って名前が付いていた。ただしトウコのトウの字は刀じゃねぇ。透き通るの方だ」

 無川というのは乾梨の旧姓だったらしい。
 そして無川は語り出す。自嘲するかのように、自らの過去を。

「『オレ』はクズとその愛人の間に生まれた子供だ。父親はとても表で言えるような職じゃねぇ。母親はいつもオレより男に構っていた。当たり前だ。『オレ』は予想外の子供。生活を圧迫させる以外の役割を何も果たしちゃいなかったからな」

 彼女が語り始めると、頭の中にノイズ混じりの映像のようなものが流れてくる。
 今、俺は乾梨と心を繋げている。同じく心の繋がっている無川の脳内の映像が、こちらに流れ込んできているのだ。つまり、無川にもこちらとコミュニケーションを取ろうとする感情が芽生えたと言うことだ。

 情景は、狭いマンションの一室のような場所。辺りには空き缶や吸い殻が転がっており、今の幼い容姿となった無川とちょうど同じ位の少女が膝を抱えている。あの少女は、乾梨、いや無川だろうか。
 他の誰かも眠っている。机のすぐ側で。机の上にはやはり空き缶などが陳列していた。長い髪や体型から察するに、女性だろう。

「だが、『オレ』はその状況になんにも感じちゃいなかった。ただ自分が生きてりゃそれでいい。そう思っていた」

 すると、脳内映像に変化が起こる。誰かが部屋の中に入ってきて、その女性の近くまで行き、その髪を引っ張って頭を持ち上げた。それは、小太りの男性だった。

「そしたら突然ある日、父親が何かの理由で暴行を始めた。酒に酔ってたのもあってか、母親が動かなくなった。標的にされた『オレ』は抗おうと必死になった」

 何回も何回も、女性が殴られる。次第に女性は動かなくなり、やがて男性の攻撃は無川へと向かう。彼女は必死に逃げ回るが、部屋は狭い。空き缶を踏んずけて、彼女は転んでしまう。

「そして、オレは親を殺した」

 彼女が転んだところに、丁度何か細い板のようなものがあった。彼女がそれを手に取って、鞘らしきものを外すと、煌めく刃が姿を現す。
 その刀は、無川のハートによって作り出されるものと酷似していた。
 そして映像の中で、無川がそれを目を瞑ってめちゃくちゃに振るう。それは幸か不幸か男性の腹を切り裂き、それはそのまま音を立てて倒れた。血の海の中で、無川だけがガタガタと刀を見つめ、肩を上下させて震えている。

「斬り殺したんだよ。『オレ』は自分の父親を。アイツが持っていた刀でな」

 すると、今度は場面が入れ替わる。場所は幼稚園のような雰囲気に似ている。そしてその中に、無表情で佇んでいる無川が見えた。

「『オレ』はその後施設に入った。だが、殺人鬼だ、人殺しだと受け入れられなかった」

 小さな男の子達が、無川に暴言を浴びせる。小さな女の子達が、無川を遠巻きから見てコソコソ話をしている。どれも、友好的とは思えなかった。
 無川は無表情でそこにいるだけ。でも彼女が一度トイレのような閉鎖空間に入ると、その顔が一気に悲しみに歪んで、涙がこぼれ落ちる。

「そして、『オレ』はその現実と過去に耐え切れなくなって、遂に自分の記憶を切り離した。そして記憶を封印したんだよ。逃げるためにな」

 なるほど。それで無川刀子と乾梨透子という二つの人格があるのか。俺はやっと納得することが出来た。しかし、幾つか引っかかる事がある。
 それは、封印したはずの無川が、何故こうして表に出てきているのか、ということだ。

「そしてある家庭に引き取られたオレは、姓を変えた。乾梨ってのは義理の親の苗字だ。だが、『オレ』はそれから無意識のうちに目を逸らしていた。だからオレの事を認識すらしちゃいねぇ」

 新しい家庭で、乾梨が平穏に暮らしている。まるで、昔のことなど無かったように。いや実際そうなのだろう。彼女の中で、アレは無かったことになっているのだろう。

「だが、あのクソ女のせいで、どういう訳かオレという人格が、ハートの力を持って、切り捨てた記憶と共に目覚めた」

 再び場面が移る。乾梨は既に高校生となっていた。その制服は俺達の学校のものである。
 そしてそんな彼女の胸に腕を、文字通り差し込んでいる女性がいる。血は出ていない。後ろ姿のため、顔は見えない。ただ、その銀色の髪がやけに印象的だった。

「そしてある日から、一定周期でオレという人格が、乾梨透子の体の表面に出るようになった」

 夜、乾梨が歩いていると、突然立ち止まり、メガネとカチューシャを外した。その目は緋色に染まっており、目付きは異様なほど鋭くなっている。これが無川が表面化した時の様子だろう。

「オレは毎回、胸の奥底で燃える怒りのような、そんな覚えの無い感情に突き動かされた。それは殺意に変換され、オレは人を切って、切って、切って」

 無川が人を切り付けているシーンが映し出される。そこには、楽しんでなどいない。業務的に、作業的に人を殺している無川の姿が映っていた。

「テメェに分かるか? 目が覚めたら突然殺人衝動に駆られて、訳もわからず人を殺して、それに苛まれるだけの毎日がよ」

 そして、彼女は映像の中で、人を殺す度に頭を抱えて悩み、苦しんでいた。
 彼女なりの、様々な葛藤があったのだろう。

「だからオレは、それを楽しむ事にした。オレが楽しめば楽しむほど、オレが現れる頻度も減った。つまり、オレは『オレ』のストレス発散の代役でしかねぇ。その為だけの存在なんだよ」

 だがある日を境に、無川は殺しを楽しむようになった。これが、今の殺人鬼としての無川の根幹にあるものなのだろう。

「笑えよ」

 彼女がガクンと膝を付いた。立っていることも、辛いような過去だったのかもしれない。いやそうだろう。そんな記憶、苦しみ無しでは引っ張り出せない。
 皮肉めいた笑みを浮かべて、彼女は言う。枯れきった表情は、彼女の自己嫌悪を表していた。

「オレは自分の行為に目を背けて、自分のやったことを悔いて、それに耐え切れなくなって、殺しを娯楽にした。自分を誤魔化した。そして、それがそのうち自分になった。最初は貼り付けただけの嘘だったのに、それがだんだん染み込んで、何が嘘で何が本当すら、分からなくなっちまった」

 そういう間も、ずっと、頭の中では映像が流れる。人を殺し、それを笑い、楽しみ、最後にはやるせない表情を浮かべる彼女が。何度も何度も、繰り返される。

「こんなオレ、笑っちまうだろ。反吐が出る程のクズだろ? 笑えよ。思う存分嘲ろよ! オレは、その程度のクズなんだからなぁ!」

 その大声は、俺への怒りとは思えない。むしろ、自分に対しての苛立ちを放っているようにも見えた。
 俺には、分からない。彼女自身が味わった苦しみとか、体験とか、困難とか。そんなものを簡単に他人が『分かる』なんて言うのは、彼女への冒涜以外の何でもない。
 だが俺は向き合うと決めた。この殺人鬼も、根からのクズではない。どうしようもないくらい、環境が悪かっただけなのだ。



「俺はお前を笑わない。嘲ったりなんか、しない」



 返ってくるのは、鋭い眼差しと、激しい感情。
 

「下手な同意なんざ求めてねぇ! テメェには分からねぇんだよ! どれだけ弁解しようが、例えオレの言うことが真実だろうが! 一言だって信じてもらえやしねぇ辛さが! 他人から認識すらされずに、人の眼中の外で暮らす痛みが! 訳もわからず人を殺したくなって、気が付いたらこんなになっちまったオレの苦しみが! テメェに分かんのかよ!」

 ああその通りだ無川。俺にお前の苦しみは分からない。
 だが、俺にも同意できる事はある。同じような体験はある。分かってやることはできないが、似たような感覚なら、俺は知っている。
 

「施設にさえ受け入れられなかった時、希望から絶望に突き落とされた感覚になる」

 俺が呟くように言うと、無川の顔が固まった。

「似た境遇の仲間がいると考えて入った環境で、噂話だけで決め付けられて、大人達は話を聞こうとすらしない。来る日も来る日も存在すら無いように扱われ、気が付けば話す友人どころか目を合わせる人さえいなくなる」

 段々と、無川の顔が驚きに変わっていく。

「一番辛いのは、話してくれていた優しい子まで離れていく事だ。信じてと言っても、向こうはどんどん離れていく。そして、最後に一人ぼっち。誰も正面から向き合ってくれない。言い尽くせない孤独を感じる」

 胸が苦しくてたまらない。自分の思い出さないようにしている暗い過去を引きずり出すのは、内蔵が焼かれるように苦しい。
 だけど、これなしでは無川とは分かり合えない。お互いに自分というものを示さなければ、俺と無川は絶対に理解などできない。

「……ネズミ……テメェ……」
「引き取られた時、天国に行けると期待して、結局は周囲に馴染めずに同じような閉塞感。段々と周囲が自分を必要としていないことが露呈してくる。自分と真正面に向き合ってくれるのは、鏡だけ」

 思い出しただけでも、心臓がバクバクするのが分かった。胃の中がせり上がってきそうになる。精神体のくせに、全身から汗が吹き出てくる。

「俺にはお前の苦しみは分からない。わかってやれない。だけど、俺達は立ち上がらなきゃいけねぇ。俺の苦しみにもし、お前の苦しみと共通する部分があるなら」

 無川にそっと、手を伸ばす。

「この手を、取ってくれないか。俺に、お前を救わせてくれ。お前はまだ、やり直せるんだ」
「…………オレが……?」
「ああ。そうだ」

 無川は目を見開いて、俺の手の平をじっと見つめる。
 彼女の手が、その場でこちらに、そっと伸ばされた。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.70 )
日時: 2018/07/21 18:31
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: nWfEVdwx)

 その虚空をさ迷う、地獄から伸ばされたその手に、一歩踏みよる。するとその手も、こちらに更に伸ばされる。
 また一歩、踏み込む。その手もまた、少しだけ、こちらに向かう。
 そして、二人の手の距離が、一メートル未満になる。俺はまた、一歩、歩み寄った。
 そして、その手が、俺の手に、届く。後少しで、その二つは結ばれる。


 そして、その手は空振った。結ぶこと無く、空を切った。



「すまねぇ」


 その手は、俺を拒絶するように、引き戻された。

「すまねぇ。本当にすまねぇ。こんなに心が痛てぇのは初めてだ」
「な、何言ってやがるんだ。無川」

 彼女があまりに、あまりに申し訳なさそうな声を出すものだから、思わず狼狽してしまう。

「オレは、オレなんかが、簡単に救われちゃいけねぇんだよ」
「待てよ! テメェは変われる! テメェは救われる! なのにどうしてそこから一歩踏み出せない! どうしてテメェが信じられない!  この手を取れ! お前は絶対に変われる! だから、無川!」

 だが、無川は動かない。その手は、彼女の顔を覆うために使われる。彼女の涙を、受け止めるために使われる。
 両手の内側から聞こえる、無川の声。その声は、震えていた。何かを恐れているように。

「オレは、オレは無川刀子なんだ。テメェが心の底から信じられねぇんだ。九割はテメェを信用しても、残りのオレの一割が、テメェは裏切るって叫ぶんだ」
「俺はお前を裏切らない! たった一度、今の一瞬だけでいい! 俺を信じてくれ! 無川!」
「ああ、テメェは裏切らねぇだろうさ。お前は約束を守るだろうさ。……でも、でもオレは、オレは怖いんだ。そんなテメェからも裏切られるのが、ただただ怖くて、腕が震えちまうんだ」

 これは彼女に打ち込まれた心の楔のようなものだ。彼女の深層心理に刻まれた根深い他人への不信感。それが、彼女を最後の最後でつなぎ止めている。

「笑ってくれ。笑ってくれよ。オレはもう、ここから動けない。オレはもう、他人を信じる事なんてできない。だから、どれだけテメェがオレを分かろうと、オレがどれだけテメェを分かろうと、この一線を、オレは超えられねぇんだ」
「お前なら超えられる! ちょっとでもいい! その一線に手を突っ込むだけでも構わない! 俺がその一線ごとぶち壊して、テメェを引きずり出してやる! だから手を握れ! 無川ぁ!」

 俺の必死の言葉も虚しく、無川はその手を付いて、立ち上がり、その手に刀を作り出す。
 そして、俺の方を向いて、笑った。
 彼女が作ったとは思えないほど、清々しい笑い方で。

「ありがとよ。オレを信じてくれたのは、テメェが初めてだ」

 そして、彼女はその刀の先を、俺──ではなく、自分に向ける。
 思わず目を見開いて、叫んでしまった。

「お、おい待て! 何しようとしてやがる!」
「もうオレは、疲れたんだ。きっと、殺人衝動が戻れば、テメェを殺したくなる。だから、そうなる前に」
「だからってお前が死ななくてもいい! お前はまだ生きたいんじゃないのか! 俺はお前と普通の人間同士の関係になりたいんだよ! 友達から始めたいんだよ! こんな腐った関係性じゃなくて! もっと明るい、笑い合える関係になりたいんだ!」



「ああ、そうだなぁ」



「オレも、共也と友達になりたかった」



 そして、無川が自分の首に、刀を突き刺した。



「……あ……」

 無川の目は閉じられている。それはビクビクと、死を恐れていた。当たり前だ。死が怖くない人間なんか、居ない。
 そして、彼女の首には──刀が、刺さっていなかった。

「…………あ?」

 彼女が不思議そうな声を出して、目を開く。そして首元を見た。そして、それが驚いたように一気に開かれる。
 無川の刀を受け止めていたのは、横から突き出た、形がそっくりの刀だった。そして、それは無川のものとは対照的に、白く輝いている。

「もう、止めようよ」

 その声は、無川のすぐ右から発せられた。彼女がそちらを向く。

「『私』」

 そこに居たのは、乾梨透子。無川の本体の彼女が、ハートを使って、無川の自殺を防いだのだ。

「『オレ』……何してんだよ」
「見て分からないの?」
「そんなことを聞いてるんじゃねぇんだ! 何故止めた! オレは、オレはあれで救われたのに! オレ以外の誰かも、きっと救われたはずなのに!」

 鏡写のような二人、若干容姿に年齢差こそあれど、瓜二つと言っても過言では無かった。

「じゃあ、その人はどうなるの?」
「その人……だぁ?」
「そう。その人。貴女が死んでしまったら、その人は救われない。貴女は、その人を救いたくないの?」

 乾梨の堂々とした態度が、少しだけ違和感だった。彼女は、ここまでハッキリと人と話せる人間だっただろうか。

「……まさか」

 無川が、訝しげな目を向けた後に、閃いたような顔になる。決して、良い表情ではない。

「うん、多分そう」

 乾梨は、その手に握る刀を消して、こう言った。


「思い出した……というか、私はもう、逃げるのは止めたの」
「……オレの記憶からか?」
「ええ。人格が分かれた後は分からない。だけど、分かれる前の記憶は、ちゃんと思い出した。私は、その人の言葉を聞いていて、思った。私だけ逃げていちゃダメなんだ。私も戦わなきゃダメなんだって。そしたら、自然と体が動いてて、いつの間にか思い出していた」

 その人、俺の事だろうか。
 乾梨にも、俺の言葉は聞こえていた。それが、彼女を動かした。少々むず痒いが、気にしないことにする。

「私は、貴女を今まで拒絶してきた。見て見ぬ振りをしてきた。それは自分でも許されないって、分かってる」
「……」

 無川は何も言わない。目を逸らして、不貞腐れた子供のように黙っているだけだ。

「ごめんなさい。それは謝る」
「…………」

 だが乾梨は言葉を続ける。一つ一つに誠意の詰まった言葉で。

「今更許してもらおうなんて思わない」
「…………いいよ、別に」

 遂に、無川が折れたように、言葉を返した。

「……え?」
「いいんだよ。もう、どうでも」

 やはり、無川の対応は子供っぽかった。謝られて、困惑している様子だった。
 無川自体は、乾梨にそこまで嫌悪感を抱いて居ないらしい。
 だが、乾梨は構わず言葉を続ける。

「どうでも良くない。私は、私は自分のせいで、貴女にあんな事を……」

 きっとそれは、他人への配慮ができるというか、他人の事ばかり気にしていた彼女だからこそできる事なのだろう。

「あんな……無意味な事を……させてしまった……から」

 彼女は、そう何気なく言い放った。
 俺も彼女も、その場の誰も、そんな何気ない発言を、気には止めなかった。

 ──一人を除いて。

「……アハハ」

 無川が、笑い出す。急に笑い出した彼女に、困惑を隠せない俺達。
 だがその笑いは止まらない。次第に、大きさと勢いを増していく。

「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」

 遂に、彼女の笑いが、戻った。良くない方へと、おかしな方へと。

「そうかよ。『オレ』も、オレの行動を無意味と言うんだな」

 彼女は、笑う。

「『オレ』だけは、分かってくれると思ってた」

 苦しみながら、笑う。

「『オレ』だけは、受け止めてくれると願ってた」

 嘆きながら、笑う。

「苦しくても、『オレ』の為に頑張ろうと思っていた」

 泣きながら、笑う。

「だけど、そんな『オレ』すら否定するんだ。このオレの行為を、我慢を、努力を、思考を、無意味だ無駄だと、切り捨てるんだ」

 彼女はそうやって、苦しみながら、嘆きながら、泣きながら、笑いながら、確かに怒っていた。

「ち、違う。そんな意味で言った訳じゃ……」

 乾梨が慌ててフォローするが、無川が鋭い眼光を向けると、竦み上がる彼女。
 無川が手の中に、刀を出現させた。
 いつもよりどす黒く、黒の中の黒といった、そんな真っ黒の刀を掲げ、地面に突き刺す。
 彼女は怒る。彼女は叫ぶ。彼女は泣く。
 たった一言が、乾梨の何気ない一言が、無川の導火線に火を付けた。短く、無川自身が爆発してしまうであろう、爆弾の導火線に。

「うるせぇよ! もういい! オレになんて価値はねぇ! オレなんて存在は要らねぇ! そんな事実はもううんざりするほど分かってんだよ! だから、お願だから、そんな申し訳なさそうな目を向けるのを止めろ! テメェの目を見るとムシャクシャして仕方ねぇんだよ!」

 嗄れた声を主に、彼女が刀を地面に押し込む。そこはちょうど、赤と白の境目だった。
 瞬間、その二つが、唐突に分かれた。直後、地響きのような轟音が周囲を駆け巡る。
 赤色の世界と、白色の世界に分かれ、どんどん二つの世界は離れていく。俺が立っているのは、乾梨の方の白い側。離れていくのは、無川の方の赤い側。

「無川ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 だが、彼女の姿は、赤い世界と共に、俺の視界から姿を消した。この世界には、白い空間だけが残った。



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Re: ハートのJは挫けない ( No.71 )
日時: 2018/07/30 22:44
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: KLUYA2TQ)

 乾梨の心から出ると、既に乾梨の暴走は止まっていた。目を覚まして、今は傷口の手当をしている。愛泥は相変わらずそこに倒れているが、兄さんが適切な処置を施してくれたようだ。

「『私』……何処へ行ったの?」

 彼女がポツリと呟く。
 無川が、彼女の心の中から消えたのだ。行方は不明。兄さん曰く、暴走が止まるのと同時に、一人の無川に似た小さな少女が現れ、何処かへ逃げたと言っていた。彼は追い掛けるべきか悩んだが、愛泥の処置を優先したらしい。

「……なんか、心当たりねぇのか、乾梨」
「……分からないです。ただ、近くにいる事だけは……学校の中にいる事は分かります。感じるんです」
「分かった」

 俺はその言葉を聞いて、駆け出す。音楽教室から飛び出ると、真っ先にすぐ横の二年生教室の周辺を探した。

「無川……」

 俺はあいつの事を誤解していた。確かに、あいつは他人からそう誤解されるように演技をしていた。俺が勘違いをしたのも当たり前のことかもしれない。
 あいつが人を殺してきたのは事実だ。それは消しようもない、消えるはずもない罪だ。
 だけど、彼女は誰一人として殺してはいない。彼女のハートさえ解除すれば、皆は仮死状態から解かれる。彼女が頑なに人を刺す時、必ず具現化を解いていたのは、この為だったのだ。

 探し回って十分程度の事だろうか。廊下を走っていると、ふと、向こう側の屋上のフェンスに、誰かが寄りかかっているのが見えた。
 長い焦げ茶色の髪が、風に揺られて浮いている。その後ろ姿は、間違えようがなかった。

「居た……!」

 全速力で渡り廊下を突っ走り、向こう側の後者へと移動。階段を二段飛ばしで駆け上がる。
 最上階に付いたところで、階段の辺りは真っ暗になる。それでも感覚だけを頼りに進み、屋上の扉に手を掛けた。ガチャリ、と音を立てて開くそれ。
 そこに広がるのは、夜の世界。そして、一人の少女の姿。

「……無川」

 その少女の名前を呼ぶ。彼女は俺を認識すると、俯いて目を逸らした。
 彼女に少しずつ歩み寄って、気が付く。彼女の立つ場所に。こちら側ではなく、フェンスの向こう側──一歩間違えば、三階建ての校舎から転落してしまうような、そんな場所に。

「お、おい! なんて所に立ってんだよ!」
「……共也、か」
「危ねぇって。さ、こっちに戻って来い」

 俺が手を伸ばすが、彼女はそれを振り払った。冷たく、あしらうように。

「来るな、共也」
「な、なんでだよ」

 彼女の冷たい表情と声に、驚きを隠せない。
 その赤い瞳の光は、炯々と輝いている。まるで、彼女の抑え込んでいる内心を、代弁しているように。
 彼女の顔をずっと見つめていると、ほんの一瞬だけ、その向こう側の景色が見えた。透けたのだ。半透明になっているのだ。

「な……?」
「オレは今、実体がない。正確には、ハートの具現化によって現れた武器やらと同じようなもんだ。確かに見えるし触れるが、本当にそこにあるものじゃない」

 彼女はあくまで魂の一部。だがそれでもこうやって単独で具現化できているのは、一重に彼女の意志の強さ故だろう。

「共也、オレは今、自分が恐ろしいんだ」
「恐ろしい……?」

 彼女の声は、震えていた。

「オレは今、共也の事を殺したくてたまらない。この身体が、お前の事を切り裂きたいって叫ぶんだ。それを抑えるのに必死で、これでも今、話せているのが奇跡なんだ」
「……お前は今、自分を抑えてるじゃねぇか。お前はやっぱり、自分に勝てるんだよ。変われるんだ。今からでも遅く無い。戻ってくれよ、無川」
「ダメなんだ。今戻ったら、間違いなくお前を殺してしまう。オレの事を信じてくれた共也を、オレは殺したくないんだ」
「だからって……! だからって、お前が死ぬなんて間違ってる! 違うだろ! もっと別の何か、別の方法が、別の結末があるはずなんだ! 誰かが死んでハッピーエンドなんてのは有り得ねぇんだ! お前だって、お前だけ救われないなんて、そんなのあんまりじゃねぇか!」

 俺の嘆きに、彼女は何を思ったのだろうか。泣きながら、俺に微笑みかけた。やめろ。そんな、そんな満足したような表情をしないでくれ。

「……ホント、共也は良い奴だよな。オレは、オレは沢山のテメェの友人を傷付けて、関係の無い人間ばかりを殺して、それでも、お前はオレを、最後までそんな風に見てくれる。オレの事を、信じてくれる」

 彼女はゆっくりと、俺に背を向けて、下を見た。

「だからこそ、だ。そんなお前の為だから、オレは死ねる。死ぬ勇気を、持つことが出来る」
「違う。それは違う。そんなの勇気じゃない、勇気であっちゃダメなんだ! 怖がれよ、恐れろよ。お前は今、確かに死に近付いているんだ! 死ぬのが怖いっていう感覚を強く持つんだ!」
「怖いよ。ああ怖いな、共也。死ぬって、こんなに怖くて恐ろしくて、手先が震えて血が冷めていくような、こんな感覚になるんだな。分かるよ。今なら、殺してきた人間たちが、最後にあんな恐怖の表情を浮かべていた理由も、ハッキリと」

 彼女の、フェンスを握る手がガタガタと震えている。腕も足も、同じように恐怖を叫んでいる。だけど、それから彼女は目を逸らさない。

「お前はそうなっちゃいけない。簡単な話だろ。こっちに戻って来ればいい。オレの手を握ってくれればいい。後は二人で何とかしよう。お前一人だけ悩ませるなんて、しない」
「ああ。それは簡単だ。死の恐怖はそれで避けられる。でも、そしたらオレは、別の恐怖に襲われる。お前を殺してしまうかもしれない。そんな、オレにとって死よりも恐ろしい恐怖が、そこには、居るんだ」
「俺はお前に殺されない。絶対にだ。意地でもお前を止める。そこには恐怖なんてものはない。自分を信じろ。お前なら、きっとそれを抑え込める」

 彼女が、再び振り返る。
 その目は、更にいっそう、赤い光を増していた。

「お前がそうやって、オレに優しい言葉をかける度に、オレの中の殺意が勢いを増していくんだ。オレはもう、抑えられない」

「オレと共也は違う。共也は良い奴だ。だから、そんな共也はオレみたいな無価値な奴の為に犠牲になっちゃ、いけないんだ」
「違う! お前は無価値なんかじゃない! お前は今確かに、ここに居るじゃあねぇか!」
「そう、だから今から居なくなるんだ」

 彼女は、そう言って、遂に、フェンスから手を離した。
 そして、そのまま彼女の身体が、向こう側に傾く。

「じゃあな」

 その言葉を言って、彼女は視界の外へと消えた。
 気が付けば俺は、何かを叫びながら、フェンスの上を飛び越え、そのうちの一つの棒を掴んだ。

「待てぇぇぇぇぇぇぇ!」

 下の方で、無川が驚いたような顔を浮かべていた。俺は無川の所まで空間を繋げる。そして空間の境目に手を突っ込み、遠くの彼女の手を掴む。そして、力を入れて引っ張り上げる。すると、何も無い空間から、無川がテレポートしたかのように、すぐ側に現れた。

「はぁ、はぁ、はぁ……危なかった……ぐッ……!」

 無川こそ助けられたものの、状況は絶体絶命だ。今俺は、フェンスの一つの棒に捕まり、そのまま宙にぶら下がっている状態だ。そして、反対の手には無川がいる。
 かなりキツイ。無川は通常よりもかなり軽いのだろうが、それでも結構な負荷になる。それほど長く、その状況を保てるとは思わなかった。
 冷や汗が吹き出すせいか、棒が手汗によって湿ってくる。少しだけ、滑り始めたそれ。僅かだが、俺の寿命が縮む。

「ぐッ……!」
「……離せよ」
「嫌だ! やっと掴んだお前の手だ、離すわけにはいかない! 例えお前が拒もうとな!」

 無川の言葉は、俺に呆れ返ったような口調だった。構わない。俺は決めたのだから。一度救うと。

「共也、テメェだけなら、まだ助かる。だからお前は生きるんだ」
「断る!」
「……何故、テメェはオレに固執する? テメェがそこまで、オレを救おうとする訳が分からねぇ」

 彼女はそう叫ぶ。なぜなぜなぜと、俺に理由を尋ねる。

「捨てられねぇんだ」

 俺は言う。彼女の求める答えを。

「一度捨てられた人間だからこそ、一度救われた人間だからこそ、お前を捨てられない。捨てられた側の人間だから、他人を捨てられない。その辛さを、知っているから」

 俺は一度捨てられた。ばあちゃんが居なければ、俺は今でも地獄のような日々をさ迷っていたかもしれない。だから、まだ救われていない無川を、俺は見捨てることが出来ない。

「共也……」
「だから……! 俺はお前を見捨てなんかしない! 無川、頼む、お願いだ!」

 無川の目を真っ直ぐ見て、伝える。

「俺を信じろ」

 無川の目に、再び涙が浮かぶ。やるせない表情や悲しみの表情と共に。

「……信じられない。全部、ぜんぶ、しんじ、られないんだよ……オレは……」
「お前が他の誰も、お前自身すら信じられないって言うなら、俺を信じろ。お前を変えてやる。だから、俺を信じてくれ」

 俺の言葉に、無川が泣き崩れた。見たことも無い泣き顔に、それが変わる。全然似合わない。お前は、もっとふてぶてしく笑うべきだ。

「……きょう、やぁ……オレ、は……」

 その時、俺の手が滑った。

「──しまった!」

 俺の体が、重力に引きずられるのを感じた。だが咄嗟にハートの力でフェンスと自分の手の前の空間を接続。自分の手だけがフェンスを掴み、肘から先が消えた俺と無川が何故か空中に浮いているという、なんとも不思議な光景が出来上がる。
 不味い。また滑る。クソ、手汗が止まらない。なんで、なんだってこんな時に。

「おれを……見捨てて……お願い……」
「うるせぇよ! そんな願いは聞かない! 俺を信じろっつったろ! 俺は絶対見捨てないし、絶対に救ってみせる!」

 だが状況が不味いのは変わりない。また手が外れたら、今度こそ俺は死ぬ。なぜなら、感じるからだ。自分のハートの限界を。
 学校に来るまでの数回のテレポート。戦闘での使用。乾梨との心の接続。それらの負担が、今ここで来ている。あと数分したら、今の空間の接続も切れ、俺のハートは使用出来なくなる。
 もう、ダメなのか。
 俺は、救えないのか。また、あんな事を、繰り返すのか。頭に過ぎるのは、ただひたすらの無念と後悔。
 ちくしょう。そう思いながら、俺はゆっくりと、瞼を下ろす。諦めて、しまいそうになった。

「共也君! 諦めちゃダメだ!」

 その、親友の声が、耳に届くまでは。
 咄嗟に上を見上げる。すると、そこに居たのは、頼もしい男だった。

「……貫太……! お前……」
「君が今ここで諦めてどうする! 君は、無川を救いたいんじゃあ無いのか! それなのに、君が諦めてどうするのさ!」

 彼が、その手にナイフを出現させた。そして、俺のフェンスを掴む右手に突き刺す。刻まれた言葉は『離すな』。
 瞬間、フェンスと無川を握る手が、ガッチリと固定された気がした。これで、滑って転落なんてお粗末な自体は避けられる。

「……ああ! その通りだ! 俺が諦めてちゃあダメだよなぁ! 貫太ぁ!」

 俺がそう返すと、返事をするかのように、上から鎖が垂れてくる。それは俺と無川を絡め取り、上へと少しずつだが引き上げる。そのハートは、一度見たら忘れられない。

「愛泥か!」
「貴方には一度助けられましたから。これで貸し借りは、無しですよ」
「……へっ、連れねぇ奴だ」

 だがありがたい。鎖の補助を受けつつ、少しずつ、少しずつ上昇する。

「共也、無川を寄越せ」

 兄さんがそういうので、無川を握る手を少し持ち上げた。すると、兄さんの手が伸ばされ、無川が上へと簡単に引っ張り上げられる。
 俺もその後、貫太と愛泥のお陰で何とか戻ることが出来た。足場に少し感動を覚える。

「良かった……本当に……」

 安堵の息を漏らすのは、乾梨だ。きっと彼女も、責任感で押し潰されそうだったのだろう。

 皆無事だ。きっと他の人達も目を覚まし始めている。俺達は、皆を救ったんだ。
 だけど、まだ一人、救えていない人間がいる。
 俺は、その一人と向き合う。

「皆、離れていてくれないか。これは、俺と無川の問題だ」

 皆は大人しく俺の言う事を聞いて、数歩下がる。そして、俺と無川だけが、その場に残った。

「……無川」
「……きょう、や、ごめん。オレは……オレは……」

 ギラギラと光りを放つ瞳を見れば、彼女が限界であることが良くわかった。きっと、今も抑えるのに必死で仕方ないはずだ。

「お前なら、変われる。お前が信じた俺が言うんだ。間違いない」
「オレ……は……!」

 彼女が、その手に刀を持つ。どす黒い色の刀を、上に構え、俺に近付く。

「共也君!」
「共也!」

 後ろから兄さんと貫太の声が聞こえた。だが俺は振り返らず、無川の目だけを見て、言う。

「大丈夫だ。無川は、俺を切ったりしない」

 その言葉を発した瞬間、無川の口が、開いた。

「ああああああああああああああああああああ! 共也を殺したくなんか、ねぇんだぁぁぁぁぁぁぁ!」

 そして彼女は、その刀で、自分の左腕を切り飛ばした。思わず驚くが、彼女は止まらない。

「黙れ! オレの心も体もオレのもの! オレに指図するんじゃあねぇ! 殺人なんかもう嫌だ! 殺しなんかもう嫌だ! オレの、オレの体から出てい来やがれぇぇぇぇぇ!」

 そして、彼女は右腕だけで、自分の右肩に刀を突き刺した。すると、その手がブランと垂れ下がる。
 空に風が走る。彼女の長い髪が一際大きく揺れたと同時に、その身体が倒れた。

「無川!」

 慌てて駆け寄ると、彼女はこちらを見て、苦しさも混じった清々しい笑顔を浮かべた。

「オレ、やったよ。自分に、勝ったんだ。オレ、変われたのかな」
「ああ、お前は変われた。変われたんだ」
「……そっか。共也が言うなら、信じられる」

 彼女がそう言った途端、身体が透けて行く。ハッキリと、屋上の床が見え始めた。

「……なんだよ、これ?」
「オレは魂だけ……こんなに傷付いたら……消えちまうんだよ……」
「なんで、そんな、嘘だろ?」
「ホントだよ……嘘なんか……つかねぇ……」
「嫌だ。待てよ。無川。お前は、やっと変われた。これからじゃないか。言ったじゃないか。友達になろうって、なぁ」
「……ごめん」
「謝るんじゃあねぇ! 謝ったりなんかするんじゃあねぇよ! 無川ぁ!」

 彼女の身体を抱き起こそうとしても、俺の手は彼女の身体をすり抜ける。もう、触る事さえ出来ない。

「……ちくしょう、俺は、俺はぁ!」

 俺が床を一際強く殴る。だが、じんわりと痛みが伝わるだけで、何も変化しない。広がるのは、途方もない無力感。

「あの、友松さん」

 そんな中、俺に声をかけた奴がいる。乾梨だ。彼女はこちらに駆け寄って、無川のすぐ近くに座った。

「……なんだよ、乾梨」
「私から、提案があるんです。もしかしたら」

 彼女は言った。


「『私』を、助けられるかもしれない」
「……なんだと!?」
「保障はないんです。でも、もうこれしかない」

 彼女は言う。無川の消失は魂のエネルギーの様なもの不足が原因であると。つまり、誰かがそのエネルギーとやらを提供すればいい。

「だから、私と無川の心を繋げて下さい。切れないように、完全に」
「……それは……」

 確かに、そうすれば無川は救われるかもしれない。だが、心を完全に繋げるなんて、出来るのか。
 俺のハートで、俺の力だけで、出来るものなのか。

「違う。やるんだ」

 そうだ。出来るとか出来ないとかの話ではない。やるのだ。やり遂げるのだ。

「無川、乾梨、俺は必ず繋げる。だから、二人はお互いを受け入れてくれ」

 二人の手を握って、無川の場合は手を握るように触れて、俺は言う。

「無川、乾梨はお前の行動を否定したんじゃない。お前に自分の罪を着せてしまったのを悔いていただけなんだ」
「…………『オレ』……」
「……『私』、ごめん。でも、もう一度だけ、もう一度だけ私にチャンスを頂戴。必ず、私はあなたを受け止める。受け止めてみせるから」

 乾梨の言葉に、無川は笑ってこう言った。

「ああ、オレも受け入れるよ。『オレ』の事を、な」

 二人の言葉を聞いて、俺はハートの力を使う。無川の消えかけた心と、乾梨の心を、いつものように自分と他人を繋げる要領で、繋ぐ。それが終われば、後は、二人の心次第だ。そして、無事に接続が完了する。
 直後、俺の視界が、一瞬だけ歪んだ。

「……やべ……限界……」

 先程まで、ハートの力の使い過ぎで限界であったことを忘れていた。そんな状態でこんな風にハートを使えば、どうなるかはもうお察しの通りだ。
 俺の視界が、倒れた。正確には、俺の体が倒れたのだろう。不思議な感覚と共に、俺は意識を失った。
 その直前、無川の身体が、乾梨の心臓辺りに入っていくのが見えた。

「ありがとう。友松さん」
『ありがとな。共也』

 そして最後の最後で、二人の声が、聞こえた気がした。


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Re: ハートのJは挫けない ( No.72 )
日時: 2022/05/11 05:29
名前: 波坂 ◆mThM6jyeWQ (ID: ZTqYxzs4)

 事件から、一週間が経った。
 僕らはあの日の事が嘘だったように、平凡な日々を送っている。こんな風に、非日常は日常に呑まれ、その姿を少しずつ薄め、忘れた頃にやってくるのだろう。

 あれから僕には、特に変化というものは訪れなかった。相変わらず僕は弱虫で、人の頼みを断れない。所詮はあの空気の熱に当てられただけなのだろう。
 しかし僕の周囲は変わった。例えば共也君。彼は昼休みになると時々屋上に向かうようになった。観幸曰く乾梨さんと話しているらしい。共也君に尋ねると、彼は監視役になったそうだ。
 詳しい事情は話せないらしいが、共也君の家はハート持ち云々の管理を請け負っているらしい。本来なら処罰が与えられる乾梨さんが放置されているのは、共也君や見也さんの交渉の結果らしく、共也君が乾梨さんの監視役になったからだそうだ。共也君曰く「責任くらい最後まで取るさ」との事だ。

 乾梨さん、と言えば、事件から数日後に、僕に謝ってきた。と、言うか僕だけでない。少なくとも、無川さんの被害者全員の所に行っていた。
 僕の時はすぐ近くに幼くなった無川さんもいた。乾梨さんが言うには、無川さんはあの日から乾梨さんのハートの一部となったらしい。乾梨さんが出そうと思えば出せるらしい。無川さんの意思で勝手に出入りできるらしいが。
 そんなこんなで、彼女はもう一人の自分と向き合い始めたようだ。まだまだ分からないことや色々と苦労もあるらしいが、それでも前のような根暗な印象は受けなかった。彼女もまた、変わることが出来たのだろうか。

 浮辺君はあの事件の後、すぐに目を覚ましたらしい。気が付いたらベッドの上で困惑したと言っていた。
 その後雪原先輩と一悶着あったらしいが、まあそれも、何だかんだで丸く収まったそうだ。ただ気になるのは、浮辺君の雪原先輩への呼び方がユキ先輩に変わっている事だ。まあ気にするほどのことでもないのだろうが。
 彼もまた、あの事件を折に少しだけ雰囲気が変わった気がする。自分という存在に、少しだけ自信がついたとか言っていた気がする。彼が自身を認められるようになるのは良い事だ。きっといつか、彼も本物の自分を見つけるのだろう。

 八取さんも無事に目覚めたらしい。目覚めた瞬間に妹はどうしたと暴れたらしいが、あの人の妹愛には驚かされるばかりだ。
 彼はようやく自分の平穏を取り戻したのだろう。とても満足そうな表情を浮かべていた。ただ心残りは、自分の手で解決出来なかったこと。それから僕達に貸しが出来たと言っていた。結構義理堅い人なのかもしれない。

 観幸は……かなり落ち込んでいた。曰く「貫太クンや共也クンに事件を解決されてしまったのデス……ぐぬぬぬぬ」とかなんとか。正直こちらとしてはかなり心配だったため、そのセリフを聞いた瞬間に気苦労を返せと殴りたくなった。
 彼の遺してくれた証拠のおかげで解決があった。そう言えるくらいに、彼は事件に貢献した。まあそれを伝えても、彼はこう言うんだろう。「解決したのはキミデスよ。それ以外、必要な事実があるのデスか?」なんて。
 彼の変わったところと言えば、ルーペだろうか。バッキバキにガラスの割れたルーペは流石に使えないとのことで新調したらしい。ピカピカのルーペをドヤ顔で翳してきた彼はこう言った。

「フフ、ルーペはいいのデスが財布が軽いのデス」

 多分目からこぼれるアレは悲しみと嬉しさの混ざった涙だったのだろう。後者に埋め尽くされている気もしなくはなかったが。




 屋上で一人、空を眺めながら考え事をしていると、携帯電話から着信音が響いた。取り出して中を見ると、一通のメールが届いていた。差出人不明。誰だよ。

『元気かしら。チビ。
 私は元気よ。体調も随分良くなったわ。だけど青海が安静にしてろってうるさいの。どうにかして欲しいわ。
 まあそれは冗談として、お疲れ様。本当は会って話したいのだけれど、生憎私は出れそうにない。石頭にも困ったものね。
 事件の内容は兄さんから聞いたわ。頑張ったわね。あんなのに正面から立ち向かうなんて、前のアンタからは想像もできないわ。
 きっとアンタはいいハート持ちになれる。きっと、私や共也、もしかしたら、兄さんも超えられるかもね。

 心音』

 心音さんか。そう言えば、彼女は今もあの施設でベットに囚われているらしい。青海さんが離してくれないとか。
 メールの内容に、ちょっとだけ照れつつも嬉しく感じた。もしかしたら、自分もちょっとだけ変われたのかもしれない。なんて思いつつも、最後の一文だけは信じられないでいる。

「……僕が……超える……?」

 そんな訳ない。これは流石にお世辞だろうな。そう考えて、ポケットに携帯電話をしまう。その瞬間、屋上の扉が開いた。そして、彼女が姿を現す。

「こんにちは。貫太君」
「……隣さん」

 隣さんは僕のすぐ横に座る。密着するほどすぐ側にだ。当然、身体が触れ合う。

「ねぇ、隣さん」
「何ですか?」
「肩、当たってるよ」
「わざとです」

 あんまり嬉しそうに言うから、何も言わないことにした。そんな表情、卑怯だ。でも彼女の笑顔を見ると、そんな感情も消えてしまった。
 そのまま彼女は首を傾けて、僕の肩に頭を乗せた。彼女の髪から、シャンプーの匂いが漂ってくる。こんなシーン、知らない人に見られたらどうする気だろう。

「貫太君。私の事……好きですか?」

 何回目の質問だろうか。最近、彼女はこうやって二人きりの時に、いつもこんな風に聞いてくるようになった。僕が嫌いと答えても、彼女は嬉しそうに微笑むだけ。
 それがなんだか、ちょっとだけ僕の心にチクリと刺さる。自分の心に嘘をついているから。それとも、単純にからかわれている気がするからか。
 何はともあれ、この時僕は、彼女を驚かせたかったのだろう。だから、言った。自分の本音を、ありのままに。

「好きだよ」

 彼女は微笑みそうになって、瞬間、バッと立ち上がり、こちらに驚きの視線を向けた。そんな、急に現れたゴキブリを見るような目で見ないで欲しい。悲しくなるじゃないか。

「か、かか貫太君!?」

 なんでこんなに驚いているのか。向こうから聞いてくるくせに、どうしてこんな反応をするのか。向こうは、僕が好きだという可能性を考慮していなかったのだろうか。

「もしかしてさ、隣さんって予想外とかに弱い?」
「な、なにを、言って……」

 彼女は口をモゴモゴさせて黙ってしまう。いつものクールな隣さんの印象から掛け離れていて、少しだけ新鮮だ。

「と、とにかく! 私は生徒会があるので!」
「あ、ちょっと待っ」

 僕が呼び止める前に、彼女は屋上から出ていってしまった。

「……どうして、ハートの力を使わなかったんだろ」

 今の僕なら防げるけど、彼女は好意を伝えてきた相手を操る力がある。なのに、彼女は今、それを使わなかった。

「……まあ、別に問題無いよね……?」

 つまり、僕が彼女のハートの力を恐れる必要はもう無いと言う事だ。
 彼女にも何かしら、心境の変化が訪れているのだろう。ちょうど、僕の隣さんに対する意識の変化のように。

「……いつか、本当に伝えたいな」

 僕にはまだまだ足りてない。力とか、勇気とか、意志とか、理由とか。自分を誇るには、僕はあまりに足りなさ過ぎる。
 だけど、僕がいつか、本当に変われて、いつか彼女に自信を持って、好意を伝えられたら。
 結果はどうであれ、多分それは、良い事なのだろう。

「……頑張らなきゃ」

 こんな僕も、一つだけ変わることが出来た。そうやって、自信を持って言うことが出来るものがある。
 それは、頑張る理由が出来たことだ。とても単純な理由だけど、僕にはこれくらいチープな方が、お似合いだろう。そう思って、僕は屋上を後にした。


《スレイハート(終)》>>42-72


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